おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

江の島めぐり。その5。釣り人や岩場を散策する人。再び稚児が淵へ。打ち寄せる白波。こうして江の島めぐり終了。

2023-07-12 18:32:23 | 境川

来た道を戻ります。釣り人や岩場を散策する人が。

江の島の浮世絵。切り立った崖。左端に富士山。

        江の島は夕景が素晴らしいらしい。「本日(7月7日)の日没時間、18:50 頃」。

「稚児が淵」の岩場に下りてみます。「岩屋」への回廊を見上げる。

冬の晴れた日の様子の写真を拝借します。

               

岩場に打ち寄せる波。

                              

急な石段を登りきると、さっきまでの霧もすっかり晴れてきました。

江の島を振り返る。

境川の河口。

 

         「藤沢市観光センター」にアニメのポスターが。

当方、この世界にはまったく門外漢なのですが。

劇場アニメ「青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない」

高校二年生の三学期を迎えた梓川咲太。
三年生の先輩であり恋人の桜島麻衣と、峰ヶ原高校で一緒に過ごせる学生生活も残り僅かとなった。
そんななか、長年おうち大好きだった妹の花楓は、誰にも明かしたことのない胸の内を咲太に打ち明ける。
「お兄ちゃんが行ってる高校に行きたい」
それは花楓にとって大きな決意。
極めて難しい選択と知りながらも、咲太は優しく花楓の背中を押すことを決める。
『かえで』から『花楓』へ託された想い。二人で踏み出す未来への物語。

・・・

「青春ブタ野郎」シリーズは累計部数250万部を超える電撃文庫刊行の人気小説を原作として2018年にアニメ化し、2019年に公開された「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」に続き、劇場アニメの2作目が公開となります。小田急沿線の藤沢エリアを中心に物語が展開しており、本企画ではさまざまなシーンで登場する藤沢駅の周辺や市街地、観光スポットの江の島や鎌倉など作品の舞台となった場所を実際に訪れていただくことで劇中の世界の聖地巡礼をお楽しみいただけます。

イベント初日の6月4日(日)には、ヒロイン「桜島麻衣」役の声優・瀬戸麻沙美さんが片瀬江ノ島駅の一日駅長を務め、就任式やホームアナウンスを実施します。    

また期間中、藤沢駅・片瀬江ノ島駅では「桜島麻衣」による劇場アニメ公開記念の特別アナウンスが構内に流れるほか、過去作に登場した「市民図書館」最寄り駅の湘南台駅を加えた3駅でオリジナルうちわを数量限定で配布します。さらに沿線の各駅ではオリジナルコラボポスターを掲出するなど鉄道事業者ならではの企画で作品の公開を盛り上げます。

当社では、さまざまな外部パートナーとの連携を通じ、魅力的なコンテンツと小田急線での移動を組み合わせた「楽しい時間」の提供に取り組んでいます。今後も、連携機会の拡大などにより、多くの方に楽しいお出かけの機会を創出していくとともに、これを通じた地域活性化に寄与してまいります。

オリジナルうちわ(イメージ)オリジナルうちわ(イメージ)

(この項、「小田急電鉄」HPより)

けっこう人気アニメのようです。

小田急江の島線「片瀬江ノ島駅」から帰途につきました。秋空の下で再び訪問しよう!

次はどこを歩くか? この暑さではどこも暑そうですが。

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江の島めぐり。その4。江の島第一・第二岩屋。与謝野晶子。鳴沢氷穴に通じている、とか。龍神、そして七夕飾り。亀石。龍神。

2023-07-11 20:37:54 | 境川

江の島岩屋。 

江の島岩屋は波によって削られて形成された洞窟で、弁財天侵攻及び江島神社発祥の地とされています。弘法大師や日蓮聖人、源頼朝など多くの高僧や武将が岩屋を訪れて、祈願のため、岩屋に籠もったといわれています。・・現在の岩屋は奥行き152mの第一岩屋と56mの第二岩屋に分かれており、第一岩屋は富士山の氷穴につながっていると伝わるなど、数々の伝説が存在する洞窟です。

ロウソクの炎に照らし出された石像や岩壁が神秘の世界に誘ってくれます。

入口でろうそくの火を渡され、片手にろうそくを持って歩いて行きます。ひんやりとしています。途中、頭上が低いところや足もとには水が。

光の加減で、うまく写真を撮ることが出来ませんでした。

与謝野晶子歌碑。

沖つ風 吹けば またたく蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞

・・・歌集『青海波』(明治45年1月刊行)にあるこの歌は、明治44年7月に詠まれました。それから90年余り、蝋の火は今なお灯され、岩屋を訪れる人の足許を照らしております。

               

この洞窟は、昔から富士山の麓にある鳴沢氷穴に続いているといわれています。

日蓮聖人の寝姿石。

最奥。

左の道を進むと、

海が正面に。

               晴れていれば、遠くに富士山が見える?

