おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

川船番所跡。清洲橋。大川端芭蕉句選。芭蕉記念館。江東区「小名木川」。その6。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-18 19:33:45 | 鮮魚街道

           橋のたもとにある「川船番所跡」解説板。

川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644)にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。
 明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。

もう一つの解説板。

万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取り締まる、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで、「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」の一つに「深川万年橋下」として美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響を受けた錦絵を残しています。

(注:隣に描かれた絵は、「芭蕉庵」で、「古池や蛙飛び込む水の音」の句が記されている。)

隅田川のテラスに降りてみます。

清洲橋

清洲橋の名は、深川区清住町と日本橋中洲町を結ぶことから付けられました。関東大震災後の復興事業で、ドイツのケルン市にあった大吊橋をモデルとして昭和3年(1928)に完成したもので、女性的な曲線で優雅なシルエットが印象的です。平成19年(2007)6月18日に、永代橋とともに国の重要文化財に指定されました。

ライトアップされた清洲橋。(「GO TO TOKYO」公式HPより)

・・・以前訪れたときの記事。


「清洲橋」。
「清洲橋」からのスカイツリー。
「清洲橋」。この上流あたりに「中洲の渡し」がありました。

・・・

上流の「新大橋」を望む。

大川端芭蕉句選しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉

九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難し」と言ひけむ人の賢く覚えはべるは、この身の乏しきゆゑにや。「柴の戸に茶を木の葉搔く嵐かな」

同「芭蕉野分して盥に雨を聞(く)夜哉

(老壮、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その夜の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸。)

二句とも「芭蕉発句全集」HPの解説による。どちらも芭蕉庵にての作句。

「隅田川テラス案内板」。

さて戻ることにします。「萬年橋」。

「万年橋」の北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所で、隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されています。また北には「江東区芭蕉記念館」があります。 

 「バショウ」。

            


芭蕉のブロンズ像。遠くに見えるのは「清洲橋」。(以前の訪問時の写真)

東京・下町の隅田川沿いにある松尾芭蕉のブロンズ座像が、日暮れになると動きだす。場所は芭蕉が「奥の細道」に出立したゆかりの地、江東区の芭蕉庵史跡展望庭園。「座り直してるんですか」「夜、立って動いてるんですか」といった問い合わせも舞い込む、ユニークな仕掛けだ。

 像は高さ約120センチ。閉園後の午後5時ごろ、座布団に正座姿の芭蕉がライトアップされ、川方向に電動で約90度回転する。タイマー設定で、特に前触れもない。方向転換は30秒ほどの早業だが、狙いをつけて近くの遊歩道で見守る人も。

 1995年の建立以来続く謎の行動。実は、夜になったら川側から見てもらいたい、というサービス精神のなせる技なのだ。遊覧船の往来が少なくなる午後10時ごろ、像は元の位置に戻り朝を迎える。

(この項、「」HPより)

今回行ったところ、閉館しているようでした。

これで、「小名木川」編は終了。この際、日本橋の旧市場跡まで、「日本橋川」を散策してみます。

                     1880年代のようす。上の→が「小名木川」。下の←が「日本橋川」。当時の「永代橋」と現在の位置は異なっている。

                     2010年代のようす。永代橋が下流に移っている。

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のらくろ。萬年橋。北斎「富嶽百景」。広重「名所江戸百景」。江東区「小名木川」。その5。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-17 21:17:43 | 鮮魚街道

                   森下・「高橋夜店通り」。

この先で、「小名木川」から離れて西へ進みます。なかなか川の近くに行けません。かつて来たことのある商店街にさしかかります。

・・・


 通りの東には、「江東区森下文化センター・田河水泡・のらくろ館」があります。(地名の「高橋」というのは、「小名木川」に架かる橋の名前から。「たかはし」ではなく「たかばし」)。

のらくろがいたるところで、お出迎え。
アーケードが続き、道路は、一年中、花吹雪(模様)。

 そこで「田河水泡」について。(以下、「Wikipedia」参照。)かなり長いですが・・・。
 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年(明治32年)2月10日 - 1989年(平成元年)12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名、高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、さまざまなキャラクターグッズが作られるなど社会現象となるほどの人気を獲得した。
 東京府東京市本所区本所林町(現在の東京都墨田区立川)出身。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、水泡は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、水泡も絵筆を取るようになる。
 しかし、再婚した父親が数年後に亡くなり、育ての親である伯父も水泡が小学5年生の時に時に亡くなると、一転、生活に困窮するようになり、深川市立臨海尋常小学校(現・江東区立臨海小学校)を卒業後は働きに出ざるを得なくなり、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」を過ごした。
 その後、徴兵され、朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学。村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢 路直と名乗っていたものの深入りはせず、1926年(大正15年)に卒業。
 卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ売れない絵描き時代を過ごしていたが、もうひとつの夢であった文筆業への進出を試みる。当初は小説を売り込もうと考えていたが、ライバルが多すぎる上に出版社自体も無名の新人は使わないだろうと考え、当時の大衆誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語や講談に目を付け、書き下ろし新作の落語の執筆に取り掛かる。
 書き上げた新作落語を大日本雄辯會講談社の「面白倶楽部」に持ち込み掲載されて以降、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、売れない絵描きは一転、落語作家として売れっ子になる。当時のペンネームは「高沢路亭」という年寄りみたいなものであり、最初の持込みのときに、対応した編集者から使いの者と勘違いされたというエピソードがある。なお、水泡の新作落語は今日にも残っており、初代柳家権太楼や桂文治 (10代目)が得意としていた『猫と金魚』が有名。
 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。ロボットを主人公としたSF作品であり、日本のロボット漫画のパイオニアとも言える。
 漫画家としてのペンネームは、当初は本名の高見澤をもじった田川水泡(たかみざわ)だったが、その翌1930年(昭和5年)には田河水泡(たかみざわ)に変更。しかし、変則的な読みのせいか、いわゆる誤植に悩まされることになり、当の漫画自体の作者名の部分でさえ「たがわ・すいほう」「たがわ・みずあわ」とルビを振られる事が多かった。当初田河は自筆サイン(おたまじゃくしマーク)にわざわざMIZAWAと言葉を添えるなど対応していたが、少なくとも1932年(昭和7年)頃には自らもタガワスイホウと書くようになり、徐々に「たがわ・すいほう」として定着していった。
 なお、漫画を描くようになってからまもなく、漫画発表の舞台を一般雑誌から子供が読む雑誌(婦人向け雑誌も含む)に移し、初の子供向け連載が1929年の『目玉のチビちゃん』になる。
 1929年(昭和4年)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。同作の執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事により、昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたというものである。設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
 戦後はのらくろの執筆を再開する一方、落語の執筆も再開。さらには日本人の笑いの研究に取り掛かる。漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。1969年に紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園八丁目に移住。小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりだった。
 後半生はクリスチャンであった。『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川が弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、後に夫妻で洗礼を受けることになったという。死後に夫人が出した『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝(1991年)』では、入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。
 代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こった。
 1989年12月12日、肝臓癌のため死去。90歳没。
 1998年に遺族は、遺品を生地の隣区である江東区に寄贈した。公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、田河の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。当地は生地の至近である。田河に関する唯一の展示館である。
 弟子に『サザエさん』の長谷川町子や『あんみつ姫』の倉金章介、『猿飛佐助』『ドロンちび丸』の杉浦茂、滝田ゆう、山根青鬼・山根赤鬼、森安なおや、伊東隆夫、野呂新平、ツヅキ敏、永田竹丸などがいる。
 叔父に浮世絵複製の『高見沢版』で有名な高見沢遠冶。夫人の高見沢潤子は、文芸評論家小林秀雄の妹にあたる。
 
