おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

城ヶ島めぐり。その3。角川源義句碑。ウミウ生息地遠望。馬の背洞門。

2022-08-30 20:09:07 | 三崎口

       ウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地展望台を経て、西に向かいます。

城が島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生育地。

城ヶ島の南側、太平洋の荒波を受ける断崖は高さ約30㍍、幅2キロメートルに及び、自然景観もよく残されている。この崖の中ほどやや東に位置する赤羽根海岸周辺には、崖面の岩棚や割れ目にウミウとヒメウ、それにクロサギが生息することでよく知られている。

ウミウとヒメウはウの仲間で、夏期は北日本などの冷涼な地域で繁殖し、冬季には温暖な地方へ南下して冬を過ごす。城ヶ島においては、例年10月末頃から渡来し、少数のヒメウのほか、最盛期のウミウは千数百羽を数え、やがて春になると北へ帰っていく。一方、クロサギは、南方系のサギで、太平洋側では房総半島や城ヶ島を北限域とする。体は黒く見えるが、くちばしと足が長くて黄色がかるので、全体は黒色に見えるウミウやヒメウと区別できる。

城ヶ島赤羽根海岸周辺は、往時よりもウミウの渡来数が減少しているが、なお関東地方最大規模の渡来地として重要であり、またクロサギの太平洋側分布北限地の一つとして学術上きわめて貴重である。

その途中にあった句碑。

               火の島へ 一帆目指すよ 芋の露 源義

この俳句は、角川源義昭和39年の作。

・・・帆をいっぱいに追い風をはらんだ帆掛け舟が大島に向かって走っている情景、芋の露(季語=秋)は、生長した里芋の葉に夜露や雨が溜まってきらきらと輝いているようす。

角川源義(俳号―源義)大正6年富山県生まれ、昭和20年角川書店を創立、・・・ことに三浦半島の風光を愛し、しばしばこの地を訪れている。

眼下に太平洋が広がる。

ウミウのモニュメント。

              海風の強さから高い木はない。

赤羽根海岸・断崖。

                奥の崖が、ウミウたちの生息地。

白秋文学コース ウミウ展望台

三崎城ヶ島は鵜の鳥島よ 潮のしぶきで鵜が育つ

城ヶ島の白百合の花大きければ 仰ぎてぞあらんあそびの舟は

               (「Wikipedia」より)

樹木に覆われたところも。

視界が広がってきます。

急な階段道を下ると、目の前に「馬の背洞門」。

           馬の背洞門

これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に浸食されてこのような見事な形となったものです。地層は第三紀層、鮮新統、三浦層に属し土質は凝灰質砂礫岩という軟らかい岩質です。高さ8㍍、横6㍍、厚さ2㍍で、土地の人は「馬の背洞門」のほか「めぐりの洞門」「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けられたものです。

明治の文豪、大町桂月はここを訪れて次のように述べています。「―馬の背に至る、怒涛脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突き出す。云々」

※落石等の危険があるため近づかないでください。

                                            (「解説板」より)

       

ここを訪れたのはこれで3回目ですが、この自然の造形にしばし魅入ります。

周囲の景観。

      岩畳。

海岸の岩伝いに歩くこともできますが、崖の上を歩いて「城ヶ島灯台」の方へ。

               

「馬の背洞門」を見下ろす。

展望台へ。

遠くに「馬の背洞門」。

「城ヶ島灯台」が見えてきます。

坂道を下り、海岸へ。

ここから右に折れて「城ヶ島」バス停に向かいます。炎天下の歩きでしたが、城ヶ島の南側を東から西へと変化に富んだ歩きでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城ヶ島めぐり。その2。城ヶ島公園。城ヶ島・首都防衛の最先端。砲台・観測所・展望台。安房埼灯台。

2022-08-29 21:00:59 | 三崎口

                公園案内図。

松虫に ささで寝る戸や 城ヶ島 たかし

秋の夜 松虫が鳴いている 島の漁家は戸締まりをしないまま 松虫の鳴く声声につつまれて安らかな眠りに入っている

この俳句は 松本たかし昭和13年(1938)の作。当時、この城ヶ島には大橋はなく、三崎との渡し舟が唯一の便であった。さらに東京湾防衛の要塞地帯で、島へ渡るのには軍の制約があり、殊に夜に渡る人など稀であったことから、初秋の夕べには虫の鳴きこぞる島となった。島の漁家のいとなみは、素朴そのもの。松虫の鳴く頃は、涼をとるため蚊帳を吊って、雨戸を開けたままで寝ている。このような島の叙情が、たかしの高い詩心によってうたいあげられた。

松本たかし=子規・虚子の写生を根本とした俳人。三崎の風光を愛し、ししばしば来遊。

        

上記のように、城ヶ島は明治以来、首都防御の最先端であったようです。

「歴史的農業環境閲覧システム」によると、城ヶ島の東京湾側は地図に掲載されていませんでした。

1880年代のようす。東半分が掲載されていません。軍事機密だったのでしょう。

2010年代のようす。城ヶ島全景。

公園内を回ってみます。しかし、炎天下で、もう汗が噴き出します。

眼前に東京湾が広がる。

                      左手は、三浦半島。

ハマカンゾウ。

「展望台」からの眺め。ここは、城ヶ島砲台・要塞(観測所)跡に建てられています。

※「城ヶ島砲台」

除籍となった戦艦安芸の主砲45口径25cm連装砲塔2基などが設置されていた。砲座跡が駐車場花壇となっている。

駐車場内にある砲台跡(↓)。

安房埼灯台 が向こうに。

         左手、対岸は、房総半島。

     相模湾。

三崎港方向。

       西の方を眺める。

安房埼灯台」に向かいます。

この先の奥には、岩場が続きます。かつての灯台跡も。釣り人以外は立入禁止?

2010年代のようす。

旧安房埼灯台跡。(「Googlマップ」より)

      

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城ヶ島めぐり。その1。城ヶ島大橋。北原白秋碑。

2022-08-28 21:00:04 | 三崎口

                     城ヶ島大橋。

久々の三崎口駅。そこからバスで、城ヶ島へ。久々。7.8年ぶり? 

