おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-30 21:42:24 | 八王子絹の道
                          左手は、急な傾斜地。

旧東海道を北に向かい、浅間神社下まで進みます。

(11:32)
浅間神社と富士の人穴
 創建は承歴4年(1080)富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村の鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。

 この先、「東海道」から右折し、「横浜道」を波止場(「象の鼻」・現在の大桟橋脇)まで、大変貌した横浜の市街地を進みます。
(「」HPより)

 この付近から東側の今昔。


1880年代のようす。「横浜道」は入り海沿いに進んでいます。「平沼」という名のごとく、沼地となっています。右は鉄道線路(築堤)。



2010年代のようす。まるっきり様子が異なっています。下方中央に「現平沼橋」が「帷子川」と鉄道をまたぎ、小さな「元平沼橋」がその下に見えます。上方が「横浜駅」。

旧東海道は公園の中を抜けて行きます。振り返る。

浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。

よこはま道」解説板。
 安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
 しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道を開いた。
 これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼・石崎の各新田を経て戸部村まで一直線に通ずる道路を築くと共に新田間(あらたま)・平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、大田橋(現吉田橋)を架けたものである。
 記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったと考えられる。
 なにしろ工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから「3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両(注)かかった。
 新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみとなった。

注:江戸時代の1両は、現代に換算すると約75,000円なので、約3億4千万円。当時はインフレ気味なので、もっとかかったと思われる。

  

右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。 

案内図。

 旧道はわずかに残るのみで、現在の広い「新横浜通り」に合流し、最初の橋「新田間(あらたま)橋」を渡ります(11:43)。
 

                 下流方向。

現在のようす(「新田間橋」から東を望む)。(「」HPより)

 昼食休憩後、再開。(12:15)しばらく進むと、「帷子川」、「JR東海道線」、「相鉄線」をまたぐ「平沼橋」。右側の脇道を進み、エレベータで下に降りると「帷子川」に架かる「元平沼橋」となります。かつての「平沼橋」。


                  

 橋のたもとに「横浜道解説板」が設置されています。
 内容は、横浜道に入るところに設置された解説板とほぼ同じです。
・・・
 ※当時、東海道と横浜(関内)とを連絡するには、保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。

 錦絵には、新田間橋、平沼橋、戸部橋などが描かれ、また神奈川宿、さらに遠く対岸の川崎大師河原の裏が描かれています。海岸伝いだったことが分かります。

 再び現「平沼橋」を渡り、向こう側に。
エレベータで下に。そこにも同じ解説板があります。

(12:25)「平沼商店街」を進みます。上は京急線。

蕎麦屋「角平」。待つ人が並び、はやっているようす。

創業は昭和25年。
おそばを愛する初代が研究を重ね、当店一番人気の「つけ天そば」が生まれました。
アツアツのつけ汁に豪快な海老天。そして特性手もみそば。ぜひご賞味ください。
また宴会コースではおそばに限らず多彩なメニューをそろえております。
蕎麦焼酎をはじめ生ビールや各種地酒もご用意いたしております。
ご予算に応じたコースも承りますので、お気軽にご相談ください。
(「」HPより)

 (12:29)その先に三番目の橋「敷島橋」。もと、ここに架かっていた「石崎橋」は上流に移動。


                       「石崎橋」。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-29 19:49:12 | 八王子絹の道
                         (10:23)「高島町まで5㎞」ポスト。

 「歩道橋」の下に「和田村道橋改修碑」。この碑も移設されたものでしょう。


                        

 この先は、何回か「国道16号線」から旧道に入ることを繰り返します。

①(10:38)「和田町」信号で左折し、右手の細い道へ。
 
「国道16号線」方向を振り返る。

「和田町駅入口」で国道に合流。

②(10:45)「保土ケ谷陸橋」をくぐり、すぐ左折。

 
                                「保土ケ谷公園入口」信号で国道に合流。

③国道を渡り、右へ。来た道を振り返る。 

           (10:55)「ケーズデンキ」脇を抜けて、国道へ。


④(11:06)車の行き来が激しい「国道16号線」を越えて、「セブンイレブン」のところを入っていく。
 

めまぐるしく右折、左折しながら旧道を行く。

 ここまで、それほど気づかずに進んできましたが、左側は急な傾斜地が続いています。丘の上には住宅が。
 
         ↓が旧道。

「峰岡公園」、「峯小学校」脇を抜けて行きます。
公園ではゲートボール大会。

国道に合流し、しばらく進みます。

⑤(11:14)「宮田2丁目」交差点で左折。

道路脇の「延命地蔵堂」から先を望む。いよいよ「芝生(しぼう)の追分」まであとわずか。


(11:20)旧東海道との丁字路に突き当たります。そこが「芝生の追分」。

 

 来た道を振り返る。鶴ヶ峰駅から約2時間の行程でした。
 
追分
≪標柱左側面の説明文≫
 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。

≪標柱右側面の説明文≫
(歴史の道)
 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。

 以前、旧東海道歩きのとき、ここを通過して次の「保土(程)ケ谷宿」に向かいました。その時、「八王子道」に興味を持ちましたが、今回やっとその道を完歩することができました。

