おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その5。葛飾橋。外環道。常磐線・新葛飾橋。上矢切。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

2022-03-31 20:08:45 | 江戸川を歩く

            この付近は、松戸市内を流れる「坂川」の支流が流入し、川筋が二つあるかのようです。

        

手前に「葛飾橋」その隣に「外環道」等の橋脚が見えてきます。

※「旧水戸街道」は、対岸をしばらく北上し、渡し場(この付近にあった)で松戸宿に渡りました。

                     1880年代のようす。

左手上の流れが現在の小合溜に通じる。また、「水戸街道」は、江戸川右岸から左岸の松戸宿へ。

                     2010年代のようす。右の川は「坂川」。

             葛飾橋直下の河川敷に「松戸緊急用船着場」。

大地震で破損した河川施設や被災した市街地を復旧するための資機材を運んだり、救援物資を水上ルートで運ぶ際に利用できる船着場です。・・・緊急用船着場は水上輸送と陸上輸送を結ぶ拠点となり、緊急用河川敷道路は障害物が少ない河川敷を利用して陸上輸送します。

          

下流から国道298号・葛飾大橋、外環道、葛飾橋。

三郷・金町・小岩と行き先案内板。

「海から18.75㎞」。

対岸は、東京都葛飾区金町。河川敷には「江戸川ラインゴルフ ショートコース」。

正面にスカイツリー。

                     JR常磐線の橋梁と新葛飾橋(国道6号線)。

「海から18.0㎞」。

土手は一面、菜の花。

                  振り返る。

         河川敷は、「江戸川ラインゴルフ松戸コース」。

         

「樋野口 川の一里塚から3,000m」。

田園風景が広がる。

遠くには、国府台に連なる丘陵。右端の高台に、和洋女子大の校舎。

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流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その4。ホバリング。常夜燈。舟運。納屋川岸(鮮魚街道)。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

2022-03-30 21:33:24 | 江戸川を歩く

              江戸川の上空でホバリングする大型の野鳥。ノスリ? 

何度も低空で旋回しながらホバリングしています。水中の獲物を狙っているのでしょうか? つい見とれてしまいました。

※「ホバリング」=空中に静止すること。ノスリなどは風上に向かってはばたき、風を利用して姿勢を一定に保つ。利根川の上流で見かけたことがあります。

 

「川の一里塚(樋野口)河口から20.1㎞」。

この先に、

「江戸川の常夜燈」。

               

江戸から大正にかけ江戸川は舟運が栄え、明治になると通運丸という外輪船の客船が就航していました。夜になると明かりが灯り河岸(船着場)の位置を知らせたそうです。この常夜燈の設置により一日も早い舟運復活を願うものです。

・・・

明治・大正時代の利根川水系は、蒸気船による大量輸送時代でした。また鉄道輸送網の整備がすすみ、はげしい貨物や旅客の争奪戦がくりひろげられました。なかでも内国通運会社による「通運丸」は、明治の利根川水系を代表する定期貨客
船でした。
通運丸は廃業までに40隻近くが造られました。第一通運丸は、東京の石川島平野造船所で明治9年(1876)11月に起工、翌年2月に完成しました。木造の外輪蒸気船で、全長約22m、幅約3m、時速11km程度で走行しました。外輪船というのは、船の両脇にある大きな車輪を推進器として走る船で、この姿が珍しかったのか、大変な人気で当時の錦絵にも描かれました。
この第一通運丸を購入して就航させたのは、陸運元会社(明治8年に内国通運会社と改名)でした。江戸時代には飛脚を営業しており、現在の日本通運株式会社の前身です。明治10年(1877)2月に試運転がおこなわれ、5月に営業を開始しました。その後、第二、第三、第四と相次いで就航し、新たなコースを次々に開発しています。

はじめは深川の扇橋に始発場がありましたが、後に両国橋のたもと、隅田川西岸の2ヵ所(当時の日本橋区米沢町三丁目と蠣殻町三丁目)に始発点が設けられ、米沢町側からは上利根方面へ、蠣殻町側からは銚子方面に向かって出発しました。
また深川高橋にも始発点が設置され、ここから行徳・浦安行の便が1日に10数回出ていたようです。これら始発から執着地まで、沿岸各地に寄航場があり、航路に応じて旅客や貨物を中継しました。
明治23年(1890)に完成した利根運河(江戸川の流山市深井から利根川の柏市船戸まで)が同28年(1895)に通行可能となると、東京から利根川下流の銚子まで直行便も運行されるようになりました。
しかしこの前年に総武鉄道の市川―本所間が開通し、明治30年(1897)に銚子まで鉄道で結ばれると、蒸気船で18時間かかるところを汽車は5時間で走りました。鉄道の発達に対し、運賃を値下げして対抗しましたが、時代の波に勝つことができ
ず、大正8年(1919)12月をもって、一切を東京通船株式会社に譲り、内国通運会社は利根川水系の水運から手をひきました。通運丸はその後も江戸川・利根川・ 霞ヶ浦にその姿をとどめていましたが、昭和6年(1931)頃に、ついにその姿を消しました。

(この項、「江戸川区郷土資料室」HPより)

樋野口排水機場。

「海から20.0㎞」。

対岸の右は埼玉県三郷市、左は東京都葛飾区。左手遠くに「東京スカイツリー」。

左、土手下に「納屋川岸」碑。

「鮮魚街道」(布佐~松戸)歩きの時の最終地点です。その時の記事を再掲。

・・・

  

銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり、布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代、松戸の主産業は船運であり、ここが重要な基地になっていました。

  

※「良庵河岸」が「納屋河岸」を指す。

 

松戸の河岸は「源内」(青木家:納屋河岸)と「太兵衛」(梨本家:下河岸)の二軒の船問屋が中心となって発展しました。宝暦5年(1755)1~2月、布佐河岸源左衛門から納屋河岸源内あての鮮魚輸送量は<1月>897籠(約10t)、<2月>4509籠(約50t)という記録が残されています。※当時の「一駄(馬一頭に乗せる貨物)」は三十貫が限度で約110kg、鮮魚では10籠に相当。船一隻あたり鮮魚300籠に相当。

 松戸河岸を出た船は、江戸川~新川~小名木川を経て水路で直接日本橋の魚河岸に入りました。
 この経路は鉄道開通後も東京市内の鉄道網やトラック輸送が整備されるまでは活用され、常磐線からの貨物が松戸から東京市内まで水運で運ばれた時代もあったそうです。

○付近が、「納屋川岸」。

(この項「松戸宿」https://sites.google.com/site/matsudosyuku/home/suiun-to-kawagishi より借用)

江戸川土手に上がってみます。

遠くにスカイツリー(↓)。

「海から19.75㎞」。

土手下を望む。

1880年代のようす。○が青木家か?

