おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その7。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-05 20:00:31 | 八王子絹の道
                            歩道のタイル絵。
 
 
「県警本部」先にあるのは、「横浜税関」。

「解説板」。
 建物は税関らしく正面を港に向けており、塔はイスラム寺院風のドームをいただき、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。その塔は、「クイーン」の愛称で親しまれている港ヨコハマのシンボル。


 5階建てのエキゾチックな庁舎には、「ロマネスク」などの西欧建築様式が混在し、それをベージュ色の磁器タイルが優しく覆っています。
イスラム寺院を想わせる緑青色のドームは、「クイーンの塔」の愛称で親しまれています。

クイーン塔のデータ
竣工 昭和9年3月
設計者 吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明
塔の高さ 51メートル

 横浜税関の「クイーンの塔」、神奈川県庁の「キングの塔」、横浜市開港記念会館の「ジャックの塔」は、横浜三塔と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれています。

「クイーンの塔」の秘話
 関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。  
昭和7年第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められた。この時、“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”が港ヨコハマの高層建築物であった。
 塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成した。

キングの塔(神奈川県庁)
昭和3年11月竣工(高さ49m)
日本大通りに面してどっしりと構える風格はまさに”キング”。
五重塔をイメージさせる塔は、昭和初期に流行した帝冠様式のはしり。
1928年完成以来絶えず関内のシンボル的存在。

ジャックの塔(横浜市開港記念会館)
大正6年6月竣工(高さ36m)
一般の懸賞公募による設計、市民の寄付金による建造で、横浜開港50周年を記念して1917年に完成。
赤レンガと白い大理石の時計塔をシンボルに現在も公会堂として市民のために利用されています。

(この項、「」HPより)

正面玄関。特に半円形のアーチはロマネスク様式の基本要素であり、庁舎の主要なモチーフとなっています。

 正面玄関にある表札は、庁舎新築当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられています。



                  キングの塔(神奈川県庁)」。

「象の鼻パーク」へ。

                         
象の鼻地区の波止場
 象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛荘で親しまれてきました。開港当初の波止場は東西2本の直線上の突堤で、東側の突堤は「東波止場」呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積み卸しに使用されました。西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積み卸しに使用されました。
 元治元年(1864)貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになりました。
 フランス人建築家クリペによる「横浜絵図面」には、慶応元年(1865)当時の西波止場の姿が描かれています。当時の水際線は、現在の横浜開港記念館前の海岸通りの位置にあり、2本の突堤はそこから海に突き出ていたと考えられます。
 東波止場はフランス人居住区にあったので、「フランス波止場」とも呼ばれました。明治2年(1869)、象の鼻地区の前面にイギリス領事館(現在の横浜開港資料館の所在地)が建てられると、西波止場は「イギリス波止場」とも呼ばれました。西波止場の西側の突堤は、国内貨物用だったので「日本波止場」、税関に近いので「税関波止場」とも呼ばれました。
 象の鼻パークでは、西波止場の西側の突堤の位置を、広場の舗装パターンを変えることで表現しています。

               

象の鼻」。右が「大桟橋」。                 
 横浜港発祥の地。「象の鼻波止場」を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園。

《歴史》
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
(以上、「Wikipedia」参照。) 

2014年3月にこの付近を訪れたので、再掲。
 
赤れんが倉庫から「山下公園」方向へ。

「新港橋梁」。

赤れんが倉庫側を望む。軌道が敷かれている。
銘板には「大正元年八月 浦賀船渠株式會社製造 」とある。

 もともとは横浜臨港線(貨物線)の橋梁で、新港埠頭が出来た明治44年(1911)に開通した臨港線に続き、大正元年(1912)に横浜税関まで開通させた際に架設したもの。

橋を越えると「象の鼻パーク」。案内図。

実際は、「新港橋梁」から来るとこのように見える。↑が象の鼻「防波堤」。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「象の鼻」のような形をした「波止場」になっていたことがよく分かる。
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。図の中心からやや右下に2つの波止場が確認できる。(「Wikipedia」より)
(注:Aが「神奈川砲台(台場)」、Bが「象の鼻(東波止場)」と「西波止場」)。


1970年頃のようす(「同」より)。「象の鼻」の形がまっすぐになっている(↓)。その東隣が「大桟橋」。

正面が「象の鼻」突堤。左に見えるのが「飛鳥Ⅱ」号。

芝生のところから「大桟橋」を望む。正面が「象の鼻」。


2010年代のようす。


ここも5年前と比べると整備されています。
                       「キングの塔」(左)と「クイーンの塔」(右) 

                            

 (13:51)ここが今回の終点。炎天下の中、4日がかりでした。お疲れ様でした。

 この先、「シルクセンター」の方へ向かいます。
 
                      「山下臨港線プロムナード」。線路跡が遊歩道に。

「観光案内図」。

横浜開港資料館」。

            

ペリー提督横浜上陸」図。

                           

(14:01)「シルクセンター・シルク博物館」に到着。

ビルのところに「英一番館(ジャーディン・マセソン商会)跡」碑。

             
英一番館跡
 安政6年6月7日(1859.7.1)横浜が開港した。イギリス人、ウイリアム・ケズウイックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物はジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が「英一番館」と呼んでいたのは、この地点である。

「シルク博物館」を見学し、ロビーで休憩。

 「大桟橋通り」から、みなとみらい線「日本大通り」駅へ。

                  

「日本大通り」沿いにある「神奈川運上所跡」碑。

                            
神奈川運上所跡
 開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。
 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。
                 
 こうして急ぎ足の横浜港めぐり終了、「日本大通り」駅から帰ります(14:50)。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その6。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-04 20:15:05 | 八王子絹の道
                             「馬車道」。ガス灯が並ぶ。

近代街路樹発祥の地」。この付近は、文明開化の象徴のような街。

 

「馬車道」の街並み。この先、歴史的建造物や趣のある建物が並んでいます。

 
 「関内ホール」前にあるガス灯は日本で最初のガス灯を復元したもの。
 
イギリスからやってきたガス灯たち「英国国会議事堂のガス灯」
 テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は1834年の火災で焼失しましたが、1852年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。
 このガス灯は、この建物の北西部に立つガス灯と同じものです。
 1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。

