おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

槇の実。コスモス。長屋門。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)。その3。

2020-09-30 20:11:28 | 鮮魚街道

               のどかな田園地帯が広がります。

路傍にヒガンバナ。

大きな家屋敷が目立つ。

この地域にも「槇」のつらなり。

よく見ると、実がなっています。こけしのような格好をして、赤紫の部分が食べられるそうです。

      

子供頃、実食したことのある家人(房総半島の出身)によると、さらっとした甘さだそうです。おやつが無かった頃、子供達のおやつがわりになった、とか。また人形、独楽、やじろべえ、おはじきなどにも・・・。昭和30年代の話しですが。

印西市のマンホール。市の花「コスモス」のデザイン。

屋敷林で囲まれたおうちが多い。

市の花「コスモス」。秋らしいのどかな道筋が続く。

刈り入れがまだの田んぼ。

槇。

 街道筋にある元寺院の跡らしい集会所。

静かな農道。

集落の終わり近くにある豪壮な長屋門のあるおうち。

脇の道から。

右手奥には、広大な田んぼが見渡す限り続いています。

        

ブルーベリー農家。                                                

「発作貝ノ花」。

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若山牧水。手賀沼干拓事業。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)。その2。

2020-09-29 20:18:52 | 鮮魚街道

                    右手に畑。家庭菜園なのか、手入れをする方が何人か。

広い通りの向こうに、「川の停車場」。

ここで、失敗! そのまま通りを突っ切って行けばいいのでしたが、右折し、橋を渡ってしまいます。橋の名を確認せずに、さらに先の「弁天川(弁天掘)」の橋を渡って気づきました。しかたがないので、そのまま弁天川沿いに本来渡るべきだった「関枠橋」の方向へ進みます。

                      

→が「関枠橋」。○の橋を渡ってしまい、「弁天川」沿いに戻ることにします(―)。釣り人がたくさん。 

「手賀沼」からの流れ「手賀川」。

              

向こうに見えるのが「発作(ほっさく)新田」集落。

橋の手前に「若山牧水歌碑」。

草むらに隠れ、立入禁止になっています。 

はるけくてえわかざりけり沼の上や近づき来る鷺にしありけり

 大正14年(1925年)8月21日、若山牧水は木下町(現:印西市木下)の銚子屋旅館に泊まっている。
 この歌は、大正14年8月22日歌人若山牧水御夫妻一行が「創作社」社友で当地歌人腰川一麿氏の案内で愛弟子鈴木菱花(大森)の墓参のあと美しかった手賀沼で舟遊びをした時に詠んだものです。第15歌集「黒松」にこのときの歌16首が収載されています。なお、この歌は牧水揮毫のものが当地に残されていますが一部欠如があるため行書体で刻字いたしました。
 手賀沼水質浄化運動のシンボルとなることを願って、船出したゆかりの地にこれを建立します。
平成12年8月22日                        
若山牧水来郷記念歌碑建立委員会

せっかくの歌碑なのに、このままでは残念!

関枠橋」。

    「手賀沼」方向。 

橋から右手に入る道が旧道。 

       「手賀川」方向を振り返る。

右手に「海野屋作兵衛の頌徳碑」。

海野屋作兵衛は、江戸時代初の本格的干拓「寛文期の干拓」に関わった人。開発は思うように進まず、当初の17人の仲間のうち、海野屋作兵衛以外はみな撤退した、とのことです。もと江戸本小田原町の鮮魚商寛文11年(1671年下総手賀沼新田の開発を請け負い、17人の開発仲間の金主となり印旛郡に移住。手賀沼から印旛沼に至る約4kmの排水路の掘割工事を行い、発作新田などの約230haの新田を拓いた。

手賀沼干拓

手賀沼はかつては香取海の一部(手下浦)を構成していたが、利根川東遷工事などの影響によって江戸時代前期には周囲34km・面積10平方キロメートルの閉じられた沼となり、わずかに布佐大森の間にあった小さな水路を通じて利根川に通じているのみであった。寛永13年(1636年)に弁天堀と呼ばれる新たな水路が設置された。明暦元年(1655年)には、万屋治右衛門を中心とする江戸の町人から最初の干拓計画が江戸幕府に提出されて開始をされたが、本格的な工事は寛文11年(1671年)に海野屋作兵衛らによるもの以後である。海野屋らは手賀沼の水を印旛沼に流すために7間の幅の水路を2本(長さ2298間・1566間)設置、その結果翌年には新田230町歩を得て天和2年(1682年)には幕府による検地も実施され、畑地も含めて約300町歩が計上された。だが、度々の洪水によって新田は破壊された。