2010年代のようす。○に青木家の塀が復活。

・・・

利根川・布佐河岸からここまで、2回に分けて(二日間)の歩きでした。

振り返る。

※平安時代中作品作品『更級日記』(菅原孝標娘)に

「そのつとめて、そこを立ちて、下総(しもつさ)の国と武蔵との境にてある太井川(現江戸川)といふが上の瀬、松里の渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す。」とある「松里」はこの松戸付近を指しています。ただし、下総と武蔵の国境は「隅田川」なので、作者の勘違いか?

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流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その3。主水新田 川一里塚。新田開発。上葛飾橋。江戸川松戸フラワーライン。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

2022-03-29 20:57:25 | 江戸川を歩く

          「樋野口(ひのくち)・川の一里塚から4000m」。

※「樋野口」は江戸川下流(4㎞先)の地名。

住宅の向こうに田畑が。

大きく右へカーブします。

「海から24.0㎞」。距離が減っていく歩きの方がいいですね。

      

                 「水辺の健康エコロードマップ」。下には「まこも池」。

この付近から江戸川沿いに「矢切」までの約9㎞の案内図。トイレや休憩施設などもあって、それぞれに適した距離を歩くことができます。地元の方でしょう。親子連れ、ご夫婦など、歩いている人が多くなってきます。

「主水(もんと)新田・川の一里塚」。左に解説板。

川の一里塚

江戸川は、水と緑に恵まれ広大で貴重な水辺空間であり、年で生活する人々に「つどい・いこい・くつろぎ」の場をもたらしています。このような江戸川の特性を活かし、主水新田地先の堤防に木陰のある休憩場所と位置確認の目印として利用できる「一里塚(たまり)を設置しました。

一里塚の歴史

一里塚の起源は古代の中国にあり、路側に1里ごと塚を築き、その崩壊を防ぐために落葉高木のエンジュ(槐)を植えて里数をしめした。我が国の一里塚もこれにならったといわれている。

 その日本では、織田信長(1535~1582)が36町を1里として領内に一里塚を設けたのが始めといわれ、徳川家康が継いで江戸日本橋を基点として1里(約3.9㎞)ごとに五間四方の塚を道の両側に目印(道標)として築いたものである。・・・塚の上には旅人の涼をちるための緑陰や雨宿り、あるいは冬の寒い北風を避ける等の休憩としても機能させる目的から、通常エンジュに似ていて土中に深く根を張る落葉高木であるエノキ(榎)が植えられた。

一般の人々が地図を持たない時代にあっては、この一里ごとの塚は、自分の位置を確認する上できわめて重要であったと考えられ、また旅の日程の目安にもなっていたものと思われる。(「解説板」より)

まこも池。

まこも池緑地は、かつては、「主水池」と呼ばれ、主水新田の水田の灌漑用の池として利用されていました。その後、松戸市が土地を取得し、自然環境の根幹である緑を保全し、創出することを目的とした整備を行いました。今では市内で唯一の釣りができる公園として、常にヘラブナ釣りの人々で賑わっています。

(この項、「」HPより)

※松戸市域にはこの「主水新田」等、江戸川に面した低湿地帯に江戸時代の初期開発された新田開発があります。

                                                                                         

1880年代のようす。開発者の名が付せられた新田。          2010年代のようす。宅地開発が進む。 

遠くに富士山。

         

「海から23.0㎞」。正面遠くに「東京スカイツリー」。

薄雲が広がりつつある。

次第に住宅が建ち並ぶように。

            松戸市立古ケ崎(こがさき)中学校。

河川敷スポーツ広場が何面も。

「海から22.0㎞」。

古ケ崎排水機場。

「古ヶ崎浄化施設」解説板。

江戸川の水質改善をはかり、施設下流における上水道口でのカビ臭さやカルキ臭さなどの問題を軽くすることを目的として建設されました。・・・

 

住宅が次第に増えてくる。

川の一里塚(古ヶ崎)。

上葛飾橋。

※昭和 55 年 (1980 年) に千葉県道路公社管理の有料道路 (松戸三郷有料道路) の一部として竣工・開通。平成 20 年 (2008 年) に無料開放された。

橋の下流には、

江戸川松戸フラワーライン。

       

春はポピー、秋はコスモスと松戸の名所の一つとなっている江戸川の河川敷に広がる約2へクタールの花畑です。花畑はフラワーボランティア、地元町会や河川愛護団体と協働して運営、管理しています。

ポピー  コスモス。

(この項、「」HPより)

「←樋野口川の一里塚」道標。               

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流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その2。武蔵野線。つくばエクスプレス。松戸市へ。松戸水門。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

2022-03-28 20:48:14 | 江戸川を歩く

JR武蔵野線。

        対岸は「三郷駅」。

路線図。(「Wikipedia」より)

府中本町、北府中、西国分寺、新小平、新秋津、東所沢、新座、北朝霞、西浦和、武蔵浦和、南浦和、東浦和、東川口、南越谷、越谷レイクタウン、吉川、吉川美南、新三郷、三郷、南流山、新松戸、新八柱、東松戸、市川大野、船橋法典、西船橋。

※「街道歩き」「川歩き」でこの路線とは何回か交差している。

野球場が何面も。

        

遠くに東京ガス江戸川橋梁。

東京ガス㈱ガス導管専用橋。全長約250m。

              

  

振り返る。

「海から26.0㎞」。

この付近に「⑧幸房の渡し跡」の碑があったはずですが、見落としてしまいました。

(写真は、「」より借用)

「岩野木の渡し」、「七右衛門新田の渡し」「幸房の渡し」と様々な名称がある。江戸川の渡しは千葉側と埼玉側の地名を交互につけたが、自分側の地名で呼ぶことが多い。

※「①深井新田の渡し跡」から9kmほどの間に8か所の渡し場があったことになる。

遠くに富士山が。

 左手は、「つくばエクスプレス」の橋梁。

つくばエクスプレス。

高速で走り抜ける。

       「三郷中央駅」と「南流山駅」間にある鉄橋。「海から25.25㎞」。

※流山は流鉄線、東武野田線の他、武蔵野線、つくばエクスプレス線の開通が大きく住宅地としての発展を促した。

ここから松戸市になります。

松戸市郊外のようす。

「海から25㎞」表示。

            

真っ白な富士山が遠くに。

行く手に水門が見えてきます。

松戸水門。

 坂川放水路の水門は台風や大雨の時、閉めて江戸川と坂川の水の流れを遮断し、隣接する松戸排水機場、そし古ヶ崎樋野口の排水機場のポンプで坂川の水を江戸川に排水することで洪水から地域を守るために利用されます。

