おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小金~我孫子~取手。その5。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-07 20:21:02 | 水戸街道

 (14:34)やっと渡り終えそうです。対岸は、取手市。
    
                                       振り返って望む。対岸は我孫子市。

取手市。



1880年代のようす。明治に入って渡し場の位置が上流の方に移動したようです。



現在のようす。

橋を渡り終えると、右に進みます。常磐線のガード下。

その先で「取手宿」に入ります。「宿場通り」。

(14:49)左奥に「長禅寺」。

その参道入口に「奈良漬の新六」の店があります。

    

奈良漬
 そもそも奈良が発祥の地で、ルーツについては古く奈良時代に遡ることができます。1988年、奈良朝廷の左大臣長屋王(ながやのおう729年没)の邸宅跡から出土した3万点の木管の中に粕漬についての記述木片が発見されました。木片には、ウリ・ナスやミヨウガを酒粕に漬けこみ木箱に入れて進物用に用いられたと記されてあります。
 当時、貴族階級は酒(どぶろく)と粕漬を嗜む趣があり、粕漬は食物のなかで保存食としてまた、香の物として珍重され高級食品であったことがうかがい知れます。その後、粕漬は奈良に訪れる旅人に食され庶民に広く親しまれるようになり、『奈良漬』して一般的に呼ばれるようになりました。
 特に江戸時代には、将軍徳川家康は奈良漬を大変好み、江戸屋敷まで奈良の糸屋宗仙(漢方医で奈良漬を造る名人)を呼び寄せ奈良漬の製造御用商人として召し抱え、四季を問わず食膳に香の物として食していたと言われております。一説には『奈良漬』という名になったのは、糸屋宗仙が慶長年間(1596~1615)に名付けたと言う説もあります。

 取手の奈良漬がもう一つの名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌にあります。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域となっており、良質な新鮮な夏野菜が確保しやすい立地にあります。また銘醸地としても知られている石岡や水戸は、関東地方のなかでも屈指の酒どころで、これらの県産酒から産出される副産物の酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっております。

新六本店
・将軍家継の代に、取手に新六住むとある。寛政の頃には酒造業を営み、文政にいたって利根川に廻船問屋に精を出す。粕漬の元になる酒造り、材料を集めるための船運の仕事が、その後の奈良漬造りのために大いに役立つとは・・・
・先々代田中新六、試しに造った奈良漬が意外においしいので、親戚、知人に分けたところ大いにほめられる。気をよくした新六、明治元年にいたって遂に発売しようと決心。屋号もその名の通り「新六」。取手の新六としてたいへん親しまれる。
・その後も日夜、製法を研究練磨しているところ、新六のうわさは村々から近隣の国にまで拡がる。明治33年明治天皇笠間行幸の際、茨城県知事を経て宮内大臣田中光顕閣下より奉献の栄を賜わる。 さらに昭和4年、水戸陸軍特別大演習に、昭和陛下行幸の天覧を賜わり、宮内省より御買上の光栄に浴した。
・大利根の流れが育くむ関東平野。そこにとれる新鮮な野菜を素材に、酒粕やミリン粕のほかは、合成添加物を一切加えず今も木の樽に漬け、土蔵の中に自然にねかせて造る。人手と時間をたっぷりかけた新六の奈良漬の評価は高まるばかり、季節を問わず食膳に欠かせないものとして喜ばれている。

 元来の奈良漬の素材は白瓜。それが中国から仏教とともに日本に渡来し、酒の名産・奈良で中国帰りのお坊さんが漬けたのが発祥とされます。つまり奈良漬は、原料の白瓜がよく育ち、良質の酒粕に恵まれた土地の特産物。その点、ここ利根川水系一帯もよい野菜とよい酒の産地。奈良漬の生まれ育つ風土的条件にはぴったりです。
 奈良漬は、パリパリでもさくさくでもいけません。あくまでもシャリッと、みずみずしい歯ざわりでなければ。肉質がやわらかく、しかも歯切れがよく…。これが奈良漬の真髄です。
 「私が味わって満足できないものは、店に出しません。店に出している製品の味は、すべて私の責任です。生まれたときから奈良漬と一緒に育った私です。いい奈良漬の味を、この舌が知っています。私の第一の務めは、その舌を狂わせないこと。そのためには、何を犠牲にしてもいいと思っています。」


(以上、HPより)

 お店の中はけっこう賑わっています。少し変わっていますが、「生姜」と「山牛蒡」の「奈良漬け」を購入。家で食すると、酒粕の香りと素材のしゃきしゃき感が絶妙で気に入りました。
 茨城県内はもちろんですが、都内では唯一、銀座ので扱っているとのことです。 