(「」より)
 
次第にシャッター通り化しつつあるようですが。
 
やっと「小名木川」へ。「西深川橋」。東を望む。
 
西を望む。遠くに「新小名木川水門」が。
 
上(西)が隅田川。
 
「新小名木川水門」。
 
その先に「萬年橋」。 
 

葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」

歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」

                                (注:二作とも「Wikipedia」より)

萬年橋は、小名木川の隅田川口に架けられており、江戸時代には、富士山がきれいに見える名所として知られ、北斎の「富嶽三十六景」や広重の「名所江戸百景」などに描かれました。現在の橋は昭和5年(1930)に架けられました。平成21年(2009)からはライトアップが開始され、新たなランドマークとして深川の夜を彩っています。

(この項、「江東おでかけ情報局」HPより)
 
 河口から見る「萬年橋」。
 
 
 
「隅田川」との合流地点。
 
 それにしても、全土に新型コロナ感染症拡大の渦中、「宰相」の器でない(まったく不向きな)御仁がトップに立つと、民は苦しむばかりですな。「緑のタヌキ」「イソジンあんちゃん」「きしめん親父」も同様、他にも・・・。
 
「君 君足らずといえども、臣 臣足らざるべからず」ですか。「主君が不徳で主君としての道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠節を尽くさなければならない。」てなわけで、大臣以下、官僚まで唯々諾々と従っている(ふり)?
 一方で、この文言の載った『古文孝経』は、偽書である、とか。たしかに暗愚なお上にとっては実に都合のいい論ですね。
 むしろ『論語』の「君 君たり、臣 臣たり、父 父たり、子 子たり」で世が治まる、という方がちょっとまともだと思いますが。
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クローバー橋。五本松跡。扇橋閘門。江東区「小名木川」。その4。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-16 22:19:48 | 鮮魚街道

「小名木川 クローバー橋」。

小名木川クローバー橋は、猿江・大島・北砂・扇橋の4地区を小名木川と横十間川の合流点で結び、地域社会に快適な生活と、人と文化の交流を提供できるランドマークとしての意義が深い橋として計画されました。完成は平成6年(1994)12月で歩行者と自転車専用橋です。橋の真ん中に四つ葉のクローバーが描かれていて、ロケ地としてもしばしば利用されています。

(この項、「」HPより)

この橋がなかった頃は、お互いの行き来する橋が限られていて、さぞ不便だったでしょう。まだその時分、この辺り一帯は川をはさんで工場街だったためにさほど不便は感じなかったでしょうが、次第に工場が撤退し、住宅が増えて来たり、スポーツ会館が出来た頃には、さぞかし不便だったと思います。


1970年代のようす。まだ橋が架かっていない。

2010年代のようす。

夜景

HPより)

 

横十間川水門橋」。

若洲風力発電施設に続く新たな再生可能エネルギーのシンボルとして、横十間川親水公園・水門橋にマイクロ水力発電施設が完成しました。(平成27年3月18日)

発電の様子を実際に目で見て実感してもらうことによる環境学習、及び「水彩都市・江東」を象徴する新たな観光資源として活用していきます。
発電した電気は電力安定化装置で整えた後に、表示モニター、ライトアップ用LED照明、カメラに利用しております。
発電出力は最大で1KW程度、1ヶ月の発電電力量は600KWh程度になります。

所在地:江東区扇橋3-22先

(注)発電出力が小さい場合(300W程度)、表示モニターは表示されません。
横十間川親水公園の水位は潮位の影響を受けています。潮位が低い時は、水門橋の下を流れる水の落差が小さいため、発電出力が小さくなります。

(この項、「江東区」公式HPより)

「四つ目通り」五本松跡。

               

江戸時代、小名木川北岸の九鬼家の屋敷に、枝を張った形の良い老松があり、徳川吉宗が感嘆したことから有名になり、広重が描いたり、芭蕉もこの場所に舟を止め、「川上と この川しもや 月の友」の句を残しています。この松は、明治の末に枯死しましたが、昭和63年(1988)9月に現在の地に復活しました。

(この項、「」HPより)

今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。
 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれているようです。

歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」。(「Wikipedia」より)

その脇に「五百羅漢道標」。

五百羅漢道標
 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。
 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731)、寛政9年(1797)、文化2年(1805)の計3回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年(1805)に再建されたものです。
 五百羅漢寺とは、明治20年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。
 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。(「解説板」より)

この道標は大島の羅漢寺あるいは亀戸天神社へ参詣に訪れる人々の案内板の役割を果たしていました。また、小名木川を通行する船や、川沿いの道を往来する人々にとって江戸の境界を示すランドマークとしても機能していました。この道標が小名木川に向って建てられていたことは、川岸を歩く人々だけでなく、船から見えることも意図していたと考えられ、陸路と水路の両交通路を対象とした特徴を持っています。

(この項、「江東区」公式HPより)

「小名木川」を望む。

この先、自転車で通れる川沿いの道はなく、ぐるっと回り道。振り返ると、大横川との交差地点。その向こうに「扇橋閘門」が見えます。ここも紹介したことがあります。

・・・

隅田川側(前扉)。
水路。残念ながら柵ごしで水面は見えず。
小名木川側(後扉)。この間が調整水路。
北側にある小さな流水口からは、勢いよく大量の水が噴き出しています。水面の差を実感します。
後扉。

「閘門」とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設。川と川のあいだに前後二箇所に水門をつくって、水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通す方法で、まさにパナマ運河と同じ。
 江東区の内部水域は、地盤沈下の影響から水位を隅田川の平均潮位に比べ、マイナス1M下げて常に一定にしています。そのため、満潮時の水位差は、3メートル以上。この水位差を調整しながら船を航行させる施設が、扇橋閘門。

・・・

江東区は、今も昔も、東西、南北を貫く運河の多い街です。

                     2010年代のようす。上部に「小名木川」。

木場があったため、1970年代の写真では、南にある「仙台堀川」などには丸太が川面にたくさん浮かんでいます。

 

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芭蕉句碑。石田波郷句碑。釜屋の渡し跡。江東区「小名木川」。その3。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-15 21:38:20 | 鮮魚街道

