おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その5。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-29 22:19:59 | 日光例幣使街道
                     雨もいくぶん小降りになって一安心。しかし、周囲は煙ってきます。
子どもたちが元気に自転車でおでかけ。


「庚申塔」と「甲子(かっし)塔」。
 「庚申塔」はよく見かけますが、「甲子塔」とは?
 十干十二支による「甲子(きのえね)」の晩に大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰。「庚申待ち」は徹夜、「月待ち」は月の出までを原則とするのに対して、これは子の刻(深夜12時)までとするようです。「子待ち」ともいいます。東北地方から関東・甲信越地方に分布。

(13:56)目指す「忠治茶屋」の看板。あと500mとのこと。

左手に「子どもの森公園」の入口に「日光例幣使街道」の解説板。遠目で過ぎます。

伊勢崎まゆドームについて  (HPより)
 群馬県伊勢崎市にある子供のもり公園・まゆドームは、伊勢崎銘仙にちなみ、まゆの形をイメージした外観が特徴的な自然環境学習センターです。園内には芝生広場や冒険山などがあり、こどもたちが元気に遊べる設備が充実しております。公園前にはコンビニエンスストアもあり、手ぶらででかけても安心です。様々な体験学習も用意されておりますので、まゆドームだよりなども発行されておりますので事前にチェックしお出かけしてみてはいかがでしょうか。


 晴れていれば、子どもたちの姿もいっぱいあったでしょうが、生憎の雨。
「ぼうけん山」。

 (14:04)ようやく「忠治茶屋」に到着。
 お店に入るとお客さんでいっぱい。注文も順番待ち。腰掛けてゆっくりともできず、土産として、酒まんじゅうなど購入して出発。


 隣に運ばれてきた品を見てビックリ! 巨大なまんじゅう! 一人で食べきれるの? 香ばしい匂いも漂ってきて、・・・
 (HPより)
 想像していたよりパン生地のようにふっくらとしていて、けっこうお腹に入るらしい。

焼きまんじゅうの忠治茶屋の由来
 忠治茶屋本舗の建物は、国定忠治が御用になった西野目宇右衛門宅解体の際、 忠治茶屋店主が譲り受け、その資材を使い建築したものです。
 国定忠治は、上州から信州へ渡る唯一の街道筋の大戸宿(群馬県吾妻郡)関所を二度にわたり破っている。最初は、天保5年、忠治25歳の時、島村ノ伊三郎を斬った足で信州中野の貸元へ身を寄せる逃避行のため。二度目は、27歳の時、忠治が恩義を受けた信州の兄弟分が殺された仕返しに行くため、槍、鉄砲などの武器を持参して、白昼堂々、20人もの子分衆を従えての関所破りだった。当時、関所破りは、100年に一度あるかないかの重罪だったことから、忠治は27歳にして、天下の大罪人になってしまったわけです。
 西野目宇右衛門は、上州田部井村(現在の群馬県伊勢崎市田部井町)の庄屋で、村民からの人望も厚い人だった。長岡忠次郎(国定忠治)の盟友でもあったことから、病気で役人の目から逃れようとする忠治を自邸の離れでかくまった。広大な屋敷は竹やぶで覆われ、隠れ家としては、最適だったようだ。
 しばらくの間、妾のお町と忠治の平穏な日々が続いたが、嘉永3年(1850年)8月24日未明、ついに国定忠治は宇右衛門屋敷の納屋で、八州役人、中山誠一郎の指揮する捕手たちに捕縛された。
 その後、国定忠治は、自ら破った大戸の関所ではりつけとなり、西野目宇右衛門は、江戸小塚原において、忠治をかくまった罪で打ち首となった。嘉永3年12月21日、国定忠治41歳、宇右衛門54歳の冬であった。
 忠治茶屋は毎月21日(日・火・祝日は翌日)に忠治の没日を記念して特売をしている。


 やはりここで「国定忠治」に触れておきましょう。
国定忠治の肖像(田崎草雲画)

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも)文化7年(1810年)~嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
 江戸時代後期の侠客。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。
 上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
 父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
 忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。
 忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺してその縄張りを奪い、一家を形成する。
 その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
 また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行っていたが、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
 さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。
 関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。
 また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
 忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
 捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。
 忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
 忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妻・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている。
 1882年(明治15年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている。

《逸話》
・国定忠治のたばこ入れ
 愛煙家であった忠治は、そろばんが付いた革製のたばこ入れを愛用していた。こうしたそろばん付きのたばこ入れは、往時の博徒らがよく使っていたという。
・剣の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流へ道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭されたことで命拾いしたと悟り道場を後にする。
・遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。
・信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている。
・喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。

 なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007年)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。

 天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となる。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)。

《名文句》 
新国劇「国定忠治・赤城山」
忠治「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ)
たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」
定八「そう言や何だか寂しい気がしやすぜ。」
巌鉄「ああ、雁が鳴いて南の空へ飛んで行かあ。」
忠治「月も西山へ傾くようだ。」
定八「俺ぁ明日はどっちへ行こう?」
忠治「心の向くまま、足の向くまま、あても果てしもねえ旅へ立つのだ。」
定八・巌鉄「親分!」(笛の音が聞こえて)
定八「ああ、円蔵兄ィが・・・。」
忠治「あいつもやっぱり、故郷の空が恋しいんだろう。(刃を抜いて月光にかざし)加賀の国の住人、小松五郎義兼が鍛えた業物(わざもの)、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ生涯手前という強い味方があったのだ。」

「名月赤城山」作詞:矢島寵児、作曲:菊地 博、唄:東海林太郎
1 男ごころに男が惚れて
  意気が解け合う赤城山
  澄んだ夜空のまんまる月に
  浮世横笛誰が吹く
2 意地の筋金 度胸のよさも
  いつか落目の三度笠
  云われまいぞえ やくざの果と
  悟る草鞋に散る落葉
3 渡る雁がね 乱れて啼いて
  明日はいずこのねぐらやら
  心しみじみ吹く横笛に
  またも騒ぐか夜半の風

「赤城の子守唄」作詩:佐藤惣之助、作曲:竹岡信幸、唄:東海林太郎
1 泣くなよしよし ねんねしな
  山の鴉が 啼いたとて
  泣いちゃいけない ねんねしな
  泣けば鴉が 又さわぐ
2 坊や男児(おとこ)だ ねんねしな
  親がないとて 泣くものか
  お月様さえ ただひとり
  泣かずにいるから ねんねしな
3 にっこり笑って ねんねしな
  山の土産に 何をやろ
  どうせやくざな 犬張子
  貰ってやるから ねんねしな

 『国定忠治』は、『瞼の母』や『一本刀土俵入り』などと並んで、新国劇や映画、旅芝居、村芝居の定番でした。

 たっぷりと雰囲気を味わったところで。
 (14:17)さて、また激しくなってきた雨の中を「旧日光例幣使道 右赤城」という案内表示にしたがって、右手の道に入ります。
 

 
                                    「右赤城」の解説板。
 毎年旧暦の4月1日に京都を出発した例幣使の一行は、中山道によって倉賀野宿に至り、この宿の分か去れの辻から日光例幣使道に入りました。この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見えました。
 柴宿から馬見塚の村はずれにくると、道は西に向きが変わります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。
 ここが日光例幣使道でただ一ヶ所右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。
 この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう 左 ほん志やう」と刻まれています。
 
 もちろんまったく赤城山のすがた、かたちも見えません。どっちの方向になるかも皆目、見当がつきません。


 そこで、晴れていれば、という写真。
HPより)なるほど。すばらしい景色。

 旧道はその先で左折して「県道296号線」に合流します。
 
                           その角に円柱の道標。「右 五りやう 東 日光道 左 ほんしやう」とあるようですが。

来た道を振り返る。


1880年代のようす。この時代にはすでに架橋されています。「広瀬川」は大きく南に蛇行しています。


2010年代のようす。旧道はかなり付け替えられています。「広瀬川」も流路変更されています。湾曲した跡は畑、公園等に。
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JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その4。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-28 21:48:06 | 日光例幣使街道
                                 「関根本陣」跡。

 左手に道に覆い被さる老い松と古びた門。
 
                   建物は以前、解体されましたが、門は残っています。 

解説板「柴宿本陣跡」。
 日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して壬生通りの楡木宿に至るまでの13宿で、柴宿はこの3番目の宿場であり、関根家が代々本陣経営に当たっていました。
 本陣は元来、高級武士や公卿の宿泊休憩施設として設置されたものです。構造は近世の武家住宅を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっています。
 なお、関根家には本陣当時の文書類、調度品が数多く残されており、近世交通史上貴重な資料となっています。 

 本陣跡から200mほど先で右折します。天明の浅間山大噴火でこの付近の利根川流域が壊滅状態になり、街道も道が移され、宿場も元の位置から北側に移設されたため、変則的な道筋(枡形)になっています。

(12:36)右折するところから宿内を振り返る。

 しばらく進み、今度は左折します。けっこうな曲がり具合で車がスピードを出しているとはみ出しそうな感じ。歩行者も要注意。


その曲がり角に「雷電神社」。境内に浅間山噴火の際の溶岩でつくった塚があります。
 「雷電神社」は、特に関東地方を中心に点在する神社で、これまでの街道歩きでも目にしてきました。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。雷除けの神とされています。北関東は「雷」の多いところ?
 群馬県邑楽郡板倉町板倉にある「雷電神社」が、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされているようです。
 先ほど通ってきた、利根川の右岸(玉村町)には「火雷神社」(主祭神:火雷神《ほのいかづちのかみ》)があります。

