波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

病院 → 療院

2020-12-26 22:56:39 | Weblog
「病院」という言葉に違和感を覚えて久しい。
あたり前のように受け入れている人も多いだろうけど、日本語あるいは漢字語として適切な言葉だろうか。

同じ漢字圏の台湾では、「醫院」を使用している。中国は簡体字なので「医院」。
日本では「医院」は小さな病院といった印象の言葉だが、台湾では大型総合病院も「醫院」だ。
お世話になっている先生は台北や台南の大きな醫院で院長を務めていた。


それはともかく、医師が病人を治療する場所は、医師が常駐しているとか治療を行うということに目を向けると、「医院」とか「治療院」と記すのが適切ではないだろうか。

疲労回復のために人々が滞在するのは「保養所」だ。
「疲労所」などという施設があったら違和感を覚える人が多いのではないだろうか。

疲労をとって回復することを目的とする場所なのに、なぜ「疲労」なのか。
同様に、病気から回復することを目的とする場所なのに、なぜ「病院」なのか。

汚れた服を洗ってきれいにする機械が「洗濯機」ではなくて「汚れ機」だったら日本語として適切ではないと感じる人も多いのではないだろうか。
間違えた文字を白く塗りつぶす液が「修正液」ではなくて「誤字液」だったら、意味が伝わらないと思う人もいるのではないだろうか。

「病院」という名称はネガティブで、回復を連想させない。病人をそのまま収容しておく場所のようにも読める。
あるいは、病原菌が培養されている場所のようにも感じる。
医院、治療院、あるいは病院と語感の似た「療院」に変えてもいいのではないかと思う。

ただ、誰もそのような声を上げないということは、私が何か勘違いしているのかもしれない。


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留学生

2020-12-20 18:19:14 | Weblog
英語は不得手だけど、何人か外国人の知り合いがいる。
たまに彼らと街歩きをすることがあるので、日常の中でふと「こういう行為を英語で言うとどのような表現になるのだろうか」と想像することがある。

激辛ラーメン屋に連れて行って、「トウガラシは野菜だから健康にいいよね!(笑)」と言うのは、「Hot pepper is a vegetable, so it's good for our health. Haha!」などのようになるのだろうか。

そんなことを考えながら発話をイメージして口を動かしていると、唇がマスクに当たり違和感を覚える。
日本語はあまり唇を動かさなくても発音できるけど、英語はそれなりに口を動かさないと、発音しづらい。
もしかしたら、欧米人が不可解なまでにマスクに拒否反応を示す理由は、口元の表情が見えないこと以外に、唇に当たる感触が生理的に不快感を覚える、ということもあるのだろうか。



それにしても、日本社会はあまり外国人にやさしくないのではないかと感じることが時々ある。
東京は世界各国から人が来ているので、外国人が歩いていても奇異なものを見るような目で見られることはあまりない。
それでも、アパートを探そうとすると大変だ。

日本語が流暢な留学生や社会人で、信用できる日本人が同行して緊急連絡先として署名してくれるのであれば、契約してもらえる可能性はまだ高い方だ。
それでも、印象としては、8割から9割の物件は外国籍という理由で断られる。
日本語の読み書きが不十分な日本語学校の生徒は9割以上の物件で断られてしまう可能性が高い。

外国人はゴミの分別に慣れていない人が多く、トラブルが生じることも少なくないらしい。
だから、リスクを減らしたい大家さんは外国人の入居を認めない。その気持ちもわかる。

だけど、日本に興味があって来たのに、行く先々で「外国人はだめ」「外国籍はNG」と言われ続ける外国人の気持ちも想像してみてほしい。
犯罪をしたわけでもないのに、外国人という理由だけで拒否される。
(不動産屋さんによると、中国やベトナムといった国籍で拒否する大家さんもいるらしい)
自分という人間を見たり話したりして確認したわけでもないのに、十把一絡げに否定される。
「直接会って、自分を見て判断してほしい」と留学生はつぶやく。

留学生に同行して、「外国人はだめ」という言葉を何度も聞いていると、日本人である私も心がへこむ。
思わず、なんとか安いアパートを私が一棟購入して、外国人に安く貸してあげられないかと考える。

