おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その5。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-20 18:47:34 | 五日市街道
                           (12:05)JR五日市線「武蔵五日市」駅。

目の前を通りすぎるバス? 
              実は、このバス。「五日市線・旧岩井支線」廃線後の代行運転を行っている機関車型のバスです。

 秋川渓谷と周囲の山々。
 

                        

           「五日市宿」方向へ進む。

                 
 この先は「檜原街道」となります。右に分岐して南下する道は「秋川街道」、八王子方面に向かう。


五日市の市神様」。
 五日市の市のはじまりは定かではありませんが、中世末の文書に「五日市」の文字が見られ、この頃には近隣地域の物資交流の場として市が開かれていたと考えられます。江戸時代になると、大消費地江戸の広域商業圏に取り込まれ、炭の市として栄えました。当初は五の日三斎市(月に3回の市)であったものが、十の日も加えて六斎市になったと考えられています。
 この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かつては五日市の市の中心に祀られ、市の発展を見守っていました。
 都道の拡幅に伴い阿伎留神社の境内に移されていましたが、五日市ひろばの整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置されました。

 宿場町としてのようすはありませんが、建物やお店にはそんな雰囲気が。


                  

    

マンホールには梅の絵柄? 

沿道のおうちの庭の梅が少し咲き始めたようす。

 
「上宿」バス停。                      土蔵造り。

 宿場は「五日市警察署」付近まで。そこから宿内を振り返る。


 帰りに寄り道をします。「五日市憲法草案」碑が「あきる野市五日市出張所」前の「五日市中学校」にあります。


              
あきる野市の文化財 五日市憲法草案の碑
所在地 あきる野市五日市四〇九番地二
五日市憲法草案は、明治一四年に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案です。東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、昭和四三年に深沢家の土蔵から発見されました。司法、立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に溢れた非常に民主的な内容であり、他の民間草案の中でも屈指のものです。
昭和五四年、この私擬憲法草案を生み出したこれら先人の偉業を顕彰し、後世の人々に広く知ってもらうため、千葉卓三郎の生地宮城県志波姫町(当時)、起草地である五日市町(当時)、墓所の仙台市の三カ所において同時に碑を建設することとなり、この碑は地域の人々の協力のもと、五日市憲法草案顕彰碑建設委員会によって建てられました。
正碑には最もよくその特色を現わす抜粋文六カ条が、副碑背面には学芸講談会の会員三〇名の姓名が刻まれています。

平成一七年一一月一五日設置 あきる野市教育委員会

学校の敷地内なので立ち入ることはできません。

五日市憲法草案抜粋
45日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ
48凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ 同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ
76子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナルモノトス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
77府県令ハ特別国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス
86民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
194国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ

(碑文は「kumando.no.coocan.jp/mj/mj090825.html」HPを参照)

 この「五日市憲法草案」については、以下の記事が話題となりました。

皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答

問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが,なお課題は山積です。一方で,皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの1年,印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。

皇后陛下
 この10月で,東日本大震災から既に2年7か月以上になりますが,避難者は今も28万人を超えており,被災された方々のその後の日々を案じています。
 7月には,福島第一原発原子炉建屋の爆発の折,現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに,今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が,次第に過去として遠ざかっていく中,どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。

・・・

 5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

・・・

(この項「宮内庁」HPより)

 アベ自公政権のもと、アベの横暴一強政治支配によって、憲法改悪の動きが加速しています。その主な狙いは、「憲法9条に自衛隊条項を加える」ことと「緊急事態条項の規定を盛り込む」こと。
 「安保法制」成立、「集団的自衛権」の閣議決定など、現憲法を否定する法案を次々と問答無用の如き強行採決を繰り返し成立させ(決定し)、いよいよトランプ・ポチのアベの「悲願」の実現へなりふり構わず、といった様相。
 何とかして策謀を葬り去らなければ、と。
 ということを改めて。・・・

以上で終了、(13:11)駅前のおそば屋さんに入って昼食。

        蕎麦焼酎をそば湯割で。
 
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JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その4。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-19 18:49:03 | 五日市街道
                                 「増戸小・中学校」脇の旧道。
                                  

その先、左に折れて現街道に合流します。

(11:30)この辺りから「伊奈宿」となります。

                          

第6話 伊奈宿と五日市街道
▲伊奈石が採れた横沢の山並みと秋川
 五日市街道は、古くは「伊奈みち」と呼ばれていました。「伊奈」とは五日市のすぐ東側に位置した宿場町で、定期市なども開かれ、近隣の村々の中心的な役割を果たしていました。また、近くの山々には「伊奈石」という石材が埋もれており、これに目をつけた多くの石切職人(石工)が伊奈へと移住して腕を競い合いました。なかでも、伊奈の石臼「伊奈臼」は軽くて挽きやすいと評判だったということです。
 天正18年(1590)の徳川氏の関東入国後、江戸城修築の土木工事に伊奈の石工たちが徴用されました。この石工たちが頻繁に江戸へと行き来した道筋が、自然に「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。これが五日市街道の始まりとされています。
 しかし、江戸城の修築工事が終わると、街道は周辺の村の農産物や特産物を江戸へと運ぶ重要な輸送路として発展していきます。特に木炭需要の増加は、炭の産地である檜原村に近い五日市宿の急成長を促し、それまで伊奈宿で開かれていた炭市も五日市宿で開かれるようになりました。こうして伊奈宿と五日市宿の力関係が次第に逆転し、街道もいつしか「五日市道」と呼ばれるようになっていったのです。

(この項、「武陽ガス株式会社・交流の広場」HPより)

「上宿」という名称。

こちらは「上宿自治会館」。

伊奈の市神様」。
 伊奈村は、中世から近世の初期にかけえて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭をはじめ、この地域で産出される石(伊奈石)でつくられた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
 江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石に携わった工人たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
 やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急速に高まりました。すると、木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。さらに、月3回の伊奈村の定期市の前日に五日市村でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃をうけ、伊奈村の人々はこの市の開催日を巡ってしばしば訴えを起こしました。
 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文2年(1622)の年号が刻まれています。伊奈村の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は、地域の方々により今も大切に祀られています。

旧道は「新秋川橋東」の信号を右に折れます。

「新秋川橋」。

 (11:39)「岩走神社」の手前の坂道を下り、「秋川」沿いの道を進みます。
 

「秋川」。

                      

渓谷を見下ろしながらの旧道歩き。

                         


旧道は上を通る広い道に合流し、支流の三内(さんない)川を渡る。
かなり下に流れが。

(11:52)「五日市橋」のたもとで現五日市街道に合流。

「五日市橋」を振り返る。

旧道はそのまま街道を渡り、「正光寺」のところを右折します。(地図ではこの先、右にも旧道らしき道が短くあります。そちらが正しい? )

「貸し蔵」。

 
                              現街道に合流すると、まもなくJR五日市線「武蔵五日市」駅前に。

(12:04)その手前、秋川に沿った道が旧道のようですが。

その道を振り返る。
 この先、左に折れて「五日市宿」に入りますが、その前に、駅前の広場で、小休止。
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JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その3。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-18 20:05:34 | 五日市街道
                               (10:50)少し高台になった旧道を歩く。

 「現五日市街道」をしばらく進み、「西中学校入口」交差点を斜め右に上がっていきます。一段と高くなって見晴らしがよくなります。
 

家並みの向こうに「東京サマーランド」の観覧車が。
                             その名の如く趣向を凝らしたプールが人気。来たことはありませんが。

住宅街を進む。 

再び現街道に合流。引田、山田を過ぎます。

 

(11:05)右手にお醤油屋さん。

                       商標は「キッコーゴ」。

東京で唯一醤油を醸造する蔵元 東京・近藤醸造

醤油ソムリエール黒島慶子の日本醤油紀行
〈 この連載・企画は… 〉  小豆島の「醤(ひしお)の郷」と呼ばれる地域に生まれ、蔵人を愛する醤油ソムリエールが
真心こもった醤油造りをする全国の蔵人を訪ねます。

riter profile
Keiko Kuroshima
黒島慶子くろしま・けいこ
●醤油とオリーブオイルのソムリエ&Webとグラフィックのデザイナー。小豆島の醤油のまちに生まれ、蔵人たちと共に育つ。20歳のときに体温が伝わる醤油を造る職人に惚れ込み、小豆島を拠点に全国の蔵人を訪ね続けては、さまざまな人やコトを結びつけ続けている。高橋万太郎との共著『醤油本』発売中。