1880年代のようす。○が右折地点

2010年代のようす。

ここから、またまっすぐな道が続きます。

振り返って望む。

 柴宿の加宿だった「中町」「堀口町」を過ぎたあたりから雨脚が強くなってきます。先を急ぎます。
(13:00)遠くに「東京福祉大学」のキャンパス。

                       (13:06)雨で霞む校舎。

(13:14)「除ヶ(よげ)・大正寺(だいしょうじ)交差点」で「国道462号線」を横断。

(13:23)公民館の庭先にある「道標」。
             「西五料 東日光道 南本庄道」などと刻まれている。
 この街道沿いには「道標」が多く設置されています。この道標の手前の「豊武神社」の二十二夜塔にも「右ちゝぶ/左日光」とあるようです。

 左手に大きな石碑。
  
宏洞松本翁頌徳碑」。
 江戸末期から明治末にかけて活躍した地元の書画家の顕彰碑です。

紛らわしい案内表示。右手の細い道に進むかのような。

 通りがかった小学生たちに聞いたら「この道には小学校しかないですよ。」(広い方の道を指して)「焼きまんじゅうのお店はこの先にあるかな? 」「ありますよ。」「ありがとう。」「さようなら。」・・・この小学生たちだけではなく、出会う方、通りすぎる方、軒先にいる方など、みんな挨拶をするのには、感心しました。

 角には丸い石柱の道標と小さな角柱の道標(どちらも刻まれた内容は判読できず)。


 (13:35)その先の右手には、「伊勢崎織物 大絣(かすり)発祥の地」と記された大きな石碑。「報繊会結成五十五周年記念碑」としての建立。

 伊勢崎織物の主要原料糸は, 古くから生糸、玉糸を 使用し、その糸は六十キログラムを一俵として白い綿袋 に入れ、更にアンペラの袋に梱包され、縄掛して取引された。
 伊勢崎織物の最盛期の昭和の初期には、約六万俵が消費され、この礎石はその俵を擬している。
 又、碑の台座は、織物を反物として丸巻した姿を模した。
・・・
 今ここに輝ける御功績を賛え 後世にその芳名を伝えるため謹んで銘記する
                          昭和六十二年一月吉日 報繊協同組合

伊勢崎絣とは?
伊勢崎絣(いせさきがすり)とは群馬県伊勢崎市周辺で作られている織物です。代表的なものは着物に採用され、その手触りや風合いは古代より高く評価されてきました。今ではネクタイやのれんなどが生産されており、使うほどに絣の模様や光沢に味が出て、生地の深みが増していきます。
伊勢崎絣の特徴は、「括り絣(くくりかすり)」、「板締め絣(いたじめかすり)」、「型紙捺染加工絣(かたがみおしぞめかこうかすり)」という技法が用いられ、工程のほとんどを手作業で行うことです。

 群馬県伊勢崎市は水はけのよい土地に恵まれ、桑の成長しやすい環境にあるため、古くから養蚕が栄えていた町でした。6世紀のものと推定される淵名古墳からは織物片が出てくるなど、織物の歴史は1200年以上とされています。日本書紀には、朝廷に「あしぎぬ」と呼ばれる織物を献上した記録が残っています。市内にある織物の神を祀る倭文神社(しどりじんじゃ)、機織りの祖先を祀る赤城神社の存在からも織物が地域を活性化させていたことがわかります。
 18世紀の初めの江戸時代には絹市が並び、伊勢崎絣は商品として販売されるようになりました。伊勢崎縞(しま)や伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)という品物が登場し、特産品の地位を築いていきます。
 需要が高まると機織りをする農民が増え、仕上げを行う元機屋が登場したきっかけでその伸びは加速しました。1847年(弘化4年)には伊勢崎大絣の起源となる織り方も開発され、作業工程の改善などを繰り返すごとに伊勢崎絣は美しさを増していきます。
 明治時代末期には機械化され黄金時代が幕を開けます。戦後の復興を乗り越え、1975年(昭和50年)には伝統的工芸品として国に認められました。
現在では毎年3月に「いせさき銘仙の日」を定め人々に認知され続けています。

(以上、HPより)



 伊勢崎と並んで絹織物の産地・桐生織物の紹介を。

 桐生織物は1200年前の記録まで遡れるながい歴史を持っています。江戸時代には、幕府の保護もあって「西の西陣、東の桐生」といわれるまでに栄え、明治時代にかけては数々の技術開発や工場制手工業制の確立、ジャカード技術の導入などにより、さらに発展しました。こうした伝統を持つ「桐生織」は昭和52年通商産業大臣伝統的工芸品に指定されています。同時に桐生は絹織物を基幹産業として、時代の要求にあった多品種の織物を高度な技術で製造し、日本有数の繊維総合産地としての地位を築いています。

(この項、「日本絹の里 シルクの総合博物館」HPより)

(13:39)右側の一角に「牛打松」の跡。切り株が残っています。世良田長楽寺を開山した栄朝禅師が牛に乗り、鞭代わりに用いた松の小枝が根付いたと伝わっています。左手には芭蕉の句碑があります。
  

                        

涼しさやすぐに野松の枝の形(なり)
 元禄7年5月11日。伊賀上野の雪芝亭にて。『蕉翁全伝』には、「此の句は閏5月11日の夜、雪芝亭に遊びて、庭の松の物好きもなく植ゑたるを興ぜられしなり。」とあることから句の解釈が可能になる。
・・・
 この家の庭の松は、無理に曲をつけたわけでもなく、枝ぶりはまっすぐに伸びた自然のままでなんとも好感が持てる。それがこの庭の涼しさを一層引き立てているようだ。
 雪芝に対する挨拶吟。この折、雪芝亭ではこの松を植えたばかりだったようである。その植栽記念に芭蕉を招いたのかもしれない。

(以上、『芭蕉俳句全集』HPより)

 「向松庵創立二百年記念碑」は「向松庵」という「牛打松」に向かって建てられた庵の主の顕彰碑となっています。芭蕉の他「松」にちなんだ2名の句が記されています。

(13:45)かなり雨が激しくなってきます。
左手に「日清・日露戦役記念碑」
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JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その3。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-27 21:34:56 | 日光例幣使街道
                                  用水路沿いの旧道。

 (11:55)しばらく進んで、県道に合流。
来た道を振り返る。

合流するところには「常楽寺」。

入口に道標があります。「利根川渡船 玉村町小泉道」と刻まれているようです。

 県道を横断していくと、「五料宿」・「五料関所」跡になります。


現在の家並み。

                         

 案内板に従って左に入ったところに「五料関所」跡があります。前方が「利根川」の堤。


 (12:00)道の左右に関所門柱の礎石が残されています。
 

解説板。
 五料の渡しは東西交通の要衝であった。戦国期には那波氏の家臣でこの付近を領していた石倉氏が、関所を設け関銭を取っていた。
 慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)主が平岩親吉から酒井忠重に移ると、五料に関所を設けた。元和2年(1616)8月に幕府公認の関所となったが、更に元禄10年(1697)再び幕府の指定をうけている。しかし関所の管理は、明治元年廃関まで前橋藩が管理をしていた。
 正保3年(1646)から恒例となった、日光東照宮への奉幣使の通路であり、例幣使道一ヶ所の関所であった。
 五料の関所は、日光例幣使の通行と舟運の取締りが、特別に課せられた任務といえる。特に上り舟(江戸方面に向かう船)については、禁制品(鉄砲・鉛・焰硝・硫黄等)が、積み込まれていないか船中を改め、不審の点がなければ、船問屋から手形(請書)を提出させて出船を許した。
 天明3年(1783)7月の浅間山噴火は、沿岸に大きな災害を与えた。地元の沼之上村も泥押しの被害にあい、関所全部が泥で埋まり建物の屋根だけが見えるだけであると報告している。
 その後、天明6年(1786)7月の洪水、文政10年(1827)3月の火災等の際にも、関所は被害をうけている。
 玉村宿方面から来ると例幣使道筋からの門から入り、河原の船着場に向かう門から出て渡し船に乗るような構造になっている。
 現在遺構としては、玉村方面からの門の沓石と関所用の井戸だけである。

五料関所
 江戸時代、例幣使街道に設置された関所である。中山道の倉賀野宿から例幣使街道へ分岐し玉村宿を経て利根川に面する上野国五料に位置する。設置時期は諸説あるが、寛永13年(1636年)以前には設置されたものと考えられている。関所の管理は前橋藩により行われていた。
 元和2年(1616年)利根川・江戸川筋および渡良瀬川筋の16ヶ所の定船場に対し定め掟書が出され、女人および手負の者の取締が行われた。この16ヶ所の中に五料も含まれている。五料関所の改めは、武具の検閲は厳しくなかったが、女人の通行改めは厳重に行われていた。
 寛永8年(1631年)「幕閣の重臣連署のもとに、東国の各関所規定を出し、女・手負い・欠落者など怪しい者の取締りと、それを捕まえた者への褒賞が達せられた」。この規定書では、「箱根(東海道)・関宿(日光東往還)・小仏(甲州道中)などともに、小岩・市川(佐倉街道)、新郷・川俣(日光裏街道)、柴・五料(日光例幣使街道)、金町・松戸(水戸街道)、房川渡し中田(日光道中)」などの定船場が記されていた。
 江戸幕府が関所を設けた目的は、幕府の政策を維持して、破綻しないようにしたものであり、国内の治安警察権を行使するためのものであった。
これらの関所は「諸国御関所書付」に記され、五料関所もその中に含まれている。
 その中で、関所における検閲が記されており、女の通行に留守居証文を必要とすることが記されている。
 元和2年(1616年)徳川家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた。