旧東海道・「松原商店街」方向。

 ここからは旧東海道を北上し(「神奈川宿」方向)、横浜港に向けて「横浜道」へと進みます。



1880年代のようす。帷子川の北側、丘陵地帯の南端を縫うようにして進む旧道。右の直線の道は「東海道」。



2010年代のようす。○が「宮田2丁目」交差点。←が「追分。
 「国道16号線」をほぼ直線化したため、ところどころに旧道が残る。かつての丘陵地帯はすっかり住宅地に変貌。

 横浜市に入ってからは、ひたすら炎天下の「国道16号線」歩きかと思っていましたが、国道と交差するようにけっこう旧道が残っていて、静かな住宅街の中、ゆるやかな坂道が続きます。
 丘の上に住む住民の方達は、大変そう。でも、その分、足腰が強くなる? 年寄りにはきついでしょうが。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-08-28 19:50:13 | 八王子絹の道
                        (9:16)「鶴ヶ峰」駅付近の「水道道(みち)」。「筑池」交差点で出会った道の続き。

「八王子絹の道」街道歩き

《第一日目》6月16日。快晴。JR「八王子」駅~京王線「多摩堤」駅
《第二日目》7月13日。曇り、のち雨。京王線「多摩堤」駅~東急線「南町田」駅
《第三日目》8月18日。快晴。東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅

そして
《第四日目》8月24日。快晴。相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅

 炎天下、にわか雨、熱中症:危険、という状況下、「国道16号線」歩き、脇道に入っての旧道、行き過ぎたり、道に迷ったり、と。
 八王子から横浜まで、けっこうアップダウンのある道筋。八王子から横浜まで、健脚なら2日間のコースを4日がかりでやっと終着地点へ。

 8月24日(土)晴れ。相鉄線「鶴ヶ峰」駅(9:15)。

 「白根」交差点から旧道に復帰。
 

 国道に合流したあと、「愛宕」信号のところで、左手の急坂を上ります(9:33)。


坂入口の右手に「白根村道橋改修碑」。

                          
 この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を記したものです。
 江戸の住人櫻井茂左衛門が供養のため、田地を買収し、破損した橋を改修、往来の難儀を救ったとあります。この碑は元文4年(1739)11月に建立されたものです。
 八王子往還は、芝生(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。

 ここにいう橋とは「帷子川」に架かる橋で、国道の右手下がその流れなので、元の位置とは異なるようです。

坂道から国道を振り返る。

しばらく進むと、下り坂に。

人専用の小さな橋を渡り、しばらく道なりに進む。

 「西谷第2歩道橋」で国道を横断して進む予定が道路工事のため全面通行止め。しかたがないので西谷駅方向に進みます(9:48)。


↓が旧道。

 「東海道新幹線」の下をくぐり、西谷駅へ。その先で旧道に復帰(9:57)。
  

この付近の今昔

1880年代のようす。「帷子川」沿いに進む旧道。


2010年代のようす。相鉄線、新幹線などの敷設により大変化。「妙福寺」、「正観寺」の位置は変わらず。

本年11月30日(土)、相鉄・JR直通線が開業することに。その幟が。

 相鉄・JR直通線は、相鉄線西谷駅とJR東海道貨物線横浜羽沢駅付近間に連絡線(約 2.7km)を新設し、この連絡線を利用して相鉄線とJR線が相互直通運転を行うもので、「羽沢横浜国大」駅からJR東海道貨物線に乗り入れ、「武蔵小杉」、「西大井」、「大崎」、「恵比寿」、「渋谷」、「新宿」の順に停車します。
          
 商店街が活気を取り戻すか?

 (10:04)「西谷郵便局」のところを左折し、相鉄線をくぐり、「妙福寺」前で国道に復帰。
  

「正観寺」を過ぎた先に、比較的新しい「旧八王子道道標」(10:14)。
  

 この先、左手にある古い「庚申塔」のところを左折し、さらに右折すると、「環状2号線」に突き当たります。
 迂回して「国道16号線」に合流し、先に進みます。
「国道16号線」。広くて立派な通りに。
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第10回スミダストリートジャズフェスティバル

2019-08-26 19:36:54 | 世間世界
                    久々にやってきました。真っ黒に日焼けした実行委員長も健在でした。

 「ストリートジャズフェスティバル」ということで、あちこちの街角やお店で演奏が繰り広げられています(同時開催で曳舟地域でも開かれています)が、3時近く、何しろ猛烈な炎天下なので、錦糸町駅周辺とメイン会場の「錦糸公園」だけ。
        

 大勢の人が集まっていました。
 

 二か所に設置されたステージ以外にもビール、日本酒の販売所や楽器体験ブース、子供向けのテントなどがたくさんあって、賑わっています。
ドラムサークルワークショップ

          すみまるくん」。運転席に制服制帽のお子さんが。

暑さの中、熱い演奏が続いています。Shiho GuestTOKU」。

 

 当方は、朝からの街道歩きでお疲れ。ビールを飲みながら木陰で休憩しながら、流れてくる生演奏を。
西藤ヒロノブクインテット」。

                 