 東京の緑豊かな土地で醤油を造る
 東京で醤油を造る蔵元は〈近藤醸造(屋号「キッコーゴ」〉1軒のみ。
 東京駅から中央線で武蔵五日市方面に電車で約80分。
 澄んだ空気と緑に恵まれたあきる野市にある。

 「ものづくりが好きなんだよね。ラベルも自分でつくるし、年賀状づくりも9月から取りかかる。でも醤油造りは一番おもしろいよ。どんなに手をかけても、結局は人ではなく菌が造るんだからね」

 近藤醸造3代目の近藤功さんは、温かな気持ちで醤油を造り、届けます。

3代目近藤功さんが描いた年賀状。9月から練り、1万4千枚も出している。

 緑豊かな多摩の山裾に位置する近藤醸造は、明治41年から100年余続く蔵元。

“東京”のイメージから離れた緑豊かな場所で、清流秋川から流れるきれいな水と、国産丸大豆と国産小麦を使い、天然醸造で醤油を育みます。

 「東京にも昭和53年には22軒の蔵元があったんですよ。でも、うち以外の醤油蔵は、広い敷地を有効活用し、貸しビルを建てたり、別の事業に転業したりしました。うちも、昭和55年頃に道路を拡張するからと退かなければいけなくなって、これを機にホームセンターをしようかなと思ったこともありました。日曜大工が趣味なので。けれど、秋川渓谷の入口にあるこの土地でやるべきことは……。そう思うとやっぱり醤油業だと思ってね」

・・・

 そうしていつの間にか東京唯一の醤油醸造元になった近藤醸造。

 「東京は昔から県外の醤油がどんどん入ってきていたから、1軒になったからと言って売り上げが伸びるわけじゃない。それより、東京で醤油を造るぞ、と思う仲間がいてほしかったですね」

 そう話す近藤さんは寂しげ。
 「私が入社した昭和40年頃は、小さな蔵元の醤油よりも、大手の醤油が魅力的に見える時代で、消費者も大手のものを使いたがっていたし、ましてや価格で競争なんてできるはずもない。
 そこで近所の家庭に醤油を配達して、顔の見える関係のなかで使ってもらってきました。いまでもうちの醤油を使っているのは、あきる野市やその周りの家庭が多いです」

 それを物語るように、お店には女性が空ビンを2本持ってきて、醤油を買っていきました。

 近藤さんは70歳とは思えないほど筋肉がガッチリとついた体つき。昼夜問わず力仕事をしてきたことが表れている。4代目の近藤寛さん。総括や人事、醤油加工調味料を担当している。

“東京産の醤油”を使った商品で注目されるように
 次の世代に向けて
 「醤油屋の数は減り続け、業界も変動しています。だからこそ関係性の大切さを感じています。うちの蔵を見て醤油のすばらしさを知ってもらえれば、そのよさが伝わっていくと感じています。
 小学校の見学を受け入れて、もう30年ほどになります。あきる野市の小学生はほとんどうちの蔵を見ていますよ。態勢を整えて、来年4月頃からは個人の見学にも対応できるようにしようと思っています」

 私も蔵を見せてもらうことに。もろみを仕込む木桶は、譲り受け使い続けている明治8年製のもの。窓から光が静かに射し、熟成香が染みついています。そしてそのもろみ蔵の隣に、新しい麹造りの工場が建っています。

 「そろそろ息子に代替わりをしようと思って、3年前に思い切って麹を造る工場を新しくしたんです。道具も建物もすべて。私もいま70歳。自ら望んで蔵に入った息子も40を超え、もう15年以上の経験を持ちましたから」

 工場も機械も新しくするのは、減価償却も難しく勇気のいること。それでも息子の代を想い、態勢を整えてきました。

麹のできを確認する近藤さん。

できあがった麹。新工場はなかなか安定しなくて必死で試行錯誤してきた結果、やっと最近安定してきたという。

・・・

 蔵に併設している売店も2014年2月に改装。近藤醸造の周辺は多摩産の木材が集まる地域。売店にも、蔵からほどないところにある青梅の御岳山から切り出した木材などを使い、床板も施工業者の指導のもと、スタッフみんなで金槌を片手に張っていきました。温かみを感じる店内には醤油や調味料、醤油スイーツがずらり。

 「最近は“東京産”の商品を出したいということで、うちの醤油を前面にアピールした商品をつくってくれるところが少しずつ出てきました。東京駅に入る〈三州総本舗〉さんの〈東京ふみう〉というせんべいもうちの醤油を使い、うちの商品かと思うくらい近藤醸造をアピールしてくれています。東京駅の前にある商業ビル〈kitte〉の〈東京から揚げバル〉さんでも『東京醤油にこだわった鶏から揚げ』として、うちの名前を出してくれています」

 近藤さんはうれしそう。

・・・
 
 近藤醸造さんの醤油は、素朴で懐かしさを感じる風味。その醤油を使ったせんべいも、滋味に富む味わい。
 そうか、近藤さんの醤油を使うと、東京で提供する新しい商品やサービスに背景が生まれるのか。
 これからも温かい人柄の近藤さん親子によって育まれ、そしてあきる野市を中心に、都内や各地の食卓を豊かにしていく。

近藤醸造 
キッコーゴ
住所:東京都あきる野市山田733-1
TEL:042-595-1212
http://www.kondojozo.com/

(この項、「」HPより)

その駐車場にあった「秋川渓谷案内図」。

JR「武蔵五日市」駅に向かいます。

 (11:17)右手「岸タイヤ商会」さんのところを斜め右に入って行くのが「旧道」。
 

広い通りと交差する手前の民家のところに道標があります。

→五日市 檜原方面。←八王子 拝島 福生方面。

→津久野 青梅方面。←川戸村 恩方方面。

 その先で交差します。青梅方向(北)を望む。

旧道はそのまま横切って進みます。

農家の庭先に農産物が。のらぼう菜」。

こちらはとうがらし。

「のらぼう菜」? あまり見かけない野菜。 
 菜の花に良く似ていますが、春先にとう立ちした主茎を折り、脇芽を摘み取り食べます。
 柔らかい花茎(茎の部分)にはほのかな甘味があり、他の菜花類のような苦味やクセはなく、アスパラガスのような味と歯ごたえが感じられ、やみつきになります。
 普通のナバナ類と同じ料理に使えます。
 栄養価も高く、ビタミンA・Cのほか、鉄分、食物繊維なども豊富です。
 「茎葉タイプ」で、おもに花茎と葉を利用します。全体的に緑色が濃く、和種ナバナに比べて苦味が少なめで甘味があるとされています。

調理の仕方
 さっと一つまみの塩をいれた熱湯で、下茹でしてから使う事をお勧めします。
 おひたしや和え物、マヨネーズを付けたり、シンプルな味付けのものに最適です。
 下茹でした物をさっと炒めたり、パスタの具にしたり、和洋中どのような料理法にも合います。
(この項、「JAあきがわ」HPより)

のらぼう菜
 東京都西多摩地方(あきる野市、青梅市等)及び埼玉県飯能市・比企郡小川町付近で多く栽培されるアブラナ科アブラナ属の野菜である。江戸時代初期には、すでに各地で栽培されていたと伝えられる。耐寒性に優れ、天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際に人々を飢餓から救ったという記録が残る。かき菜などの「なばな」と同系統だが、在来種のアブラナ(和種なばな)ではなくセイヨウアブラナ(洋種なばな)に属している。