一 定船場以外の場所において、みだりに往来の者を渡してはならない。
一 女や手負いそのほか怪しい者はいずれの渡川場においても留め置き、早々江戸へ注進すること。但し、酒井忠利発行の手形を所持する者は異議なく通すこと。
一 隣の村へ通行するほどこの渡船場でも通してよい、女人や手負いの者以外でも不審がなければ、その他の領主や代官の手形を所持する者は渡してよい。
一 定船場であっても、女人・手負いまたは怪しい者は、たとえ酒井忠利の手形を所持した者でも、通してはならない。
一 すべて江戸へ来るものは改めるに及ばない。

 五料関所の改め(入鉄炮出女)は、武具の検閲は厳しくなく、他方女の通行改めは厳重であった。
 武具の検閲はなく、鉄砲についても10挺以上の入鉄炮に老中証文が必要であるが、鉄炮運搬には比較的下級官吏の証文で認められていた。
「女の通行改めは厳重で」、江戸からの出女は幕府留守居の証文を必要とした。上方から中山道を下り奥州への通過には「上方で所定の証文を取得して福島関所へ持参し、同所で碓氷関所への書替証文をもらい、さらに碓氷関所で五料関所への書替証文を」取得する必要があった。
 五料関所跡に関連する史跡には、「五料関所跡門柱礎石・井戸」があり、玉村町で町史跡に指定されている。
「利根川・江戸川筋の関所配置」。○が五料。

(以上「Wikipedia」参照)

 天明3年(1783)7月8日、浅間山の噴火に伴う土石流が五料宿にも到達し、関所が屋根まで埋まるなどの被害が出て、しばらくの間、機能不全に陥ったそうです。

床屋さんの脇から「利根川」の土手へ。

下流方向。この道もサイクリング専用道路になっています。

土手から見下ろした家並み。

かなり鄙びたようす。

(12:04)「五料橋」で「利根川」を越えます。

利根川の流れ。

                 
         「利根川」は、「日光街道」「日光御成道」「水戸街道」でそれぞれ渡りました。さすが「大河」です。


1880年代のようす。


2010年代のようす。今も昔も大河です。

河川敷がそのまま鬱蒼とした緑で覆われています。

(12:12)「玉村町」から「伊勢崎市」へ。

渡り終えたところで、小休止。足下には一輪の昼顔? 

 (12:28)「柴宿」に入ります。水路がある、まっすぐな道の両側に家並み。
 

柴宿
 「日光例幣使街道」の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目。「芝宿」と表記する場合もあった。
 宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100メートル)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担した。
 1805年時点での規模は、107戸・431人、宿石高は約730石で、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠10軒となっていた。天明年間(1781-1788年)中期に加宿を含めた規模の資料が残されており、それによると219戸・805人、宿石高は柴宿分が約803石、加宿分が約1400石となっている。小規模な宿場であったため、例幣使は休憩するのみで通過し宿泊することは多くはなかったが、1865年(慶応元年)などには宿泊したという記録も残されている。
 当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。
 日光例幣使街道のほか、柴宿からは神梅で銅山街道と合流する大胡道が分岐していた。
(以上「Wikipedia」参照)

色とりどりのあじさいが咲く庭先。

(12:33)解説板。

                        
                注:ここにある「国道354号」は、現在、「県道142号線」となっている。
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JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その2。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-26 21:39:02 | 日光例幣使街道
                    (10:07)「関越自動車道」の下をくぐって進むと、「玉村宿」へ。
玉村宿                     
 江戸時代初期、幕府の代官伊那備前守忠次によって新田が開発され、付近の住民を移して集落が形成された玉村は、寛永13(1636)年、日光東照宮が完成、例幣使街道の開通によって街道一の宿場町へと発展しました。本陣1軒、旅籠屋50軒、問屋場2軒。
 今の玉村宿は慶応4(1868)年の大火で全焼したため、当時の面影はあまり残っていない。

 例幣使一行は、毎年旧暦4月1日に京を出発して中山道を経由、4月11日に倉賀野を通過後、「玉村宿」に到着し、一泊。次の宿泊地である「天明宿」を経由し、4月15日に日光に到着するという行程でした。

はるか向こうまでまっすぐな道が続きます。

(10:20)左手には「萬福寺」の石仏群。

 「萬福寺」から6~7分、左手にある旧家は元「問屋場」であった井田家。「泉屋」という屋号をもつ造り酒屋「井田酒造」を営んでいます。
 母屋は、慶応4(1968)年の大火を免れた江戸時代の貴重な建物です。


                          

すぐ隣の「玉村八幡宮」駐車場から望む。

 永正4(1507)建立という「玉村八幡宮」の本殿は、国の重要文化財となっています。境内には「芭蕉句碑」があるとのこと。(この先、道中では芭蕉の句碑が散見できます。)
 やすやすと出でていざよふ 月の雲   翁


堅田十六夜の弁(元禄4年8月16日:48歳)
 望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来れり」と声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園の中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に筵をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、中の秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しも、なほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によって、三上・水茎の岡、南北に別れ、その間にごして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。とかく言ふほどに、月三竿にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなすこころいと切なり。やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりなすも、この堂に遊びてこそ。「ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」と言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に杯をあげて、月は横川に至らんとす。
錠明けて月さし入れよ浮御堂  ばせを

やすやすと出でていざよふ月の雲 同

 この句は、上にも記されているように、「いざよい」(十六夜)にちなんだ句で、近江八景の一つ「堅田の落雁」として知られる琵琶湖・堅田の浮御堂での作。(「浮御堂」は、平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。)
 現在、その堅田には「十六夜公園」があるそうです。
 
 「玉村八幡宮」と反対側の道を行くと、「称念寺」には「家鴨(あひる)塚」という石塔があります(10:32)。


                 
 嘉永3年(1850)、国定忠次郎(忠次)が捕縛され江戸送りの途中、玉村宿に17日間留置かれました。その時に、道案内の者(目明かし)の角万佐十郎(本名柳澤佐十郎)が忠次郎の中風に同情し、その治療のため家鴨の生血を飲ませたと云われています。その家鴨の供養のため、この碑が安政5(1857)年に建立されたと伝えられます。

 手前の岩石は、浅間山が噴火したときの溶岩とのこと。この先、「五料」宿・関所にかけて天明3年(1783)浅間山の大噴火の被害を伝える溶岩、石仏などが多くあります。

「玉村町散策マップ」。

「例幣使道玉村宿」交差点。
             
(10:40)「町田酒造」。
                              銘柄は、「太平人」。
       
 その向かいの道路を入った奥に「木島本陣歌碑」があります。
 
木島本陣跡歌碑
 玉村宿は、中山道倉賀野宿から分かれた例幣使道の第一宿でした。木島家は、本陣として朝廷からつかわされる例幣使や公務の役人が宿泊しました。元の建物は、慶応4年(1868)の玉村宿大火で焼失してなく、屋敷内には、天保14年(1843)帰路も中山道をたどった例幣使参議有長の歌碑〔建立文久4年(1864)4月17日〕があり、当時の名残を物語っています。

 天保十四年卯月例の
   みてくらの使にかさねて
     むかひける帰るさに

玉むらのやどりにひらくたまくしげ 
 ふたたびきそのかへさやすらに 参議有長


閑静な街並み。

木造の「日光例幣使道」解説板。
 国道354号(注:現在は「県道142号線」)は、江戸時代日光例幣使道と呼ばれ、日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道です。朝廷は正保3(1646)年久しく中断していた伊勢神宮への例幣使の再興と併せて日光東照宮へも派遣を決め、同4年以後慶応3(1867)年まで221回、毎年4月に派遣されていました。
 このように東照宮が朝廷から特別の権威と待遇を与えられたことから、幕府も例幣使専用の通行路として、中山道の倉賀野宿で分かれてから、玉村、五料を経て利根川を渡り、芝、木崎、太田を経由して壬生通りの楡木に至るまでの間を日光例幣使道と命名しました。
 明和元(1764)年には道中奉行の直接支配下に置かれ、当時の東海道等の五街道に次ぐ道路として整備・管理されるようになりました。その頃の玉村宿は本陣と問屋や旅籠が軒を並べ、五料宿には関所があり問屋や河岸もあって交通の要衝としての機能を果たしていました。また、例幣使のほかに日光参拝の公卿や大名をはじめ多くの人達の往来があり、たいへん栄えました。
 現在、玉村宿の往時を偲ぶものとしては、国重要文化財指定の本殿がある玉村八幡宮や問屋のたたずまいを残す井田家や、本陣が置かれた木島家に残る例幣使参議綾小路有長の歌碑等があります。


赤煉瓦造りの建物(「桐生信用金庫」倉庫)。

玉村宿を振り返って望む。

右手に、「上州櫓造り」の建物。
 換気をよくするため空気を通す小屋根があります。養蚕農家に特徴的な造り。現在はほとんど見られません。この家でも塞がれていて使用していないようす。かつては群馬、栃木ではよく植えられていた桑畑も沿道にはまったく見当たりません。

 (11:02)しばらく進むと、玉村宿の下木戸があった場所といわれている、その左手に石塔群があります。

 その手前に「毘沙門堂の石灯篭」が建てられています。この石灯篭は、江戸時代、下新田村と飯島村の境にあった毘沙門堂の常夜燈であったと伝えられているようです。文化財としてこの地に保存されています。