そのうち、今回のラストを飾る「つのだ☆ひろ」さんが登場する時間に。熱心なリハが。
                     

そしていよいよ本番。実行委員長も登場。

いつしか夕闇が迫る中、少し涼しい風も。その中で、演奏が続きます。

第1回目から5回ほどは来て、あちこちの会場を自転車で回りながら聴いて回りました。しばらくご無沙汰でした。

祝!第10回」。

 今回も日野晄正さんや綾戸智恵さんなどすばらしいミュージシャンが出演していました。
 さらに、毎年、プロばかりでなく、地元の同好会などジャズを愛する多くのミュージシャンがあちこちの会場ですばらしい腕を披露してくれます。
 すばらしい催しです。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-23 19:54:40 | 八王子絹の道
              「鶴ヶ峰浄水場」付近の高台からの眺望。

見晴らしのよい散策路になっています。


 「鶴ヶ峰浄水場」を回り込むように「ふるさと尾根道」ルートを進みます。下りの階段があるので、そこを下りて国道に出ます。
 
 ところが、旧道はこの階段の途中で左折するか、「浄水場」に沿うように、もっと先まで上がって右に降りて行く道が正しいようです。
  
 「白根」交差点を左手に入ると、「鶴ヶ峰坂」の表示が。
    「長さ二町(218㍍)の急坂で旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった。」

「白根」交差点を横断し、旧道へ。

 けっこう暑くなって日陰もなさそうな道。近くに相鉄線「鶴ヶ峰」駅があるので、ここで、リタイア。駅に向かいます。

「帷子川」の流れ。
 もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川でしたが、大戦以前は耕地の灌漑等を目的に利用されており、治水事業としては本格的な改修は行われていませんでした。水害を契機に、 川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す約7.5kmにわたる地下分水路や、鶴ヶ峰駅付近の帷子川親水緑道などの親水公園、川辺公園などが造られました。(この項、「Wikipedia」参照。)




1880年代のようす。中央の東西に延びる道が「八王子街道」。「帷子川」の蛇行がものすごい。




2010年代のようす。旧道は途中はっきりしない。「帷子川」の河川改修がよく分かる。


 横浜というと、港町という印象でしたが、西北に広がる一帯は、けっこう坂道の多いところで、上り下りが大変そうな街並みで、丘の上にまで家が立ち並んでいます。

「鶴ヶ峰」駅からJR総武線「錦糸町」駅まで。「すみだストリートジャズフェスティバル」のメイン会場の「錦糸公園」に向かいます。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-22 19:09:06 | 八王子絹の道
                         宿内の通りは歩道など整備されています。
                           「筑池」交差点。

「水道道」という表示。
                        「水道道」探索も面白そうです。

日本初の近代水道は 横浜で明治20年開設
 神奈川県は明治16年(1883)、香港政庁の英陸軍工兵少佐、H.S.パーマーが来日した際、彼と3か月の契約を結び、水道施設に関する調査、設計を依頼した。
その報告書に基ずき同18年工事が着工され、津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する地点(海抜100m)に取水口を求め、そこから野毛山浄水場(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけ、同20年9月に開通させた。
 相模川が狭い山間を流れる上流部と川井接合井から野毛山に至る丘陵は起伏が多く、帷子川が曲がりくねり、地盤も悪く工事は難航した。
 英グラスゴーから輸入した鋳鉄管は船で相模川から上流に運び上げるか、水道管を埋設する道路敷にトロッコを埋設して運搬されており、今でも随所にトロッコ跡が見られる(福泉寺入口付近、川井本町バス停付近、西川島公園など)。
 給水開始の日には関内の吉田橋のほとりで、消火栓を使った放水試験がおこなわれ、筒先から勢いよく吹き上げる水に人々は驚嘆したものだ。
「川井本町」バス停付近。
(この項、「旭ガイドボランティアの会  村田啓輔」さんのHPより)

「(横浜)高島町まで10㎞」ポスト。

この先の「今宿」から左手に入っていきます。

                           

すぐ左手に旧家の佇まい。 

住宅街を進みます。旧道らしい道筋。

大きなおうちも目立つ。

 路傍には「馬頭観音」や古仏が。

「国道16号線」に合流。

すぐ「鶴ヶ峰本町」交差点で左に入ります。

ここも左手に進む。横浜はけっこうアップダウン(坂道)の多いところ。

左手の「薬王寺」門前の「六ツ塚」。

               
 おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
 その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を6月19日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は元久2年6月22日(1205年今より768年前)公は42才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り、代々伝えて六ツ塚と言う。

     昭和48年6月22日 旭区役所 旭区観光協会

通りをはさんだところにも塚が設けられています。 

元の道に戻り、上っていくと、「駕籠塚」の案内板。 


 「鶴ヶ峰浄水場」の脇右側に『遺跡 駕籠塚』の石柱と『畠山重忠古戦場跡-駕籠塚-』の標柱が立っていて、その奥に塚と説明碑があります。  
                            
 元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル
 北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
 重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
 内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
 駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル
             

 重忠の内室「菊の前」が急いで駆けつけたが重忠の戦死の報を聞き、悲嘆慟哭し、駕籠の中で自害し、駕籠ごと埋葬された。その霊を弔うための塚という。           
               そこから南方を望む。

 「鶴ヶ峰」周辺には、「畠山重忠公首塚」、「畠山重忠古戦場」など関連した史跡が多くあります。
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東急線「南町田」駅~相鉄線「鶴ヶ峰」駅。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第3日目。)