7月7日、訪れたときのようす。

七夕飾りに短冊がいっぱい。

いったん外に。第二岩屋に向かいます。

ここから目下の水面を見ると、亀の姿を下石を見ることができます。波に洗われている姿に大きな亀が竜宮城へと帰って行くかのように見えます。この「亀石」は、対岸の片瀬地区にある中村石材の先代、中村亀太郎氏がノミをふるったものであると云われています。

※満潮の時は、水面下に沈んでしまい見えないことがあります。

       

            たしかに海に向かう亀の姿。

第二岩屋。

手元はろうそくで暗いし、足許は濡れているし、奇妙な音がしてくるし、独特の雰囲気。龍神が祀られているようですが。・・・

臆病者の小生。写真も撮らずに退散しました。せめて龍神の写真を拝借。

               (「」より)

こうして第二岩屋を出ます。

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江の島めぐり。その3。稚児ヶ淵。芭蕉句碑。江の島岩屋へ。

2023-07-10 20:45:35 | 境川

目の前が開けてきます。

稚児ヶ淵。

稚児ヶ淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによって生まれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。

残念ながら、海は霞んでいて対岸も見えません。

右手に芭蕉の句碑などいくつか集められています。

           

解説板。

芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ丘(三重県)での作ですが、ここの自然環境に溶けあっています。
 佐羽淡齊の詩碑(右から3番目)は野火で碑面が剥落していたものを4代目の子孫が再建したものです。淡齊は上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました。
 服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内では一番古い詩碑で、高さ95cm、幅35cm表に七言詩、背面に文化2年(1805年)これをこれを建立したと識語してあります。南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生徂徠の門に学び、柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。江の島には幾度も来遊し、そのたびごとに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、この詩は南郭の快心の作といわれています。

疑ふ那 潮能花も 浦乃春 はせを

二見浦の夫婦岩を描いた絵の画讃。岩に砕ける潮の花の絵柄はそのまま二見が浦の爛漫の春の景色だということを疑ってはならないというのだが...

※元禄2年(1689)春の作。

※「二見浦の夫婦岩」。(「観光三重」HPより)

下りて来た石段を振り返る。

                  

急な石段を下ります。

              

江の島岩屋に向かいます。「あなたの知らない江の島がここにあります。」

       

左手は切り立った崖。

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江の島めぐり。その2。霞む江の島。べんてん丸は欠航。下道を歩く。江の島市民の家。江の島シーキャンドル。御岩屋道通り。

2023-07-09 19:21:10 | 境川

江ノ島は、霞んでいます。

「べんてん丸」に乗船して、岩屋まで行こうと思いましたが、「本日欠航」。残念!

    バトルボードの練習中。 

岩場の突端に釣り人。 穏やかな海。

神社の下にある「下道」を歩きます。なだらかな上り坂。

※「下道」=朱塗りの大鳥居から右に進む道。

 江の島西側沿いの舗装道路になっていて、地元のバイクなどが路駐してある。

「江の島市民の家」。

        昭和36年(1961)に廃校となった藤沢市立片瀬小学校江ノ島分校の施設を利用。

眼下に海が見えてきます。

                              片瀬漁港。

バトルボードが数隻。

西方向。 

10分ほどで御岩屋道通りへ。 

木喰上人行場窟。

「江の島シーキャンドル」方向。

少し早めの昼食。

「遊覧亭」から。

霞んでいて眺望が開けず。

江の島シーキャンドル。

御岩屋道通り。

頼朝寄進の鳥居。

1182年に源頼朝が奉納したと伝わっています。『吾妻鏡』には、源頼朝が当時奥州一帯で非常に大きな力を持っていた藤原秀衡の追討祈願の為、御窟(今の岩屋洞窟)に弁財天を祀り、鳥居を奉納した事が記されています。後の1189年に源頼朝は奥州に攻め入り、藤原氏を滅ぼしました。現在の鳥居は2004年の台風で破損し、一部心材で補修されたものになります。

力石。

江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。重さ80貫(320㌔)で石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。弁財天の祭礼に詣でた人の前で力競技を行った時のものです。

        

            

夏富士や晩籟神を鎮ましむ

※晩籟=夕方の風の音の意味。 

この先、海に向かって急な階段を下っていきます。

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江の島めぐり。その1。湘南モノレール「湘南江の島駅」。江ノ電「江ノ島駅」・小田急「片瀬江ノ島駅」。

2023-07-08 20:59:23 | 境川

7月7日。

今回は、大船駅から「湘南モノレール」で「湘南江の島駅」まで。初めて乗りました。

         懸垂式。

軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ普通鉄道線計画が頓挫したために取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道で、モノレール建設当時は京浜急行電鉄によって所有および運営がなされており、軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。現在では鎌倉市と藤沢市に売却・譲渡され、一般市道に移行している。

この道路には最小曲率半径 25 m、最急勾配 88  という険しい箇所もある。懸垂式モノレールの性能的には、この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を 74 ‰、最小曲率半径を本線 100 m、駅構内 50 m とした。途中2か所に道路上空を外れてトンネルを設けた箇所も存在する。このような急カーブを駆け抜ける乗り心地や、めまぐるしく変化する車窓の風景が、ジェットコースターにたとえられることもある

