「名古屋旅行記(その15)」のつづきは、「かかみがはら航空宇宙博物館」で私がもっともほげぇ~となったこちらの展示から。
大きい
衛星フェアリングは、内部に衛星を格納し、打ち上げ時の空力加熱や音響等の過酷な環境から衛星を保護するとともに、打ち上げ前には衛星の清浄度を維持する役目を果たします。打上げ後、H-IIロケットが大気圏を抜けて空力加熱が十分小さくなった時点で、衛星フェアリングは第2段から切り離されます。
ロケットが大気圏外に抜けると、パカッと割れて、
中に収められていた衛星がむき出しになり、フェアリングはここでお役御免。
ロケットのほとんどの構成品と同様、フェアリングは使い捨てなんですな。
もちろん、メインエンジン(下の写真はJAXA筑波宇宙センターの展示館で見たLE-7。ピンぼけ御免)も一回限りの使い切り。
LE-7の下半分、ノズルスカートと呼ばれる部分がタテ縞に見えると思うのですが、細いチューブがギッシリと縦に並んでおりまして、約3,000℃にもなるという燃焼ガスからノズルスカートを守るため、このチューブの中を液体水素(-253℃)を流すようになっているのだとか(こちらのサイトをご参照方)。
このチューブが詰まればノズルスカートは熱で破壊されてロケットの進路を制御できなくなるし、チューブから液体水素が漏れ出したら、異常燃焼必至です
たった一度の打ち上げのために、万が一にも不具合の起きないよう、万全を期して組み立てるロケット製造って、例えが適切かどうかちょいと不安ではありますが、やはり打ち上げ花火づくりと似たところがあるような気がします。
「かかみがはら航空宇宙博物館」で観た飛行機を全部紹介していたらキリがありませんので、あと3機種だけ紹介しておきましょう。
まずは模型ですが、こちら
この九二式重爆撃機の説明板を転記しましょう。
三菱航空機㈱が、1928(昭和3)年、ドイツのユンカース社から、G-38旅客機を改造したK-51爆撃機の製造権を購入した。仲田信四郎技師を中心に一部改良が行われたが、生産に時間がかかりすぎたことなどから6機で製造が打ち切られた。あまりの大きさに、三菱の大江工場から陸路運送ができず、分解して木曽川を引き船で、各務原まで運ばれた。
この機の製造をとおして、三菱は全金属製の大型機の製造と新しい生産方式、設計システムなどを習得し、後々まで三菱の大きな資産となった。
と、「これ自体は実績を上げることはできなかったが、有意義だった」というわけですな
どれだけ「あまりの大きさ」だったかといいますと、翼の中を人が歩くことができたとか
私の蔵書から「宮崎駿の雑想ノート」を引っ張り出して、この九二式重爆撃機の弟分、ボストニア王国(実存しないみたい…)の「WP-30 重空中戦艦」の透視図を見てみましょう。
宮崎駿の雑想ノート | |
宮崎 駿 | |
大日本絵画 |
これによれば、飛行中でもエンジンを整備できるという、希有の飛行機だったようです(真偽は不明ですが)
その巨大さだけでも「異様な飛行機」だったですが、平面図を見ると、その異様さが際だちます。
ほとんどが「翼」
この角度からの方が判りやすいかも…
「全翼機」一歩手前の「ほとんど全翼機」ですな。
これほどの大型機ならば、さぞかし多くの爆弾を積めるのでしょうけれど、いかんせん最大速度はたったの200km/h
これでは、目的地に到着する前に敵の戦闘機の餌食になるのは必然でしょう
援護がついたとしても、戦闘機が九二式重爆撃機に歩調を合わせるのは物理的・精神的両面で至難の業だったことだろうと思います。
当時の日本に戦略性に欠けていたことを痛感しつつ、「その17」に続きます。