                      西へ向かいます。所々、川沿いの遊歩道に。

振り返る。

石積みや燈籠などもあり、江戸情緒あふれる川辺づくり。

「小名木川」と交差する「仙台堀川(公園)」と「横十間川(親水公園)」案内図。どちらも、探索したことがあります。変化に富んだ「水辺・親水公園」になっています。

「大島稲荷神社」にある「松尾芭蕉」像。

     「松尾芭蕉翁石造像建立之詞書」

「松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社」解説板。

由緒

女木(注:小名木)塚の裏に其日菴社中造立とありますが、年代不詳。この句は大坂へ旅立つ2年前の元禄5年(1692)芭蕉50才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして、芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中、船を留めて当神社に立ち寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流れを眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。

秋に添(う)て行かは(ば)や末は小松川

の句を残しております。その後年、其日庵の俳人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立、その面影が偲ばれます。建立は江戸時代といわれ拓本を取る人も多い。松尾芭蕉が奥の細道に旅立って今年元年(注:平成元年)が300年目の年に当たります。

「女木塚」の下に句が刻まれている。

この句碑は、もとは愛宕神社(大島5丁目)にありましたが、後に第二大島中学校に移され、さらに現在地に移されたそうです。のち、「愛宕神社」は、「大島稲荷神社」に合祀されました。また、大島2丁目にある「愛宕神社」は別の神社で、そこに一茶が仮寓していたといわれ、境内に一茶の句碑「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」があります。

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

碑文の「秋に添うて行かばや末は小松川」は、元禄5年(1692)、芭蕉が50歳の時に詠んだ句。『芭蕉句選年考』には、「九月尽の日、女木三野に舟さし下して」の前書で、桐奚(とうけい)・珍碩(ちんせき)の句とともに所収しています。また、『陸奥鵆』(むつちどり)には、「女木沢桐奚興行」の前書で、「秋に添て行ばや末は小松川」とみえます。(注:「女木沢<おなぎさわ>」は東京都江東区北砂町近くの小名木川、「小松川」は小松川村、砂村(江東区砂町)のこと。)

松尾芭蕉奥の細道旅立ち三百年記念句碑

五月雨をあつめて早し最上川 大島稲荷神社 平成元年(1989)9月19日 第6代宮司 佐竹良子建之

先に進みます。

橋の上から川面を眺めていると、向こうから。

             「サーフボード」を器用に操って青年が。

「進開橋」のたもとに「石田波郷句碑」。

雪敷ける町より高し小名木川(「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」」

 ちなみに、江東区の地盤は、海抜ゼロ㍍(-)地帯が多く、地面より川の水位の方が高い。かつては、大雨のたびに浸水していました。亀戸駅前にある水位計では海抜ゼロ㍍のラインが頭上に記されているほど。「小名木川」もそのため、そそり立つようなコンクリート堤防で囲まれていました。現在もこのへんの家々には、土嚢が配布されているとか。

その先に「越中島貨物線小名木川橋梁」。趣のある鉄橋です。

「釜屋の渡し跡」解説板。

釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復していました。名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳 造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに, 対岸の農耕地などへ往来する 「作場渡し」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」 (昭和7年刊行)によれば, 大正7(1518)年7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和17年刊行) には営業の記載があるので, それ 以後に廃止されたものと思われます。

  「椿園について」

昭和61年11月21日、伊豆大島三原山の大噴火によって全島民約1万人が島外避難する有史未曾有の出来事がありました。その際、本区では区立スポーツ会館を避難場所として1,074名の避難者の救援に努めました。この椿の木は、避難者の皆様からお世話になったお礼にと50本の寄贈がものです。ここに、大島島民の厚意を記念するとともに、伊豆大島の繁栄を祈念して椿を植樹したものであります。

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「中川船番所」跡。旧小松川閘門。江東区「小名木川」。その2。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-14 21:01:41 | 鮮魚街道

              「小名木川」べりにある「中川船番所跡」解説板。

 中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取り締まるなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。

 また、中川対岸の船堀川(注:新川)から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸に送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、えどの東側窓口として重要な役割を果たしてきました。

 明治2年(1869)、全国の関所が廃止されたのに伴い中川番所も廃止されました。平成7年に行われた発掘調査では、陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。

旧中川河川敷が小公園になっています。

 ボートの練習?若くはなさそうですが。 

旧中川の東は、「大島小松川公園 風の広場」。

高台に「旧小松川閘門」(↓)が。

「旧小松川閘門」は訪れたことがあります(2012年9月)。再掲します。

・・・

小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。「大島小松川公園」南のブロック「風の広場」の丘の上。
説明板。
 
 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
 閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
 ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
 この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
 また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。

 この遺構は、旧中川側のもの。かつては、今の「荒川ロックゲート」付近にも「小名木川水門」があり、また、対岸の船堀側には荒川(放水路)と中川(放水路)を結ぶ「船堀閘門」がありました。これらによって、隅田川~小名木川~荒川~中川~新川という水運が開かれていました。
 もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
 地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左のは、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右のは、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
 現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されている、とのこと。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
閘門遺構から西側を見る。正面は、旧中川と小名木川との合流点。小名木川は「塩の道」とも呼ばれていた。遠くに見えるのはスカイツリー。
旧中川の流れ。ずいぶんと浄化されています。
「荒川ロックゲート」旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川側のゲート。
旧中川側。
ゲート間の水路。
ゲートから荒川を望む。対岸が船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。首都高・橋脚下あたり。
説明板。開いている時間帯には施設内を見学できる。
「大島小松川公園」。広大な敷地。多目的広場や遊具アスレチック、ジョギング・サイクリングロードなどあり。
旧中川と荒川にはさまれた地域。かつては工場があり、船の接岸施設などもあった。この地域の北西側一帯(写真上では左側地域)は、昭和20(1945)年3月10日・東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。
遠くに見えるのはスカイツリー。

・・・

 

振り返って東側を望む。

一直線で西に向かう人工の運河。

1880年代のようす。川の周囲は町屋の他は、水田。

2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

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中川船番所資料館。江東区「小名木川」。その1。(「鮮魚街道」番外編。)

2020-12-11 22:40:06 | 鮮魚街道

                  「中川船番所資料館」

 今回。江東区内を東西に貫く「小名木川」探索。ところが大失敗! 「新川」は、遊歩道を自転車でも通れましたが、ここは、自転車を押して歩いてもダメ! それを知らずに自転車で出かけてしまいました。

 自転車を置いて歩くのはけっこう大変そう。いいや、自転車で川沿いに行ってみよう! ところが、川に沿って進めないところが何カ所も。高い堤防で行き止まりのところも多い。何度も川から離れてぐるっと遠回りしていくハメに。

歴史クルーズ『お江戸日本橋舟めぐり(「小名木川コース)』の運航がありますが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大防止のため、現在はやっていないようです。

(「」HPより)

 

「明治通り」から「丸八通り」へ。さらに「新大橋通り」から都営新宿線「東大島」駅脇を抜け、「中川船番所資料館」に向かいます。

付近の地図。左が「旧中川」、斜めの川が「小名木川」。上方に「荒川」。

資料館入口にあった「田船」。

 深田に浮かべて、肥料や刈り取った稲を押し運ぶのに用いる小舟。弥生時代から用いられている。

水郷や沼などで、乗用や農作物の運搬などに使用される平底の簡単な作りの舟。(「デジタル大辞泉」より)