 
     「県立歴史博物館」。「旧正金銀行本店本館」。

 幕末に横浜が開港して以来、外国との貿易・金融取引は外国の商人たちが主導していました。これを改善するため、明治13年(1880年)に国立銀行に準拠する横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)が設立されました。「正金」とは現金の意味で、その名の通り、日本の不利益を軽減するために現金での取引を主に行いました。その後、政府の保護を受けて外国との貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長。大正時代には世界三大為替銀行の一つに数えられるまでになりました。戦後は外国為替業務を東京銀行に引き継ぎ、現在の三菱UFJ銀行の前身となっています。
 この建物は明治37年(1904年)に銀行の本店として竣工。設計は明治を代表する工学博士、妻木頼黄(つまきよりなか)で、ドイツルネサンス様式を採り入れ、屋上部分の八角形ドームが特徴となっています。大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の横浜大空襲の災禍を乗り越え、昭和42年(1967年)には増築した新館とともに、神奈川県立博物館となりました。そして明治時代の洋風近代建築物として貴重なことから、昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定。更に横浜正金銀行とその周辺地が戦前の貿易や金融の分野で重要な役割を果たしたことが評価され、平成7年(1995年)には、広島原爆ドームと同時に近代のものとしては初めて、国の史跡に指定されました。2F常設展示室では、東京銀行から提供された当時の資料が展示されています。
               

 (この項、「近代文化遺産見学案内所」HPより)

 
                 「馬車道大津ビル」。
 シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在もオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。

 
 昭和4年(1929)に「安田銀行(後の富士銀行)横浜支店」として建てられました。現在は、「東京芸術大学 大学院映像研究科 馬車道校舎」として活用されています。

 ルスティカ積みの外壁にドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。当初は安田銀行横浜支店として建てられた。
 安田銀行は大正末から昭和初期にかけてほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。

「旧生糸検査所」。現:「横浜第2合同庁舎」。

「牛鍋」のお店。荒井屋万国橋店」。





(「」HPより)

 「牛鍋」は、牛肉を主にして、野菜などを調味料で煮た料理。文明開化の象徴として横浜が発祥のメニュー。今では、一般的に「すき焼き」と呼ばれるようになりました。醤油や砂糖をベースとした割下を使用しますが、地域や店によって味付けは異なります。
 牛鍋の本場・横浜には、100年以上前に創業した老舗店が多くあります。

(13:37)「万国橋」からの港風景。
 この先を進むと、「赤レンガ倉庫」方面になります。「海岸通り4丁目」交差点まで戻って、「海岸通り」を進みます。
 「日本郵船歴史博物館」が左手に。その前を通ったので、写真が中途半端。建物全景の写真を。
 (「」HPより)

 その先に「横浜税関ビル」。そして、「象の鼻」方面に向かいます。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その5。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-03 21:02:05 | 八王子絹の道
                          (13:04)商店街を抜けて、「吉田町」。
ここから港にかけての今昔。



1880年代のようす。Aが都橋、Bが吉田橋。北東に延びるのは「馬車道」。海側は外国人居留地。現在の横浜球場は、大きな「横浜公園」そこから港に伸びる広い道が「日本大通り」。東波止場:通称「象の鼻」が右上に。また、上方に、日本最初の鉄道の終点(現在の桜木町駅付近)。




2010年代のようす。Aが「都橋」、Bが「吉田橋」。大桟橋の左にあるのが「象の鼻」。この付近は、現在、もっと整備され、公園風に。また、「吉田橋」の下は「首都高横羽線」となっている。

(13:10)「吉田橋関門跡」碑。
 安政6年(1859)6月2日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久4年(1864)2月に吉田町側に移設されました。
 関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。


吉田橋
 神奈川県横浜市中区の馬車道と伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋である。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られる。現在の橋は1978年に完成した5代目である。
 江戸時代に吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。
 3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた。これを受け、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で、工費は当時の額で7000円であった。
 1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1銭、人力車5厘の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』、三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』などの錦絵に描かれた。
 吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5m扛上する工事が行われた。
 1910年5月には16万円余りの工費を投じ、橋長約20間(約36.4m)、中央径間60フィート(約18.3m)、側径間25フィート(約7.6m)の鉄筋コンクリート製3連アーチ橋への架け替え工事を着工し、1911年10月に完成した。幅は12間(約21.8m)で、7間(約12.7m)の車道の両脇に各2間(約3.6m)の歩道が設けられた。ヨーロッパ様式のモダンなデザインで、橋詰と橋脚上にはバルコニーが設けられた。車道部分には1912年に横浜市電の軌道が敷設されたが、関東大震災後に軌道は60mほど下流側の羽衣橋に移された。
 第二次世界大戦後には地盤沈下によりアーチに変形をきたしたため、軟弱地盤に耐えうる橋に架け替えられることになる。1957年9月に着工、4714万円の工費をかけ、翌年5月には橋長38.5m、総幅22mのゲルバー式混合橋が完成した。
 派大岡川は1971年に廃川となり、その跡には1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。両岸の地上部は新横浜通り(山下長津田線)の上下線が通る。この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられることになった。
 現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。2層構造で、上部は2車線の車道とその両側の歩道からなる。車道は馬車道方面から伊勢佐木町方面の一方通行で、イセザキモールは歩行者専用道路であるため、橋を渡った車両は新横浜通り桜木町方面または吉田町通りへの右折のみ可能である。欄干は、2代目の「かねの橋」をイメージした意匠が採られた。
(以上、「Wikipedia」参照。)

   
 長崎の「くろがね橋」につぐ国内2番目の鉄製の橋で、1911年(明治44年)に鉄筋コンクリート製に架け替えられました。
 左が鉄製。右が鉄筋コンクリート製。 
(この項、「」HPより)

「馬車道」側にある「解説板」。
鉄(かね)の橋
 明治2年(1869)、英国人R.H.ブラントン(1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24㍍、幅員6㍍の日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。

その横にある解説板。「ブラントンと横浜

 明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。

 1870年の実測「横浜居留地図」が掲載されています。

方角を修正。
 左上に「吉田橋」。それに続く道が「馬車道」。外国人居留地は右下の一角に。「日本大通り」は中央の広い道。

 その「馬車道」を進みます。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-02 19:53:50 | 八王子絹の道
                             (12:33)「戸部通り」を進みます。



1880年代のようす。すでに西の丘が開けています。そこを「横浜道」は縫うように南下します。



2010年代のようす。中央の南北に通じる道が「野毛の切通し」。右手の海はすっかり港と陸との共存地域に。
足下には「横浜道」のロゴが。

                       「温故知新のみち」。

次第に坂道になります。

             (12:47)右手は高台。

「紅葉坂」は港から南西に伸びる坂。
 近くには開港に合わせて幕府が港の運上や治安、外交などのために設置した神奈川奉行所跡があります。

 
                              野毛の切通し 
 安政6(1859)年、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。
 現在の切通しは昭和3年(1928)に市電長者町線の整備の際に道幅を拡幅・切り下げしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀)(市認定歴史的建造物)と共に、往時の壮観を今に伝えています。

「野毛坂」バス停。


(12:52)「野毛坂」交差点を左折。右は野毛山公園・動物園などに通じる道。

ジャズが流れる街を東に進みます。

 (12:56)左側にある小公園には、日本近代水道最古の水道管が展示されています。
  
 明治20年(1887)日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。
 相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44㎞離れた野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水されました。
 この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。
 当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。
               

