おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧原田米店・松戸探検隊ひみつ堂。納屋川岸跡。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その6。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-29 19:36:08 | 鮮魚街道

                     「松戸宿」の提灯。

旧水戸街道(「流山街道」)を北上します。

右手に古民家。

 

以前来たときには、

松戸探検隊ひみつ堂」というのぼりがあって、観光案内を兼ねた休憩施設になっていました。現在は開いているような気配がありません。しかし、奥にはやはり古い建物が建っています。

古民家スタジオ 旧・原田米店とは

かつての宿場町「松戸宿」の一角、そして松戸駅前のマンション群のど真ん中に、まるで奇跡のように残っている古民家群です。400坪近い敷地に大小5つの建物が並ぶ物件です。今では道向かいに移転した「おこめのハラダ」さまから敷地全体をお借りしてMAD Cityが運営しています。
今では地域のランドマーク的な存在で、路面は築100年強の風格ある古商家になっており多くの通行人を集めるテナントになっています。その脇から入る庭はかなりの奥行きで裏庭まで続いており、やはり築100年強の古民家をはじめ、昭和期の一軒家やガレージなどがアーティストやクリエイターのスタジオとして活用されています(住居使用はできません)。

(この項「」HPより)

向かい側にある現在の「原田米店」。

この建物の裏手に「古民家スタジオ」が。

「西蓮寺」のところを左折します。「坂川」に架かる「堂の口」橋を越えると、「納屋川岸跡」になります。

 

右手に、かつての船問屋「青木源内」家。

青木源内家の復元された塀。

  

銚子の鮮魚は船で利根川をさかのぼり、布佐等より駄送され、ここから船で江戸(日本橋河岸)に運ばれました。江戸時代、松戸の主産業は船運であり、ここが重要な基地になっていました。

 

  

 

松戸の河岸は「源内」(青木家:納屋河岸)と「太兵衛」(梨本家:下河岸)の二軒の船問屋が中心となって発展しました。宝暦5年(1755)1~2月、布佐河岸源左衛門から納屋河岸源内あての鮮魚輸送量は<1月>897籠(約10t)、<2月>4509籠(約50t)という記録が残されています。※当時の「一駄(馬一頭に乗せる貨物)」は三十貫が限度で約110kg、鮮魚では10籠に相当。船一隻あたり鮮魚300籠に相当。

 松戸河岸を出た船は、江戸川~新川~小名木川を経て水路で直接日本橋の魚河岸に入りました。
 この経路は鉄道開通後も東京市内の鉄道網やトラック輸送が整備されるまでは活用され、常磐線からの貨物が松戸から東京市内まで水運で運ばれた時代もあったそうです。

※この解説では歴史的に「良庵河岸」という名称を用いましたが、現地では旧良庵河岸一帯から坂川までの地域も昔の河岸場も「納屋川岸」と総称しています。

○付近が、「納屋川岸」。

 

(この項「」https://sites.google.com/site/matsudosyuku/home/suiun-to-kawagishi より借用)

江戸川土手に上がってみます。

      

遠くにスカイツリー(↓)。夕暮れはさぞかし、すばらしいでしょう。

ジョギング、自転車、散歩とけっこう行き来しています。海から19.75㎞

土手下を望む。

1880年代のようす。○が青木家か?

2010年代のようす。○に青木家の塀が復活。対岸は、「水元公園」(葛飾区)。

ここから江戸川を下り、「新川」、「小名木川」を通り(その間、「中川」、「隅田川」を横断し)・・・、日本橋の魚市場へ。大変な距離です。

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川贈沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けにした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正12年の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市関係者が建立した記念碑があり、碑文には、上に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

 平成19年3月 中央区教育委員会

 背後にあるのは、竜宮城に因んだ「乙姫像」。

これで、「鮮魚街道」終了。後半は、市街地を歩くだけでしたが、松戸にはまだまだ旧跡があるようです。機会があったら再訪したいと思います。

次回は、「鮮魚街道」つながりで、「木下街道(きおろしかいどう)」を行徳から木下まで歩こうと思います。

 

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「千葉大園芸学部」。戸定が丘歴史公園。水戸街道。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その5。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-28 20:30:29 | 鮮魚街道

                 「国道6号線」にぶつかります。

「千葉大園芸学部」の敷地内を進みます。

大学内に入らずにその敷地沿いに進むのが、「鮮魚街道」のようでした。

そのまま構内を進んでしまいます。

さらに、「戸定が丘歴史公園」脇に。

 

中には入りませんでしたが、紹介します。

敷地内に戸定邸や戸定歴史館があり、明治ロマンのある公園です。春には梅や大きなしだれ桜が、秋にはモミジなどが色づき、四季折々の草木が美しい公園です。

戸定邸は幕府最後の将軍 徳川慶喜の弟、徳川昭武が明治17年に別邸として建設し、後半生を過ごしました。昭和26年に市に寄贈され、平成3年に周囲の敷 地2.3ヘクタールが「戸定が丘歴史公園」として整備され一般公開されました。平成19年に「日本の歴史公園100選」に選ばれています。

(この項、「」HPより) 

                                                                          (「歴史的農業環境システム」より)上部が「戸定が丘歴史公園」、その南が「千葉大園芸学部」。「鮮魚街道」は、その縁を進み、跨線橋を渡る。

 

そのまま進み、跨線橋に(本来の道筋は少し南にある跨線橋を渡らなければなりませんでした)。

 