今日は、一転して雨模様。しかし、昨日、8月27日(土)は、快晴。暑い日差しに参った、参った。

                  遊覧船が通過。

「城ヶ島大橋」解説板。

三崎港の天然の防波堤城ヶ島は、北原白秋の詩で有名な島です。漁港の整備のために、従来の渡し舟にかわって三崎と島を結ぶ城ヶ島大橋が昭和35年(1960)4月に完成しました。

城ヶ島大橋は、全長375㍍、幅7㍍の車道、その両側に幅2㍍の歩道があります。我が国では最初の本格的なもっとも長い鉄鋼の橋で、はこ形の橋桁を用いて軽量化をはかり、高度の技術を用いて2020トンの重量にも耐えられるようにしてあります。

橋脚の海面からの高さは、最大で23.5㍍、海面下は18㍍で、安定度の高い構造で千トン級の船がこの下を楽に航行できるボックス・ガータ式の橋として当時は東洋一を誇っておりました。・・・

この橋の下に北原白秋の碑があります。

雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる(草書)※白秋の自筆。

全文は、

雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる

雨は眞珠か夜明の霧かそれともわたしの忍び泣き

舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆あげたぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気

雨はふるふる日はうす曇る舟はゆくゆく帆がかすむ

                         

「城ヶ島の雨」は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。(大正8年白秋小唄集覚え書より)

昭和24年7月10日、建碑が除幕されました。高さ3m余、下太の帆型の根府川石で、城ヶ島の雨の一節の草書は白秋の自筆です。
昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転され、梁田貞の譜碑が添えられました。

この詩碑は、白秋謝恩の文学記念碑として本来第1号の碑となるはずでしたが、戦時中、城ヶ島は要塞地帯に指定されたため実現しませんでした。白秋が生前希望した「帆型の石が荒磯に突き差したように」を具現して建てられました。

「城ヶ島の雨」は、大正2年10月27日夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅道に渡したと言われています。
大正2年10月30日、東京有楽座で作曲者梁田自身の独唱で発表されました。

(この項、「」HPより)

※「利久鼠の雨」とは、暗い緑に灰色をまぶしたような雨のこと。

橋の下の磯で遊ぶ親子。

「城ヶ島公園」に向かいます。

駐車場からの城ヶ島大橋。

「白秋文学コース 遊ヶ崎」。

しんしんと 夕さりくれば 城ヶ島の魚籠押し流し 汐満ちきたる

城ヶ島 さっとひろげし投網のなかに 大日くるめきにけり

遊ヶ﨑は鎌倉時代、源頼朝が遊覧のおり諸将と共に宴席などを催したところからその呼び名が生まれたといわれ、白砂の美しい海岸で埋め立て以前は海水浴場となった時代もあります。

三崎港を隔てた向ヶ崎に住んだ白秋は、朝に夕に、月齢の応じた汐の干満に、詩境を展開していったのでした。

さんさんと 海に抜手を切る男 しまし目に見え昼ふかしも

海峡の自然に誘われ、その魅力に沈潜してゆく姿や遊ヶ崎に遊泳する人々の躍動に、白秋の心の描写がうかがわれます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸磯湾~油壺湾めぐり。その3。磯遊び。三浦一族資料館。油壺マリンパーク閉館・キャンプパーク。三浦道寸の墓。胴網海岸。

2022-08-10 20:03:30 | 三崎口

              「荒井浜」は、この付近では一番大きなようです。

渚の中央が砂浜で、左(南)右(北)が岩場になっていて、泳ぐだけでなく、磯遊びも楽しめる場所。

                 

磯遊びを楽しむ。

    

                 向こうに見えるのは、「諸磯崎灯台」。

浜辺には、「三浦一族資料館」。

そこから海を望む。

北側の岩場。

海を望む。

さて、次の海岸へ。

                 この付近は、リアス式海岸になっていて、海岸線が入り組んでいます。

「油壺マリンパーク」が閉館になり、再開発の予定に。

・・・

マリンパークは相模湾を望む三浦半島の先端部の高台に位置し、当時は東洋一とされた大回遊水槽などを有した施設として1968年に開業。葉山御用邸(同県葉山町)にも近く、皇族が非公式に訪れることも多かったという。81年には屋内でイルカなどのショーを観覧できる施設もオープンし、近年も週末を中心ににぎわいをみせた。建て替えの議論なども浮上したものの、京急電鉄は2021年5月に老朽化などを理由に閉館を決めたという。

決定後には閉館を惜しむ客の来訪が増加。新型コロナウイルスの影響で来場者を2500人に限定しているものの、駐車場や近隣の道路が慢性的な渋滞となった。

マリンパークによると、閉館後の動物らの移送先はすべて決まっているという。利用者の写真やエピソードを車内に掲示した京急線の列車「マリンパークギャラリー号」を運行するなどして往時を振り返るほか、オンラインを活用した情報発信なども進める方針という。

(以上、「日本経済新聞」2021年9月30日)

京急油壺温泉キャンプパークオープン

京浜急行バス停留所名称を「油壺」から「油壺温泉」に名称変更

2021年9月末に閉館した京急油壺マリンパーク周辺敷地を活用したアクティビティスポット、「京急油壺温泉キャンプパーク」を2022年1月24日(月)にオープンいたします。

都心から1時間半程度でアクセスできる「京急油壺温泉キャンプパーク」は、三浦半島西側の眺望を活かし、キャンプサイトから富士山や相模湾に沈む夕日が望めるほか、モンゴルサイトでは馬を眺めながらキャンプできる非日常を体験できます。

パーク内には、BBQ、ドッグラン、ポニーとのふれあい体験などのアクティビティが充実しており、隣接するホテル京急油壺観潮荘の小網代湾を一望できるレストランや、天然温泉の露天風呂とあわせ、エリア全体で一日楽しむことができます。また、日中は入場無料で開放いたしますので、開かれた公園として気軽に散策することができます。

京急グループは、今後も「都市近郊リゾートみうらの創生」実現に向け、地域事業者等と連携を図り、エリアの活性化を行なってまいります。

(この項、「」HPより)