享保12年(1727年)、幕府勘定方井沢為永(弥惣兵衛)・江戸町人高田友清(茂右衛門)らによって再工事が開始され、沼の中央部に千間堤を築いて沼を上下に区分し、東側の下沼の干拓に成功して享保15年(1730年)の検地で39か村分1500石を得たが、元文3年(1738年)の利根川の洪水で千間堤が崩壊したために新田は壊滅した。井沢は再度の干拓を試みて延享2年(1745年)に完成するが、再び洪水に襲われた。

天明5年(1785年)に当時の老中である田沼意次によって印旛沼干拓と並行して行うことが決定され、翌年完成したが、同年の洪水で堤防などが流された。それでも、寛政6年(1794年)の検地では2600石を得ている。

本格的な干拓工事が再開されたのは、昭和21年(1946年)のことであり、22年の歳月をかけて約500haの水田を開かれるとともに、面積は3.7平方キロメートルまで縮小して東半部分が消滅するなど形も大きく変わった。だが、その間に周辺の宅地化が進展し、生活排水の大量流入によって沼の水質は急激に悪化することになった。・・・

(この項、「Wikipedia」より)

この地域は干拓と洪水の繰り返しで、永年、水田干拓は容易でなかったようです。また、以前、「手賀沼」は「汚い沼 全国ワースト1」という不名誉な記録が何年も続いていましたが、最近は県や近隣の市政による水質改善の取り組みで、浄化が進んでいます。

                      

1880年代のようす。沼沿いの集落が「発作(ほっさく)村」。  

                       

2010年代のようす。水田が大きく広がっています。山裾を通る道は「木下街道」。「鮮魚街道」はその北側、水田の中を通る道。右上の橋が「関枠橋」。           

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観音堂。利根川。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)。その1。

2020-09-28 20:57:37 | 鮮魚街道

                     「海から76キロ」。河口にある銚子港から76㎞とも。

 久々の街道歩き。今回は、「なま(鮮魚)街道」。布佐「利根川」べりから松戸「江戸川」べりまで。

現在示されている地図ですと、布佐の「利根川」上陸地点からすべて陸路をたどったようになっていますが、以下の記事のように、「手賀沼」を経由したルートも紹介されています。現在と異なり、手賀沼が大きく広がっていた当時はそういうルートもあったようです。現在、手賀沼周辺は開拓によって広大な田んぼになっています。

「なま(鮮魚)街道」は、銚子沖で獲れた海産物を陸路江戸へ運ぶための交通路で、明治の中頃まで盛んに使われていました。そのルートは、銚子から船で利根川をさかのぼり、布佐(我孫子市)で陸揚げされ、発作(印西市)を経て、手賀沼を船で船戸(白井市)に入り、富塚(白井市)から藤ヶ谷台町を通り、金ヶ作、日暮、松戸新田、陣ヶ前(以上松戸市)を経由し、松戸の河岸から江戸川を船で下って江戸の魚河岸に着きます。藤ヶ谷台町は木下・松戸間の中間地点です。

当時のようす。

                      1880年代のようす。手賀沼が広がっている。

                     2010年代のようす。↓が「船戸」付近。「下手賀沼」。

 

           

「利根川」上流。木下(きおろし)方向。

       

そこから土手下を見る。「観音堂」が眼下に。

「馬頭観音堂」。

「なま(鮮魚)街道」解説板。

(注:図は下が北方向。順路は上=南西に向かって進む。)

「馬頭観音堂」は、網代場の所にありました。観音堂は、駄送馬慰霊のため問屋・馬主が建立しました。

鮮魚(なま)街道・網代場・布佐河岸跡

『利根川図誌』によりその味利根川-と賞された布川鮭の網場。網代場はやがて利根水運の中継地ともなり、布佐河岸ができた。江戸時代、銚子や九十九里方面から運ばれる鮮魚をここで荷揚げし、一刻も早く日本橋市場に出すため松戸河岸まで馬で陸送する鮮魚(なま)街道の起点となった。盛時、1日4干籠の鮮魚を130~150頭の馬で運び、七里半の街道には馬子唄も流れたという。古い街道筋に見かける石造りの馬頭観音が、往時の繁栄をしのばせる。