(11:15)一直線だった街道が緩やかに右に曲がります。

 家並みも少なくなり、左右に田畑が開けてきます。


           

 街道は工業団地の中を30分ほど進みます。少しぽつぽつ雨模様に。来た道を振り返って望む。


 (11:41)左手の小さな公園に石碑が何本か建っています。
 
「日露戦争戦役記念碑」。                    「日清戦争戦役記念碑」。 

そして「聖跡記念碑」と刻まれた石塔。
                               明治天皇が旧陸軍の演習を天覧した記念碑。
その先で左側の「旧道」に入ります。
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JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その1。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-06-25 20:42:51 | 日光例幣使街道
 梅雨時。「青梅街道・大菩薩峠」を越えるのはしばらく先にして、「日光例幣使街道」を歩くことに。
6月23日(土)。曇りのち雨。もう少し天気が持つと思いましたが、午後から雨。けっこうな降りで、ずぶ濡れで歩く羽目に。傘ではなく、合羽にすればよかった! 梅雨空を侮ってはいけません。

(→)日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)
 江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 倉賀野宿を起点とし、中山道と分岐、太田宿、栃木宿を経て、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と重複区間である。
 現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。

例幣使
 例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことである。例幣使は、中山道と例幣使街道を経て日光に向かい、4月15日に日光に到着したのち、翌朝に東照宮に捧げものを納め、そのあとは江戸にまわって将軍に対面してから京都へ帰ることに決まっていた。その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。

宿場
①倉賀野宿(群馬県高崎市)
②玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)
③五料(ごりょう)宿・五料関所(群馬県佐波郡玉村町)
④柴宿(群馬県伊勢崎市)
⑤境宿(群馬県伊勢崎市)
⑥木崎宿(群馬県太田市)
⑦太田宿(群馬県太田市)
⑧八木宿(栃木県足利市)
⑨梁田宿(栃木県足利市)
⑩天明宿(栃木県佐野市)
⑪犬伏宿(栃木県佐野市)
⑫富田宿(栃木県栃木市)
⑬栃木宿(栃木県栃木市)
⑭合戦場(かっせんば)宿(栃木県栃木市)
⑮金崎宿(栃木県栃木市)
⑯楡木宿(栃木県鹿沼市)
⑰奈佐原宿(栃木県鹿沼市)
⑱鹿沼宿(栃木県鹿沼市)
⑲文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)
⑳板橋宿(栃木県日光市)
㉑今市宿(栃木県日光市) 

(以上、「Wikioedia」参照。)

距離
1km【例幣使街道】高崎市倉賀野町
10km【______】玉村町五料 
20km【例幣使街道】伊勢崎市境
30km【例幣使街道】太田市由良町
40km【例幣使街道】足利市堀込町
50km【例幣使街道】足利市寺岡町
60km【例幣使街道】佐野市町谷町
70km【______】栃木市大平町下皆川
80km【例幣使街道】栃木市都賀町家中
90km【例幣使街道】鹿沼市奈佐原町
100km【例幣使街道】鹿沼市富岡
110km【例幣使街道】日光市明神
115km【例幣使街道】日光市今市

 伊勢崎、太田、足利、佐野、栃木等、北関東地域をぐるっと巡る旅です。予定では、電車(主に東武線)を利用しての行き来で、6日くらいかかります。夏までには完歩。でも、この地域は日本でも有数の熱暑の地域を含み、熱中症などには要注意。

(9:08)「中山道」との分岐点。
 2年前の2月6日に「中山道」歩きで来ました。そういえば、「中山道」歩きは「和田峠」の手前で中断しています。
例幣使街道と倉賀野常夜燈」。
 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
 道しるべには左日光道、右江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。
 日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割を果たしていた。

 高崎市 高崎観光協会

 注:宿場の数が「Wikipedia」では21宿となっていますが、この解説板では13宿となっています。「楡木宿」までが「日光例幣使街道」の宿場とすれば「13宿」になる?

HPでは15宿となっています。



常夜灯」。
正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1818)正月十四日 
              高橋佳年女書」
総高 373㌢ 台石高 67㌢
灯籠高 305㌢ 灯籠屋根幅 105㌢

道しるべ」。
正面「従是 右 江戸道 左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏 亀涌書」
総高 172.8㌢ 台石高 8.8㌢
石柱幅 一辺33.7㌢

さて出発。まず「県道136号線」。

 今回は、①倉賀野宿(群馬県高崎市)を出て、②玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)、③五料(ごりょう)宿・五料関所(群馬県佐波郡玉村町)、④柴宿(群馬県伊勢崎市)、⑤境宿(群馬県伊勢崎市)とたどる予定です。途中、最寄りの鉄道駅はなく、バスもほとんど来ないという区間。はたしてどうなることか?

(9:16)JR線を越えます。

田んぼの向こうを電車が通過中。

道の両側は工業団地。

 「国道17号線(現中山道)」を横断して進むと、道は行き止まりになるので、左折します。


 その先「綿貫町交差点」を右折します。その左手角にコンビニ。そこで食料を調達します。
 右折した道は、「県道142号線」。ほぼこの道を行きます。

 この付近の南側一帯は、もとは「岩鼻火薬製造所」。現在は「高崎量子応用研究所」や「群馬の森」などが広がっています。


                   

     「高崎量子応用研究所」。
       「日光例幣使街道」は敷地内でいったん途絶えます。上の写真では、右下の道から右折して左に見える道を進みます。


1880年代のようす。中央の道が「例幣使道」。


2010年代のようす。街道は消滅しています。

途中にあった看板。「ボイスレッスン ラテン音楽 マルガリータ恩田」。

(9:48)左に森が。「不動山古墳」。

                        

 
不動山古墳と綿貫古墳群
 綿貫古墳群は、南から岩鼻二子山古墳、不動山古墳、普賢寺裏古墳、綿貫観音山古墳の四基の前方後円墳と、これらの周囲に分布する円墳群から形成されています。
 現在岩鼻二子山古墳は削平され存在しませんが、巨大石棺がある100m級の不動山古墳、その北方に70m級の普賢寺裏古墳、二基の円墳、そして国指定史跡の100m級の綿貫観音山古墳が続きます。
・・・
この古墳群は四基の前方後円墳を主墳として5世紀中頃から形成され、6世紀後半の綿貫観音山古墳へと続き、その時代に、同一系譜に連なる強大な豪族がこの地に居たことを証明しています。 

 後円部墳頂部に建つ不動尊堂の裏には、凝灰岩(ぎょうかいがん)で造られた舟形石棺の身の部分が残されています。
 (HPより)

その先、右手に大きな森が広がってきます。
「群馬の森」。

「高崎伊勢崎自転車道線」の標識。

 中小河川が多い群馬県内には土手を利用しての、こうした自転車道が整備されているように思います。

 (9:55)「井野川」を「鎌倉橋」で渡ります。
上流方向。

下流方向。↓がかつての土橋の痕跡? 

「日光例幣使街道」の標識。
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京成電鉄博物館動物園駅。整備し、一部公開へ。

2018-06-20 19:08:16 | 鉄道遺跡
レトロな上野 見つけた 京成「旧博物館動物園駅」公開

 企画的には興味深いものが。

 以前ブログに掲載したことがあります。これを機会に再掲。2012年5月15日

                   
                    「博物館動物園駅」。
 1933(昭和8)年、上野駅まで京成本線が開通したのに合わせ、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)、東京科學博物館、恩賜上野動物園や東京音樂學校・東京美術學校(現在の東京芸術大学)などの最寄り駅として開業した。しかし、老朽化や乗降客数の減少のため、1997(平成9)年に営業休止、2004(平成16)年に廃止となった。廃止後も駅舎やホームは現存する。
 相対式ホームで、上下線で互い違いにホームが設置されていた。改札口は上りホーム側に設置されていた。地上の出入口は、皇室用地だった東京帝室博物館の敷地内と上野動物園旧正門へ続く2か所があった。
 前者は中川俊二設計で、国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古く、営業休止時まで供用されていた。後者は、昭和40年代に現行の動物園正門が開設されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。
 地下の壁面には東京芸術大学の学生が描いたとされる「ペンギン」「ゾウ」の絵画がある。最後まで木製の改札ラッチが使われていた。大規模な改修を受けなかったため、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く残していた。また、自動券売機が設置されなかったため、当駅発行の乗車券は駅員による手売りであった。
 ホームや通路は薄暗く、壁はむき出しのコンクリート、さらには戦前、戦中、戦後にかけての長い営みを経てところどころで煤けていた。改札からホームへ向かう階段の途中にトイレが設置されていた。
 当駅の休止にあたって、「記念乗車券(ありがとう博物館動物園駅 営業休止記念乗車券)」が発売され、5枚セットの各硬券乗車券には、ホームや改札、ペンギンの絵画など、当駅の特徴あるイメージが添えられていた。
 休止・廃止された理由として、ホームの有効長が短いため、京成では最も短い4両編成しか停車することができず、その4両編成でさえも先頭車両の端の部分はホームからはみ出している状態だった。はみ出ている部分には列車と壁の隙間に台を設置して対応していたが、このことが安全面で問題になっていた。
1981(昭和56)年以降、普通列車の一部が6両編成になったことで停車する列車本数が減り、乗降客の多くが南隣の本線の終着駅・京成上野駅を利用するようになった。同駅からの距離は0.9kmと近い。
 休止直前は営業時間が7時台から18時台までで、1時間に1本も列車が停車しない時間帯があった。駅員は一人勤務であり、駅員の休憩時間確保のためにこのようにしていた。さらに、開業以来本格的な修繕がなされていないため、老朽化が進んでいた。自動券売機や自動改札機が設置されておらず、改修や維持に大規模な投資が必要だった。
 乗降客数が最も多かったのは、1972(昭和47)年に中国からジャイアント・パンダが上野動物園に来園し、その後に起こったパンダブームの頃と言われる。
 現在、駅舎(地上部分)である西洋式建物の地上口には、廃止となってから「博物館動物園駅跡 京成電鉄株式会社」のレリーフが掲示された。この地上口は扉こそ閉じられているが、休止前と変わらない。
 地下施設のホームや改札も休止前の状態を保っており、列車が通過する際のわずかの間に見ることができる。上下線とも進行方向左側を眺めていると、地下道、地上への階段、案内表示などがそのままであるのがわかる。非常灯が点灯しているが暗めである。
 1991(平成3)年頃から「上野の杜芸術フォーラム」(2003年よりNPO法人)を中心に「M in M」(Museum in Metro)と称し、西洋式建物を含めた地下施設の保存・再生を提案している。なお、営業休止以降も西洋式建物については定期的にクリーニングを行っている。また、毎年9月から10月頃にかけてこの界隈で開催されるイベント「art-Link 上野 - 谷中」にも度々当駅を利用した企画が行われている。
1995,1996年の3月には、駅構内をアート空間として照明・音響・映像などの演出を試みる『光と音のインスタレーション』というイベントが催された。
2010(平成22)年12月から駅舎取り付けの照明灯が復元された。電球はLEDのものを使用している。
                                                (以上、「Wikipedia」参照)