建設にあたっては、軌道桁・支柱の製造を三菱重工業横浜造船所(当時)、車両は同三原製作所(同)、変電所三菱電機が担当し、総合監理を三菱地所が行うなど、随所に三菱グループの総合力が活かされている。江の島線の走る鎌倉市の大船から深沢界隈は三菱電機の2事業所を抱える。

(この項、「Wikipedia」より)

路線図。

江の島に向かうには、小田急の「片瀬江ノ島駅」、江ノ電の「江の島駅」、そしてこの路線があります。

前の二つは既にクリアーしました。残りの一つが「湘南モノレール」。

車内のようす。

車窓から。

けっこう曲がりくねり、上ったり下ったりがあり、トンネルも二箇所ほどあったりして、起伏に富んだ路線です。

        

江の島に近づくに連れて、山の方がけっこう霞んでいます。快晴をあてにしてやってきましたが、・・・。はたして?

              

       

終点に。

         湘南モノレール「湘南江の島駅」。

さて、江の島に向かいます。

※「江ノ島」なのか「江の島」なのか。駅名も「江ノ島」と「江の島」が混在。

江ノ電「江ノ島駅」。

藤沢駅に向かう「江ノ電」。

「江の島弁財天道標」。

この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」左側面に「二世安楽」と彫られています。この文言は江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏極楽への願いが込められています。

この道標は、平成11年(1999)1月、ここより170㍍南の洲鼻(すばな)通りの地下から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたものです。

                湘南すばな通り。

江ノ島には、引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた(タイダル・アイランド)が、関東大地震で島全体が隆起して以降は、ほぼ地続きである。

弁天橋からの境川。上流。

      橋の向こうには、小田急の「片瀬江ノ島駅」。

3つの路線とも、江ノ島観光だけでなく、地元の生活の密接な足として存在していることに気付かされました。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その4。激しい通り雨。江ノ電。車窓から。由比ヶ浜。JR鎌倉駅。

2023-06-25 19:57:33 | 境川

振り返ると、江の島上空は晴れてきそうですが、

行きのときの記念碑付近は、ビショビショ。

そのまま、藤沢駅に戻りました。すっかり晴れてきます。

このまま帰るのも、もったいなので、藤沢から江ノ電で鎌倉に行くことに。

江ノ電「藤沢駅」。

鎌倉から江の島、また途中駅まで何度か乗ったことがありますが、全線通して乗るのは、初めて。

4両編成ですが、江の島駅付近からけっこう混んできます。

路面電車風に走るところも。

車窓からの湘南の海。

長谷寺のアジサイなどちょうど満開の時期。外国人観光客などどんどん乗ってきます。

席を立って外を撮るわけにもいかず、そのまま鎌倉駅に。

久々に海でも眺めようか、と。

由比ヶ浜まで歩きます。

                            逗子方向。

稲村ヶ崎方向。

 海岸では、「海の家」づくりが盛んに行われています。

トンビが低空飛行。              

以前、弁当を広げたところ、おかずを見事にさらわれたことがありました。

海開き前ののどかなひととき。

JR「鎌倉駅」に戻る途中に、「畠山重保邸趾」。

畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ嘗テ北条時政ノ婿平賀朝雅ト忿事ス朝雅其ノ余怨ヲ蓄ヘ重保父子ヲ時政ニ讒ス時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス乃チ実朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ囲ム重保奮闘之ニ死ス時ニ元久二年六月二十二日此ノ地即チ其ノ邸址ナリ其ノ翌年重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵国二俣川ニ闘死ス 大正十一年三月建 鎌倉町青年団

JR横須賀線「鎌倉駅」。

こうして、中途半端な江の島の旅を終了します。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その3。昔からの街並み。背後には切り立った崖。モース。江の島ヨットハーバー。一天にわかにかき曇る。

2023-06-24 19:31:17 | 境川

島の東側、海沿いにある昔からの集落を歩いてみます。

 

細い路地の両側に家が並ぶ。

                  背後は森(江島神社)が高く広がる。

藤沢市のマンホール。

         江の島モース臨海実験所跡推定地。

エドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年)7月17日~8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け、海産動物の研究・指導を行い、我が国の近代動物学の基礎をつくりました。

※エドワード・シルベスター・モース

アメリカの動物学者。明治10年6月日本腕足類研究のため来日して、江ノ島で研究。
1度帰国し、翌年再び、来日、東京理学部で動物学の初代教授となった。横浜から東京への車窓から大森貝塚を発見、その後発掘を行って報告書を刊行した。これによって、近代科学としてのわが国の考古学研究の基礎がつくられた。・・・

モースは、大森貝塚発見で知っていましたが、江の島にも縁があるとは。

海岸側に出ます。背後は切り立った岩山が続きます。

          

江の島の今昔。

                     1880年代のようす。集落は海に張り付くように。

                     2010年代のようす。

海に広がっているのは、「江の島ヨットハーバー」。

昭和39年(1964)東京オリンピック開催に際し、日本で初めての競技用ハーバーとして建設されました。
最近では東京2020オリンピック競技大会のセーリング競技会場としても使用され、記憶に残るレースが繰り広げられました。
メイン施設のヨットハウスのほか、クルーザーヨット泊地、ディンギー陸置場などがあり、 ヨットマンで賑っています。一般の人はこれらの横にあるセンタープロムナードを散策したり、さざえ島に登ったり、タイドプ-ルで潮遊びなどが楽しめます。