 人通りの多い賑やかな街並み。
  「野毛こうじ」。

足下のタイル絵。

 (13:03)「大岡川」に架かる「都橋」。初代の橋の名は「野毛橋」でしたが、後に架け替えられたときに「都橋」となったそうです。
 
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-30 21:42:24 | 八王子絹の道
                          左手は、急な傾斜地。

旧東海道を北に向かい、浅間神社下まで進みます。

(11:32)
浅間神社と富士の人穴
 創建は承歴4年(1080)富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村の鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。

 この先、「東海道」から右折し、「横浜道」を波止場(「象の鼻」・現在の大桟橋脇)まで、大変貌した横浜の市街地を進みます。
(「」HPより)

 この付近から東側の今昔。


1880年代のようす。「横浜道」は入り海沿いに進んでいます。「平沼」という名のごとく、沼地となっています。右は鉄道線路(築堤)。



2010年代のようす。まるっきり様子が異なっています。下方中央に「現平沼橋」が「帷子川」と鉄道をまたぎ、小さな「元平沼橋」がその下に見えます。上方が「横浜駅」。

旧東海道は公園の中を抜けて行きます。振り返る。

浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。

よこはま道」解説板。
 安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
 しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道を開いた。
 これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼・石崎の各新田を経て戸部村まで一直線に通ずる道路を築くと共に新田間(あらたま)・平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(現吉田橋)を架けたものである。
 記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったと考えられる。
 なにしろ工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両(注)かかった。
 新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみとなった。

注:江戸時代の1両は、現代に換算すると約75,000円なので、約3億4千万円。当時はインフレ気味なので、もっとかかったと思われる。

  

右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。 

案内図。

 旧道はわずかに残るのみで、現在の広い「新横浜通り」に合流し、最初の橋「新田間(あらたま)橋」を渡ります(11:43)。
 

                 下流方向。

現在のようす(「新田間橋」から東を望む)。(「」HPより)

 昼食休憩後、再開。(12:15)しばらく進むと、「帷子川」、「JR東海道線」、「相鉄線」をまたぐ「平沼橋」。右側の脇道を進み、エレベータで下に降りると「帷子川」に架かる「元平沼橋」となります。かつての「平沼橋」。


                  

 橋のたもとに「横浜道解説板」が設置されています。
 内容は、横浜道に入るところに設置された解説板とほぼ同じです。
・・・
 ※当時、東海道と横浜(関内)とを連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。

 錦絵には、新田間橋、平沼橋、戸部橋などが描かれ、また神奈川宿、さらに遠く対岸の川崎大師河原の裏が描かれています。海岸伝いだったことが分かります。

 再び現「平沼橋」を渡り、向こう側に。
エレベータで下に。そこにも同じ解説板があります。

(12:25)「平沼商店街」を進みます。上は京急線。

蕎麦屋「角平」。待つ人が並び、はやっているようす。

創業は昭和25年。
おそばを愛する初代が研究を重ね、当店一番人気の「つけ天そば」が生まれました。
アツアツのつけ汁に豪快な海老天。そして特性手もみそば。ぜひご賞味ください。
また宴会コースではおそばに限らず多彩なメニューをそろえております。
蕎麦焼酎をはじめ生ビールや各種地酒もご用意いたしております。
ご予算に応じたコースも承りますので、お気軽にご相談ください。
(「」HPより)

 (12:29)その先に三番目の橋「敷島橋」。もと、ここに架かっていた「石崎橋」は上流に移動。


                       「石崎橋」。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-29 19:49:12 | 八王子絹の道
                         (10:23)「高島町まで5㎞」ポスト。

 「歩道橋」の下に「和田村道橋改修碑」。この碑も移設されたものでしょう。


                        

 この先は、何回か「国道16号線」から旧道に入ることを繰り返します。

①(10:38)「和田町」信号で左折し、右手の細い道へ。
 
「国道16号線」方向を振り返る。

「和田町駅入口」で国道に合流。

②(10:45)「保土ケ谷陸橋」をくぐり、すぐ左折。

 
                                「保土ケ谷公園入口」信号で国道に合流。

③国道を渡り、右へ。来た道を振り返る。 

           (10:55)「ケーズデンキ」脇を抜けて、国道へ。


④(11:06)車の行き来が激しい「国道16号線」を越えて、「セブンイレブン」のところを入っていく。
 

めまぐるしく右折、左折しながら旧道を行く。

 ここまで、それほど気づかずに進んできましたが、左側は急な傾斜地が続いています。丘の上には住宅が。
 
         ↓が旧道。

「峰岡公園」、「峯小学校」脇を抜けて行きます。
公園ではゲートボール大会。

国道に合流し、しばらく進みます。

⑤(11:14)「宮田2丁目」交差点で左折。

道路脇の「延命地蔵堂」から先を望む。いよいよ「芝生(しぼう)の追分」まであとわずか。


(11:20)旧東海道との丁字路に突き当たります。そこが「芝生の追分」。

 

 来た道を振り返る。鶴ヶ峰駅から約2時間の行程でした。
 
追分
≪標柱左側面の説明文≫
 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。

≪標柱右側面の説明文≫
(歴史の道)
 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。

 以前、旧東海道歩きのとき、ここを通過して次の「保土(程)ケ谷宿」に向かいました。その時、「八王子道」に興味を持ちましたが、今回やっとその道を完歩することができました。

旧東海道・「松原商店街」方向。

 ここからは旧東海道を北上し(「神奈川宿」方向)、横浜港に向けて「横浜道」へと進みます。



1880年代のようす。帷子川の北側、丘陵地帯の南端を縫うようにして進む旧道。右の直線の道は「東海道」。



2010年代のようす。○が「宮田2丁目」交差点。←が「追分。
 「国道16号線」をほぼ直線化したため、ところどころに旧道が残る。かつての丘陵地帯はすっかり住宅地に変貌。

 横浜市に入ってからは、ひたすら炎天下の「国道16号線」歩きかと思っていましたが、国道と交差するようにけっこう旧道が残っていて、静かな住宅街の中、ゆるやかな坂道が続きます。
 丘の上に住む住民の方達は、大変そう。でも、その分、足腰が強くなる? 年寄りにはきついでしょうが。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-28 19:50:13 | 八王子絹の道
                        (9:16)「鶴ヶ峰」駅付近の「水道道(みち)」。「筑池」交差点で出会った道の続き。

「八王子絹の道」街道歩き

《第一日目》6月16日。快晴。JR「八王子」駅~京王線「多摩堤」駅
《第二日目》7月13日。曇り、のち雨。京王線「多摩堤」駅~東急線「南町田」駅
《第三日目》8月18日。快晴。東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅

そして
《第四日目》8月24日。快晴。相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅

 炎天下、にわか雨、熱中症:危険、という状況下、「国道16号線」歩き、脇道に入っての旧道、行き過ぎたり、道に迷ったり、と。
 八王子から横浜まで、けっこうアップダウンのある道筋。八王子から横浜まで、健脚なら2日間のコースを4日がかりでやっと終着地点へ。

 8月24日(土)晴れ。相鉄線「鶴ヶ峰」駅(9:15)。

 「白根」交差点から旧道に復帰。
 

 国道に合流したあと、「愛宕」信号のところで、左手の急坂を上ります(9:33)。


坂入口の右手に「白根村道橋改修碑」。

                          
 この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を記したものです。
 江戸の住人櫻井茂左衛門が供養のため、田地を買収し、破損した橋を改修、往来の難儀を救ったとあります。この碑は元文4年(1739)11月に建立されたものです。
 八王子往還は、芝生(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。

 ここにいう橋とは「帷子川」に架かる橋で、国道の右手下がその流れなので、元の位置とは異なるようです。

坂道から国道を振り返る。

しばらく進むと、下り坂に。

人専用の小さな橋を渡り、しばらく道なりに進む。

 「西谷第2歩道橋」で国道を横断して進む予定が道路工事のため全面通行止め。しかたがないので西谷駅方向に進みます(9:48)。


↓が旧道。

 「東海道新幹線」の下をくぐり、西谷駅へ。その先で旧道に復帰(9:57)。
  

この付近の今昔

1880年代のようす。「帷子川」沿いに進む旧道。


2010年代のようす。相鉄線、新幹線などの敷設により大変化。「妙福寺」、「正観寺」の位置は変わらず。

本年11月30日(土)、相鉄・JR直通線が開業することに。その幟が。

 相鉄・JR直通線は、相鉄線西谷駅とJR東海道貨物線横浜羽沢駅付近間に連絡線(約 2.7km)を新設し、この連絡線を利用して相鉄線とJR線が相互直通運転を行うもので、「羽沢横浜国大」駅からJR東海道貨物線に乗り入れ、「武蔵小杉」、「西大井」、「大崎」、「恵比寿」、「渋谷」、「新宿」の順に停車します。
          
 商店街が活気を取り戻すか?

 (10:04)「西谷郵便局」のところを左折し、相鉄線をくぐり、「妙福寺」前で国道に復帰。
  

「正観寺」を過ぎた先に、比較的新しい「旧八王子道道標」(10:14)。
  

 この先、左手にある古い「庚申塔」のところを左折し、さらに右折すると、「環状2号線」に突き当たります。
 迂回して「国道16号線」に合流し、先に進みます。
「国道16号線」。広くて立派な通りに。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-23 19:54:40 | 八王子絹の道
              「鶴ヶ峰浄水場」付近の高台からの眺望。

見晴らしのよい散策路になっています。


 「鶴ヶ峰浄水場」を回り込むように「ふるさと尾根道」ルートを進みます。下りの階段があるので、そこを下りて国道に出ます。
 
 ところが、旧道はこの階段の途中で左折するか、「浄水場」に沿うように、もっと先まで上がって右に降りて行く道が正しいようです。
  
 「白根」交差点を左手に入ると、「鶴ヶ峰坂」の表示が。
    「長さ二町(218㍍)の急坂で旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった。」

「白根」交差点を横断し、旧道へ。

 けっこう暑くなって日陰もなさそうな道。近くに相鉄線「鶴ヶ峰」駅があるので、ここで、リタイア。駅に向かいます。

「帷子川」の流れ。
 もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川でしたが、大戦以前は耕地の灌漑等を目的に利用されており、治水事業としては本格的な改修は行われていませんでした。水害を契機に、 川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す約7.5kmにわたる地下分水路や、鶴ヶ峰駅付近の帷子川親水緑道などの親水公園、川辺公園などが造られました。(この項、「Wikipedia」参照。)




1880年代のようす。中央の東西に延びる道が「八王子街道」。「帷子川」の蛇行がものすごい。




2010年代のようす。旧道は途中はっきりしない。「帷子川」の河川改修がよく分かる。


 横浜というと、港町という印象でしたが、西北に広がる一帯は、けっこう坂道の多いところで、上り下りが大変そうな街並みで、丘の上にまで家が立ち並んでいます。

「鶴ヶ峰」駅からJR総武線「錦糸町」駅まで。「すみだストリートジャズフェスティバル」のメイン会場の「錦糸公園」に向かいます。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-22 19:09:06 | 八王子絹の道
                         宿内の通りは歩道など整備されています。
                           「筑池」交差点。

「水道道」という表示。
                        「水道道」探索も面白そうです。

日本初の近代水道は 横浜で明治20年開設
 神奈川県は明治16年(1883)、香港政庁の英陸軍工兵少佐、H.S.パーマーが来日した際、彼と3か月の契約を結び、水道施設に関する調査、設計を依頼した。
その報告書に基ずき同18年工事が着工され、津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する地点(海抜100m)に取水口を求め、そこから野毛山浄水場(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけ、同20年9月に開通させた。
 相模川が狭い山間を流れる上流部と川井接合井から野毛山に至る丘陵は起伏が多く、帷子川が曲がりくねり、地盤も悪く工事は難航した。
 英グラスゴーから輸入した鋳鉄管は船で相模川から上流に運び上げるか、水道管を埋設する道路敷にトロッコを埋設して運搬されており、今でも随所にトロッコ跡が見られる(福泉寺入口付近、川井本町バス停付近、西川島公園など)。
 給水開始の日には関内の吉田橋のほとりで、消火栓を使った放水試験がおこなわれ、筒先から勢いよく吹き上げる水に人々は驚嘆したものだ。
「川井本町」バス停付近。
(この項、「旭ガイドボランティアの会  村田啓輔」さんのHPより)

「(横浜)高島町まで10㎞」ポスト。

この先の「今宿」から左手に入っていきます。

                           

すぐ左手に旧家の佇まい。 

住宅街を進みます。旧道らしい道筋。

大きなおうちも目立つ。

 路傍には「馬頭観音」や古仏が。

「国道16号線」に合流。

すぐ「鶴ヶ峰本町」交差点で左に入ります。

ここも左手に進む。横浜はけっこうアップダウン(坂道)の多いところ。

左手の「薬王寺」門前の「六ツ塚」。

               
 おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
 その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を6月19日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は元久2年6月22日(1205年今より768年前)公は42才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り、代々伝えて六ツ塚と言う。