 子どもの頃、親に連れられて、あるいは小学校の遠足で、上野動物園や博物館に行くのに利用した記憶があります。上の記事のように、薄暗く、何だか空気が淀んだような臭いがして、子供心にもあまり利用したくない駅でした。長じてからは利用した経験がありません。上野駅の方で降りた、というよりも動物園などにも行かなくなったということでしょうか。
 ただし、当時の京成上野駅も今のこぎれいな雰囲気の駅・ホームとは違って、地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だった。
 帰りの電車。出発して右に左にカーブを繰り返し、スピードを出し始め、あっという間の通過ですが、ホームがはっきりと見えました。明かりが灯されて黄色の柱、壁も見えたような・・・。
ひっそりとした佇まい。気がつかない通行人も・・・。屋上の部分の彫り物も、西洋風。

博物館側の出口。

動物園側の出口。

東京都美術館本館の建物と道路を隔てた場所にある。現在何に使われているか不明。出入り口、窓はすべて封鎖されている。
旧駅舎壁面のプレート。

京成電車。かつて走っていた電車の色調。今も4両編成。

ついでに掲載前日は「寛永寺坂駅」跡についての記事だったので、併せて再掲。2012年5月14日


 京成電車がJR線を越えて上野の山のトンネルに入っていく。これから終点・京成上野駅までは地下線となる。
トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。
寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま保存されている。

 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
 1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。


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読書「太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて」(河出書房新社編集部)河出文庫

2018-06-19 22:36:25 | 読書無限
 6月19日(火)。梅雨の間の晴れ間。「桜桃忌」。三鷹の禅林寺には多くのファンが訪れていたことでしょう。
 昭和23年(1948年)6月19日。13日に玉川上水で愛人・山崎富栄と入水した太宰治。一週間後、奇しくも39歳の誕生日に遺体が発見され、その日を「桜桃忌」と称して、太宰を偲ぶことに。以来、70年の年月を経ても、まだ訪れる人は、絶えません。
 また、ますます太宰の作品の世評は、特に、若い方々の評価は、高いようです。

 「処女作集『晩年』を上梓してから13年目の、6月13日、絶筆『グッド・バイ』を13回書き残して、自殺した」(亀井勝一郎・p285)という「語呂合わせ」(失礼! )も手伝ってか、死んでもなお、太宰治の人となりや、文学は、「神秘」的に、生き続けています。

 今や、俳句の、「夏」の季語にもなっている、とのこと。

 「桜桃忌」の名付け親は、同郷で太宰と親交の深かった、直木賞作家・今官一。太宰晩年の短編小説「桜桃」の名にちなんで、命名されました。やはり、「桜桃・サクランボ」を食べながら、太宰を偲ぶのでしょうか。しかし、酒好きだった太宰に対しては、なんとも・・・。

 山形名産の「サトウニシキ」は、抜群においしいです。

 太宰のお墓の斜め前には、明治の文豪・森鴎外のお墓があります。太宰のお墓を参拝する人の中には、「森林太郎(「もりばやしたろう」・もちろん正しくは「もりりんたろう」)」って誰? という人もいるとか、ま、これも「都市伝説」のひとつですが。

 「太宰治」というペンネームにも、あれこれ、曰く因縁を、説く人もいます。ご本人は、「万葉集」だったか、たまたま目にした、とか書いていますが、てれなのかどうか・・・、妻の美知子さんは、「それほど深く考えて付けた名前じゃありません」とか、おっしゃっていますが、やはり深読みしたくなるのでしょうね。

 今年は、生誕109年にあたります。来年は「110周年」ということで、「100周年」の時のようには、いかないまでも、太宰ゆかりの各地で、さまざまなイベントが、開催される、でしょうね。

 三鷹、荻窪、船橋、そして甲府、生まれ故郷の金木・・・、太宰の足跡をたどる旅も、相変わらず、盛んなようです。小生も、ミーハーなので、行ってみようかしら。

 ところで、こんな記事を、見つけました。

太宰の下宿、東京から湯布院へ 「碧雲荘」交流施設に
2016/2/18 12:18「日経新聞」

 作家、太宰治(1909~48年)がかつて暮らし、保存が危ぶまれていた東京都杉並区のアパート「碧雲(へきうん)荘」が、温泉地として知られる大分県由布市湯布院町に移築されることが18日までに決まった。
 湯布院で旅館を経営する橋本律子さん(65)が解体・移築費用を負担。本を中心とした交流施設「文学の森」(仮称)として活用する。移築は今秋には完了する見通しで、橋本さんは「太宰の名前を発信し、全国から訪れる方を“お接待”したい」と語っている。
 碧雲荘をめぐっては杉並区が昨春、高齢者福祉施設整備のため敷地を購入、今年4月までに建物を撤去することで所有者と合意した。しかし、地元住民らが「荻窪の歴史文化を育てる会」を組織し、建物の保存を訴えていた。
 太宰が碧雲荘に住んだのは36年11月から37年6月までの約7カ月。駆け出し作家だった太宰は、薬の中毒症状で体調を崩し、病院から退院した直後。短編「東京八景」でも碧雲荘は「天沼のアパート」として登場する。
 「育てる会」会長の岩下武彦中央大教授は「地元に残らないのは本当に残念だが、消失という最悪の結末は回避できた。移築を見守りたい」としている。(〔共同〕より)


 東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。 (『富岳百景』より)

 ここに登場する、「アパート」というのも、この「碧雲荘」でしょうか? 一説では、その共同便所からは、富士山は見えなかった、とか。どうでも、いいじゃないかねぇ。 

※ その後、この跡地を含め、大規模な複合福祉施設「ウェルファーム杉並」が完成しています。
     この施設の東北隅、道路に面して「碧雲荘」アパートがあったようです。

湯布院文学の森「碧雲荘」。

 さて、この書。太宰治の死、そして人生、むろん文学に関わる方々の「追悼文集」になっています。すべて45人、今やすべて故人。解説の町田康さんのみ生きていらっしゃる、というわけです。

 それだからこそ、太宰を語りながら、その方々の文学観、人生観、そして、その方の一生、言い過ぎならば、生の一端を垣間見ることができる、という、希有な読み物になっています。

 太宰の死を、どう受け止めているか(受け止めたか)、太宰との関わりを、自らの生き方、遍歴と重ねながら、どう認識しているか、実に万華鏡のようなおもしろさがあります。

 中でも、坂口安吾、中野重治、内田百閒、三島由紀夫などの文章は、大変、興味深く読みました。

 玉川上水で死を共にし、抱き合っていたまま遺体が引き上げられた「山崎富栄」さんへの評価もさまざま。

 死は、彼にとっては一種の旅立ちだったのだろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。
(豊島与志雄・p303)

 太宰氏にとっては、あの女性がなくても、死は不可避の必然だったろう。・・・「情死」―いやな言葉だ― (野口冨士男・p104)

 しかし、太宰治という人間は、没後を含め、作品で触れるだけの人でも、また、私生活でも接したことがある人でも、「自分と太宰」、「自分にとっての太宰」、「太宰からの語りかけ」という、とらえ方になってしまう、まさに「不思議」な人物でした。

 その意味で、井伏鱒二の文章が、冒頭の弔辞と、「太宰治のこと」と、二編載せてあるところは、ちょっとキザかな。

 町田康の、最後の言葉「すみません」も、いただけません。「さよなら(「グッド・バイ」)の言葉にかえて」という副題も、よくないやね。

 明日からは、しばらく、梅雨空が、続くそうです。
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こまつ座『父と暮せば』(井上ひさし)。(「じじばばがゆく」。久々の観劇編。)

