おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その4。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-28 19:37:59 | 日光例幣使街道
                        (11:23)「壬生通(道)」の名のもととなった壬生宿(町)へ。

壮大なおうち。沿道にはこういう建物が目に付きます。

「東武宇都宮線」の踏切を越えます。

振り返ると、電車が壬生駅方向へ。

その先、左から来る道は「栃木道」。

「壬生交番」の前で右折します。


(11:35)さらに「壬生駅入口」交差点を左折します。

「蘭学通り」となり、宿場らしい直線の道筋に。

すぐ右手に堂々たる門構えの「松本内科医院」。

              「本陣」と見まがうようなつくり。
 注:壬生宿の副本陣は「松本家」が勤めていたようです。

「下野近代医学発祥の地 蘭學通り」解説板。

                         
 壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭學通り」と命名したものです。

わが街 空から
先端医学幕末に実践
2014年10月25日 05時00分

蘭学通り (壬生町)
 壬生町役場の西側、国道352号交差点から壬生駅前交差点までの県道約1キロを「蘭学通り」という。今は老舗の理容店や菓子店などが軒を連ねるが、幕末には国内有数の蘭学者が集い、「医学の街」として栄えた。通り沿いには蘭学者の息吹を伝える史跡も多く、町が20年ほど前に名づけた。
 壬生と蘭学との関わりは1801年、蘭学医の斎藤玄正が壬生藩のお抱え医になったことに始まる。玄正の嫡子・玄昌が学問塾「勝怠(しょうたい)堂」を開き、門人を育成した。玄昌はさらに、藩主の鳥居忠挙(ただひろ)の支援を得て、当時ご法度だった人体解剖や、天然痘予防の牛痘ワクチン接種を県内で初めて実施。蘭学研究の機運がいっそう高まった。
 通りの北西側にある常楽寺には鳥居家と斎藤家の墓が並び、壬生の発展を見守り続ける。常楽寺から路地を抜けて通りに出れば、勝怠堂跡にぶつかる。そこから南下すると見えてくる蔵造りの長屋は、玄昌とともに藩医を務めた石崎正達の生家。長屋の裏では、子孫が「石崎眼科」を開業している。
 町は蘭学で街おこしをしようと、電線地中化など通りの整備を進めてきた。石崎家の長屋は改装して観光客の休憩所とし、長屋の向かいには壬生の歴史を紹介する「自成館」を建てた。自成とは、「おいしい実や美しい花をつける桃やスモモの木の下には、自然と人が集い小道ができる」という古いことわざの一部。壬生藩の江戸藩邸にあった藩校「自成堂」にちなんだ。
 「蘭学通り」の名づけ親で、壬生の医学史を20年以上研究している町立歴史民俗資料館の中野正人学芸員(55)は「自成の言葉通り、奥深い歴史と美しい街並みに魅せられ多くの人が集まる街」と胸を張る。「壬生がいかに先進的な医学を導入していたか、研究が進むごとに分かってきました。詳しく知りたい方はぜひ資料館にも足を運んでください」
 壬生藩で蘭学が発展した要因の一つに、徹底した論語教育がある。1713年、時の藩主・鳥居忠英ただてるは県内初の藩校「学習館」を開学。論語の素読を教育の柱に据えた。蘭学の本は全て漢文に翻訳されており、その理解には論語で培われた漢文読解力が不可欠だったのだ。
 町は蘭学による街おこしと並び、論語教育を現代に復活させる活動も展開している。2009年から町内の小中学校に資料館の学芸員が出向き、論語の素読を教えている。学習館開学300周年の昨年には、町民1000人の大朗誦(ろうしょう)会を開き、大人から幼稚園児に至るまで論語を浸透させた。
 論語から100章句を選んで壬生藩伝統の読みと解釈を加えた副読本も今春にまとめた。朝学習などでの素読用に全小中学生に配布し、毎週末に開く大人向けの素読会でも活用している。
 蘭学通り沿いで化粧品店を営む石川一郎さん(64)は、副読本をポケットサイズに作り替えて持ち歩いている。「友人や観光客にいつでも壬生のことが話せるように、手放せません」と語る。

(「2014年10月25日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun」HPより)

「増田輪業」さんとその奥一帯が「本陣」跡とのこと。

 左手一帯が「壬生城」跡。
 壬生城は室町時代に壬生氏によって築城された平城。壬生氏は秀吉の小田原攻めで北条方に加わり滅亡し、家康の関東入封後は、一時結城秀康が城主となり、その後、江戸中期に鳥居氏が城主となって幕末まで続きました。

古い家並みが残っています。



                     南方向を振り返って望む。



                       

「淀川肥料店」。

                 

筋違え道。あえて十字路にしない。

文字通りの「長屋門」。お店が連なっています。
                
                            

                

「美しいまち賞」受賞にあたり
 この壬生蘭学通りは、・・・通学路の歩道整備と商店街の活性化を目的に電線類地中化工事が計画され、平成6年から平成14年にかけて総延長780㍍の工事が完了しました。
 壬生町は古くから城下町として栄え、社寺や医者が多いと言われ、特にこの整備された通りには、明治初期の地図や文献を見ると
「神戸 察」「渡辺元良」「匂坂玄皐」「齋藤玄昌」「石崎鼎吾」「五十嵐順知」「渡辺百」「若井武一郎」の名前が確認でき、幕末から維新にかけて開業医たちが活躍していたため蘭学通りと呼ばれています。・・・

向かいには藩校の名にちなんだ「自成堂」。

「興光寺」。
 ・・・慶安4年(1651年)徳川大献院殿の御尊骸日光山へ入御の砌、当寺で通夜が勤められ、この時幕府より「葵」の紋が贈られ、三代将軍家光公ご位牌を安置す。・・・



 どこか食事を、できたらお蕎麦でもと探しながら歩きますが、沿道には見当たらず。ベンチでコンビニで買っていたおにぎりを食べます。
 (12:00)この先、「国道354号線」との交差点「大師町南」で左折します。
          
        
            「壬生宿」の今昔。今も昔も、ほぼ南北に一直線。
      
      
      
1880年代のようす。↑が宇都宮・石橋への道。       2010年代のようす。現在は「国道352号線」。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その3。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-27 21:16:48 | 日光例幣使街道

                  (9:50)「下野国分寺跡」。

 「飯塚一里塚」からしばらく進んで右手に入ると「伝・紫式部の墓」さらに北側には「天平の丘公園」が広がっていますが、そこへ行く道を通りすぎてしまい、「下野国分寺」跡のみ行くことが出来ました。この周囲には史跡が多く点在し、けっこう散策を楽しめるところのようです!
 実際には「国分寺」跡をもっと東に進めばよかったのですが・・・。

 そこでHPより拝借。
全周コース(徒歩約4.5時間、10km)
 しもつけ風土記の丘資料館→伝紫式部の墓→琵琶塚古墳→摩利支天塚古墳→下野国分尼寺跡→下野国分寺跡→愛宕塚古墳→丸塚古墳→国分寺薬師堂→しもつけ風土記の丘資料館
          

「天平の丘公園」。

「伝紫式部の墓」。

「下野国分尼寺跡」。

・・・

 「伝紫式部の墓」とされる五輪塔は鎌倉時代のもので、このあたりの地名が 『紫』 という地名であったので、いつの頃からか紫式部の墓といわれるようになった、とか。

 また、公園内には「万葉植物園」があり、万葉集にちなんだ樹木・植物が植えられているそうです。
 たとえば、「あかね」(「Wikipedia」より)にちなんで 

    あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

 大海人皇子(おおあまのおうじ)が蒲生野で狩りをしたときの宴席で、額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌。額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚をして一女をもうけていましたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、天智天皇(中大兄皇子。大海人皇子の兄)と恋人関係にありました。
 この歌に対して、大海人皇子は返歌をします。それが

    紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

という歌で、この歌も有名。

 注:「あかね」は「あかねさす」という風に用いられ、「紫」「日」「月」「照る」「昼」にかかる枕詞。

 また、公園内には「明日香川」と名付けられた水辺があり、万葉学者犬養孝さんの筆による、万葉仮名で表記された防人歌の歌碑がある、とのこと。

物部真嶋
 松の木の 並みたる見れば 家人(いはびと)の我れを見送ると 立たりしもころ


 後日、訪問してみようと思いますが、車以外だと、JR宇都宮線「小金井」駅から歩くしかないようです。

 さて、「下野国分寺跡」には「県道(壬生道)」から「ラブホテル」脇の道を入っていきます。
「下野国分寺」跡の広大な敷地。

「南大門」から「中門」。その奥、正面に「金堂」、右手に「七重塔」。さらに「講堂」、「経蔵」、「鐘楼」。最奥には「僧坊」と壮大な伽藍を有した寺院でした。

             周辺の史跡案内。

礎石、周囲の石垣の高さ等で当時の建物の規模を再現。

奥が塔の位置。「七重塔」が建っていたようです。 

「中門」跡。

「金堂」跡。

「金堂」の復元想像図。
金堂とは
 ・本尊をまつる寺院の中でも中心的な建物。
  中央須弥壇に本尊の釈迦如来像、脇侍菩薩二体、四方に四天王像を配置していたと考えられます。
 ・下野国分寺ではすべての建物の中で最初に建造されました。
構造
 凝灰岩製壇上積基壇・一重・寄せ棟造り
基壇規模
 東西33.6m(112尺)・南北21m(70尺) 

「経蔵」跡。

「鐘楼」跡。

「金堂」跡から南を望む。

すぐ西にある「甲塚古墳」。円墳形式。

(10:18)街道に戻ってしばらく行くと、「下野市」の標示が。

沿道の所々には大きな樹木があります。かつての並木の名残り。

                 

「花見ヶ岡」交差点。

 この地名の由来となった、親鸞の大蛇退治ゆかりの「蓮華寺」が左手奥にあります。

「壬生(まで)4㎞」。

(10:45)今度は「栃木市」となります。

見事というか風変わりな巨木が左右に。

                             

「黒川」を「御成橋」で渡ります。

                        