歴史
 のらぼう菜がいつ頃から栽培され始めたのか、その来歴は不明とされる。のらぼう菜の原種は、闍婆(じゃば、現在のジャワ島)を経由してオランダの交易船が持ち込んだセイヨウアブラナ(洋種なばな)の1種「闍婆菜」(じゃばな)という品種という説がある。この闍婆菜は各地で栽培が広まり、江戸時代初期にはすでに西多摩地方でも栽培されていた。
 のらぼう菜を含むなばな類は、油を採る目的の他に食用として葉や蕾が用いられ、栽培地の気候や風土によってさまざまな特質が見られるようになった。西多摩地方ではこの食用なばなを「のらぼう」または「のらぼう菜」と呼んでいた。「のらぼう」には「野良坊」という漢字表記がしばしば見られるが、この名で呼ばれるようになった経緯は定かではない。
 のらぼう菜は耐寒性に優れている上、花茎を折ってもまた次の脇芽を何度も出す旺盛な生命力を持った品種である。江戸時代後期の1767年(明和4年)9月、関東郡代伊奈忠宥が地元の名主小中野四郎右衛門と網代五兵衛に命じて、のらぼう菜の種子を江戸近郊の12の村々に配布した記録が残る。のらぼう菜の普及によって天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際、人々を飢餓から救ったと伝わる。あきる野市の子生神社(こやすじんじゃ)には、この事績を記念して「野良坊菜之碑」が1977年(昭和52年)に建立されている。
 のらぼう菜は収穫後はしおれやすいため長距離輸送や大量出荷向きではなく、生産地付近でのみ消費される地方野菜として受け継がれてきた。近年は苦みやくせのないのらぼう菜の味わいが再度注目されるようになって、産地のあきる野市では東京都農業試験場・西多摩農業改良普及センター・JAあきがわが協力して、品種改良を進めている。
 のらぼう菜の本来の旬は、前年8月下旬頃から9月上旬までの間に播種をして苗を畑に植え付けて越冬させた後の3月下旬から1か月足らずの短い期間である。近年では2月初旬から出荷可能な早生種も出回っているが、3月下旬からの晩生種こそが、古来から続くのらぼう菜の系統である。あきる野市五日市ののらぼう菜生産者たちで結成する団体「五日市のらぼう部会」では、早生種の普及に伴う出荷競争での品質低下防止のために、東京都農林総合研究センターで3年間にわたる早生種の試験栽培を依頼した。五日市のらぼう部会は、試験栽培した早生種の中から食味などの優れた2種を選定した。この2種は万一の交雑を防ぐためにあきる野市の山間部で種の採種を慎重に行い、五日市のらぼう部会の会員のみが種子を入手することが可能である。

調理法や利用
 のらぼう菜は冬を越して春先に成長してきた花茎を、根こそぎではなく手で折り取りながら収穫する。鎌を使っての収穫では、育ちすぎて食用に向かない固くなった花茎まで刈り取る恐れがあるため、30センチメートルくらいの長さを目安として必ず手で折り取っている。収穫したての花茎は甘くて雑味がなくて柔らかいが、のらぼう菜を初めて食べる人の中には、美味しい茎の部分を捨てて葉だけを食べてしまう人もいるという。
 のらぼう菜は100グラム中に鉄分1.15ミリグラム、ビタミンA1580IU、ビタミンC90ミリグラム(小松菜の2倍近い量)や食物繊維を豊富に含んでいる。収穫後しおれやすいため、生産地近郊でのみ流通している。店頭では250グラムから300グラムの束になったり、ポリ袋に詰められたりして陳列される。のらぼう菜はゆでてもかさが減らないという長所がある。かつてはおひたしやごま和えにして食していたが、油との相性が良いためバター炒めやマヨネーズ和えにも向き、味噌汁の具にも合うなど調理の用途が広い。
 のらぼう菜は生命力が強く、葉や花茎の部分を摘んで食べた後にはまた次の葉や茎が伸びてくる。耐寒性に優れていてハウス栽培の必要がなく、何回かの収穫ができて長期間楽しむことが可能であるため、家庭菜園にも向いている。

(以上、「Wikipedia」参照)

 どうも途中で興味関心を奪われ、記事がなかなか先に進みません。
 
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JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その2。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-15 21:30:13 | 五日市街道
                          (9:37)上り詰めると「二宮本宿」交差点。

宿場の面影はなさそうです。

「あきる野市」のマンホールの絵柄。多摩川と大岳山。

土蔵造り風の建物がいくつか。

「二宮神社」交差点を西に進みます。

 切り通しになっている坂を上っていくと、その先には広々とした畑地が広がります。歩くのもゆったりと風景を愛でながら。
「秋留台」。中央に「大岳山」。

南側には「富士山」が顔をのぞかせています(↓)。

(9:52)「秋川ファーマーズセンター」。朝から忙しく人が出入りしています。

 地元農家の育てた安全・安心な採れたて野菜が並びます。年間を通してトマト、春はのらぼう菜、初夏はトウモロコシ、夏はショウガが有名です。
 手作りパン・ジャム等の加工品も人気の商品です。
 東京都産黒毛和牛「秋川牛」の精肉を販売しています。秋川牛はあきる野市の竹内牧場が飼育する都産唯一の黒毛和牛で、同市松村精肉店が立ち上げたブランドです。
 ブランド鶏「東京しゃも」と「秋川牛」の冷凍肉を販売しています。
 管内酪農家を含む多摩地区の酪農家から集乳した生乳を、日の出町にある 協同乳業(株)東京工場で殺菌パックした「東京牛乳」を販売しています。
 雨の日でも安心、屋内バーベキュー場(予約制)
・・・

(この項、「秋川農業協同組合」HPより)

 ここに登場する「東京牛乳」は我が家でもなじみのある牛乳。濃厚でおいしい。

 ところで、東京での酪農は? (「東京牛乳」HPより)

初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
 江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
 てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。

明治32年には東京で3,000頭以上の乳牛を飼育

ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
 上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
 現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
 都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
 明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
 想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。

※地産地消=地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物を地域で消費しようとする活動を通じて、農業者と消費者を結びつける取り組み。

 東京牛乳は東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳です。
 製造工場 協同乳業㈱東京工場(東京都西多摩郡日の出町平井20-1)

 そういえばJR錦糸町駅前にも伊藤左千夫が経営する牧場があって、牛乳を生産して、近所の「汽車工場」に配達していたとか。
(「東京都墨田区の歴史」HPより)
左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)

牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる(明治33年作)
 この歌は、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して詠んだ代表作。年下ではあったが子規という偉大な師を得て、短歌の世界に生き甲斐を見いだした左千夫の気迫が感じられます。

竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり

「錦糸町駅」南口にある「文学碑」。
             よき日には 庭にゆさぶり 雨の日には 家とよもして 児等が遊ぶも

                         注:「とよもす」=音を響かせる、の意。「どよもす」とも。
同文学碑脇の解説板。
 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治18年(1885)から、東京や神奈川の7か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき本所句茅場町3丁目18番地(現在地)の牧舎と乳牛3頭を購入し、4畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デボン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
・・・
 この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治43年8月12日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。 
・・・
 隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和58年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治41年(1983)10月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。・・・

(注:解説文中に「大島に牧舎を移し」とあるが、その地は現在の「都立城東高校」付近。)

左右に畑地が広がります。冬の風景。

「秋留台公園。」冬の日ざしを浴びてスポーツにいそしむ姿が。

市街地に近づいてきます。白い壁に映る冬枯れの樹木。

(10:10)「あきる野市役所」。

 その先に「大塚古墳」。方墳のようです。そこで、小休止。


                     
                 
しばらく進むと、JR五日市線「秋川」駅。

 駅前のコンビニに寄って買い物を。「五日市線」の踏切を渡り、続いて「圏央道」をくぐります(10:37)。


 この先、右に左に旧道らしき道が何カ所か出てきます。ここを左折。

 

現五日市街道に合流して渡って次の短い旧道へ。



周囲には里山風景が広がってきます。
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JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その1。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-14 19:36:55 | 五日市街道
                                  「玉川上水」。この上流が多摩川からの取水口に。

 「五日市街道」歩きの最終回。昼前にはゴールできそう。早足の人なら「2日」のコース。

「牛浜」駅を下車し、前回のところから(8:57)。

 JR五日市線の踏切を越え、「新奥多摩街道」を横切った先に「玉川上水」に架かる「牛浜橋」に。遠く向こうに真っ白な富士山が見えます。
(↓)

牛浜橋」解説板。
 現在の牛浜橋は、昭和52年3月に架け替えられたものであります。
 牛浜橋は、東京と甲州を結ぶ五日市街道に架かる橋として、馬車や牛車の往来により在来の木橋では破損が多く、管理者の負担は大変でした。
 明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えたことを見聞した村民が、牛浜橋に取り入れ、明治10年12月に、めがねばしと愛称された牛浜橋が建設されました。
 平成4年度に行った玉川上水橋梁群整備では、石と鋳物を用いて歴史的背景を取り入れ、親柱や高欄、歩道舗装の改善などを行いました。

「牛浜橋」を過ぎると一気に多摩川に向かって急坂を下ります。

                                   


正面に富士山。

河川敷に大きな公園が広がります。周囲の山々の案内図。

中央に見えるのが「大岳山」。

      白雪の富士山。

石濱渡津跡」の碑。前に二つ並んでいるのは、旧牛浜橋の親柱。

 ここは、大正時代まであった「牛浜の渡し」の跡。碑の文字が牛浜ではなく石浜となっているのは、1352年(正平7・文和1)新田義貞が足利尊氏を破った戦場跡とする説がもととなっているようです。

解説碑。
石 濱
 勇ましいかな新田の最少郎(新田義貞)
 差原(小手差原)に賊(足利尊氏軍)を駆れば皆な奔狂す
 四十六里(小手差原より石浜まで)風逐を成し
 足利も足躓くは是れ此の場


 足利尊氏は感応3年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ、石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手差原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。この一連の合戦を武蔵野合戦という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説があり、市内の牛浜であるという説が古くからある。
 
 「石浜」という地名は、隅田川中流にあったお城の名でもあります。

《参考》「石浜城」
 石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。(この項、「Wikipedia」参照)

そこから対岸を望む。

                      

広々とした河川敷の公園。

現在は上流の「多摩橋」で対岸に。公園の出口の所で。

「多摩橋」。正面に富士山。

多摩川の流れ。上流。

                          下流。渡し場付近?