2018-06-15 22:11:57 | じじばばがゆく

こまつ座「戦後"命"の三部作」の
記念すべき第一作。
魅力あふれる新しい俳優を迎え堂々上演。

あの被爆者たちは、核の存在から逃れることのできない二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ。
だから被害者意識からではなく、世界五十四億人の人間の一人として、あの地獄を知っていながら、「知らないふり」をすることは、なににもまして罪深いことだと考えるから書くのである。
おそらく私の一生は、ヒロシマとナガサキとを書きおえたときに終わるだろう。
この作品はそのシリーズの第一作である。
どうか御覧になってください。
―――井上ひさし

(「こまつ座」HPより)

 梅雨の合間って感じで、日差しはまあまあだけど、けっこう蒸し暑いわね。
 久々に六本木にやってきたわ。30年以上昔に住んでいたことがあったのよ、社宅に。
 懐かしいところなのよね、私にとって。
 ちょっと早めに出てきて、少し歩いてみた。ずいぶん変わってしまったわ。
 
 「俳優座劇場」は近くにいて、初めて。そんなに大きくないのね。でも、昼なのに、満席。女性が多いようね、時間的には。

 1948年夏、広島。原爆投下から3年後が舞台。
 市立図書館で働く23歳の福吉美津江は、原爆について調べている文理科大学の助手で26歳の木下という青年と出会い、お互いに好意を抱くようになるのよね。
 でも、美津江は木下のことを好きになってはいけないと。
 美津江が木下に秘かな想いを寄せていることを知った父・竹造は、あの手この手を使って娘の心を開かせようとするんだけど、彼女はかたくなに拒み続けるのね。恋の応援団長として父はどうしたものか? という展開になる。
 
 舞台に登場するのは二人だけ。その父娘のテンポよい掛け合いの中で、原爆の悲惨さ、一瞬のうちに戦時下の市井の生活者の生命を奪い、そして今も続く原爆症で苦しめる原爆という兵器の恐ろしさを声高に叫ぶのではなくて伝えていく、見事なつくりよね。

 開幕。いきなり雷鳴の中で父と娘が押入れの中で交わすセリフのやりとりが楽しい。なんで父親が押し入れの中にいるの?

 そうそう、親子で交わす広島弁がすばらしかった。広島弁でなくてはいけないのね、井上さんの思いとしては。

 最後。木下が収集した原爆投下の悲惨さを物語る、8時15分で止まっている時計、特に父親と同じく顔が焼けただれたお地蔵さんの首などが山積みされた舞台で、父と娘の会話が始まるのね。

 瀕死の父はグーを出すぞと言って、娘もグーで応じた。しかし、結局、・・・。
 そして、娘は瀕死の父親を見捨ててその場から生き延びた、という罪悪感を持ち続けてしまうのね。

 その話に移ったとき、当時と同じように二人はじゃんけんでどちらもグーを出し合うのね。

・・・

竹 造 わしをからだで庇うて、お前は何度となくわしに取りついた火を消(きや)してくれたよのう。……ありがとありました。じゃが、そがあことしとっちゃ共倒れじゃ。そいじゃけえ、わしは「おまいは逃げい!」いうた。おまいは「いやじゃ」いうて動かん。しばらくは「逃げい」「いやじゃ」 の押し問答よのう。
美津江 とうとうおとったんは「ちゃんぽんげで決めよう」いいだした。「わしはグー出すけえ、かならずおまいに勝てるぞ」いうてな。
竹 造 「いっぷく、でっぷく、ちゃんちゃんぶくろ、ぬっぱりきりりん、ちゃんぽんげ」(グーを出す)
美津江 (グーで応じながら)いつもの手じゃ。

・・・

竹 造 (怒鳴る)なひてパーを出さんのじゃ。早う勝って、はよう逃げろいうとるのがわからんか。このひねくれもんが。親に孝行する思うてはよう逃げいや。(血を吐くように)おとったんに最後の親孝行をしてくれや。たのむで。ほいでもよう逃げんいうなら、わしゃ今すぐ死んじゃるど。

短い沈黙。

竹 造 ……こいでわかったな。おまいが生きのこったんもわしが死によったんも、双方納得ずくじゃった。
美津江 じゃけんど、やっぱあ見捨てたことにかわりがない(なー)。うち、おとったんと死なにゃならんかったんじゃ。

・・・

竹 造 わしの一等おしまいのことばがおまいに聞こえとったんじゃろうか。「わしの分まで生きてちょんだいよー」
美津江(強く頷く)……。
竹 造 そいじゃけえ。おまいはわしによって生かされとる。
美津江 生かされとる?

 そうした会話の最後に

竹 造 人間のかなしかったこと、たのしいかったこと、それをつたえるんがお前の仕事じゃろうが。そいがおまいに分からんようなら、もうおまいのようなあほたれにはたよらん。ほかのだれかを代わりに出してくれいや。
美津江 ほかのだれかを?
竹 造 わしの孫じゃが、ひ孫じゃが。

 このやりとりで、もう涙うるうるになってしまったわ。

 ラスト。

美津江 こんどいつきてくれんさるの?
竹 造 おまい次第じゃ。
美津江(ひさしぶりの笑顔で)しばらく会えんかもしれんね。

 そのとき、被爆の資料を積み、木下が乗ったオート三輪の音が聞こえてくるのね。

 消えていく父の背に向かって、

美津江 おとったん、ありがとありました。

 こうして舞台の幕が下りる。・・・

 あら、まだ1時間半か、それほど長くないお芝居だったわね。でも、感動的。

 いきなり雷鳴。まるでピカドンのように激しくって。それから晴れたり、雨が降ったり、(雨漏りの音が効果的)・・・、
 そして終幕の夕日がやさしく差し込むシーン。さすがよね。

 すばらしいお芝居だったわ。

 このあいだの米朝会談が大きな話題になっているけど、北朝鮮の核廃棄、そして朝鮮半島の平和、東アジア、いや世界の平和実現のために、やっぱり核の問題は重要よ。
 唯一の被爆国としての日本は、もっともっと積極的に世界の核廃棄に向けて取り組むべきよね。

 なんてちょっと力みすぎてしまったわ。

 さて、お茶でもしましょうか。昔からあるお店がこの裏にあるはずよ、たしか「紗絵羅」って言ったかな。そこに行ってみようよ。

 「一風堂」っていうおいしいラーメン屋さんもあるけど。

 あら、お団子屋さんも昔のままでやっているわ。
 そうそう思い出したわ、ここに住んでいた頃、買いに来て、おいくつですか? って聞かれて、つい年齢を答えたってことがあったわ。

 また今度ゆっくりと。今日は有り難うございました。 

 ところで、生前、井上ひさしさんが構想していた「ヒロシマ」・「ナガサキ」・「沖縄」をテーマにした「戦後命の三部作」という遺志を山田洋次監督が引き継ぎ、「ナガサキ」をテーマに制作された映画が『母と暮せば』なのね。こまつ座により舞台化され、今年の10月に上演される予定よ。

 ※ 台詞の引用は『父と暮せば』井上ひさし(新潮社版)P101~107。
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早く返事を寄こせよ、って。でも、どうなるの?

2018-06-08 22:58:46 | じじばばがゆく
 今度のクラス会、どうするの? 申し訳ないですが、私は行けないけど。

 そんな電話があって、また性懲りもなく計画を立てます。
 もう一年たつのか!
 
 ・・・

 みんな年取って自分だけでも大変なのに。
 旦那の世話や、もう1世紀をクリアした母親の面倒とかさ、大変なんじゃないの、みんな。
 先生だってどうなのかしらね。ホントに会いたがっているのかな?
 誰かに会いたいというわけでもないでしょ。

 私は遠慮するわよ、もうちょっと体調がよければね。

 去年の暮れも男性だけ4人だったし、女性陣からは返事すら無かったよ。

 タバコを吸うやつがいてさ、愚痴話ばかり。体力の衰えと気力の萎えと・・・。
 行き当たりばったりの店で。そのことでもぶつぶつ言っているしさ。
 2時間なんとか持ったけどさ・・・
 もういいんじゃない、暮れに会うのは、って感じよね。

 そろそろ限界ね。
 やめどきが肝心だわよ。でも、すっぱと割り切るのも何となくイヤで。

 幹事のやる気がなくなったらどうするつもりなかね、皆さんは。
 そん時はそん時じゃない、何事も。

 ただ飲んで、っていっても昔ほど飲めなくなっているけど、女性陣はもともと飲まないし。
 男性陣も飲むのはあなたくらいじゃない。

 話しするのはいいけれど、愚痴話はけっこう。ぐちゃぐちゃ、同じ話を何度も、ってイヤになる。
 そんなのはふん、ふんと言いながら聞き流せばいいのよ。そういうものよ。

 そうできない性分の者もいるさ。
 相手はただ聞いてもらえばいいだけで、助言、大げさな表現だけどそんなの貰おうなんてさらさら思っていないし。
 まったく関心なしというわけにはいかないじゃない、一応、一生懸命話しているんだし。
 それでも、右から左でいいのよ。

 だったらごちゃごちゃ言うなって話さ。この間も掛かってきてさ、家を建て直すのでどうでこうでって。
 30分近く、行きつ戻りつ。いい加減、ヤになったってわけね。

 場所を決めても、イヤ高すぎるとか、遠すぎるとか。だったら自分で企画しろよ、って。

 そこで、今回は、遠く多摩川の渓谷に誘うことにしたんです。
 緑豊かな渓谷を眺めながらゆっくりとミニ会席料理を食べる、という趣向。

 でも、来ないと思うよ、せいぜい5人くらいがいいとこじゃない。
 それでもいいよ。利き酒もできるし、こっちは結構楽しめるから。
 こうなったら自分の趣味で企画するのが精神衛生的に、可なりということ。