注:「御成橋」
 「例幣使街道」で鹿沼宿を過ぎ、「黒川」を渡るときに架かっていた橋が「御成橋」。江戸・本郷からの「日光御成街道」もそうですが、徳川歴代将軍などの「日光社参」に関わる橋の名称のようですが、天皇の行幸などの際にも名付けられた橋の名としても全国各地に存在しています。  

壬生の街中に入って行きます。

                       

(11:16)しばらく進むと、「壬生一里塚」。

                     


・・・壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて23里目(約96㎞)にあたります。
 壬生通は日光道中と小山の喜沢で西に分かれ、壬生・鹿沼・今市を経て、今市において再び日光道中に合流する街道です。壬生の一里塚は、この地が壬生城の入り口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例としたといいます。

左塚のみ残っています。右塚は住宅地の一角に。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その2。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-26 19:19:42 | 日光例幣使街道
宿場入口にある「七面堂」のヒガンバナ。

(9:15)最初の宿場「飯塚宿」。

 かつての屋号を掲げてあるおうちがちらほら。
 

「下本陣」「宮本本陣」。

               ここは「銭湯屋」。

重厚な門構えのおうち。

                               

手打ちそば・うどん「よろず屋」さん。

 このお店の向かいのおうち「矢田貝」さんが「脇本陣」跡、との先達の記事あり。


                 「飯塚宿」の今昔。
    
    
1880年代のようす。              2010年代のようす。下方の旧道は田んぼの中。 

「飯塚宿」を過ぎると、「琵琶塚・摩利支天塚古墳」(右手)の案内板。

この道の突き当たりにあるようです。

 旧道は「杉(?)並木道」だったようで、現在、その跡には新しい樹木が植えられたグリーンベルトが続いています。


(9:31)右手の田んぼの向こうに「琵琶塚古墳」が見えてきます。杉林越しに前方後円墳のかたちが分かります。


                        
琵琶塚古墳
 栃木県小山市大字飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。
 栃木県では第2位の規模の古墳で、6世紀初頭(古墳時代後期)の築造とされる。栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。
本古墳の南方には同じく大規模古墳である摩利支天塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった。
 栃木県では、古墳時代の中頃から大型の前方後円墳が相次いで築造された。これらの前方後円墳は世代を継承するように築かれていることから、下毛野(現在の栃木県の大半)の首長墓と考えられている。下毛野の首長墓ははじめ県中央部の宇都宮市周辺に築かれていたが、摩利支天塚古墳(5世紀末から6世紀初頭)の築造を契機に、小山市北部から下野市・壬生町へ続く思川・黒川流域が首長墓の造営地となった。
 古墳時代後の奈良時代にも当地は下野の中心地であり続け、下野国庁・下野国分寺・下野国分尼寺が置かれるなど、古代下野国の中心地となった。

(以上、「Wikipedia」参照。)

    
    
    
1880年代のようす。並木が続いている。     2010年代のようす。下方の森が「琵琶塚古墳」、「摩利支天古墳」。

(9:35)前方左右にに「飯塚一里塚」が見えてきます。

                    

 
飯塚一里塚(史跡)
 注:かすれて判読不能の箇所あり。
 「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
 この街道は、日光東照宮参詣を中心に開かれた街道で・・・使者、日光輪王寺門跡などの要人も多く利用した。特に東照宮例祭が行われた4月中には通行人でにぎわった。
 明治に入り、鉄道の普及にともなって交通手段も変わり、一里塚の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約4キロメートル南に進んだ地点には、「喜沢一里塚」いる。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。
    
右の塚。最近、塚上にあった木々などを取り払ったようです。        左の塚。


来た道を振り返って望む。

その先で、「小山市」と「下野市」の市境。「おやまぁ またきてね」。

路傍に咲く「ニラ」の花。

                柿。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その1。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-25 19:24:30 | 日光例幣使街道
                              (8:15)「喜沢追分」。斜め右奥の細い道が「旧日光街道」。

 「小山宿」の先で「日光街道(日光道中)」と分かれる「壬生道」。「楡木宿」の手前で、「倉賀野宿」からの「日光例幣使街道」と合流し、日光へ向かいます。そこで、小山・喜沢追分から楡木追分まで歩いてみます。
 JR「小山」駅西口からコミニュティバス(「おーバス」)で「喜沢追分」手前の「静林幼稚園」まで。そこから歩き始めます。


1880年代のようす。○が追分(喜沢分岐点)。
 左上(西北)に進むのが「壬生道」(但し、「農業環境閲覧システム」では「旧例幣使街道」と記されている)。
 「旧日光街道」は斜め右の細い道。


2010年代のようす。旧道の西にある道路は「国道4号線(現日光街道)」。

分岐点には「道標」など。車の後ろの道が「旧日光街道」。 

この道を西北に向かいます。

(8:25)しばらく進むと、左右に「小山ゴルフクラブ」の森が広がります。
                                 江戸時代、「壬生道」の両側には杉並木が続いていたようです。その先に「一里塚」。

 
          「日光街道西一里塚」(「喜沢西一里塚」という方が適切か? )
 一里塚は、1里(約4㎞)ごとのしるしとして、道路の両側に木を植えた塚をいう。
 慶長9年(1604)、徳川家康は後の二代将軍秀忠に命じて、江戸日本橋を起点とし東海道・東山道・北陸道にエノキなどを植えた一里塚を築かせ、全国にこれを普及させた。
 エノキが一里塚に多くのは、根が深く広がって塚を固め、崩れにくいことにあった。一里塚は旅人には、里程や乗り賃を支払うとなり、日ざしの強い日には木陰の休み所ともなった。
 この一里塚は、日光街道の脇道である壬生通りにあり、喜沢の追分を過ぎて、最初に位置する一里塚で、次の飯塚一里塚へと通じている。飯塚宿が貞応3年(1654)に伝馬宿になるから、このころまでに一里塚として整備されたようだ。
 西側二基の塚は直径約3.3、高さ1.8㍍で、東側が一部崩れているが、西側は当時の様相を呈している。
                   

 ゴルフ場内に残る旧道? 古い橋が架かっています。
 

小山ゴルフクラブ内古墳群。
                               「桑57号墳跡地」。5世紀後半のもの。「帆立貝式古墳」という形式。
帆立貝式古墳(帆立貝形古墳)
 古墳の一形式で、円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳の総称。

 この先、旧道沿道には古墳群が多く登場します。

 「例幣使街道」沿道もそうでしたが、関東平野の北部(栃木県南部地方)は古代から開けた土地であることが分かります。
 古代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川)は、下野国 - 下総国と流れ現土浦市南方で香取海(銚子で太平洋に繋がる内海)に注ぐ大河で、流域一帯には毛野国が成立しており、ヤマト王権において毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並び強大な発言力を有していました。
 県内各地には縄文時代からの考古遺跡が多数認められており、古代には毛人が住む地域であったと解されていますが、第10代天皇・崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が父の命でこの地に入って「毛野国」を建国し、有力豪族となった毛野氏の祖となり、ヤマト王権において有力豪族の一角をなした、といわれています。その後、「毛野国」から上下二国に分かれ、「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、栃木では、現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われています。

 また、沿道には5つの一里塚がすべて現存しています。それを順次確かめながら歩くのも魅力です。
 
                                    「県道18号線 小山壬生線」として続きます。(「壬生まで9㎞」)。 

道の両側は一面のそば畑。

                        

      

小さな集落に近づきます。

「大日山美術館」。
大日山美術館
更新日:2007年04月18日11:27:39
 当館は小山市と壬生町を結ぶ日光街道沿いに小高い雑木林の中に古い民家を移築し、昭和57年に開館しました。かつて芭蕉主従の旅をした由緒ある道であります。郷土の画家、小口一郎の作品、益子焼、七宝焼き、その他日本画、洋画等を交互に展示します。尚、地域の文化向と作家の激励を兼ね個展やグループ展も多彩に開催しています。最近、初心者、老人向けのピアノ教室を開き、四季折々に変化する雑木林に感動しながら和気あいあいと皆さんが鍵盤にいそしんでおります。雑木林に包まれた白壁の古い木造館は郷愁の念にかられると皆さんが口にされます。
(「桜ヶ丘3丁目」HPより)

(8:52)「扶桑歩道橋」の信号を左折します。

    
    
1880年代のようす。○が左折点。           2010年代のようす。

「姿川(思川)」を越えます。

                         

 左手にある、かなり古びた「ドライブイン」。「映画撮影のため休ませていただきます」との立て看板。スタッフが何人も準備をしています。おかみさんが出てきて、「テレビに出ている人もきますよ」と。ここで? 裏手が「思川」なので、そこでの撮影か? 明るく振る舞うおかみさんです。



右手は一面、田んぼ。稲刈りの済んだところも。

                            

しばらく進むと、「壬生道」最初の宿場・飯塚宿になります。
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(東武日光線「下小代」駅~「下今市」駅。その3。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-21 20:18:57 | 日光例幣使街道

                           (11:33)いよいよラストスパート。でも、雨が激しくなってきます。

苔むした古木。しかし、根元が空洞化しているのも目立ちます。

木の間越しに田園風景が広がります。

路傍の草花。

「日光杉並木街道 ←特別保護地域・保護地域→」。

振り返って望む。

根元が剥き出しになってしまった古木。かなり無残なさま。
 

「一里塚跡」からかなり来ましたが、JRの踏切はまだ見えず。

(11:59)ようやくJR日光線の踏切に。

                    

右手には家々が立ち並びはじめます。市街地に入ってきます。杉並木街道はもう少し続きます。



(12:06)右手奥に「日光街道(日光道中)」の杉並木が見え始めます。

 「日光街道(日光道中)」の「杉並木」を歩いたのは、一昨年の7月のことでした。
                  「日光街道杉並木」を振り返って望む(当時のもの)。

雨宿りをかねて、追分の手前にある四阿で小休止(5分)。左手奥を行ったところにJR線「今市」駅。


いよいよ「小倉町」交差点・追分の標示が。

前方が明るくなってきて、「日光街道」と合流する「追分」へ。

(12:18)合流点の右手に「追分地蔵堂」。

「例幣使街道(壬生道)」を振り返る。

右手から来る「日光街道」。

 着いたとたんに雨風が強くなり、軒先で雨宿りをして、東武線の「下今市」駅に向かいます。

 杉並木が強い雨風を防いでいてくれたことを実感し、感謝・感謝です。

 
日光へ向かう道。              左手が「日光街道」、右手(車のかげ)が「例幣使街道(壬生道)」。

(12:27)「下今市駅」。雨宿りする観光客でいっぱい。
                                                                                             SL「大樹」の運転日となっていて、なおさら人がたくさん。

 
  レトロな駅舎。                    階段にはSLの絵柄が。

 駅前には食事をするところも見当たらず、そのまま上り電車を待ちます。目の前に「大樹」が停まっています。
      

 最終日は雨のせいであわただしく終わりました。晴れていれば、食事をしたり、辺りを散策したかったところですが、残念!