(9:27)「あきる野市」に入ります。

                           対岸の牛浜を望む。

「平沢」交差点で左にカーブ、さらに右に曲がりながら急坂を上っていきます。「多摩橋」以前は「渡し場」から急な坂を上っていたようです。
                       遠くに福生の街並み。

この道が旧道? 

坂道を振り返る。「多摩川」はアップダウンのある難所の一つでした。



1880年代のようす。多摩川の流水路がかなり変化しているようです。渡船場へのほぼ直線の上り下りも大変そう。



2010年代のようす。多摩橋完成で道路も付け替え。旧道は一部残っているか? 下は「五日市線」の鉄橋。

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西武多摩湖線「一橋学園」駅~JR青梅線「牛浜」駅。その4。(「五日市街道」。第2日目。)

2019-02-12 20:18:05 | 五日市街道
                                正面に大きく広がる「横田基地」。
 大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設されたが太平洋戦争後、連合国軍に接収され、在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。
 2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。
 拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、その殆どが国有地で占められている。
 日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。
 アメリカ軍人及び、その家族のアメリカ本土帰省用に、アメリカ軍と契約している航空会社の定期チャーター便(パトリオット・エクスプレス)の民間旅客機が飛来する。貨物便はエバーグリーンインターナショナル航空など、複数の航空会社が乗り入れている。
 なお、日米地位協定により、アメリカ軍人・軍属・それらの家族は、出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。2017年には大統領専用機でドナルド・トランプが出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。
 施設建設やメンテナンスのためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の日本国籍確認のため、運転免許証(ICカード化され本籍欄が削除されたため、本籍確認のため「2つの4桁暗証番号入力」が必要)、日本国旅券、住民基本台帳カード、個人番号カードによる身分証明書の提出が必要である。それ以外の国籍については、入場者のパスポートや在留カードの提出が必須で求められるが、中華人民共和国や北朝鮮、イランなどの保有国籍によっては、横田飛行場への入場が拒否される。
(以上、「Wikipedia」参照)

 直線の道を西に進みます。右手に「馬頭観音」。

(13:55)「みどりの美術館」。

この先で、旧道は「横田基地」にぶつかります。

                        

目の前に広大な横田基地が広がります。

 この先で、旧道は基地の中に消えます。「第五ゲート」のところで街道は復活。



1880年代のようす。ほぼ直線で西に進んでいます。基地拡張のため、「五日市街道」は寸断された。


2010年代のようす。横田基地の中に消えています。一部残っている? 左の南北の道路は「国道16号線」。

         
1880年代のようす。南北の道は「八王子千人街道」。    横田基地第五ゲート付近(↓)。「千人街道」は基地内に(○)。

 基地の向こうに「大岳山」(↓)。この山は「八王子千人街道」のときに遠くに見えていました。今度の「五日市街道」では近くに見えるはず。


                           

左折し、現五日市街道(都道7号線)に合流します。

車が行き来している道路が旧道?

(14:08)西南遠くに富士山が見えますが、逆光です。  

向こうに「第五ゲート」があるはず。 

それにしても広大な土地を占有しています。  

「横田基地」への引き込み線。

                                      

(14:30)現「五日市街道」の標識。国道16号線と合流します。

                         

「第五ゲート」前で左折、「あきる野」方向へ。

                (14:47)「第五ゲート」。

                

(14:52)「八高線」の踏切を越えます。

「福生市民会館・さくら会館」前庭にある小さな道標。
 かすれていて読みにくいですが、「右 江戸」は五日市街道で、「左 きよ戸」の清戸は清瀬市清戸へ向かう道。
 この日はちょうど成人式で、この時間になっても若者達がそばの公園に集っていました。

(15:10)「青梅線」。右折すると、「牛浜」駅。今回はここまで。
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西武多摩湖線「一橋学園」駅~JR青梅線「牛浜」駅。その3。(「五日市街道」。第2日目。)

2019-02-08 21:02:55 | 五日市街道
                           (12:44)「砂川三番」交差点。右から来る道が「大山道」
しばらく進んだ先を左に折れる。

角に「大山道」という道路標示。

道路の反対側に「大山道」と刻まれた道標があります。

                                 



1880年代のようす。↓が道標のあるところ。右上から左下に進む。  



2010年代のようす。北は「青梅街道」とクロスするらしい(「多摩モノレール・桜街道」駅付近)。                              
《参考》「桜街道」駅付近。この農道が「大山道」のようです。

大きなお屋敷。

西に進みます。「五日市街道」という標識。

 この先、屋号の入った土蔵造りが目立ちます。
 

 

りっぱな建物。屋根には鯱。

(13:04)「残堀川」。

                      

 狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町3丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。
 元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
・・・1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
 しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。・・・
(以上「Wikipedia」参照)

 前掲の「株式会社いずみホーム」HPによれば、

 ・・・残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。
 残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。

 この川は、やはり「青梅街道」歩きの時にも渡りました。
《参考》上流の「伊奈平橋」付近。

(13:13)その先で「玉川上水」と出会い、「天王橋」を渡ります。 



 
                               「玉川上水」。水量は多い。

「西武拝島線」のガードをくぐります。

茶畑が広がります。

この土蔵造りにも屋号が。

大きなお屋敷が目立ちます。

 (13:40)「西砂」交差点で「現五日市街道」は斜め左に曲がりますが、旧道はそのまままっすぐ進みます。


                     ↓の方向。

 手前にあるコンビニで、しばし休憩。

(13:52)旧道からさきほどの分岐点方向を望む。

行く先(西)を望む。
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西武多摩湖線「一橋学園」駅~JR青梅線「牛浜」駅。その2。(「五日市街道」。第2日目。)

2019-02-07 22:09:02 | 五日市街道
(11:19)「立川市」に入ります。真っ直ぐな道がどこまでも。


車の行き来の激しい道路の脇にはこういう雰囲気のある路地が。

ケヤキ(?)の巨木の切り株が門前に。

少し下り坂になっていきます。

郊外の農家の趣。

この先、多摩モノレールの高架線が見えてきます。「五日市」という標示も。

(12:09)「砂川七番」駅でおにぎりを食べながら休憩。

                   


 沿道にはケヤキの巨木が目立ちます。「川越街道」でも埼玉に入ってから多く見かけました。武蔵野台地には適した樹木なのかも知れません。ただ、手入れが大変そう。冬場は葉っぱが散るので殺風景な印象。


 「長屋門」風のあつらえのおうち。
 

「昭和記念公園」」からの道路と交差。

右手に大きな広場・グランドが広がります。

 ところで、こうして「五日市街道」を歩いていると、「砂川七番」とか「砂川五番」とかという交差点名が出てきます。そのいわれは?

