波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

「空襲の犠牲者」ではなく、「空襲の被害者」「空襲で殺された人」

2020-04-21 22:13:59 | Weblog
「戦争の犠牲者」「空襲の犠牲者」「沖縄戦の犠牲者」などといった表現には違和感がある。
本来、「犠牲」は「生贄」と似た意味。
犠牲は、崇高な目的のために自らを投げ出すような行為のことではないだろうか。

戦争で亡くなった人、殺された一般人は、何の犠牲になったというのだろう。

特攻隊員は国体を死守するために犠牲となった、とか、十字軍兵士はキリスト教の聖地を取り戻すために犠牲となった、という表現の仕方はまだ理解できる。

しかし、空襲の被害に遭った人たちは、自ら何かのために殉じたわけではない。
戦闘に参加していない一般人がいきなり蹂躙されてしまったのだ。

2020年3月10日のNHKの番組では、東京大空襲のことについてふれる中で、日本軍が行った重慶空襲についても時間を割いていた。
日本人の、加害者としての面に注目するのもいいと思うが、重慶空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。
東京大空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。

平和な世界を築くための犠牲となった?
そんなことはない。
人々のせめぎ合いの中で、命を絶たれただけだ。

「犠牲者」という言葉で、崇高なものと関係があるかのように表現をぼかし、「殺害」「死亡」の直視を避けているのではないだろうか。

そのようなことを意識していないのかもしれない。
しかし、出版社や新聞社もそうだけど、テレビ局の人たちも、ありきたりな表現に流されがちだ。

軽々しく「犠牲」という言葉でごまかしてほしくない。
まるで、東京大空襲で殺害された人々が、軍部政権による徹底抗戦に同調し殉じたような表現にも見える。


話は変わるが、中国においても「犠牲」は「生贄」に近い意味。
「空襲の犠牲者」「津波の犠牲者」などとは言ったりしない。「遇难者(遭難者)」が一般的だ。
「重慶空襲の犠牲者」という無神経な表現は、中国では使わない方がいいのではないだろうか。

日本人は、物事の原因や因果関係、責任の所在を認識しないで「犠牲」という言葉でごまかしがちだ。
論理的に思考するのであれば、安易に「犠牲」という言葉に逃げたくない。

「津波の犠牲になった」、という表現はまだ理解できる。
大自然の驚異というあらがうことの困難な圧倒的な力の元に、命を失うことは、誰に文句を言ってもどうしようがない。
その無念さを、「犠牲」と言う人もいるかもしれない。

しかし、東京大空襲で亡くなった10万人を超える市民は、何かの理念や理想の犠牲になったのではない。
アメリカ軍のアメリカ人兵士が落とした爆弾によって殺害された。
同様に、重慶空襲によっても、多くの中国人は尊い概念の犠牲になったのではない。
日々の生活をしていたら、日本軍の日本人兵士の落とした爆弾によって殺害された。

戦争の構造について論理的に考えるのであれば、安易に「犠牲」という言葉は使いたくない。


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怒り?

2020-04-18 21:19:01 | Weblog
ヤフーニュースで、「誰々が激怒」といった見出しをよく目にする。
ほんとうに激怒したのかどうかわからないけど、見出し作成者は「激怒」と表現すれば読者に伝わりやすいだと考えたのだろう。

ただ、「激怒」や「憤り」を「暴力」の一種だと認識する人にとっては、穏やかではない表現だ。
「激怒」は現状に対する不満や、現状を変えるための威圧的な姿勢に見える。
(バックパッカーをし始めた頃、上座部仏教圏の国においては、怒ることはとてもはしたないことだと聞いたことがある)

暴力がなくても、世の中は変えて行くことができる。
物事の仕組みを指摘し、より適切に調整するための方法を示し、淡々と変革していくことは可能だ。
それにも関わらず、暴力的な姿勢で相手を委縮させて自分の意思を優先させようとする人は、物事の仕組みを丁寧に認識しようとする姿勢を軽視しているのではないだろうか。

かつて、社会の変革に熱意を向けた学生たちは、「怒り」を肯定した。
「怒り」こそが、力につながると考えていた人たちは、老いてもまだ暴力的な姿勢を見せる人が少なくない。