「京急油壺温泉キャンプパーク」。

     初代園長 末広恭雄さんの記念碑。「愛」 魚わが友 

  

「胴網海岸」へ下る途中の駐車場脇に、「新井城跡」碑。

下り坂の途中には、

「三浦道寸の墓」解説板。

新井城城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し、450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国騒乱の世の露と消えました。

永正9年(1511)北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺)に攻めました。

そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は3年にわたり、永正13年7月11日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。

(義同辞世の歌)

討つものも討たるるものもかわらけよ

  砕けて後はもとの土くれ  

三浦道寸の墓。 

「小網代湾 胴網海岸」。

     

                 小さな浜辺で、静かな佇まい。

          

坂道を下ったところに、「横堀海岸」。

こうして油壺巡りを終了。「油壺温泉」バス停から「三崎口駅」まで戻ります。

今度、孫達と海岸に遊びに来ようかな。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸磯湾~油壺湾めぐり。その2。新井城址。油壺湾。白秋文学コース。句碑。荒井浜・カメハメハ大王の渚。

2022-08-09 20:06:31 | 三崎口

せっかくですので、油壺湾めぐりを。まず「荒井浜」に向かいます。

その途中に、「新井城」空濠・土塁跡。

「新井城址」解説板。

「油壺湾」解説板。

油壺の名のいわれは、永正13年(1516)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、3年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は、自刃、他の将兵も討ち死に、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。

「今も七月十一日には新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より雷かがやき出て両方光入り乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬駆け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

穏やかな海、ヨットハーバーやレジャーで賑わう油壺にも壮絶な歴史が刻まれているのですね。

左、油壺湾を見下ろす絶好の地に、句碑と解説板。

「白秋文学コース 油壺」解説板。

油壺しんととろりとして深し
 しんととろりと底から光り

三浦一族の哀史を秘める油壺、白秋のこの一首からも一族450年の秘話を聴くことができるようです。
大正のはじめ、この先海岸にある東京大学臨海実験場には海水を汲み上げるため大風車がまわっていました。

夕焼小焼大風車のうえへをゆく

 雁が一列 鵜が三羽

油壺から諸磯みれはまんまろな

 赤い夕日がいま落つるとこ

このように油壷には、歴史と自然の深いたたづまいハイカラさが同居していました。
 自由律俳句の荻原井泉水も「旅の印象」でこの頃の油壷の風情には詩の空気がこもっているようだと書いています。
 白秋の三崎時代の短唱「眞珠抄」が、井泉水の自由律俳句に大きな衝撃を与えることになりますが、共に油壷の水の色に感動し、作品が生まれたようです。


句碑 外海は荒れゐて 月の油壺 田辺 大愚

                          ※この方は、地元の俳人。

油壺湾。

                                              

         正面・左手奥の入り江を回り込むように歩いてきました。

諸磯湾方向。

坂道を下っていくと、

荒井浜。カメハメハ大王の渚。

荒井浜海岸を望むハワイアンな海の家

日本の水浴場88選に選ばれた透明度の高い綺麗な海の前のリゾートまるでHawaii 、癒されに来てください。プライベートビーチのような海岸で、ハワイアンミュージックを聞きながら、ゆったりとした時間が流れます。穏やかな海で、釣り・シュノーケル・カヤック・パドルボート・磯遊びをしてみませんか? (当店ご利用で、カヤック・SUPパドルボート・ボート貸し出し中)家族や仲間とBBQも一年中できます! 富士山が見える絶景のサンセットを見ながらのCOFFEEもお勧めです。 三崎のマグロ、三浦の野菜や果物を使ったHawaii料理、 Hawaiiシェイブアイスもあります。

この項「」HPより)

            

  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸磯湾~油壺湾めぐり。その1。諸磯ヨットハーバー。MISAKI MARINE。初島・利島ヨット レース遭難の碑。

2022-08-08 20:35:45 | 三崎口

久々の京急「三崎口駅」下車。「浜諸磯」(三崎港経由)行きのバスで、「尾志倉」バス停下車。

今回は、諸磯湾から油壺湾まで歩きます。

前回よりも暑さは和らいでいる感じ。でも、暑い!

道しるべ。「関東ふれあいの道」。

         このように、けっこう入江の多い道筋です。

諸磯湾。たくさんのヨットが停泊中。

諸磯ヨットハーバー。

        沖を望む。

「SOPRA(ソプラ)」(閉業)。

すぐ「油壺湾」に。ここも大きなヨットハーバー。その脇道を進みます。

             

            「MISAKI MARINE」。

大型ヨットがズラリ。

桟橋から振り返る。

回り込むと、

         初島・利島ヨット レース遭難の碑

この小網代をスタートして

われらは進んだ 永遠のレースへ

吹きつのる風 おしよせる波

最後まで、力を尽くしてたたかった

あの水平線のかなたは われらのしとね

海を愛する人々よ。忘れないでくれ

海のきびしさ、海のやさしさ

そして、海を愛するこのわれわれを

        海の安全を祈って

          初島・利島ヨットレース遭難の碑

昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで、思いがけない事がおこりました。参加した43隻の大型ヨットのうち慶應義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が、突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人も波にさらわれてしまいました。家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして、各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の捜索活動が続けられましたが、ヨットは発見されませんでした。

その先の坂道を上がって行きます。

林越しの湾内。

上がり切ると、右手に駐車場があり、京急バス「油壺温泉」バス停に出ます。

観光案内版。

今回、たどったコースの概要。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「三崎港」。あれこれ。その2。イルカ。海外港。浜諸磯。

2022-07-31 18:25:13 | 三崎口

                けっこう暑くなってきます。

予想では、もう少し海風が吹いてくる、と思っていましたが。ほぼ無風。考えが甘かった!