(この項、「」HPより) 

さて、昼食のお店はたくさんあって、迷いましたが、弁天橋正面にある、大きな「レストラン貝作」で。

のんびりと窓から。

ところが、突然黒雲が広がってきます。

そのうち、大粒の雨が降ってきました。

     

お店を出て、参道を上がりかけましたが、けっこう雨脚が強くなってきたので、これ以上は止めようと弁天橋を戻ることに。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その2。弁天橋沿革。青銅の鳥居。岩本院・岩本楼。弁天小僧菊之助。

2023-06-22 19:27:39 | 境川

鎌倉、三浦半島方向。

江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。

振り返ると、怪しげな雲行き。

こちらは青空が広がる。

「弁天橋沿革」解説板。

この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。

さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。

売店、お土産店の前では並んでいます。歩きながら大きなtakosennbeを食べている人、・・・。

青銅の鳥居。

江之島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の鳥居でしたが、1821年(文政4年)に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の厚さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。・・・

左手に古めかしい郵便ポスト。

 「明治時代の郵便差出箱」。

「岩本楼」。

             

前身は金亀山与願寺(現:江島神社)の別当職を務めた岩本院で、鎌倉時代以来の歴史を持つ。

古くは中の坊と称していたが、その後岩本坊・岩本院と改名した。上の坊・下の坊と共に与願寺の別当を務めていたが、後に上の坊・下の坊を支配下に置き、総別当となる。

江戸時代中期以降、江の島は江戸から手軽に行ける観光地として栄え、岩本院も宿坊として栄えた。文久2年(1862年)初演の歌舞伎、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)に登場する弁天小僧は岩本院の稚児をモデルにしたと言われている

1873年明治6年)、神仏分離令により与願寺は廃され江島神社となり、岩本院も翌1874年に岩本楼と改名し旅館となった

(この項、「Wikipedia」より)

弁天小僧といえば、歌舞伎の演目の一つ「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」。

・・・

以前、このブログに投稿した記事を再掲。

「続「歌舞伎鑑賞教室」その5。「弁天娘女男白浪 ・浜松屋見世先の場」。菊五郎。吉右衛門。幸四郎。・・・そして、青砥。」(2021/6/19)

旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。

               

     

鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。

              

しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。

大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。

       

逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。

           

この場面での名台詞

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ

二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。

            

安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。

               松本幸四郎

この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。

実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。

この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。

「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。

かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)

京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。

・・・

岩本院文書(藤沢市文書館寄託)

江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。

竣工当時の江の島弁天橋
 
大正時代の海水浴の様子(片瀬海岸)
 
現在、当館は創業から150有余年。

時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。

今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。

(この項、写真を含め「岩本楼」HPより)

江の島エスカー乗り場。

昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場しました。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています。

(「」より)

右手を見上げると、けっこう急な高さ。

これは便利な乗り物。しかし、帰りのエスカレータはないので、歩いて降りてくることに。

「行きは良いよい、帰りは怖い」ではイヤので、少し腹ごなしをしてからにしようと、参道をいったん下りることに。

賑やかな坂道。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その1。「境川」左岸突堤。江の島縁起。怪しげな雲行き。

2023-06-20 20:55:43 | 境川

6/16。再びやってきました。

片瀬橋を渡り、左岸へ。

右岸を望む。

川べりのテラスへ。

江の島を望む。

左岸の突端。

右岸、西方向を望む。

          すっきりしたお天気ならば、伊豆半島その向こうに富士山などが見えそうですが。               

                     手前の突堤が前回たどり着いたところ。

振り返る。

「江の島弁天橋」。

片瀬漁港。

            雲の流れが速く、いやな予感。

             

「名勝史蹟 江ノ島」、

 江の島の成因と周辺の地名由来についての伝説

昔、鎌倉の深沢に周囲40里の湖があり、この湖には五つの頭を持った「五頭竜」が主として住んでいた。

この五頭竜は、洪水を起こしたり山を崩したり、或いは病気を流行させたりして暴れまわり、里人を苦しめていた。

人々は非常に困り、また大変に恐れたが、相手が竜ではどうすることもできず、少しでも竜におとなしくしてもらうために、いけにえとして村々からくじ引きで村人を供えるようにしたが、竜はそれに満足せずますます暴れまくった。

そのため、子は親と別れ、親は子を失い村人達は次々とよそへ移住していった。津村の長者には、16人の子どもがあったが、一人残らず五頭竜に飲まれ、死んだ子を恋い慕いながら他村へと逃げていった。

その時から、深沢から西へ行く道の付近を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、これが現在の腰越の地名の起こりであると言われる。

竜を恐れた人々は、続々と他村に移住し村からは人影が消え、荒れ果ててしまった。そんな時一大異変が起こった。欽明天皇13(552)年4月12日のことである。

突然起こった大地震が天地をゆるがせ、10日間も続いた。23日辰の刻にはぴたりと地震がおさまり、人々がほっとして海の方を望んだ時、今まで何もなかった子死越前方の海に忽然として一つの島が現れた。これが江の島の誕生であるという。