学生運動の世代の人たちは、自分たちは戦中世代と違い、新しく平和で自由な世界に生きていると認識していたかもしれない。
しかし、実際には「体罰や家庭内暴力に鈍感」「料理や家事を女性の仕事だと思い込み」「定職について結婚して当然」などといった、むかしながらの価値観から脱していない人が多かった。
自分の価値判断基準について意識的になることこそが、世の中を変える近道なのかもしれない。

世界には多様な価値観がある。
時代や地域によって、肯定されることや否定されることは変化する。
その根底にあるには、「どのような方向性が、個人の生命や社会の維持発展に役立つか」という認識だ。
あくまで、人間の都合を優先した認識でしかない。
人間に害虫扱いされている生物から見れば、自己中心的な勝手な世界認識に見えるだろう。

思考を停止したかのように「命は大事」「戦争はだめ」などと判断することを乗り越え、「自分は損してもいい」「勤務先や政府や人類が滅びたとしても、因果応報なだけで悲しむ必要はない」などと思えるようになれば、新たに見えてくる価値もある。


そういうわけで、私は簡単に「激怒」などしたくない。
同時に、誰が激怒していようが、そんなことで自分の考え方や行動を変えようと思わない。
「怒られてしまうから何々するのは注意しよう」などという姿勢には興味がない。

まずは、世の中のさまざまな事象の構造を自分なりに認識したい。
そして、あらゆる社会や組織の中で見られる、「秩序を維持するために何かを排除する姿勢」を超越するために、あえて秩序と無秩序の境に目を向ける。
方向性のはっきりしない不安なところでたたずみ、言語化以前のあやふやなところを見つめる。

乱暴な言葉を使う人だって、言葉にできない不安や疑問を感じたことがあるはずだ。
まずは、「生命」や「戦争」や「差別」、「人権」「民主」などといった大きな言葉で表現されている事象の構造に、思いを巡らしてみてはどうだろうか。
言葉で示されているとまるでそこに何か確固としたものが存在するように感じる。だが、じっくりとその言葉の示す構造を把握しようとすると、確かだと思っていたものが消え去っていく。
怒りの気持ちも、いつの間にか解消されるのではないだろうか。


<参考>
■燕つば九郎、交流戦中止をファンに謝罪 新型コロナに激怒
4月18日(土) 21時49分-野球(Full-Count)
■辛坊治郎氏 司会者の「10万円受け取らない」発言に激怒「ハードルが上がる」
4月18日(土) 20時38分-エンタメ総合(デイリースポーツ)
■大麻所持で逮捕の元HKTメンバーに当時のキャプテンが激怒「正しく処罰されて」
4月17日(金) 18時17分-エンタメ総合(デイリースポーツ)
■コロナ感染テレ朝・富川アナ報告遅れの理由 以前から「アナウンス部に居場所ない」
…~19日に東京・六本木の本社を完全封鎖し、消毒作業を行う。「早河洋会長が激怒し、上層部に社内全フロアの消毒を厳命しました。
4月17日(金) 17時4分-エンタメ総合(東スポWeb)
■老人ホームで山積みにされた遺体発見、新型コロナ関連か 米
…フィー(Phil Murphy)知事は、遺体が山積みにされていたことに「激怒」し、調査を命じたと明らかにした。
4月17日(金) 11時34分-国際総合(AFP=時事)
■コロナで露呈「危機に強い安倍晋三」神話はなぜ崩壊したのか
…国民が激怒した安倍晋三の貴族動画 危機対応を売りにしてきた安倍政権だったが
4月17日(金) 11時16分-政治(プレジデントオンライン)


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メモ

2020-04-10 20:42:50 | Weblog
人間はどうしても、とがめる。拒絶する。否定する。
それは、自分の生命を維持するための防衛本能に由来する。
とがめることを超越してこそ、視野の広い思考を得られる。


非常識をとがめ、犯罪を非難する。差別を糾弾し、とがめる姿勢に違和感を示す人をとがめる。
そういった「声の大きな人」の姿が世の中で目立つ。
だが、犯罪者や差別者を断罪することなく受け入れ、他人をとがめず、否定せず、穏やかに生きている人も少なくない。
彼らは「声の大きな人」をとがめないので、「声の大きな人」の目には入らないのかもしれない。
だけど、自分たちが正しいと思っている「声の大きな人」が自分たちを客観的に見ることができれば、世の中はさらに進化するだろう。






コメント (1)
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