2019-08-20 19:03:51 | 八王子絹の道
                             (10:34)「東名」を越えたあたり。右手が「東名」。左手がホテル街。

 炎天下の毎日。熱中症も危険! なかなか出かけられず・・・。
 思い切って18日(日)。予報での曇りのマークをあてにして。ところが、快晴。
 「錦糸公園」中心に恒例の「すみだストリートジャズフェスティバル」(第10回目だそう)を開催中なので、早々に切り上げ、そっちへ向かうことに。
 ということで、今回も中途半端です。
 「南町田」駅を下車し、街道歩きを再開。「町田市辻」で旧道を右折、「東名入口」交差点まで。「東名」の「横浜町田インター」付近。
 「東名」を越えて「国道16号線」に行くために、脇道のトンネルをくぐったりして、向こう側に出ます。
 「東名」を走るとき、「神奈川」から「東京」という表示が出て、すぐまた「神奈川」になるところ。左手にはラブホテルが並んでいますが、そのあたりだったのですね。
頭上は「保土ヶ谷バイパス」。

この先で、右手の坂道を上ります。左手にはホテルがいくつか。 

右手には落ち着いたお店。「きむかつ舎しゃり銀」横浜町田本店。
 超薄切ロース肉を重ねて揚げたとんかつ「キムカツ」を考案した木村義美さんのお店のようです。炊きたてのご飯もおいしい、とのこと。
             

(10:53)「国道16号線」の歩道橋を渡って、向かいの旧道へ。

左手には「川井浄水場」からの「水道導管」。

「亀甲山(かめのこやま)」交差点から左手に進む。

「セブンスデー・アドベンチスト横浜英語キリスト教会」の施設が並ぶ。

(11:10)左手奥に「大貫谷戸水路橋」(↓)。

けっこう暑くなってきます。日陰がない!

左手には高台が続きます。


(11:25)「宮ノ下」で国道に合流。

その先、「上川井神明社」のところを回り込みます。

住宅街を進む。

土蔵のあるおうちも。

やっと木陰のある道へ。

(11:34)無人野菜販売所。まだあるのですね。

右手が開けて見晴らしがよくなります。

                                

「川井宿町」という表示が。

来た道を振り返る。

先に進みます。照り返しがだんだん厳しく。

                         

再び国道へ。(11:46)「川井宿」バス停。 
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葛飾区銭湯めぐり。その9。そのぬくもり。「千代の湯」。「大黒湯」(休業中)。

2019-08-12 18:23:25 | 葛飾銭湯
                             ㉒「千代の湯」。葛飾区東新小岩5-17-6

 「平和橋通り」を南下、「上平井消防出張所前」交差点を左折、「玉寿司」の裏手にあります。
 昭和31年創業、現在は2代目が切り盛りしているとのこと。ロビー、脱衣所、浴場と全体的にきれいに整えている。 正面のロビーは広く、大きなソファーが設置されています。天井もゴージャスな印象。
 そして右側が男湯、左が女湯。
 脱衣場も広く、大型テレビでは高校野球の中継が。
 広々した浴場も広々としています。入口の左側に立ちシャワーが二つ。
 洗い場周りのローズレッドのグラデーション模様。
 背景画はハワイをイメージしたらしい、椰子の木の林。天井も高く、見上げると、赤、緑、青、白とカラフルなストライブ、清潔で明るい印象。けっこうすてきな雰囲気。
 右から、普通の風呂、電気風呂、座風呂で勢いのあるジェット、そして、バイブラ風呂になっています。薬湯として「ゆず湯」。冬のゆず湯とは違ってゆずがあるわけではありませんが。
 円形をした大きな浴槽は、ジェットバスの気泡が出て、お湯がぐるぐる回っていて、小さな流れるプールみたいです。
 お湯がちょっと熱い座風呂のジェットはかえって刺激的で、なかなか気持ちいい。
 上がった後は、クーラーの風を受けながら、ソファに座って高校野球観戦。
 脱衣所と浴室との境にある「ビーナスの誕生」風の裸婦モチーフのエッチングカラスがとても魅力的。
                  
                                          (注:HP掲載の写真は、女湯のようです。)

 「平和橋通り」・「上平井消防出張所」交差点から南西にある「大黒湯」に行って見ましたが、休業中です。

㉓「大黒湯」。葛飾区西新小岩4-14-5

【大黒湯 休業のお知らせ】
長らくのご愛顧をいただいておりました新小岩の「大黒湯」が諸事情により2018年11月初旬より休業となりました。
地域の皆様に温かいお風呂を提供してくれた大黒湯のしばしの休息だと信じております。

(「」HPより)

          

 とろりまろやかな掛け流しのお湯。地下200mから汲み上げる鉱泉を使用しているので温泉気分をお楽しみいただけます。
 昭和27年創業。58年のリニューアル時、東京の銭湯ではじめてフロント式を採用し、ランドリーの併設も行ったそう。浴室には立ちシャワーブースを8つ設け、女湯のみカーテン付き。湯の飛び散りを防ぎ、気持ちよくシャワーを使うことができる。湯上がり、竹林を描いた休憩エリアでしばし汗を引くのを待つのもよろし。

 という。HPでの宣伝文句でしたが、残念!
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読書「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク 松永美穂 訳)新潮文庫