     昭和48年6月22日 旭区役所 旭区観光協会

通りをはさんだところにも塚が設けられています。 

元の道に戻り、上っていくと、「駕籠塚」の案内板。 


 「鶴ヶ峰浄水場」の脇右側に『遺跡 駕籠塚』の石柱と『畠山重忠古戦場跡-駕籠塚-』の標柱が立っていて、その奥に塚と説明碑があります。  
                            
 元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル
 北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
 重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
 内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
 駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル
             

 重忠の内室「菊の前」が急いで駆けつけたが重忠の戦死の報を聞き、悲嘆慟哭し、駕籠の中で自害し、駕籠ごと埋葬された。その霊を弔うための塚という。           
               そこから南方を望む。

 「鶴ヶ峰」周辺には、「畠山重忠公首塚」、「畠山重忠古戦場」など関連した史跡が多くあります。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-20 19:03:51 | 八王子絹の道
                             (10:34)「東名」を越えたあたり。右手が「東名」。左手がホテル街。

 炎天下の毎日。熱中症も危険! なかなか出かけられず・・・。
 思い切って18日(日)。予報での曇りのマークをあてにして。ところが、快晴。
 「錦糸公園」中心に恒例の「すみだストリートジャズフェスティバル」(第10回目だそう)を開催中なので、早々に切り上げ、そっちへ向かうことに。
 ということで、今回も中途半端です。
 「南町田」駅を下車し、街道歩きを再開。「町田市辻」で旧道を右折、「東名入口」交差点まで。「東名」の「横浜町田インター」付近。
 「東名」を越えて「国道16号線」に行くために、脇道のトンネルをくぐったりして、向こう側に出ます。
 「東名」を走るとき、「神奈川」から「東京」という表示が出て、すぐまた「神奈川」になるところ。左手にはラブホテルが並んでいますが、そのあたりだったのですね。
頭上は「保土ヶ谷バイパス」。

この先で、右手の坂道を上ります。左手にはホテルがいくつか。 

右手には落ち着いたお店。「きむかつ舎しゃり銀」横浜町田本店。
 超薄切ロース肉を重ねて揚げたとんかつ「キムカツ」を考案した木村義美さんのお店のようです。炊きたてのご飯もおいしい、とのこと。
             

(10:53)「国道16号線」の歩道橋を渡って、向かいの旧道へ。

左手には「川井浄水場」からの「水道導管」。

「亀甲山(かめのこやま)」交差点から左手に進む。

「セブンスデー・アドベンチスト横浜英語キリスト教会」の施設が並ぶ。

(11:10)左手奥に「大貫谷戸水路橋」(↓)。

けっこう暑くなってきます。日陰がない!

左手には高台が続きます。


(11:25)「宮ノ下」で国道に合流。

その先、「上川井神明社」のところを回り込みます。

住宅街を進む。

土蔵のあるおうちも。

やっと木陰のある道へ。

(11:34)無人野菜販売所。まだあるのですね。

右手が開けて見晴らしがよくなります。

                                

「川井宿町」という表示が。

来た道を振り返る。

先に進みます。照り返しがだんだん厳しく。

                         

再び国道へ。(11:46)「川井宿」バス停。 
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-23 18:39:39 | 八王子絹の道
               少し人通りも少なくなってきます。
 

1880年代のようす。この当時も賑わっていた街並み。


2010年代のようす。
    小田急線(上)、JR横浜線(下)の両町田駅を中心に栄えている。旧街道は中央のまっすぐに南東に向かう道。

(13:11)JR横浜線を越えます。

先に進みます。

 (13:37)ここにも旧道が残っています。右の細い道に入って行きます。
 

静かな住宅街。

                  


2010年代のようす。→が旧道。


1880年代のようす。

↓の道(右が北方向)。

 (13:52)「町田街道」に合流して先に進みます。この頃から大粒の雨が落ちてきます。

大きなビルが立ち並ぶ中に普通の民家が混在。

(14:00)「小鶴橋」(東急田園都市線跨線橋)を越えて先に進むのをギブアップ。

 東急「南町田」駅に向かいます。中途半端な歩きでした。この駅付近も大きなテナントビルを建設中。「保土ヶ谷バイパス」が頭上に。しゃれた駅舎に変貌です。


1880年代のようす。田畑の中の道。


2010年代のようす。現在、駅周辺は大規模開発中。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-22 19:10:56 | 八王子絹の道
                  「町田街道」に合流。
「現・町田街道」が直線化され、残された旧道? 

                                   

「町田街道」の拡幅工事のため立ち退いた建物の跡? 

(12:03)「滝の沢」交差点で右に進みます。小田急町田駅方向へ。 

                    

         「馬頭観音塚跡」碑。

だんだん賑やかに。車もけっこう多くなります。

(12:15)「森野」交差点で現代の「鎌倉街道」と交差します。

                                        

 この「鎌倉街道」は都道18号府中町田線で、東京都府中市より多摩市を経て町田市へ至る都道。通称を「鎌倉街道」と呼ぶ。ほとんどの区間で鎌倉街道上ノ道(鎌倉古道)に並行している、とのことです。ただし、「鎌倉街道」として神奈川県内にも続いています。

  

(12:30)しばらく進むと「小田急線」の踏切。すぐ町田駅前に。

                      

 駅前広場に「絹乃道」石碑(昭和58年建立)。「此の方よこはま」「此の方はちおゝじ」」とあり、裏面に「原町田誕生四百年記念」とあります。
  

解説板。
絹の道
 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政6年(1859)に横浜が開港されると日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は主産地である長野・山梨や八王子から町田を通って横浜へ運搬されました。
 新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果した中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
 そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として原町田誕生四百年を記念し一番街商店会が建立しました。

                                            昭和58年12月吉日
 広場のベンチで小休止。

(12:50)再開。賑やかな商店街。けっこうな人通りです。

新しいデザインのマンホールが二つ。

                       

町田駅周辺はJR横浜線と小田急線とで、たいへん賑やかな街並み。


新しい建物が多い中で、こんな昔ながらの蔵造りのお店。富澤商店」本店。
 このお店。お菓子作り、パンなどの材料やドライフルーツを扱っているお店。都内などあちこちにお店がありますが、「東京スカイツリー」店でよく買い物をします。このあいだ、ドライトマトを買いました。その他にも品ぞろいが豊富です。

こういうお店も。乾物屋さん。河原本店」。   

 老舗然とした存在感のある店構えは乾物デパート【河原本店】。どこにも負けない豊富な品揃えと驚くべき昆布の知識。
 小田急町田駅東口から歩くこと数分、商店街の終わりに現れる昔ながらの懐かしい店構え。数ある町田の乾物屋の中でも長い歴史を誇る【河原本店】だ。乾物デパートと書かれた通り、店内にはありとあらゆる乾物が整然と並ぶ。昆布や椎茸、豆類は勿論、他の店では見られない珍しいものまで、品揃えは70アイテム、総商品数は数えられないというから驚きだ。
 4代目店長の河原氏は北海道にまで出向き仕入れを行うくらい、昆布へのこだわりが高く、その知識も驚くほど。これからもずっとこのままの姿でいてほしい、ゆっくりとした時間が流れるお店だ。
(「」HPより)

