新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

歴博は歴史のテーマパーク、、、かもしれない(その4)

2011-02-19 11:08:17 | 美術館・博物館・アート

2月13日の記事「歴博は歴史のテーマパーク、、、かもしれない(その3)」のつづき、国立歴史民俗博物館(歴博)での「落ち穂拾い」です。
今回の歴博訪問記その1その2)だけでなく、昨年5月の訪問記こちら)の「落ち穂拾い」でもあります。

   

歴博のエントランスロビーには大きな構造模型が展示されています。

根来寺の多宝塔(大塔)と、

110218_1_1東福寺三門です。
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どちらも縮尺1/10ですから、かなり迫力があります。
そういえば、呉の大和ミュージアム大和の模型も1/10でしたっけ(記事はこちら)。

歴博の第1展示室(原始・古代)には正倉院宝庫(正倉)1/20サイズの構造模型もあって、こちらもかなり魅惑的でしたが、どうしたことか撮影禁止でした
仕方がありませんので、私が撮った現物の写真を載せておきましょう(正倉院訪問記はこちら

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さて、いかにも歴博だと思ったのはこちらの展示です。

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火縄銃の作り方です。

鉄の棒(真金:しんがね)に平らな鉄の板(瓦金:かわらがね)を巻き付けて、その上から細長い鉄の板(巻金:まきがね)を螺旋状に二重に巻き、それを鍛え上げて、鉄の棒を引き抜くと銃身が完成するという手順だそうです。
さらに、銃口と反対側になる銃尾タップでねじ切りして、ダイスでねじ切りした尾栓をねじ込み、火皿(点火口)や目当(照準)を溶接し、銃床に取り付ければ火縄銃の本体は完成です。

あと、引き金と点火装置(カラクリ)とか、その他「火縄銃グッズ」も展示されておりました。

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ちなみに、火縄銃を自作することは法律上許されるのだろうか?と思って調べてみました。
すると、武器等製造法という法律では、基本的に経済産業大臣の許可を受けた「武器製造事業者」以外が銃や爆弾を作ると、「懲役3年以上の有期刑」に処せられます。
但し、同法第2条には、対象となる「武器」の定義として「産業、娯楽、スポーツ又は救命の用に供するものを除く」と書かれています。
ということは、娯楽用であれば作って良い

ところが、銃砲刀剣類所持等取締法という法律(いわゆる銃刀法)では、「博物館その他これに類する施設において展示物として公衆の観覧に供するため、銃砲又は刀剣類を所持しようとする者」であっても、鉄砲を所持(家に置いておくだけも含まれるようです)するためには都道府県公安委員会の許可が必要です。
また、「美術品若しくは骨とう品として価値のある火縄式銃砲等の古式銃砲」を保有・所持する場合は、都道府県の教育委員会に登録しなければなりません。
要するに、「趣味で作るのはかまわないけれど、作ったものの取り扱いは別」ということですな。

これは法律の素人の解釈ですから、決して真に受けないでください

   

昔、ドラゴンクエストを楽しんだとき、ゲームを始めた初期の頃はゴールドが少なくて、防御力の低い「革の鎧」しか買えず、心細い気がしたものでした鎧というものは鉄で作るものだとばかり思っていましたから、「革の鎧なんて役に立つのか?」なんてね。

110218_1_5 ところが、その後知ったところによりますと、日本の鎧は、大昔(古墳時代)こそで作られていましたが、奈良時代以降はずっと「革と紐」主体の鎧だったようです。
札=さね」と呼ばれる革の小片こちらのサイトをご参照方)をで塗り固め、それを革紐や組紐でつなぎ合わせてつくります。

右の写真は、札を革紐でつないで漆塗りした「胴の原形」で、その下に置かれているでつなぎ合わせると、色鮮やかな鎧(胴丸が完成します。

確かに、鎧全部をで作ったら重くて仕方ありませんな
と思って調べてみると、日本の鎧は20kgほどなのに対して、西洋のギンギラギンの鎧(プレートアーマー)は装備重量が30~50kgもあったそうな。
それでも、鉄板を薄くする一方で波状(トタン板みたい)にすることで強度を確保したフリューテッドアーマーでは、20kg以下にまで軽量化できたようです。

でも、鉄板主体の鎧だと、さび止めが大変そうです。ステンレスの発明は20世紀に入ってからのようですし、メッキしている気配もありません。
ひたすら、暇があれば油を含ませた布でお手入れしていたのでしょうか?
いざ出陣となったとき、錆びてしまって関節が動かない じゃまずい…。

   

110218_1_6 ここでクイズです。
右の道標(複製)は、どこに立っているものでしょうか?

左 中仙道みのぢ(美濃路)」「右 東海道いせみち(伊勢道)」と書かれていますな。
この道標の本物が立っているのは、

大きな地図で見る

滋賀県草津市、東海道と中山道との追分(おいわけ)です。

高速道路や鉄道のルートから、京都から東海道を下ろうとすると、京都⇒草津⇒米原⇒名古屋⇒浜松・・・というイメージがありませんか?

実は、東海道のルートは、京都⇒草津⇒鈴鹿峠⇒亀山⇒四日市⇒桑名⇒海路熱田⇒浜松…です。ほぼ国道1号線のルートですな。

東海道線が通っている草津⇒米原⇒岐阜中山道で、更に中山道は岐阜から、名古屋へ向かう東海道線を尻目に(?)そのまま東へと進み、山の中へ入っていきます。
ちなみに、岐阜⇒名古屋岐阜街道

私は「東国(蝦夷?)」系の生まれですので、この辺りの事情には疎い。「そんなの常識ダヨ」とお思いの方も多いと思いますが、諸事情を斟酌の上、ご容赦くださいまし。

そんな「東国(蝦夷?)」系の私だから気づいたトンデモ品がこちら

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関東地方に陸奥があるし、東北地方に常陸・武蔵・安房があるし、北海道とおぼしき島が「北陸道」と「越中道」になって佐渡・能登・加賀がある
このいいかげんさは、「東国(蝦夷?)」系の私ならずともおわかりですな…

このむちゃくちゃな地図は、「坤輿萬國全圖(こんよばんこくぜんず)」(複製。現本は宮城県図書館蔵)で、展示の全体像はこちら。

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16世紀末、明に滞在していたマテオ・リッチヨーロッパの世界地図を漢字に直して刊行されたものだそうです。
もともと版本(1602年刊)だったものを屏風に仕立てる時、きっと職人さんも間違いに気づいたことでしょうし、この屏風の持ち主も気づいていたことでしょう。

ところで、宮城県図書館が所蔵する「坤輿萬國全圖」の現品は、どのような経緯で仙台の地に落ち着くことになったのでしょうか?
もしかすると、伊達政宗の命で渡欧した支倉常長が、ヨーロッパでこの版本を入手して持ち帰った(バチカンにも原本があるらしい)のかもしれない、と妄想が広がります。

   

最後にご紹介するのは、三代将軍・家光の時代の江戸を描いた「江戸図屏風」から、水道橋です。

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人が渡っている橋の手前に樋(とい)のようなものが見えます。
これが神田上水の水路で、「水道橋」の名前の由来です。

   

ということで、2週間も前に行ってきた国立歴史民俗博物館(歴博)のご紹介はおしまい
何度も書きましたように、お出かけの節は、たぁ~っぷりと時間の余裕を持って行ってくださいね
併設されているレストランを利用するためには、一旦、館外に出なければなりませんが、当日に限り半券を見せれば何度でも入退館できますよ

コメント
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