おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線「野田市駅」~「川間駅」。その3。関宿滑空場。境大橋。日光東往還。関宿城博物館。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-25 19:54:29 | 利根川を歩く

                 

少し空が明るくなってきました。この分では雨に降られずに「関宿城」までたどり着けるか。

「海から115㎞」。

中洲のような砂地が目立ちます。

グライダーの姿(↓)

           方角からみて、江戸川河川敷にある「関宿滑空場」を飛び立ったようです。

空を飛ぶことが好きな愛好家が操縦するグライダーが飛んでいます。昭和45年(1970年)に運用を始めたわが国で面積が最大の公共用滑空場です。草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。昭和63年(1988年)には「房総の魅力500選」にも選ばれています。2棟の格納庫に加え80人が宿泊できる施設があります。(「NPO法人関宿滑空場」HPより)

関宿の街並み。

     

「海から118㎞」。

        遠くに「関宿城博物館」が見えてきます。

「海から119㎞」。

左手遠くに「関宿城博物館」の天守閣。

       

境大橋。「海から120㎞」。

日光脇街道上の茨城県西地区と千葉県北西部を結ぶ重要な橋の1つで、橋長569.9m、幅員7mの連続プレートガーダー橋である。 1964年昭和39年)2月12日有料橋として供用開始1977年(昭和52年)10月20日無料開放されると同時に、橋の管理は茨城県知事が行っている。すぐ下流側には1973年(昭和48年)に完成の側道橋(境大橋歩道橋)がある。境町側の橋詰には国道354号と接続する変形交差点や道の駅さかい、さかいショッピングモール、温泉施設がある。野田市側には、関宿城を再現した千葉県立関宿城博物館や、利根川の江戸川ではなく銚子側に誘導し、江戸水害防止や水運の便を図った堤防棒出し跡がある。本橋の混雑緩和のため1990年平成2年)、下流側に下総利根大橋が建設された。

(この項、「Wikipedia」より)

※「日光脇街道」=「日光東往還」「日光東街道」

歴史
1616年に徳川家康が死去し日光東照宮へ埋葬された。その日光へ、歴代将軍が参拝を行うために使われた日光街道の脇街道として整備された道。別名を関宿道、多功道、久世街道、結城街道とも言われ、実際には御社参のほかに、参勤交代の大名通行路や物資の輸送など庶民の往来も多くあったよう。また、俳人小林一茶が旅した道としても有名である。
野田市役所入り口脇の案内板によると、『水戸街道(国道6号線)向小金付近を起点に北上、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城など10の宿を経て雀宮(栃木県宇都宮市)で日光街道と合流する。17里14町(約70キロkm)の道のり…』とあり、現在、JR常磐線南柏駅西口からほど近い水戸街道と県道柏・流山線との交差点が日光東往還の起点になっており、信号機には「旧日光街道入口」の名が付されている。
宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10ヶ所設けられ、街道には一里塚が設けられていた。

(「」HPより)

この街道も歩いてみたい街道の一つです。

これまで「日光街道(道中)」「日光例幣使街道・壬生道」「日光御成街道」「日光千人同心街道」と「日光」に関わる街道を歩いていますので、この街道が残りの一つ?

ここまで来て、「まめバス」の「関宿城博物館」の出発時間にぎりぎり間に合うかどうか、になってしまいました。写真を撮ったり、周囲を眺めたりする時間もなさそう。

橋のたもとから、お城に向かって一直線。

立入禁止の立て札も無視し、一枚も写真を撮らず、必死で城の崖を登り、出発1分前に何とか間に合いました。

次回、関宿城博物館を見学することに。疲れました!

土手から振り向いてパチリ。

この付近の今昔。

                     

1880年代のようす。「日光東往還」沿いに宿場町が形成されている。対岸には渡し舟で渡った。

中央に城の印がある。利根川から「逆川」が流れ、「江戸川」(右)と「権現堂川」(左)に分岐している。

     

2010年代のようす。「関宿城博物館」が上方に。河川整備により、権現堂川は江戸川・利根川とは分断されている。

利根川に架かる橋が「境大橋」。

権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
 江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
 その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
 ・・・
(以上、「」HPより)


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