中川船番所の再現

                

寛文元(1661)年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。
中川番所があった場所については現在の江東区大島9丁目1番地と推定されていましたが、平成7(1995)年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定しました。中川船番所資料館は、この番所跡地より北に50メートルほど離れた場所に建てられています。

(この項、「江東区」HPより)

江戸名所図会『中河口』「中川番所」。

高札現代語訳のもの。

一.夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
一.中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
一.女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
一.鉄砲は二、三挺までは改の上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。その他の武具についても同様である。
一.人が入ることのできる大きさの器は確かめた上、異常が無ければ通す。小さい器に関しては改には及ばない。万一不審な点があれば船を留置き報告をする。

附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。

1880年代のようす。小名木川と中川の交差するところに番所跡。

2010年代のようす。番所跡の少し北側に資料館。

当時の風景を模した絵。

当時の水運、海運の概念図。

「中川屋清蔵」の役割。

「塩の道・小名木川」の全容。

広重「名所江戸百景 中川口」。手前が「小名木川」で、左下に「中川番所」の建物や石段が描かれている。中央を左から右に「中川」が流れ、その奥が「新川」。

「資料館」には、当時の番所の役割・ようすが詳しく展示されています。別の階には釣り道具や魚拓など釣り関係の展示が豊富に。

眼下を見下ろす。「旧中川」の流れ。

南を望む。右手奥に「小名木川」。

 

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新川西水門遺構。火の見櫓。中川・荒川。江戸川区「新川」。その3。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-07 18:52:35 | 鮮魚街道

桜の他にも。ピラカンサの赤い実が鈴なり。

解説板。

新川

新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永6年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。

この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣の人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。

明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れをなし、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、昭和19年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。

その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業排水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和47年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。

まず、昭和51年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して安全性を向上させました。そして、旧江戸川から浄化用水を取り入れ中川に排水しています。

一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込みきれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。

平成5年(1993)からは念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。

かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。

平成9年6月

「新川」の西端。「新川排水機場」。

火の見櫓」。奥に見えるのがかつての「新川西水門」遺構。

東方向を望む。

 

「新川」と「中川」を仕切る水門。

橋の一覧。木橋風のものが多い。

名所江戸百景 中川口」歌川広重

手前が小名木川で、左下に中川番所の建物や石段が描かれています。中央を左から右に中川が流れ、その奥が新川です。江戸時代から昭和中期まで、水運の動脈でした。この絵にも材木筏や船の運航が盛んであった様子が描かれています。

「新川西水門」跡。

解説板。

新川西水門跡

高度経済成長時において、工業化による地盤沈下が進み高潮に耐えられなくなったため、昭和37年から40年にかけて東西の水門を、昭和41年から43年にかけては、新川排水機場を設置しました。台風等の高潮や異常潮位に際しては、排水機場から中川に排水していました。昭和51年以降は東西の水門を常時閉鎖して新川の水位をAP+0.5㍍まで低下させて安全性を確保しました。そして、水門の役目を終わった新川西水門がここにあったことを記憶に留めておくために、その柱の一部を残しました。

櫓の上に上がってみます。

四方が見渡せます。

中川の向こうの流れは「荒川」。

遠くに「スカイツリー」。

船堀駅方向。

    

十月桜」。 

中川沿いにあるテラスへ。

   荒川と旧中川との間に設置された「荒川ロックゲート」(↓)。その少し上流(右手)に「小名木川」があります。

首都高中央環状線

            

次回は、「小名木川」を探索します。

(「今昔マップ」より)

「荒川放水路」開削前。          赤い線が「新川」の旧流路。青い線が「小名木川」。

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新川さくら館。船堀タワー。川下駐車場。江戸川区「新川」。その2。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-04 20:57:26 | 鮮魚街道

                      浮島風。

水鳥がけっこういます。

魚を口にくわえたが、落とした! 

護岸も石積みに

船着場も設置。

以前よりも多く人道橋など南北に通じる橋が架けられています。

「宝橋」。

              「花見橋」。広場風。

東方向を振り返る。

   

                           新川を行き交う船

 新川は、江戸時代から昭和の初期に至るまで、舟運の重要な川でした。明治になると、利根丸、通運丸、銚子丸等の旅客船や貨物船が就航しています。上の写真は、明治10年に就航した「通運丸」です。下の写真は、高橋(江東区)と浦安の間の定期船である葛飾丸などの小型船でエンジン音から「ポンポン蒸気」と呼ばれ親しまれました。 

紅葉した両岸の桜並木。 

 

遠くにスカイツリー(↓)。芦がそよぐ。

           船堀タワー」(↓)。

自由に展望台に入場できるタワーとしては都内3位の高さを持つため、1位の東京スカイツリー、2位の東京タワーと並べて「都内三大タワー」の一つに数えられることもあるらしい。 

「新川さくら館」。

新川さくら館は、新川の歴史を後世に伝えるとともに、お休み処や広場などを活用したイベントの開催により、新川を訪れる人々との交流を図る地域の拠点となる施設です。また、集会室や多目的ホールを備え、文化活動や軽運動などにもご利用いただけます。(「江戸川区」HPより)

蔵造りをイメージした建物。

けっこう粋な印象。

「お休み処」では、江戸川区の伝統工芸品やお飲み物などを販売しています。

ここで小休止。

この先、「新川」の地下には大きな「新川地下駐車場」があります。

                                延長:約484㍍、幅員17㍍。

空きが多いようです。が、高級車がけっこう置いてあるそうです。「核シェルター」にもなるとか?

この川の下に「駐車場」とは! 「宇喜田橋」付近まで。

 

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新川東水門。新川千本桜。新川梨。江戸川区「新川」。その1。(「鮮魚街道」。番外編)

2020-12-03 20:09:09 | 鮮魚街道

                        「新川」。旧江戸川との接点で大規模な水門の工事中。

                   

松戸・江戸川河岸で船に積まれた魚や野菜などは「江戸川」を下り、「新川」を経て、「小名木川」、「日本橋川」と運搬され、日本橋の市場に到着しました。また、行徳の塩や近郊野菜なども運ばれ、江戸市中の台所を賄いました。

そこで、「新川」、「小名木川」と探索してみます。船旅という企画・コースもあるようですが、今回は自転車編。

まず、「新川」編。都営新宿線「一之江」駅から南下します。「新中川」沿いに進み、「旧江戸川」に。その先で「新川」へ。

          

新川の歴史 

江戸時代──「塩の道」新川

新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。
天正18年(1590)行徳の塩を江戸へ廻送するため舟運が始まる
寛永6年(1629)三角渡し(現在の三角橋)以東が開削され新川と呼ばれるようになる
寛永9年(1632)幕府特許の客船「長渡船」就航
 
明治・大正時代──蒸気船運航

明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を開始。最初に登場したのは長距離路線で、東京 - 銚子間を結び、成田参詣の客に人気となりました。総武鉄道の運行と共に短距離路線へと移り変わり、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始め、浦安と江東区の高橋の間を往復していました。