右手の壁に「イルカ」。有名な撮影ポイント。

「油壺マリンパーク」は、閉鎖されましたが、イルカのショーが人気を集めていたようです。

海外(かいと)港。

三浦半島の西側の海岸は入り組んでいて、小さな港も多くあります。

また、海に突きだした岩など、地層など興味深いものが多く観察できます。

「海外」バス停。かいと」と読みます。

次のバス停「尾志倉」の先で、左折し、上り坂を。

※コース設定では、左折せずにそのまま県道を進み、「諸磯港」・「油壺湾」へ向かいます。

突き当たりを左折して、下り坂を延々下って、「浜諸磯」へ向かいます。けっこう歩きました。

浜へ下って行きます。

   

対岸は、油壺湾先端方向。

トンビの姿が。

                のんびりと海を眺めながら休憩。

                 家族連れが磯遊びをしています。

相模湾。

     諸磯港。

ミサキハウス。

ここまで歩いて来ましたが、ここでリタイヤ。「浜諸磯」発のバスに乗って、「三崎港」まで戻ることに。

○が「浜諸磯」。「諸磯湾」を経由して「油壺湾」へ向かうはずでした。↓が「小網代の森」を下ってきたところ。

あと少しのところまでたどり着いていたのですが。次回、「油壺湾」巡りを兼ねて歩くことに。

 干物セット。

                 アジとカレイとキンメダイ。

                                                                                                               2010年代のようす。

      南の「三崎港」から北の「浜諸磯」まで。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「三崎港」あれこれ。その1。「うらり」。「三崎館本店」。歌舞島。二町谷公園。漣痕(れんこん)。北原白秋。

2022-07-30 19:57:50 | 三崎口

久々に京急「三崎口駅」へ。今回、三崎港から油壺湾まで、という予定でした。

が、炎天下のため道半ばで挫折した、そのレポートです。

「油壺・入江のみち」。

三崎漁港から油壺まで、西海岸線づたいに入江と丘陵地帯を歩く、というコースをたどるつもりでした

ところが、出来るだけ海岸へ近づこうと県道から左に折れ、上り坂・下り坂を行ったり、戻ったりで、・・・。

暑さに負け、でした。

レンタサイクルに乗って三崎港付近を走っているカップル。けっこう上り坂を青息吐息で必死にこいでいるケースも見かけました。

真夏にチャレンジするコースではなかった、です。

たくさんの観光客がバスから降ります。「みさきまぐろきっぷ」を手にした老若男女の方々。

何年か前にじじばば達とその周遊券で三崎・城ヶ島巡りをしました。

「うらり」。

    帰りに寄って、干物セットを買いました。

「三崎館本店」。

三崎港を目の前にする割烹旅館。増改築されているが、関東大震災後に建てられた和風の建物。

日本ではじめての「まぐろかぶと焼」をはじめ、三崎ならではのまぐろ料理の数々を、暖かいおもてなしにかえて、伝統を受け継ぐ三崎館本店
ここでは四季を通じ、最良の素材を最善の味で味わっていただき、心と体の休息と美味しさの究極を、ご提供しております。
心地よい潮の香りと波音に添えて、他では味わえない本物の味を心ゆくまでお楽しみ下さい。

            (「三崎館本店」HPより)

        ※その建物の前を一列・等間隔で歩く、じじばば一行

魚市場。

右手の高台は、「歌舞島(かぶじま)公園」。

歌舞島」の名前の由来は、この地で源頼朝に歌舞宴楽を披露したことから、一説には、三浦義村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える)の儀を行い、読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。
この歌舞島は、別名「兜島」ともいい、かつては離れ島でしたが、地殻の隆起によって現在のように海岸に突出した陸つづきの小丘になりました。

海岸側には「二町谷公園」。

「歌舞島」方向を望む。

「浜諸磯」方向を望む。

※二町谷埋め立て地(「二町谷公園」付近)には、ホテルや商業施設などの建設が予定されているようです。

              

小さな入江脇から道路に戻って進みます。

その先、二町谷(ふたまちや)道路脇の小岬の崖の表面に波の模様の地層が幾層も見ることができます。これは漣痕(波調層)といい、神奈川県の天然記念物に指定されています。

漣痕=漣(さざなみ)の痕跡。「リップルマーク」ともいう。

※現在では波や風の影響で作られたものではなく,地層の変形によってできたものとされています。

珍しい地形です。

             見事な景観。

海岸のようす。

「白秋文学コース 二町谷」。

寂しさに浜へ出てみれば波ばかり

   うねりくねれりあきらめられず

大正2年(1913)1月、白秋が死を決意してこの浜を彷徨したときの一首です。

不盡の山れいろうとしてひさかたの

   天の一方におはしけるかも

三崎に転居し新生を期し、この浜に再び立ったときの歌で、この二つの歌から哀傷の苦悩と新生への息吹との対照的な境地を知ることができます。

一心に遊ぶ子どもの声すなり

   赤きとまやの秋の夕ぐれ

白秋の向ヶ崎時代と、二町谷時代を対照すると点景の描写に大きな相違があることも判ります。当時この浜で行われた三崎の消防組の出初式を観て「消防整列」という詩壇の反響を呼んだ詩も作っています。

岬の方向。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京急「三崎口駅」。番外編。三戸浜~黒崎の鼻。その2。黒崎海岸。黒崎の鼻。ハマカンゾウ。筑波山?

2022-07-13 20:09:46 | 三崎口

黒崎海岸(入り江)。

         対岸には瀟洒な住宅が建ち並ぶ。

田畑の中の、縦横にある直線の農道を歩いているうちに、急な下り坂の道になってしまいます。坂道の周囲は、住宅地。

膝が痛くなるほどな急坂を下ると(土地の方はそうでもないでしょうが)、目の前には「カインズ三浦店」の大きな建物に。

すっかり市街地の雰囲気。あれぇ、しまった!

と、道ばたに「←黒崎の鼻」という標識があります。ずいぶん迂回しましたが、気を取り直して、向かうことに。

先端が、「黒崎の鼻」。

岩場で遊ぶ家族連れにお聞きしたら「岩場伝いでも行けますが、ちょっと潮が満ちてきているので、この先の細道を上がっていった方がいいですよ」

びっしり草の生い茂った細道を上がっていくと、

入り江と反対側の砂浜・岩場に。

           数家族がのんびりと。若い女性の写真撮影の姿も。

「黒崎の鼻」てっぺん。

             そこまでは行けるようですが、草が生い茂っていて、断念。

急な崖を下る途中には、

ハマカンゾウが咲いています。

                 

相模湾。

          遙か遠くには、ヨットや釣り船などが。磯遊びをする家族連れや釣り人。

        穏やかな海。

岩場を伝って、もっと南側にも行けるようですが、年寄りは、ここまで。

再び、細道を上がって、農道へ。

      

            夜になると、天の川や夏の大三角形など満天の星が眺められそうです。      

収穫が迫ったカボチャ畑。       

はるか向こうに「筑波山」のような山容の山が(↓)。この付近でも見ることができるのでしょうか?