坂川放水路。

江戸川との合流点。

松戸排水機場

人工的に開削した坂川放水路と江戸川合流点に位置しています。坂川の内水排除等を目的として建設されました。

これまでも幾度となく水害を引き起こしてきた坂川。近年の急速な都市化により、少しの雨でも浸水被害が起こり、甚大な被害を及ぼすようになりました。そこで、人家の少ない地域で新たに放水路を開削し、排水機場を設置しすることで洪水を直接江戸川に排水することになりました。こうして江戸川と利根川を結ぶ北千葉導水事業の一環として坂川放水路、その下流に松戸排水機場が建設されました。

※「坂川」の旧流路はずっと先の、矢切付近に残されています。

       

案内版。

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流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その1。菜の花・富士山。流山橋・丹後の渡し跡。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

2022-03-27 21:12:25 | 江戸川を歩く

3月19日(土)。晴れ、のち薄曇り。

流鉄「流山駅」で下車し、迂回道から土手に上がります。

1週間遅れの掲載。今週は、菜の花も満開になっていることでしょう。

         

流山駅周辺の観光案内図。

小林一茶「菜の花のとつぱづれ也ふじの山」の句が紹介されています。

※「とつぱづれ」=「ずっとはずれの方、一番端の方」という意味。

菜の花が眼前一面に咲き、その端の方にちょこっと富士山が見えている情景を詠んだ句。

矢切の渡しまで12㎞。自転車だと45分。その先まで歩くことになります。

ビルの向こうに富士山が。

今回は江戸川の向こうに「富士山」と「東京スカイツリー」を眺めながらの歩きです。

※流山では江戸川土手から「ダイヤモンド富士」が見られるそうです。

以前、都庁の33階から見たことがありますが、神秘的な感じで、すばらしいものでした。

振り返る。遠くに赤城山。

「海から28.0㎞」。

正面に真っ白な富士山。

旧流山橋橋脚。

            

流山橋。「海から27.5㎞」。

流山橋

元は当地近辺においては小船での往来が主で、1631年寛永8年)9月22日には幕府の許可を得て、葛飾郡丹後新田の経営する「丹後の渡し」が正式に設定されていた1923年大正12年)には丹後の渡しは流山町営となったが、当地において栄えていた舟運が衰退すると架橋の必要性が対岸の北葛飾郡早稲田村と共に浮上し、・・・1935年(昭和10年)4月にコンクリート製で全長388m、幅員5.5m初代流山橋が架橋された

その後、20年以上初代流山橋を使用していたが、河床の低下や橋の老朽化、車両大型化への対応、江戸川の堤防改修の関係から1961年(昭和36年)1月8日に架け替えが着工され、1965年(昭和40年)2月12日に2代目流山橋が開通した 。

(この項、「Wikipedia」参照)

⑦「丹後の渡し跡」。

「羽口の渡し」と並ぶ公営の渡しで小金道の一部として三艘の舟が用いられていた。新選組が来流時に利用したとも言われる。昭和十年の流山橋架橋で廃止された。

対岸を望む。三郷市。

この付近の今昔。

                                                                                                                             

1880年代のようす。渡し場がある。               2010年代のようす。流山橋。上に旧橋の橋脚。

振り返る。

流山橋の向こうは、武蔵野線の橋脚。

       

両方向とも、かなりの渋滞。

富士山(↓)。雲で隠れ始める。

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隅田公園。2022年3月25日。春の訪れ。ソメイヨシノ。千年桜。ヨウコウ。ミヤビ。そしてユリカモメ。・・・

2022-03-26 19:33:35 | 隅田川

3月25日(金)昼下がり。隅田公園。隅田川土手。

      

ソメイヨシノや他の品種のサクラも咲き始め、公園の中も、三々五々、そぞろ歩きをする、年寄り、家族連れ、若い男女・・・。第7波も想定されるはコロナ禍の中で、いっときの平安か。

「言問橋」。

     「桜橋」。

     「隅田公園千年桜プロジェクト」

古来から尊ばれ、愛されてきた桜。「緑と水辺を活かす隅田公園づくり」では、「三春滝桜(千年桜)」の子孫木を、公園の「シンボルツリー」としても守り・育て、次の世代へ受け継いでいくプロジェクトを推進します。この桜は、2013年(平成25年)1月に福島県田村郡三春町「三春さくらの会」から寄贈されました。

東京スカイツリー(浅草側から)。

                     

花壇。

桜橋から。

      屋形船と観光船と作業船と。上空にはユリカモメが一羽。遠くに墨田区役所、アサヒビール本社。   

                 

ソメイヨシノ。高速道路下にて。

エドヒガン。

              ヨウコウ。

東武線の方へ向かいます。

土手の桜並木を望む。

公園内のようす。

             

      

             芝生の上で人々がくつろぐ。

再び土手に。

ミヤビ。

         

ユリカモメ。テラスにて。

           

ハトも混じって。

今日の東京地方。もうすでに雨が降り始めました。全国的には春の嵐の気配。

ようやく咲き始めたサクラが強い風雨で落下しないように。

そして、ロシア軍の侵攻によるウクライナの破壊的な状況が、世界中の「戦争反対」の声と行動によって速やかにおさまるように。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その9。「流山」町歩きその4。流鉄「流山駅」。ろこどる。カラフルな車輌。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-25 21:00:38 | 江戸川を歩く

「流山鉄道100周年」解説板。

2016年3月14日、おかげさまで流鉄流山線は100周年を迎えます。1916(大正5)年に町民の出資によって開業して以来、流山市民の通勤、通学、買い物等にかかせない身近な足として親しまれています。都心から25キロ圏内でありながら、単線でワンマン運転であることや全車両に愛称が付けられるなど、レトロな雰囲気たっぷりで鉄道ファンにも人気です。

「普通の女子校生が『ろこどる』やってみた」。

普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』は、小杉光太郎による日本4コマ漫画作品。『まんが4コマぱれっと』(一迅社)2011年10月号から12月号までゲスト掲載された後、2012年4月号より2022年4月号まで連載された。話数のカウントは「〇〇 stage」。

2014年テレビアニメ化され、7月から9月にかけてTBSテレビほかにて放送された

地方の小都市・流川市に住む女子高生・宇佐美奈々子は市役所に勤務する叔父に懇願され、町おこしを目的とした動物園でのステージショーに出ることとなった。そこで出会った高校の先輩、小日向縁もステージに出演するという。縁のアドバイスもあって無事にステージをやり遂げた奈々子は、これをきっかけに縁とコンビで流川市をPRするローカルアイドル(ロコドル)「流川ガールズ」としてイベントやケーブルテレビへの出演などの活動をこなし、市民の血税から生まれた報酬(時給1000円)を得るようになる。着ぐるみの作成が遅れていたゆるキャラ「魚心くん」と中の人を担当する三ケ月ゆい(起案そのものはロコドルと同期)と、叔父の部下である西深井沙織がマネージャーとして加わり、プロジェクトは本格化する。・・・

(この、「Wikipedia」参照)

※「ロコドル」とは、「ローカルアイドル」のことだそうです。???

路線図。

・「平和台」は開業時「赤城」。大昔の大洪水で群馬県赤城山の崩れた土砂が流れ着いて出来たものといわれている。また、流山の地名はこれに由来するともいわれている。

・「鰭ヶ崎(ひれがさき)」というめずらしい地名は、弘法大師が、突然、現れた竜の捧げた木で薬師如来を刻んだとき、竜の鰭の先が、すこし残ったのに由来するといわれている。

※都心から出かける場合、JR常磐線「馬橋」で乗り換えるよりも、常磐線・武蔵野線「新松戸」駅で流鉄「幸谷」駅に乗り換える方(徒歩で移動)が一般的かも知れません(帰りも同様)。

 

「流星」 「流馬」 「銀河」 「若葉」 「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和53年より順次購入しました。
この形式より編成毎に車体色を変え、お客様に投票をいただき愛称をつけました。
「なの花」が2両編成で他は3両編成でした。

「あかぎ」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和62年に購入しました。
赤色にZ形の白帯が特徴で、ツリカケ電車としては最後まで活躍した編成です。
1200形とは床下機器に違いがあるため別形式としました。2両編成でした。

「流星」 「若葉」
西武鉄道で使用されていた車両で平成11年に購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。
3両編成で初の発電ブレーキ付でした。

「流馬」「流星」「あかぎ」「若葉」「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で平成22年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインとブラックフェイスが特徴です。全編成2両編成です。

「青空」 「明星」 「なの花」 「流馬」
西武鉄道で使用されていた車両で平成6年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。この形式より冷房装置が搭載されました。
「青空」「なの花」が2両編成、「明星」「流馬」が3両編成でした。

・・・
 
2月19日(土)~3月18日(金)「流星」号の車内に流山南高校家庭科部の皆さんが製作された作品を展示しています。流山線をご利用になりぜひご覧ください。

令和4年4月4日の4並びを記念して「令和4年4月4日記念乗車券セット」を発売いたします。

イラスト作家 杉本聖奈(すぎもと まりな)さんが描いた「四つ葉のクローバーが、全ての人に届きますように」という思いを込めたポップアップカードになっています。

(この項、「」HPより)

   令和4年4月4日記念号。

停車している車輌はHPよりもカラフルな印象です。

流山南高校家庭科部装飾電車。

     

自販機。

車内のようす。

         

行き帰り(いずれも土曜日)に乗りましたが、買い物客など乗客はそこそこいます。ただ、観光客の姿はほとんど見当たりません。流山都民が多いせいでしょうか。

流山市は都内に通勤通学する人々のベッドタウンとしてけっこう人気があり、住宅開発が進んで緑も少なくなっています。生活基盤、教育・保育施設、大型商業施設なども流山駅周辺から東や南に大きく広がっています。「市役所」は流山駅近くにありますが。

利根川歩きの時、印西市が昔からの中心地(木下駅付近)から別のところ(千葉ニュータウン)に移っているのと同じような印象です。

交通機関の発展充実が大きい影響をもっていますが。

町の中は歴史ある建物や施設があるので、もったいない感じがしました。

「流鉄流山線」というので、他にも路線があるのかと思いましたが、この線のみ。よく頑張っているなあ、と。

万一、廃線になったら廃線跡をぜひ歩いてみたい、という不謹慎なことをつい思ってしまいました。

これからも流山市民の足として頑張って下さい。

電車は激しい横揺れ、縦揺れで、読書は無理かも知れません。

電車に乗ることが好きな孫達も来たことがあり、「みりん」のかき氷をたべたそうですが、一言「おいしくなかった」。

・・・

2010年代のようす。住宅地が大きく広がっている。

左が流鉄「流山駅」。右がつくばエクスプレス「流山セントラルパーク駅」。

1970年代のようす。すでに区画整理など開発が進んでいるが、空き地も目立つ。つくばエクスプレス開通前。

次回は、流山から下流を歩きます。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その8。「流山」町歩きその3。万上線跡。万上みりん。一茶双樹記念館。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-24 20:30:21 | 江戸川を歩く

                駅前広場から左の細道を歩いて行くと、

  

              駅からカーブした道は、「貨物引込線(万上線)」跡。  

このカーブの道路は、流鉄流山駅から野田醤油株式会社流山工場(現:流山キッコーマン株式会社)をつなぐ引き込み線跡です。この引き込み線ができたのは昭和4年で、アルコールの原料とするサツマイモや石炭の移入、酒類の出荷に利用されました。トラック輸送の増加により利用は徐々に減っていき、昭和44年で廃線となりましたが、その軌道は道路となってそっくり残っています。

流山駅方向。

ところで、「みりん」とは? 

みりんは、日本古来から愛用されてきました。慶長7年には、すでに市販され、広く諸国で使用された記録が残されています。甘みが貴重だった時代に、みりんの甘みと風味は、甘い酒として人々に愛されていたのです。
今でこそ調味料を主とし、お正月の屠蘇酒程度に飲まれているみりんですが、当初は、主に飲み物として愛用されていました。そばつゆなど料理に用いられ出したのは、江戸中期からの話で、今のように様々な料理に用いられるようになったのは、明治も後半。昭和になって、その傾向が、一層強まってきたといわれています。

当時の文献をひもとけば、醤油における野田のように、みりんといえば流山を想起するのが当たり前と記されています。
この流山でみりん造りを行っていたのが万上でした。
酒造りを営んでいた相模屋二代目当主、堀切紋次郎は、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功。ここから、現代に用いられている本当のみりんの歴史が始まり、万上が関東白みりんの祖と呼ばれるようにもなったといわれています。
しかし、当初はともかく無名であったため、紋次郎自らが諸方を巡って、販路の開拓を進めたのでした。それが実を結び、文政7~8年(1824~25)頃には江戸の町のそこかしこに「流山みりん酒」の看板を見ることができるようになりました。
そして三代目、四代目とも家業に励み、その名声は向上。
明治維新の戦乱に巻き込まれ、一時、家業を中断したこともありましたが、維新後、再開。
明治6年にはウイーン万国博覧会に万上みりんを出品し、有巧賞牌を受け、同年続いて宮内省御用達を拝命するなど、その名声を高めていきました。
それからも多くの博覧会に出品し、常に最高賞を受け、その名を世界へと轟かせ、現在に至っているのです。江戸中期の文化11年、酒造りを営んでいた相模屋二代目当主、堀切紋次郎は、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功しました。これが江戸市中で大人気となり、東名物(あずまめいぶつ)として、日本全土に広まりました。これが、今のマンジョウ本みりんです。その評判から、宮中に献上する機会に恵まれた紋次郎は、こう歌います。「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」ここから「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、これがその名の由来です。

相模屋の白みりんが、その良質の味わいを産み出した背景には、醸造地である流山近県で生産されていた、名産のもち米とうるち米を使用していた点も大きかったといわれています。今も優秀な原料にこだわり、ゆっくり時間と手間をかけて熟成させる、昔ながらの醸造法で、マンジョウ本みりんを、1本、1本生み出しているのです。

往来する荷船の影や水夫の声はなくとも、江戸川は今も昔の面影をとどめ、ゆったりと流れています。
そのほとりに流山キッコーマン株式会社は位置しています。創業以来、200年以上たった今、もちろん最新の機器により衛生面や製造の精度を高めてはいるものの、その基本技術に変わりはなく、小学校の教科書に「しょうゆは野田、みりんは流山」と取り上げられるほどの美味しさと伝統の製法を守り続けています。
現在も、流山キッコーマン株式会社では、マンジョウ本みりんを醸造し、今なお変わらぬ味を、プロの調理場に、そしてご家庭のみなさまの食卓へとお届けしています。

(この項、「キッコーマン」HPより)

※我が家で用いているみりんは「万上みりん」です。

廃線跡の道は「キッコーマン流山工場」にぶつかります。かつては工場内に続いていました。

     正面の壁は「流山白味醂200周年記念まちなかミュージアム」。

1970年代のようす。西に「江戸川」。

2010年代のようす。

工場の壁にみりんの歴史が絵解きされています。

「万上通り」。右に工場正門。

         

流山みりんマップ。

              「みりん」にちなむお店などが紹介されています。

流山本町まちなかミュージアム

2014年に流山市の特産品である万上の「白みりん」が誕生して200周年を迎えました。この記念すべき年を契機に、流山の白みりん二大ブランドの一つ、「万上」の味が受け継がれる流山キッコーマン株式会社の工場の壁面を借用し、流山市の白みりんに関する歴史的な資料を掲示する「流山本町まちなかミュージアム」を設置しました。このミュージアムでは、現存する最古のみりんラベルや、流山のみりん醸造をけん引した秋元家の「天晴」と堀切家の「万上」のポスター等、貴重な資料が展示されています。・・・

          右の広告が「天晴味醂」。

右端に秋元家の「天晴」と堀切家の「万上」ポスター。

流山のみりんとしては、「万上みりん」の他に「天晴みりん」も有名でした。それにちなんで、「万上通り」の先は「天晴通り」と呼ばれています。

  • 歴史ある流山の白みりんの流れを継ぐ本みりん

    「天晴本みりん」は江戸時代後期に江戸近郊の流山で生まれた白みりんの代表ブランド。江戸の食文化の発展とともに調味料として広まりました。「天晴本みりん」は200年以上の歴史を引き継ぎ、現在の食産業に適応した品質で、タレ・つゆ、煮物など様々な調理用途にご利用いただける定番のみりんです。弊社製造工場が流山から日光へと移転した現在も、その志や技術は受け継がれています。
  • 用途
    煮物、焼き物、タレ・つゆ、菓子など 
  • おすすめ業態
    加工食品、冷凍食品、中食・外食など 
  • 荷姿
    20L BIB、18L 缶、1.8L、1L
「天晴」ブランドの名前の由来
「天晴」がいつからみりんの商標として使用されたのかは、はっきりした記録はありませんが、明治31年に新政府軍征夷大将軍・小松宮彰仁親王殿下が秋元家を訪れた際、八代目秋元三左衛門のために「天晴」の掛け軸を書き、その揮毫がみりんの商標として使われたといわれており、非常に古くからのロゴマークです。
  •  
歴史ある「天晴」みりん
「白みりん」発祥の地である流山(千葉県流山市)は、江戸川の舟運により大消費地である江戸と間近に結ばれていたことにより、江戸時代後期には全国的にも有名な産地となりました。この流山のみりんの二大ブランドの一つが「天晴」です。
       「白みりん」発祥の地、流山の昔の醸造風景
日光の美しい水を活かして
現在の「天晴本みりん」は、千葉県流山市から栃木県日光市へと移転し、弊社日光工場で製造しています。水の都と言われる日光は、良質な地下水に恵まれた環境にあり、製造や洗浄に使う水は、日光山系の良質な地下水を使用。大量に水を使うみりんや酒類の製造には最適な条件です。
雄大な自然に囲まれ、美しい水が豊富な日光の地で、「天晴本みりん」の歴史は受け継がれています。現在は、ペットボトル(1.8L、1L)製品、20LのBIB製品など、豊富なラインアップでお届けしています。
(この項、「」HPより)

※「天晴みりん」は、昭和の時代に吸収合併等により工場を閉鎖し、その跡地に「ケーズデンキ」が進出し、現在に至っている。

「天晴通り」を進むと、左手に「一茶双樹記念館」。

       

小林一茶寄寓の地
江戸時代の俳人小林一茶(1763年~1827年)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は、最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧を得ていた。
流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂の開発者のひとりと言われる、五代目秋元三左衛門である。三左衛門(1757年~1812年)は、双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は、享和3年(1803)から文化14年(1817)の15年間に、50回以上も流山に来たことが、句帖や日記からわかっている。一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として平成2年12月4日付けで、流山市指定記念物として(史跡)第1号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元家本家、茶会、句会などに利用できる一茶案 がある。
                流山市教育委員会

小林一茶は、生涯に2万句の発句を作った、といわれます。生まれ故郷の柏原など、ゆかりの地に多くの句碑が作られています。このブログでもいくつか取り上げています。
都内には、

・足立区六月3丁目・炎天寺の「蝉なくや六月村の炎天寺」、やせ蛙まけるな一茶是にあり」。

・荒川区尾久1丁目・浄善寺の「いたれりや佛の方より花衣」。

・荒川区西日暮里3丁目・本行寺の「陽炎や道灌どのの物見塚」。

・江東区大島2丁目・愛宕神社の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」。

東海道・知立では、はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)」

中山道・追分では、有明や 浅間の霧が 膳をはふ」。

房総往還・青堀では、「艸花やいふもかたるも秋の風」、「蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉」。