2019-08-08 21:38:17 | 読書無限
                     15歳のぼくは、母親といってもおかしくないほど年上の女性と恋に落ちる。
《あらすじ》
 15才の少年ミヒャエルは、ある日、下校の途中に急に気分が悪くなって吐いたところを通りすがりのハンナに介抱される。
 約5ヶ月後、病気が治ったミヒャエルは助けてもらったお礼にハンナを訪ねたとき、外出するため着替える下着姿のハンナから目を離すことができなくなる。
 一週間後、再びハンナの家を訪ねたミヒャエルは、コークスの炭で全身真っ黒になってしまい、ミヒャエルはお風呂を浴びることに。ハンナが、ミヒャエルのバスタオルを取り、全裸になっていたハンナはミヒャエルを抱きしめる。
 次の日から、ミヒャエルは学校の授業をさぼり、ハンナの家で、逢瀬を重ねるようになる。
 「まずは本を読んでくれなくちゃ!」とハンナに言われて、ホメーロスの『オデュッセイア』、トルストイの『戦争と平和』、レッシングの『エミーリア・ガロッティ』、シラーの『たくらみと恋』、・・・、朗読し、シャワーを浴び、愛し合うことが、二人の逢い引きの式次第になってゆく。
 しかし、ハンナは、プールサイドにやってきた翌日、ミヒャエルの前から姿を消す。

 ハンナがいなくなってから、年月が経過。すでに戦後。ナチの犯罪追求が続くドイツ。
 法学部の学生になっているミヒャエルはゼミの一環で裁判の見学にゆくことになり、その法廷でミヒャエルはハンナと再会する。そこで、ハンナが1944年初頭までアウシュヴィッツで、それからクラクフ近郊の小さな収容所の看守をしていたことを知る。
 ミヒャエルは裁判の結果、ハンナが拘置所にいれば、自分の世界、生活の外にいてくれることを望んだ。
 一日も休まず公判に通うミヒャエル。5人いる被告席に座るハンナの後ろ姿を眺め続ける。しかし、何も感じない。
 ハンナたちの起訴理由は、一つは収容所でアウシュヴィッツへ送り返す囚人の選別、もう一つは、何百人もの囚人たちを閉じ込めておいた教会堂が空襲されたとき、囚人全員を閉じ込めたまま見殺しにしたという罪であった。
 裁判はアウシュビッツへ送る囚人たちの選別について審問になる。
 ハンナは新しく送られてくる囚人を収容するために、今いる囚人を送り出さなければならなかったと言う。それに対して裁判長は「選別されてアウシュビッツへ送られれば、囚人たちが処刑されるのは分かっていたはずだ。選別するということは囚人たちに『おまえは死ね』と言うようなものではないか」といって選別を行ったハンナを責める。それに対してハンナは「あなただったら何をしましたか? 」と逆に裁判長に質問する。彼女はほかに何をすべきだったのか、何ができたのか、わからなかった。
 さらに裁判は、選別を行ったのは、全員の判断なのかどうか、に。そのとき、生き残った犠牲者から新しい事実が報告される。ハンナは囚人たちの中から若くて弱くて華奢な女の子を毎晩自室に呼び、本を朗読させていた、と。
 次に、焼け落ちる教会の中で母娘二人のみが生き残り、それ以外を焼死させた罪状に及ぶと、看守たちは報告書は間違いだらけだと主張し、報告書を書いたのはハンナだと主張する。裁判長はハンナに、どうして扉を開けてやらなかった、と。ハンナは報告書はみんなで書いたと主張するが、「あんたよ! 」ほかの被告人がハンナを指さす。裁判長はハンナの筆跡と報告書の筆跡とを鑑定を行なうことになるが、ハンナは、自分が報告書を書いたと発言してしまう。

 ミヒャエルは、裁判が開かれない日曜日。郊外を散歩しているときに、何週間も同じところをぐるぐる回っていたハンナについての思考の中からついに独自の結果を導き出す。ハンナは、読むことも書くこともできないんだ。だから人に朗読させたんだ。自転車旅行のときも。市電の会社での出世のチャンスを棒に振ったのだ。そして文盲であることを隠すために犯罪者であることを自白したのだ。
 文盲が露顕するのを恐れて犯罪を認めたのか? これまでは観客だったミヒャエルが突然参加者になり、共同決定者になった。
 ミヒャエルは裁判長にハンナが文盲であることを話すかどうか悩む。
 ミヒャエルは、強制収容所跡をヒッチハイクで向かう。ハンナの犯罪を理解すると同時に裁きたいと思う。ミヒャエルは裁判長に会いに行く。しかし、ハンナのことはまったく話せずに終わってしまう。結局、ハンナには他の被告たちよりも重い無期懲役が言い渡される。
 その後、ミヒャエルは結婚して子供も生まれるが、5年後には離婚。離婚後もミヒャエルは幾人かの女性と付き合うが、長続きせずに別れてしまう。ミヒャエルはハンナをどうしても忘れられなかった。ミヒャエルは『オデュッセイア』を再読するうち、ハンナのためにカセットテープに朗読を吹き込んで、刑務所のハンナに送り始めることを思いつく。それは、服役後8年目から恩赦が認められた18年目まで続けられる。
 カセットを送り始めてから4年目に、ハンナから手紙が届く。「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」と稚拙だが、力強い字で書かれていた。
 彼女は書ける、書けるようになったんだ! それから、ハンナから次の手紙が一定の間隔で届くようになる。小説の登場人物についての感想、刑務所で気づいたことなどが書かれていた。しかし、ミヒャエルの方からは、何も書かず、朗読テープをどんどん送り続けた。
 服役から18年目。ハンナが服役している刑務所の所長から手紙が届き、ハンナの恩赦を願い出るので、身寄りのいないハンナの出所後の世話とハンナを訪問してほしいという依頼があった。ミヒャエルはハンナの出所後の生活環境を整え、刑務所でハンナと再会する。