(この項、「」HPより)

もともと急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となりました。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えました。

                                      

2010年代のようす。                          1880年代のようす。

現在は、網代場もすっかり住宅地になってしまい、「観音堂」だけが唯一面影を宿すのみ。

さて松戸に向けて出発です。

この先は線路で中断。左折して進む。

右左折ながら、踏切へ。

成田線。「芦立踏切」。

布佐駅方向。単線です。

木下駅方向。「手賀川」橋脚。 

注:「鮮魚」の「せん」は、「魚」を三つ重ねたもの「鱻」が本字。                            

            

 

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その9。館山夕日桟橋。館山駅。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-07 20:55:17 | 房総往還

                      「館山夕日桟橋」。

                  

     

この先は立入禁止。

振り返る。

穏やかな海。

「海中観光船」。

      

こんな波静かな湾内もひとたび荒れ狂うと大惨事に。去年の台風では南房総一帯は甚大な被害に見舞われました。

7日。昨日、今日と超大型の「台風10号」によって大荒れの九州地方。大きな被害も出ているようです。お見舞い申し上げます。

さて、レンタサイクルの返却時間も近づいてきたので、館山駅に戻ります。

「夕映え通り」。

館山駅西口。南国風の駅舎。

東口に戻ります。途中にあったお店。「波奈館山総本店」。

 (「」HPより)

駅舎からの「夕映え通り」。

今回で、「房総往還(西)」歩きを終了。コロナ自粛がなければ、もっと早々と終了していたはずですが。

それでも、房総の海と山のすばらしさのもと、木更津、富津岬、東京湾フェリー、海水浴に来たことがある懐かしい保田、岩井、さらに館山など「内房線」沿いの、けっこう変化に富んだ歩きでした。さて、次は? 

「房総往還東街道」(「外房線」、「国道128号線」)は浜野から茂原を通り、上総一ノ宮、勝浦、鴨川など外房海岸沿いに館山まで。約130㎞。茂原までは内陸部の歩き。・・・交通手段などじっくり検討することに。

千葉にはまだ古道(街道)があるようなので、そこを歩きますか?

 

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その8。海上自衛隊。館山港。渚の駅たてやま。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-04 18:56:39 | 房総往還

                    「館山港」。

そこに行く手前、左手に大きく広がるのが「海上自衛隊館山航空基地」。 

前身は館山海軍航空隊

館山市にある自衛隊基地。正式名称は「海上自衛隊館山航空基地」といいます。そもそもここに自衛隊基地が置かれているのは、館山の地理的条件と大いに関係があります。
館山は房総半島の先端に位置していることから、西の三浦半島と並んで東京湾の、つまりは首都防衛の要となる土地です。古いところでは江戸時代末期、ロシアのラックスマンが松前に来航して以来、国防の重要性に気付いた幕府は東京湾に6つのお台場を築きます。そのうちのひとつが館山の洲崎(すのさき)であり、のちのペリー来航によっていよいよ警戒を強めた幕府は7門の砲台を設置。海上の監視が強められることになりました。

明治へと時代が移ると海防の重要性はさらに高まります。第一次世界大戦を経て、軍事力増強に力を注ぐ日本は館山に航空基地の建設を検討します。そこで白羽の矢が立てられたのが現在館山航空基地のある場所でした。
大房岬(たいぶさみさき)と洲崎に抱え込まれるような形をした館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られます。外洋にも近く、しかも水上機の離着陸にも適したこの場所はまさに航空基地建設にうってつけだったようです。現在基地のある場所は以前は海だったのですが、1923年の関東大震災で地盤が隆起したことによって遠浅の海岸になっていました。そこで、沖合にあった高ノ島(現在の鷹ノ島)を抱き込むような形で埋め立て、基地を建設したのです。そして昭和5年(1930)、館山海軍航空隊は発足します。

航空隊はこれから第2次世界大戦終結まで、パイロットの育成や航空機の開発などを担当。多くの軍人がここから戦地へと出撃していったのです。

(この項「なぜ館山に自衛隊があるの? | 南房総 花海街道 hanaumikaidou.com › archives」HPより)