 「大樹」には乗ってみたいものです。半世紀も前、大学生の頃、会津若松に行くとき、SLに乗ったという遠い記憶が蘇ってきます。

「驛市今下」。

転車台。

運転区間。

駅名の由来
 日光山の表玄関であり、日光街道・日光例弊使(れいへいし)街道・会津西街道の分岐点にあたるこの地は、室町時代の末頃は「今村」と呼ばれた小村でしたが、日光山の寺領となったのを期に毎月定例日に「市」が開かれ、「今市」といわれるようになりました。当時は、上町・中町・下町があり、それで駅名に「下」の字が付きました。

 駅もレトロに生まれ変わりました 下今市駅
SL大樹の起点となる下今市駅は全面的にリニューアルを行い、かつてSLが走っていた時代を思わせる昭和レトロな駅舎に生まれ変わりました。
 また、構内にはSLの日常の点検等を行う下今市SL機関庫を新設するとともに、SLの雄姿を間近で見学できるエリアを整備するなど、下今市駅を中心として地域の観光拠点性向上を図り、日光・鬼怒川温泉エリア全体の地域活性化を目指します。
(以上、「東武鉄道SL復活運転プロジェクト」公式サイトより。)

 「小山」(「日光街道・喜沢追分」)から「楡木」(「例幣使街道」との合流点)まで「壬生道」を歩けば、「壬生道(日光西街道)」を完歩となるので、次回は、そこを歩くことにします。

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東武日光線「下小代」駅~「下今市」駅。その2。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-20 21:23:41 | 日光例幣使街道
                               
          来た道を振り返る。

先に見える信号までは「車両通行止め」区間が続きます。

                   
                        よく見ると、杉並木には細い木や傾いた木などのばらつきが。
 
(10:51)ここまでが「車両通行止め」区間。振り返って望む。

 ここから車両も通行する杉並木街道に。それほど車の台数は多くないですが、道路脇に身を寄せて車を回避。


                 

(11:00)左が開けてきて家々や田畑が見えてきます。

           

道ばたには、土に埋もれた「庚申塔」など。

 どこまでも続くかのような杉並木。

この付近では右側の杉並木が街道から少し離れています。はて?

振り返って望む。

(11:15)「地震坂」にさしかかります。
 

 昭和24年12月26日、今市市《注:合併→日光市今市》を中心に突如大地震が起こり、地すべりにより杉並木が移動した坂で別名「地すべり坂」とも呼ばれる。
 本来の街道は、この上にあった。 日光東照宮

 カーブしていた道がまっすぐになってしまったようです。

 つい先日、北海道で起きた震度7の大地震。胆振地方での大規模な山崩れが想起され、辺りを見回すと、杉の巨木が並んでいます。ここで、大地震に遭遇したらひとたまりもない、くわばらくわばら。自然と足早になります。



この先も、心なしかかなり上の方に杉並木。


 その先で急に曲がって下り坂になり、車は日光方面と鹿沼方面とに分かれます。なお、それまで街道の左側奥を走っていた「東武日光線」はこの付近で短いトンネルを通過し、今度は街道の右側遠くを進み、さらにJR線を越えて、「下今市」駅に向かうことになります。

右か左か迷いましたが、一方通行の道路標識に従って左の道へ。

                                   

右手を回り込むように下り、再び道が一つになります。
 
    振り返る。
                      杉並木は右手の道(写真では向かって左)に沿って続いているので、右に行くべきでした。

(11:27)前方に「日光宇都宮道路」が見えてきます。


緩やかな下り坂が続きます。「日光宇都宮道路」方向を振り返る。

右側が開けてきます。「JR日光線」が右手に。


 (11:33)その先、左手に「室瀬一里塚跡」碑があります。「日光例幣使街道」最後の一里塚。「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十八里」と書かれていますが、実際は31里目のようです。
 
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東武日光線「下小代(しもごしろ)」駅~「下今市」駅。その1。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-14 21:54:40 | 日光例幣使街道
                           (9:40)前回の交差点。左右に伸びる道(画面上は見えず)が「日光杉並木街道」。

「日光道中」との追分まで残りわずか、ということで。やってきます。
 9月8日(土)。曇りのち雨。しばらく土日が忙しいので。出かけられるときに、と。今回で最終回。

 
              前回と同じように、杉並木に沿った左側に小道が続いています。今回の方が歩きやすい。

道ばたには草花がチラホラ。

              さらに雑木林も。

(10:00)一面のそば畑。

 

(10:15)ここで広い道に出て、「杉並木」(例幣使街道)に合流します。

その先、右手に「板橋一里塚跡」碑。

                          

碑には「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十七里」と書かれていますが、実際は30里目のようです。

杉並木を振り返る。向かって右手から街道に復帰。

「日光杉並木街道 ←特別保護地域・普通地域→」。


 「板橋宿」に入ります。道の両側を杉並木で覆われていた街道が、杉並木もなくなって道も広くなり、宿場町らしい雰囲気に。
 しかし、本陣1、脇本陣2、旅籠25という宿場だったようですが、その面影はどこにも見当たらず(気がつかず)過ぎてしまいます。


             
                       右手遠くに「日本ロマンチック街道」の看板。「日光道中」のときにもありました。      

     
 長野県上田市より軽井沢町を過ぎ、群馬県草津町、沼田市を経て、栃木県日光市までの全長約320kmの街道を日本ロマンチック街道と称する。
上信越高原国立公園と尾瀬国立公園、日光国立公園を結ぶ横断道路で、浅間・白根・日光白根などの火山が創り出した造形美、すなわち高原、滝、湖沼、湿原を内蔵し、近世の城下町、温泉町、宿場町、門前町を通過する。
 日本に於ける最もドイツ的自然景観を持ち、同時に日本ロマン詩人達が多くの作品を残した、日本に於て最もロマンにあふれた街道である。この街道を日本ロマンチック街道と呼ぶ理由はドイツロマンチック街道に範をとった。
 ドイツ・バイエルン地方のヴュルツブルクから、オーストリア国境のフュッセンに至る全長362kmの街道をドイツロマンチック街道と呼んでいる。ドイツロマンチック街道にはドイツローマン派の詩人たちが住み、あるいはこの街道筋を訪れて作品を残しているが、日本ロマンチック街道も日本ロマンの歌人詩人たちが住み、または訪れていて多くの作品を残している。
 1988年11月25日、日本ロマンチック街道協会とドイツロマンチック街道協会は姉妹街道の締結をした。新しい時代に対応して両街道は人的交流、文化的交流を推進し、百年後千年後に評価を受ける街道づくりを推進している。
HPより)

(10:27)「板橋」交差点。その先を左に曲がり、道なりに右に進みます。

「例幣使街道(左の道)車両通行止め」の標示。
 あれ、工事中なのか? ということは通行不可。
 実は、昨年から「杉並木」保護のため、車の通行は1㎞ほど不可となったようです。歩行者はOK!

けっこう存在感のあるおうちが右手に。

「日光杉並木街道 ←普通地域・特別保護地域→」。

 再び本格的な杉並木。車の行き来を気にならず、杉並木の下を歩けそうなので、期待感、大。
「この先車両通行止め」の標示。

                    

 国道121号旧道(例幣使街道)の一部通行止めについて
 日光杉並木保護のため、国道121号旧道(例幣使街道)の一部について、以下の日程で車両通行止めとすることとなりましたのでお知らせします。ご理解とご協力をお願いします。
 日時:平成29年3月21日(火曜日)午後3時から
 (「日光市」HPより)

(10:38)約1㎞にわたって通行止めとなります。

 国道(舗装道路)には杉の落ち葉や枯れ枝が落ちています。行き交う人もなく(1ヶ所、杉林を手入れしている職人たち数名の他、通行人には一人も会いません)、道の中央を歩きます。
  

 黄色いセンターライン、道脇の白線も消えかかっていて、わずか1年余。春夏秋冬、雨・風・雪、車、・・・厳しい(自然)環境にあることを改めて感じさせられます。

       風雪に、排気ガスに耐えてばらしい景観を保つ、杉の大木。

日光杉並木
 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。江戸時代の徳川幕府が五街道をはじめとする主要な街道に松や杉などの並木を整備したが、そのなかでも現存する旧街道の並木として特に有名である。
 徳川家康、秀忠、家光の三代にわたって将軍家に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年あまりの歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、「日光杉並木街道 附 並木寄進碑」として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。・・・
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、これを打開すべく保護活動も盛んに行われている。 ・・・