先日は、運良く駅近の安い賃貸アパートが見つかり、留学生の知り合いは契約することができた。
アパート一棟は買わずに済んだけど、これからも安いアパート物件は探しておきたい。
どこかに古くて安いアパートがあったら購入して、ミャンマーやネパール、インドネシアといった所得の低い国々からの留学生を敷金礼金更新料なしで住まわせてあげたい。
その近くで激辛ラーメン屋を経営するのもおもしろそうだ。
誰かが喜んでくれるなら、多少損してもいいじゃないか、と思う。


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駅伝

2020-12-20 15:01:03 | Weblog
全国高校駅伝をテレビで放映している。
日本では、箱根駅伝を筆頭に、出雲駅伝、実業団駅伝など、駅伝が盛んだ。
仲間と目的をひとつにしてタスキをつなげるという競技に多くの日本人は引き付けられるようだ。
私も、都内の沿道で箱根駅伝を見たことがある。
出身校は出ていなかったけど、さまざまな大学ののぼりが立ち、多くの在校生やOBが応援しているのを見て選手と沿道の一体感に祝祭的な雰囲気を感じた。

日本発祥のEKIDENは世界大会も開かれているけど、外国ではリレー競技の一つとして認識され、その精神性はあまり特別視されていないように感じる。
日本には駅伝を受け入れやすい背景があるのだろうか。

若い人たちがさっそうと走っている姿は魅力的だけど、少し違和感を覚える時もある。
ランナーの鉢巻は、戦時中の精神主義に通じるものがあるかもしれない。
気合を入れる以外にどんな意味があるのだろう。髪をまとめたり汗が落ちるのを防いだりするのであれば、ヘアバンドの方が機能的ではないだろうか。
ネガティブに言い方になるかもしれないが、駅伝には「共同責任、集団行動、一斉競争、家長的監督」などといった、封建的、保守的、軍隊、戦時体制に通じる雰囲気も感じる。
「アスリートとして一人ひとりだと突出した力がないので、チームのみんなをつなぎ合わせたタイムで競争しよう」という逃げの姿勢もないだろうか。

何よりも心苦しいのは、アクシデントに襲われて走行が困難になった若い人が、苦痛に顔を歪めながらなんとかして次の人にタスキをつなごうとする姿。
ここでリタイアしてしまうと、この大会に賭けてきた仲間に大きな迷惑をかけてしまう。
そんなことはできないので、意識が朦朧としても、後遺症が残りそうな傷を負っても、限界まで力を尽そうとする。

ほんとうに、そこまで無理をする必要があるのだろうか?
自分の頭で考えず、みんなに合わせるのが当然だという思い込みで、無理な我慢をしていないだろうか。
多様性が認められることの多い時代に、なぜみんなと同じ方向を向いて同じ距離で競争する必要があるのだろう。
みんなで長短を補って総合力でいい結果を出す、というのは魅力的に思えるけど、個の強さがなかなか育たず、世界で戦えないという状況に陥っていないだろうか。
好きな格好で好きな方向に向かって走って行ってもいいじゃないか、とも感じる。
駅伝で鍛えられた人たちは責任感や協調性もあり、いい社会構成員になるのかもしれないけど、世界に通用する天才は生まれにくいのではないだろうか。

全国で行われている駅伝大会は、マスコミ各社が主催・共催している。
保守も革新も、リベラルも守旧も、右も左も関係なく、どの会社も売り上げにつながるコンテンツを確保し、江戸時代の五人組や太平洋戦争下の隣組を彷彿とさせる自己犠牲・同調圧力・共同責任を肯定・推奨していないだろうか。
高校野球もそうだけど、全体主義に通じる統制がある競技に批判精神を発揮しないマスコミは、リベラルを名乗る資格はあるのだろうか。
商業主義や全体主義や組織化はマスコミと親和性が高いのだろうか。それを隠すために、中立性とか公平性とかリベラルと言った言葉で予防線を張っているのかもしれない。
一般人は、マスコミに扇動されることの危険性を意識しておいたほうが、だまされずに済むかもしれない。