この天地の異変を五頭竜は見つめていた。すると天から美しい天女が五色の雲にのり、童女を従えてしずしずと湧き出たばかりの島へと降りたった。

天女の美しさに感じた竜は、やがて結婚を申し出たが、人々の幸せを任としている天女が里人を苦しめてきた竜のような者の妻には到底なれないと言って、竜の申し出をはねつけ洞窟に隠れてしまった。

しかし、どうしても思い切れない竜は、たびたび島を訪れ、ついにこれからは人々を助けることに努力することを天女と固く約束した。

それからの五頭竜は、人々を守るために日照りの時には雨を降らせ、秋の台風には体をはってはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守り、一生懸命人々のために働いた。やがて竜のかたい心を知った天女は、竜に結婚することをゆるし、お互いに人々の幸福のために力を合わせた。

時がたつにつれ竜の体はだんだんと衰えていった。自分の寿命の尽きるのを知った五頭竜は、天女に「死んでも私は山となって島と里人を守ります。」と告げ対岸に渡り江の島の方に向かって長々と横たわり一つの山なった。

これが現在の片瀬山で、竜の口のある場所が、現在の竜の口(たつのくち)であるという。里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社(やしろ)を建てた。

これが竜口寺の西隣にある竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられ、今でも60年に一度の「巳年式年祭」の日には、おみこしに乗せて江の島へ渡り、天女の弁財天とあわせている。

2. 伝説から考える

伝説とは、昔話と異なり定まった場所・物・人物等があり、昔から「そういわれればそうだ」と信じる物が多く、土地にどっかりと根を下ろしたものである。

五頭竜と天女の伝説は、「江島縁起(えのしまえんぎ)」に書かれたものでこの伝説に言う江の島涌出説は、根拠のないものではない。

地質学の研究成果より見ると、江の島は、7~8万年前頃海上に姿を現し、その後隆起を重ねながら現在の姿になったと考えられるからである。

最も新しい隆起は、大正12年の関東大震災による約1mの隆起である。その長年にわたる証拠は、江の島の岩屋の中に残されている。

島の南側に発達する海蝕洞(岩屋)は断層に沿って波が浸食し形成されたものであるが、第一の岩屋に入ると高かった洞窟の天井が、ローソク配布所の先で急に低くなり、またその先二方向に洞窟が別れるあたりで少し低くなる。

つまり、海水による浸食が断層線に沿って進行し、ローソク配布所の先まで洞窟を作った時、島が隆起し洞窟は水面上に姿を現した。さらに海水の侵入が継続すると今度は下の方が削られる。こんなことの繰り返しで奧まで浸食が進んだが、その後の隆起で全体が海面上に姿をあらわし、また新たな浸食が進み始めた後、大正12年の関東大震災による隆起で現在を迎えている。

「江島縁起」の涌出説は、島の隆起を取り入れたものであり、突然海底から湧き上がったという江の島誕生の不思議さと、想像を絶するような力を持った竜を結びつけ物語の信憑性を増すために付近の深沢・腰越・竜の口などの地名が巧みに取り入れられ、神秘的な島として語り伝えられることによって弁財天への信仰は、より高められてきたものだろう。

吾妻鑑の健保4(1216)年1月15日の項に書かれている、江の島と片瀬の間の海底が隆起し徒歩で島へ渡れる様になり参詣人が群をなしたということも、この伝説の信憑性をますます強くしたであろう。

3. 江の島という地名について

江の島の古図。

  • 宮城県牡鹿町 江ノ島
  • 長崎県崎戸町 江ノ島
  • 北海道島牧村 江ノ島
  • 愛媛県魚島村 江ノ島
  • 鹿児島県垂水 江之島
  • 広島県沖見町 絵の島

地名の由来、藤沢の江の島との関係等は未調査であるが、以上が他県に見られる主な「えのしま」地名である。この他神奈川県内にも江の島の地名があり、江の島との関連が伝えられている地があることはあまり知られていない。新編相模風土記稿の愛甲郡宮ヶ瀬村の項に「河中岩あり雑木生して孤島の如し、昔弁天の小祠ありしを以て江の島と字す」とあり、半原村の瀑布塩川滝の項にも、江の島淵の地名が見られる。共に淵や滝壺の水脈が、藤沢の江の島岩屋に続いているという伝承があり、塩川滝には滝壺に落とした弁当箱が、江の島の岩屋の中でみつかったという伝説も語りつがれている。

この地名の起こりは、愛川町の八菅(はすげ)山を本拠とする八菅修験と関係あり、共に八菅修験の峰入行所(廻峰行者の修行場所)であった。修験道の祖、役小角(えんのおずの)は、大和国葛城山に住み、吉野の金峰山・大峰などを開いたが、文武天皇3年、葛城の神におとし入れられ伊豆に流された。