歴史
 1617年(元和3年)に徳川家康の霊廟として日光東照宮が創建されると、将軍家や諸大名が日光参詣が実施されるようになり、江戸から日光への道路が急速に開けるようになり、江戸から宇都宮へ続く奥州街道も日光街道へと呼び改められるようになった。
 日光杉並木は、若くして家康に仕えた松平正綱が、その恩に報いるために、1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて、紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹したもので、1648年(慶安元年)、家康の33回忌に参道並木として東照宮に寄進した。言い伝えでは、日光東照宮の造営に際し、正綱が杉の苗木を寄進すると申し出たところ、諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、正綱は「末をご覧あれよ」と返したといわれる。その後、正綱の息子である松平正信が、スギを植え足して今日に伝わる約1万5000本の並木となった。
 正綱が、当時の街道の並木として一般的に植えられた松ではなく杉を選んだ理由は、一説には天を突く杉の姿に神気を感じたためといわれており、また、雨の多い日光の気候や地形に合わせて、湿気の多い地質に生育の適する杉を、正綱が選んだのだろうともいわれている。
 植えられてすでに390年以上が経過するが、現在は高さ30 - 40mほどに成長し、日光東照宮へ向かう道は厳かな景観を作っている。近年では、風雨や自動車排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、バイパス建設や杉並木オーナー制度を導入して樹木保護のための基金を設立して、保護対策活動に乗り出している。1999年(平成11年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 ただ杉は、もともと根をしっかりと地中に縦横に張らない樹木。その代わり、すっくりと上に伸び、落葉もほとんどないので、並木としてそれほど間隔を置かず、植えることができる。江戸時代はそれでよかったのでしょう。
 しかし、現在、両側に並んで植えられた杉は、道路側をガッチリとガードされ、道路の法面よりもかなり高い位置になっている木も多い。さらに裏手は盛り土も崩れて、なくなっているケース(宅地開発、道路整備、歩道などで削られている。こうして杉の根元の脇道を歩く私たちも杉をいじめている。)が目立ちます。
 車の排気ガスとも関連して、古くて背が高く、幹が太いものへの悪影響は、なおさらな印象。
 杉を植えた傾斜地では、大地震などのときには根こそぎ倒れ、地崩れ・山崩れの原因になるとも言われています。
 実は、それを如実に実感したところがこの先にあります。
   
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その6。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-12 21:10:26 | 日光例幣使街道
                                    杉並木。

 車の行き来が激しい国道。その左側、小高いところに街道に沿った細い遊歩道があります。その道を歩くことになります。杉並木の下を歩くことは出来ませんが、安心して歩けるのが一番。ただ、けっこう夏草に覆われていて、足下が不如意なところもあります。
 
                                    左手が時々開け、田んぼや山々が。

杉並木の下を通過する「例幣使街道(国道)」を下に望む。

 時々街道に降りて雰囲気を味わう。
 
                                          振り返る。木洩れ日が。

街道のすぐ右側をJR日光線が通っています。木の間を通過中の電車。

 (15:32)しばらく進むと、路傍には、朽ちて根元から倒れてしまった「一里塚」碑。
  
小倉一里塚跡
 倉賀野宿からの「例幣使街道」歩きで、はじめて「一里塚(跡)」に出会います。他はすでに失われているようです。
 「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十六里」と書かれていますが、実際の里程は異なり、29里目らしい。

 (注:「壬生道」と「例幣使街道」とが合流するかなり前、「壬生道」に25里目となる「北赤塚一里塚」がある。その一里塚からここまでは相当の距離がある。このかんの一里塚は現存していない。そのため、現在残されている塚の順番で「26里」と表記したのではないか。)     

 この先も2ヶ所、一里塚(跡)が残されています。江戸時代からしっかり保護されてきた日光杉並木の中だからなのでしょう。

 右側の塚ははっきり確認できます。
 
 左の塚は、今、歩いている歩道のために切り崩されてしまったのか。

 しだいに木の間越しに家が見えてきます。「文挾(ふばさみ)」宿にさしかかってきたようです。


                     

(15:44)右手にJR「文挟」駅。
注:JRの駅名は「文」、宿名は「文」と旧字体。

文挾の地名の由来
 文挾の地名については、江戸時代以前の中世からすでに記されています。文(手紙)の受け渡し場所との由来がありますが、定かではありません。
確実な資料は存在しませんが、戦国時代には、『日光山往古社領六拾六郷』のひとつ文挾郷として、随仙坊の所領であったと記されています。
(参考:日光山常行三昧堂新造大過去帳)

文挾宿
 文挾宿のおこりですが、元和2(1616)年4月17日に徳川家康が死去し、元和3(1617)年3月に日光山に東照社(後の東照宮)が竣工されました。このときの資材の輸送路として使われた日光道中壬生通りが日光への街道として整備されたとき、文挾宿としての家並みが整えられたといわれています。
 天保14(1843)年の『壬生通宿村台帳』によると、江戸から29里32町余(約120㎞)、32軒、人数156人、本陣1軒(建坪82坪、玄関付、門構えなし)、脇本陣2軒(建坪63坪、玄関付、門構えなし・建坪99坪、玄関付、門構えなし)、旅籠屋14軒(大5、中5、小4)、宿内町並み3町14間(約350m)、宿建人馬は、13人・13匹と通常の宿(25人・25匹)より少くなっています。これは、隣の板橋宿との距離が短く、板橋宿と合わせて1宿の扱いとなっていたためです。そのため、文挾宿から板橋宿への継ぎ送りはなく、今市宿と鹿沼宿への継ぎ送りが原則でした。
(参考:杉並木物語、今市のむらの歩み、日光山麓の戦い)

鹿沼御成橋での宇都宮藩と農民一揆の衝突
 不安と混乱の渦中に起こったのが農民一揆です。
 明治元年、県南の石橋宿問屋役人に対する賃割渡し不当の争いは、従来、幕威をかさに高圧的態度に出ていた宿役人に対して、農民の不満が爆発し、ついに、問屋宅を破壊するという暴挙になりました。
 勢いに乗った農民たちは、徒党を組んで雀宮宿に進み、さらに次々と勢力を増して沿道の富豪の家や宿駅問屋を打ちこわし、4月3日には、三千余名の一揆勢が世直しの大旗をたてて、宇都宮の八幡山に集まって気勢をあげました。
 宇都宮藩は、約三百名の兵力を繰り出し鎮圧に当たりましたが、一揆勢は北上し、田原村、白沢宿、笹沼、上横倉、徳次郎、古賀志村、武子村を次々と打ちこわしました。
 宇都宮藩は鹿沼宿北の御成橋に出陣し、一揆勢と戦闘状態となり、6名の死者と1名の怪我人を出すことになりました。
 そして一揆勢は、反転、例幣使街道を北上し、文挾宿に向かうことになりました。

文挾宿本陣襲撃事件
 例幣使街道を北上した一揆勢の一部は、玉田村、見野村に行き、村中焼き討ちにすると村人たちを脅かし、勢力を増していきました。
 そして、明治元年4月5日ついに御神領文挾宿に突入し、同宿名主の中屋善左衛門宅を打ちこわしました。(建坪八十二坪、玄関附、門構無)
 当時の様子は、中屋善左衛門の玄孫に当たる田中義久氏(故人)が、「一揆勢の中には大工や鳶職人などが加わり、敷居や鴨居などの肝心なところを切り離してしまったので、後で修繕することも困難だったと子供のころ、よく聞かされた」と話しています。
(参考:日光山麓の戦い)
(以上「文挾二荒山神社 - 日光例幣使街道文挾宿」https://fubasami.jimdo.com/bunkazai/HPより)

「文挾交差点」右手にある「回国供養塔」(道標)。
 ここから、大谷経由で宇都宮に至る大谷道が分かれています。宝暦12年(1762)に建てられたもので、「右 鹿沼 出流/岩船」「左 大谷 田下/宇津宮」とあります。

「文挾宿」の家並み。

根元から焦げている杉の大木。

「日光ろばたづけ」。

 (15:56)宿場のはずれにある「二荒山神社」。神社の脇にある木造の倉。

文挾宿郷倉(社倉)【日光市指定文化財】
 江戸時代、飢饉対策として米・麦・粟・稗などを貯蔵するために郷倉が建造されました。山崎闇斎が宋の朱熹による社倉法を紹介し、寛政改革に際し設置が奨励されました。
 この郷倉によって慶応年間の凶作時には、板橋・文挾宿等九か村の飢民が119石を拝借し餓死を免れました。間口3間、奥行2間で建坪6坪の建造物です。すべて栗材で建てられていましたが、栗の割木で葺かれていた屋根は大正10(1921)年にトタン板に葺き替えられました。
 幕末期、民衆の共同扶助という思想を示す建造物であり、旧日光領内に現存するものでは唯一であります。
(この項、「同」HPより)

東武日光線「下小代」駅まで歩くことにします。

(16:05)路傍に石碑が二基。
 左の低い方は最近のもののようで、「岩見重蔵之碑」とあり、右の大きいものはどうやら「聖徳太子」と刻まれています。どういう関係があるのか? この場所に設置されているわけは? 
 なお、「岩見重蔵」を伝説の剣豪「岩見重太郎」と関連づけている道中記録もあるが、疑わしい。 

 (16:10)思ったよりも足下の悪い細道を歩いているうちに「下小代」駅へ向かう道とぶつかりました。
 

今回は、ここまで。左折して駅方向へ。 
(16:24)ようやく「下小代」駅。

 上りの発車時間に間に合わず。かなり待つことになりそうです。
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その5。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-11 19:57:45 | 日光例幣使街道
                             次第に「日光」に近づきます。



                       街道筋らしい古い家並み。

(13:36)「例幣使街道 日光(まで)27㎞」。


堂々たる門構えのおうち。

奥には土蔵つくりも。

 (13:44)「黒川」に架かる「御成橋」を渡って、次の「文挟(ふばさみ)宿」に向かいます。


                      

「例幣使」一行のようすが描かれたタイル。

「黒川」の流れ。

遠く左手には日光連山。

左手の緩やかな坂を上って行きます。「日光(まで)18㎞」。
                                  さきほどは「27㎞」と標示されていました。ルートの違いでしょうか?