明治・大正時代 蒸気船運航

昭和時代──運河から憩いの水辺へ

昭和に入ると荒川放水路が完成。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成。時代は徐々に陸上交通に移って行き、東に大きく流れを変えた中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられました。
新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになりました。新川は船の就航は行われなくなり、1979年(昭和54年)に船堀閘門も閉鎖されましたが、都市空間の中の貴重な水辺として親しまれてきました。

平成時代──新しい集いと憩いの川辺づくり「新川千本桜計画」

新川千本桜計画

1992年(平成4年)からは、東京都による護岸工事・耐震工事が行われ、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られました。
江戸川区では歴史あふれる新川を地域の人々の心の故郷・誇りとしていつまでも慈しんでいただけるよう『新川千本桜計画』を開始しました。新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間の創出を図っています。 「江戸川区 新川さくら館」はその中心部に位置し、新川の歴史を伝えるとともに、訪れる人びとの交流の拠点づくりを目指して運営を行っております。

(この項、「」HPより)

1880年代のようす。

2010年代のようす。

※「旧江戸川」にある島は、「妙見島」。

工事の概要。「新川東水門」工事。

                 

「新川口橋」から東を望む。新川東水門」。

橋のたもとの公園から西を望む。

解説・案内図。新川千本桜」。

 

かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。天正18年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳まで、道三堀・小名木川と共に開が計画され、実行されました。

寛永6年(1629)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。

新川は江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本から様々な物資を運び、客船が行き交う重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。

しかし、昭和に入り、荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。

その後、平成5年より耐震護岸整備・親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。

新川千本桜

平成19年4月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を始めました。新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創設のために江戸情緒あふれる川辺づくりや南北地域の和がいっそう広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。

春には20種、718本の桜が遊歩道を行き交う人々の目を楽しませているそうです。

左の浮世絵は「名所江戸百景 利根川ばらばら松」歌川広重

この利根川は現在の江戸川(旧江戸川)です。場所は新川東水門付近か妙見島あたりといわれています。帆船や筏が通航し、松が風趣を添えていました。大きく投網が描かれています。

 

公園の傍らに新川梨」について。

享和(1800年頃)のとき、大塚宗蔵は新川の南で梨の栽培を始めた。改良を重ね文政4年(1821年)の秋収穫した梨を幕府に献上し好評を得、その後も毎秋幕府に納めた。

この梨は、甘く柔らかく歯切れがよく天下にない味覚で「新川梨」と呼ばれ江戸の町でも売られ、新川周辺で栽培も広まったが大正6年(1917年)の大水害で被害を受け、その後梨栽培は衰退した。

文政8年(1825年)宗蔵の子吉豊は父の一周忌にあたり業績を刻んだ石碑「楽誉君梨種梨樹碑」を梨園に建てた。

この碑は、現在大塚家の菩提寺今井の浄興寺に移されている。

平成27年3月 江戸川区

さて、西に向かって出発です。             

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旧原田米店・松戸探検隊ひみつ堂。納屋川岸跡。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その6。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-29 19:36:08 | 鮮魚街道

                     「松戸宿」の提灯。

旧水戸街道(「流山街道」)を北上します。

右手に古民家。

 

以前来たときには、

松戸探検隊ひみつ堂」というのぼりがあって、観光案内を兼ねた休憩施設になっていました。現在は開いているような気配がありません。しかし、奥にはやはり古い建物が建っています。

古民家スタジオ 旧・原田米店とは

かつての宿場町「松戸宿」の一角、そして松戸駅前のマンション群のど真ん中に、まるで奇跡のように残っている古民家群です。400坪近い敷地に大小5つの建物が並ぶ物件です。今では道向かいに移転した「おこめのハラダ」さまから敷地全体をお借りしてMAD Cityが運営しています。
今では地域のランドマーク的な存在で、路面は築100年強の風格ある古商家になっており多くの通行人を集めるテナントになっています。その脇から入る庭はかなりの奥行きで裏庭まで続いており、やはり築100年強の古民家をはじめ、昭和期の一軒家やガレージなどがアーティストやクリエイターのスタジオとして活用されています(住居使用はできません)。

(この項「」HPより)

向かい側にある現在の「原田米店」。

この建物の裏手に「古民家スタジオ」が。

「西蓮寺」のところを左折します。「坂川」に架かる「堂の口」橋を越えると、「納屋川岸跡」になります。

 

右手に、かつての船問屋「青木源内」家。

青木源内家の復元された塀。

  

銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり、布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代、松戸の主産業は船運であり、ここが重要な基地になっていました。

 

  

 

松戸の河岸は「源内」(青木家:納屋河岸)と「太兵衛」(梨本家:下河岸)の二軒の船問屋が中心となって発展しました。宝暦5年(1755)1~2月、布佐河岸源左衛門から納屋河岸源内あての鮮魚輸送量は<1月>897籠(約10t)、<2月>4509籠(約50t)という記録が残されています。※当時の「一駄(馬一頭に乗せる貨物)」は三十貫が限度で約110kg、鮮魚では10籠に相当。船一隻あたり鮮魚300籠に相当。

 松戸河岸を出た船は、江戸川~新川~小名木川を経て水路で直接日本橋の魚河岸に入りました。
 この経路は鉄道開通後も東京市内の鉄道網やトラック輸送が整備されるまでは活用され、常磐線からの貨物が松戸から東京市内まで水運で運ばれた時代もあったそうです。

※この解説では歴史的に「良庵河岸」という名称を用いましたが、現地では旧良庵河岸一帯から坂川までの地域も昔の河岸場も「納屋川岸」と総称しています。

○付近が、「納屋川岸」。

 

(この項「」https://sites.google.com/site/matsudosyuku/home/suiun-to-kawagishi より借用)

江戸川土手に上がってみます。

      

遠くにスカイツリー(↓)。夕暮れはさぞかし、すばらしいでしょう。

ジョギング、自転車、散歩とけっこう行き来しています。海から19.75㎞

土手下を望む。

1880年代のようす。○が青木家か?

2010年代のようす。○に青木家の塀が復活。対岸は、「水元公園」(葛飾区)。

ここから江戸川を下り、「新川」、「小名木川」を通り(その間、「中川」、「隅田川」を横断し)・・・、日本橋の魚市場へ。大変な距離です。

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川贈沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けにした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正12年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市関係者が建立した記念碑があり、碑文には、上に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

 平成19年3月 中央区教育委員会

 背後にあるのは、竜宮城に因んだ「乙姫像」。

これで、「鮮魚街道」終了。後半は、市街地を歩くだけでしたが、松戸にはまだまだ旧跡があるようです。機会があったら再訪したいと思います。

次回は、「鮮魚街道」つながりで、「木下街道(きおろしかいどう)」を行徳から木下まで歩こうと思います。

 

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「千葉大園芸学部」。戸定が丘歴史公園。水戸街道。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その5。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-28 20:30:29 | 鮮魚街道

                 「国道6号線」にぶつかります。

「千葉大園芸学部」の敷地内を進みます。

大学内に入らずにその敷地沿いに進むのが、「鮮魚街道」のようでした。

そのまま構内を進んでしまいます。

さらに、「戸定が丘歴史公園」脇に。

 