以下、「株式会社 いずみホーム」様のHPより拝借。

 立川市はかつての柴崎村と砂川村からなります。柴崎村が立川村に改称されその後立川市となった後、砂川村から改称された砂川町が編入し今に至るわけです。
 集落は水のあるところに生まれます。生存にとって欠かせない水の確保は絶対条件だったためでしょう。
 立川市に人が住み始めたのは、約1万5千年前と考えられています。また、縄文時代中期(約5千年前)になると、向郷遺跡(錦町・羽衣町)や大和田遺跡(柴崎町)で、大きな集落が営まれるようになりました。錦町、羽衣町そして柴崎町はちょうど立川崖線によって水が湧き出す地域です。水を求めて人が集まり、やがて集落を形成し、やがて村として発展を遂げたのが柴崎村です。
 砂川村が形成されたのは江戸幕府が開かれ玉川上水が開削されてからです。玉川上水によってもたらされた水によって新田開発が行われにつれ発展したのです。玉川上水が完成する前にも残堀川によって水はもたらされたようですが、水量も少なく広範囲で耕作が行われたわけではなかったようです。砂川の歴史にとって玉川上水は切っても切れない関係と言えるのです。

砂川の由来
 玉川上水開削以前の残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。。
 残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。現在は瑞穂町にある狭山池を水源として上流ではわずかに水が流れていますが、日照りが続き水源である狭山池の水位が下がると、そのわずかな流れさえも止んでしまいます。現在の残堀川はその名の通り「堀が残る」だけの川となっていて、今も昔も枯れたような川なのですね。ただ面白い事に多摩川に合流する直前、つまり下流では今も清流が流れ、川の宝石と呼ばれるカワセミの姿も見られます。春は桜並木が大変綺麗で、見ごろを迎えるとたくさんの人達が訪れのです。

砂川村の形成と新田開発
 砂川村の形成は玉川上水の完成と密接に関わっている事は前述しました。関東ローム層の赤土は乾燥すると砂埃を巻き上げ「赤っ風」と呼ばれました。そんな乾いた大地を玉川上水が潤していったのです。

砂川の開発
 砂川の開発は狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に願い出、許可されたところから始まります。これは慶長8(1603)年徳川家康が徳川家康が駿河から江戸へ入府し江戸幕府を開いてからわずか6年後の事で、しばらくの間は開発は進まなかったようです。
・・・
砂川分水と砂川新田
 新田開発が本格化したのは玉川上水の完成に伴い明暦3(1657)年、「砂川分水(後に幾つかの分水を繋げて砂川用水となる)」を引き込むことが許可されたためです。砂川分水は取水口のある天王橋から五日市街道に沿って開通されました。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったのです。その後発展を続けた「砂川新田」はその名称をを変え「砂川村」になりました。砂川新田を支えた砂川分水はその後他の分水と統合され現在は砂川用水としてその姿を残します。当初天王橋にあった取水口も移動し、昭島市の松中橋北側に柴崎分水の取水口と並んで設置されています。

砂川村
 天王橋から五日市街道に沿って引かれた一里ほどの砂川分水、そしてその分水と共に形成された砂川村はその取水口である天王橋から北東方向に伸びる細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。各組には組頭が置かれました。その後さらに東へと開墾が進めらますが、砂川新田が砂川村となった事から、その東を新たに「砂川新田」、さらに東を「砂川前新田」と呼びました。それらが後に「九番」「十番」となりました。こうした呼び名は今も残り、バス停や駅名などでも確認できます。多摩モノレール「砂川七番駅」がわかりやすいですね。私が子供のころは自治会主催の運動会などで「四番組」とか「五番組」などが対抗戦形式で競いあったのを覚えています。

五日市街道沿いの短冊形敷地
 旧砂川村は五日市街道から短冊のように縦長の敷地を持つ家が立ち並んでいます。街道沿いに屋敷林に囲われた屋敷部分(母屋・土蔵・物置など)があり、その奥に農地と雑木林が広がっています。外見上の特徴は立派なけやきの木が凛として立っていることです。夏の日差しを避け、冬の北風を防ぐためにケヤキやカシなどが植えられたのです。
 昔ながらの古い造りの家はかなり減ってしまいましたが、佇まいは今も残ります。農家の同級生の家に遊びに行くと、玄関に辿り着くまでのアプローチがとにかく長い。もちろん遊びに行く約束をしているのですから、臆面なく入っていいものですが、どうも気おくれして苦手でしたね。こうした五日市街道沿いのお家は、すなわち地主さんでもあるわけですから、長じて商売用のチラシをポスティングしようにも、門塀にポストがないと、さすがに面識のないお家だと敷地内に入り込んで玄関ポストに入れるのははばかられます。

砂川町は立川市に編入
 玉川用水と共に発展を遂げた砂川村はその後殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を組み入れます。そして明治22(1889)年町村制施行により神奈川県北多摩郡砂川村となり、明治26年(1893)年には北多摩郡が南多摩郡、西多摩郡とともに東京府へ編入され、昭和29年(1954)年町制施行し砂川町となったのです。この時立川村はすでに立川市となっており、昭和38(1963)年立川市に編入されました。

砂川闘争について
 大正11年(1922)に開設された立川飛行場は、戦後、立川陸軍航空工廠と一つになりアメリカ軍の立川基地となりました。その立川基地の拡張を公表した事から起こった住民運動が砂川闘争です。1955(昭和30)年から1960(昭和35)年にかけて住民だけでなく砂川町議会も巻き込んだ基地拡張反対運動が続いたのです。そうした中起きた砂川事件と言う言葉は私の子供のころも耳にしました。どんなものであったのかは当時知りませんでしたが、野球少年であった筆者が普段練習していた小さな球場のあたりで起こったのだと上級生が話していたのを覚えています。
 結局立川基地の拡張は中止され、昭和52年(1977年)立川基地はアメリカ軍から日本へと返還されました。立川基地の跡地は現在昭和記念公園が整備され、地方裁判所などの行政機関が集まるエリアとなりました。また周辺エリアの開発も進み、IKEAやららぽーとなどの商業施設も作られています。
 ちなみに、中央線から立川飛行場に引かれていた鉄道の跡地は「栄緑地」「西町緑地」「北緑地」として市民の憩いの場となっております。

 長々と引用させてもらいました。

 ここに出てくる「砂川事件(すながわじけん)」とは、

 在日米軍立川飛行場の拡張を巡る闘争(砂川闘争)における一連の訴訟である。特に、1957年(昭和32年)7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(現在の地位協定の前身)違反で起訴された事件を指す。
 当時の住民や一般人の間では主に「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。(この項、「Wikipedia」参照)

そして、その時の確定した判決内容は
1 憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない。
2 条約について裁判所が違憲審査権を行使する場合は、一見極めて明白に違憲無効であると認められないか否かに限って審査すべきである。
3 アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。

 この判決(特に1項、3項)を都合よく解釈して(うまく利用して)、「安保法制」の際、日本国の「集団的自衛権」の根拠としたわけです。

 以下くどいようですが「」HPより)

 

 



砂川の今昔
 
1880年代のようす。街道の北側に沿って水路(砂川上水)がある。家並みが街道沿いに。

 
2010年代のようす。右上が「多摩モノレール砂川七番」駅。左下が「昭和記念公園」(立川基地跡の一部)
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西武多摩湖線「一橋学園」駅~JR青梅線「牛浜」駅。その1。(「五日市街道」。第2日目。)

2019-02-06 20:37:16 | 五日市街道
                                    「玉川上水」遊歩道。
1月14日(成人の日)。快晴。冬晴れの一日。「五日市街道」歩き2日目。
(10:06) 「一橋学園」駅下車。前回の地点から再開。

「玉川上水」案内板。

                「小金井(サクラ)」解説板。

(10:15)この先で、「現五日市街道」は、「玉川上水」から左に分かれていきますが、旧道はそのまままっすぐ進みます。


その分岐点に広場が。

小川水衛所跡」。
水衛所(水番所)とは
 江戸市中への水を確保するため、水番人と呼ばれる人が常駐していた場所です。水番人は、玉川上水に流れる水量や周辺の巡回、流れてくる落ち葉の掃除などを行っていました。水衛所は、江戸時代には奉行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。

小川水衛所について
 小川水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、明治27年に水番所を水衛所と名前を変え、引き続き職員(水衛)が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行っていました。
 その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、小川水衛所は昭和55年3月に廃止されました。水道局では、史跡である玉川上水をより身近に感じていただくため、水衛所跡地を散策路として平成24年度に整備しました。

その付近からの「玉川上水」の流れ。
 
上流。                                   下流。

国指定史跡 玉川上水」解説板。
・・・
 現在も羽村取水口から小平監視所までは現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。
 玉川上水は、約43㎞の区間を約92mの標高差(100mでわずか約24㎝の高低差)を利用して水を流すように設計されたど長大な土木施設・遺構です。
 特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。
 玉川上水は、近世の水利技術を知る重要な土木施設・遺構であることから、平成15(2003)年8月、開渠区間約30㎞が国の史跡に指定されました。 

※ この付近には、国指定名勝「小金井(サクラ)」の起点を示す境界石があるはずですが、見落としました。

この道を進み、突き当たりを左折し、現街道に合流します。

この付近の今昔

1880年代のようす。○が屈折しているところ。


2010年代のようす。この先は旧道も現街道も同じ道となる。

右手に大きな料亭「いろりの里 四季亭」。

 

打ち水された石畳を歩めば、武蔵野の原風景に彩られた懐かしい日本の情景が広がります。
汽車の汽笛、野鳥のさえずり、風の音、木々の彩り、茅葺きの東屋、触れ合う人の温もり。
あわただしい日常の中で忘れ去られた安らぎの時間がゆっくりと流れていきます。