眼下には「黒川」。

「十割そば・炭そば 黒い瞳」。


(13:53)ようやく杉並木(この付近は他の樹木お混在)に出会います。

屋台収蔵庫で何やら作業中。

こちらは「特許 石打真空ねりそば」。ユニークなおそば屋さんが多いところです。

右手奥に独特の山容の「古賀志山」が見えます。

そば畑。

(14:19)ここにもありました、かえるの置物。

営業停止中の「かぬま特産物農産物例幣使街道直売所」。

(14:24)車道を歩かずにすむよう、歩道が続いています。

右手には雑木林。車の喧噪がない分、ゆっくり歩けます。

待望の本格的な杉並木へ。雨が降り出してきます。

古賀志山」。
 この山は知る人ぞ知る、の山のようです。
古賀志山は、栃木県宇都宮市の北西郊外に在る標高582.8mの低山である。俗に、最も高い古賀志山(582.8m)のほか、御岳(標高546m)、赤岩岳(標高536m)が一体の山塊を成して見えるため、これらをまとめて『古賀志山』と呼ぶこともある。低山ではあるが日光の入り口に位置しその独立した見事な姿の故に、低山としては北関東屈指の名山とも云われている。
 御岳山頂には石製祠があり、御嶽神社が祀られている。
 周辺はレジャー施設として利用されており、御岳には屹立する奇岩を利用してのロッククライミングの練習場、赤岩山山頂にはパラグライダー出発場、また山麓東南側の赤川ダム周辺には国際大会の開催が可能なロードレースコースなどが設けられている。このうち、ロードレースコースでは国内唯一UCIプロツアーチームを招待できる日本国内最高峰の自転車ロードレース『ジャパンカップサイクルロードレース』が毎年10月に行われている。レジャー施設以外にも、古賀志山山頂には携帯電話の電波塔が設置されている。
 古賀志山頂上は電波塔のある南面は開けており比較的展望が良好であるが、他の方角には木々が茂って見晴らしがあまり良くない。古賀志山の東側のピークにある東稜展望台や西側のピーク御岳からは北西から北東にかけて日光連山、高原山、那須連山と鞍掛山、東に多気山と宇都宮市街(遠くに筑波山)、南に鹿沼市街(遠くに富士山)が眺望される。
古賀志山の山名は『男体山山頂遺跡』からの出土物に『故賀志』とあるのが初出で、その由来としては崩落崖を意味する『扱がす』ないし『転かす』『倒かす』が転訛したものとの説がある。

(以上、「WIkipedia」参照。)

 初心者や家族連れ向けのコースとしては、森林公園側から登るコースが一般的。他にもいくつかあるようですが、コースによっては鎖場があるような切り立った岩場を上り下りしなければならないハードな地点もあるため、けっしてあなどってはいけない山のようです。

こんなガレ場もある、とか。
いっちゃんさんフォロー
「所属する久喜山歩会の1月、古賀志山山行」のときの写真です。(HPより)

(14:55)「鹿沼こんにゃく」。建物が街道にマッチしています。

(14:58)「日光市」に入ります。

その先、右手に「並木寄進碑」。

                            

 碑の内容は日光街道のものと同じです。また、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」の碑もあります。

並木寄進碑
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑。並木の起点となる神橋および街道の切れる日光市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っています。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれています。

日光杉並木
 江戸時代、寛永・正保の頃(1624~1648年)に松平正綱により日光東照宮への街道(日光、例幣使、御成、会津)の両側に植栽された杉並木。
・総延長約30km、約1万7千本。
・寄進碑は1648(慶安元)年に各街道の入口と神橋そばに建てられた。
・日光街道(国道119号):日光市日光~大沢間 19.2km、約5000本
・例幣使街道(国道121号):日光市今市~小倉間 13.9km、約6300本
・会津西街道(国道121号):日光市今市~大桑間 3.9km、約1000本
                          
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その4。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-10 20:16:59 | 日光例幣使街道
                            メインストリート。

取り壊した屋根の跡が残る土蔵。宿場独特の間口が狭く奥行きのある敷地。


(13:13)「石橋」交差点手前にある「鈴木内科」が本陣跡。

裏手には重厚な土蔵などがあります。

鈴木石橋先生旧居」解説板。
 先生名は之徳、字は沢民、通称四郎兵衛
 累世豪農である、年少にして昌平黌に入り学成り国に帰り家を継ぐ傍ら子弟を教えて麗沢の舎と号す。蒲生君平は先生の門より出ず、天明の飢饉には私財を投じて窮民を賑恤す。晩年心を易学に潜め周易象儀その他の著書あり。
 文化12年1月25日病を得て没す。寿62才大正の初め正五位に浴せしは「惻隠余情」に記述さられし如く社会的功績によるものである。今尚遺稿、蔵書など多数現存す。

注:「賑恤(しんじゅつ)」=貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること。「賑給」ともいう。

  「蒲生君平」=明和5年〈1768年〉ー文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)。江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。

 なお、「蒲生君平」については、「日光道中」を歩いたとき、「蒲生君平旌碑」が宇都宮宿の手前、東武宇都宮線のガードをくぐった右手にありました。
        


 
                      「屋台の町 鹿沼」。白い花が咲く百日紅(サルスベリ)。

日光例幣使街道」碑。
                       地元では「日光西街道」あるいは「壬生街道」とせずに、このように呼称しているようです。

地元の工業高校生たちが制作した「常夜燈」。木工細工の盛んなところです。

「まちの駅・新鹿沼宿」。

 入口付近にある芭蕉と曾良の木彫作品。「芭蕉と曾良像  チェーンソーカービング
 
・・・鹿沼は「木のまち」です。この像の素材は鹿沼産の杉、市内のチェーンソーアーティスト小林哲二さんに、みちのく東北に思いをはせながら彫ってもらいました。東武新鹿沼駅、JR鹿沼駅、屋台のまち中央公園、光太寺にも小林さんが作った私(注:「芭蕉」をさす)の像があります。
 皆さんにも、句碑や笠塚を訪ね、お蕎麦やこんにゃく料理を食べながら彫刻屋台等の伝統文化や美しい自然を満喫する旅を楽しんでください。
 平成23年12月設置   鹿沼地区木材需要拡大協議会

注:チェーンソーカービングとは
 「チェンソーカービング」とは一言でいうと「チェンソーを駆使した彫刻」を指します。
 「チェンソー(チェーンソー・チェインソウ)」は木を切る道具であり、鎖状の刃をエンジンもしくは電気モーター、またはエアーの力で回転させて物を切断するための道具です。(動力式ノコギリ)
 チェンソーカービングの材料となるのは「木」や「氷」で私たちチェンソーアート・ジャパンでは主に木を使っています。その木(主に丸太)を数種類のチェンソーだけを使用し、彫刻作品を生みだしていきます。
 また、作品だけでなく、制作過程をエンターテイメントとして楽しんでいただいています。
 彫る姿そのものをチェンソーアート・ジャパンでは「チェンソーアート」と定義付けています。
 たいへん危険な作業でもあるため「世界で一番危険なアート」とも呼ばれています。
 「チェンソーアート」=「ワイルドなエンターテイメント」と言われます。
 「チェンソーカービング」は人によっては「チェンソーアート」とも言われ、それをおこなう人を「チェンソーアーティスト」または「チェンソーカーバー」と言います。・・・
(この項、HPより)

 ところで、「奥の細道」紀行文を通して、芭蕉と鹿沼宿との深い縁が知られています。「石橋町」交差点から東武線を越えたところにある「光太寺」には、「芭蕉の笠塚」があります。
 また、鹿沼宿での句としては、二句残されています。

 ・鐘撞かぬ里はなにをか春の暮れ
  入相の鐘を撞かないこの里では、里人は何を頼りに春の夕暮を迎えるのであろう。

 ・入相の鐘も聞こえず春の暮れ
  入相の鐘も聞こえぬまま春が暮れていく。

 ただし、「奥の細道」では記されていません。

 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、室の八島を訪れた芭蕉は、葵生(けぶ)から壬生へ出て壬生街道に入り、楡木、鹿沼、文挟、板橋、今市を経由して4月1日正午ごろ日光・鉢石宿に到着しました。

室の八嶋に詣す。
同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習(よみならわ)しはべるもこの謂れなり」。
はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)のむね世に伝ふこともはべりし。

卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊まる。
あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。
いかなる仏の濁世塵土に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固の者なり。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気禀の清質もっとも尊ぶべし。

卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山に詣拝す。
往昔(そのむかし)この御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。
今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。
猶憚り多くて筆をさし置きぬ。
  あらたうと 青葉若葉の 日の光

 芭蕉に随行した曾良の「随行日記」によると、もう少し詳しく行程が知れます。
『曽良随行日記』
・・・室の八島へ行(乾の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る(毛武と云ふ村あり)。此間三里といへども、弐里余。
 一 壬生より楡木へ二里。よぶより半道ばかり行て、吉次が塚、右の方廿間ばかり畠中に有。
 一 にれ木より鹿沼へ一里半。 
 一 昼過より曇。同晩、鹿沼(より火(文)ばさみヘ弐里八丁)に泊ル。(火ばさみより板橋ヘ廿八丁、板橋より今市ヘ弐里、今市より鉢石へ弐里。)
 一 四月朔日 前夜より小雨降。辰上尅、宿を出。止ては折々小雨す。終日曇、午の尅、日光へ着。雨止。

・・・室の八嶋へ行く(北西の方五町ばかり)。すぐに壬生へ出る。(毛武<癸生>という村あり)。この間三里というが二里余り。
 一 壬生より楡木ヘ二里。壬生より半道(半里)ばかり行くと、金売吉次の塚、右の方二十間ばかり畑の中に有り。
 一 楡木より鹿沼へ一里半。
 一 昼過ぎより曇り。同晩、鹿沼(より文挟へ二里八丁)に泊る。(文挟より板橋へ廿八丁、板橋より今市へ二里、今市より鉢石へ二里。)
 一 四月一日 前夜より小雨降る。午前7時半頃、宿を出る。止んでは折々小雨降る。終日曇り。正午頃、日光へ着く。雨止む。

 鹿沼宿ではどこに宿泊したのかは定かではありません。「笠塚」のある「光太寺」だという説もありますが、無住のお寺に宿泊するとは思えません。

「仲町屋台公園」内にある「屋台展示収蔵庫」。

 みごとな白木彫刻の「仲町屋台」が展示されています。


     