旧水戸街道に出て、右折します。

ここまでの旧道・水戸街道はかつて歩いています。そこでその時の写真などを。

  

「小山樋門(煉瓦橋)」。

「旧松戸宿本陣跡」。

松戸宿
 水戸街道千住宿から2つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市松戸・本町にあたる。
 江戸時代には江戸川に橋は架けられておらず、渡船となっていた。松戸側にも渡船場跡付近に天領を示す御料傍示杭が建ち(現在はその付近に石碑が立つ)、そこが松戸宿の江戸側の端となっていた。
 松戸宿近在の農家には江戸川対岸に農地を持ち、自家用船で川を往来する者もあった。
 松戸の宿場町は南北に約1キロほどの範囲に広がっていた。松戸はまた、物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。運河としても使われた坂川が市街地を横切って流れている。
江戸川に隣接した松戸宿は物資の中継地として大変賑わった宿場で、
 天保14年(1843)の水戸佐倉道宿村大概帳によると、本陣1、脇本陣1、旅籠28、家数436とある。

大きなお屋敷。

  

宿内を流れる「坂川」に架かっていた「春雨橋」のところにある「松戸宿 坂川の歴史」解説板」


 古くからここには水路があり、街道をよこぎっていた。橋は水戸石橋と呼ばれていたとつたえられている。
のちにかわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。
松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で街道の東側は田畑が広がっていた。
米が豊富な宿場では餅菓子や煎餅などを売る店が多かったと言われている。

「春雨橋」を過ぎた、その先、左に剣豪千葉周作の実父、浦山寿貞の墓と、周作の剣の師である浅利又七郎の供養碑がまつられている「宝光院」があります。

  

千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
 幕末の剣豪・千葉周作は文化6年(1809)15歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠右衛門(幸右衛門)は浦山寿貞と称してこの参道付近に開業します。また、幼児から剣術に長けていた周作が入門した浅利又七郎の道場が宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
 周作は又七郎の下で才能を開花、23歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
 修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの徒弟を輩出するに至りました。
 浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養費がまつられています。
 周作の父、浦山寿貞は天保2年(1831)に没、その墓所もこの境内にあります。
 「千葉周作修行之地」標柱の材木は旧松戸宿本陣の大黒柱です。

旧松戸宿解説板。
 松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数は450余りを数え、商いには28軒の旅籠をはじめ、鍛治屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結い、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞄屋等のあらゆる商売の店が軒を並べ、六歳市(6回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
 また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根・江戸川流域の水上輸送もありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚・藤ヶ谷(柏市)・金ヶ作(現常盤平)を経由して松戸河岸まで陸送し、ここから江戸へ送られました。
 銚子方面から江戸への陸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も利用され、鮮魚(「生」)街道と呼ばれました。

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「フィオリの丘」。美野里ハイタウン。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。番外編。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-27 21:17:18 | 鮮魚街道

            「美野里ハイタウン」時代の地図。団地になっています。(「今昔マップ」より)

開発前のようす。雑木林がなくなり、整地されている1970年代のようす。

解体前の写真。(「美野里ハイタウンNEWS」より)

和名ヶ谷地区は、もと葛飾郡に属し、1889年(明治22年)の町村制施行時には東葛飾郡八柱村であった。八柱村は1938年(昭和13年)、松戸町に編入。もともとこの地区は雑木林であった。1976年に美野里ハイタウンが建設された。美野里ハイタウンは1980年代後半に最盛期を迎えたが、1993年頃になると、空き部屋が目立つようになり、2004年に住民は立ち退かされた。

和名ヶ谷地区の人口は平成10年10月1日(984世帯・3,109人)から令和2年7月末日(2,571世帯・6,444人)までの22年で約2倍近くになっている。

(この項、「Wikipedia」参照)

傍線部にある「美野里ハイタウン」の跡地が現在の「フィオリの丘」一帯となってなっているようです(一部は、その後の開発地域を含む)。

上記の「1993年頃になると、空き部屋が目立つようになり、2004年に住民は立ち退かされた」というような言葉で一括りされない実態があったようです。ネットをみると、「美野里ハイタウンNEWS」、「美野里ハイタウン資料室」などでその経過、立ち退かざるを得なくなった住民の方々の思いを垣間見ることができました。

大地主が個人の敷地を開発し、社宅のようなかたちで団地がつくられたようですが。その会社が倒産し、負債を抱え、土地は、別会社の手に。三井生命、神戸製鋼、川崎製鉄、九州石油、三菱、東芝などの社宅が、次々と引き上げてしまう。そのあと新しい入居者が入らなかった部屋や棟もあり、徐々に空き部屋が増えていく。子ども会がなくなって定期的な掃除をしなくなり、また、大家さんによる樹木の剪定や雑草の刈り取りといったメンテナンス、ゴミ集積所の掃除などが行われなくなって、次第に団地の中は荒れていく。粗大ゴミの不法投棄も目立ち始める。建物は解体され、その後、現在のマンショや戸建て分譲住宅というかたちで再開発されたようです。

 

 

それから15年以上が経過。すっかり変貌した街並みになっています。

                          2010年代のようす。(「歴史的農業環境システム」より)

フィオリ (イタリア語: fiori)=「花」の複数形。

 

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新京成線路線図。「二十世紀」。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その4。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-26 18:53:02 | 鮮魚街道

                  県道に戻って先に進みます。

「セブンイレブン」の先を左の道へ。

                      