中には入りませんでしたが、紹介します。

敷地内に戸定邸や戸定歴史館があり、明治ロマンのある公園です。春には梅や大きなしだれ桜が、秋にはモミジなどが色づき、四季折々の草木が美しい公園です。

戸定邸は幕府最後の将軍 徳川慶喜の弟、徳川昭武が明治17年に別邸として建設し、後半生を過ごしました。昭和26年に市に寄贈され、平成3年に周囲の敷 地2.3ヘクタールが「戸定が丘歴史公園」として整備され一般公開されました。平成19年に「日本の歴史公園100選」に選ばれています。

(この項、「」HPより) 

                                                                          (「歴史的農業環境システム」より)上部が「戸定が丘歴史公園」、その南が「千葉大園芸学部」。「鮮魚街道」は、その縁を進み、跨線橋を渡る。

 

そのまま進み、跨線橋に(本来の道筋は少し南にある跨線橋を渡らなければなりませんでした)。

 

旧水戸街道に出て、右折します。

ここまでの旧道・水戸街道はかつて歩いています。そこでその時の写真などを。

  

「小山樋門(煉瓦橋)」。

「旧松戸宿本陣跡」。

松戸宿
 水戸街道千住宿から2つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市松戸・本町にあたる。
 江戸時代には江戸川に橋は架けられておらず、渡船となっていた。松戸側にも渡船場跡付近に天領を示す御料傍示杭が建ち(現在はその付近に石碑が立つ)、そこが松戸宿の江戸側の端となっていた。
 松戸宿近在の農家には江戸川対岸に農地を持ち、自家用船で川を往来する者もあった。
 松戸の宿場町は南北に約1キロほどの範囲に広がっていた。松戸はまた、物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。運河としても使われた坂川が市街地を横切って流れている。
江戸川に隣接した松戸宿は物資の中継地として大変賑わった宿場で、
 天保14年(1843)の水戸佐倉道宿村大概帳によると、本陣1、脇本陣1、旅籠28、家数436とある。

大きなお屋敷。

  

宿内を流れる「坂川」に架かっていた「春雨橋」のところにある「松戸宿 坂川の歴史」解説板」


 古くからここには水路があり、街道をよこぎっていた。橋は水戸石橋と呼ばれていたとつたえられている。
のちにかわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。
松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で街道の東側は田畑が広がっていた。
米が豊富な宿場では餅菓子や煎餅などを売る店が多かったと言われている。

「春雨橋」を過ぎた、その先、左に剣豪千葉周作の実父、浦山寿貞の墓と、周作の剣の師である浅利又七郎の供養碑がまつられている「宝光院」があります。

  

千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
 幕末の剣豪・千葉周作は文化6年(1809)15歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠右衛門(幸右衛門)は浦山寿貞と称してこの参道付近に開業します。また、幼児から剣術に長けていた周作が入門した浅利又七郎の道場が宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
 周作は又七郎の下で才能を開花、23歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
 修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの徒弟を輩出するに至りました。
 浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養費がまつられています。
 周作の父、浦山寿貞は天保2年(1831)に没、その墓所もこの境内にあります。
 「千葉周作修行之地」標柱の材木は旧松戸宿本陣の大黒柱です。

旧松戸宿解説板。
 松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数は450余りを数え、商いには28軒の旅籠をはじめ、鍛治屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結い、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞄屋等のあらゆる商売の店が軒を並べ、六歳市(6回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
 また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根・江戸川流域の水上輸送もありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚・藤ヶ谷(柏市)・金ヶ作(現常盤平)を経由して松戸河岸まで陸送し、ここから江戸へ送られました。
 銚子方面から江戸への陸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も利用され、鮮魚(「生」)街道と呼ばれました。

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「フィオリの丘」。美野里ハイタウン。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。番外編。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-27 21:17:18 | 鮮魚街道

            「美野里ハイタウン」時代の地図。団地になっています。(「今昔マップ」より)

開発前のようす。雑木林がなくなり、整地されている1970年代のようす。

解体前の写真。(「美野里ハイタウンNEWS」より)

和名ヶ谷地区は、もと葛飾郡に属し、1889年(明治22年)の町村制施行時には東葛飾郡八柱村であった。八柱村は1938年(昭和13年)、松戸町に編入。もともとこの地区は雑木林であった。1976年に美野里ハイタウンが建設された。美野里ハイタウンは1980年代後半に最盛期を迎えたが、1993年頃になると、空き部屋が目立つようになり、2004年に住民は立ち退かされた。

和名ヶ谷地区の人口は平成10年10月1日(984世帯・3,109人)から令和2年7月末日(2,571世帯・6,444人)までの22年で約2倍近くになっている。

(この項、「Wikipedia」参照)

傍線部にある「美野里ハイタウン」の跡地が現在の「フィオリの丘」一帯となってなっているようです(一部は、その後の開発地域を含む)。

上記の「1993年頃になると、空き部屋が目立つようになり、2004年に住民は立ち退かされた」というような言葉で一括りされない実態があったようです。ネットをみると、「美野里ハイタウンNEWS」、「美野里ハイタウン資料室」などでその経過、立ち退かざるを得なくなった住民の方々の思いを垣間見ることができました。

大地主が個人の敷地を開発し、社宅のようなかたちで団地がつくられたようですが。その会社が倒産し、負債を抱え、土地は、別会社の手に。三井生命、神戸製鋼、川崎製鉄、九州石油、三菱、東芝などの社宅が、次々と引き上げてしまう。そのあと新しい入居者が入らなかった部屋や棟もあり、徐々に空き部屋が増えていく。子ども会がなくなって定期的な掃除をしなくなり、また、大家さんによる樹木の剪定や雑草の刈り取りといったメンテナンス、ゴミ集積所の掃除などが行われなくなって、次第に団地の中は荒れていく。粗大ゴミの不法投棄も目立ち始める。建物は解体され、その後、現在のマンショや戸建て分譲住宅というかたちで再開発されたようです。

 

 

それから15年以上が経過。すっかり変貌した街並みになっています。

                          2010年代のようす。(「歴史的農業環境システム」より)

フィオリ (イタリア語: fiori)=「花」の複数形。

 

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新京成線路線図。「二十世紀」。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その4。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-26 18:53:02 | 鮮魚街道

                  県道に戻って先に進みます。

「セブンイレブン」の先を左の道へ。

                      

新京成線「みのり台」駅が右手に。「津田沼」に向かう電車。

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線。2010年代のようす。

ほぼ直線で歩く「鮮魚街道」にもかかわらず、「五香」駅で接し、さらに「八柱」、「みのり台」とたどることになったわけです。下図でも分かるようにくねくねと曲がった線路になっています。(移動距離に比して道程が長く、津田沼駅 - 松戸駅間は直線距離約16 kmに対し道程26.5 kmである。)

新京成線路線図」。

本路線大半の区間は旧日本陸軍鉄道連隊演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)であり、第二次世界大戦後の京成電鉄への払い下げを経て民間利用されているものである。(松戸駅 - 上本郷駅間は新たに建設された区間)