その先、「町田市商工会館」のところに、「二・六の市」碑。

                                   
原町田商店街発祥の地 「二・六の市」の碑
 原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立したのち、天正15年(1578)に、それまでの市をわけて、「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれています。本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町田の“市”は炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間頃(1818~1843)には「二・六の市」となって、月に六回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ、今日の原町田商店街発展の礎を築いたといえるのです。
 幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ“絹の道”の中継地として、各地から生糸商人が集まり、“市”の規模も大きくなっています。
 “市”が開かれた場所は、川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで、道の両側の家の軒先に“マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。
 明治41年(1908)に横浜線が開通し、交通の便がよくなると、“市”の日以外にも人びとが集まるようになり、次第に商業の街としての形が整うようになりました。
 大正14年(1925)には、古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に“ボロ市”として独立し、有名になりましたが、昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて、物資不足から出店数も減り、昭和19年(1944)6月、360年程続いた“市” も、ついに幕を閉しています。しかし、原町田は戦後再び商業地としてよみがえり、飛躍的な成長を遂げて今日に至っているのです。

                                1985年10月 町田市史編さん室編修
「二・六市 発祥の商店街」。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-18 18:29:06 | 八王子絹の道
                            旧道らしい脇道へ。
                             

沿道にはこうした農地も所々に。

 「中常磐」で「町田街道」に合流します。そのまま道なりに進んでしまいましたが、右手に旧道がありました。
(10:42)写真では右手奥の細い道。



1880年代のようす。屈折した道が続きます。



2010年代のようす。↑が旧道? その先も旧道は「桜美林学園」敷地内や住宅街に入り、失われているようです。

 そのまま「町田街道」を右手へ曲がって行くと(左を進む広い道は「八王子町田線」)、両側に「桜美林大学(学園)」キャンパスが広がります。


                      

(11:08)街道筋にある「ダイマル水産」。

賑やかな街並みに入っていきます。

 「上宿」バス停から右折していきます。木曽町を通る道筋で、かつての街道を彷彿させる雰囲気の静かな住宅地を進みます。
 

(11:20)右手に小公園。

                 「上宿公園」。

 

右手に「秋葉神社」。隣には「福昌寺」。

大きなおうち。

    
                  道幅も昔のままのようで、約600㍍続く。

木曽町の今昔。
        

       
1880年代のようす。集落を形成している。下の丁字路が矢倉沢往還(奥州古道)との交差点。家康の遺骸を日光へ移送したときの道筋。




2010年代のようす。かつての道筋をよく残している。上の丁字路は変則的な四つ角になっている。そこにあるお寺が「覚円坊」。

変則的な四つ角へ出ます。

                      来た道を振り返る。

(11:34)右の道をしばらく進むと、「木曽一里塚」跡があります。

              

解説板。
 徳川家康は秀忠に命じて慶長9年(1604)に江戸日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約4kキロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩をとれるように、榎や松が植えられた。
 町田市内には木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和3年(1617年)に徳川家康の遺櫃が駿河久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんぴつおなりみち)と呼ばれた。18世紀になると、関東各地から相模国大山阿夫利神社への参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。

《参考》「小野路一里塚」。(「」HPより)

「木曽一里塚」跡から先ほどの四つ角に戻ります。右手に「覚円坊」。

                  

 
 旧道を振り返る。                    先に進みます。
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京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-16 21:25:30 | 八王子絹の道
                            「町田街道」。
 7月13日(土)。曇りのち雨。
 東京地方はこのところずっと梅雨空。25度以下の涼しい日が続き、日が差しません。このあともそんな日々が。街道歩きもままならず。身体もなまってしまうので、出かけました。
 案の定、途中から雨が降り出して、早々に切り上げることに。中途半端な歩きです。

 京王線「多摩境」駅下車。前回のところまで戻って歩きます。街道は、県境を流れる「境川」の北側を進んでいます。現在の「町田街道」がほぼその道のようですが、「町田街道」の右や左に旧道が残っています。そこでは街道を外れて進みます。見逃さずに進めるか、どうか?
(9:38)京王線高架下から「旧道」を望む。



1880年代のようす。地図が一部つながっていないので、旧道は不詳。↑が旧道。「境川」北側、丘陵沿いに進んでいる。



2010年代のようす。北西から来た旧道は「片所」バス停付近で現在の「町田街道」に合流。その先、「小山駐在所」の先を左に入っていく(↑)。

「町田街道」は拡幅工事が進行中。

「小山駐在所」先で左に進む手前、左奥に大きな屋敷。

                              広大な敷地。

左に入り、広い道路(南多摩尾根幹線道路)を渡る。

 (9:58)二つ目の四つ角の右角に大きな石灯籠(慶応元年)。
           

すぐ脇を走る「町田街道」の喧噪とは違った静かな住宅街。  

その先、左手奥に「長泉寺」。

旧道はしばらくして「町田街道」に合流。

「浜焼市場」。

旧道らしき脇道へ? 

(10:25)「下馬場町内会館」。
 町田市小山町は、田端遺跡の他に、小山ヶ丘の開発に伴い、旧石器時代、縄文時代及び弥生時代の土器、石器が出土され、以降、古墳時代、奈良、平安時代からこの小山町近辺に人々が暮らしていました。  
 安土桃山時代には小田原の北条氏の支配となり、江戸時代は徳川氏の天領地となりました。江戸時代、下馬場地区は小山村下郷となり、明治時代、相原村と小山村は合併され堺村となり、下郷は集落名が馬場となりました。堺村は明治26年神奈川から東京に移管され、昭和33年に町田町、鶴川村、忠生村と堺村が合併され、町田市となりました。  
 地名の由来は、昔、馬場(ばば)(馬の競走場)があったこと、鎌倉時代、馬場地区は鎌倉街道の中で重要な位置でありその番人が居た番場(ばんば)があったことから、馬場(ばんば)の地名となったと言われています。 (この項、「下馬場町内会」HPより)

この道も旧道らしい脇道。

「常磐」バス停のところで斜め右に入る道が旧道。↑の道。

(10:35)「町田街道」側を振り返る。

1880年代のようす。↑の道。

2010年代のようす。

 かつては、「境川」がそうとうに曲がりくねった川であったことが分かります。

境川
 東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。なお、かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。
 東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐ。 上流部は、現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。
・・・
 かつては激しく蛇行しており、たびたび洪水を引き起こしたために河川改修が行われ、神奈川県相模原市緑区橋本付近よりも下流では拡幅とともに流路の直線化が行われた。ところが、左岸の東京都町田市と右岸の相模原市の間では旧流路に合わせて設定された市境(都県境)の調整作業が殆ど進まず、互いに「川向こうの飛地」を多く抱えている。2000年代に入ってからこれらの飛地解消のための調整作業が行われているが、管轄自治体の変更は居住者の同意が必要であることから進んでおらず、飛地解消の目処は立っていない。2016年までに6回境界変更が行われている。