 そうね、それでいいかもね。せいぜい楽しまれて下さい。
 
 ・・・
 
 ところで返事はどうなの?
 封書にコピーの「お知らせ」入れて、返信用のハガキも入れて。12人に出したけどさ。
 まだ行くとも行かないとも誰からも返事がないのね。
 一人電話があったけど、留守電が入っていた。
 
 疲れるわね、ホント。でも、あなたもますますせっかちになったわね。もう少し待ったら。まだまだ先なんだから。

 梅雨入りになって、体中がジメジメしてイヤだわ。
 せめて気分だけは爽やかになろうよ、たまにはいい芝居でも観てさ。
 う~ん、そうね。面白いのがあったら、紹介してよ。

 では、また。  
 
                   

 梅雨どきでしょ、増水してたらどうするのよ。土砂降りだったら、・・・。
 ま、心配してたら、きりないけど。
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その6。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-06 18:59:08 | 青梅街道
                          (13:52)小さな集落に近づきます。生活している方はいるようですが。

川合玉堂の歌碑。
 明治30年玉堂24歳の時の歌で、
 山の上の はなれ小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく

(13:57)しばらく行くと、「道所橋」。この橋も吊り橋です。

                     

  

 ここで老夫婦と娘夫婦らしき4人連れに出会います。二人ともずいぶんご高齢に見えますが、しっかりした足取り。若い方々は振り返り振り返り、声をかけ、面倒をみながらゆっくり歩いて行きます。

振り返り、「道所橋」を望む。

上流方向。

沢筋には小さな滝が落ちる。

(14:09)ベンチとトイレがあり、「奥多摩むかし道記念植樹」。
 奥多摩町は水と緑を大切にし人と自然との調和した潤いのある町づくりをすすめています。平成元年かつて青梅街道として利用され小河内ダム建設によって廃道となったこの道を「奥多摩むかし道」として蘇らせました。・・・

その先で水道局の敷地となり、通行止めになります。旧道はこのまま敷地内に向かい、沿道の集落とともに「小河内ダム」で水没します。
案内板。

 舗装道路を急角度で切り返し(「西久保の切り返し」)、左手の山道に入って行きます。ここからは旧青梅街道ではなくなり、名実ともに「奥多摩むかし道」となります。
いきなり急な上り坂に。 

右手に何軒か建物跡らしきもの。



木の間越しにダムサイトが見え隠れ。

標高差150㍍くらいの上り坂が続きます。左手はガレ場。

(14:34)やっと民家のところに出ます。東側は眺望よし。
 

 数軒の家があります。北側に現青梅街道(国道411号線)があり、「中山」という集落の一部。民家の横を抜けるとまた山道が続きます。「浅間神社」を右に見てさらに進みます。左手は崖になっています。
ダムサイトが近づきます。

右手には小さな沢。

 (14:56)分岐点。この先、直進すると「青目立不動尊」を過ぎ、大きく回り込むように進むと、「むかし道水根入口」となり、一気に奥多摩湖に降りていくことになります。
 一方、左に折れると、国道と接するところに「廃線跡」がある、とか。進むかどうか迷いましたが、ここで左手の坂道をおりることに。


水根新道」解説板。
 水根集落への道は明治37年(1904)まで中山集落経由の不便な旧道だけでした。明治35年奥平周作氏の発議によって衆議一決、自らも大金を投じ有志の拠金・用地の寄付・労力奉仕と篤志家の寄付金によって2ヶ年の歳月をかけ鎧塚~水根間950m・幅1.8m・高度差150mの水根新道が開設されたのです。



足下の悪い急坂を一気に降ります。

(15:02)右下に廃線の橋脚が見え始めます。

朽ちかけた階段を上ると、左手にはトンネルがあります。

反対側(橋脚側)。

 以前、水根への山道が通行不能になったときにはこのトンネルが「奥多摩むかし道」の最終地点だったこともあったようです。
 トンネル内を進んでみようと思いましたが、手持ちの小さな懐中電灯では役に立たず、断念。
トンネル内から望む。

橋脚の上は雑草に覆われています。

 国道に降りて「滝のり沢」バス停から「奥多摩駅」まで戻りました(15:23)。駅前広場では賑やかにイベントが行われていました。
                       

 次回は、いよいよ「大菩薩峠」にチャレンジです。旧道はほとんど湖水の中に消滅しているので、再び旧道が復活する「奥多摩湖」の上流近くまでバスで向かい、「小菅」か「丹波山(たばやま)」の集落から「峠」に登るという若干、安易な方法を考えていますが、はたして。
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自ら(自分たち)の「ご都合主義」または「あうんの呼吸」も窮まれり。

2018-06-05 22:07:48 | 世間世界
野党、佐川氏の任命責任を追及 麻生財務相「適材適所だった」

 言うに事欠いて「長官として職務にきちんと対応していた。適材適所だった」とは! 

 この発言は野党や国民向けではなく、アベ向けのものと思った。

 アベは自分をクビに出来るわけがない。辞めたらお前さんのクビもあやうくなるぞ!

 それにしてもアベの意を忖度して公文書を改ざんした、その責任をなすりつけて、処分対象にした人物を「適材適所」と評価し、したり顔する。

 アベに福をもたらす存在・守り神、と思っているのかもしれない。

 反対にオレをないがしろにすると、「不幸になるぞ」と。

 「ひょっとこ」と対になる「おかめ」=「おたふく(お多福)」は、かの昭恵夫人かもしれない。

 とすれば、アベも二人を切るわけにはいかないでしょう。

 こうして、アベと麻生、いや佐川一派も「阿吽の呼吸」でことを終わらせたつもり。
 
 さて、そういう見え見えの魂胆にどうするか?
 
ひょっとこの面
 ひょっとこは、口をすぼめて曲げたような表情の男性、あるいはその面のこと。潮吹き面(しおふきめん)ともいう。
 左右の目の大きさが違うこともあり、頬被りをしている場合もある。あるいは面を付けた人は頬被りをすることが多い。女性の「おかめ」(おたふく)と対にあつかわれることもある。ひょっとこは田楽や祭礼における舞いや踊りの中での道化役としてしばしば登場する。
 ひょっとこの語源は竈(かまど)の火を竹筒で吹く「火男」がなまったという説がある。また、口が徳利のようであることから「非徳利」からとの説などもある。

昔話
 岩手県に伝わる昔話には以下のようなものがあり、『江刺郡昔話』(佐々木喜善・編、1922年)などで報告されている。
 爺さんが柴刈りの最中に穴を見つける。穴は災いをもたらすので塞いでしまおうと、大量の柴を押し込んでいると中から呼び声がして、立派な御殿のある世界に連れられる。呼んでいたのは美女で、更に白髪の翁から褒美としてヘソから金(きん)を生む、奇妙な顔の子供を譲り受ける。爺さんは子供を気に入って育てたが、欲張りな婆さんはより大きな金を欲しがり、ヘソを火箸で無理やりつついたため、子供は死んでしまう。悲しむ爺さんに、自分に似せた面を竈の前に架けておけば、家が富み栄えると夢枕に立ったという話である。
その子の名前が「ひょうとく」であったところから「ひょっとこ」という名称が生まれたとされている。
 東北地方には同様の類話が昔話として多く確認されており、登場する子供の名称が異なっていることがあるが(うんとく、したり等)おおむねその後身が火神(かまど神)となったとされており、「ひょっとこ」と火が関係がある、という民間語源に近い解説例としてよく採り上げられている。うんとく、したり、ひょうとくなどの登場する昔話は、竈の神として最終的にまつられる箇所以外は、「竜宮童子」などに分類される昔話と似た構造になっている
 また、前沢町(岩手県胆沢郡)では、お爺さんが山で腹痛を起こして苦しんでいた顔のめぐさい(みにくい)若者を助けて家に連れ帰ったところ、恩返しのために働いてくれた際、みにくくとがった口を火吹き竹のように使ってとても上手に台所の煮炊きの火を起こしてくれた。その若者がいる間は家はとても栄えたが、婆さんが次第に若者をうとんじるようになり、追い出したところ、家はたちまち衰微してしまった。という話も採集されている。この話ではひょっとこのはじまりにあたる存在が子供ではなく若者になっているが、若者が「竈の近くに自分の顔に似せた面を飾っておけば良い」と後に爺さんに告げる結末があり、形式はおなじである。・・・

(以上、「Wikipedia」参照)

阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)
 二人以上の人が何かをするときの、微妙な気持ちや調子。また、それがぴたりと合うこと。
【注釈】
「阿」は口を開いて発音することから「吐く息」という意味で、「吽」は口を閉じて発音することから「吸う息」という意味。それを合わせることを「阿吽の呼吸」という。
 また、「阿」はサンスクリットの十二母音の最初の音で、「吽」は最後の音であることから、密教では「万物の根源」の象徴とされており、神社や社殿前にある狛犬の一対は、一方が口を開けた「阿形」、もう一方が口を閉じた「吽形」で、「阿吽」を表している。

HPより)
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その5。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-04 19:09:56 | 青梅街道
                                       (13:13)「白鬚神社」。

 都指定の白鬚の大岩の側面に社殿があるとのこと。省略して先に進みます。そこでも地元のガイドさんに引率された大勢の団体さんとすれ違います。けっこう人が行き来しています。今までの街道歩きではなかった傾向。さすが人気のウォーキングコースです。