それとも別の山?

タチアオイ。

振り返る。

              はるか遠くには、相模湾が。

こうして京急三崎口駅まで戻ってきました。途中の野菜即売所で大きなメロンを買いました。

次回は、油壺湾付近を散策しようと思いました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京急「三崎口駅」。番外編。三戸浜~黒崎の鼻。その1。初声漁港。三戸浜・精霊流し。広大な畑。

2022-07-12 20:11:34 | 三崎口

                           

三浦市観光地図を眺め、今度は、三浦半島先端部を歩いてみよう、と。

その手始めに、「小網代湾」の北側の海岸沿いに。7月1日は海開き。さぞ賑やかな夏に。

「三戸浜」から海岸沿いを北上して、「黒崎の鼻」まで。

ところが、このエリアの海水浴場は全面禁止。立入禁止の縄が張られていて、・・・。

結局、大きく広がる畑の中を右往左往して疲れた!

それでも何とか、黒崎の鼻までたどり着きます。

こういうわけで、炎天下の、汗まみれ歩きの報告を。

さて、

京急「三崎マグロ駅」に到着。「三戸入口」バス停まで歩き、そこから海岸方面に向かいます。周囲には、広大な畑が。

集落に近づきます。

               

一面、スイカ畑。

こちらは、ナス。

海岸へ向かいます。

初声漁港。               

           

「初声」は、「はっせ」と読みます。この地名は、三浦一族の豪将・和田義盛が平氏を追討した後、凱旋のために「初声」という歌曲を作ったという伝説に、ちなんでいるようです。

※「和田義盛」=NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する13人のうちのひとり。

                   

三戸浜。

この浜は、国の重要無形民俗文化財に指定された「三戸のお精霊(オショロ)流し」で有名。

これは、市内初声町三戸に伝わる盆の精霊流し行事で、現在は三戸お精霊流し保存会が中心となり受け継がれている。
毎年この日に神田、北、谷戸上の3つの地区ごとに行われ、8月13日に盆棚を設けて各家が迎えた祖先の霊を、16日の早朝、オショロブネと呼ばれる大きな藁船に乗せ、三戸海岸から集団で送り出す。「セイトッコ」と呼ばれる少年たちによって伝承されてきた。

(「」HPより)

※「三戸」という地名は、内田太郎、庄司次郎、海戸五郎、という三人の人物がこの土地を分け合っていたことにちなんでいるそうです。

※東京などでは、今日、7月13日がお盆の入り。しかし、ここ三戸もそうですが、8月13日がお盆の入り、というところも多いようです。

     

                  遊泳禁止のため、閑散としています。

さて、この先、砂浜伝いに歩いて行こうと思いましたが、先行き不安(足もと不如意)で、公道を歩きます。結果、海岸に近づけず、遠くから海を眺めるのみで、ひたすら集落の中(さらに、広大な田畑のなかの直線道路)を歩くことに。

民家の庭先に咲く花。

広大な畑の中の道。

房総半島でも見かける雰囲気。森と谷とが奥深くまで。

遠くに海が広がる。

行きつ戻りつして、海に近づこうとしますが、

崖になっていて。

結局、強い日ざしの下、整地された畑地の中を歩くことに。農作業の軽トラが行き交う道。

       

最近歩いている川沿いの、緑一色の水田とは異なり、関東ローム層に覆われた一面、赤土の畑地も、また良し、です。

季節になると、一面、壮大な大根畑になるそうです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小網代の森。その6。小網代湾。リビエラシーボニアマリーナ。住宅地の坂道。引橋・北原白秋。野菜直売所。

2022-07-11 20:24:13 | 三崎口

小網代湾まで下ってきます。

                  ボートや小型船などがたくさん停泊中。

来た道を振り返る。

干潟方向。

                右手奥が「小網代の森」一帯。

穏やかな海。トンビが旋回中。

海岸を回り込んで、バス停のある高台に向かいます。

      釣り宿など。

右手に、

リビエラシーボニア マリーナ。

都会から少しだけ離れて、非日常に身を委ねる贅沢がある。
リビエラシーボニアマリーナは、長年に渡って日本のマリンリゾートをリードし続けてきました。
三浦半島最南端の温暖な気候、周囲を取り巻く小網代の森、深い水深や平穏な波。
最高の景色と自然条件を誇る東洋屈指のハーバー、
大人の隠れ家のようなリゾートで、多彩なマリンレジャーをお楽しみください。

ENJOY RIVIERA SEABORNIA MARINA

               

                                   (「RIVIERA」HPより)

三浦市観光案内板。

左手の坂を上がります。

高台から小網代湾を望む。

バス停がありますが、三崎口駅まで歩くことにします。

しばらく県道を進み、途中から左手の細い道(近道)を進み、住宅地の道を曲がりくねりながら上がっていきます。

ちょうど「小網代の森」の東南側の境界をたどる感じ。住宅街が森の脇に迫っていたことに気づきます。

けっこう坂道を上がります。小一時間かかって、やっと下り坂になって、県道に合流します(○)。

     

2010年代のようす。森沿いの左の道を歩く。上方が「小網代の森」。道沿いの丸い建物は、小網代配水塔。

白秋文学コース ひきはし

引橋の茶屋のほとりをいそぐとき ほとほと秋は過ぎぬと思ひき

山峡(やまあい)に橋を架けむと かがやくは行基菩薩か金色光に

三崎のおける白秋足跡の北限がこの引橋です。

このあたりは三浦一族の居城、新井城の要害、北条早雲とのたたかいに橋を引いて敵の侵入を防いだといわれ、3年にも及ぶ凄惨な攻防戦の故事にちなみ、引橋の地名がいまに残っています。