新京成線「みのり台」駅が右手に。「津田沼」に向かう電車。

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線。2010年代のようす。

ほぼ直線で歩く「鮮魚街道」にもかかわらず、「五香」駅で接し、さらに「八柱」、「みのり台」とたどることになったわけです。下図でも分かるようにくねくねと曲がった線路になっています。(移動距離に比して道程が長く、津田沼駅 - 松戸駅間は直線距離約16 kmに対し道程26.5 kmである。)

新京成線路線図」。

本路線大半の区間は旧日本陸軍鉄道連隊演習用に敷設した軌道敷(鉄道連隊演習線松戸線)であり、第二次世界大戦後の京成電鉄への払い下げを経て民間利用されているものである。(松戸駅 - 上本郷駅間は新たに建設された区間)

第二次世界大戦での日本の降伏後、鉄道連隊は解散した。鉄道連隊演習線のレールは西武鉄道に払い下げられたが、軌道敷はそのまま残されていたことから、西武鉄道と京成電鉄は早くからこれに着目していた。最終的に営業基盤を千葉県内に持つ京成電鉄が制し、1946年3月に軌道敷使用が認可された(正式な払下げは1955年)。京成電鉄は同年10月に子会社として新京成電鉄を設立した。予定通り1947年12月27日に新津田沼駅 - 薬園台駅間を軌間1067 mmで開業している。

演習線は規定の線路延長(45 km)を確保することと、様々な状況での路線敷設演習のために急曲線が多数介在する屈曲線形で、旅客線開業時に可能な限り直線化を図るも現在なお良好な線形でない。演00習線軌間は600 mmと極端に狭隘だったが京成電鉄払い下げ時に1067 mm(3フィート6インチ)へ改軌される。払い下げ以後、新津田沼側から延伸し、建設資金不足から一時期は常磐線松戸駅までの全通を諦めて初富駅 - 松戸駅間にバスを運行するも、三菱電機の支援で敷設工事を再開して松戸駅まで全通する。なお、松戸駅 - 上本郷駅間は旧軍用線ではなく、全くの新線であるため、台地を切り崩す工事が行われた。切り崩しで生じた残土を利用して平潟土地整理事業がなされた。開業当初、開発が進んでいない沿線付近は雨や解けでぬかるむ道路を駅まで歩き革靴やハイヒールへ履き替える乗客が多く、松戸駅延伸開業時は各駅に下駄箱設置もみられた。

全通は地域の人々から暖かく迎えられ、数々の恩恵を受け、近所の農家から赤飯、夕飯のおかず等の差し入れが度々あったという

古くは松戸新田駅やみのり台駅などの5駅が小さな駅舎で一人勤務のワンマンボックス駅(一帖未満の小さな建物)だった。

1953年10月、全線の軌間を1372 mmへ、1959年8月に1435 mmへ改軌する。親会社の京成電鉄よりも早期の改軌で、京成電鉄の改軌予行演習も意図したと推察されている

注:新京成電鉄の線路はなぜ曲がっているのか(曲線が多いのか)?」とのテーマから、旧日本陸軍鉄道連隊や戦争の歴史学習へ導く記載が、高校日本史教科書の一部に見られる。

(この項、「Wikipedia」参照)

踏切を越え、県道へ。

左側には工業団地が続きます。その先、「スーパー銭湯 湯楽の里松戸店」のところを曲がります。

  

この付近の今昔。

1880年代のようす。2010年代のようす。○が分岐点。

           「国道464号線」までの道のりは、けっこうあります。途中、広い通りに出ると左右にはこじゃれた建物が並んでいます。

「フィオリの丘」というこれも洒落たバス停。実に数奇な歴史があったのです。それは詳しくはもう少し調べた後で。

「美野里」交差点。

国道沿いの道が旧道。

 

松戸市のマンホール。コアラと市の木ユーカリ。
松戸市はオーストラリアのビクトリア州ホワイトホース市と姉妹都市を結び、ユーカリが市の木に指定されました。

この旧道沿いの左手には大きな屋敷が目立つ。

国道に復帰。

この付近は、「二十世紀が丘美野里町」。

ごみ溜めから生まれた「二十世紀」ナシ


松戸覚之助の大発見

 

 20世紀もそろそろ残り少なくなってきた。そこで、この100年を見事に輝きつづけてきた品種の話をしておきたい。その名も「二十世紀」ナシ。 他の農作物をみても、これほど長い間高い評価をもち続けた品種はない。二十世紀とは、よくこそ名づけたものである。

 ナシの二十世紀は、明治21年に千葉県八柱村(現・松戸市)の松戸覚之助によって発見された。この大品種も、もとは親類のごみ溜めに自生していたみすぼらしい幼木だったという。 当時13才の覚之助少年がこのちょっと変わったナシに目をつけ、自園に移植したところからこのドラマははじまる。

 松戸地方は江戸時代からナシの産地だが、覚之助の家はちょうど2年前にナシの栽培をはじめたばかりだった。ナシ作りに未来を託そうという一家の意気込みが子供にまで伝わって、 覚之助がこの幼木に興味をもつ結果になったのだろう。

 もっとも、覚之助の偉かったのはここからである。幼木は黒斑病などの病気に弱く、彼の熱意がなければ枯死していたに違いない。10年にも及ぶ丹精のかいあって、 はじめて実がなったのは明治31年だった。食べてみると、甘く果汁に富む。早速「新大白」と名づけ、世に問うことにした。