(「今昔マップ」より)

海上自衛隊最大のヘリコプター専用基地だそうです。

岸壁には釣り人がたくさん。

   館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られる。

港に沿って北上すると、大きな施設が見えてきます。

渚の駅たてやま・渚の博物館」。

平成27年12月25日に、「館山ふるさと大使」である「さかなクン」が『“渚の駅”たてやま』の名誉駅長に就任し、これに伴いさかなクンギャラリーを渚の博物館内 1階に開設しました。

館山市内観光案内図。

焼玉エンジン」。焼玉機関(エンジン)搭載の小型動力船は、リズミカルな独特の爆音を立てて航行することから「ポンポン船」と呼ばれ、漁港や河川ののどかな風物詩として親しまれていたが、ディーゼルエンジンの普及と共に1960年代までには廃れてしまいました。

コロナ禍の下なので、ちょっと寂しい館内。

             

館山おさかな大使のさかなクンから館山市民や全国の館山ファンに向けてのメッセージビデオより。

      (「YouTube」より)
湾内が一望できるデッキ、さらに「館山夕日桟橋」が人気です。

渚の駅たてやまに隣接する、館山夕日桟橋。桟橋形式としては日本最長で海岸通りから500mの長さを誇る。桟橋には小型の船舶が係留できる物揚場の他、大型客船の接岸も年に数回あり、海中観光船が定期便で出港している。

桟橋形式として日本最長の桟橋。

 

(この項、「」HPより)

「展望デッキ」からの眺め。右手に「夕日桟橋」。

        

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その7。赤門。宮城。掩体壕。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-03 19:22:42 | 房総往還

                           「館山城模擬天守」。

1580年(天正8年)、里見義頼によって館山城が築城された。天正19年6月から11月までの間にかけて、里見義康岡本城から館山城へ移転をしてくる[2]。その後、1614年(慶長19年)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなった。この際に館山城も廃城となり、破却された。後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。

現在建つ天守は、後に丸岡城を模して1982年昭和57年)に再建された模擬天守であり、当時の天守の概要や外観については不明である。この天守は現在、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用され、周辺は城山公園となっている。

(「丸岡城」=福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城

(この項、写真も含めて「Wikipedia」による。)

鈴木家住宅

                   

 館山市沼は江戸時代以降,国内沿岸の物資輸送を行う船が立ち寄る湊町として栄えました。そのため沼には、盛岡藩の船宿がありました。

 鈴木家は,江戸時代に屋号を「南部屋」といい,盛岡藩の常宿を務めた家でした。明治21(1888)年に旅籠をやめて,医院を始めますが,赤い門柱のある医院ということから,現在も「赤門」の名で,市民に親しまれています。

 鈴木家住宅は,横浜の建築家が設計し,関東大震災直後の大正13(1924)年に完成しました。この時,蔵と表門も同時に完成しています。

 昭和5(1930)年,近くに館山海軍航空隊が設置されましたが,昭和20年の終戦間際には,海軍将校の社交の場などとしても使用されたことがあるといいます。

 門は,目地にモルタルが使われ,石が積み上げられた構造です。建築当初は,鉄の扉が付いていましたが,第二次大戦中に供出されてしまい,現在,取り付け金具が残るのみです。

 主屋は和洋折衷様式の木造2階一部平屋建てで,屋根は,2階部分がスレート(石盤)葺,平屋部分が鉄板葺です。正面には,ポーチが設けられています。1階中央に中廊下式のホールがあり,和風の客間・居間・仏間,台所,洋風の食堂・居間・寝室などが配置されています。2階はすべて洋風の仕上げで,応接間・寝室があります。洋風部分の,床のコルクタイルや壁紙などには,建築当時の内装がよく残されています。