以前、橋のたもとには名物の茶屋が賑わいを見せ、街道をまたぐ見事な藤棚や、左右の渓(たに)の木々が紅葉し、遙かに相模湾をへだてての富士は美しい景観で、三浦名勝のひとつとして知られています。

茶屋は引橋 藤の花盛り

娘ざかりは 来て三崎

白秋は俗謡「沿海雑曲」の一説にこう詠んでいます。

 

「引橋」そのものは、気づかず通りすぎてしまいました。※通りの向こう側に引橋の解説板があるようです。

北原白秋といえば、「城ヶ島の雨」が有名です。城ヶ島にある歌碑を見たことがあります。

♪雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる

雨は眞珠か夜明の霧かそれともわたしの忍び泣き

舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆あげたぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気

雨はふるふる日はうす曇る舟はゆくゆく帆がかすむ

こうして、三崎口駅から歩き始めた時に眺めた風景に戻ってきました。

        

途中、沿道の野菜販売所で枝豆、トウモロコシ、メロン、さらに、駅前のお店で、冷凍のマグロを購入、ザックに詰めて帰ります。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小網代の森。その5。えのきテラス。干潟・カニダンス。眺望テラス。ハマカンゾウ。小網代湾へ。ご当地カップ酒。

2022-07-10 20:56:53 | 三崎口

             湿地帯から、しだいに入り江(小網代湾)に近づいてきます。

ちょっと濁った水たまり。

正体は地中の鉄分を餌にするバクテリアに由来する鉄分で、いずれも害はありません。油膜のようなものは酸化鉄の薄い膜。油ではありません。小網代は鉄分の豊富な谷、鉄は海の生物たちの多様性をささえる重要な化学物質でもあります。一見、汚れのようにみえる褐色沈殿と油は、小網代を支える仕組みの一部です。(NPO小網代野外活動調整会議)

              

ハンゲショウの見納め。

開けた所に近づきます。

               「えのきテラス」。遠くに家並みが。

トンビでしょうか、3羽、海へ向かって。

これまでの活動などが写真で掲示されています。

      

パンフレットより。「森と干潟と海がつながっている 小網代の森」。

かつての「三浦半島は今よりも多くの緑や湿地がありましたが、住宅や道路などの開発により失われてきました。小網代の森も昭和45年(1970)に市街化区域になり、ゴルフ場や住宅の開発計画が持ち上がりました。しかし、市民による保全活動や、小網代の森が源流から干潟まで連続して残されている貴重な自然環境であることなどを受け、県は、三浦市や開発を計画した京浜急行電鉄株式会社と、小網代の森の保全を含めた土地利用について調整を進めてきました。平成7年(1995)に農地造成や宅地開発及び緑地保全などを含めた三戸・小網代地区の土地利用方針を関係者に提示し、理解と協力を得ながら、「かながわトラストみどり基金」により緑地の買い入れを進めました。平成17年(2005)には無秩序な市街化から守るよう近郊緑地保全区域にして去れ、その後、用地の買収と園路等の整備が完了したことから、広く環境学習の場として活用されることになりました。

この森は、関東、東海地方で唯一、集水域の森林、河川、干潟が開発されずに連続して残されている自然環境と言われています。森、川、海のつながりが必要なアカテガニをはじめとして2千種と言われる多くの生きものが棲んでいます。かつては薪炭として利用されていたことから、コナラなどの落葉広葉樹林が多いものの、常緑樹が混じるようになり、流路の固定化など低地の乾燥や外来種の侵入も進んでいます。流域全体の生態系を保全する視点に立って、湿地の再生や外来種除去など、生物多様性の保全・回復に向けた取り組みに尽力してきたNPOをはじめ、地域住民や多くの企業などと手を携えながら地域の宝として小網代の森を次の世代へ引き継いでいく必要があります。

ハマカンゾウの保護育成地。

ハマカンゾウは関東地方以西の本州・四国・九州に分布する常緑性の多年草。海岸の崖地・急傾斜地などに生育する。葉が厚くて光沢があり、常緑。花は7月頃から咲き始め、早朝に開く1日花。花の色は橙色のものが多い。

(「素人植物図鑑」HPより)

干潟の方に向かいます。

                         カニダンス解説板。

夏の干潟の主役は、カニダンスです。海の潮が引いて目の前の湾が干潟になっているときに見られます。ダンスの踊り手はオスだけです。求愛や縄張り活動の意味があると言われますが、解明されていない動きもまだまだあります。干潟のカニは、カニをえさにする鳥が見ると砂色、泥色で目立ちませんが、カニの目線で見ると、色鮮やかな宝石のような色をしています。

※「チコガニ」・「コメツキガニ」・「ヤマトオサガニ」のダンスのようすが、イラストで。

1匹、さっと姿を見せましたが、すぐ見失い、残念ながらじっくり見ることが出来ませんでした。

      

「えのきテラス」に戻り、森の出口にむかいます。

テラスを振り返る。

              

川の流れ。

            

眺望テラスより、小網代湾を望む。

眺望テラス解説板。

         ここまでが小網代の森。

アシ原のカニ。

~小網代の森のアシ原には、たくさんのカニが隠れています~

「ベンケイガニ」・「クロベンケイガニ」・「アシハラガニ」・「モクズガニ」。

小網代湾を望む。

ここから坂道を歩き、小網代湾方向へ。

「小網代の森」は、四季を通じて散策できるすばらしいところです。環境保全につとめる地元など多くの方の献身的な努力に感謝をしつつ。

※「父の日」に遅ればせながら、と。各地の純米酒。さっそく。

ご当地・地酒あれこれ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小網代の森。その4。まんなか湿地。オギ・ヨシ。ガマの穂・蒲鉾・蒲団・大爆発。やなぎテラス。

2022-07-09 20:44:55 | 三崎口

                     まんなか湿地。この辺が、中間地点。流れは、「浦の川」                          

奥に、ハンゲショウの群落。

行く手が開けてきます。

オギ、ヨシなどが密集。

     

来た道を振り返る。

何という花でしょうか? 小さな赤い紅色の花がたくさん。

イトトンボ(○)。「ベニイトトンボ」?