 鹿沼市には、鹿沼の秋祭りに繰り出される今宮神社氏子町の屋台が27台あり、これ以外にも、楡木町(にれぎまち)に3台(うち1台は山車)、上大久保(かみおおおくぼ)に1台、口栗野神社大祭に繰り出される7台を含め、計38台の屋台が現存しています。
鹿沼の屋台は、江戸の屋台の系統を引く「踊り屋台」から発展したものと考えられ、その構造は、唐破風(からはふ)の屋根を載せた単層館型(たんそうやかたがた)で、四輪を内車式に付けたものです。屋台本来の機能は氏神へ奉納する芝居や踊りのための移動舞台ですが、現在では囃子方(はやしかた)が屋台の中に乗り、演奏する構造となっています。
 鹿沼の屋台の最大の特徴は、日光山社寺の豪華な彫刻の影響からか、全面が豪壮な彫刻によって飾られている点で、江戸時代に建造された13台と当時の彫刻を付ける1台、合わせて14台が市の有形文化財に指定されています。

 鹿沼屋台が記録に初めて見られるのは安永9年(1780年)。このころの屋台は、簡単な屋根付きの移動できる舞台で、「踊り屋台」と呼ばれていました。
 寛政(1787年~)に入ると付け祭りは盛大になり、各町は、踊りや狂言を競い合って、屋台を造り変えていきました。屋台の中に囃子方(はやしかた)が入るため、かつての「踊り屋台」に比べて踊り場が狭くなるとともに、一部彩色(さいしき)彫刻で飾られた黒漆塗(くろうるしぬり)の屋台となり、彫刻屋台の祖形ができあがったのです。
 文化・文政(1804~1829年)の江戸文化爛熟(らんじゅく)期、付け祭りは芸能を主体にますます盛大になり、華やかな舞台背景としての黒漆塗屋台は、華麗な彩色彫刻で飾られていきました。
 その後、文政・天保の改革によって「祭礼を質素に、在郷(ざいごう)芝居が禁止」されたため、各町の付け祭りに対する意気や力の競い合いは、いつしか屋台を質実豪壮な白木(しらき)彫刻で飾ることや、囃子を奉納する神社への繰り込みへと向けられ、幕末には白木造りの屋台が主となり、重量感のある豪壮な彫刻屋台になっていきました。
 鹿沼の古くからの彫刻屋台は、漆塗(うるしぬり)や彩色(さいしき)の有無によって、概ね次の種類に大別されます。
■彩色彫刻漆塗屋台(さいしきちょうこくうるしぬりやたい)(7台)
 車体は黒漆塗(くろうるしぬり)、錺(かざり)金具付きで、彩色された彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻漆塗屋台(しらきちょうこくうるしぬりやたい)(1台)
 車体は黒漆塗、錺金具付きで、白木のままの彫刻を付けた屋台。
■白木彫刻白木造屋台(しらきちょうこくしらきづくりやたい)(19台)
 車体も彫刻も白木で造られた屋台。
(以上、「」HPより)

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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-07 23:06:34 | 日光例幣使街道
                               「大門宿」交差点。

 「大門宿」は「日光御成街道」の宿場町として存在していますが、ここにある「大門宿」とは?
(11:38)「大門宿」バス停。

次の「鹿沼宿」まであともう少し。「まちの駅 新・鹿沼宿 2.4㎞」の看板。

「○道」? 2ヶ所くらい目にします。 

 左手に「私の美術館」。
 
                       私の美術館
駅長の作品を中心とした、絵画の展示ギャラリーです。
場所 322-0045 栃木県鹿沼市上殿町280
電話 0289-64-3190
駅長 小林 一行
営業時間 10時から17時
定休日 不定休(駅長不在時は閉館)
こんな「まちの駅」になりたい
気軽に立ち寄れる美術館。私の作品を展示して皆さんに芸術鑑賞と憩いの空間を提供します。

(以上、「鹿沼市経済部観光交流課観光施設係」の紹介記事より)

 「駅長」というのはどういう人物? どうもこの街道歩きでは気になる(疑問符が付く。興味を引く)ものが多くあります。

「勝善神」。

「押原神社」参道。

いよいよ「鹿沼宿」に近づいてきます。
「鳥居跡(とりいど)町彫刻屋台蔵」。


「芭蕉そば餅」の看板。
 鹿沼産米粉、鹿沼産そば粉を主原料にそばの風味を大切に仕上げた生菓子で「山帰来」と言う葉で包まれています。
芭蕉が大のそば好きであったことから“芭蕉のそば餅”と命名しました。
 (HPより)

(12:11)「新鹿沼駅前」交差点。

そろそろお腹も空いてきます。駅方面に向かい、右手にある「みっちゃん蕎麦」屋さんに入ります。 


「芭蕉そば御膳Aセット」。
(「Bセット」はニラ蕎麦。)
 これに、味噌田楽が付きます。

 地酒を一合追加して、食します。新そばの香りがすばらしい。付け汁は少し甘くておとなしい感じ。それもまた、よし! 
 それにしても「みっちゃん」というネーミングが大衆食堂風で、手打ち蕎麦屋さんらしくないのが、面白い。由来は? けっこう混んでいます。

 (13:00)さて再開。その前に「鹿沼」のことをお勉強。

 北関東のほぼ中央、東京から100キロメートル圏に位置する鹿沼市は、東北縦貫自動車道を動脈とする県内物流の拠点となっています。
 江戸時代、現在の鹿沼市の基礎となった鹿沼宿も、日光への交通の要衝として整備されてきました。
 古峰ヶ原を含む前日光高原一帯は、日本古来の山岳信仰と仏教が結びついた「修験道」の道場とされてきました。奈良時代にこの地で修行を重ねた勝道上人が日光山を開きました。
 さらに江戸時代、徳川家康を祀る東照宮が造営され、江戸と日光を結ぶ道が重要性を持つようになる中で、鹿沼の歴史は日光との深い関わりを持ちながら形作られてきました。また朝廷から日光への例幣使の街道の要所として、鹿沼宿は発展を遂げました。
 日光西街道・例幣使街道を往来する人・物は、地場産業を発展させ、文化の向上をもたらしました。
 当時、鹿沼の村々で生産された麻、朝鮮人参などの特産物は、江戸・大阪・京などの大都市へ出荷され、豊かな商品経済とともに文化が鹿沼の地に根付き始めました。彫刻屋台もこの頃つくられ、その精緻な彫物は現在にまで守り継がれています。
 当時の最高学府・昌平黌(しょうへいこう)に学び、天明の大飢饉の際には宿場内の裕福な家や家庭に米や金の供出を呼びかけて貧民救済を行うなどの社会事業を施した鈴木石橋の存在なども、鹿沼宿の経済・文化の水準の高さを裏付ける一例といえるでしょう。

   
 鈴木石橋肖像                戦後の町並み

 幕末には家数800件を超したといわれる大宿にまで発展した鹿沼宿を核に、明治の廃藩置県、市・町村制の施行などを経て、鹿沼は近代的な商工都市へと歩みを進めていきました。
鹿沼の中心的な産業である木工業は明治23年の日光線開通、26年の日光電力創設により電柱の需要が急増し、丸のこを使った水力製材機の開発などによってその礎が築かれました。
 昭和23年鹿沼市は市制を施行、30年までに1市9村の合併を行い、現在の鹿沼市が誕生しました。39年の木工団地、44年の工業団地の完成などは、鹿沼市の発展の重要な基盤となっています。
 また昭和47年の東北縦貫自動車鹿沼インターチェンジ開設は、現在の‘物流拠点・鹿沼’を生み出しました。
 人が集まり、物が行き交う「にぎわいのまち・鹿沼」は、江戸時代の鹿沼宿のなごりを随所に残しながら今、21世紀の扉を開き、新しい時代への第一歩を踏み出していきます。

(以上、「教育委員会事務局 文化課 文化財係」HPより)

 「新鹿沼駅前」交差点まで戻ります。
 ここで、街道は二手に分かれます。右が「田町通り」、左が「内町通り」と呼ばれていました。その分岐点は「鳥居跡(とりいど)」と呼ばれ、小さな祠と鳥居。「旧一ノ鳥居跡」の石碑と解説板があります。 


                          
史跡)鳥居跡(とりいど)
 奈良時代に勝道上人が日光開山後、この地に4本のえのきを植えたと伝えられ、また、鎌倉時代に、源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原66郷の由緒あるこの地に、日光山の遠鳥居を建てたと言われているように、古い伝承のある地である。後年、鳥居の跡が地名になって鳥居跡になったと言う。江戸時代のはじめ、日光へ街道が整備され、鹿沼宿がつくられた際、鳥居跡から分岐造成された新道が現在の大通りであると鹿沼古記録にある。その頃、鳥居跡に植えられた4本のけやきは次第に枯れ、大きな空のあった最後の一本も、戦後まもなく姿を消してしまった。その跡に、昭和32年、日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社を建立した。鳥居跡町名は、由緒ある地名「鳥居跡」から命名されているが、町内発展の契機となったのは、昭和4年に東武日光線が開通し、東武新鹿沼駅が開業したことである。
■ガイドマップには・・・
鹿沼の由来を記録した「鹿沼町古記録」によると、日光開山の勝道上人が、日光山守護のために四天王を表す松、杉、梅、紅葉の4本を植えたとあり、また、「押原推移録」によると、源頼朝が日光山に神領66郷を寄進したとき、神領の入り口に当たる所に「遠鳥居」を建てたといわれ、その跡に大欅があったが、昭和22年9月台風で倒壊、伐採された。その後、日光二荒山神社から勧請された「二荒山神社」が建立された。(鳥居跡町)

(以上、HPより)