華憐に咲く山野草、水路を優雅に泳ぐ錦鯉、奥山里の風情を残す茶室。
玉川上水沿いに広がる豊かな自然を借景にした広大な日本庭園に囲まれて過ごすくつろぎのひととき。
  

(この項、「」HPより)

ランチもあるようなので、機会があったら。

 突き当たりには竹林。
 

 「五日市街道」(「都道7号線」)に合流して、車の往来の激しい現街道をひたすら西へ向かいます。
                     

 しばらく進むと、旧「鎌倉街道」と交差します。右折してこの道を進むと、「玉川上水」に架かる橋が「鎌倉橋」。

(10:30)「鎌倉街道」道から南を振り返る。

 
   「鎌倉橋」。                                 「玉川上水」の流れ。

橋の北側を望む。

 街道に復帰。

(10:45)「国分寺市」に。周囲には緑が豊かに。

 「屋敷林」。

春の訪れはまだまだ。

古民家造りのお店 「のらや」。

 

2006年6月に東京3号店として五日市街道沿いにオープンしました。
築130年の古民家を改装し、四季を通じてお座敷から見えるお庭の景色が人気のお店です。
玄関横の井戸からが絶好の写真スポット!奥に進むと蔵がありお宝が眠っているかも?

「手打草部うどん」
大阪・堺・草部は和泉の国の豪族、日下部氏が地名の由来とされています。
この地で誕生したうどんは厳選した材料を丁寧に練りこみ、もちもちっとした食感が特徴です。
熟練した職人が毎日、塩度や水温の微妙な調整を行い、麺打ちしたものを全国のお店に届けています。
「おだし」
天然素材だけの旨味にこだわっているのでだしを飲み干してほしい!
厳選した利尻産の昆布を水出し製法で14時間かけて旨味を抽出します。
自然乾燥で熟成された数種類のかつお節をブレンドし、添加物を加えず旨味を最大限に引き出すために丹念に時間をかけてたき込んでいます。
「うつわ」
楽しんでお食事をしていただくために、キャラクターの「のらちゃん」をイメージしたオリジナル食器をつくりました。
「あっ、ここにも!」、かわいい猫が顔をのぞかせます。
お箸袋を集めるとその枚数によってお好きな食器と交換することができます。
ご自宅の食卓にものらやがいっぱい。

(この項、「」HPより)

 大阪・岸和田発祥の手打ちうどんのチェーン店のようです。この他にも、街道筋にはけっこう入りたくなりそうなお店が並んでいます。

古い農家風のおうち。

                     
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その5。(「五日市街道」第1日目。)

2019-02-04 20:39:59 | 五日市街道
                     (14:41)「行幸の松」記念碑。

小金井桜」についての詳細な解説板。
 小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6㎞にわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
・・・
 小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど1本1本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正13年(1924)12月9日「史蹟名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正2年(1913)に設立された「小金井保桜会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。

今では想像もできないほどの賑わいぶり。右手に見えるのが「柏屋」か?

料亭 柏屋」跡。右のガソリンスタンド。

奥に祠が見えます。

明治天皇が花見をしたことを記念しての「行幸の松」のところで一休み。
行幸松と行幸松の碑
 明治16年(1883)4月23日、明治天皇が御乗馬で、3人の親王とともに、小金井堤に観桜においでになられました。この名誉を後世に伝えるため、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたのが行幸の松です。
 19年後の明治35年(1902)、この松が見事に成長したので、海岸寺の住職玄格が地元有志とはかって、この松の由来を記した記念碑を松の傍に建立しました。
 なお、行幸の翌年には英照皇太后、昭憲皇后が来られて小金井橋際の柏屋で、碑建立の翌年には皇太子時代の大正天皇が来られて海岸寺境内の野立て所で、それぞれ観桜されています。


                     

(14:52)堤からは「玉川上水」の水面が所々、わずかに見えるだけ。 

                       

堤にはケヤキの古木が目立つ。

沿道で見かけた土蔵造り。

 
                                       「茜屋橋」。
 現在の茜屋橋は、昭和54年3月に建設されたもので、創設の橋は、明治初年に材木を3本かけ渡しただけの簡単な橋でありました。
 茜屋橋の橋名は、明治の初め材木業を営む一方でこの辺一帯は「茜草」(染料)を盛んに栽培しており、その元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからこの名がついたといわれています。
 平成4年度に行った玉川上水橋梁部整備では、桜名所の中にある橋として、桜や水や緑と馴染みながら調和するよう、高欄・親柱は、現在の擬木を活かして塗装等の補修をし、また歩道舗装などの改善も行いました。

(15:15)「喜平橋」からは、「玉川上水」の南側に移ります。

橋の上からの「玉川上水」。水量はほとんどありません。

「野村屋 小平喜平橋」「小平市」へ。

ここから「玉川上水」の流れは右手に。

「八左衛門橋」。「喜平橋」など人名にまつわる橋があります。

 (15:28)「西武多摩湖線」とクロスします。線路沿いに右手に進むと、「一橋学園」駅。今回はここまでにします。
               

「喜平橋」付近の今昔

1880年代のようす。中央の「喜平橋」で上水の南側に移る(↓)。



2010年代のようす。分かりにくいが、「現五日市街道」も同様。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その4。(「五日市街道」第1日目。)

2019-02-01 19:39:31 | 五日市街道
                                  桜並木。

(14:09)郊外という雰囲気が出てきます。

 冬景色なので桜並木の趣はありません。
 車道と遊歩道の間に植えられ、「五日市街道」の交通量の増加、「玉川上水」の水量の減少などの影響で、いっときほどの勢いのない古木(ソメイヨシノではなく、江戸中期に植えられたヤマザクラ)が多い。そのため、各種のヤマザクラの若木が植えられています。ソメイヨシノではないのがすばらしい。江戸、明治、と長い年月に亘る、官民一体となって地元の方々の保存活動が展開されています。

 

 
桜樹接種碑
 元文2年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水堤は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百余年がたち老木化が進んだので、嘉永3年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村々では、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。
 この石碑は、嘉永4年3月、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものです。石碑の表に「さくら折るべからず 槐(えんじゅ)宇道人(下田半兵衛)」、裏に無量老人(賀陽ーかやー玄節)撰の「桜樹接種の記」が刻まれています。

                    

名勝小金井(サクラ)について
               
               史跡玉川上水と名勝小金井(サクラ) 明治30年代

 玉川上水堤の桜並木は、200年以上も前から花見の名所として知られ、全国的に有名な花見の名所でした。
日本屈指の桜の景勝地であること、ヤマザクラの天然変種が多数あること、大木が多いこと、という3つの特徴から、大正13年12月9日付けで「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき国の名勝に指定されています。

名勝小金井(サクラ)復活プロジェクト
 花見の名所として知られた名勝小金井(サクラ)の景観は、江戸時代以来、大正13年の指定を経て昭和30年代までは、ヤマザクラの並木だけであり、法面や並木の林床は、様々な野草が自生する草地でした。
 名勝小金井(サクラ)は、近年、交通量の増加やケヤキをはじめとする高木の成長等、生育環境が悪化したことにより、危機的な状態にあります。
これを踏まえ、小金井市は、平成22年3月、文化財保護法に基づく東京都水道局の「史跡玉川上水整備活用計画」(平成21年8月策定)に沿って「玉川上水・小金井桜整備活用計画」を策定し、東京都や市民団体と協働で、名勝小金井(サクラ)復活へ向けた事業を進めています。

後継樹の育成と補植
「サクラ並木復活」のため、市民団体と協働で、歴史的経緯に基づき、多様なヤマザクラの苗木を育成し、東京都に提供、補植を進めます。

(この項、「」HPより)

                歌川広重『藤三十六景武蔵小金井』

         

《小金井桜のふるさと》
 名勝 小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。
 このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。今、危機的状況にある国の名勝「小金井桜」を私たちの代で絶やすことなく、後世に引き継がなくてはなりません。
 明治時代の有名な植物学者三好学博士の研究により、玉川上水堤の小金井桜のヤマザクラ並木は天然変種の一大集積地であることが明らかになりました。大正3年奈良の吉野山、茨城の桜川と一緒に名勝として指定されました。

《江戸時代》
 元文2年(1737年徳川吉宗の時代)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎右衛門が吉野や桜川から山桜の名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。
 文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。