枝に絡まる蔓性の植物。

木道の両側にハンゲショウ。

湿地帯が続く。

ガマの穂。

ガマとは池や沼などに見られる比較的大型のガマ科ガマ属の多年草です。類似した種類にはヒメガマやコガマなどがあり、主に葉や穂の大きさなどから見分けることができます。

ガマの最も特徴的な点はその穂にあります。ガマの穂はソーセージまたはフランクフルトに似ていることから、池にこんなものが!?と驚かれる方も少なくありません。実はそのソーセージの部分は雌花の花穂の集まりで、れっきとした花なのです!秋になり綿毛(種子)ができたころになると、穂からもこもこと綿毛が出てくる様子も楽しめます。触ると湧き出てきます(公園のものは取らないようにお願いします。近所にあったらぜひ触ってみてください)。

ガマは古来から大活躍!

古事記の因幡の白兎にて火傷したウサギはガマの穂(花粉)で傷を治したように、古くは薬草のような使われ方をしたりしていました。また、着火剤に使われたり、蚊取り線香のようなものとしても使われていました。さらに、蒲鉾(かまぼこ)の名前の由来はガマの穂に似ているためだとも言われています。

一見するとヘンテコな穂をつける植物ですが、実は昔はとっても活躍していて、面白い話が多い植物です。ぜひ、当園でご覧になってくださいね。

           

(この項「北総花の丘公園」HPより)

久々に見ました。              

蛇足ですが。

日本最古の歴史書とされる『古事記』(712年)の中の「因幡の白兎」の挿話で登場することでも有名である。『古事記』の「因幡の白兎」の説話では、毛をむしり取られた兎に、大穴牟遅神(大国主命)が蒲黄を取って敷き散らし、その上に転がるよう教える。また、「因幡の白兎」が包まれたのは、ガマの穂綿だという説もある

「蒲の穂」はかまぼこ(蒲鉾)の語源である。昔のかまぼこは板に盛られた現在の形とは異なり、細い竹にすり身を付けて焼いた食べ物を指していた。これは現在のちくわにあたる。ちくわと蒲の穂は色と形が似ていて、矛のように見えるガマの穂先は「がまほこ」と言われている蒲焼きも、昔はウナギを開かずに、筒切りにして棒に差して焼いていたので、その形がガマの穂に似ていたことから「蒲」の字が当てられている

布団も元来は「蒲団」と書き、江戸時代以前に、スポンジ状の繊維質が入った丈夫で柔らかなガマの葉を使って、円く編んで平らな敷物をつくった

花言葉は、従順、素直、慌て者、無差別、救護、慈愛、予言など多数ある

(この項、「Wikipedia」より)

というわけです。

「ガマの穂大爆発」映像を紹介。昔、こんなことをした記憶があります。

 

              (「youtube」より)

ただし、耳や鼻に入ったらオオゴトになります。やるなら、身体から離して!

ホタル。

ゲンジボタル:5月中旬から6月中旬までまんなか湿地からえのきテラスまで川沿いで見られる。

ヘイケボタル:6月上旬から7月下旬までやなぎテラスからえのきテラスまでの湿地に見られる。

「標高7.0m」(やなぎテラス)。

            

様々な湿地と湿地の植物。

・ヤナギ湿地 ・オギ・ヨシ湿地 ・ガマ湿地と池    

         

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小網代の森。その3。ハンゲショウ(半夏生)の群落。深い森から湿地帯へ。コナラ・アスカイノデ・ハンノキ・ジャヤナギ・・・。アベさん銃弾で撃たれ死亡。

2022-07-08 19:40:05 | 三崎口

                解説板。~多くのアゲハチョウが生息しています~

キアゲハ、アオスジアゲハ、ジャコウアゲハ。大型の蝶を見ました。モンシロチョウも。写真はうまく撮れない

湿地帯のようなところも。もしかしたら、・・・

この先で、今回、期待していた草花に出会います。ハンゲショウ(半夏生)の群生。

     

7月2日(土)は、七十二侯の1つ「半夏生」でした。

暦の上では、半夏(カラスビシャク)という薬草(農家にとってはやっかいな草のようです)が生える頃。

サトイモ科の植物。別名や、乾燥させた根茎は半夏(はんげ)の名で知られる。花は小型の仏炎苞で、ひものような付属体が上部に伸びるのが特徴。

農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、この日から5日間は休みとする地方もある。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。なお、七夕にも農作業を休むとする伝承が多くの地域に伝わる

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言う。

一説にハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになる頃とも。

(この項、「Wikipedia」参照)

上記にもあるように、この時期にふさわしい「ハンゲショウ(半夏生)=カタシログサ」をいつか見たいと思っていましたが、この場所で出会うことが出来ました。

※名前の由来は、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説があるようです

また、この花は、虫媒花といって昆虫を媒介として受粉を行う花で、そのため、昆虫を引き寄せるために白色に変化する、という。

東京や埼玉では絶滅危惧種に指定されています。

    雨に濡れて。

         花期が終わると再び緑色になるそうです。

               ここまで歩いてきた甲斐がありました。

大満足で先に進みます。

水生植物「解説板」。

       セキショウ、ハンゲショウ、ヤブミョウガ、ミゾソバ。

木を伝って下りてくる動物が。

           

ますます深い森へ。

ここにもハンゲショウ。

だんだんと下に降りていきます。

植生の変化

小網代の森は、川のはじまり(源流)から海に向けて、コナラの森、アスカイノデの谷、ハンノキからジャヤナギの木立、クサヨシ・ヨシ湿地帯へと変化しており、様々な生育環境を好む樹木の移り変わりを見ることができます。ここでは、ちょうど上流側(左手)がハンノキ林になります。

ハンノキは、多くの川が合流して、土砂が厚く積もり、水位が比較的に高い河川や湖の周辺などに群生します。明るい場所を好み、空に向かってまっすぐ伸びています。

少し下流側(右手)に行くと、ハンノキからジャヤナギに変化しているのが分かります。ジャヤナギは、ハンノキよりも、さらに土砂が積もった水位が高い湿地を好みます。木が倒れても幹から新しい芽が育つ、生命力の強い木です。