 「大きくなったわね、坊や」彼女の隣に座り、彼女はぼくの手を取った。ミヒャエルはハンナに老人の匂いを嗅ぐ。
 ・・・
 「来週迎えに来るよ、いいね?」
 「ええ」
 「静かに来ようか、それとも少しにぎやかに、愉快にしようか?」
 「静かな方がいいわ」
 「分かった。静かに、音楽もシャンペンもなしで迎えに来るよ」
 ・・・ハンナの目はもう一度ぼくの顔をなぞった。ぼくは彼女を抱きしめたが、しっかりした手応えはなかった。
 「元気でね、坊や」
 「君も」
 そうやってぼくたちは、建物の中で別れる前に、別れの挨拶をしたのだった。(P224)

 出所の前日、ハンナと電話でやりとりする。

 彼女の声は、まったく若いときのままだった。(P228)

 しかし、翌朝、ハンナは自殺してしまう。

 刑務所に着いたミヒャエルは所長のところに案内され、ハンナの独房を見せられる。ハンナの一室は、荷造りせずにそのままになっていた。

 「字が読めるようになってから、シュミッツさんはすぐに、強制収容所についての本を読み始めたんですよ」
 ・・・
 「彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。・・・彼女は読み書きができるようになったことをほんとうに誇りに思っていて、その喜びを誰かに伝えたかったんでしょうね」 (P231)

 所長からは、ハンナが朗読を吹き込んだテープではなく、ミヒャエルの手紙をいつも心待ちにしていたことが知らされる。
 ハンナの残した手紙には、お金を生き残った犠牲者の娘に届けてほしいという依頼が書かれてあった。ミヒャエルは死顔のハンナと対面する。
 ミヒャエルはハンナの遺言を果たすために、ニューヨークに住む、犠牲者の生き残りのユダヤ人に会いにいく。そして、ハンナのお金をユダヤ人識字連盟に寄付することにする。
 後日、識字連盟からハンナ宛に感謝のパソコンで書かれた手紙が届き、ミヒャエルはその手紙をポケットに入れてハンナの墓参りをする。

 それが初めての、そしてただ一度の墓参りになった。(P247)

ハンナがなぜ文盲で、またそれを隠したのか? という点について
 当時、文盲というのはロマ族出身であることを連想させ、差別の対象になっていた。ロマ族(差別的に「ジプシー」と呼ばれることもある)は、ヨーロッパ各地に暮らす少数民族で、もともとはインドから移民してきたと言われ、何世紀にも渡ってヨーロッパ諸国から、人種隔離、迫害、公民権剥奪、退去処分などの不当な差別を受けてきた。 多くの人々がいまだに極度の貧困状態にある。
 ホロコーストではユダヤ人だけが殺されたわけではない。精神障がい者や同性愛者、黒人や少数民族など、ユダヤ人以外にも差別され殺された人々はたくさんいる。その中でロマ族も、50万人も殺されているとも言われている。
 ハンナが文盲である事がもしもナチスにばれてしまったら、彼女が殺されてしまった可能性も十分に考えられる。
 純血主義を徹底的に貫き、ユダヤ人などを虐殺したナチスに、ロマ族であった? ハンナが最初は親衛隊員として、後に看守としてどうして働けたのか? 生きるために自らの出自を隠し、ホロコーストに荷担したのか?
 刑務所で必死に文字の読み書きを習得しようとしたハンナ。読み書きを獲得したことで、かつての自分の所行を見つめ直すハンナ。自らの運命から逃れることはできない、出所の日に自らのいのちを絶ったハンナ。・・・

 数年前に自裁した評論家の西部邁が、映画化された作品の(隠された)テーマについて、独自の見解を述べていたのをyoutubeで見た。「文盲のハンナはルーマニアにいたロマ人の血を引いていて、虐げられしロマ民族つまりジプシーの血族だったのではないか、そしてそのことを誰にも告白できず隠し通して生きていくしかない運命なのだというテーマが潜んでいる」と。

 新潮文庫。平成15年6月1日発行。

 映画版を観てみようと思った。
                
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読書「ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白」(ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D.ハンゼン)紀伊國屋書店

2019-08-02 19:32:14 | 読書無限
                      ・・・
                      神は存在しない。
                      だけど悪魔は存在する。
                      正義なんて存在しない。
                      正義なんてものはないわ。―表紙カバー裏―