第二次世界大戦での日本の降伏後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線のレールは西武鉄道に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道と京成電鉄は早くからこれに着目していた。最終的に営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、1946年3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは1955年)。京成電鉄は同年10月に子会社として新京成電鉄を設立した。予定通り1947年12月27日に新津田沼駅 - 薬園台駅間を軌間1067 mmで開業している。

演習線は規定の線路延長(45 km)を確保することと、様々な状況での路線敷設演習のために急曲線が多数介在する屈曲線形で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図るも現在なお良好な線形でない。演00習線軌間は600 mmと極端に狭隘だったが京成電鉄払い下げ時に1067 mm(3フィート6インチ)へ改軌される。払い下げ以後、新津田沼側から延伸し、建設資金不足から一時期は常磐線松戸駅までの全通を諦めて初富駅 - 松戸駅間にバスを運行するも、三菱電機の支援で敷設工事を再開して松戸駅まで全通する。なお、松戸駅 - 上本郷駅間は旧軍用線ではなく、全くの新線であるため、台地を切り崩す工事が行われた。切り崩しで生じた残土を利用して平潟土地整理事業がなされた。開業当初、開発が進んでいない沿線付近は雨や解けでぬかるむ道路を駅まで歩き革靴やハイヒールへ履き替える乗客が多く、松戸駅延伸開業時は各駅に下駄箱設置もみられた。

全通は地域の人々から暖かく迎えられ、数々の恩恵を受け、近所の農家から赤飯、夕飯のおかず等の差し入れが度々あったという

古くは松戸新田駅やみのり台駅などの5駅が小さな駅舎で一人勤務のワンマンボックス駅(一帖未満の小さな建物)だった。

1953年10月、全線の軌間を1372 mmへ、1959年8月に1435 mmへ改軌する。親会社の京成電鉄よりも早期の改軌で、京成電鉄の改軌予行演習も意図したと推察されている

注:新京成電鉄の線路はなぜ曲がっているのか(曲線が多いのか)?」とのテーマから、旧日本陸軍鉄道連隊や戦争の歴史学習へ導く記載が、高校日本史教科書の一部に見られる。

(この項、「Wikipedia」参照)

踏切を越え、県道へ。

左側には工業団地が続きます。その先、「スーパー銭湯 湯楽の里松戸店」のところを曲がります。

  

この付近の今昔。

1880年代のようす。2010年代のようす。○が分岐点。

           「国道464号線」までの道のりは、けっこうあります。途中、広い通りに出ると左右にはこじゃれた建物が並んでいます。

「フィオリの丘」というこれも洒落たバス停。実に数奇な歴史があったのです。それは詳しくはもう少し調べた後で。

「美野里」交差点。

国道沿いの道が旧道。

 

松戸市のマンホール。コアラと市の木ユーカリ。
松戸市はオーストラリアのビクトリア州ホワイトホース市と姉妹都市を結び、ユーカリが市の木に指定されました。

この旧道沿いの左手には大きな屋敷が目立つ。

国道に復帰。

この付近は、「二十世紀が丘美野里町」。

ごみ溜めから生まれた「二十世紀」ナシ


松戸覚之助の大発見

 

 20世紀もそろそろ残り少なくなってきた。そこで、この100年を見事に輝きつづけてきた品種の話をしておきたい。その名も「二十世紀」ナシ。 他の農作物をみても、これほど長い間高い評価をもち続けた品種はない。二十世紀とは、よくこそ名づけたものである。

 ナシの二十世紀は、明治21年に千葉県八柱村(現・松戸市)の松戸覚之助によって発見された。この大品種も、もとは親類のごみ溜めに自生していたみすぼらしい幼木だったという。 当時13才の覚之助少年がこのちょっと変わったナシに目をつけ、自園に移植したところからこのドラマははじまる。

 松戸地方は江戸時代からナシの産地だが、覚之助の家はちょうど2年前にナシの栽培をはじめたばかりだった。ナシ作りに未来を託そうという一家の意気込みが子供にまで伝わって、 覚之助がこの幼木に興味をもつ結果になったのだろう。

 もっとも、覚之助の偉かったのはここからである。幼木は黒斑病などの病気に弱く、彼の熱意がなければ枯死していたに違いない。10年にも及ぶ丹精のかいあって、 はじめて実がなったのは明治31年だった。食べてみると、甘く果汁に富む。早速「新大白」と名づけ、世に問うことにした。

 明治37年、当時広く読まれた「興農雑誌」には「驚くべき優等新梨(新大白)の紹介」という記事が載った。 「其味の優等甘味にして漿液最も多く恰(あたか)も甘き西洋梨の如く且つ少しも口中は渣滓を止めず実に完全の梨果と称するを得べし…」と激賞している。 当時としては、抜群のおいしさだった。

ナシの木をイメージした二十世紀公園のモニュメント。このあたり、昔はナシの花が美しかった。  絵:後藤泱子 二十世紀と改名されたのはこの年である。西暦1904年、日露戦争が勃発した年でもあった。戦争後の好景気とともに、全国各地で栽培面積を増やしていった。

 二十世紀の産地としては、今では鳥取県・長野県が有名である。地元の千葉県は降雨が多く、病気にかかりやすいため栽培がむずかしかった。 最盛期の全国栽培面積は6000ヘクタールを上回り、昭和47~63年の間は全栽培品種の王座に君臨した。

 現在は「幸水」「豊水」についで3位だが、この両品種とも二十世紀の血を受け継いだ子孫に当たる。覚之助の偉業はますます輝きを増しているというべきだろう。

 二十世紀の原木は天然記念物の指定を受けていたが、太平洋戦争の空襲で枯死し、記念碑のみが残っている。この辺りは戦後の区画整理で街に変わり、 わずかに「二十世紀が丘」「梨元町」の新地名が当時をしのばせる。

 とはいっても、覚之助に対する追慕の念が地元から消えたわけではない。平成2年の8月から7週間、松戸市文化ホールでは特別展「はばたけ二十世紀梨、 松戸覚之助の大発見物語」が開催された。市立博物館には「二十世紀梨特別展示室」があり、原木の遺片が今も参観者の興味をそそっている。

(西尾 敏彦)



(「農業共済新聞」 1996年12月11日 より転載)

(この項「」HPより)

「分実(わかさね)」交差点。千葉には難読の地名が多いようです。

「国道6号線(「水戸街道」)」へ向かいます。

 

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八柱。「金ヶ作陣屋」。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その3。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-23 20:47:37 | 鮮魚街道

                           「子和清水」から北に延びる「けやき通り」。

「新日本街路樹百景」に選ばれています。

                                                                          2010年代のようす。中央(「子和清水○」)から北に続く「けやき並木」。

南北に通じる道路として「さくら通り」が2本、「けやき通り」。東西の道路には、それぞれ「やまもも」「はなみずき」「ゆりのき」「えんじゅ」などと名づけられた通りがあります。