《明治時代》
 幕末の動乱期を経て、明治22年(1889年)に甲武鉄道(元JR中央線)が開通しました。当時、武蔵境と国分寺に停車場が置かれ、花見時期には鉄道会社は割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して日曜日には数千人もの行楽客が訪れました。
 玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋に変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済は大いに潤いました。やがて甲武鉄道は国有化され、大正15年(1926年)に武蔵小金井駅が誕生しました。

(この項、「」HPより)

北側一帯に広がる「小金井公園」入口。

(14:31)「陣屋橋」。

                      
 江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。
 この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
 この陣屋から南真っ直ぐ小金井方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたですが、もとの陣屋橋はここから数十㍍下流にありました。
 また玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の命によって川崎平右衛門等が植えたものです。


「周辺案内図」。上の緑の部分が「小金井公園」。

この付近ではケヤキ並木になってしまいます。

 
      「御成の松」跡。
 玉川上水堤の桜並木(小金井桜)は、江戸近郊随一の花見の名所として知られ、多くの著名な文人墨客が訪れました。武士はしばしば騎馬で遠乗りを行い、文政9年(1826)には越前丸岡藩主有馬誉純(なすみ)、天保14年(1843)には老中水野忠邦等一行が花見に来ています。
 天保15年(1844)旧暦2月25日(4月12日)、第13代将軍家定(当時世継ぎ)一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにくの大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催しました。
 この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に1本の黒松を植え、「御成の松」とよばれてきました。見事な枝振りでしたが、惜しくも平成6年に枯れました。ここはその跡です。

              

(14:39)「小金井橋」。

「名勝 小金井櫻」碑。

この付近の今昔

1880年代のようす。○が「小金井橋」。「海岸寺」「真蔵院」などは現在も同じ位置。


2010年代のようす。北側に「小金井公園」。○にあるガソリンスタンドが当時の「料亭・柏屋」跡。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その3。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-31 18:33:56 | 五日市街道
                            「千川上水」。

(13:18)「御門訴事件記念倚鍤碑」。 
 この記念碑は、御門訴事件により非業の死をとげた旧関前村・同新田名主忠左衛門(井口氏)らを慰霊すると同時に、その事蹟を後世に遺すため同事件後24年を経た明治27年(1894)に建てられたものである。碑文の撰者中島信行は、元神奈川県知事として当地方にゆかりが深く、また自由民権運動の推進者として民衆運動に強い共感を示した人物である。
 御門訴事件は、明治3年(1870)、その前年に品川県から布達された社倉制度(飢饉に備えるための貯穀制度)に反対した旧関前村新田を含む武蔵野12か新田の農民達が品川県庁に門訴したもので、この事件は、当市域における維新直後の農民闘争としてまことに意義深いものがある。

注:「倚鍤(いそう)」とは、 鍤(鋤)にもたれて往時を回顧するという意味。

しばらく進むと「武蔵野大学」前の五叉路にさしかかります。

「千川上水」。

「千川上水」沿いの解説板と「石橋供養塔」。

《千川上水》
 千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負は一般に多磨郡仙川村(現調布市仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。
 こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることとなり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得ました。
 千川上水は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
 その後、江戸への上水としては享保7年(1722年)に一度、さらに天明6年(1786年)に再度の廃止をみて、むしろ水田灌漑面に大きな役割を果たしながら幕末を迎えています。練馬区域では石神井川や中新井川沿いの水田に多大な恩恵を与えました。
 幕末から明治にかけて、千川上水の水は滝野川の反射炉(慶応元年着工、中断)や王子の抄紙会社(明治6年設立、のちの王子製紙)、板橋の火薬製造所(同6年、旧金沢藩敷地内)などの工業用水として利用され始めました。明治13年(1880年)には岩崎弥太郎(三菱の創始者)の立案で千川水道会社が設立されました。これは明治40年、東京市に近代水道が引かれるまで存続しました(同41年4月解散)。
 その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で六義園の水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に終止符が打たれました。
 (この項、「練馬区」HPより)

《参考》「千川上水」は、上流と中流の一部を歩いています。地下鉄「千川」駅付近の「千川上水」(暗渠になって上は「親水公園」)のようす。
              

 「五日市街道」は左折し、「千川上水」沿いに進みます。武蔵野大学の正門左手、曲がり角に大きな「文字庚申塔」(13:23)。
                 文字庚申塔」解説文。
 現新町の全域は、江戸時代の享保9年(1724)から上保谷新田として開発された新田村でした。それから60年後の天明4年(1784)9月、この大きな文字庚申塔は、上保谷新田の入口に建立されました。塔右側面の銘文中に「願主新田中」とあるのは、新田村の全戸によってこの庚申塔が造立されたことを意味します。塔正面の左脇に、他の庚申塔に例をみない「五穀成就」と彫られています。村中あげて穀物が実ることを庚申に祈った、その願いを読みとることができます。この塔造立の前年の天明3年は、浅間山の大噴火・洪水・冷害が重なって江戸時代最大の飢饉が始まった年であり、翌天明4年は関東各地にその影響が及びました。村の入口から飢饉が侵入しないようにと、それを防いでくれる庚申の強い霊力に祈願して建てたのが、この塔であったはずです。
 塔の下部には十万に通じる道しるべを銘文して、上保谷新田の地理的な位置を示し、上端に庚申の種子(梵字・ウン)、下端に三猿を刻んで庚申の像客の一部を表現しています。天明4年の原位置は、現在の場所とほぼ同じであり、塔の正面は東方を向いていました。

下部には「右 小川 村山道」「北 たなし きよと 川こゑ ところさは」「東 江戸道」「左 ふちう すな川 八王子道」と彫られています。

「文字庚申塔」の下部。向きは違っています。

1880年代のようす。街道は右下から「千川上水」に沿って左に折れる。

2010年代のようす。

    
 落ち葉の中を進む。                          来た道を振り返る。


    

まもなく「玉川上水」との分水点に近づきます。
○が分水点。

(13:45)「千川上水 清流の復活」碑。

ここから始まります。

交差点・正面奥が「玉川上水」。

「玉川上水」案内板。

「史跡 玉川上水」碑。 

解説板。

 「玉川上水」も上流や下流の一部を歩いています。
《参考》
「多摩川」からの取水口。

                笹塚駅近く。けっこう深い堀状になっている。

 この先は「玉川上水」の北側の遊歩道を進みます。けっこう長く歩きます。
 

1880年代のようす。↓が分水点付近。

2010年代のようす。

(14:07)「歩道橋」に「五日市街道」という標示。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その2。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-29 19:54:57 | 五日市街道
                        (9:46)都道を渡って、旧道(路地)を進む。
                   

都道に戻って今度は向かい側の道を進みます。

                   来た道(右手の路地)を振り返る。

ゆるやかな坂道を左にカーブしながら進みます。

その先には大きなお屋敷が。

 現五日市街道(「都道7号線」)を右に左に渡りながら旧道を進んできましたが、ここでも、さらに都道を渡ります。
  

ここを右折すると、都道に復帰します。 

(9:56)合流する右手には大きな「庚申塔」。

 ここから先は、「現五日市街道(「都道7号線」)を吉祥寺に向けて進みます。
 

「高井戸境」交差点付近。五叉路になっています。左手の道が旧道。

(10:05)三角形の広場。そこに「五日市街道」碑と解説板。 

 

足元にはケヤキの絵と道路地図。かつてはケヤキ並木があったのでしょう。


                    

 この三角地帯はかつて屈折した旧道が直線化され、現在の街道となった名残なのでしょう。


1880年代のようす。○がその地点。


2010年代のようす。左の通りは「環八」。

ここの地名は「荻窪」ならぬ「柳窪」。

「環八通り」の高架橋を過ぎます。

                               

この先は右側にはケヤキ並木が。今の季節、すっかり葉が落ちていますが。

 (10:21)ほぼ西北に向かってまっすぐに進んで行きます。
広いおうち。

(10:46)「松庵小学校前」交差点から、武蔵野市に入ります。

注「松庵」という地名は、江戸時代にこの地の開拓を指導した医師・荻野松庵に因んでいる、とのこと。

↓が「五日市街道」。

                   

JR中央線のガードを越えていくと、にぎやかな吉祥寺の街並みに。

(11:02)「吉祥寺の杜 宮本小路公園」。「吉祥寺」解説板。
 
~吉祥寺村のはじまり~
 武蔵野市は、かつて4つの村でした。吉祥寺村、西窪(西久保)村、関前村、境村ーこの4か村をまとめて、武蔵野村としたのは、明治22(1889)年のことです。さらに、昭和22(1947)年に武蔵野市となり、今日に至ります。
 明暦3(1657)年に江戸で大きな火事(明暦の大火)がありました。火元は、本郷丸山町の寺で、振り袖についた火が火事の元になったという話もあり、「振り袖火事」とも言われています。
 火事の炎は強い北風に煽られて、たちまち南方へ広がり、神田や日本橋、そして江戸城の天守閣も焼き、本郷元町(現在の水道橋の北側)にあった「吉祥寺」という大きなお寺や門前の人達の家も焼けました。
 翌年、明暦4(1658)年にも大火があり、江戸の半分以上が焼失し、このときも「吉祥寺」は焼け、門前の人達も焼き出されてしまいました。この火事を「吉祥寺火事」といいます。
 江戸城をも焼き払った大火により、水道橋の名刹、「吉祥寺」を本郷元富士町に移し、門前の人達には江戸から遠く離れた野原の広がる牟礼野(現吉祥寺)に土地を与えました。これにより、駒込の名主松井氏、浪士佐藤氏、旗本宮崎氏は五日市街道沿いに移住し、その西隣りには江戸の西の窪の城下町の井野氏が入植しています。
 万治2(1659)年から移住が始まり、人々には五日市街道を挟んで両側に幅20間(約36m)、奥行き634間(約1140m)の同じ形の土地が分け与えられました。人々はまず、道沿いに家を建てその奥(北側又は南側)に畑を作り、耕しきれないさらに奥の方は山林として残しました。そして山林から木材や燃料をとっていました。当時の短冊状の細長い土地の名残を、五日市街道に交わる今の道路に垣間見ることができます。

にぎやかな通りの中の小オアシス。

 

1880年代のようす。上述通りの区画がはっきり。


2010年代のようす。区画に沿って路地ができ、住宅が建てられている。

人通りも多くなってきます。

                           

 実は、知人に「五日市街道」歩きを話したら、「吉祥寺は昔住んでいたところで懐かしい、お蕎麦屋さんだけどぜひ寄ってみて、お蕎麦もおいしいし、ご主人がとてもお酒にも凝っているから、お酒の好きな方にはおすすめ、ご夫婦で切り盛りしていて、奥さんもきさくな方だし、今でも年越しそばは、そこで買ってくるようにしている、そのお店の斜め前の道を入ったところに住んでいた、・・・」と。

 (11:16)「八幡宮」を過ぎた先、お店の名は「中清」。「開店前」。

                           「開店後」。

 が、まだお店は閉まっています(11:30開店ということに気づかず)。残念! せっかちな性分。少し雲行きも怪しくなってきたし、お店に入るのは諦めて先に進むか、と。そのまま「成蹊学園」を通過。
 
                       みごとなケヤキ並木。

 その先、「武蔵野市民文化会館」前まで進みます。しだいに雪交じりの雨に。しかたなく、「コンビニ」でしばらく雨宿り。が、いっこうに雪模様は変わらず。傘をさして行き交う人達。
 いっそのこと、今日はここまでにして戻ろうと再び吉祥寺駅方向へ。すると、お店が開いています。さっそく店内へ(12:03)。

「おまかせおつまみ」と「加賀鳶」。

 厨房の前にはお酒の銘柄がずらり、貼ってあります。値段もほどほど。
 隣の二人連れもお酒を飲みながら、あれこれつまみを頼んで。でも、どうも不思議な関係の中年の男女。旅行の打ち合わせをしているような・・・。
 もう一組は若い夫婦。お腹が大きい奥さんに、ご主人は優しい。あとから入ってきた壮年達4人は、力仕事中の感じ。それぞれ、おそばとご飯のセットもの(大)を頼んで、ビールを。

 こちらは一人、雨止みを待つ風情で、お酒を堪能。そして、お蕎麦。   

 お蕎麦の種類に、「あずまそば」「さとそば」が。更級系と田舎風と、さてどちらがどちら?
 「南極カレー南ばん」、「北極カレー南ばん」というのもあります。鶏肉と豚肉の違い。さて、どっちがどっち。

 「中清」さん。地元では古いお店。石川県産を中心にした日本酒とおつまみ類が充実しているので、酒好きでお蕎麦好きには堪らないお店のよう。

 そうこうしているうちに、雨も止み、晴れ間が。(12:45)お酒と満腹の勢いで先を進むことにします。
 ついでに知人が住んでいたというおうちを拝見して・・・。


《補足》
吉祥寺
 明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。
 折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成され、移住者によっては五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600間余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられたものもいた。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
 1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園が池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。
 地名の由来は、吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
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東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その1。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-28 20:32:11 | 五日市街道
                        →が「青梅街道」より分かれる「五日市街道」旧道。
                         「現五日市街道(都道7号杉並あきる野線)」は100㍍ほど東側で「青梅街道」と分岐している。

              
             
                  1880年代のようす。↓が分岐点。「吉」は「吉祥寺」のこと。

 新春。「五日市街道」歩きから始めます。「五日市街道」とは、「新高円寺駅」付近で「青梅街道」と分岐し、武蔵野市(吉祥寺)、武蔵小金井市などを経由し、あきる野市「五日市」までの街道です。

 (HPより)

1月12日(土)曇り、一時、雨。東京メトロ「新高円寺」駅下車。

(9:15)「五日市街道・旧道」から「青梅街道」方向を振り返る。

「現五日市街道(都道7号線)」と合流し、西へ向かいます。

                          

五日市街道」という標識。

「善福寺川」へ下る道には何カ所か旧道が残っています。

左の道に進みます。

                        

 今度は現五日市街道を横断して進みます。「善福寺川」への下り坂。
「加冨山米店」脇の道。

 「現五日市街道(都道7号線)」は善福寺川までゆるやかに下っていきますが、かつての道は急坂を七曲がりしながら下り、さらに川を越えると屈折した道になっていました。難所だったようです。

「都道7号線」。

旧道。

(9:37)左に折れる角に「民間信仰石塔」。
 石塔の南側の通路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の通路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。・・・

                 

一気に下って行きます。

「都道7号線(五日市街道)」に合流。

五日市街道」解説板。
 この前の道は、五日市街道です。
 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで、青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。
 江戸時代初期は「伊奈道」とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。
 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。
 『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約5.4メートル)程で狭く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(約14.4メートル)とあります。これは3ヶ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡げたものと考えられます。
 明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約57キロメートル(杉並区内約8キロメートル)が都道(主要地方道杉並あきる野線)に指定されています。
 武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。
 沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。

(9:39)「善福寺川」を「尾崎橋」で越えます。
 上流に向かって左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おざき」とは、突きだした台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居跡からみて、この台地には約8千年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾の辺りを小崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
 このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次のように記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」

 
「善福寺川緑地」案内板。

                 
善福寺川
 杉並区の善福寺公園内にある善福寺池に源を発する。杉並区を北西から南東に貫くように流れ、中野区の地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅(中野検車区)付近で神田川に合流する。
 中流の川沿いには都立善福寺川緑地と都立和田堀公園が全長約4.2 kmに渡り整備されている。ただし、これら整備された公園以外の河川敷の歩道は非常に狭い為、通行時のすれ違いには注意が必要である。なお、自転車同士のすれ違いが困難な場所もあることから、このような場所では地元の人以外が立ち入るのはまれとなっている。
 住宅地の低地を流れる河川であり、古くから氾濫する川として知られる。集中豪雨・台風対策として神田川・環七地下調節池(貯留量:54万立方メートル)を設置し水害対策を行っているが、2005年(平成17年)9月4日に発生した集中豪雨では、想定貯留量を超える雨が川へ流れ込み、中野区と杉並区の一部民家が被災する事態が発生した(浸水被害はおよそ3000戸)。現在でも橋梁付近には防災警報・カメラが設置され、土嚢が常備されている。
 なお、都市化とともに善福寺池に流入する水量が激減し、一時期上流部にはほとんど水が流れていなかったが、1989年(平成元年)からは善福寺池からの流出地点にあたる美野山橋のたもとより放水し、渇水を防いでいる。 この水は都の清流復活事業により千川上水へ通されている下水高度処理水を、上水の開渠部終了地点にて回収し、送水しているものである。
 1959年、杉並区内の善福寺川でBOACの客室乗務員が遺体で発見された事件(BOACスチュワーデス殺人事件)があり、後に松本清張の作品「黒い福音」のモデルとなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年代のようす。鋭角に折れている。



2010年代のようす。ほぼ直線化している。

橋を渡ってすぐ右側の道を進みます。

(9:44)再び都道に出る手前に「寶昌寺」。門前脇には「石橋供養塔」。

                     「東江戸道」とあります。
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