おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その5。東北新幹線。利根川橋。房川渡し。栗橋関所趾。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-03-04 20:14:13 | 利根川を歩く

                  「東北新幹線」。

橋脚付近でも護岸工事が進んでいます。なかなか土手に上がる道がないまま、県道を進みます。

整備が進む道路。

土手に近づく。

新設された土手に上がる階段。上は未整備の公園と整備された土手の道。

久々に見る利根川の流れ。

                       東北新幹線の橋脚と筑波山。

栗橋(宿)の街並み。

宿場だった栗橋には「日光街道(道中)」歩きの際に通過しました。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。

下流を望む。

                       「海から129.5㎞」。     

上流には、「国道4号線(日光街道)・利根川橋」が。

       

利根川橋
 埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
 江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
 明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
 やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
 近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)

利根川橋のたもとへ。

                    遠くに赤城山。  

          

                 奥武蔵の山々が遠くに。 

道路脇の一画に石碑が。「栗橋関所趾」の碑でした。

 

   解説板。

・・・この碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の書で旧堤上に建碑されたものである。度重なる堤防改修工事で、この碑も移動を繰り返してきた。この地は現在行われている利根川の堤防強化対策事業に伴い、仮移転したものである。

房川渡と栗橋関所
 江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
 1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。 

全景。  

                     1880年代のようす。渡し場がある。

                     2010年代のようす。利根川橋が工事中。

2016年6月・「日光街道歩き」のときも、この付近で利根川護岸工事が大規模に行われ、周辺一帯が区画整理などで掘り返されていました。

河川敷では工事中。

                    上流にはJR宇都宮線の鉄橋。

利根川歩きの上流編の出発地に到着。これで銚子河口からここまでつながりました。

      

            「利根川を歩く」第1回目(2021年10月)のときの写真。 

利根川橋と筑波山。     

東武線「栗橋駅」に向かいます。

「国交省 利根川上流河川事務所」前庭に、護岸工事で使われた機関車・貨車が展示されています。

庁舎の一角に、加藤製作所製の小型機関車(自重7t・日野自動車製70馬力エンジン搭載)と、ナベトロ(積載量1m3)と呼ばれる貨車3台が連結されて保存されています。増水期の度に猛り狂ってきた利根川を諫めるべく、繰り返されてきた治水工事の担い手として活躍した旧建設省所有機です。

 こういったトロッコに限らず、大昔の建設省はトラックやブルドーザーなどの施工機械も、施工に必要な材料も、場合によっては人夫も全て自前で調達し、直営で工事を遂行していました。
 現在は工事を発注し請負契約を結んで施工しますから、施工機械も材料も作業員も請負企業持ち(一部特殊な材料は支給することがあります)。現・国土交通省が施工機械を保有することはありません。あるとすれば、災害時に出動する排水ポンプ車か、投光器搭載車くらいのものです。

 トロッコ自体は、今でもトンネル工事などで用いられているので、実は然程珍しいものではありません。
 このトロッコ機関車が貴重なのは、機関車自体の古さに加え、発注機関が公共事業を直営していた時代の名残を今に伝えるからです。(「国交省 利根川上流河川事務所」HPより)

栗橋駅にあったポスター。

             こういう企画があるとは知りませんでした。

掲示されている宿場をすでにクリアしてしまっている小生には今さらですが、すばらしいアイデアだと思います。

さて、これで「利根川を歩く」は、沼田の手前までつながりました。その先の上流は、雪が溶ける陽春になってから出かけることにします。

利根川から江戸川が分岐する「関宿城博物館」まで行ったので、次回は、「江戸川」を歩いて下ることにします。


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