(以上、「Wikipedia」参照)

町田市が、本当に神奈川県だった時代...明治に繰り広げられた「多摩領土戦争」とは?
2016年5月 3日 11:00
 よくネットで話題になる「町田は神奈川」ネタ。神奈川県に食い込むような形の東京都町田市は、しばしば「領有権ジョーク」の題材になっている。
 しかし、かつて実際に町田が神奈川県だったことは、あまり知られていない。それどころか、「住みたい街」常連の吉祥寺でさえ、神奈川だった時期があるという――神奈川と東京の「領土」変遷を追った。

「多摩」ほぼ全域が神奈川県に!
 神奈川と東京の領土変遷は、それすなわち多摩の歴史となる。「万葉集」にも詠まれている多麻(多摩)。平安時代から幕末まで、1000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」だったが、明治維新にあわせて分割される。
 幕末の混乱と廃藩置県にともなって、それまで「多摩郡」とされていた地域は、「韮山県」「品川県」「入間県」などの管轄へ。そして明治5年(1872年)春までに、ほぼ「神奈川県」へ移管される。
 移管に先立って、明治4年11月(1871年12月)に神奈川県は、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出している。遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていた。
 それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになる。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたる。

東京都に戻った理由は...
 それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出された。最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。1886年にコレラが流行したとき、西多摩郡内で患者の排泄物が投下されたと伝えられ、府は「非常ノ警戒」をしたという。
 東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていた。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがる。
・・・
 なお、水道に直接関係ない南多摩郡も、このタイミングで東京府へ移った。
 福生市郷土資料室が作成した「もっと知りたい 福生の歴史」によると、
「この問題に、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な問題も絡み、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となりました」とある。

(この項、「Jタウン東京」https://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/225397.html?p=allHPより)

HPより)
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-21 21:34:23 | 八王子絹の道
                             「小泉家屋敷」。

(13:13)「御殿橋」のたもとにある「八王子道標」。
               正面に「八王子道」、東面に「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」。

 山道の上り下りで足の指の痛さはかなりですが、もう少し歩くことにします。
 道標の裏に解説板。
 この道標は、輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして慶応元年(西暦1865)に建てられました。
 当時、この道筋には家屋敷が立ち並び、外国人等も往来して大変なにぎわいをみせていました。
 生糸の仲買人として活躍したこの地の商人たちは鑓水商人として、後世にその名を残しています。その姿は道標の正面に描かれています。
 なお、この道標は、御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂横に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い、昭和63年に現在の場所に移されました。


 街道は「大栗川」の右岸を進んでいて、本来はそこにあった道標のようです。「御殿橋」は渡らず、手前を左折して川沿いに進みます。

「高齢者専用住宅 シルクロード鑓水」。

嫁入橋」を渡ります。 
                                            「大栗川」。上流に「御殿橋」。
 「嫁入橋」という名前のいわれは何でしょうか? 興味ありますが。

「柚木街道」に出ると、「谷戸入口」という信号。横断して、南に向かいます。

ここで「谷戸」について。
 谷戸(やと)とは、多摩丘陵・三浦丘陵・狭山丘陵・房総丘陵・武蔵野台地・下総台地といったの関東の丘陵地・台地の縁辺部が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形のこと。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれる。
 これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
 これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
 なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。

土地利用
 大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間は利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
 こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
 反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
 戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。
 明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
 しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。

生態系
 生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。

 以下、鑓水付近の谷戸について、「谷戸めぐり 鑓水の地名」yato.no-mania.com/ ブログを参照し、紹介します。
 なお、この方は、「多摩の原風景を求めて歩き回っています」との自己紹介にあるように、踏査したブログには写真も多く掲載されていて、たいへん興味ある内容です。
谷戸めぐり
 谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。

子ノ神谷戸(ねのかみやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸支谷
河川:大栗川源流部子ノ神谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 鑓水の谷戸群は大栗川の北岸を中心に非常に良く残っている。
逆に南岸は公園化や学校、宅地化により消滅しているところが多く対照的だ。
 子ノ神谷戸は現在は諏訪神社に合祀されているこの地の鎮守・子ノ神神社があったことに由来しているそうで、先述の北岸の谷戸群の一つである。
ただ厳耕地谷戸、嫁入谷戸に比べて荒れ地が多く、荒廃した印象が強い。
 中流域までは農地と宅地が点在しているが、谷頭部は近くに霊園が開発されて尾根の一部が削られたりしたせいもあり、夏場は立ち入ることが出来ないほどの藪になってしまっている。

嫁入谷戸(よめいりやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、嫁入谷戸本谷
河川:大栗川源流部嫁入谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 嫁入谷戸とは変わった名前の谷戸もあるものだと思っていたが、これには深い理由があるようだ。この地に昔、夜な夜な現れて舞いを踊る巫女が現れ、村の若者が皆魅了されてしまった。これは魔性の類だと言うことになって、屈強なものが弓を射かけると、たちまちに姿は消え、次の日、弓に射貫かれ田に横たわる狐が発見された。
 この巫女伝説に由来し「弓射谷戸」となり転訛して「嫁入谷戸」となったという説がそれだ。大栗川を挟んだ対岸には「巫女の沢」という名前もあり、この伝説に因む名はこの地の特徴の一つとなっている。
 しかし「弓射」の転訛で「嫁入」というものの、昔から「狐の嫁入り」という言葉もあることから、もっと深い事実が元になっているのかなと想像を掻き立てられる話である。
 他の説では、鑓水商人の家に、三井家から嫁入りがあったことに因むというのもあるが、なんとなく個人的には前者が有力な気がしてならない。
 この谷戸はこの地域の他の谷戸と同じく大栗川の源流部に辺り、当谷戸の水路もそのまま他の谷戸からの水と合わさり大栗川となって多摩川に向かって流れて行く。
 この谷戸は先端部が二分岐しており、本谷と支谷ともに現在でも耕地、水田として現役である。
・・・
 谷頭部から下流を見下ろすと、すぐ先にはニュータウンの林立する高層ビルが見えるが、ニュータウンのほど近くなのに、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、葉擦れの音以外にはまず余計な音が無く、非常に静かな場所だ。この付近まで歩いてきたら、この里山の音に耳を傾けて、じっくり癒されたい。