 明治37年、当時広く読まれた「興農雑誌」には「驚くべき優等新梨(新大白)の紹介」という記事が載った。 「其味の優等甘味にして漿液最も多く恰(あたか)も甘き西洋梨の如く且つ少しも口中は渣滓を止めず実に完全の梨果と称するを得べし…」と激賞している。 当時としては、抜群のおいしさだった。

ナシの木をイメージした二十世紀公園のモニュメント。このあたり、昔はナシの花が美しかった。  絵:後藤泱子 二十世紀と改名されたのはこの年である。西暦1904年、日露戦争が勃発した年でもあった。戦争後の好景気とともに、全国各地で栽培面積を増やしていった。

 二十世紀の産地としては、今では鳥取県・長野県が有名である。地元の千葉県は降雨が多く、病気にかかりやすいため栽培がむずかしかった。 最盛期の全国栽培面積は6000ヘクタールを上回り、昭和47~63年の間は全栽培品種の王座に君臨した。

 現在は「幸水」「豊水」についで3位だが、この両品種とも二十世紀の血を受け継いだ子孫に当たる。覚之助の偉業はますます輝きを増しているというべきだろう。

 二十世紀の原木は天然記念物の指定を受けていたが、太平洋戦争の空襲で枯死し、記念碑のみが残っている。この辺りは戦後の区画整理で街に変わり、 わずかに「二十世紀が丘」「梨元町」の新地名が当時をしのばせる。

 とはいっても、覚之助に対する追慕の念が地元から消えたわけではない。平成2年の8月から7週間、松戸市文化ホールでは特別展「はばたけ二十世紀梨、 松戸覚之助の大発見物語」が開催された。市立博物館には「二十世紀梨特別展示室」があり、原木の遺片が今も参観者の興味をそそっている。

(西尾 敏彦)



(「農業共済新聞」 1996年12月11日 より転載)

(この項「」HPより)

「分実(わかさね)」交差点。千葉には難読の地名が多いようです。

「国道6号線(「水戸街道」)」へ向かいます。

 

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八柱。「金ヶ作陣屋」。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その3。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-23 20:47:37 | 鮮魚街道

                           「子和清水」から北に延びる「けやき通り」。

「新日本街路樹百景」に選ばれています。

                                                                          2010年代のようす。中央(「子和清水○」)から北に続く「けやき並木」。

南北に通じる道路として「さくら通り」が2本、「けやき通り」。東西の道路には、それぞれ「やまもも」「はなみずき」「ゆりのき」「えんじゅ」などと名づけられた通りがあります。

デニーズのところを右に進み、「八柱」駅方向へ。

「さくら通り」。

左手が新京成線「八柱」、武蔵野線「新八柱」駅方向。

旧八柱(やはしら)村

明治22年(1889年)、大橋・秋山・高塚新田・紙敷・和名ヶ谷・河原塚・田中新田・串崎新田の8ヶ村の合併によって発足する。これらの村々は同一戸長役場・学区に所属しており、農村地帯であった事に由来する。村名の「八柱」は8つの地域(旧村)が一致協力して新村の柱となり、民福増進にあたると言う意味

当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、ネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。                       

昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。

ところが、関東大震災で村立小学校(八柱尋常高等小学校、現在の松戸市立東部小学校)など多くの建物が倒壊しその再建の為に多額の負債を抱えた。更に世界恐慌が追い討ちをかけ同村財政は破綻寸前となる。

そこで昭和13年(1938年4月1日、八柱村は市制施行のために周辺との合併を進めていた松戸町に事実上の救済合併の形で合併されてその歴史に幕を閉じた。50年前に作られた「八柱」の名が残ったのは東京市の八柱霊園のみであった。

通称としての「八柱」

一旦使用されなくなった八柱という地名は、その後位置をずらして復活する。第二次世界大戦後に同地域に鉄道が開通するようになると、広く知られていた八柱霊園の最寄り駅ということで、新京成電鉄八柱駅(読み「やばしらえき」)、次いで国鉄(現・JR武蔵野線新八柱駅(読み「しんやはしらえき」)が開設された。そのため八柱霊園と駅を囲んだ一帯が今日において八柱という通称で呼ばれることがある。しかし両駅ともその所在地は旧八柱村内ではなく北隣の旧高木村に属していた場所に該当する。

そのため、現在において実際の旧八柱村中心部に一番近い駅は東松戸駅である。今日の八柱という地名は旧八柱村内には存在していないことになる。

(この項、「Wikipedia」参照)

「(常盤平)陣屋前」という表現が。「金ヶ作陣屋」があったことから。

金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)

下総国葛飾郡金ヶ作(現在の千葉県松戸市常盤平陣屋前)に設置された江戸幕府陣屋。主に小金牧などを管轄するために設けられた。

正確な設置年代は不明であるが、現地を治めていた野方代官が小金牧方面に用事がある時には、従来は江戸から現地に向かっていたのに対して、小宮山昌世(杢之助)が野方代官であった享保8年(1723年)8月を境として陣屋を活動の拠点としていること、小金牧の牧士の末裔とみられる三橋氏に伝えられる「従野馬始之野方万控」(鎌ケ谷市教育委員会所蔵)には享保8年に新しい陣屋が取り立てられたことをその詳しい間取りとともに記している(ただし、別の頁には陣屋設置を享保6年(1721年)とも記しているため、正確な設置年代を示す証拠にはしがたい)ことから、享保8年頃の設置とみられている。その背景には、将軍徳川吉宗の下で馬の育成が重視されたこと、同じく吉宗が推進した新田開発に小金牧の一部が充てられたことがあったとみられている。代官はここで野馬奉行らを指揮して小金牧の管理にあたった他、当該代官支配下の村々(小金牧の外側の地域含む)における訴訟業務も取り扱っており、陣屋内には白洲も設けられていた。また、江戸の公事宿2軒が金ヶ作に招かれて訴訟業務に参画した。

(この項「Wikipedia」参照)

「金ヶ作陣屋前緑地」。(「Googleマップ」より)

踏切を越えた右手、新京成線と武蔵野線とのあいだにあります。

この付近の歩いた道は旧道ではなさそう。一部(↓)が旧道か? 

1880年代のようす。

2010年代のようす。

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五香。「子和清水」。小林一茶。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その2。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-21 20:22:19 | 鮮魚街道

                       「さくら通り」。

六高台さくら通りの写真

 六高台のさくら通りは、道幅29メートルの広い道路の中央に緑地を設けた約1.1キロメートルの通りです。約200本のソメイヨシノが植えられ、毎年4月初旬の「六実桜まつり」では、さまざまなイベントが行われ大変賑わいます。

(この項「」HPより)

少し左にカーブし、再び直線道路に。

その先に長く伸びる緑地帯(多目的広場)。

先ほどの「さくら通り」もそうですが、住宅地にする際、計画的に作られた通りのようです。

       

                  

1970年代のようす。                2010年代のようす。

沿道には大きなおうちが目立ちます。

          

                

かつての(まだ現役の)農家のようですが。

松戸市のマンホール。絵柄は「矢切の渡し」。

「五香十字路」。新京成線「五香」駅にはすぐ。

新京成線を地下道でくぐります。その先を左折し、さらに右へ。

旧道らしき道の東側には商店街。

この地域は「五香」というよりも「常盤平」という言い方が馴染み深い。

                     2010年代のようす。↓が「鮮魚街道」。

                     1880年代のようす。畑ばかりで民家はなし。

地図では「鮮魚街道」には、「至 松戸」と記されている。この付近は、小高い丘陵地帯となっている。

右手に「松戸市立常盤平中学校」。

県道に出会うところに「子和清水」があります。

むかしこの近くに酒好きの老人が住んでいた。貧しい暮らしなのに外から帰るときには、酒に酔っている。
息子がいぶかって父のあとをつけてみるとこんこんと湧き出る泉を手で掬って、さもうまそうに「ああ、旨い酒だ」といって飲んでいた。

父の去ったあと子が飲んでみると、ただの清水であった。

この話を聞いた人々が「親は旨酒、子は清水」というようになった。

各地にある子和清水、古和清水などはこうした伝説によるものです

窪地をのぞき込むとブロンズ像などが。

そこで、回り込んで、降りてみます。

金ケ作(現松戸市常盤平)にある湧水池で子和清水伝説の地とされ、現在は周辺開発により枯れてしまいましたが、松戸市により「子和清水1号緑地」の一部として井戸水を汲み上げて保全されている、とのことです(循環式)。

 

緑地の中央に」が。


                    子和清水像」。

さらに奥には「一茶句碑」。

            母馬が番して呑(ま)す清水かな

 『八番日記』 文政二年(1819)小林一茶 57歳の作。なかなか味のある句です。

このブログでも行く先々で出会った一茶の句碑、句を載せています。

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る《江東区大島》

 陽炎や道灌どのの物見塚《日暮里》

 

昼顔やざぶざぶ汐に馴れてさく《富津岬》
大汐や昼顔砂にしがみつき《同》

艸花やいふもかたるも秋の風《房総往還》
蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉《同》

藤棚や うしろ明りの 草の花《木更津》

やせ蛙まけるな一茶是にあり《日光街道》
蝉なくや六月村の炎天寺《同》

時鳥 吾が身ばかりに 降る雨か《日光例幣使街道》

有明や 浅間の霧が 膳をはふ《中山道》

坂本や 袂の下は 夕ひばり《同、以下も同じ》

手枕や 小言いうても 来る蛍
とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
山伏が 気に喰ぬやら 行蛍

はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)《東海道》

一茶は生涯で21,200句ほど詠んだそうですから(芭蕉:約1000句、蕪村:約3000句。その分、「玉石混淆」は否めない)、芭蕉の句碑と同様、各所に句碑があります。

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街道復活地点。六実。東武線「六実」駅~JR「松戸」駅。その1。(「鮮魚街道」をゆく。第2日目)

2020-10-20 20:58:59 | 鮮魚街道

「鮮魚街道」復活地点から、本日の出発。     「海上自衛隊下総航空基地」。

(「歴史的農業環境システム」より)。○がその地点。

1880年代のようす。↓が「鮮魚街道」。

2010年代のようす。「街道」は基地内を横切っていた。

ところで。

相変わらずの仕事。炎天下での自転車通勤。今年の夏はそんな中、何とか休まず、月曜から金曜まで・・・。

で、せめて土日には、と思っても。天気がいい、そういうときに限って、予定が入るし、無いときは天気が悪い・・・。コロナ禍だけではありません。

そんなわけで、「房総往還」など、けっこう間のあいた街道歩きとなってしまいました。

今回10/18(日)晴れ。

「鮮魚街道」歩きの2日目。自衛隊の基地で中断され、復活するところから松戸・江戸川河岸まで一気に。

しかし、前半のようなのどかな田園風景は望めず、唯ひたすら舗装道路、にぎやかな街並みの中を歩きます。

 

右手に大きなおうち。少し遠くから撮影。

その隣に「さつま幼稚園」。

その先の信号を左折。

畑地が広がる。左手に「北部公民館」。

その手前で右折。住宅街。

                 

右手に道標を兼ねた「南無大師遍照金剛」碑。

「左 松戸 江戸道」と。

県道に合流し、「六実駅」北側の踏切を渡る。

ところで、「六実」という地名の由来は?

もともとは、江戸時代の幕府直結の馬牧で、明治期の下総牧開墾事業で誕生した開拓地。
 明治2年から旧小金・佐倉牧の開墾が始まり、着手順序を基に開拓地名の字を付けることが取り決められ、


富(はつとみ)《鎌ヶ谷市》、和(ふたわ)《船橋市》、咲(みさき)《船橋市》、豊季(とよしき)《柏市》、香(ごこう)《松戸市》、実(むつみ)《松戸市》、栄(ななえ)《富里市》、街(やちまた)《八街市》、美上(くみあげ)《香取市》、倉(とくら)《富里市》、十余一(とよひと)《白井市》、十余二(とよふた)《柏市》、十余三(とよみつ)《成田市》

の字名が生まれました。

1880年代のようす。「野馬土手」が見られる。

2010年代のようす。

航空写真でみると、東側の一部を除き、びっしり住宅が建ち並んでいる。左上、街道沿いの「竹村梨園」は健在。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

50年前は開発中、畑地などがまだ。1970年代のようす。○が現在も続く梨園(同上)。

(「同」より)

しばらく直線道路が続きます。

ところでこんな写真が掲載されていました。

(『田中龍作ジャーナルより』)

いま日本で起きていることを一人でも多くの人にお知らせください。 =17日、中曽根元首相・合同葬の会場入り口に整列した自衛隊の儀仗兵 撮影:田中龍作=

まさか「自衛隊の儀仗兵」が整列している、とは思いたくもありませんが。それにしても警備としてはあまりにも、ものものしい風景です。なんのために? 

既視感があるのはなぜでしょうか? 

向こうから来る車に乗っている人物は? サイドカー仕立てだったら、ますます・・・。晴れていたらオープンカーだった? まさかね。

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国道16号線。常夜燈。海上自衛隊下総航空基地。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)その7。

2020-10-08 19:47:02 | 鮮魚街道

           「国道16号線」に。本格的な食事処に出会います。

国道16号線」。街道歩きなどでしばしば遭遇しました。このブログで、何度も取り上げています。

「旧東海道」、「中山道」、「日光道中」、「水戸街道」、「甲州街道」、「川越街道」、「日光御成街道」、「青梅街道」、「日光千人同心街道」、「五日市街道」、「八王子絹の道」、「房総往還」・・・。さらに「西武安比奈線跡」、「相模運輸倉庫専用線路跡」。・・・横切ることも、そのまま道沿いに歩くことも。

「房総往還」では、「富津岬」の手前でその千葉側の終点を。

何しろ横須賀から富津まで、関東平野をぐるりと遠回りに一巡している道路ですから、東京から向かっても、東京に戻ってくるにしても、必ずどこかで出会うわけです。

HPより拝借)

今回は横切ります。すぐ先、右手に「水車屋」。

        

ここを右に折れます。向こうには立派なお屋敷が。

「白井市」のマンホール。絵柄は梨。

「矢の橋台霊園」を過ぎて坂道を下っていきますが、この先が分かりにくく、行ったり来たり、ちょっと迷いました。

広い道路を横切り、「セブンイレブン」の裏手脇の道を進み、突き当たりを左に進みます。

1880年代のようす。街道はしっかりしています(↓)。↓付近に「常夜燈」。

2010年代のようす。当時と比較し、道が入り組んで複雑になっています。○が下の写真の位置。

              

解説板。ちょっと読み取りづらい。

〈概要〉「金比羅宮と大沼枕山撰碑

この金比羅宮は、幕末に造立されたもの。藤ヶ谷地区台町は鮮魚街道の中間点にあたり格好の休憩所として賑わい、荷駄人足たちは、ここで食事を取り魚に水をかけて鮮度を回復し、また江戸へと急いだ。金比羅宮はもともと水運の守護神で、鮮魚街道に暮らす人々によって信仰された。大沼枕山の撰碑は明治5年に建てられた。枕山は漢詩・書の達人として江戸で活躍した終わり出身の儒学者。

右折した先に「常夜燈」が見えてきます。

鮮魚街道常夜燈

鮮魚街道は、銚子沖でとれた海産物を江戸に運ぶために出来た交通路で、明治の中頃まで盛んに使われていました。 そのルートは、銚子から船で利根川をさかのぼり、布佐(我孫子市)で陸揚げされると、発作(印西市)を経て、手賀沼を船で船戸(白井市)に入り(手賀沼・船を利用せず、陸路を辿るコースがメイン)、 富塚(同)から藤ヶ谷台町を通り、金ヶ作、日暮、松戸新田、陣ヶ前(以上松戸市)を経由し、松戸の河岸から江戸川を下り、日本橋の魚河岸に着きます。
藤ヶ谷台町は布佐・松戸間の中間地点に当たり、荷駄人夫達の食事、休憩などで大いに賑わいました。
常夜燈には、「紀元2539年6月設之」と銘記されており、明治12年(1879)に地元の有力者などによって建立されたことがわかります。
現在、鮮魚街道は当時の面影を殆ど残していませんが、その面影をわずかに伝える台町の常夜燈は、貴重な文化財となっています。