 蔵は,梁など米松材が用いられ,外部はモルタル洗い出しの仕上げになっています。

※一般公開はしていませんので,御了承ください。

赤門。

宮城。ここが「房総往還」の終点とされる。

「館山湾」方向を望む。

さて、一区切りがついたところで、次はどこに? 少し先の道を左折、「ブロワ珈琲焙煎所」の前の住宅地に、

掩体壕(えんたいごう)」。

■ 館山海軍航空隊掩体壕(えんたいごう)ってなあに?
 館山海軍航空隊は、海軍5番目の航空隊(昭和20(1945)年の終戦の時には、54の海軍航空隊があった)として、昭和5(1930)年にできました。
 そのあと、現在の館山市沼から香にかけての地区には、さきほど見学した射撃場跡や、飛行機の部品や弾薬、食料、燃料などを保管するための倉庫や、この「掩体壕」などさまざまな建物がつくられました。
 昭和14(1939)年の記録によると、館山海軍航空隊には、97式艦上攻撃機を中心に124機の飛行機がありました。この時の、館山海軍航空隊の役割は、中国で行われていた戦争に飛行機を送ることでした。
しかし昭和16(1941)年に、日本とアメリカが戦争をはじめると、館山海軍航空隊は、東京、東京湾、太平洋岸を守るための基地として使われました。戦争が終ったあとに、日本軍からアメリカ軍に渡された記録によると、終戦の時には、零戦、紫電など41機の飛行機しか残っていませんでした。
この「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められています。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけです。

(この項、「」HPより)

「97式艦上攻撃機」(「」より)

誘導路跡。

この付近には、「赤山地下壕跡」があります。見学時間がなくて、省略。戻る途中に、地下壕の一部が?

           

元の道に戻り、海岸を目指します。

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内房線「富浦駅」~「館山駅」。その6。「べにや」。館山市。館山城。(「房総往還」をゆく。第10日目。)

2020-09-02 19:40:45 | 房総往還

                        「べにや」。

館山市の長須賀交差点前の金物店「紅屋商店」の店舗と主屋は平成19年7月31日に国登録有形文化財(建造物)に指定されました。
【国登録】原簿記載:平成19年7月31日 官報告示:平成19年8月13日
【登録番号】店舗:12-0071号 主屋:12-0072号
【年代】店舗:大正13年(1924年) 主屋:昭和元年(1926年) 
  
 館山市長須賀は、境川と汐入川に挟まれ、この二つの川と館山湾が形成した砂州に町場が形成されています。江戸時代から、館山に向かう房総往還に沿って、北側の新宿から続く町並みがありました。
 明治11年(1878年)、新井に館山桟橋が整備され、東京と館山が汽船で結ばれるようになると、千倉や白浜方面からの荷が集まるようになり、桟橋に近い館山下町と長須賀の古い町場との間の通り沿いに、商店が立ち並ぶようになりました。
金物を扱う紅屋商店は、現在の南房総市和田町にありましたが、明治26年(1893年)に現在の地である館山市長須賀に移転、当時使用していた建物を和田から移築し、長須賀で開業しました。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で店舗、住宅ともに倒壊しました。
 いち早く復興し、商売再開のために店舗として活用されたのが、地震に耐えて残った蔵です。現在の紅屋商店店舗は、近くにあった店蔵を移築したものです。店舗2階に残る墨書から、大正13年3月に作業が完了したことがわかります。
震災後、長須賀一帯には、蔵を活用した店舗が数件あったといいますが、現存するのは紅屋商店店舗のみです。1・2階とも漆喰塗りの防火扉が設置され、震災復興期の店舗建築の特徴をあらわしています。
 主屋は店舗側面(東側)に接続し、1階は8畳間の仏間、2階は床・棚・付書院の8畳の座敷と8畳の次の間からなります。
震災に耐え、倒壊をまぬがれた店蔵を活用した建造物として、大変貴重なものです。また、ほぼ同時に建てられた主屋は、店舗との繋がりをもち、当時の住まいの形態を今に伝えています。
※主屋の一般公開はしていませんので、ご了承ください。
<平成24年3月 館山市教育委員会>

(この項、「」HPより)

「潮留橋」から斜め後方の道を行くと、「べにや」があります。この通りには、他にも古い建物があります。

                  

1880年代のようす。←が旧道。東側に街並み。

2010年代のようす。○のところに「べにや」。

かつての館山の街並みは「潮留橋」から西側に「館山城」下町として広がっていたようです。新宿町から長須賀は商業(海運)の町として賑わっていました。

館山市とは?