 「自分に与えられた場で働き、みなのために良かれと思ったことをする。誰かに害をなすかもしれないと、わかっていても。それは悪いことなのかしら。エゴイズムなのかしら。それでも人はやってしまう。人間はその時点では、深く考えない。無関心で、目先のことしか考えないものよ。」(ブルンヒルデ・ポムゼル)


 「解説」(石田勇治)にもあるように、本書は、ヒトラーの時代を知る最後の生き証人、2017年に106歳で亡くなったドイツ人女性ブルンヒルデ・ポムゼルの物語である。本書刊行と同時に公開されたドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」の制作にあたり、30時間に及ぶインタビューの記録を編集し、ドイツのジャーナリスト、トーレ・D.ハンゼンが長文の解説を付して出版された。

 日本語版:2018年6月26日第1刷

 ポムゼルは、ゲッベルス宣伝相の秘書を務め、ナチ党員でもあったことから、戦後は散々非難されたであろう。ポムゼルの語りはすべて言い訳のように読める。納得の行くところもあるが、首をかしげる箇所もある。だが、その語りに真摯に向き合うことで、あの忌まわしい独裁がいかなる人びとによって支えられていたのか、私たちは推し量ることができるだろう(P252)

 《私たちは政治に無関心だった》
 《ヒトラーはともかく、新しかった》
 《少しだけエリートの世界》
 《破滅まで、忠誠を》
 《私たちは何も知らなかった》
 という章立てで、生い立ち、家庭環境、・・・青春時代から国営放送局、そして国民啓蒙宣伝省に入って、ゲッベルスの秘書となり、敗戦を迎え、5年間ソ連に抑留された後、解放され、その後、103歳のときのインタビューを受ける彼女の生き様が語られ、整理され、編集されていく。 

 インタビュー当時(103歳)の総括の言。

 自身の罪についての永遠の問いに対しては、私は早い時期に答えを出した。私には、何の罪はない。だって、なんの罪があるというの? いいえ、私は自分に罪があるとは思わないわ。あの政権の実現に荷担したという意味で、すべてのドイツ人に咎があるというのなら、話は別よ。そういう意味では、私を含めみなに罪があった。(P166)

 トーレ・D.ハンゼンは、解説「ゲッベルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」において、

 私たちはおそらくはまだ、ポムゼルの言う「ガラスのドーム」(注:「ナチスが権力を握ったあとでは、国中が巨大な強制収容所の中にいたのよ。ヒトラーが権力を手にしたあとでは、すべてがもう遅かった」)の中で、不安と無知のために立ち尽くしている。念頭にあるのは自分の利益ばかりで、社会の状況には目をつぶってご都合主義を貫き、右翼ポピュリストの台頭に間接的に手を貸し続けている。ポムゼルが言うように、そこから抜け出す逃げ道はないのだろうか? 無知と無関心が潜在的な罪であるならば、現代の私たちが担う責任は非常に大きいという主張は、意外でも何でもない。ナチ政権の時代の人間なら、知らなかったと弁明することができるかもしれない。だが私たちは彼らより歴史を知っている分、わかっていなければならない。(P239)

 さらに、「人類は歴史から何か学んだのだろうか」という問いを発し、高齢のファシズムの生き証人としてこのポムゼルの他に一人の女性、104歳で没したドイツ生まれのユダヤ人インゲボルク・ラポポートを取り上げている。

 インゲボルク・ラポポートは、過激化と政治的無関心の両方を非常に危険だと感じている。「非政治的人間は付和雷同しがち」だからだ。
 危険なのは、複雑な問題に簡単な答えを求める人間だ。彼女は現在も平和を愛し、人々の連帯を信じ、自己中心的な資本主義のシステムは信じない。イスラム教を蔑視する議論やブルカの問題(欧州全体で、イスラム教徒の女性が全身を覆い隠す「ブルカ」を公共の場で着用禁止にする動きがある)は、憎悪をかきたてるために使われるおそれがあると感じている。同じようなことを彼女もナチズムの時代に経験したからだ。
 二人の人生には共通点がある。ポムゼルとインゲボルク・ラポポートは、ファシズムとは何か、無知、受動性、無関心、ご都合主義はドイツと世界に何を引き起こしたかを身をもって経験した世代の、おそらく最後の警告者だという点である。(P242)

 昨今の政治情勢(国内外)を見ると、アベ改憲策動に向けて、特に参議院に進出した「N国」の動きは、党首のもともとの政治的スタンス(差別主義者、排外主義者)を思うとき、自・公・維の別働隊として(ある意味でそれ以上のもの)とらえることが必要なのではないか。
 こういう国レベルの動きだけでなく、大阪、名古屋、東京・・・日本の主要都市、各所で、今、かなりきわどくファシズムという政治情勢へ突き進んでいると感じる。

 本書にもあるように、

 主権者である国民が、ポムゼルのように世の中の動きに無頓着で、権力の動きに目を向けず、自分の仕事や出世、身の回りのことばかりに気を取られていれば、為政者は易々と恣意的な政治、自分本位の政治を行うだろう。それに批判的精神を失ったメディアが追随すれば、民主主義はチェックとバランスの機能を失い、果てしなく劣化していく。これは、他でもない現在の日本で起きていることである。(P257)