どの木がそれなのか判別できないので、以下参照。

※コナラ

落葉広葉樹高木互生し、長楕円型で縁に尖った部分がある。花期は春(4 - 5月)で、若葉が広がる時に咲き、雄花は尾状に垂れ下がる。果期は10 - 11月で、秋にドングリ)が熟す樹皮灰色で、縦に裂け目が出来る。

         (「Wikipedia」より)

※アスカイノデ

アスカイノデ(飛鳥猪の手) オシダ科イノデ属

東北地方中部以南から東海地方のの本州の太平洋側の、林床や林縁に生育する常緑のシダ植物。

丈は80-100cm。根茎は塊状で、鱗片を密に付け、葉を放射状に叢生する。葉柄下部の鱗片は狭披針形で全縁、捻れる。各部位に見られる鱗片は、アイアスカイノデに比べ幅が狭い。葉身は披針形で、2回羽状複葉、中軸にも鱗片が密に付く。小羽片の先端は芒(ボウ)状、前側は耳状に突起し、後側の葉縁に鋸歯があり、背の先端は芒状に伸びる。葉身はやや光沢がある。胞子嚢群(ソーラス)は小羽片の軸と葉縁の中間に付く。

※ 名は、東京の飛鳥山で採集されたイノデの仲間であることから。

(「『野山の草花・木々の花』植物検索図鑑」より)

※ハンノキ

低地の湿地や低山の川沿いに生え日本では全国の山野の低地や湿地、に自生する。湿原のような過湿地において森林を形成する数少ない樹木。田の畔に植えられ、近年では水田耕作放棄地に繁殖する例が多く見られる。普通の樹木であれば、土壌中の水分が多いと酸欠状態になり生きられないが、ハンノキは耐水性を獲得したことで湿地でも生き残ることができる落葉高木で、樹高は4 - 20メートル、直径60cm ほど。(「wikipedia」より)

 

※ジャヤナギ(写真は「Wikipedia」より)

本州〜九州の湿地に生える。高さ5〜10m、直径25〜30cmになる。一本立ち。樹皮は灰褐色で縦に深い割れ目が入る。裸材に隆起条はない。新枝は灰緑色で、無毛。小枝の分岐点から折れやすい。葉は互生。葉身は長さ10〜16cm、幅1〜2.5cmの狭楕円形。ふちには先端が腺になる鋭い鋸歯。新葉のふちは巻かない。裏面は粉白色。両面とも無毛。雌雄別株。雌株だけが知られている。葉の展開と同時に開花する。花序は長さ約1.5cmの楕円形。腺体は2個。子房と苞に白い毛が密生する。別名オオシロヤナギ。花期は3月。 

(「ジャヤナギ - 松江の花図鑑」より)

         

・・・

※安倍元首相が銃撃を受け、亡くなった! 

個人的に政治信条は異なり、また、様々な政治的不祥事に対して司法の裁きを、とも思っていました。

こういう形で生命を奪う、ということは、全く許されることではない、蛮行です。

それも選挙の応援演説中(言論戦)での出来事。あってはならないことです。

ふと、アメリカのケネデイ大統領暗殺事件を想起しました。

たくさんの大衆の見守る中での、至近距離での銃による殺人事件。

思想背景があるのかどうなのか? 警備の不備はなかったのか? 

派生的にさまざまなことが起こりそうです。

特に、ツイッターで明らかにデマである内容が発信され、拡大することを危惧します。

これで、「弔い合戦」などと言い出したら、選挙はどうなるのか?

日本の行く末がいっそう懸念されます。

・・・

※「小網代の森」の部分は、今朝早く、作成したものです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三浦半島「小網代の森」。その2。「ひげ爺の栖」。ウグイスの声・他の鳥たちの声。深い森。ヤマユリ。シダ。せせらぎ。

2022-07-06 20:48:22 | 三崎口

            国道134号線の「小網代の森入口」交差点から右に折れると、「小網代の森」の入口へ。

                   右が、「ひげ爺の栖」。森へは、左手の小道を下りていきます。

                 

Welcome!

三浦半島の先端にある三浦市は三方が海に囲まれ、季節に応じた花の名所など四季を通じ自然に触れ合うことが出来ます。

小網代の森の入り口にある「小網代の森 ひげ爺の栖」は周りを木々に囲まれ、静かで落ち着いた雰囲気の中でお食事をお楽しみ頂けます。

小鳥のさえずりと爽やかな風を感じながら癒しの空間にご招待いたします。

金目鯛の煮付け。

(「ひげ爺の栖」HPより)               

「小網代の森」航空写真(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

     

2010年代のようす。中央の森が「小網代の森」。左が「小網代湾」。周囲の開発が進む中、奇跡的に残っています。

こうした保存の歴史・地元の取り組みは、別の機会に紹介。  

「標高47.9m」。

ここが「引橋入口」。解説板。

                    海岸付近まで徐々に下っていきます。(上が南)。

約1時間の歩き。

足を踏み入れたとたん、周囲の静寂の中、ウグイスの声と他の鳥の甲高い声とが不思議とマッチし、頭上の濃い緑と足もとの草花とを合わせ、一瞬のうちに、癒やしの空間に溶け込んでしまいます。 

※バードウォッチング(日本野鳥の会)の方ならすぐに峻別できるはず。ここは、そういう方々と同道すると、素晴らしさを実感できそうです。

さらに野草に詳しい方、昆虫に詳しい方などは、この自然をじっくり堪能できることでしょう。地元では、そうした企画もあるようですが。

ちょっと前の方に外国の青年、後ろから追い抜いていった日本の青年。2人の姿もすぐに消えてしまいます。

                 

入口付近を振り返る。

 ヤマユリ。   

遊歩道に被さるように木々が。

周囲は、深い森。

 「解説板」が要所要所に設置されています。シダの森~小網代の森には、多くのシダが自生しています~

    

              

    自然のままのようす。

せせらぎの音が。海に向かって下る、森の中の小川。

          

  流れに沿ったり、離れたりしながら森の中を下って行く。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする