おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「荒川」(「荒川放水路」)。その11。「月を射る」。「草刈りの碑」。水位計。船堀閘門。

2021-02-25 20:11:21 | 川歩き

旧岩淵水門を渡ると、荒川と隅田川に囲まれた小島、「水門公園・中之島」が。

モニュメント「月を射る」。

                  1996年(平成8)「第2回荒川リバーアートコンテスト」での特賞受賞作品。

大きな「草刈りの碑」。「農民魂は 先づ草刈から」。若者が見入る。

下部に「由来記」が刻まれています。

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰

碑文は、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ‐日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト」‐URL: https://senseki-kikou.net/

より借用しました。

昭和13年から昭和18年までの6ヶ年、荒川土手で草刈競技が行われていた。現在の全国高校野球選手権さながらの全国的行事で、草刈日本一の栄冠を争った。

(この項、「」HPより)

現在の水門「青水門」を望む。

荒川の対岸を望む(川口市)。

「旧水門(赤水門)」。

         

水面に「水位計」。  

これは荒川水位の観測を始めた昭和2年からの洪水の水位の記録を示しています。
一番上は昭和22年(1947年)のカスリーン台風時で8.60m(A.P.※ )。次が昭和16年(1941年)の8.27m(A.P.) 。3番目が昭和33年(1958年)狩野川台風時の7.48m (A.P.)となっています。以下、④昭和3年8月1日、⑤令和元年10月13日(東日本台風)、⑥昭和13年9月21日、⑦平成11年8月15日。
※A.P.とはArakawa Peilの略で、荒川水系における水準を表す単位です。中央区新川にある「霊岸島水位観測所」でAP±0が定められ、現在全国の高さの基準であるTP(東京湾中等水位=海抜)はAP+1.1344と定められました。

これを見ると、令和元年(2019)、東日本を襲った「台風19号」は猛烈な台風であったわけです。

 

左の写真で、堤防の高さがカスリーン台風級以上の水害に備えたものであることが分かります。

そこから「赤水門」を望む。

ここまでが「荒川 川歩き」の終点。

JR「赤羽駅」まで戻ることにします。「荒川知水資料館(アモア)」は予約制のため参観できず。

前庭に「船堀閘門」の一部が展示されています。

   船堀閘門頭頂部」。

荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸に小名木川閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割り堤上にある「船堀閘門」は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。

閘門(こうもん・ロックゲート)とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設。川と川のあいだに水門をつくって、水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通します。

  

(図は、「荒川ロックゲート周辺の今昔 sc2.s27.xrea.com › hobby › arakawa_komatsu」より。)

小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」は、すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。(「大島小松川公園」・「風の広場」の丘の上)

小松川閘門」。 

                    頭頂部はどちらも同じような造り。

新河岸川」。

                  

荒川知水資料館(アモア)」。

以上で「荒川」(四つ木橋~岩淵水門)歩きは終了。青空の下(風は少し冷たかったですが)の歩きでした。見所満載でのんびりと晩冬の風物を楽しみました。少年達の大きな声が響く、そんな川歩きです。

 この歩きの難点は、当たり前ですが、途中に自販機はなし、トイレはグランド脇の簡易トイレ(だけとは限りませんが)。土手を下りればコンビニなどもありそうですが・・・。

 歩く場合には「飲み物」「食料」などをしっかり用意しないと。一番よい手段は、なんと言っても自転車。サイクリングは、気分も快適。ただ、折りたたみ式じゃないと、家からの往復が大変! 

次回は、「隅田川」を遡り、岩淵水門まで歩くとしますか。

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「荒川」(「荒川放水路」)。その10。岩淵水門。台風19号。旧岩淵水門。

2021-02-24 19:41:26 | 川歩き

              「岩淵水門」。

「解説板」。

増水時に、荒川の水が隅田川に流入することを防ぎます。

岩淵水門は、大正13年(1924)に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年(1982)に旧水門の下流300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の航行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門を閉めて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。

 

銘板。「岩淵水門門扉」。

この水門が2019年秋「台風19号」の直撃による洪水防止のために閉鎖されました。以下はその時の記事です。

平常時。

           閉鎖時。

2019年10月12日夜、東京の荒川は台風19号の直撃を受けていた。首都圏初となる大雨特別警報が発令される中、怒濤(どとう)が逆巻き、水位は上がり続けた。

緊迫の度が極まった午後9時17分。東京都北区にある「岩淵水門」が閉鎖された。1枚214トンもある青いゲートが3枚、ゆっくりと沈み、押し寄せる濁流を遮っていく。閉門は12年ぶりのことだった。

岩淵水門は隅田川が始まる場所だ。荒川はここで2つに分水され、片方が「隅田川」に名を変える。荒川の洪水時は水門を閉じ、より流路が狭い隅田川側への流量を抑えることで、東京下町での氾濫発生を防ぐ。

台風19号では荒川の水位は7.17メートルに達した。一方、隅田川の堤防高は6.9メートルどまり。水門を閉じなければ氾濫していたとみられる。(この項、「日本経済新聞」より)

あれから一年半。まだ所々に被害の爪痕が残り、改修工事が進められています。

「隅田川」(右手「新河岸川」)を望む。

旧水門を望む。

サイクリングや散歩の中継地としてけっこう人が集まってきています。景観もいいので、じっくりと散策したい場所です。

上流側からの岩淵水門。

旧水門へ向かいます。

「解説板」。

旧岩淵水門のあらまし

昔、荒川の下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そこで明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて新しく過去までの約22㎞の区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、流水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年(1916)から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年(1975)から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。永年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

平成20年(2008)度には、「国土の安全を高め、都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る「近代化産業遺産」として認定されています。

               

(付)今朝の墨堤通り・河津桜。

満開。

青空に映える。

「オオカンザクラ」。

この桜は3月中旬頃から見頃だそうですが、すでに5分咲き。

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「荒川」(「荒川放水路」)。その9。新東京都民ゴルフ場。芝川水門。隅田川。

2021-02-22 21:07:42 | 川歩き

           「鹿浜橋」の先で、「首都高川口線」は大きく北東に進み、「外環道」につながっていきます。

対岸の足立区側は「足立区立都市農園公園」。

手前の河川敷には「新東京都民ゴルフ場」

          

日本のセント・アンドリュース、河川敷ゴルフ場の発祥の地と言われている新東京都民ゴルフ場は、都心に最も近い場所にあり、年間を通してリーズナブルな料金で、お楽しみいただけるミニゴルフ場です。ホールは、河川敷のため平坦でも、池あり土手ありの楽しめる9ホールです。歴史のあるゴルフ場で、多くのプロゴルファーを育ててきました。これからゴルフを始めようという方から、ベテランの方まで、ゆっくりと楽しめる都会の穴場です。  新しくなりましたクラブハウスでも、楽しいゴルフができるよう、準備致しております。皆様に楽しんでいただけますよう、従業員一同お待ち致しております。

       

 (この項、「新東京都民ゴルフ場」HPより)

「河川敷ゴルフ場」とあなどってはいけません。イギリスの「セント・アンドリュース」と肩を並べているのですから。

注:セント・アンドリュースオールドコース(Old Course at St Andrews)は、スコットランドファイフセント・アンドルーズに所在る世界最古のゴルフ場。セント・アンドリュース・リンクスのコースのひとつであり、ゴルフの聖地とも呼ばれており、全英オープン全英女子オープンの開催実績を持つ名門ゴルフ場である。セント・アンドルーズ・リンクスのうちのオールド・コースは、1552年に作られ世界で最も古いコースとされている。このコースは“あるがまま”を理念としており、世界で唯一つ“神と自然が創り給うたコース”と畏敬の念をもって呼ばれている。(「Wikipedia」より)

 

対岸には、芝川水門」。

一級河川荒川水系「芝川」は埼玉県桶川市北1丁目地内を水源とし、川口市領家地内において荒川に合流する河川で、流路延長は約35km(このうち一級河川としての指定区間は約26km)、流域面積は約117k平方メートルです。
芝川は水源より一般国道17号の東側を南へ流下し、さいたま市のJR大宮操車場付近において見沼代用水西縁と伏越により交差(一級河川管理区間起点)し、さらに、見沼田圃地域を流下して、途中で準用河川加田屋川を合流します。その後、一般県道吉場安行東京線の八丁橋を境として都市域に入り、藤右衛門川、竪川を合流し、同地点において旧芝川と分かれて新芝川(放水路)となり、芝川水門を経て荒川に左岸側より合流します。

(この項、「彩の国 埼玉県」HPより)

左手には「隅田川」が近づいてきます。

「日本化薬東京工場」。その向こうに「隅田川」。

その先で、左手から「隅田川」の流れが見えてきます。      

  下流方向を望む。                                   

行く手に岩淵水門が近づいてきます。

「城南製鋼所」の厳つい建物が対岸に。

「台風19号災害復旧工事」解説板。

遠くにスカイツリー(↓)。

川口市内の高層マンションが対岸に。

岩淵水門」がいよいよ間近に。

                「隅田川」に合流する左手の流れは、「新河岸川」。

この付近の今昔。

                                                                       

1880年代のようす。「荒川」(現隅田川)の流れ。          2010年代のようす。左が「隅田川」、右が「荒川」。

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・・・そして「向島百花園」。河津桜。

2021-02-19 22:12:10 | じじばばがゆく

 

「梅まつり」の幟の向こうに「スカイツリー」。

ところで、「向島百花園」が「緊急事態宣言」延長でまだ休園が続きそうです。そこで、去年、一昨年のようすを紹介

春もやゝけしきとゝのふ月と梅 はせを

こんにゃくのさしみも些しうめの花 はせを

「かごしまこう(鹿児島紅)」。

「しらかが(白加賀)」。

「しらたきしだれ(白滝枝垂れ)」。

   
「紅千鳥」。

2018年の写真。 

鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)  

「紅冬至」。

「八重野梅」。

「鴛鴦」。

早く再開して欲しいものです。

ところで帰宅の途中、ふと見ると、「河津桜」がすでに開花しています。

              

早くも桜の季節を迎えました。

     

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「香梅園梅まつり」。ついでに「亀戸梅屋敷」。

2021-02-17 20:15:42 | じじばばがゆく

                                      小村井梅園の由来」解説板。

小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村字出戸511番に3千3百坪の広さを持ち、切り絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。

園内には、築山や池に名石が組まれ、東西に亘り松の大木が二列に立ち並び、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣り堀もあり、花菖蒲に秋の七草と多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には、「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り此の所に香取の社あり その傍ら梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の花を穿つ 実に新香の梅屋敷にも倍勝景・・・」と記されています。惜しくも明治43年の大水で廃園となりました。面影を偲び、此處にその由来を記して記念とします。

                        平成二年九月吉日 平成二年度世話人 

狭い敷地にたくさんの梅、梅。             

古木から新しい木まで。

枝垂れ系の梅が目を引きます。                   「見驚」。薄紅から白へと変わる大き目の花を見て驚いた、というところからこの名がついたとも。シーズンの終わり頃に開花。ちょっとまだ早すぎた感じです。

初日とあってたくさんの人。

「錦光」。枝振りが見事。

    庭先にも。

   「紅冬至」。

見上げるほどの大木の先にいくつか花が。青空に映えています。

「御簾の内」。

狭い敷地に所狭しとたくさんの梅の木。

「向島百花園」(ここもそれほど広くはありませんが)のように、梅の木が適度に間隔で配置され、メジロなどの野鳥も訪れ、池や築山などもある、という風情とは異なっています。

それでも、地元の方々の「小村井梅園」復活への熱意・情熱を充分感じさせる趣です。

ここから少し南、「明治通り」と「蔵前橋通り」との交差点に「亀戸梅屋敷」という観光施設があります。その付近にはかつて大きな梅屋敷があったそうです。「向島百花園」「小村井梅園」と並び、とりわけ有名だったようです。

・・・

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や堅川を船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。

特に庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥しているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。

「亀戸梅屋敷」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写(作品名「日本趣味:梅の花」/1887年)するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。

(この項、「」HPより)

粋な江戸ッ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。当時の賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。

浮世絵師・歌川広重が描いたこともある江戸時代の亀戸に実在した梅屋敷。
亀戸梅屋敷はその歴史ある建物をモチーフにして、
観光案内所や物産店、江戸切子ギャラリー、寄席等、
亀戸の文化、歴史の魅力をたっぷり味わえる複合商業施設です。

(この項、「江東区」HPより)

      歌川広重画。(「国立国会図書館」HPより)

左の浮世絵を模写した絵がゴッホの作品として有名。

明治43(1910)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸町・大島町・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。現在は、浅草通り沿いに説明板と記念碑、細い紅白の梅が植えてあるだけです
 写真は、その跡地の遠景(北十間川から写したもの)。

(「今昔マップ」より)

この地図(1896~1909明治中後期)で、上方に「江東梅園(小村井梅園)」、下方に「臥龍梅」とあります。

 

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「隅田公園」。梅づくし。ついでに「恋人の聖地PROJECT」。

2021-02-16 20:18:50 | 隅田川

すっかり春めいた時節。昨日は突然の大雨、そして虹がかかった晴れ間。今日は、北海道を中心に猛烈な低気圧による寒波。一昨日は、福島、宮城で大きな地震、もう少し浅ければ大津波が襲った、とも。2011年の「東日本大震災」の余震ですから、まだまだ予断が許せません。

そして、今日2月16日は日蓮聖人の生誕800年(数え年)の日。当時、天変地異飢饉疫病が次々と起り、人々が塗炭の苦しみにあえぐ。そうした時代にあって、現世を逃れて来世を願うのではなく、今世の苦楽の中にこそ「立正安国」という願いと行動があると説いた、という。

コロナ禍の中で、人々はどう処したらいいか、そんなことをふと思う、今日この頃。

隅田公園の梅の花もいよいよ咲きそろってきたか? 

2月13日(土)晴れ。隅田公園。遅ればせながらその記録を。

隅田公園。

           

 

枝垂れが見事。

ちょうど満開。

小ぶりながらも花をいっぱい咲かせて。

ユリカモメの群れ。

スカイツリー。

 

 

         

「隅田川」に架かる「東武線」鉄橋脇に新設された「歩道橋(SUMIDA RIVER WALK)」を渡って墨田区側へ。

下流を望む。「吾妻橋」、「駒形橋」と続く。

「アサヒビール本社」、「墨田区役所」。

すぐ脇に「東武伊勢崎線(スカイツリーライン)」。

と、橋の手すりに「恋人の聖地」。

           南京錠を付けるのが慣わしのよう。

愛の南京錠(Love padlocks)

恋人たちが永遠の愛の象徴として南京錠フェンスや門扉、などの公共設備にかける儀式である。その対象となる場所は世界中で増え続けており、鍵をかけるためのモニュメントが特設された土地もあるが、景観を損ねるだけでなく安全性に問題が出る恐れもあることから、世界各地で撤去作業が行われている。1990年代から2000年代の初めにかけてみられるようになった現象で、その起源については定かではないが、セルビアイタリアなどでは発祥となった伝説や作品まで遡ることができる。

そういえば、「房総往還」の旅の途中、木更津港の「中の島大橋」で見かけました。・・・

 

狸のカップル像。右手に南京錠がたくさん。
「中の島大橋」が「恋人の聖地」に選定された、とか。さすが木更津。タヌキですね。 

・・・

隅田川で見かけるとは思いませんでした。

恋人の聖地

特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定された観光スポットである。

自然に囲まれた場所、夜景の綺麗な場所、記念品が作られる場所などが選定され、最初の発表は2006年4月19日にされた。

少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとした『観光地域の広域連携』を目的として恋人の聖地プロジェクトが始動し、2006年より、「全国の観光地域からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポット」を「恋人の聖地」として認定している。また、主旨に賛同する企業・団体が管理する場所のうち「恋人の聖地」としてふさわしいと判断した物も、同様に「サテライト」として認定している。

今後の展開としては、「既存の観光スポットのリノベーションを図り、新たな観光スポットとして訴求力を高め、新たな来訪客層の開拓」をかかげ、また、「恋人の聖地」認定地同士の連携による情報発信力向上等も視野に入れている。観光庁およびJTBが後援している

2019年6月時点、埼玉県沖縄県など一部を除く日本各地に選定箇所が存在している(サテライトを除く)。島根県にいたってはサテライトとしての認定を受けている場所もない唯一の都道府県となっている。

選定委員

 (この項、「Wikipedia」参照)  

東京都の“恋人の聖地”
  1.  ヴィーナスフォート/パレットタウン大観覧車
  2.  六本木ヒルズ展望台/東京シティビュー
  3. 日比谷松本楼

   ・・・

2020年!それぞれ年間3,000万人以上が訪れる浅草と東京スカイツリータウン®の2大観光拠点をつなぐ水辺に新たな「聖地」が誕生。すみだリバーウォークは、既設の隅田川橋梁に対して新たに設置した歩道橋。カラーデザインは東京スカイツリー®とおそろいの「スカイツリーホワイト」を基調とした色に。昼景はもちろん、夜間のライトアップもロマンティックに。東京の代表する隅田川、浅草、東京スカイツリー®を一手に見渡せる水辺の風景は、まったりのんびり散策デート、気分を盛り上げるためのロケーション、思い出づくりのフォトスポット、などなど、二人の間に様々な演出を提供してくれる東京随一のパワースポットだ。(「恋人の聖地PROJECT」HPより) 

それにしても「南京錠」という呼び名が面白い。日本における南京錠という名は、近世において、外国由来のものや、珍しいものや小さいものが「南京」を冠して呼ばれたことに由来するようですが。 

対岸の台東区側を望む。

  

 

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「荒川」(「荒川放水路」)。その8。荒川の五色桜。和歌・俳句・・・。足立区と北区の区界。

2021-02-15 20:08:27 | 川歩き

 

「五色桜さんぽ道」。来た道を振り返る。長く連なっています。

「鹿浜橋」の手前の土手には素晴らしい桜並木。

所々に桜に因んだ歌や俳句が掲示されています。

 

・見渡せば春日の野辺に霞み立ち咲き匂へるは桜花かも

・青丹よし奈良の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり 小野篁

・鶯の鳴き散すらむ春の花何時しか君と手折りかざさむ 大伴家持

 

・老の手を 引て堤のさくらかな 三省

・丹精も八重九重のさくらかな 柳芳

・折な人風よちらすな花ざかり 義詮

・花見する客にせかれて小屋普請 江北

・荒川の堤はやがてはなのなみ 數翁 

 

 

    

・花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉

・木のもとに汁も膾も桜かな 芭蕉

・さまざまな事思ひ出す桜かな 芭蕉

・花の山歌よむ人や踊る人 友尚

・八重桜製菓工場に咲けば菓子 山口誓子

春爛漫の季節にはさぞかし。

「荒川の五色桜」解説板。

かつての様子。その復活を目指しているようです。

五色桜の由来

足立区地先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治19年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混植されていました。白色や黄色、淡紅色や濃紅色などいろいろとあったので、「五色桜」の名がついたと言われています。花の見頃には色とりどりの桜が人々の目を楽しませ、広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄市長が贈ったものです。しかし、この地の五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。

五色桜の復活

戦後、世の中が落ち着いてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和56年にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り桜から接ぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の各公園に植えられています。そして、往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、国土交通省をはじめとして関係団体の協力により、この里帰り桜は「桜つつみモデル事業」として、ふるさとであるこの荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越え時間を越えて長い旅をして帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。

 

 

桜の種類は御衣黄、ウコン、松月、関山、一葉、普賢象、駿河台匂、細川匂など。

(「」HPより)

   

足立区堀之内地先の鹿浜橋緑地の堤防上部では、例年4月上旬から中旬にかけて18種類、約120本の「里帰り桜」が、白や黄色、淡紅、濃紅などの花を咲かせます。
足立区では、次の経緯により植栽されたサトザクラのことを「里帰り桜」と呼んでいます。
 明治45年、「荒川堤の五色桜」がアメリカの首都ワシントンに贈られました。その後、本家の桜は、堤防の工事や公害の影響で、残念ながら衰退してしまいました。昭和56年に、足立区では「五色桜」を復活させるために、区制50周年記念事業として、アメリカから枝を採取し、苗木を増やして「桜の里帰り」を実現しました。
 また、平成20年度から、荒川左岸の堤防に往時の桜づつみを復活させる取組みを進めています。

(この項、「足立区」HPより)

「環七通り」の「鹿浜橋」が前方に。

来た道を振り返る。遠くにスカイツリーが。

「鹿浜橋」。向こうに川口の街並みが見えます。

目的地の「岩淵水門」に向かうには、橋を渡って向こう岸へ。

荒川を遡上する浚渫船。けっこう多く見かけます。

対岸も足立区。区界は「荒川」ではなく、「隅田川」。

                                                          

2010年代のようす。隅田川(旧荒川)が区界。    1880年代のようす。荒川をはさんで「北豊島郡」と「南足立郡」。   

江戸川区の一部(小松川地区)が「荒川」をはさんで、西にあるのも「旧中川」が区界だからですね。                                

「河口から19㎞ 足立区新田」。この地域の最寄り駅は北区にあるJR「赤羽」か「王子」駅。

この地域にある「都立足立新田高校」は、タレント伊集院光さんが通った学校。卒業直前に中退して落語の世界に入った(円楽門下)ようですが。

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「荒川」(「荒川放水路」)。その7。平成の五色桜。「日暮里舎人ライナー」。五色桜大橋。

2021-02-12 19:40:05 | 川歩き

            パークゴルフ施設。

初心者でも楽しめるサクラコース(9ホール)と起伏に富み上級者の方にも満足頂けるチューリップコース(9ホール)の全18ホールとなっています。
レンタルクラブやボールも用意していますので、気軽に手ぶらで楽しんで頂けます。

(「」HPより)

この付近では、「隅田川」が接近して流れています。左岸からはまったく見えませんが。

                     2010年代のようす。上が「荒川」、下が「隅田川」。「扇大橋」、「日暮里舎人ライナー」橋脚が2つの川を跨いでいます。

土手には桜並木が続きます。

      

遠くに「日暮里舎人ライナー」の橋脚が。

こちらは「扇ゴルフ練習場」。

土手上は、「五色桜の散歩みち」になっています。

    「足立の平成五色桜」解説板。

現在の足立区江北付近一帯は、明治後期から昭和初期にかけて、様々な品種の桜が植えられていた桜の名所でした。ピンク、白等五色のかすみがたなびくように見える」ということから、「荒川の五色桜」と呼ばれていました。堤防工事や公害等の影響を受け、1945年(昭和20年)頃には姿を消してしまいました。足立区では、当時の97品種から現存する品種を堤防の一部(約4.5㎞)に植え、「足立の平成五色桜」として桜の名所の復活を目指しています。

対岸の向こうには「隅田川」が接近してくる。

「日暮里舎人ライナー」と描かれています。

はるか頭上に橋脚が。乗ったことがありますが、高空を進む感じで、爽快な気分に。

 

ひとと環境にやさしい新交通システム

日暮里・舎人ライナーは、コンピュータ制御による自動運転を行う新交通システムで、日暮里~見沼代親水公園間(9.7km・13駅)を運行しています。2008(平成20)年の開業以来、主に沿線の足として親しまれています。

(この項、「」HPより)

すぐ隣に併行している橋が「扇大橋」。

橋をくぐると、ヨシ原。すっかり刈り取られています。

先には、「五色桜」にちなんだ、「首都高」の「五色桜大橋」が見えてきます。

        見ごたえのある景観。

荒川の河口から16.5 kmの地点に架かる世界初の2層構造のダブルデッキールセンローゼ橋で、上層部が内回り(板橋方面)、下層部が外回り(江北方面)となっている。

(「Wkipedia」より)

手前に「江北橋」。たもとのモニュメント。

振り返ると、はるか遠くに「スカイツリー」(↓)。

上流を望む。

西方の「北豊島団地」を望む。左が「五色桜大橋」。

        団地との間に「隅田川」。

桜の植樹。土手沿いにたくさん。

         花見の時期はさぞかし賑わうことに。コロナがおさまってくれればいいのですが。ちょっと今年は無理かな?

「五色桜大橋」遠望。

                 

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「荒川」(「荒川放水路」)。その6。白雪の富士遠望。「本木ワンド」。サクラの植樹。大場政夫。

2021-02-10 20:37:22 | 川歩き

ヨシの原っぱがしばらく続きます。草むらの中からは鳥の鳴き声が。時々姿を見せます。雀以外の鳥もいそうな感じ。

                 

                    川縁には、草木の中に青テントがチラホラ。

用水路(樋管水門)。 

遠くをよく見ると、白雪の富士山が。残念ながら霞んでいます(↓)。

望遠カメラなら写っているのでしょうが。

 

この付近は、「首都高」が間近に迫ってきます。

「堤防強化対策」案内。

ここからグランドが開けてきます。パターゴルフ場。

        「梅田排水機場」流路。

来た道を振り返る。遠くに「東京拘置所」(↓)。

「西新井橋」。

橋詰めを越え、先を続けます。右手土手下は、「本木」地区。

「海から14㎞」。上の絵はこの地域の観光マップ。

しばらくヨシの原が広がります。「本木ワンド」の一画。

                   

ワンド湾処、わんど)は、川の本流と繋がっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことである。魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっている。近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えている。

・・・

ワンドは、水流が穏やかなので、淡水魚の生息に適しており、水生植物が繁茂するところは、魚の産卵や稚魚が暮らす絶好の場所となっている。水の流れや深さなどが微妙に異なるため、それぞれのワンドは独自の生態系を形成している。

淀川のワンドが天然記念物稀少種イタセンパラの生息地として注目されるようになると、河川に生物多様性をもたらす要素のひとつとして、河川改修にあわせてワンドを整備するケースが増えている。

(この項、「Wikipedia」参照)

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)野鳥(水鳥)や水生植物の観察など自然を楽しめそうです。

 

右手の土手沿いにはサクラの植樹。 さまざまな品種の桜が植えられています。「嵐山」「白妙」「糸括」「薄雲」・・・。

2019年(令和元年)10月12日(土)に伊豆半島へ上陸し、関東甲信越、東北地方に歴史的水害をもたらした台風19号。「荒川」も氾濫の危機に。

荒川の河川敷一帯が水没し、グランドもヨシの原もすっかり痛めつけられてしまいました。その後の復旧・整備工事がやっと完成したことのようです。

サクラの植樹(「ふるさと桜オーナー事業」)などの展開による整備。

その以前からの地元の清掃活動、ボランティア活動の記録がインターネットに公開されています。こうした地道な活動が大切なのですね。

  本木ワンド」。正面にスカイツリー(注:「荒川(放水路)」のこの付近は西に向かっているため、南の正面に見えることに。)

土手下、奥に見えるのは「足立六中」。若い頃、少し授業のお手伝いを。北千住駅からバスで「西新井橋」を越えて通ったものです。

そして、「足立六中」といえば、プロボクサーの大場政夫さん。

1973年(昭和48)1月25日午前11時22分頃、愛車シボレー・コルベットを運転中に、首都高速5号池袋線・大曲カーブ(飯田橋出入口-早稲田出口間)を曲がり切れず中央分離帯を乗り越えて反対車線に出たところで大型トラックと正面衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの状況であった。この事故で現役世界王者のまま死亡した。23歳没。2015年に国際ボクシング名誉の殿堂人部門に選出された。

WBA世界フライ級王座を5度防衛した。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。

(この項、「Wikipedia」より)

今でも印象に残る出来事です。この事故の後に「六中」に出かけていました。校内でも、大場選手と関わっていた方々がたくさんいた頃でした。親思い、弟思いの壮絶な人生だった。

 

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「荒川」(「荒川放水路」)。その5。5本の鉄橋。ヨシの原。千住新橋。

2021-02-09 20:20:16 | 川歩き

「東武伊勢崎線荒川放水路鉄橋」。                      浅草駅・押上駅〜東武動物公園駅間の「伊勢崎線」の愛称名は、「東武スカイツリーライン」。

「東武線」は複々線のため2つ並んでいます。

その先は、「つくばエクスプレス」「常磐線」「千代田線」の3本の鉄橋が並んでいます。東武線の鉄橋は、2つ。合計5つの鉄道橋が並んでいます。

「つくばエクスプレス」とは?

まだ一度も乗ったことがありません。

「河口から12㎞」ポスト。足立区足立。

「北千住」駅方向を望む。

鉄橋を通過する電車の音がそれぞれ違います。

「東京地下鉄株式会社」。

愛称は「東京メトロ」。 東京の地下鉄路線のうち、銀座線など「帝都高速度交通営団」から承継した8路線と、東京地下鉄発足後に開業した「副都心線」1路線の合わせて9路線を運営している。この鉄橋は、「千代田線」。 

原っぱの中の木陰からドラムをたたく音が聞こえてきます。

遠くに「スカイツリー」

振り返って望む。    

河川敷に下りてみると、葦の原っぱに。 

「ヨシ原を守りましょう」。 

ヨシ(アシ)は、河川や湖の水辺に生える代表的な植物で、河川では下流部に発達しています。また、古くからヨシズの材料になるなど、日本人の生活の中でも、さまざまな形で利用されてきました。荒川でも大小さまざまなヨシ原の群落が見られます。ヨシ原は、水辺の美しい景色を形づくるだけでなく、さまざまな生き物のすみかとなったり、波の打ち寄せる力を弱めて岸がくずれるのを防ぐなど大切な働きを持っています。最近ごろでは、水をきれいにする働きがあることでも注目されています。この前面のヨシ原はサンクチュアリ(生き物の聖域)として保護されています。観察の時にはヨシ原の中の生き物をおどろかさないようにして下さい。ペットを放すこともやめてください。また、深い水たまりがありますので、中に入らないで下さい。

鉄橋方向。川辺からサックスの練習音が。 

原っぱの中で、釣り、サイクリング、ジョギング、散策と思い思いの楽しみ方をしています。

「千住新橋」方向。

冬枯れの時期だからの楽しみ方?

       振り返る。

「堀切橋」の次の橋「千住新橋」が間近に。

「千住新橋」。上り・下り2本に分かれた新しい橋が1983年(昭和58年)完成。「現日光街道・国道4号線」。

「荒川放水路」開削前と現在。

(「今昔マップ」より)

「東武線」(→)が開削のため、大きく東に線路変更されています(旧線路跡は探索済み)。街並みがぎっしりと連なっているのが旧「千住宿」。「荒川放水路」が千住宿を避けたことがよく分かります。「東京拘置所」が「小菅監獄」として存在しています(左図)。また、千住宿から北西に進む道が「日光街道(道中)」、東に進むのが「水戸街道」。

(右図で○が旧日光街道、赤い線が旧東武線線路跡。「荒川」を渡った先ー小菅ーに一部残るのが、旧水戸街道。その先、「綾瀬川」には「水戸橋」が架かっている。)

        

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「荒川」(「荒川放水路」)。その4。綾瀬水門。「ミヨシ油脂」。東京拘置所。

2021-02-08 20:15:32 | 川歩き

                      京成上野線堀切橋脚。

今回は、「堀切橋」から「岩淵水門」までの川歩き。

2月6日(土)快晴。

サイクリングやジョギング、散歩と行き交う人々多し。河川敷のグランドでは少年野球やサッカー・・・。大賑わいの荒川左岸でした。

対岸の「北千住」駅方向。

「綾瀬川」。この先、上流は荒川から離れて行きます。

 

                               「国土交通省綾瀬排水機場」。

                                     2010年代のようす。「首都高・小菅JCT」付近。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)                                     

 「綾瀬水門」。

「荒川」側。

少年野球が盛ん。

「綾瀬川」の向こうは、「ミヨシ油脂」? 

地元では馴染み深い会社です。今年で100周年を迎えたそうです。もともとは、「ミヨシ石鹸」(墨田区)が母体のようです。京成線からは大きな社名の看板が見えます。

マーガリン・ショートニング・粉末油脂など、製菓・製パン・食品の製造・調理用油脂と、医薬・コスメティック・環境・工業用の高級脂肪酸・グリセリンなどの油脂素材の製造メーカー。
マーガリンに含まれるトランス脂肪酸が健康被害を与える可能性が指摘され、それを低減する製法が開発され、商品化されつつあるようです。
現在、石鹸部門は、「ミヨシ石鹸」として別会社に。我が家では、無添加の石鹸を使っていたことがあります。
 
少し上流にも水門があります。
 
「東京都下水道局 小菅水再生センター」
 
「下水道局」の施設。
 
さらに進みます。
         「首都高6号・三郷線」を右に分け、「首都高中央環状線C2」は荒川沿いに。
 
土手上は、サッカーの応援席。
 
この付近では「首都高が」すぐ脇を走っています。
                          右下に「東京拘置所」。TVで映るのは、右奥? 
 

かつてこの地には小菅監獄(1922年、小菅刑務所と改称)があった。第二次世界大戦後の1945年10月、巣鴨(当時。現在の豊島区東池袋の「サンシャインシティ」と「東池袋中央公園」)にあった東京拘置所の施設が、GHQに接収された。このため一時期、小菅刑務所に東京拘置所が同居する状態となっていた(東京拘置所の職員が小菅刑務所の職員を兼務)。1958年5月にすべての戦犯釈放され、東京拘置所は巣鴨に復元された。

首都圏整備計画の一環として、東京拘置所を巣鴨の地から移転させることが必要になったため、1971年(昭和46年)に小菅刑務所は栃木県那須郡黒羽町(現在の大田原市)の黒羽刑務所に移転し、東京拘置所は再び小菅に移された。

刑事被告人を収容する施設では、日本最大の規模を持つ。
(以上、「Wikipedia」参照)

地元ではかつてのように「小菅刑務所」と呼んでいますが。

土手からは全貌が見えないので。(「Googlマップ」より)

上空から。

北西側の水路は、「元隅田川」の流れ。拘置所と外界を遮る堀のような印象。かつてそこを探索したことがあります。

中央奥に見えるのは、東武線。水路にせりだして遊歩道ができています。かつては、ただの濁った堀割のようでした。その後、水質改善事業が行われ、魚を放流したり、亀などを生息させたりと努力したようです。ずいぶんときれいな水になりました。そのせいでしょうか、「釣り禁止」の立て札がやけに目立つのが気になりました。
右手が拘置所側にある官舎。かつては、刑務所を囲む堀のように思っていましたが。世間とは隔絶した世界。以前は、刑務所の外側に高い壁が二重に設置されていた記憶が。拘置所も近代的な建物に変わってそれもなくなったのでしょうか。

(この記事は8年前のものです。)

少年野球チームが練習中。

拘置所から見えるのは、空だけのようです。

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「荒川」(「荒川放水路」)。その3。首都高向島線。隅田水門。堀切橋。「川甚」廃業。

2021-02-05 19:50:52 | 川歩き

            大きく「堀切菖蒲水門」と。「Googleマップ」用に描かれているのでしょうか?

この付近の「荒川」だけでも、「四ツ木駅」、「新四つ木橋」などと土手の道に大きく描かれています。中には、「木根川橋」のようにかすれてしまっているものもありますが。

学校の屋上にも、葛飾区の「旧小谷野小」、墨田区の「隅小」とか、と。

「首都高6号線(向島線)」の橋脚。

「河口から10㎞」。

対岸の墨田区側。

「水上スキー」が下流に向かって。

対岸に「隅田川」と結ぶ「隅田水門」が見えます。かつての「綾瀬川」の水路。

 

                               (「Googleマップ」より。墨田区側から。)

この水門は、荒川と隅田川を結ぶ水路(荒川―旧綾瀬川―隅田川)として二つの川の流れを調節する。荒川は、北区岩淵水門付近から明治末期から大正中期にかけて開削された放水路。 都内の治水事業としては最大級。旧綾瀬川は隅田川に流入していたが、荒川沿いに流れを変え、中川も荒川をはさんで分断された。また田畑や寺社、街並みなども移転・廃絶を余儀なくされた。

 「水門」からの「荒川」。

(この項、過去の掲載記事より)

                                                                                                               2010年代のようす。赤い線が「旧綾瀬川」。荒川と隅田川との間の水路。 

 

「首都高」下からスカイツリーを望む。

        「堀切橋」と京成線「鉄橋」。

「堀切小橋」から来た道を振り返る。

「堀切橋」に到着。

かつての「堀切橋」はもう少し下流にありました(「隅田水門」付近)。

↑のように移設。(「今昔マップ」より)

三代目である現在の橋は1965年(昭和40年)に開通しました。旧橋「堀切大橋」は撤去され、ほぼ同じ場所に首都高6号向島線の「新荒川橋」が架けられています。

この先、「荒川」は大きく北西へカーブします。その理由が千住の宿(市街地)を避けるためだった、とか。

・・・

荒川放水路のルート候補は、主なもので4つありましたが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用されました。

○上流部
広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカット

○中流部
千住町の北を迂回する形で隅田川から離れ、綾瀬川から中川へ通じる流路に沿わせて中川に連絡

○下流部
中川横断後は中川沿岸の市街地を避け、やや東にふくらませて中川河口に導く

○が「千住宿」。

(この項、「」HPより)

JR北千住駅方向(旧「千住宿」)を望む。

今回は、ここまで。次回は、赤羽岩淵まで歩く予定。

先月末、柴又「川甚」が閉店しました。創業231年の老舗でした。このブログでも取り上げたことがあります。

川甚は江戸後期の寛政年間に創業しました。古くは江戸川の畔にあり、川から船で直接お部屋へ上がっていただけました。明治38年の写真や、当時の文学作品でその姿が描かれています。その後、大正初期の河川の改修工事、昭和の国道の整備などで現在の場所へ移りました。場所や建物は移り変わりましたが、本館から眺める矢切の渡しは、当時の空気を思い起こさせてくれます。


 寅さんの故郷、原風景である柴又。ここ川甚は、映画「男はつらいよ」の記念すべき第一作に登場しました。寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴の舞台です。本館の門構えは、式に遅れて来たたこ社長(太宰久雄)が原付で乗り付けたシーンそのままです。
今もなお1969年公開当時と同じ姿で、そこにあります。


 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。
 ・ 夏目漱石『彼岸過迄』より
敬太郎は久し振りに晴々とした良い気分になって水だの岡だの帆かけ舟などを見廻した。 
......二人は柴又の帝釈天の傍まで来て「川甚」という家に這入って飯を食った。
 ・ 尾崎士郎『人生劇場』より
道が二つに分かれて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の「川甚」)の門へ続く曲がり角までくると吹岡は立ちどまった。
 ・ 谷崎 潤一郎『羹』より
巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。
 ・ 松本清張『風の視線』より
車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいった。 
「川甚」という料亭だった。
 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。

 昭和の時代、お客様の余興の一環として、サイン帳に一筆記していくといった風潮がありました。残された4冊のサイン帳は昭和20~40年代のもので、松本清張をはじめ、三島由紀夫、黒澤明、手塚治虫など文学、映画、芸能など各界を代表する人々の名前が数多く記されています。

こうしたサインの数々を新館にて展示しております。明治から昭和の川甚の写真もございます。ご来店の際は是非ご覧ください。

(「」HPより)

 

コロナ禍がなければ、まだ続いていたことでしょう。老舗といわれるお店・料亭などの廃業が相次ぐ世の中です。

                                                                                                                                                  

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隅田公園。2021。梅めぐり散歩道。ユリカモメ。(「向島百花園」休園中)。春一番。ブログ開設から6000日目。

2021-02-04 20:01:27 | 隅田川

            

 

「隅田公園 梅めぐり散歩道」。

梅めぐり散歩道 梅と日本文化
 梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
 梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
 江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。

※「飛梅伝説」に関わる歌

 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ《菅原道真 (『大鏡』》

5,6年ほど前から整備してきたようです。今年も梅が咲き始めていました。

2月3日(水)午前。快晴。まだつぼみのまま。

去年の同じ時期に比べて少し開花が遅いかもしれません。暖かさで一気に開花すると思いますが。

「マンゲツロウバイ」。

       

         

シダレザクラとスカイツリー。

足下には「スイセン」。

        

「水原秋桜子句碑」。

                 羽子板や子はまぼろしのすみだ川

公園内には、他にも正岡子規の句碑などが。

                          雪の日の隅田は青し都鳥

「ミヤコドリ」「ユリカモメ」(「Wikipedia」より)

『伊勢物語』では、

・・・

なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。
それをすみだ川といふ。
その川のほとりに群れゐて、

「思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな。」

とわび合へるに、渡し守、

「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」

と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。

さる折しも、白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。

京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。


渡し守に問ひければ、

「これなむ都鳥」

と言ふを聞きて、

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
 
・・・
 
とあります。しかし、「都鳥」は全身が白くなく、黒毛が目立ちます。そこで、その表現に近い鳥は「ユリカモメ」のことではないか、と。一方で、嘴や脚が赤くはないのでやはり「ユリカモメ」とはいえないのではないか、とも。
 
都鳥=ユリカモメ? 正岡子規の句中の「都鳥」は「ユリカモメ」を指すと思われますが。
 
ハトに混じって餌をついばむユリカモメ。
 
スズムシの生育地。
 
「吾妻橋」からの隅田川。
 

ところで最近は、毎年訪れる「向島百花園」。

今年は、現在閉園中(「緊急事態宣言」発出のため)。これから見頃なのに誠に残念です。

今は、「向島百花園」Twitterからようすを確認するしか・・・。                                                

                               (Twitterより)

気象庁はきょう、関東地方で「春一番」が吹いたと発表しました。去年、関東地方で春一番が吹いたのは2月22日でした。統計を取り始めた1951年以降、最も早い記録のようです。

北国ではまだまだ寒さが続いています。

※このブログを開設してから今日で6,000日目。我ながらよく続いていると感心します。

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「立春」。「年のうちに春は来にけり・・・」。「早春賦」。「梅一輪・・・」。

2021-02-03 20:08:04 | 世間世界

                   「隅田公園」。

今日は「立春」。昨日は、「節分」でした。普通、「立春」の前日、「節分」というと2月3日ですが、今年は、2月2日。2日になるのは1897(明治30)年以来124年ぶりとのことでした。

節分は各季節の始まりである二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前日を指しますが、今は、立春の前日だけが残っています。立春の前日のみが「節分」として残ったのは、「立春が太陰太陽暦(旧暦)の正月に近く、年の変わり目の意味合いが強いからと言われています。」(「国立天文台暦計算室」)