1チームぐらい、ふざけた格好のチームが走って、ぶっちぎりで優勝してくれないだろうか。
そのようなことをぼんやりと考える。

<参考>
全国都道府県対抗駅伝 中国新聞社(共催)、NHK(共催)
実業団対抗駅伝    毎日新聞社(共催)、TBS(共催)
箱根駅伝       読売新聞社(共催)、日本テレビ(特別後援)、報知新聞社(後援)
全日本大学駅伝    朝日新聞社(主催)、テレビ朝日(主催)
出雲駅伝       産業経済新聞社(共催)、フジテレビ(共催)
東海学生駅伝     中日新聞社(共催)
関西学生対抗駅伝   読売新聞社(共催)
全国高校駅伝     毎日新聞社(主催)


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シベリア抑留

2020-12-03 21:11:01 | Weblog
1980年前後だろうか、初めて会ったシベリア抑留経験のある親戚のおじさんは、「ロスケが…」と口にしていた。
ロシアに好意的ではないような口ぶりだったけど、シベリアからの帰国者は共産主義思想に染まっているという偏見を持たれたという記事を読んだことがある。

そういう記憶もあったので、シベリア抑留者に関係する本を少し読んでみた。
「ロスケ」は「ロシアの野郎」みたいな侮蔑語かと思っていたけど、「ルースキイ」(ロシア人)から転訛した一面もあるらしい。
中国人に対するかつての侮蔑語、「チャンコロ」が「ヂョングゥォ」(中国)から転訛したのと似ている。

収容所で読まれていた「日本新聞(にっぽん新聞)」は、共産主義的な考え方に人々を導き、秩序化していたようだ。
日本新聞の編集に関わりながら、政治的というよりも文学的な人間だった『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』の著者は、日和見主義的な立場だったらしい。
そういった人の視点からの記述はなかなか興味深かった。

私は、共産主義にあこがれた人々はけっして悪気があったわけではなく、真実に目覚めた気持ちで熱中していたのだと思う。
ただ、共産主義思想の世界観は、自然の摂理には合っていない面があると感じる。
だから、理想の社会を成立させることができず、全体主義国家や格差社会に陥ってしまうのではないだろうか。
例えば、共産主義の基本的な認識、「社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく」というとらえかたには疑問がある。
自然の摂理はそんなにまっすぐに進むものではない。混沌として、拡散・複雑化するイメージの方が近い。
猿や類人猿から人類までどんどん発展して行っているように見えるけど、猿も類人猿も人類も同じ世界に共存している。カビも裸子植物も被子植物も共存している。
その様子は、一方向的な発展というよりもさまざまな方向への拡大・複雑化に近い。
演歌、歌謡曲、渋谷系音楽、音響系と日本の音楽は発展してきたように見えるけど、どの音楽ジャンルも生き残っている。新しい音楽が発展しているかと思えば、周回遅れしているような曲が売れたりする。

封建社会的な枠組みも、資本主義的な存在も、社会主義的な考えも、おそらくひとつの世界に存在し得る。
それは、人間社会において独善的な人も強欲な人も無欲な人も利他的な人も存在しているのに似ている。

人類社会が発達しても、優しくて賢い人ばかりの社会になるわけでもない。
規格外れに優しくて賢い人も出現する一方、利己的で判断力のない人も消滅しない。
人を咎めず、叩かず、侮蔑せず、淡々と行動を進める人もいれば、相変わらず声高で圧力的で攻撃的なわりに諸問題を解決できない人もいる。
それが混沌としたなかにある自然の摂理ではないだろうか。

まあ、そんな混沌の中でぼーっとしていると、秩序化にいそしむ人たちの流れに抗しきれないで、巻き込まれてしまうこともある。
その一つが、シベリアの収容所での共産化運動(民主化運動)であり、戦時中の皇民化運動であり、戦後のサラリーマン制社会なのかもしれない。
流れに巻き込まれるのも楽でいいかもしれないけど、違った道を進むこともできる。
新しいことをはじめた人が、人類の発展・複雑化に貢献することができるのかもしれないと想像する。

気になった部分を少しメモ。

■『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』落合東朗著(論創社、1995年)