他にもいくつかありますが、省略。

こうして、再び「流山駅」に。 

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その7。「流山」町歩きその2。丁子屋。近藤勇本陣跡。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-23 20:24:52 | 江戸川を歩く

                 呉服新川屋店舗 国登録有形文化財         

この建物のある流山広小路沿いの地区は、江戸川沿いにあたり、年貢米の輸送や東北・北関東との物資が行き交う水運業・酒・みりんなどの製造業で栄え、江戸時代から昭和40年代まで多くの商家が軒を並べていた。呉服新川屋は弘化3年(1846)創業で、この建物は明治23年(1890)に建てられたものである。土蔵造りの分厚い壁が特徴で、恵比寿、大黒が表された屋根の鬼瓦は見事である。

建物に書かれた文字から、土屋熊五郎という松戸の大工が建てたことが知られる。現在広小路界隈の歴史的建造物は少なくなってしまったが、呉服新川屋は国土の歴史的景観に寄与しているものとして平成16年(2004)に国の有形文化財(建造物)に登録された。

丁子屋栄。

「本格フレンチレストラン」のお店。

流山市から古民家再生プロジェクトの出店のお声がけをいただき、その第一号店として、丁字屋は生まれました。
当時の佇まいをできる限り残す形でリノベーションし、外観の意匠だけでなく、内装も土間、上がりかまち、神棚、急な階段もそのままに蘇らせました。
「丁字屋」の名前も元の足袋屋の屋号からいただいています。
また日暮れになると、えも言われぬ風流さを醸し出す店頭の切り絵行灯。こちらは流山本町の活性化のために住民の方が制作されたもので、流山本町に約80基が並んでいます。店内にも季節ごとに切り絵を飾り、この町と歴史と一緒に暮らしていく想いを込めています。
ぜひ、丁字屋にお越しの際は、ふらっと周囲を散策して、この町の歴史を感じていただければ幸いです。

(この項、「丁子屋栄」HPより)

※「丁子屋」という屋号のお店はこれまでも街道歩きでいくつか出会いました。

 ①東海道・丸子(鞠子)宿 ②中山道・倉賀野宿 ③奥州街道・芦野宿 

 丸子宿の「丁子屋」はとろろ汁で有名で、立ち寄って食しました。 

切り絵行灯。「荒物雑貨商 元佐野屋」。

「閻魔堂」の先には、

 新選組流山本陣跡。新選組局長近藤勇と副長土方歳三離別の地。近藤勇陣屋跡。

         

近藤勇には街道歩きや川歩きででご縁があります。

①中山道・板橋宿平尾脇本陣豊田家跡」碑。

    

 板橋宿平尾脇本陣豊田家
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。
・・・
1868慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。

②甲州街道・「西光寺」仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像。「日野宿」は近藤勇と深い因縁があります。


    

③「龍源寺」。「野川」歩きの時に立ち寄りました。人見街道沿い。ここから徒歩4分で近藤勇生家跡に。
 
  
        「近藤勇」の胸像。                    お墓。

ここには、辞世の七言律詩が刻まれています。(「Wikipedia」より)

孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流

一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔

書き下し文)
孤軍援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙更に流る
一片の丹衷能(よ)く節に殉ず 睢陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔 只將一死報君恩
(書き下し文)
他に靡き今日復(ま)た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん
※睢陽(すいよう)=古代中国の地名代の757年、安禄山の乱の時に、太守許遠がここにって賊軍の進出を防いだ。
※丹衷(たんちゅう)=まごころ。「赤心」。

そして、流山。「近藤勇陣屋跡」碑より。

文久三年春以来京にあって名を馳せた新撰組は慶応4年鳥羽伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同年三月甲州路勝沼に出陣して官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙となった。当時の流山は水陸交通の要衝、醸造業の地として知られ、各種問屋、船宿、旅籠軒をつらね本多氏下総両管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。ために、江戸を脱出した幕兵のこの地を慕って屯集する者、また数を知らなかった。甲陽鎮撫隊は3月20日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にして一大勢力となった模様である。一方、官軍においては。その東山道軍先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向かう途次、この風聞を耳にした。直ちに来攻撃策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い捕縛に就かせた。時に慶応4年4月3日の夕刻である。一説に近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという・・・

※「新撰組」と「新選組」の二つの表示があるが、「新撰組」が一般的か。

さて、いったん「流山駅」に到着しましたが、駅前の観光案内版には他にもまだまだ見所が記載されています。

  

                  

そこで、町中をもう少し歩いてみます。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その6。新しい橋の建設。矢河原の渡し跡。流山町歩き。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-22 20:48:41 | 江戸川を歩く

                流山と三郷を結ぶ新しい橋を建設中です。

「三郷流山橋」は埼玉県道路公社を主体として、千葉県と埼玉県の3者が共同で事業を行っています。

「三郷流山橋有料道路」は、つくばエクスプレス沿線市街地である千葉県流山市と埼玉県三郷市とを結ぶ都市軸道路の一部として整備されています。

三郷流山橋有料料道路を整備することにより、JR新三郷駅周辺からつくばエクスプレス流山おおたかの森駅周辺の市街地間の移動が現在の30分から20分に短縮され、同時に近隣橋梁の渋滞緩和が期待されます。

(この項、「」HPより)

関連工事。

遠くに「流山橋」と「武蔵野線」の橋脚が。

振り返る。

護岸整備区間。

この先、立入禁止のため、いったん土手を下ります。

「海から28.75㎞」。

再び上がって、

⑥「矢河原(やっから)の渡し跡」。
「加村の渡し」とも言い昭和35年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にした。

江戸川を離れ、流山の町に入ります。「富士橋」。

土手には桜が植えられ、広場に。

       

これから流山の町を歩いて「流山駅」まで。

あかり館@雑貨konocono。

ところで、流山市とは?