 トランプのアメリカ大統領当選は、有権者の40%が投票しなかったという現実の上にあったからなのだ。

 ところで、本書には、映画撮影後、亡くなる2ヶ月前にスタッフに語った、ユダヤ人の恋人との別れについての記述がある(ポムゼルは妊娠し、別れた後、中絶した。その後、生涯、独身を貫き、子供も持たなかった)。
 カメラを前にしては話せなかったのだろう。それは、時代に翻弄された、ポムゼルというひとりのドイツ人女性の、長い人生においての、余りに切ないエピソードである。  
コメント (1)
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葛飾区銭湯めぐり。その8。そのぬくもり。「ゆートピア21」、「日の出湯」。

2019-08-01 20:06:58 | 葛飾銭湯
                               ⑳「ゆートピア21」。葛飾区亀有3-30-12
                                          亀有駅南口から徒歩5分。
 JR亀有駅から「環七」沿いにある「アリオ亀有」に向かう人通りの激しい通り沿いにある銭湯。
 駐輪スペースが心配なので、「アリオ亀有」で買い物をしたついでに、駐輪場に自転車を入れて向かいます。
 昭和15年創業で、平成5年に「富士見湯」から「21世紀に向けてがんばろう!」という想いを込めて改名したそう。
 ここにも「麦飯石風呂」があります。
 「麦飯石風呂」の超音波気泡ジェット2連の座り湯、超音波気泡ジェット2連の寝湯。そして薬湯。有料のサウナもあり。
 浴槽の種類も豊富で、駅からわずか4、5分という場所にあるということが、ウリ。けっこうな人の入りです。
 天井は高く、水色に塗られています。浴槽の奥の壁に、大きなモザイクタイル絵。カッパのモザイクが壁全面に施されています。子供のカッパがイルカの上に乗ったりしていて、かつての清水崑さん、小島功さんのカッパを思い出します。雰囲気は明るく楽しい。
 お湯はあまり熱くなく、ゆったりと入れる。熱い湯好みの人には物足りないかもしれません。
 薬湯。脇の洗い場にいても香りが漂ってきます。何という名称なのか、色んな漢方が溶け込んだお湯のようです。二度も入りました。


清水崑さんの絵柄。小嶋功さんの絵柄。

(「」HPより)

㉑「日の出湯」葛飾区西亀有4-16-14
 
 水戸街道(国道6号線)から行くと、都立葛飾野高校を過ぎ、JRのガードをくぐった先にあります。
 昭和36年創業。「温かいうちじゃないと汚れがこびりついてしまうから」と、浴室は営業後1時間かけて掃除するという。他にも脱衣場は2時間、桶は1時間かけて磨くそう。男湯は奥の壁面にタイル絵。絵柄は大海原を走る帆船・海王丸。広がりのあるなかなかすてきなタイル絵です。
 女湯は白雪姫のタイル絵。

 脱衣所の天井は、格天井。天井には大型扇風機が回っています。お互い顔なじみの地元のお爺さんたちでやや混雑気味。小さな庭がある。
 浴室もけっこう混んでいます。平日の6時過ぎ。上がる人、入ってくる人で、けっこう賑わっています。
 浴槽はL字型に配置されていて、手前に薬湯、さらにバイブラ、ボディーマッサージ、スーパージェット、電気風呂という配置。種類に富んでいます。
 井戸水を使っているようで、お湯の中に小さな木くず、ゴミ? が混じっています。
 女湯の方も声がしきりにして、フロントのおばさんも親切に会話しています。実に和気あいあいとした雰囲気がいい。なお、電気風呂には心臓の弱い方、高血圧の方は遠慮下さい、とあり、入っている人はだれもいないので、もったいない感じ。
 薬湯は漢方ではおなじみの「甘草」湯ということで、少しぬるめの湯をゆっくり楽しみました。

海王丸

 1989年、海王丸は59年間にわたって海の若人を育ててきた初代海王丸の代替船として建造されました。
 初代海王丸は鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」の遭難を契機として、1930年に日本丸とともに建造され、当時の田中隆三文部大臣の「日本の海の王者にふさわしい船にしたい」という我が国の海運に寄せる期待を込めて「海王丸」と命名されました。
 初代海王丸は、引退までの59年余りにわたって、実習訓練を行って来ました。
正確な記録の残る昭和27年(1952年)4月1日以降でも189次の航海を行い、7,708名の実習生を育て、約146万kmの航海を完遂しました。
 初代日本丸同様老朽化には勝てず、 1974年以降は遠洋航海の規模を縮小するなどの応急的な航海を続けていました。
 従来、練習帆船は国が建造し船員教育の教育訓練のみに使用してきましたが、船員教育訓練とあわせて「青少年のための海洋教室や体験航海」にも利用するものとして、国の補助金、財団法人日本船舶振興会(現・日本財団)補助金、一般からの寄付金及び銀行借入金とし、財団法人練習船教育後援会(現財団法人海技教育財団)が海王丸代船を建造することとなりました。
                   

(この項、「」HPより)

《追伸1》今回の二軒とも、大きな「シャンプー」、「ボディーソープ」が一つずつ置いてありました。
 6月27日より、葛飾区内の銭湯は「シャンプー」「ボディーソープ」が常設となったようです。

《追伸2》西亀有にあった(「都立農産高校」の西側)「橘湯」は、今年の1月に廃業になりました。確実に銭湯が減っているようです。
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