里見氏と館山

戦国時代には安房統一を果たして安房国から勃興した里見氏は上総国に勢力を広げ、後北条氏と関東の覇権をめぐって争った。その後、上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。館山城の築城年代については諸説あるが、岡本城(南房総市)を居城としていた里見義頼1580年天正8年)頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ里見義康1588年(天正16年)から1590年(天正18年)にかけて改修したとされ、9万2000石の所領を治め、現在の館山地区に城下町が形成された(館山町も参照)。商人の船は新井浦(館山湾)へ入船することを義務づける。このころもっとも繁栄していたのは館山地区であり、市の名前も中心部の「館山」を採用している。なお、名前の由来は「城の山」=「館の山」からきている。1590年の小田原征伐小田原城攻め)以後は、上総国は没収されて安房一国が里見氏の領地となった

関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の1614年慶長19年)に里見忠義大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後の江戸時代には市域に館山藩北条藩船形藩が設置されていた(ただし、設置されていた時期にはずれがあり、廃藩置県時に存在していたのは館山藩のみである)。

大坂の陣で活躍した木更津の水夫への報奨として、江戸木更津間での渡船営業権などの特権が与えられたことにより、1615年(元和1年)新井・楠見(現在の館山市)においても船乗り30人が、大坂の陣にて活躍される。その後、木更津が上総国・安房国の海上輸送の玄関口として繁栄し、海上輸送が発達した江戸時代に主に東京湾内の輸送に五大力船(長さ31尺(約9.4メートル)から65尺(約19.7メートル)ほどの小型廻船)が活躍し、上総国・下総国同様、安房国においても海辺で穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。鋸南町の保田海岸を描いた歌川広重の浮世絵である『富士三十六景』の「房州保田ノ海岸」において、鋸山の下に位置する磯伝い道は館山港まで続いていたとされる[9]。当時、安房国の中心であった館山方面に至る磯伝い道は絶景の道ではあったが、交通の難所としても知られていた。海岸の崖沿いを避けたトンネルの多い道路は、明治中期になって整備されている。館山藩の廃藩後、館山城の受け取りの任にあたった佐貫藩内藤政長がそのまま安房一国の管理に当たった。1618年(元和4年)に幕府代官の手によって再検地が行われた安房国は、以後天領旗本領、小藩、他国の藩の飛び地領に細分化され、安房一国を治めていた旧館山藩の規模を継承する藩は現れなかった。

・・・

1868年明治元年)の戊辰戦争では、稲葉正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲った上で新政府に恭順しようとしたが、江戸城開城の当日、榎本武揚率いる旧幕府海軍(榎本艦隊)が新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。当時の館山湾は日本有数の大艦隊が碇泊する港であったため、館山の地にて兵力を整え、軍艦8隻で函館に向かう準備を整える(後の箱館戦争)。この榎本艦隊には、若年寄永井尚志陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船していた。陸からは上総請西藩などの旧幕府方がそれぞれ侵攻してくるなど、館山藩は苦難を極めたがこれを乗り切り、新政府に恭順した。

廃藩置県後の交通整備

稲葉正善は翌年の版籍奉還で藩知事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で館山藩は廃されて館山県となり県知事となった。同年11月14日、館山県は廃藩置県によって木更津県に編入され、1874年(明治6年)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。1878年(明治11年)、北条村に安房郡役所が設置されてからは、北条地区が安房地域の政治・経済・文化の中心地となった。館山の辰野安五郎が安全社をおこし、東京(霊巖島)と館山間に汽船を就航させる計画を立てる。それに伴い、後に船形那古北条・館山に汽船の発着の桟橋が設置の整備が行われる。1881年(明治14年)、第一回安房共立汽船会社が設立され、安全社との競争をはじめ、その後、大倉喜八郎渋沢栄一など財界人が株主になり、豊津村に日本水産会社を設立。1889年(明治22年)、11月より東京湾汽船会社(現在の東海汽船株式会社)が東京 - 館山航路を開設した。館山港は魚荷が多く、創業当初のドル箱航路だった。これらの館山航路整備により、館山港は房総半島への航路の拠点としての役割を担う。1919年(大正8年)に安房北条駅(現在の館山駅)が開設されると、交通の要所として、ますます北条地区に中心機能が移って行った。