江戸川利根運河を利用した水運で栄えた白みりんの産地として知られ明治期には葛飾県庁が置かれていた。

1950年代以降、江戸川台松ケ丘を皮切りに住宅開発が行われ始め、現在に至るまで住宅地として開発が進む。1970年代までに流鉄流山線東武野田線(東武アーバンパークライン)、JR武蔵野線が市内に通るものの、それぞれが市内で接続せず、地域ごとの繋がりが薄い市となっていたが、2005年平成17年)のつくばエクスプレス(TX)開通により、それらの地域が結ばれるとともに東京都心へのアクセスが向上した。

千葉県の北西部に位置し、東京都都心から20 - 30キロメートル圏内である。東葛飾地域に属し、旧東葛飾郡の中部に当たる。都市雇用圏における東京都市圏東京都区部)のベッドタウンとしての性質が強く、マンション住宅街が林立している。通勤率は、東京都区部へ33.5%である。東京との結びつきが強く、いわゆる「千葉都民」が多い。

市の面積は35.32平方キロメートルで、千葉県内では5番目に面積の小さい市である。

市の中部や北部は下総台地の一部を構成して緩やかな高低差の台地となっており、ほぼ全域が住宅街や農地などになっている。市の西境を江戸川が南北に流れ、江戸川沿い及び市の南部は平坦な低地、江戸川の対岸は埼玉県である。また、市の北部には利根運河が流れる。(「Wikipedia」参照)

※「流山」の由来=昔、大洪水で上州赤城山の崩れた土塊が流れ付き、小山(現在の赤城神社の位置する場所)となったことからという説と、赤城山のお札が流れ着いたからという説がある。

 

     「江戸情緒残るひろこうじ」。         「流山広小路」。

明治時代前後の土蔵造りの家屋と百数十年の歴史ある老舗が続く町並み。江戸時代、田中藩本多家飛地領の年貢米や東北・北関東からの物資が集められた。明治時代には、蒸気船の寄港などもあり繁栄した。

ましや呉服店。

土蔵。

観光案内板。

現在の広小路交差点。

まだまだ見所がありそうです。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その5。六兵衛の渡し跡。半割(南)の渡し跡。・・・(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-20 20:03:45 | 江戸川を歩く

   ③「六兵衛の渡し跡」。
別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。作業場(対岸の耕作地や流作場)への渡しとして昭和二十年頃まで存続。
※「流作場(ながれさくば/りゅうさくば)」=江戸時代の田の種類の一つ。河川または湖沼の氾濫により、水害をうけやすい場所にある田地。石盛(こくもり)は下田より低いのを通例とした。 

左手奥から用水路が続く。

「海から32.0㎞」。

    「海から31.5㎞」。

④「半割(南)の渡し跡」。
三、四人が共同で運営、昭和二〇年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預けることが多く、「馬船」と呼ばれる大型の舟を使用した。

この付近の今昔。

                                                                     

1880年代のようす。二ヶ所渡し場がある。             2010年代のようす。西側に「半割」という地名あり。

前方に「常磐自動車道」。

「海から30.0㎞」。

千葉県流山市方向。

「常磐道」。

           左前方に見えるのは「流山市 クリーンセンター」。

埼玉県吉川市方向。

  

                       道の両側には菜の花が満開。

流山市 クリーンセンター。

⑤「羽口の渡し跡」。
流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流(※流山に来ること)し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。

ここで、近藤勇率いる「新選組」の名が登場。

対岸を望む。

                                                                                                                               

1880年代のようす。上部に渡し場。                 2010年代のようす。かつての土手が中洲に?                  

「海から25.5㎞」。

左手は「流山市PCR検査センター」(旧東葛病院敷地内)。

前方に架橋工事が。

「海から29.5㎞」。         

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その4。利根運河。流山場外ヘリポート。尼谷の渡し跡。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-19 20:40:24 | 江戸川を歩く

                  「利根運河公園」。この手前付近から「流山市」になります。

利根運河。

江戸川への流入地点。

利根川方向。

「利根運河」の利根川流入口(水門)は「利根川」歩きのときに通過しました。以下再掲。

「利根運河」水門。          

利根運河江戸川方向。

利根運河

千葉県柏市流山市野田市を流れる、利根川江戸川をつなぐ一級河川運河(人工河川)。日本初の西洋式運河である。全長は約8.5キロメートル。明治時代の開削と前後して、東京湾に直接乗り入れる汽船鉄道が整備されたため、太平洋戦争前には舟運の役割はほぼ終えている。現在は行楽地となっており、利根運河にちなんで命名された東武野田線運河駅周辺には、流山市立の運河水辺公園利根運河交流館、工事の中心となったオランダ人技師ムルデルの顕彰碑、大阪・通天閣のものと似たビリケン像などが整備されている過去の経緯から、現在の水量の割には土手が広大となっている。特に東京理科大学野田キャンパス最寄駅の運河駅付近は、春には見事な並木を見ることができる。

        

歴史

1890年(明治23年)2月25日に通水、同年3月25日に通船、同年6月18日に竣工式。

1915年(大正4年)の利根運河
 
利根運河を越える千葉県営軽便鉄道の列車(大正時代)

1891年(明治24年)の舟運は年間約37,600隻で、1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

(この項、「Wikipedia」参照)

利根運河」全体MAP。

※かつての舟運のためか、現在は、川幅に比べ、両岸が広く高くなっています。

ここで、小休止。対岸ではラジコン飛行機が飛んでいます(↓)。

さて再開。

流山場外ヘリポート。

ヘリコプターの離発着の他、「DSLドローンスクール流山屋外練習場」として活用されているようです。

           (「流山場外ヘリポート」Facebookより)  

「海から34㎞」。

「河川管理境界」。

                     ←松戸出張所 運河出張所→    

     

田畑の向こうには、「DPL流山IV」など大型の物流施設が並ぶ。

※「DPL」は、「大和ハウス工業」の物流施設。

          対岸は、「OUTDOOR SPORTS PARK」。

ゴルフもバーベキューも。ソト遊びの新たな創造。
都心からすぐの新しいアウトドアリゾート。
家族で仲間で集える、ちょっと贅沢な“本物の遊び場”です。

ゴルフ場の大自然を一般の人にも解放。ゴルファーのみでなくファミリーや若い世代にも、
開放感あるアウトドア体験を可能にした「OUTDOOR SPORTS PARK」。
ゴルフ場・ゴルフ練習場はもちろん、本格的なバーベキューやアメリカンスタイルのレストラン、
サイクリングやランニングのエイドステーションなど、多様なコンテンツを備えたアウトドアリゾートです。

      

   (「」HPより)

②「尼谷の渡し跡」
平方村新田と平方新田(埼玉側)が共同で運営していた渡しで、三十人ほどが乗れる大型の舟を使用し、時には牛や馬、自転車も渡したと伝えられている。

対岸。

この付近の今昔。

                                                                     

1880年代のようす。                       2010年代のようす。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その3。玉葉橋。カヌー。「渡し跡」碑。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-18 20:59:49 | 江戸川を歩く

                      対岸のようす。グランドが続く。

       

左岸は、川の流れに近く、河川敷はほとんどない。

対岸の吉川市側は河川敷が広く、グランドやスポーツ広場などが数多く設置されている。

※「江戸川」に接して流れていた「庄内川」を河川敷に取り込んだことが大きな要因か?   