「役行者本記」にはこの時役小角は昼は禁を守り伊豆にいたが、夜は天木、走湯、箱根、雨降、日向、八菅、江島、日金、冨士山等へ空を飛んで通ったという。

この中に江の島も含まれ、江の島の洞窟で初めて修行を行ったのは、役行者であるという伝承もあり、江の島は八菅修験の外なる聖地であった。

そのため、津久井郡石老山顕鏡寺の洞窟・八菅山覚養院の修験者胎内行用の洞窟・愛川町角田八幡宮うらの洞窟等が江の島につながっているという伝承が生まれ、修験の人々によって地名と共に伝えられてきたものである。

富士山の風穴に入った仁田四郎が、穴の奥深く進みついに江の島の洞窟に到達したという話も修験道に関係するものと思われる。

平安時代の頃、江の島も修験者によって開拓され、洞窟は信仰の道場として利用される様になったと思われる。かくて、数多くの有名無名の天台・真言系の修験者が来島することになり、この人々によって勧請されたのが弁財天であった。江の島を有名にした人々の中に、名もなき修験の人々を加えても良いのであろう。

古くから語り伝えられて来た伝説の内容をどの様に見るかは受け取る側の責任であるが、その中に含まれる歴史を読み取ることも、地域の歴史を考える上で大切な事であると思われる。

初出『ふじさわ教育』第119号

(この項、「」HPより)

ここにある「役小角」に関して。

生年:生没年不詳
7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道開祖とされる。賀茂の一族,のちの高賀茂朝臣の出身で,大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市)の人と伝えられる。大和国葛城山で修行し,呪術にすぐれた神仙として知られ,多くの伝説が生み出された。五色の雲に乗り,大空を飛び,神仙の宮殿で神仙と交わり,心身を養う霊気を吸いたいと願い,岩窟に籠もり,葛を身にまとい,松の葉を食べ,清泉で沐浴し,世俗の汚れを落とし,山林で修行した。孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口にしないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や方術に習熟した行者であった。 文武3(699)年,弟子の韓国連広足に妬まれて,妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。また別に,大和の金峰山と葛城山の間に橋を架け渡せと神々に命じたところ,神々は嘆き,葛城山の一言主大神がある人に乗り移って,役小角が陰謀を企んで,天皇を滅ぼそうとしていると讒言したといわれる。天皇は捕らえようとしたが,役小角の験力のためにかなわず,代わりに母親を人質として捕らえた。母を釈放してもらうために,自ら囚われの身となり,流刑となったが,昼間は伊豆で,夜間は富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになり,罪を許されると,神仙となって天空に飛び去ったといわれる。修験道の本尊,蔵王権現は,金峰山上で役小角が衆生を救済するのにふさわしい仏を出現させようとして祈願して,湧出させたものという。修験道の開祖として,寛政11(1799)年には,朝廷から神変大菩薩の諡号が贈られた。<参考文献>『続日本紀』,景戒『日本霊異記』

(川村邦光)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典

※修験道は仏教に神道が交じった山岳宗教。修験道の実践者を修験者または山伏という。

さて、江の島へ向かいます。        

                   「江の島周辺トイレマップ」。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その8。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。片瀬橋。右岸突端。江の島。(「境川」を河口まで。)

2023-06-18 13:34:53 | 境川

これまで歩いてきた利根川、荒川、江戸川、多摩川などと異なり、河口まで住宅が続きます。

山本橋。

漁船(ボート)がたくさん係留されています。

正面に、江の島が見えてきました。

残り500m。

河口付近に架かる「片瀬橋」。

     

小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。

       龍宮城を模したユニークなデザインの駅舎。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している。

片瀬橋のたもとで小休止。        

右手に江の島へ渡る「江ノ島弁天橋」。

片瀬橋から河口を望む。

片瀬漁港。

岸壁の突端まで歩きます。

                               手前に釣り人が数人。

ここが右岸側の河口? 

西側を望む。

東側を望む。左岸の突端が。

              

                       台風2号の影響か、波が高く、雲の流れも早い。

上流を望む。

江の島方向。

右岸歩きはここまで。次回は、江の島めぐりをする予定です。

                                       (「今昔マップ」より)

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その7。鵠沼(くげぬま)の今昔。下藤が谷公園。飛び出し坊や。クロマツ。(「境川」を河口まで。)

2023-06-17 18:57:01 | 境川

※鵠沼の今昔。今は住宅地が広がっていますが、かつては、

                            (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

1880年代のようす。 荒涼たる砂浜が広がっている。        

現在は、

                            2010年代のようす。住宅がびっしりと。

戦前から鵠沼海岸として開発・整備され、住宅が増えてきています。

神奈川県による湘南海岸開発

1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。

震災からの復興は急ピッチで進められた。・・・

1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。

1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。

主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道(鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号)敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピックを見越した県営鵠沼プール(後に藤沢町に移管)の建設が加わった。

日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、「国際観光地」としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年(昭和14年)ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。

皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年(昭和15年)10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、疎開先に選ばれた鵠沼の人口は激増した。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。

戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。

(この項、「Wikipedia」参照)

