「戦争の犠牲者」「空襲の犠牲者」「沖縄戦の犠牲者」などといった表現には違和感がある。
本来、「犠牲」は「生贄」と似た意味。
犠牲は、崇高な目的のために自らを投げ出すような行為のことではないだろうか。
戦争で亡くなった人、殺された一般人は、何の犠牲になったというのだろう。
特攻隊員は国体を死守するために犠牲となった、とか、十字軍兵士はキリスト教の聖地を取り戻すために犠牲となった、という表現の仕方はまだ理解できる。
しかし、空襲の被害に遭った人たちは、自ら何かのために殉じたわけではない。
戦闘に参加していない一般人がいきなり蹂躙されてしまったのだ。
2020年3月10日のNHKの番組では、東京大空襲のことについてふれる中で、日本軍が行った重慶空襲についても時間を割いていた。
日本人の、加害者としての面に注目するのもいいと思うが、重慶空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。
東京大空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。
平和な世界を築くための犠牲となった?
そんなことはない。
人々のせめぎ合いの中で、命を絶たれただけだ。
「犠牲者」という言葉で、崇高なものと関係があるかのように表現をぼかし、「殺害」「死亡」の直視を避けているのではないだろうか。
そのようなことを意識していないのかもしれない。
しかし、出版社や新聞社もそうだけど、テレビ局の人たちも、ありきたりな表現に流されがちだ。
軽々しく「犠牲」という言葉でごまかしてほしくない。
まるで、東京大空襲で殺害された人々が、軍部政権による徹底抗戦に同調し殉じたような表現にも見える。
話は変わるが、中国においても「犠牲」は「生贄」に近い意味。
「空襲の犠牲者」「津波の犠牲者」などとは言ったりしない。「遇难者(遭難者)」が一般的だ。
「重慶空襲の犠牲者」という無神経な表現は、中国では使わない方がいいのではないだろうか。
日本人は、物事の原因や因果関係、責任の所在を認識しないで「犠牲」という言葉でごまかしがちだ。
論理的に思考するのであれば、安易に「犠牲」という言葉に逃げたくない。
「津波の犠牲になった」、という表現はまだ理解できる。
大自然の驚異というあらがうことの困難な圧倒的な力の元に、命を失うことは、誰に文句を言ってもどうしようがない。
その無念さを、「犠牲」と言う人もいるかもしれない。
しかし、東京大空襲で亡くなった10万人を超える市民は、何かの理念や理想の犠牲になったのではない。
アメリカ軍のアメリカ人兵士が落とした爆弾によって殺害された。
同様に、重慶空襲によっても、多くの中国人は尊い概念の犠牲になったのではない。
日々の生活をしていたら、日本軍の日本人兵士の落とした爆弾によって殺害された。
戦争の構造について論理的に考えるのであれば、安易に「犠牲」という言葉は使いたくない。
本来、「犠牲」は「生贄」と似た意味。
犠牲は、崇高な目的のために自らを投げ出すような行為のことではないだろうか。
戦争で亡くなった人、殺された一般人は、何の犠牲になったというのだろう。
特攻隊員は国体を死守するために犠牲となった、とか、十字軍兵士はキリスト教の聖地を取り戻すために犠牲となった、という表現の仕方はまだ理解できる。
しかし、空襲の被害に遭った人たちは、自ら何かのために殉じたわけではない。
戦闘に参加していない一般人がいきなり蹂躙されてしまったのだ。
2020年3月10日のNHKの番組では、東京大空襲のことについてふれる中で、日本軍が行った重慶空襲についても時間を割いていた。
日本人の、加害者としての面に注目するのもいいと思うが、重慶空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。
東京大空襲の「犠牲者」は何の犠牲になったのだろうか。
平和な世界を築くための犠牲となった?
そんなことはない。
人々のせめぎ合いの中で、命を絶たれただけだ。
「犠牲者」という言葉で、崇高なものと関係があるかのように表現をぼかし、「殺害」「死亡」の直視を避けているのではないだろうか。
そのようなことを意識していないのかもしれない。
しかし、出版社や新聞社もそうだけど、テレビ局の人たちも、ありきたりな表現に流されがちだ。
軽々しく「犠牲」という言葉でごまかしてほしくない。
まるで、東京大空襲で殺害された人々が、軍部政権による徹底抗戦に同調し殉じたような表現にも見える。
話は変わるが、中国においても「犠牲」は「生贄」に近い意味。
「空襲の犠牲者」「津波の犠牲者」などとは言ったりしない。「遇难者(遭難者)」が一般的だ。
「重慶空襲の犠牲者」という無神経な表現は、中国では使わない方がいいのではないだろうか。
日本人は、物事の原因や因果関係、責任の所在を認識しないで「犠牲」という言葉でごまかしがちだ。
論理的に思考するのであれば、安易に「犠牲」という言葉に逃げたくない。
「津波の犠牲になった」、という表現はまだ理解できる。
大自然の驚異というあらがうことの困難な圧倒的な力の元に、命を失うことは、誰に文句を言ってもどうしようがない。
その無念さを、「犠牲」と言う人もいるかもしれない。
しかし、東京大空襲で亡くなった10万人を超える市民は、何かの理念や理想の犠牲になったのではない。
アメリカ軍のアメリカ人兵士が落とした爆弾によって殺害された。
同様に、重慶空襲によっても、多くの中国人は尊い概念の犠牲になったのではない。
日々の生活をしていたら、日本軍の日本人兵士の落とした爆弾によって殺害された。
戦争の構造について論理的に考えるのであれば、安易に「犠牲」という言葉は使いたくない。