軍都から港湾都市へ

1930年昭和5年)ごろ、館山航空基地が完成し、軍専用港を施設する(東防波堤)。館山海軍航空隊、州埼航空隊、海軍砲術学校などの設置により、第2次世界大戦中は軍都として発展した。館山湾には様々な軍艦潜水艦などが見られるようになる。大房岬と西岬地区に東京湾要塞の砲台が構築され、さらに洲ノ崎海軍航空隊が笠名・大賀に開隊するなど、軍事整備が次々と行われた。

館山は実戦の態勢となり、陸上機隊・水上機隊の両方を備える中枢基地となる。また、一時中攻隊をおいて外戦部隊の一翼を担うが、木更津基地の完成と共に、中攻隊はそちらへ移ったことにより、以後館山航空基地は内戦部隊となる。1945年(昭和20年)、那古地区川崎に空襲があり、館山港からアメリカ軍が上陸し、終戦を迎える。

戦後、カツオ漁などの餌イワシを供給する水産基地、北条海岸などの海水浴を中心とする観光都市へと移行した。1948年(昭和23年)、館山港を地方港湾に指定し、1949年(昭和24年)、東海汽船が戦争で中断していた館山航路を復活した。1953年(昭和28年)、海上自衛隊第21航空群が設立され、同年の3月に港湾区域の認可を受け、千葉県が港湾管理者となり館山港として開港する。その後、岸壁などが整備され主に資材を扱う工業港へと変貌していく。1958年(昭和33年)、南房総国定公園に一部指定され、館山港から船形魚港間の海岸道路が完成した。

2000年(平成5年)5月には、観光・レクリエーション分野での地域振興が期待されるとして、館山港が特定地域振興重要港湾に選定されており、港湾の北側に大型客船が寄港可能な館山港多目的観光桟橋(館山夕日桟橋)が整備され、2010年(平成22年)に供用開始となった。国土交通省千葉県・館山市共同で策定した「館山港港湾振興ビジョン」に基づき、「賑わいのある海辺づくり」を基本的な計画として「みなとまちづくり」を推進している。

(以上、「Wikipedia」参照)

なるほど! そこで、館山駅東口にあるレンタサイクルを借りて、ぐるっと館山市内を回ります。

     

「宮城」交差点を目指して進む。左手の高台に「館山城」。

      

コメント
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安倍晋三首相の退陣に寄せて。

2020-09-01 19:42:42 | 平和

この機会にかつての投稿を。

読書「大衆の反逆」(オルテガ・寺田和夫訳)中公クラシックス

2015-06-30 23:31:20 | 読書無限


 著者のホセ・オルテガ・イ・ガセーは、スペインの哲学者。1883~1955。
 1930年(昭和5年)に発表された「大衆の反逆」は、文明批評家としての彼の名を広く世界に印象づけました。大衆化社会という20世紀の病理をえぐり出し、その指摘が今なお、80年以上経った現在においても多くの先見性があることに驚きます。
 このかん、日本のみならずアメリカなど世界が「第二次世界大戦」を筆頭にさまざまな壊滅的状況を経験しながらも、未だその人類的教訓を生かしていない、むしろ、1945年以前に回帰しつつある状況(回帰させようとする動き、混乱)を目の当たりにする時に、あらためてこの書の持つ現代的な意義(予見性)をつかむことが必要であるかと思います。
 この文庫版は2002年に初版が発刊され、13年に8版となった書です。今回は、各所にちりばめられたオルテガの洞察的文言を拾い出しておこうと思います。
 
 われわれが解剖しようとする事実は、次の二つの問題にまとめることができる。第一、以前にはもっぱら少数派のためにとっておかれた人生の目録と、大綱において一致する目録を、今日の大衆はわがものとしている。第二、同時に大衆は、少数派に対して従順でなくなった。かれらに服従せず、そのあとについていかず、また尊敬せずに、かれらを押しのけ、かれらにとって変わった。(P18)
 