デニーズのところを右に進み、「八柱」駅方向へ。

「さくら通り」。

左手が新京成線「八柱」、武蔵野線「新八柱」駅方向。

旧八柱(やはしら)村

明治22年(1889年)、大橋・秋山・高塚新田・紙敷・和名ヶ谷・河原塚・田中新田・串崎新田の8ヶ村の合併によって発足する。これらの村々は同一戸長役場・学区に所属しており、農村地帯であった事に由来する。村名の「八柱」は8つの地域(旧村)が一致協力して新村の柱となり、民福増進にあたると言う意味

当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、ネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。                       

昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。

ところが、関東大震災で村立小学校(八柱尋常高等小学校、現在の松戸市立東部小学校)など多くの建物が倒壊しその再建の為に多額の負債を抱えた。更に世界恐慌が追い討ちをかけ同村財政は破綻寸前となる。

そこで昭和13年(1938年4月1日、八柱村は市制施行のために周辺との合併を進めていた松戸町に事実上の救済合併の形で合併されてその歴史に幕を閉じた。50年前に作られた「八柱」の名が残ったのは東京市の八柱霊園のみであった。

通称としての「八柱」

一旦使用されなくなった八柱という地名は、その後位置をずらして復活する。第二次世界大戦後に同地域に鉄道が開通するようになると、広く知られていた八柱霊園の最寄り駅ということで、新京成電鉄八柱駅(読み「やばしらえき」)、次いで国鉄(現・JR武蔵野線新八柱駅(読み「しんやはしらえき」)が開設された。そのため八柱霊園と駅を囲んだ一帯が今日において八柱という通称で呼ばれることがある。しかし両駅ともその所在地は旧八柱村内ではなく北隣の旧高木村に属していた場所に該当する。

そのため、現在において実際の旧八柱村中心部に一番近い駅は東松戸駅である。今日の八柱という地名は旧八柱村内には存在していないことになる。

(この項、「Wikipedia」参照)

「(常盤平)陣屋前」という表現が。「金ヶ作陣屋」があったことから。

金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)

下総国葛飾郡金ヶ作(現在の千葉県松戸市常盤平陣屋前)に設置された江戸幕府陣屋。主に小金牧などを管轄するために設けられた。

正確な設置年代は不明であるが、現地を治めていた野方代官が小金牧方面に用事がある時には、従来は江戸から現地に向かっていたのに対して、小宮山昌世(杢之助)が野方代官であった享保8年(1723年)8月を境として陣屋を活動の拠点としていること、小金牧の牧士の末裔とみられる三橋氏に伝えられる「従野馬始之野方万控」(鎌ケ谷市教育委員会所蔵)には享保8年に新しい陣屋が取り立てられたことをその詳しい間取りとともに記している(ただし、別の頁には陣屋設置を享保6年(1721年)とも記しているため、正確な設置年代を示す証拠にはしがたい)ことから、享保8年頃の設置とみられている。その背景には、将軍徳川吉宗の下で馬の育成が重視されたこと、同じく吉宗が推進した新田開発に小金牧の一部が充てられたことがあったとみられている。代官はここで野馬奉行らを指揮して小金牧の管理にあたった他、当該代官支配下の村々(小金牧の外側の地域含む)における訴訟業務も取り扱っており、陣屋内には白洲も設けられていた。また、江戸の公事宿2軒が金ヶ作に招かれて訴訟業務に参画した。

(この項「Wikipedia」参照)

「金ヶ作陣屋前緑地」。(「Googleマップ」より)

踏切を越えた右手、新京成線と武蔵野線とのあいだにあります。

この付近の歩いた道は旧道ではなさそう。一部(↓)が旧道か? 

1880年代のようす。

2010年代のようす。

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五香。「子和清水」。小林一茶。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その2。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-21 20:22:19 | 鮮魚街道

                       「さくら通り」。

六高台さくら通りの写真

 六高台のさくら通りは、道幅29メートルの広い道路の中央に緑地を設けた約1.1キロメートルの通りです。約200本のソメイヨシノが植えられ、毎年4月初旬の「六実桜まつり」では、さまざまなイベントが行われ大変賑わいます。

(この項「」HPより)

少し左にカーブし、再び直線道路に。

その先に長く伸びる緑地帯(多目的広場)。

先ほどの「さくら通り」もそうですが、住宅地にする際、計画的に作られた通りのようです。

       

                  

1970年代のようす。                2010年代のようす。

沿道には大きなおうちが目立ちます。

          

                

かつての(まだ現役の)農家のようですが。

松戸市のマンホール。絵柄は「矢切の渡し」。

「五香十字路」。新京成線「五香」駅にはすぐ。

新京成線を地下道でくぐります。その先を左折し、さらに右へ。

旧道らしき道の東側には商店街。

この地域は「五香」というよりも「常盤平」という言い方が馴染み深い。

                     2010年代のようす。↓が「鮮魚街道」。

                     1880年代のようす。畑ばかりで民家はなし。

地図では「鮮魚街道」には、「至 松戸」と記されている。この付近は、小高い丘陵地帯となっている。

右手に「松戸市立常盤平中学校」。

県道に出会うところに「子和清水」があります。

むかしこの近くに酒好きの老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに外から帰るときには、酒に酔っている。
息子がいぶかって父のあとをつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って、さもうまそうに「ああ、旨い酒だ」といって飲んでいた。

父の去ったあと子が飲んでみると、ただの清水であった。

この話を聞いた人々が「親は旨酒、子は清水」というようになった。

各地にある子和清水、古和清水などはこうした伝説によるものです

窪地をのぞき込むとブロンズ像などが。

そこで、回り込んで、降りてみます。

金ケ作(現松戸市常盤平)にある湧水池で子和清水伝説の地とされ、現在は周辺開発により枯れてしまいましたが、松戸市により「子和清水1号緑地」の一部として井戸水を汲み上げて保全されている、とのことです(循環式)。

 

緑地の中央に」が。


                    子和清水像」。

さらに奥には「一茶句碑」。

            母馬が番して呑(ま)す清水かな

 『八番日記』 文政二年(1819)小林一茶 57歳の作。なかなか味のある句です。

このブログでも行く先々で出会った一茶の句碑、句を載せています。

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る《江東区大島》

 陽炎や道灌どのの物見塚《日暮里》

 

昼顔やざぶざぶ汐に馴れてさく《富津岬》
大汐や昼顔砂にしがみつき《同》

艸花やいふもかたるも秋の風《房総往還》
蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉《同》

藤棚や うしろ明りの 草の花《木更津》

やせ蛙まけるな一茶是にあり《日光街道》
蝉なくや六月村の炎天寺《同》

時鳥 吾が身ばかりに 降る雨か《日光例幣使街道》

有明や 浅間の霧が 膳をはふ《中山道》

坂本や 袂の下は 夕ひばり《同、以下も同じ》

手枕や 小言いうても 来る蛍
とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
山伏が 気に喰ぬやら 行蛍

はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)《東海道》

一茶は生涯で21,200句ほど詠んだそうですから(芭蕉:約1000句、蕪村:約3000句。その分、「玉石混淆」は否めない)、芭蕉の句碑と同様、各所に句碑があります。

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