 (13:15)左手に「弁慶の腕ぬき岩」があります。
  
弁慶の腕ぬき岩
 高さ約3㍍の自然石。下の方に腕が入るほどの穴があることから、旧道往来の人々に親しまれ、力の強い弁慶に付会されて誰いうとなく「弁慶の腕ぬき岩」と呼ばれるようになりました。

 続いて右手には「耳神様」。
 
 昔は耳だれや耳が痛いときは、お医者様もいないしどうしようもなかったので穴のあいた小石を見つけて、耳神様に供えて御利益を一心に祈りました。
 民間信仰のひとつです。

 
(13:19)「いろは楓」。
 奥多摩の山々に自生する「山もみじ」の一種。この樹の紅葉は特にすぐれていて「名状すべがたい」といわれています。旧道往来の多くの人々を楽しませた樹です。11月中・下旬頃が見ごろ。樹齢は約200年位といわれています。



                        
                                           多摩川の渓谷。新緑がまぶしい。

多摩川に転落しそうな急斜面で農作業する老夫婦。

(13:29)薪を積み上げた民家。

 その先、「惣岳の不動尊」。右手を上ればバス停に。
 
明治時代、水根の法印奥平家と惣岳の奥平家によって成田不動尊が観請され、昭和10年に現本殿・覆舎を再建。

惣岳渓谷」。
 太古以来の大洪水と近くは寛保2年(1742)明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曾有の大水害によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出された多数の巨岩怪岩が累々として「惣岳の荒」と呼ばれる渓谷美となっています。  



                     渓谷には巨岩がごろごろ。

落石防止のネットのところに「がんどう(厳道)の馬頭様」。
 

 現旧道以前の旧道にあります。「…一人ゆきかう許りなる細道…」(明治32年・小河内探勝記・露木敬身)という細い道であったので、多くの馬が谷底に落ちて死んでいます。その供養のため、沢山の馬頭様が造立されました。

 以前の写真では手前に丸い石仏があったようですが・・・。以下、それぞれ解説板がありますが、指しているものが定かではない(こちらに見る目がない)ものもあります。

左手に吊り橋「しだくら橋」。
「惣岳の荒」といわれて、多くの巨岩が渓谷美を見せています。巨岩から巨岩をつなぐように直径約20㌢程の杉丸太を4,5本ずつ藤蔓で結び架橋していました。現在は吊り橋となりました。

  
 注意書きに「5人以上で渡らないでください」の「5」の上に張り紙で「3」とあります。先客が戻ってくるのを待って、橋の中央まで。
            けっこう揺れます。高所恐怖症の方は足がすくむ。

縁結びの地蔵尊」解説板。
 恋しい人と結ばれたい…いとしい方と添いとげたい…いつの世でもおなじです。人に知られずにこっそりと二股大根を供えて一心に祈れば「結縁成就」といわれています。

 左手渓谷側に朽ちた家。そこに1台の自転車があります。人が行き来しているのか? すると若い女性が谷の方から上がってきます。「降りられるかと思いまして…」。サイクリングを楽しんでいるようです。この後も何台かすれ違います。
振り返る。

(13:44)その先、右手の崖際に「馬の水のみ場」。
 
馬の水のみ場
 ここで馬を休ませ、かいばを与えました。馬方衆は「たてば」と呼称されている茶店で一服休憩ということになりました。茶店はゴーロ・清水・大島屋の三軒があって駄菓子・うどん・まんじゅう・タバコ等が商われ、一杯酒もありました。

牛頭観音」。

 
 明治30年・小河内探勝記・露木敬身(漢学者)によれば「牛馬の背荷を輸出しての帰路に遇う三十余頭…岸壁に付して…通過を避く…婦女の牛を使役…多し…」とあるごとく馬よりは少数であったが牛も使役されていました。牛頭観音様の造立は珍しい。牛馬の息災を祈りました。

(13:51)「むし歯地蔵尊」。
 その昔、村の人々は歯が痛くなってもどうすることもできませんでした。煎った大豆をお地蔵さまに供えて、ひたすら一心に祈るのでした。すると奇態に痛みが治まった、といわれています。(民間信仰のひとつ)
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その4。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-01 21:11:35 | 青梅街道
                              「羽黒坂」。
 山手の石段73段上に古社羽黒三田神社が鎮座して坂の名となりました。
 旧青梅街道が明治32年に改修されてからは、小河内方面で生産された木炭運びの多数の馬力・大八車・背負荷の人々と青梅・氷川方面からの上げ荷の人々が苦労した坂です。 

 いきなり急坂「羽黒坂」を上がっていくと、右手に「羽黒三田神社」。平将門の子孫という豪族三田氏が尊崇した神々が祀られています。

 緩やかになって線路跡を越えます。。

                       左手にはトンネル跡。
 これは、「東京都水道局小河内線」の廃線跡です。
 起点氷川駅 終点水根駅 駅数2駅
 開業1952年 休止1957年 路線距離6.7 km
橋梁:23箇所、延長1,121m
トンネル:23箇所、延長2,285m

東京都水道局小河内線
 1952年(昭和27年)に開通し、1957年(昭和32年)まで運行していた、東京都水道局の専用鉄道。正式名称は「東京都専用線小河内線」であった。
 小河内ダムの建設用資材輸送用に東京都水道局が敷設・管理した貨物線であり、ダム竣工後は西武鉄道へ譲渡され、さらに奥多摩工業へ譲渡され、現在は「水根貨物線」として遺構が残っている。
 運行期間はわずか5年半のみという地味な鉄道路線であったが、東京の水がめである小河内ダムの完成に重要な役割を果たした。

 小河内貯水池(小河内ダム)の築造に伴い、ダム工事現場までの資材輸送(セメント約336,000トンおよび川砂約609,000トン)の方法について、戦時中の工事中止前に道路および索道によって運搬する計画が立案されていたが、1948年(昭和23年)の工事を再開した直後、東京都水道局は計画の見直しを行い、従来の計画は白紙に戻して、改めて鉄道、自動車および索道の3案について、技術的、経済的に検討した結果、鉄道案が採択され、氷川駅(現:奥多摩駅) - ダム現場間に専用鉄道を敷設する方針が決定した。
 1952年(昭和27年)3月に土木工事を完了。軌条敷設及び保安設備工事を実施し、同年11月に全工程を完了して氷川 - 水根間が開通した。
 1953年3月からダムコンクリート打設を開始することとなった。資材輸送を開始するに至って、専用鉄道の運転を東京都水道局直営運転とした。
 小河内線は急勾配のうえ最小半径の曲線部が連続しており、切取部が多く、竣工後間もない頃だったので、土砂崩壊や落石も多く保線作業は予想以上に困難であった。資材輸送が完了するまでの5年半の間に148件の土砂崩壊や落石に見舞われた。1956年(昭和31年)11月4日、大量の土砂崩壊によって、遂に列車転覆事故が発生し、6名の殉職者を出した。

年表
1952年(昭和27年)5月1日 - 氷川(奥多摩駅) - 水根間開通。
1952年12月16日 - 氷川駅分岐専用側線として運転開始。
1954年(昭和29年)12月7日 - 専用鉄道として運輸省から免許交付。
1955年(昭和30年)4月20日 - 専用鉄道として運転開始。
1957年(昭和32年)5月10日 - 小河内ダムの資材輸送完了。
1963年(昭和38年)9月21日 - 西武鉄道へ譲渡。
1978年(昭和53年)3月31日 - 奥多摩工業へ譲渡。
(以上「Wikipedia」参照)

路線図。

(地図はHPより拝借)
 この方は全線踏破していて、その記録が映像と共にUPされています。
 また、ネットには他の方々の記録がけっこう掲載されていて、「廃線」マニアにとってはたいそう魅力ある廃線跡です。

トンネルも線路もしっかり残っています。

 しばらく左手下に線路跡が続きます。


                        

眼下には橋梁。 

トンネル上から線路を望む。

 道沿いには家。急峻な地形で、見上げるほど高いところにも。家と道路を結ぶ簡易な昇降機が取り付けられています。


 (12:24)しばらく進んだ左手には「槐木(さいかちぎ)」の巨樹。マメ科サイカチ属。樹高 15㍍ 幹囲 3㍍ 
   
羽黒坂の急坂と桧村からの坂を登りつめた所
槐木の巨樹が地名となりました。
馬力・大八車や背負荷の上り荷・下り荷の人々の休み場として賑わった所です。槐木と向きあって、赤松の根元に正徳2年(1712)の修業僧木食三世真円唱謁の念仏供養塔・文化13年(1816)馬頭観音他があります。



 下の方からは国道を行く車の音が聞こえてきますが、まったく道は見えず、旧道からは急に落ちる森。


(12:34)路傍には古仏が二体。

しばらくすると、下に国道が見えてきます。

 この付近が現青梅街道(国道411号線)と最接近するところ。道標にしたがって右手の坂を上ります(12:51)。


ここで、「奥多摩駅」方向に向かう外国人3人連れに会います。「奥多摩むかし道」を歩き初めて最初の人達。
案内板。

 階段を上り道標にしたがって左手の階段を上っていきます。そこには中年の男女が休憩中。のんびりと進みます。急角度に曲がるところが「小中沢橋」。立派なトイレ。そこにはバイクの青年が。

「不動の上滝」はこの上部に。

 (13:01)今まで歩いたどの街道よりも山深く急峻な印象。

 しばらく行くと、小さな集落「境」に近づきます。

(13:06)はるか頭上に「水根貨物線廃線」の高架橋。

橋上を歩いた人がいるらしい。
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