「海から2.0㎞ 標高5.1m」。

下藤が谷公園。

小池に水中に潜るカルガモ。

「江の島シーキャンドル」が見えてきました。

久々に「飛び出し坊や」。

「海から1.5㎞ 標高3.5m」。

振り返る。松林が残っている。

クロマツ。海岸らしい雰囲気。

釣り船が係留されています。

「海から1.0㎞ 標高3.6m」。

         あと15分足らずで河口に到着予定。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その6。奥田公園。柏尾川。境川橋梁(江ノ電)。鵠沼(くげぬま)。(「境川」を河口まで。)

2023-06-16 20:39:06 | 境川

さて、この先どうするか? 境川からは離れてしまいますが、市役所を抜けて大通り(「国道467号)を歩くことに。

賑やかな通りから、「藤沢市民会館」などが併設された「奥田公園」の中を抜けて「境川」へ。鵠

このかん、左岸に「柏尾川」が合流します。

柏尾川

源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川(ひらどながやがわ)と瀬谷区から流れる阿久和川(あくわがわ)が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは神奈川県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは神奈川県道32号藤沢鎌倉線藤沢駅方向に流れ、藤沢市川名境川合流する

流域は工場や宅地が数多く立ち並んでいるため、高度経済成長期ごろになると大量の工場排水生活排水が川に流れるようになった。このため川はヘドロで淀み、夏場になると悪臭が漂うドブ川となっていたが、下水処理網の整備が進んだことなどにより近年では川鳥や川魚が生息できるような状態に改善されている。

戸塚駅から大船駅までの堤防には、江戸時代から続く並木があり、地域住民の憩いの場となっている。

(この項、「Wikipedia」より)

奥田橋から上流を望む。

下流を望む。川幅も広くなり、水量も豊富に。

       

「海から3.5km 標高5.6m」。

この付近の今昔。

(「今昔マップ」より)※今と違って、「江ノ電」線路が流路脇に。

対岸の森は「藤沢市新林公園」。

振り返る。上空にトンビ?

心なしか、海近くの空に。

直線化された流路。

江ノ電が見えてきます。

                        境川橋梁(江ノ電)。

                                      (「」より)

「鵠沼(くげぬま)駅」と「湘南海岸公園駅」との間になります。

※鵠沼には湿地が多くあり、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で白鳥が飛来したからだといわれている。が、白鳥が降り立った沼があったか確証はない新編相模国風土記稿では久久比奴末と読みが付けられている

                                       (この項、「Wikipedia」より)

南西に進んで、「湘南海岸公園駅」となります。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その5。藤沢宿。江の島への道。海から5㎞。藤沢市役所。(「境川」を河口まで。)

2023-06-15 21:18:48 | 境川

旧東海道「藤沢宿」は、境川を渡った西北側に広がっています。

      遊行寺橋からの点線が旧東海道・藤沢宿。

遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡

江戸からの東海道を進むと、東海道第6の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋―だいぎりばし―)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江ノ島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。

上記のように、境川沿いに歩く今回の旅は、宿の江戸方付近のところで離れていきます。

      

藤沢宿の成り立ち・しくみ

藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され、五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数宇4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を活かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町家がわずかに残っています。

※以下、地図上に、①藤原御殿、②本陣と脇本陣、③問屋場、④見附、⑤高札場、⑥旅籠屋、⑦桝形の位置が記されています。

1880年代のようす。藤沢宿の繁華街・中心部。

             (「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

現在の繁華街、JR藤沢駅はもう少し南に位置しています。

旧東海道歩きの際の記録を再掲。

・・・

宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。

 

古く重厚な家屋が残っている。

入口正面に「紙」と。国登録有形文化財(建造物)

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。



 株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
 次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
HPより)

・・・

江の島弁財天道標」。

遊行寺橋を望む。

旧東海道・遊行寺坂を下り、

              境川の手前で右・左折し(桝形・カギ型)、遊行寺橋を渡って宿場の中心部へ入ります。

1880年代のようす。

堂々とした橋柱。藤沢橋。初代は、関東大震災後に造られた。

ここからは東海道から分かれて江の島への道となります。

 下流方向。

上流方向。

この先。境川沿い・右岸の道を歩くことに。

こうした観光絵図(浮世絵)が随所に設置。。

にぎやかな街並みが続く中、境川に近づくと、

カルガモの子が急な流れの中、必死に泳ぐ姿が(〇)。

「海から5.0km 標高7.9m」。

御所ケ谷橋。

川幅が広くなってきます。流れも速そう。ここにも、カルガモが。

直線化された流路。

そのまま進むと藤沢市立大道小学校の先で、

                       JR東海道線にぶつかり、行き止まりになってしまいます。

遠回りして左岸の方を行けば、線路の向こうに行けそうですが。・・・

道なりに回り込むと、藤沢市役所に。そこで、小休止。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その4。国道1号線先で「藤沢・大和自転車道」と分かれる。白旗。遊行寺橋 。藤沢宿。(「境川」を河口まで。)

2023-06-14 20:21:25 | 境川

左手(対岸)からけっこうな水量の落とし口(樋門)。

       「西部水再生センター(横浜市戸塚区)」からの流れ。

高台の住宅地(藤沢市)。

国道1号線沿いの建物が見えてきます。

両岸にはアジサイ。

大清水境川アジサイロード。

ポケットパークで小休止。

                  対岸は、「神奈川県立藤沢清流高等学校」。

「藤沢・大和自転車道」案内図。

この先、国道1号線のところで、境川から分かれ、「引地川」沿いになり、海岸に向かいます。

「境川大橋」(国道1号線)。

「境川歩き」は、そのまま境川沿い(右岸)を。

「境川 海から6.5㎞ 標高10.1m」。

この付近は、すっかり住宅地に。

(「今昔マップ」より) 赤い線が「国道1号線」。旧東海道はもう少し南に。

※白旗神社 社名は源氏の旗である白旗に因む。

 創立年代不詳。寒川神社勧請した寒川神社だったが、宝治3年(1249年)9月に源義経が合祀され白旗明神、白旗神社となった。近くに伝源義経公首洗井戸がある。腰越での首実検の後、境川に捨てられ流れ着いた義経の首がこの地に葬られたという伝説にまつわる。

水管橋にクロウ? (○)

堰。激しい流れに。

市街地に入り、護岸壁も頑丈に。

前方に朱塗りの橋が見えます。

遊行寺橋 (旧 大鋸橋)。

※遊行寺(ゆぎょうじ)

 時宗開祖の一遍上人より数えて4代目の呑海上人開山の時宗総本山です。藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名ですが、呑海上人が正中2年(1325)に廃寺を再建して遊行引退後の住まいとし、歴代の上人も遊行引退後に住むようになったので「遊行寺」と呼ばれるようになりました。現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造りになっています。また、菊の御門と三葉葵が刻まれています。延文元年(1356)の銘を持つ梵鐘は県指定重要文化財です。境内中央の大イチョウは市指定天然記念物になっています。昭和26年(1951)の日本観光地百選に選ばれました。

(この項、「」HPより)

お寺は、この橋の東北にあります。旧東海道歩きの時、遊行寺坂を下って立ち寄りました。

江戸日本橋から数えて6番目の宿場・「藤沢宿」に入ってきました。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その3。宇田川・「まさかりが淵」。横浜水道 境川水管橋。トマト・ハウス栽培。(「境川」を河口まで。)

2023-06-13 20:34:48 | 境川

畑が広がります。

ガクアジサイ。

色とりどりのアジサイ。

この付近から、川幅も狭く、左に、右に大きくカーブしていきます。

        自然保全地区。

「国道1号まで4.0㎞」。

「自転車道」らしく。

トマトハウス。販売所。

こちらは水田。

田畑が広がる。手前の畑は?

振り返る。

          遠くに横浜薬科大の「図書館」。

左手から宇田川が流入します。                 

 

宇田川は、泉区中田町付近に源を発し、ほぼ南西に流下、戸塚区俣野町で横浜と藤沢の市境となっている境川に合流しています。

かつて、宇田川は村岡川と呼ばれていました。村岡は地域の郷の名で、大正時代に川下に堤を設けた宇田氏の功績を讃えて、宇田川名が生まれました。
昭和45年度から都市小河川改修事業(現在は都市基盤河川改修事業に移行。)により改修が始められ、計画改修延長は3.52kmとなっています。

流域に「まさかりが淵」があります。

※まさかりが淵

まさかりが淵

戸塚区汲沢町にある滝で、市民の森の、名称ともなっています。この滝にはきこりの彦六と美しい娘との民話が伝えられ、昭和62年度に民話の公園が完成。滝の保全と合わせて、周辺が整備されました。

「きこりの彦六が木を切っている最中に、まさかりを誤って淵に落としてしまった。すると滝の主の美しい女性が現れ、彦六を滝の庭の方に招いた。彦六は数日滝の庭で女性と過ごす。女性と別れるとき絶対にこのことは他言しないと約束する。しかし女性と別れ、家に帰ってみると、家のものは自分の三回忌を行っていた。驚いた皆に、彦六は約束を破り滝の話をしてしまった。すると彦六はその場で死んでしまった。それからこの淵をまさかりが淵と呼ぶようになったと言う。」(まさかりが淵の民話)

(この項、「」HPより)

・・・先に進みます。 

前方の左から右へ、直線の橋が架かっています。はたして何? 

「横浜水道 境川水管橋」。

    

    相模川・寒川取水口から横浜市戸塚区の小雀浄水場まで約12.4Kmの導水路の一部。

小雀浄水場は、神奈川県の中央を流れる相模川を水源としています。現在の浄水処理能力は1日当たり1,009,200m3(横浜スタジアム約3杯分)になっています。浄水処理された水は,横浜市の港南区、旭区、金沢区、港北区、戸塚区、栄区、泉区など南部方面を中心に給水しているほか、横須賀市にも給水しています。横浜市全体の約3分の1、横須賀市全体の約2分1を受け持っています。

(この項、「」HPより)

  

横浜市(小雀浄水場)方向。               藤沢市方向。

両岸に広がる丘陵地帯をトンネルで抜け、引地川、境川橋梁で越え、小雀浄水場へ。

振り返る。遠くに横浜薬科大の図書館。

ハウス栽培が目立ちます。

この道路は、農道にもなっていて、農作業車通行可。

コメント (1)
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