左の広い通りを歩きます。

 「彫刻屋台」の幟。 
 この先、「仲町屋台公園」には「屋台収蔵庫」に「仲町屋台」が展示されています。

右手に旧家らしい「中野屋酒店」さんの建物。三層風な屋根が趣あり。


(13:09)左手には「雲龍寺」。鹿沼宿本陣を勤めた鈴木家の菩提寺。

その先の交差点を過ぎると、電柱がなくなりすっきりした街並みになります。街灯もしゃれたものに。 

 
  趣のある大きなおうち。                           「こんにゃく」屋さん。   
 
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-06 18:43:08 | 日光例幣使街道
                            (10:28)「壬生街道」との合流地点にある「追分道標」。

 「追分」に向かう途中で見かけた、「生子(いきこ)神社」の「泣き相撲」のポスター(左)。この先、「壬生街道(日光西街道)」沿いの所々にこのポスターが貼ってあります(右)。この風習は、TVなどでも取り上げられて有名です。9月23日(日)にやる予定、とか。
 

いよいよ「壬生街道(日光西街道)」との合流地点が近づいてきます。右手からの道が、「壬生街道」。合流して日光に向かいます。


「追分道標」(「左 江戸道 右 中山道」)。

 左の道は「江戸道」=「壬生街道」。「小山宿」で「日光街道」と合流し、江戸に向かいます。「日光西街道」と言われています。
 右の道は「中山道」=「例幣使街道」。「倉賀野宿」で「中山道」と合流し、京へ向かいます。
  
    「壬生街道」。                     「例幣使街道」。

ここで合流して「日光」に向かいます。

                      


「追分」交差点を振り返る。右が「例幣使街道」左が「壬生街道」。

 厳密にはこの追分までが「例幣使街道」で、この先は「壬生街道」=「日光西街道」となります。
 ただし、「Googleマップ」では、このまま日光まで「例幣使街道」と表記し、小山からここまでの「壬生街道」を「日光西街道」としています。また、「歴史的農業環境閲覧システム」では、どちらも「𦾔(旧)例幣使街道」と表記しています。

雲行きが怪しくなってきます。洒落た街灯。

沿道には古くて頑丈そうなおうち。

二本の国道「293号線」「352号線」が合わさって標示されています? 

 この先、鹿沼宿に入り、「下材木町」交差点では右から「国道121号線」が合流し、「293号線」「352号線」と合わさり、三本の国道が一緒になります。その三本のうちで、「下今市」に向かうのは、「国道121号線(「国道352号線)」になります。
 ちなみに「121号線」は鬼怒川から会津田島方面へ。「352号線」は、檜枝岐から越後へ続く峠越えの「酷道」とも言われているようです。

「大谷石」造りの建物が目立ちます。

(10:44)???

路傍に古い石塔がいくつか並んでいます。

花壇も咲きそろって。

街道歩きで初めて出会った並木、ただし数本。

かつては並木道だったのか、道の両側に緑が続く。

「日本のすみずみまでむろつくり 製麹室 設計・施工 日東工業所」。

むろ=物を保存、または育成のために、外気を防ぐように作った部屋。氷室 (ひむろ) ・麹室 (こうじむろ) など。

 なるほど。杉玉も入口にありましたが。

「奈佐原宿」入口付近? 

「ゆば製造直売 たまのや」。店構えもなかなか。

 ちょっと立ち寄って店内を。いろいろ工夫され、おいしそうな「ゆば」が店頭に。

 「これを買いたいんですが」「いつお帰りですか?」「今日の夕方ですが」「保冷剤かクーラーボックスをお持ちですか?」「いや、持っていません」「じゃあ、ここの湯葉製品は、すべて要冷凍の商品なので、お売りできませんね」。・・・
 ここは、いちいち保冷剤やクーラーボックスを持ってお土産を買いにくるようなお店なんでしょう。
 たしかに「ゆば」は痛みやすい食べ物ですが・・・。

 
                       「例幣使街道」の宿場によくある直線道路が続く街なみ。
 「奈佐原宿」はどこからどこまでなのかよく分かりません。間の宿だったようですが。

右手に「奈佐原文楽用具収蔵庫」案内板。
 (11:08)右に折れると、収蔵庫があります。


                      
国選択無形民俗文化財 栃木県指定無形民俗文化財
 奈佐原文楽
 栃木県に現存する唯一の3人遣い人形浄瑠璃です。
 江戸時代、奈佐原は例幣使街道の宿場町として栄えており、この文楽は、上方からの文化の影響を受けて始められたと考えられます。
 詳しい記録は火災で焼失してしまいましたが、現存する引き幕などから、文化年間(1804~)には一座があったとみられています。その後、一時中断していましたが、明治25年に大阪文楽座の人形遣いの名人吉田国造によって再興されました。
 上演の日時と演目は一定していませんが、「絵本太功記十段目」「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」「壺坂霊験記 沢市内より山の段」をお家芸としています。
 また、この文楽に使用される人形頭のうち20頭が昭和33年8月29日に県の有形文化財に指定されています。
 これらは、現在、奈佐原文楽座・奈佐原文楽保存会の人々の手によって保存伝承されています。

   鹿沼市教育委員会

 去年、「甲州街道」歩きのとき、猿橋で「笹子追分人形芝居」を見ました。
 
                     「追分人形式三番叟」。

 「笹子追分人形芝居」と同様に、地元の有志の方々の努力で、人形浄瑠璃が残されていることに感心しました。ぜひ観劇したいものです。

「北押原地区史跡案内図」。
 ここには「生子神社古式泣き相撲」と「奈佐原文楽」のいわれが記されています。

「文楽もなか」。その先には「文楽そば」という看板も。 

道脇には勢いよく流れる「用水路」。

「スギ」ではなく「ヒバ」?  

(11:32)ここでささやかな杉並木に出会います。  

「生子神社」への案内板。      

泣き相撲
 生子神社境内の土俵において、子供の健やかな成長と無病息災を祈願して開催される伝統行事。
 役員氏子がまわし姿の力士に扮し、東西から幼児を抱きかかえ土俵に上がります。そして、掛け声と共に頭上高く3回ほど持ち上げて、元気な泣き声を競います。
 「泣く子は育つ」という縁起をかついだ習俗が奉納相撲に取り入れられたもので、全国的にも珍しい行事です。
【 国選択無形民俗文化財 】
開催日:平成30年9月23日(日) [ 雨天決行 ]
※毎年9月19日以降の最初の日曜日に開催されます。
時 間:午前9時~午後4時(受付は午前8時~)
会 場:生子(いきこ)神社
住 所:栃木県鹿沼市樅山町1167 【電話無し】
参加費:4,000円
【当日のお申し込みで、ご参加いただけます。】
対 象:首の据わった6か月位~3才位まで
主 催:生子神社氏子
問合せ:鹿沼市観光物産協会(屋台のまち中央公園内)
    鹿沼市銀座1丁目1870-1 電話:0289-60-6070 休園日:「月曜日(祝日を除く)」・祝日の翌日 
HPより)
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東武日光線「東武金崎」駅~「下小代(しもごしろ)」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第6日目。)

2018-09-05 19:50:32 | 日光例幣使街道
                                 (9:08)旧「金崎宿」の街並み。

 9月1日(土)。曇り時々雨。暑さもほどほど、曇りの予報ということで出掛けます。しかし、けっこう蒸し暑く、汗だくだくの歩きでした。ときおり雨が降って、かえって少し楽に。

 どうも残りの行程が中途半端な感じ。かといって、今回、1日で行くのは距離がありそうだし(健脚なら行けるでしょうが)、と。

①JR高崎線「倉賀野」駅~東武伊勢崎線「境町」駅 (「日光例幣使街道」)

②東武伊勢崎線「境町」駅~「太田」駅 (「同」)

③東武伊勢崎線「太田」駅~「福居」駅 (「同」)→午後4時過ぎから

(注:②、③は、炎天下の歩きだったため途中で挫折、2回に分けた。)

④「福居」駅~JR両毛線「岩舟」駅。 (「同」)

⑤「岩舟」駅~東武日光線「東武金崎」駅(「同」 

 そして今回⑥「東武金崎」駅~「下小代」駅 (「同」+「壬生街道」)

 最終回⑦「下小代」駅~「下今市」駅。(「壬生街道」+「日光道中」)という予定。7日目(最終回)は余裕の行程となります。

 JR線「小山」駅から東武線「楡木」駅まで、電車を利用しての「壬生街道(「日光西街道」とも)歩きは、別の機会に譲って。

立派な屋敷門。航空写真だと緑におおわれたお屋敷があるようですが。

その先、右手に門構えの立派なおうち。

                      

「日光例幣使街道」の標示。

道沿いには間もなく収穫時期を迎えそうな田んぼ。

(9:16)本陣を勤めていた古澤家。

お隣の門構え。この付近では立派な門のおうちが目立ちます。

「例幣使街道」はこの先で右手の直線道路に入って行きます。
                       

道の脇には道標。 


正面が「思川」に架かる「小倉橋」方向。

(9:28)「思川」という標識のところで県道に合流し、右手の橋へ。

「思川」下流方向。右手が「金崎」。

 旧道は「思川」で失われているようです。土手道を進もうと思いましたが、深く草に覆われて通行できず。
 (↓)

 その先にも北に向かう道路(「googleマップ」ではこの道が「例幣使道」と記されています)。しかし、その道には降りられません。


 そのため、橋を渡り終えた先にある交差点を左折し、「国道293号線」を進みます。そこから振り返って望む。
                      行き止まりの舗装道路。