(この項、「」HP。一部加筆・修正。)

         

高さは3.34㍍。右の写真は魚の水切り場のようす。

この先を道なりに進みます。

「馬頭観音」。右奥に共同墓地。

県道に合流すると、その先が「海上自衛隊 下総航空基地」。ここで、街道は寸断されます。

基地をぐるりと遠回りしていくことになります。バス停がありますが、来るまでに時間がありすぎ。しかたなく歩くことに。

○がたどる道筋のバス停。

正面ゲート。

下総航空基地

所在地は千葉県柏市であるが、敷地は隣接する鎌ケ谷市にまたがり、滑走路南端は鎌ケ谷市の中心部にも近い

教育航空集団司令部、下総教育航空群海上自衛隊第3術科学校海上自衛隊航空補給処の下総支処などが置かれており、対潜哨戒機P-3Cを使用した海上自衛隊航空要員の教育訓練等を行っている。
また、習志野演習場などで陸上自衛隊第1空挺団が行う空挺降下訓練支援を行っている。訓練の際は航空自衛隊C-1C-130輸送機が飛来し、当基地で陸上自衛官乗せて演習場上空へ飛び立つ。また、訓練に使われる輸送機は離着陸時の騒音が大きく、生活環境に影響を及ぼすとして基地のホームページ上に日付と概略を掲載している。

(この項、「Wikipedia」参照)

                      (「歴史的農業環境システム」より)

                                               

基地沿いに迂回します。「この先通り抜けできません」の看板がある道をそのまま進むと、自転車と人は基地の金網の間を行くことが出来る道に。

街道が復活するのは、東武線「六実」駅の東方になります。まだまだ先か、と思っていると、これから高柳駅に用事があるという地元の方にお会いし、道を聞き、一つ手前の「高柳駅」にて今回は終了します。それでも、駅まで30分ほどかかりました。

今回は、田畑が広がり、緑が多く残る、旧道らしい道筋でしたが、次回は、松戸まで賑やかな街並みの中を歩くことになるようです。

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滝田家住宅。しろいのなし。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)その6。

2020-10-06 18:54:41 | 鮮魚街道

                 少し畑などで開けたところに。

         

右手の角に道標。                                   「西 松戸 東京道」

右から来る道は、布佐から「手賀沼」を船で渡り、上陸した「船戸」からの道? 「鮮魚街道」の別の道筋の一つではないか。「滝田家住宅」(国の重要文化財)も船戸地区にあるようです。

(「白井市HPより)

滝田家は手賀沼開拓以来(江戸時代)、平塚地区の船戸に居住を続ける旧家で、名主をつとめた家柄をもつ。滝田家住宅は17世紀末の建設になり、300年以上の年月が経過していて、千葉県下の民家としては古い遺例である。平面および部材の大きさなど、堂々とした上層階級の住宅である。現在、千葉県内に所在する国指定重要文化財の古民家で居住を続けているのは、ここ滝田家のみ。

「庚申塔」や「二十三夜塔」など。

梨畑が続きます。すでに収穫が終わっているようです。

            

  ここにもたくさんの石碑。

「白井(しろい)工業団地」に入って行きます。

しばらく進み、ここを左に折れていきます。

「工業団地」の案内図。○が分岐点。↓が「鮮魚街道」。

土曜日のせいか、車や人の姿はほとんどない。

「河原子台」交差点。

ここまで。布佐・利根川河畔から歩き初めてから、食堂は見当たらず、コンビニもほとんどない道筋です。ここで、「ミニストップ」があったので、小休止。

 布佐駅前にもコンビニはないので、出発前に食料等は購入した方がよさそうです。また、車はたくさん通り過ぎますが、バスも近くに鉄道の駅もない街道をひたすら歩くということに。真夏の炎天下は避けた方が・・・。

さて、先に進みます。

ヒガンバナ。

梨畑。

整地中の畑。

この付近は丘陵地帯。梨畑や野菜畑が目立つ。

               

 

白井の台地は関東ローム層という火山灰土壌で、水はけがよく梨栽培に適しています。
そのため「幸水」「豊水」「新高」などの梨づくりが盛んになり、日本屈指の生産量を誇っています。

サイトイメージ

白井、梨づくりの起源

白井での梨づくりは、明治38年に鎌ケ谷から移住した浅海久太郎氏が梨の木20本余を植えたことに始まり、100年を超える歴史があります。
現在、梨の収穫量全国1位の千葉県において、白井市は収穫量トップを誇っています。主な品種は、幸水、豊水、あきづき、新高です。
幸水が8月から出荷が始まり、お盆時期に最盛期を迎え、その後、豊水、あきづき、新高と順次出荷され、10月中旬に収穫がほぼ終わります。