それでは、節分の日がずれるのは、どんな理由からなのでしょうか。(以下、「ウェザーニュース」参照。

「1年=365日と思っている人も多いと思いますが、1太陽年(地球が太陽を1周する時間)は暦の1年ではなく、およそ365.2422日=365日+6時間弱なのです」(国立天文台暦計算室)

この6時間弱という端数のために、立春の日の基準となる「立春点の通過時刻」は年々遅くなっていきます。4年経つとその累計がほぼ1日になるため、1日増やしたうるう年を作ることで、季節と日付が大きくずれていかないようにしているのです。

「このため、立春点の通過時刻も変動します。つまり、1年ごとでは1太陽年365.2422日と1年365日の差(約6時間)ずつ遅くなる一方、うるう年には4年前より少し早くなる、というパターンです。この流れによって、しばらく2月4日の中に納まっていた立春が2021年には2月3日へ移り、その前日である節分も連動して2月2日へ移ったというわけです」(国立天文台暦計算室)
2021年の立春の時刻は2月3日23時59分で、2022(令和4)年はまた2月4日となります。このため前日の2月3日が例年どおり節分となり、これが2024(令和6)年まで続きます。

ところが2024年がうるう年にあたることから、翌2025(令和7)年の立春は2月3日に早まり、節分は4年ぶりに2月2日となるのです。この『うるう年の翌年は2月2日が節分』という流れは以降、「当分は4年おき」(国立天文台暦計算室)に続くといいます。・・・

太陽系に属する地球の自転という壮大な(?)お話しなのですね。

ところで、「立春」の今日は、旧暦で言うと、12月22日。新春・1月1日は、まだ先。こういう歌があります。

ふるとしに春たちける日よめる  

年のうちに 春は来(き)にけり ひととせを去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ

《「古今和歌集」 在原元方(ありはらのもとかた)》注:在原業平の孫

この歌が「古今和歌集」の巻頭にあります。「理知的」をモットーとした「古今集」らしい、との評価も。「このうた、まことに理つよく、又をかしく聞えてありがたくよめるうたなり」と藤原俊成は評しています。

しかし、正岡子規は「実にあきれかえった無趣味の歌(で)、日本人と外国人の合の子を日本人とや申さん外国人と申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候」とぼろくそにけなしています。

そして、「古今集」の次の歌が紀貫之の作。

春たちける日よめる  

   袖ひちて  むすびし水の  こほれるを  春立つ今日の  風やとくらむ

こちらも理屈っぽいと言ってはその通りです。(夏に)袖をぬらしてすくった谷川の水が(冬の間は)凍っていたのを、立春の今日の風が融かすだろうか、と云うんですから。

さて、ここでまた話題を転じて。

早春賦(そうしゅんふ)《吉丸一昌(よしまる かずまさ)作詞、中田章(なかた あきら)作曲》

これは名歌ですね。長野県の安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされています。


春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃

すると、こんな俳句を思い出します。

芭蕉の弟子の服部嵐雪梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

この句には解釈が二通りあるようです。

「梅が一輪咲いていて、かすかにその一輪ほどの暖かさが感じられる」

「梅の花が一輪、また一輪とだんだん咲くにつれて、少しずつ暖かくなっていく」

前者は、「寒さの中でほんのりと感じる春の暖かみ」、後者は、「だんだんと暖かく、近づく春の足音」。

「ほど」の意味合いをどうとらえるか。「梅一輪」と次の「一輪」を区切って読むかどうか、ですかね。

そこで、今朝の梅の様子を「隅田公園」で。

「八重寒紅」。

        

   

今日は、けっこう寒い東京。日本海側や北海道は真冬の寒さのようです。関東地方にはいつ「春一番」が訪れるでしょうか?

 

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「荒川」(「荒川放水路」)。その2。堀切避難橋。首都高中央環状線。堀切菖蒲水門。

2021-02-02 19:36:21 | 川歩き

                           「堀切避難橋」。

 

地震災害時に避難するための橋が「綾瀬川」に架かっています。現在は、河川敷のグランドや広場に向かうためにけっこう重宝されています。

下流方向を望む。

上流を望む。

綾瀬川沿いには「首都高中央環状線(C2)」。遠くに「堀切JCT」。

土手上がサッカー応援のギャラリー。

その先は、芝生の広場。「堀切水辺公園」へ。

「綾瀬川」には、大きな水門の施設。 

「堀切菖蒲水門」解説板。

中川の逆流を防ぎ、綾瀬川の効率的な排水を可能にしています。

荒川の水が綾瀬川に逆流することを防ぐため、綾瀬水門を閉じて行き場を亡くした綾瀬川の水をポンプにより荒川に排水していました。しかし、中川からの水まで逆流させてしまうことがあり、ポンプ排水が効率的にできないことがありました。平成3年9月の台風18号では、綾瀬川流域で家屋22,700戸に及ぶ被害がありました。このため、堀切菖蒲水門をつくり中川からの逆流を防ぐことによって、綾瀬川の効率的な排水が可能になりました。

仕組みなど詳細な説明はありません。

上部はにユニークな形状の管理棟。

竣工20年後の2017年に内部の公開があったようです。その時の記録が以下のHPに掲載されています。

[大人の堀切] “普段入れない”堀切菖蒲水門の内部をお見せします!~完成後20周年記念イベント~オトカツの日常(SINCE2015) ... - OTOKATSURADIO otonano-katsushika.blogspot.com › 2017/06

水門の構造は、「二段式ローラーゲートシェルタイプ」という。

水面部分が円筒形で、建物の上部にも同じような「伊達巻きかまぼこ」のようなものがあります。ローラーで巻き取る構造だそうです。 

公開の機会があったら、ぜひ見学したいものです。

河川敷は「家庭菜園」風。

   風は冷たいですが、川面の日差しは穏やか。

そこから「堀切菖蒲水門」を望む。

菖蒲畑。「堀切菖蒲園」の分園?

以前、「堀切菖蒲園」を訪れた時の写真。

       

かつてはこの周辺にはいくつか「菖蒲園」があったようです。

(「今昔マップ」より)

                 歌川広重画

 
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