 「大衆の反逆」は、貴族(自らを選ばれた貴族だと考えている者達、大衆化社会に眉をひそめる人々)にとってはまさに溜飲を下げる書という一面がありました。日本でも三島由紀夫などは大いにこの書に触発され、日本の国家像の欺瞞性、大衆によって牛耳られている日本の現状(とりわけ自衛隊・軍隊のあり方)を直接行動によって変革しようとしたあげく、自刃します。
 今日、アベ自身も強烈なエリート意識の持ち主。祖父への尊敬とそれを批判する人間への許しがたい思い、これによって今の自らの政治生命を保っていると考えているようです。ですから、大衆組織である「組合」、特に「日教組」への反感は、並ではありません。
 大衆に迎合せず、君らと違って国家100年の計を立てている私を尊敬しろ! 服従しろ! 従順になれ! このような意識の持ち主でしかないような気がします。底の浅いエリート観に酔っている、そしてお追従する連中の存在。  
 オルテガの語る真の貴族とはまったく異質なもので、浅い世界観・人生観でしかないことを自ら暴露しているようなものです。オルテガがいう「人生の目録」とはけっして「自己満足」というのではありません。「生の充実」ということであって、「本当の生の充実は満足や成就や到達にあるのではない。」(P31)
 のらりくらりと論点をぼかし、最後は数によって「決めるときには決める」。かつての「決められない政治」への強烈な皮肉ですが、そこから生まれるかれの選良意識はとてつもなく恐ろしい。

 自由主義とは、公権が万能であるにもかかわらず、公権自体を制限する政治的権力の原則であり、また、公権と同様に、つまり、最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように、公権の支配する国家のなかに、たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である。
・・・
 敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は―団結した多数のこの人間たちを見たとき、とてもそんなふうに見えないが―大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P91)

 アベ自身、「貴族」でも「エリート」でもありません。「選挙」という「大衆」の洗礼によって登場した「大衆」の一人にすぎません。だからこそ、公権力を握ったとたん、自分に反対するすべての者を「死ぬほど嫌っている」のです。

 《慢心した坊ちゃん》の時代
 以上のことを要約してみよう。私がここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史は、いまやはじめて、じっさいに凡庸な人間の決定にゆだねられているように見えるという新しい社会的事実である。
・・・
 今日、あらゆるところを歩きまわり、どこででもその精神の野蛮性を押しつけているこの人物は、まさに人類の歴史に現れた甘やかされた子供である。甘やかされた子供は、遺産を相続する以外に能のない相続人である。
・・・
 生まれたときに突然、なぜだかわからないが、自分が富と特権のなかに据えられているのを見いだす。それらは、かれに由来したものでないから、本来のかれとはなんの関係もない。それは、他の人間、他の生物、つまりかれの祖先の残した巨大な甲冑である。しかも、かれは相続者として生きなければならない、つまり、他の生に属する甲冑を鎧わなくてはならない。そこで、どういうことになるだろうか。世襲《貴族》は、かれの生を生きるのか、それとも、初代の傑物の生を生きるのか。そのどちらでもない。かれは、他人を演ずる運命、したがって他人でもなく、かれ自身でもない運命をしょわされている。かれの生は否応なく、真実性を失い、他の生を演ずる生、あるいは他の生に似せた生となる。
・・・
 世襲《貴族》は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。その結果生まれるのは、古い貴族の家柄に特有の、類のない愚鈍である。この悲劇的な内的機構―あらゆる世襲貴族をどうしようもない退化に導く悲劇的な内的機構―を記述した人は、厳密な意味ではひとりもいない。(P121)   

 ところで、《慢心した坊ちゃん》の特徴は、ある種のことをしてはならないことを《知り》ながら、しかも、知っているがゆえに、その行動とことばで、反対の確信をもっているようなふりをすることにある。・・・ふまじめと冗談、これが大衆的人間の生の主調音である。かれらがなにかをするときには、ちょうど《箱入り息子》がいたずらをするのと同じように、自分の行ないは取り消しがきかないのだというまじめさが欠けている。(P127)

 アベをはじめ、坊っちゃん世襲議員によって牛耳られている国会に付ける薬はないのだろうか。

・・・・

 これは、5年前の投稿です。大叔父の記録を塗り替えると辞職するに違いない、と思っていた方は多かったのでは。小生もその一人。案の定、その通りの結末になったようです。28日。識者の中には退陣を想定した新聞社からの依頼に、事前に予定稿を用意したようです。

 本当に持病の悪化が理由なのだろうか。「1億5千万」を皮切りに、身辺に迫りつつある検察の手。それに抵抗(?)しつつ、時には圧力をかけてうやむやにし(握り潰し)、権力をほしいままにしてきた(これから先も)、安倍、麻生、二階、菅の「男たち」の新たな悪巧みの始まりではないか、と。

コメント (1)
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