育てる苦労にまさる収穫の喜び

梨づくりは1年がかりの仕事です。
4・5月には、花粉交配や、余分な実を取り除く摘果作業を行います。摘果によって、残された実は大きく形の良いものになるのです。その後も、畑にネットをかけたり、消毒や除草などを行います。
そして8・9月が収穫期。パートさんの手も借りて梨を大切にもぎ取ります。収穫した梨は市内直売所での販売や発送、また市場向けにサイズ別に集荷して出荷され、各地で販売されています。
収穫後も梨の木のせん定などの世話をして翌年の収穫に備えます。美味しい梨をつくるためには、1年を通して努力が必要です。
また、梨の収穫は天候によっても左右されます。昭和58年と平成12年にはひょうが降り、「しろいの梨」も大きな被害を受けましたが、農家の尽力により一大産地として復興しました。
「去年食べた白井の梨がとても甘かったので今年も送ってほしい」と注文を受けた時などは「梨づくりを続けていて良かった」と梨栽培農家の皆さんは実感するといいます。

 (この項、「白井市」HPより)

「鮮魚街道」は、手賀沼の広大な水田地帯から梨畑などが続く丘陵地帯、とけっこう変化に富んだ道筋です。

          <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/63/e4630a1366fc1df0b80e9377434cfa2e.jpg">

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石尊阿夫利神社。千葉ニュータウン。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)。その5。

2020-10-05 20:44:11 | 鮮魚街道

              竹薮に囲まれた小道を進み、県道に。

その手前に池。

「馬頭観音」など。一ヶ所に集められている。

沿道右手にずらり。「庚申塔」

「出羽三山」。

いずれも表面が朱塗りになっています。印西・白井に特徴的なのか?

その先、右手に「馬頭観音」。沿道には「馬頭観音」が目につきます。

そこを右折していく道が旧道?

そのまま、県道を進んでしまいます。「白幡道」バス停。

大きなお屋敷。そして、カエルの置物。         

左手は小高い森に。

県道に合流する旧道? 

     

路傍には、あせた朱塗りの石碑が多い。「馬頭観音」。

魚を布佐で陸揚げした後、昼夜兼行で松戸河畔まで馬で運びました。そうした馬たちへの思いが伝わるようです。

「浦幡新田」バス停。

遠くに「阿夫利神社」の大きな鳥居が見えてきます。

阿夫利神社は、明和2年(1765年)の建立です。「浦部の石尊」と呼ばれ地域の人々に親しまれています。祭神は、石凝留命・日本武尊・石裂命・根裂命を祀っています。・・・伝説によると、明和元年(1764年)に銚子の海底より二個の青石を引き揚げ、論議の末、村吏の神夢から当地に鎮祭されたといわれています。

「石尊」と名があるように、2つの石が尊崇の対象のようです。また、この神社では、「神輿の梯子立て」という珍しい儀式があります。神輿の担ぎ棒を地面に立て、神輿を梯子のように立てて、神輿を勢いよく何度も地面に叩きつけ、悪霊を祓う、という。

鳥居のところを右に進みます。

両側を鬱蒼とした杉木立に囲まれた道。

 

実は、県道の東側一帯は、「千葉ニュータウン」の広大な住宅街が広がっています。まったく気づきませんでした。

航空写真(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                     2010年代のようす。○が鳥居のある分岐点。

「ニュータウン」は、東南の方向に大きく広がっています。この南方に「北総線(成田スカイアクセス線)」の「千葉ニュータウン中央」駅があります。

「鮮魚街道」は車の行き来は激しいものの、しばらく周囲を自然に囲まれた道を進みます。

神社への参道。

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亀成川。月影の井。「鮮魚街道」をゆく。第1日目(JR成田線「布佐」駅~東武線「高柳」駅)。その4。

2020-10-02 20:12:42 | 鮮魚街道

             「亀成川」。                                   

                「下前川橋」。

 印西市牧の原5丁目付近の亀成川調整池に源を発し、概ね北西に流れる。両岸や橋梁は上流に向かって整備が進んでおり、散策が可能である。北総台地を徐々に抜けてゆき、和田戸第一橋にて古新田川と合流すると河川幅が広がり始める。以降西へ進むにつれ南から複数の支流を合わせてゆき、堂下橋より更に河川幅は広がる。亀成付近で千葉ニュータウン中心部より流れてきた浦部川を合わせると北へ折れ、亀成橋を越えると手賀沼(下手賀沼)沿いの低地に出る。下前川橋を過ぎると間もなく下手賀川に注ぐ。全区間が一級河川に指定されている。

利根川とは逆向きに東から西へ流れているため「逆川」という通称があり、その名が橋梁名にも付けられている。ニュータウン開発により小川を広げて整備しているため、上流部から中流部にかけては水深が非常に浅い。

流域には大小の谷津田や斜面林が広がり、ニュータウンに隣接する良好な自然環境となっている。上流部流域には「別所緑地」が形成され、湿地・草地・樹林地が連続性をもった生態系をなすエコトーン(移動帯)として環境省「重要な湿地500」に選定されている。

水鳥が数羽、川面に。

この先、一面の田んぼの中、一直線。

 

見事な田園風景が広がる。

しばらく進み、県道に復帰。旧道?

上り坂の先、郵便局のところを右折し、

左手を進みます。

小さな集落の中を歩進む。

たわわに実った栗の木。

猫が路上にのんびりと。

その先、右手の道を進むと、「月影の井」。                                         

月影の井は、鎌倉の「星影の井」、奥州二本松の「日影の井」とともに「日本三井」の一つといい伝えられています。ここから300m西に中世城跡の龍崖城の城跡があります。城主が産湯や行水に使用したともいわれています。龍崖城主の大菅豊後守正氏が武将にまれな風流人であったので、月影の井の名声が広まったといわれる。

  

星影の井」(「星月井」)。

HPより)    

日影(陰)の井」。(HPより)  

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