土手からの道も通行可のようす。

気を取り直して、「国道」を進みます。

 (9:48)右手に「磐裂根裂神社(いわさくねさくじんじゃ)」。その神社の裏手には「女人講十九夜塔」が並んでいます。「日光まで36㎞」と。
  

東武日光線特急が通過中。

「国道293号線」の標示。

ここにも店先に大きなカエルの置物。

「磯町」交差点。

(10:13)「東北自動車道」の高架下を通過します。

右手奥に小山からの「壬生街道(日光西街道)」が見えてきます。

ここにも「馬力神」。最近、再建されたもののようです。

「屋敷門」。

「長屋門」。

こちらの門も質素ながら趣きあり。

「殉国之碑」の隣に小さな「勝善神」。
勝善神については、
『おおひらの野仏』(中島昭/著 出版者不明 1979)p66-67より
 「勝善は正しくは蒼前(または聡〔馬偏に前〕)で、つまり葦毛で四本の足の膝から下が白い馬のことをさし、葦毛の馬は七聡八白といい八才になると白馬になると信じられている。
 従って東北地方では「ショウデンサマ」と呼び、蒼前のような名馬の誕生を祈って祭った信仰である。
  この信仰の本宮は、岩手県水沢市の駒が岳にある駒形神社で、この神社の絵馬にも葦毛四白の名馬が画かれている。
  つまり、普通の馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるといえよう。
 もちろん、勝善もショウデンも蒼前=〔ソウゼン〕がなまったものである。」
・・・

(以上、「」HPより)

 日光道中(日光街道)宇都宮宿を出た先に、「勝善神」の大きな石碑がありました。
       
     勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
 「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。


これは再建された(と思われる)「馬頭観世音」。
                「馬力神」「勝善神」「馬頭観音」と馬にまつわる石塔に出会います。 

(10:21)この先で、いよいよ「壬生街道(日光西街道)」との追分になります。     
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銀座で久々のランチタイム。(「じじばばがゆく」。酷暑をものともせず、というわけには・・・編。)

2018-09-03 22:05:45 | じじばばがゆく
                                 「北大路銀座茶寮」。

 こんな暑い昼日中にわざわざって地下鉄で一本か。こっちの方が遠くから乗り換えてきましたわ。
 
 整体? ツボを押す、押されるだけだけど。
 2週間もご無沙汰したので、何となく体はすっきり軽くなった感じ。

 どこにします? へえ、「東銀座」駅が歌舞伎座の地下につながっているんだ、知らなかったわ。
 あまりこの辺は来ないし、いつも整体の行き帰りで、精一杯。

 上で待つのは暑いんで、ここに腰掛けて待っていたわけよ。

 最近、こんな風にしゃれたお土産店が並んでいるのね。でも外国人相手かも。「歌舞伎座」が改築されてからなのかな。 
 
 歌舞伎の幕間(まくあい)で食べられそうなるお弁当なんかも売っているんだ。
 買ってここに座って食べればいいじゃないか、って。
 そんなんじゃ、って勝手言って悪いけど。

 どこかお店のあてがあるんでしょ。そこでいいわよ。

 やっぱり外は暑いわね。早くお店に入りましょうよ。

 「松屋通り」沿いにあるのか、ここ、この地下にあるみたいよ。すてきな店構えね。やれやれやっと涼しくなったわね。
 いつまでこの暑さが続くのかしらね。じじばばには堪えられないわね。

 このところ娘と孫が来て2週間もいたのよ、医者通いもできないし、もう疲れたわよ。
 やっと豆台風も去って、外出できたってわけ。

 でも、なんだかんだ来てくれるのは、うれしいわね。

 宿題も出ていて、つきあわされたわ。習字なんかもあるのよね。筆なんかないじゃない。
 あとは音読。しっかりやったら確認の印を付ける。

 やったことにして印をつけたらいいじゃないかって、そうもいかないわよ。
 娘はうちから寝泊まりしながら出勤でしょ。朝早くから。
 帰ってきたら、どうした宿題は、って聞かれるからいい加減にできないしさ。

 ま、普段はむこうのじじばばが面倒見てくれているから、せめて夏休みくらいはね。学童クラブにも付き合わされているようすだし。
 お風呂もいっしょに入るっていうし、・・・
 でも、かわいいわよね。

 さてと何にします。ここ、なかなか落ち着いたお店ね。個室なのもいいしね、ま、ゆっくり出来るわね。
 ランチはこれとこれか。お造りがつくと・・・。


 わたしはこっちでいいわ。
 つまんで食べていいわよ。

 では、乾杯! 

 このあいだ、ずっと昔勤めていた会社の保養所へ家族で行ったのよ、けっこう混んでいて、満員。
 そりゃ、お盆で夏休みの社員もいたから仕方ないけれど。
 だからなのかな、食事がひどかったのよ。天ぷらなんか冷えて固くなっているし、・・・。料理長が交代したようね。
 前は社員扱いだったのが、業者に委託しているみたいで。

 最近は出掛けても、どうも食事にははずれが多くて。この前の奥多摩渓谷も、景色はまあまあだったけれど、食事は今ひとつだった。

 ここはおいしいいわね。器も凝っているし。

 この「北大路」って、ほら、あの、有名な「北大路魯山人」と関係があるのかしらね。名前にあやかって、というだけじゃないように思うけど。
 「銀座茶寮」というのも、これも魯山人伝説の「星岡茶寮」というのに似せているようだし。
 無関係だったら、ネーミング権なんか問題はないのかしらね。

 ただ、銀座の本店もそうだけど、北大路魯山人さんの食・器へのこだわりを受け継いでいこう、というプライド・自負心はけっこうありそうよね。
 みなさんの接客態度もきちんとしているし、地下にこんなお店があるとは思えないわ。

 個室スタイルというのもいいわよね。けっこう落ち着けそう。
 でも、夜はお値段の方も、それなりに高いと思うわ。
 会社の大事な接待とかで使う? あとはご両家の引き合わせとか、・・・。

 ランチもちょっと高めだけれど、たまにはいいわよね。

 これ、いいわよ食べて。こっちも。こんなには食べられないから。
 飲み物のおかわりはどうする?

 相変わらず炎天下で「例幣使街道」とかいうの? 街道歩きをしているようね。でも、栃木なんか何にもないでしょう。
 お寺さんがあるので、車で親やお爺さんたちのお墓参りに行くだけ。あんまり街中を歩いたことはない。

 栃木にもだんだん行かなくなりそうよ、こっちも年取ってきたしね。

 「あぶでん」には立ち寄ったことがあるわ、味噌田楽のお店。あとはあまり知らないわ。

 あそこは、小さな鄙びた街。
 県庁所在地も宇都宮に持って行かれちゃうし。
 「巴波川」沿いだってたいしたことはない、って思うんだけど。

 でも、街道歩きの方には、見世蔵など魅力的かもしれない。

 わたしにもやっぱり愛着がわくっていうかなんていうか、気になる存在よね。

 山本有三ってあそこの出身なんだ、知らなかったわ。

 へえ、ニュージーランドから青年がホームステイしてたのか、10日間。そういう体験っていいわよね。お孫さんたちにも。

 あそこは、けっこういいところみたいよね。今は真冬でしょ、いきなり20度以上も高いところへ来たんだから大変そうね。

 けっこうのんびりしているんだ。おおらかな風土のおかげでおおらかなのかなあ、お国柄っていうの。
 
 さて、もう少しここにいてもいいんじゃない。相変わらず、ていうかますますせっかちなんだから。
 分刻みじゃなくて、時間刻みでいこうよ、ニュージーランドの青年のようにさ。
 
 そうそう、北大路 魯山人さんについて、ちょっぴりまとめておくわね。
 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。
 6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。
 美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。
 つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。
 気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」参照。)

 里子に出され、養家を転々として小さい頃は大変苦労したようね。それでも、食に対する関心は強くて、子供の頃から自ら工夫して美味しいものをつくっていた、とか。
 それに書道でも小さい頃からかなりの才能ぶりをみせたようね。転機が訪れるのは36歳の時だったとか。
 古美術骨董を扱う店を共同で始めたんだけど、そこで、店で扱う器に料理を盛りつけ、ふるまうようになったってわけね。

 料理と器との取り合わせの妙が評判になり、さらにそれが会員制料亭へとなり、そして「星岡(ほしがおか)茶寮」になったのね。
 お店の場所は、日枝神社の裏手にあたるところよね。

 はやってきて、店にある器だけでは対応しきれず、お料理を盛りつける器を自ら制作することに。

 そのために「星岡窯(せいこうよう)」を鎌倉に開き、陶磁器の制作にも、力を注いでいくことになるのね。
 多芸な方だったのね。

 (「北大路魯山人 | しぶや黒田陶苑」HPより)

 家庭的には恵まれず、かなりの偏屈な人物だったようだけど、でも、その遺した陶器、けっこう高価らしいわね。食へのこだわりは今でも受け継がれているようだし。

 このお店の器もけっこう趣があるわね、魯山人さんのものなのかしら。そんな感じがするけど。 
 
 そうそう、納豆、上方の人なのに納豆が大好きだったみたい。
 納豆のかき混ぜ方にもかなりの蘊蓄があったようで、もう納豆の粘りへのこだわりは並みではなかった。

 納豆の究極の食べ方として、知る人ぞ知る食し方。

 納豆を、深めの鉢に移して、箸で掻き混ぜること305回、さらに醤油を2回に分けて加え119回。計424回混ぜることで、うま味の増加がピークに達し、ふわふわの泡に包まれた、濃厚な味わいの納豆になるというのがものの本に載っていて、北大路魯山人流だったとか。

 回数は本当なのかしらね。

 それでも、このあいだ見たTVで、そんな話、何回も何回もかき混ぜる方が納豆の味も効能も勝る、夏ばてに最高、とか言っていたわね。
 あなたなんかせっかちだから、どうせちょちょこっと混ぜて、ずるずる音を立ててすすって食べているんじゃないの。
 それでは通人の魯山人さんとは雲泥の差ね。

 「納豆茶漬け」もおいしいらしいけど、わたしは勘弁願いたいわ。

 注:「星岡茶寮」は、1945年(昭和20年)には空襲によって焼失した。
 その後いくつか変遷を経て、現在、その跡地に「東急キャピトルタワー」が建設され、タワー内でザ・キャピトルホテル 東急が営業している。
                                          「日枝神社」の奥。

 ごちそうさまでした。暑いけど、少し歩いてお茶にしましょうか、といっても、今日は暑すぎ。
 もっと涼しくなったらゆっくりとお話ししたいですわ。今度は12月かな、って。もう涼しさを過ぎて、寒くなっているかもね。

 See You Again.
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