「海から35.75㎞」。

玉葉橋。

江戸川の河口から約35.5Km地点に架かり、埼玉県道・千葉県道326号川藤野田線を通す。左岸は千葉県野田市、右岸は埼玉県吉川市となり、江戸川の吉川市域に架かる唯一の一般道路の橋である。完成は1984年昭和59年)で、橋梁名は埼「玉」県と千「葉」県から1字ずつ採って名付けられた。上流の野田橋埼玉県道・千葉県道19号越谷野田線)までは約4Km、下流の流山橋埼玉県道・千葉県道29号草加流山線)までは約7Km離れており、流山橋周辺では慢性的な渋滞が発生している。このため、玉葉橋の5Kmほど下流に有料道路三郷流山橋が2023年の開通を目指して建設が進められている

澪筋は左岸側に寄り、右岸の河川敷には軟式野球場やスポーツ広場などを有する埼玉県営吉川公園が上流・下流双方に広がる。本橋と約120Km離れた富士山との間には視界を遮るものがなく、空気の澄んだ冬の早朝などには富士山の姿を望むことができる。国土交通省関東地方整備局は、玉葉橋と江戸川スーパー堤防上、みずきの街、千葉県立関宿城博物館の4スポットを「野田市からの富士」として関東の富士見百景に選定した。(「Wikipedia」より)

玉葉橋の下にカヌーが。

河川敷に下りてみます。

カヌーは、橋の下でターン。

菜の花が満開。

渡し跡①「深井新田の渡し跡」。
深井新田は江戸時代の江戸川開さくで分断された地域で、対岸に耕作地を持つ人も多く、認可は明治十年六月だが、江戸時代からの古い渡しである。

                     1880年代のようす。

                     2010年代のようす。

そこからの対岸。

野田市側。

※ここから下流に架けてかつての渡し場跡が続きます。

「利根運河」の土手が見えてきます。

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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その2。海から40㎞。野田橋。中州。庄内古川・中川。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-17 21:25:56 | 江戸川を歩く

       この付近では、道路も住宅も土手に接近しています。そのせいか、自転車や歩行者も多くなっています。

「海から40㎞」標識。

菜の花畑。

「野田橋」に近づきます。

野田橋。「海から39.5㎞」。

千葉県野田市と埼玉県松伏町を結ぶ。  

        

左手に「キッコーマンフードテック中野台工場」。

①しょうゆ、つゆ、たれ、ソース及びその他調味料の製造及び販売
②農産、水産、畜産加工品等の食料品及び飼料の製造及び販売

左手奥にある森の中まで工場が続いています。

この先、芝生養生中。

対岸は埼玉県吉川市。

独特な河川敷のようす。

所々に砂州が。

木々が生い茂る中洲。          

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

      左に流れる「庄内川(古)」が江戸川と接している。

                     2010年代のようす。庄内古川は河川敷に。

現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。

この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。

なお庄内古川は、江戸時代以前の渡良瀬川権現堂川より下流の流路を流れた。渡良瀬川の下流は古くは太日川と呼ばれた。太日川は江戸時代に整備され現在の野田市関宿・幸手市西関宿から南流する江戸川となり、庄内古川とは吉川市付近で合流した。

(この項、「Wikipedia」参照

※合流地点は、ちょうど写真付近。

この先もしばらく木々が茂る中州が幅広で長く形成されていることと、「庄内古川」と「江戸川」との接点と関連があるのでしょうか?

キッコーマン関連工場。

「海から38.0㎞」。

中州(灌木帯)が続く。

「キッコーマン」関連工場脇の土手。

対岸には野球場が何面も。

遠くに野田の街並み。

「海から37.0㎞」。

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東武野田線「川間駅」~流鉄線「流山駅」。その1。「清水公園」今昔。座生沼。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

2022-03-16 19:36:18 | 江戸川を歩く

                     「東武鉄道野田線」鉄橋。

3月12日(土)。快晴。「江戸川を歩く」の第2回目。

東武野田線・川間駅で下車、江戸川土手に向かいます。

下流方向。

土手上にある、舗装され、整備された「自転車・歩行者専用道」を歩きます。

気温も上昇し、これまでと違って風も穏やかで歩きやすい。利根川歩きで、そうとう苦しめられたのがウソのよう。

  菜の花を楽しみながら。

振り返る。

「海から43.75㎞」。河川敷のグランドでは子どもたちの歓声。

「海から43.0㎞」。

  左手は、「川間グリーンテニスクラブ インドアテニススクール」。

対岸は、埼玉県春日部市。

畑地と住宅と。

「海から42.25㎞」。

    左奥が「清水公園」。

かつて、「清水公園」付近には大きな沼地が広がっていました。

                     1880年代のようす。

       「座生(ざおう)沼」が広がる。

                     2010年代のようす。緑の部分が「清水公園」。

「清水公園」開園後の当時のようす。

「野田観桃記/宮本鴨北著」    

                                     (「野田市立図書館」HPより)

清水公園

野田の醤油醸造業柏屋5代目の茂木柏衛により1894年明治27年)4月3日に開園。現在は株式会社千秋社が管理・運営をしている。開園から約120年の間、地域密着・自然志向路線を貫いており、園内にある各種施設と豊かな自然が、地域住民の安らぎの場として四季を通じて親しまれている。設立主旨は、かつてこの地で暮らしていた縄文人達の自然生活の姿を、現代の人たちにも園内の自然を通して体感し、安らぐ場を提供することを目的として造られたものである[2]キャッチコピーは「自然とともだち」

縄文時代には、この辺り一帯は奥東京湾の入り江であったと推測される案内板があり(縄文海進、これは現在も周辺に貝塚などの縄文遺跡が分布する事からも分かる。江戸川および支流の座生川沿いの開析谷の低地及び下総台地の縁辺が複雑に入り組む場所に立地しているため、園内は緑が多く起伏も存在する。

園内にあるフィールドアスレチックは日本最大級(100ポイント)の規模であり、特に池の上に作られた「水上コース」は人気がある。難易度は高く、レスキュー隊やスタントマンのチームがトレーニングに利用することもある。ここには2020年6月末までは水飛沫が噴き上がる世界初の噴水迷路「アクアベンチャー」もあり、ここも人気スポットとなっていた。入園料は無料、駐車場及び各施設利用の場合は有料である。自然が数多く残されているため、近隣の幼稚園や小学校の遠足の行き先としても親しまれている。千葉県民の日を初めとして、年に数日、有料施設が割引となる日がある。

(この項、「Wikipedia」より)

小学校や幼稚園の遠足として、また家族連れで、東京からも出かけてきます。

「フィールドアスレチック」で、ずぶ濡れになって遊ぶのが楽しいようです。

先に進みます。菜の花が満開。

         

                 

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