厳耕地谷戸(がんこうちやと・げんこうちやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸本谷
河川:大栗川源流部厳耕地谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 八王子市鑓水は今でも谷戸と里山の景観を色濃く残している貴重な地域で、多摩丘陵の昔の雰囲気を肌で感じられる少ない場所の一つとなっている。
 当地は鑓水のほぼ中央に位置しており、八王子バイパスの方面の尾根、御殿山方面からの抜け道が走っている関係上、自然豊富ながら交通量も多く、徒歩で散策していると極めて煩わしく感じる。
 当地は歴史的に見ても重要な土地柄で、近くに「絹の道」という昔道があり、絹糸の売買で財をなした鑓水商人の館などが保存されており、これを土台とした絹の道資料館は散策の途中に是非とも寄りたい場所である。
 ちなみに「資料館」には鑓水の昔の姿のジオラマがおいてあり、当地周辺の谷戸の分布などを探る一級の資料となっている。
 歴史的に重要で、ニュータウン開発地区に入らなかったことなどから、この地は谷戸と里山の景観をとどめていると言っても良いのだが、すぐ近くにニュータウンがあったり、八王子方面から横浜方面を結ぶ八王子バイパスや、16号御殿山交差点など、交通の要衝の近くにあることなどで、開発の波は徐々に押し寄せてきている。
 鑓水地区でも東谷戸、日影谷戸、巫女の沢などはすっかり宅地化が進み、その他の谷戸にも耕作放棄から宅地化への流れが見え隠れしてきているし、
当地の小支谷も霊園開発などが行われており、消滅までは行かなくとも、景観の変貌は着実に現実の問題となってきている。
 当地では一部に水路やビオトープを作って、蛍を楽しめる場所造りの取り組みがスタートされていたり、隣の柚木地区の公園化による里山の保護活動とのシンクロによって、様々なアイディアが入ってきているのは歓迎すべき事だろう。
 歴史と里山の宝庫となって時代へ残したいものである。

「板木谷戸」と呼ばれる道筋に。

(13:21)右手に茅葺きの「小泉家屋敷」。
 小泉家の主屋(建築面積112平方㍍)は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建て入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築をしている。
 屋敷地の面積は約33.2アールで、南面した道路沿いには宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。
 敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・肥衣塚などが点在し、多摩丘陵地帯の一般的農家の屋敷構え・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
                     

その先、道はカーブして上っていきます。右手には鬱蒼した森が。
                                     「鑓水板木の杜緑地」。
「解説板」。
鑓水板木の杜緑地
 この地域一帯は岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先のとがった道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。
 この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え、飲料水として利用してきた。これを筧(かけひ)と言い更にこの瓶から水を流れるようにしたものを『鑓り水』と言うが、これが鑓水の由来と考えられる。
 また、板木という名は古文書のある古絵図に記された「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地は古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。
 というのは、この地域から発掘された縄文土器の紋様と、アイヌ人が現在でも使用している衣装の文様とよく似ているのが、なによりの証拠と考えられているからである。
 そして、の「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。
 なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に重要な街道であった。

この辺りは、「心霊スポット」としていっとき有名なようです。
 ①鑓水峠(大塚山公園)にあった、明治8年に建立された道了堂跡
 昭和38年(1963)、堂守の老婆が殺されて、後、廃寺になった。そのため、稲川淳二の怪談「首なし地蔵」の舞台ともなっている(地蔵に触れると呪われる云々)、とか。
 ②そしてここ「鑓水板木の杜緑地(鑓水公園)」。
 昭和48年(1973)不倫の清算に失敗した立教大学の助教授が、交際相手である女子大生を殺害し埋めた事件。助教授は事件発覚前に妻と子供とともに一家心中をとげ、遺体発見まで長い日数がかかり、そのかん、マスコミでもセンセーショナルに扱われました。そんないわれがあるようです。
 たしかに「大塚山公園」は何だか辛気くさい印象があります。しかし、ここは? あえて公園内には立ち入りません。

「鑓水中」に沿って車進入禁止の広い歩道を進みます。「絹の道」と足下に。

(13:30)「穂成田歩道橋」。見晴らしのいい高台を進みます。

                          

 「鑓水小山給水所」を通り、それまでは炎天下。ここで少し緑陰でホッと。広い歩道を終え、「町田街道」へ向かって下って行きます。
(13:40)「町田市」入り。

なだらかですが、けっこう長い下り坂。

右手に緑濃き公園が広がります。
 
                    (13:48)「小山田端自然公園」。

「町田街道」に出る手前で左折し、細い道に入ります。

「町田市汚水マンホール」。
                      中央に市章、周りに市の花サルビアの花を放射状に描いています。
 今回、このデザインが変更になりました。

新デザインマンホールふたを設置しました 更新日:2019年3月14日
 現在、市で使用しているマンホールふたのデザインは、1989年(平成元年)に作成したもので、使用開始から約30年が経過しています。近年では、地域に由来する文化や歴史、名所、名産などがデザインされたご当地マンホールふたに注目が集まっており、本来のマンホールふたとしての役割に加えて、地域をアピールする役割も担っています。市でも、市民生活を支える下水道事業へ関心を持っていただくことを目的として、町田の魅力を発信する新たなデザインのマンホールふたを作成しました。
 新たなデザインは、町田市と大学との連携に関する協定を締結している学校の学生に作成いただいた案の中から、市民の皆様を中心に投票を行い、決定したものです。
 約4ヶ月の製造期間を経て、ついに新デザインマンホールふたを設置しました。
 ぜひ実物をご覧ください!
 デザイン投票では、市民の皆様を中心に総勢6041名に投票いただきました。
 汚水管の部、雨水管の部それぞれについて、最も得票数が多かった以下のデザインを、マンホールふたの新たなデザインとして採用します。
※デザインは安全性確保の観点等から一部を補正・修正する場合があります。カラーはイメージです。
汚水マンホールふたデザイン

デザインコンセプト:
 デザインのテーマは「愛あふれる町田」です。「町田」の漢字に含まれる「田」の形の区切りに、「家族愛」の花言葉を持つ市の花サルビアと、カワセミのつがい(メスは嘴の下部が赤い)を配置しました。

雨水マンホールふたデザイン

デザインコンセプト:
 町田リス園のリスをモチーフに、爽やかな印象を持ってもらえるように、降る雨を眺めるリスのシルエットと水の流れを合わせた切り絵風のシンプルな絵柄にしました。

(この項、「」HPより)

(13:53)静かな住宅街を進みます。

庭に咲いている紫陽花。
                   「ピラミッドアアジサイ」?

 「京王相模原線」のガードをくぐり、しばらく進むと、「町田街道」に合流します。が、左手を見ると、奥の高台に「多摩境」駅。暑いし、足も痛いし、ここで今回はおしまいに(14:00)。

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