P36-37
(略)『日本新聞』四七年二月六日・二一六号から飛び飛びに連載された「豆字引」というタイトルの小欄だった。(略)
◆反動 社会の歴史は必然的な一定の方向に発展していく。例えば、封建時代――資本主義――社会主義への発展は社会の必然的な正しい発展である。この歴史の流れ、発展を食いとめようとすることを反動といい、反動分子などという。

P39
二二〇号は「アジ・プロ」「新円階級」「筍生活」。
◆アジ・プロ アジはアジテーション(扇動)プロパガンダ(宣伝)の略。アジは大衆のねむれる要求や憤激をめざませ闘争に蹶起を促すこと、プロは主義主張を拡めること。アジが主として感情に訴えるのに対し、プロはむしろ理性に訴えるという違いがある。レーニンはこの二つについて次のように言っている。「宣伝家が失業の問題を考えてみると、彼はまず危機の本質を説明し、現在の社会では失業がどうしてもさけられない理由を説明し、そしてこの社会を社会主義社会に変えねばならないことを説明しなければならない。(略)

P84
 一九四五年八月八日対日宣戦布告をしたのはソ聯(以下、ソ連と表記)であり、侵攻してきて一週間、たちまち私たちを武装解除したのはソ連軍である。以後、当方との交渉相手はソ連側となった。そして、将校や兵をルースキイ(ロシア人)から転訛したといわれるろすけ(露助)と呼んだ。

P124-125
 シベリアから帰国して大学に通いだした年か、その翌一九五二年に級友のひとりが『前衛』(日本共産党機関紙)の古い号をくれた。在ソ抑留者のあいだで展開された民主運動をかえりみた論文が載っていたからで、シベリア帰りの私にはきっと興味があるだろうという好意からだった。
相川春喜という筆者の名前を見て、私は自分の目を疑った。『日本新聞』にときどき見かけた名で、このひとのものを日本共産党の機関紙かそういう関連からの転載にちがいないと思いこんでいたからである。
『前衛』に寄稿した文章のなかで、筆者は、在ソ民主運動に深くかかわった『日本新聞』編集責任者のひとりの立場から、運動全般をかえりみるとともに、その冒頭でかれらが意図した成果が期待を裏切る結果に終わったこと、つまりソ連抑留帰国者の日本共産党入党率が予想を下回ったことと、帰国直後に集団で入党を約束した引揚者の実際に党員となった歩留まりが悪かったことの要因を探っている。私はあらためて『日本新聞』の路線が共産党員の養成、革命の担い手を祖国に送ることにあったという事実を痛感した。
 日本共産党の存在と、その歴史を強く意識したのは、『日本新聞』四七年六月十四日・二七一号からはじまった相川春喜の「われらの指導者」というタイトルの連載だった。私のなかに、この十二回にわたる連載とその筆者の名前がしっかりと結びついて強い印象を残した。

P164
 私が早稲田の露文に入った五一年のはじめ『文藝春秋』に林達夫「共産主義的人間――二十世紀政治のフォークロア その二」(以下「共産主義的人間」と略記)が発表された。
 ソヴェトのような共産主義国家では、政治宣伝が最も有効な武器になっている。ところで宣伝というものは常に強調と誇大をともなうものだから事実の歪曲をまぬがれない。そのため当面する対象が度外れに劇画化され、弱点や失策が誇張され、凶悪無比の親玉に仕立て上げられたり、善玉悪玉の現実離れした極端な明確化と拡大化が見られる。
 この前置きにふれて、私の脳裏にたちまち『日本新聞』が浮かんできた。林の指摘する「『嵐の如き』という共産主義者の好きな形容詞」という表現など思わず声を上げたいほどに気持ちが動いた。

P233
 日本共産党は、国際共産党から与えられた一九二七年テーゼを活動の方針として受けいれた。日本の現状ではただちに社会主義革命に向かうのはむずかしく、労働者と農民を中心とするブルジョア民主主義革命を成就し、このような革命を通して、天皇制の廃止と封建的地主制を解体しなければならないというものだった。それをさらに明確にしたのが一九三二年テーゼである。戦後の日本共産党はこれらのテーゼを活動方針として出発した。
 当然、スターリンに対する崇拝思想も継承した。このことを知ったとき、私にはようやくシベリア抑留日本人のあいだにおこった民主運動が「スターリン感謝文署名運動」に帰結したわけを納得できたように思えた。

p251
 『日本新聞』は在ソ民主運動の「中央宣伝者・組織者」といわれ、「教師」とみなされています。内容も四七年に入って米ソ対決姿勢が際立ち、冷戦状態になると次第にラジカルになって、最終的にはいかに多くの日本共産党員をつくりだすかが目的になったように私には見えました。こうした動向に対して、私は日和見主義といわれてもしかたのない、付かず離れずの立場を守りました。たまたまそのような環境に置かれた、とも言えます。



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横浜ヤンキー

2020-12-02 21:51:08 | Weblog
横浜で活躍したドイツ系アメリカ人一家の物語、『横浜ヤンキー』。
発売当時、ジュンク堂池袋店で何冊も積まれていたことを覚えている。
とても興味があったけど、3千円近い価格だったのでそのときは買わなかった。


刊行から丸5年経ったけど、ふと思い出して検索すると図書館にあったので借りてきた。
横浜の歴史や、外国人から見た横浜・日本が興味深い。在日外国人も関東大震災や第一次世界大戦、第二次世界大戦を乗り越えてきた。

著者の曽祖父は、幕末にドイツを出てアメリカを経由し、日本にたどり着いた。
日本の軍人にドイツ式の指導を行った後、横浜港で荷揚げ会社などの事業を拡大。明治政府の人と撮った写真では、勝海舟によく似た人と並んで座っている。
祖父は、アメリカと日本を行き来。祖父の弟(ウィリー)はドイツ人として第一世界大戦に参加して日本の捕虜収容所に入った経験も。
著者の父親は、日本人の血が入っていたが外見はアメリカ人。情報将校や進駐軍の兵士としても活躍した。
著者は、ジャーナリストとして活躍。
日本人の養子は立派に成長している様子。
ネットで検索すると、養子さんの生き生きとした表情を見ることができる。
Mariko Helm
https://www.linkedin.com/in/marikohelm
Eric Helm
https://www.haverfordathletics.com/sports/msquash/2011-12/bios/helm_eric_6tru

些末なところだけど、本来「あいのこ」は、「違った特徴を持つ種と種がかけあわさった子」とか「ちがった種の遺伝子が入った子」という状態をあらわす言葉ではないだろうか。
雑種の犬のことを「あいのこ」と言うことになぞらえて、人種の混じった子のことを否定的に言いはじめたわけでもないと思う。
雑種犬のことをmixと言ったとしても、人種の混じった人間に対してmixと言うことは失礼ではないのではないだろうか。
楽曲の途中で別のものが入り込んで来る「合いの手」も、何ら差別的な意味はない。
「あいのこ」もmixもハーフもダブルも混血もハイブリッドも、言葉に問題があるのではなく、言葉を使用する人間の意識に問題があるのではないかと感じる。

それから、日本には男性でも女性でもYuuki(ユウキ)とかYuki(ユキ)という名前の人が多いけど、英語は「Yucky」という、気持ち悪く不快な様子を表す言葉があるらしい。知らなかった。
>「YUKI(ユウキ)」は英語の「YUCKY」(気持ち悪い)と発音が似ている
と紹介してあったけど、発音記号を見るとYuckyは「ユウキ」とか「ユッキィ」ではなく、「ヤッキィ」に近い発音。
表記は似ていても発音は異なるように感じるけど、福井(Fukui)が Fuc× it などと関連付けて認識されることもあるように、Yuckyもユッキィ的に発音されることがあるのだろうか。


また、『横浜ヤンキー』には、シベリア抑留者に関する記述があった。
ちょうど同時期に読んでいた本には、シベリア抑留者側からの視点があったのでとても興味深かった。


■『横浜ヤンキー 日本・ドイツ・アメリカの狭間に生きたヘルム一族の150年』
レスリー・ヘルム著、村上由見子訳(明石書店、2015年)

P106-108
 捕虜になったウィリーがどんな体験をしたのか、より詳しく知りたかった僕は二〇〇三年、俘虜収容所の一つがあった久留米へ赴いた。(略)
 収容所でテニス? 蛇をペットに飼っていたって……? 信じがたい話だった。
(略)捕虜たちの前向きな姿勢にも感心したが、日本側が彼らにこれほどの自由を与えていたことにも驚いた。
「ウィリーさんは記者たちになかなか人気があった様子ですよ」堤氏は、新聞記事を集めたスクラップブックを僕に渡しながら言った。見出しのひとつには《混血児(あいのこ)ヘルムの愛人 青柳久子の手紙》(九州日日新聞・大正三年十二月一日付)とあった。(略)
 記事自体は面白おかしい話だが、僕はウィリーを「混血児(あいのこ)ヘルム」と呼んでいた見出しが心に引っかかった。まるで「あいのこ」が彼の肩書みたいな言い方だ。「混血児」にふってあるルビ「あいのこ」という言葉には、人種の混じった子供という意味の他に、犬の雑種というような意味合いもある。
 雑種の犬に比べられるってどんな気分なんだろう、と僕は思った。僕も「あいのこ」なのだろうか?僕は見かけが白人として通じるため、自分が混血だと考えたことはなかった。

P131
 僕たちはすでに「エリック」という西洋名を男の子に選んでいた。生みの親は「ユウキ」と名づけていたが、「ユウキ」はミドルネームにしようと決めてあった。「YUKI(ユウキ)」は英語の「YUCKY」(気持ち悪い)と発音が似ているので、アメリカではからかわれる心配があったからだ。

P221
(略)父はよく僕たち子供に向かって、アメリカ軍の日本市民への無差別爆撃は、長崎と広島への原爆投下とともにもっとも卑劣な行為だ、と言っていた。アメリカ空軍は天気予報と詳細な地図をもとに、最大数の市民を殺傷できる爆撃のためのベストコンディションを算出した。木と紙でできている日本の家屋が燃えやすいことも認識していた。最大限の損害を算出し、空気が乾燥して風の強い日が来るまで長距離爆撃機の出撃は待機させた。こうしてB29は上空から巨大なドラム缶を次々と投下した。

P230
(略)日本の敗色が濃くなった時点でソ連は日本との中立条約を破って満州へ侵攻、六十万人を超える日本兵を捕らえ、シベリアの労働収容所へと移送した。それから約一年半後、ようやく抑留者たちの帰国事業が始まったところだった。
 二〇〇二年に機密扱いが解除された米軍情報部の資料によれば、父を含む十二名ほどの情報将校たちのここでの仕事は、「日本人復員兵の中から二重スパイに利用できそうなソ連側スパイを見つけること」だった。ほとんどの復員兵はシベリアでスパイ訓練を受けたことをあっさり認めた。(略)父たち米軍情報将校にはそのほかに、シベリアにおけるソ連の工業および軍事状況に関する情報を収集する「プロジェクト・スティッチ」という任務もあった。
 父が後に日本の警官も震え上がらせるほどの高圧的な口調を身につけたのは、この時期だったのではないだろうか。

P240
 一九四八年春頃にはソ連の日本人捕虜の扱いにも改善が見られ、彼らに共産主義思想を吹き込むことにも成功していた。ソ連の捕虜輸送船が針尾島の港に入ってくると、船に乗っている日本兵たちはいっせいに革命歌〈インターナショナル〉を歌いだした。彼らは米軍の尋問に答えようとしなかったため、米軍は旧日本軍の情報部員を雇って輸送船に潜り込ませた。彼らは兵隊に混じって情報を探り、共産主義を煽るリーダーを割り出した。そのリーダーが隔離されるや、残りの復員兵は米軍の言うがままになった。ほとんどがすぐさま縁を切り、アメリカ側の二重スパイとなった者も少なからずいた。

P269-272
 結婚から四ヵ月も経たないうちに、父に通訳の仕事が舞い込んできた。日本から八人の国会議員が訪米し、三ヵ月の視察旅行をするとのことだった。これはその年九月のサンフランシスコ条約締結を見すえ、米国務省がアメリカ民主主義研究という名目で彼らを招いたものだった。(略)
 日本人議員たちの言動にしばしば困惑させられた父は、彼ら一行を「群れ」と称するようになる。(略)彼ら議員は、横柄で自己中心的な一団だった。(略)
「あいつらは僕が今まで会った人間の中でも最低の部類に属するね」と父は手紙に怒りをぶちまけている。「もし彼らが重要な地位につくことがあるとしたら、日本はいったいどうなることか」
(略)一人の議員が売春婦を世話してほしいと言ってきたときは、父もさすがに堪忍袋の緒が切れ、同宿のホテルを引き払って近くの下宿部屋へ移った。

P374
 この本を書くなかで、僕は日本での子供時代に育まれた一面を受け入れるようにもなった。僕は対立を避け、人のことをまず第一に考えようとし、自分が目立つのを好まない。こうした性格はアメリカでは男らしくないと見られるため、時には僕も押しの強い典型的なアメリカ人男性のようになるべきだろうかと思うこともある。だが今では、こうした一歩引いた自分の性格を肯定的に捉えられるようになった。

P375
(略)エリックは二〇一五年に大学を卒業し、現代はワシントン大学の研究室で働いているが、将来は病気との闘いに役立ちたいと免疫学での博士号取得を目指している。日本に生まれ、ある程度の日本語を話し、自らの出自に誇りを持っているエリックだが、これまでの人生のほとんどをアメリカで生活してきた。日本人の血という点ではエリックの方が僕よりずっと濃いが、文化という点では僕よりはるかにアメリカ的である。それでもいつの日か、自分のルーツを探しにエリックも日本へ戻るだろう、と僕は確信している。
 マリコは貧しい人々を助ける仕事に携わっている。(略)


<参考>
■『シベリアの「日本新聞」 ラーゲリの青春』落合東朗著(論創社、1995年)
P237-238
(略)本年の引揚者はオドリ、ウタイ、ダンマリ、居坐り等戦術がヤヤッコシイので我々人民の政府が逆に、我々の祖国ソレンがと叫ぶ引揚者をツルシ上げしたような法律を出して是が非でも定められた列車で帰還させるようにしてくれた。(略)
(略)これは一九四九(昭和二十四)年八月二十八日、ソヴィエトのナホトカから第一九船遠州丸で、大陸からの引揚基地となっていた舞鶴に帰還して基地内の引揚援護局留守宅係で受け取った八月十八日日付の父の手紙である。
 結氷期に入って、昨年来とだえていたソ連からの引揚再開第一船高砂丸が六月二十七日朝、七か月ぶりに引揚者二千年を載せて舞鶴に入港した。文面の「本年の引揚者はオドリ、ウタイ、ダンマリ、居坐り等戦術がヤヤッコシイので」云々とあるのは、高砂丸も同様に引揚者が前年までとはまったく異なった行動にでて、出迎えの人びとを驚かせ、とまどわせたことを指す。
 高砂丸入港の様子を朝日新聞は、港口に出迎えたランチに向かって引揚者が「国際青年の歌」の大合唱で応え、上陸地点平桟橋の沖合に停船すると今度は「インターナショナル」を高唱、桟橋から収容寮への沿道、日の丸の歓迎陣のなかを通るときは労働歌「町から村から工場から」を合唱、「われわれには思想の筋金が入っている」と叫ぶ声もあり、また引揚寮ではたがいに「同志〇〇」と呼びあっていたなどと報じた。
 このとき大阪で下車した引揚者四十三人のうち十一人が出迎えの家族を振り切ってスクラムを組み、まっすぐ産別会議事務所に向かった。東京上野でも引揚者の大多数は下谷公会堂で共産党の主催する歓迎大会に出席し、そのあとでソ連代表部や共産党本部に向かった者も少なくなかった。この日、二四〇人が共産党に入党したといわれる。
 七月に入って明優丸で帰国したグループが引揚援護事務を拒んで抵抗を試み、さらに出迎えたアメリカ軍人の帽子をはぎとって踏みつけるという事件をおこした。(略)




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