(14:55)お隣は明暦元年(1655)創業の「田中酒造」。 

㈱田中酒造店歴史
 江戸前期、陸前浜街道の要衝として発展してきた取手宿。その面影を残すのは取手市内には、参勤交代で使用された本陣と様々な寺社仏閣、そして君萬代醸造元田中酒造店があります。
 常総大地の東のはずれ、利根川の砂礫層を通ってくる豊富な伏流水と後背地に相馬、谷和原の穀倉地帯を控える地の利から創業(明暦元年1655年)以来日本酒を醸造してまいりました。
 明治17年(1884年)、現在の牛久市域で陸軍近衛砲兵の射撃演習が行われた際、明治天皇が行幸し、牛久の旧家が行在所となりました。天皇が利根川を渡り行在所に向かう途中喉の渇きを訴え、造り酒屋の水なら大丈夫、という事で差し出されたのがここの井戸水でした。天皇が大変満足されお気に召した為、天皇の行在所滞在中、水を運ぶこととなり、その功により明治 天皇より下賜されたのが「君萬代」の銘柄であると伝えられています。
           

「君萬代蔵開き 2016年12月4日」。

「本陣通り」。

左手に「染野本陣」。

 (14:58)休館日のため見学できず。奥にある「本陣門」と「案内板」。
    

旧取手宿本陣染野家住宅 茨城県指定建造物(主屋と土蔵は平成8年1月25日、表門は平成26年1月27日に指定)
                         取手市指定史跡(昭和62年1月1日)
 江戸時代、水戸街道は、現在の足立区千住と水戸を結んでいました。大名が宿泊や休息した家を本陣と呼びました。染野家は、代々取手宿の名主を勤めており、水戸徳川家から本陣に指定されました。水戸徳川家の藩主だけでなく、水戸街道を行き来する他の大名や高位の武士も染野家を本陣に利用しました。
江戸時代、取手の宿場はたびたび火災にあい、現在の旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政6年(1794年)の火災の翌年に、表門は文化2年(1805年)に再建されました。現在の敷地はほぼ当時のままで、主屋(しゅおく)・土蔵・表門(おもてもん)・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の歌碑が残っており、当時の様子がうかがえます。
「旧取手宿本陣染野家住宅」。

(以上、HPより)

取手宿
 水戸街道千住宿から5つ目の宿場町。

                          

 現在の茨城県取手市取手・東のあたり。宿場町は東西に1キロ弱の範囲で広がっている。水戸街道は利根川を南北方向に渡っているが、その水戸側・北岸で向きを変えて東南東に向い、取手宿に入る。対岸の江戸側・南岸にも、正規のものではないが、青山宿という小規模な宿場町があった。
 取手宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 取手は、宿場町であるだけではなく、利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったことから、二百軒程度の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。旧道筋には2005年現在も、多少の古建築を見出すことができる。
 
 取手宿と藤代宿との間には小貝川水系の低湿地があり、小貝川は暴れ川であったことから、この区間は東から西へ「本通り」「中通り」「椚木廻り」「大廻り」とルートがわかれ、増水時の迂回路が用意されていた。

                                                   (以上、「Wikipedia」参照。)

 (15:05)次の宿まで行こうと思いましたが、来客があるというので、今回はここまで。
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小金~我孫子~取手。その4。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-06 21:50:35 | 水戸街道

 「我孫子宿」を出て、この先、いよいよ「利根川」を渡って、「取手宿」へ向かいます。


しばらく進むと「成田街道」との追分(分岐点)。

 三叉路のところに「成田道」道標など石塔が建っています。
    

直進する道が「成田街道」。

左斜めに進むのが「旧水戸街道」。
                                               「追分」を振り返って望む。

 JR「成田線」の踏切には「浜街道踏切」とあります。
    

そのまま進むと、旧道はJR線に突き当たります。  

このガードは「通行禁止」。

 その先の常磐線ガードをくぐって、線路の向こう側に出ます。この辺りの旧道はよく分かりません。その先はインターチェンジ風になっていて、どう歩くのか、迷いました。
 「我孫子市教育委員会」の建物脇を通り、右手の「老人福祉施設」の先を左に曲がります。ようやく旧道に復帰できた? 
    

 左手に「柴崎神社」を見て、そのまま進むと、「国道6号線」の「柴崎交差点」に出ます。その先、国道に沿って進みますが、旧道はこの辺りでどのように進んでいたのか? 「国道6号線」東側には旧道が残っているようなので、「青山台」交差点で右に折れて、国道沿いに進みます。
「6号線」方面を振り返る。

クランク状の道筋。振り返って望む。

右折、左折すると、古い家並みが続き、渡し場がその先に。

 突き当たりが、「利根川」の土手。



1880年代のようす。明治になってかつて渡し場は廃止され、現在の国道6号線・「利根川大橋」付近になっているようです。



現在のようす。「国道6号線」と「常磐線」。

 「大利根橋」付近の昔と今。





(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 いよいよ「利根川」を渡ります。現在、下流の常磐線の先に取手市が行っている「渡し船」があるようです。20分近く歩きます。けっこう長い。風は冷たいし、・・・。
    

広い河川敷はゴルフ練習場。

 川幅もけっこうあります。常磐線の鉄橋。
    
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小金~我孫子~取手。その3。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-05 19:33:26 | 水戸街道

 この先、旧水戸街道は、「国道356号線」となります。しばらく進むと、「旧道」はJR線に分断されてしまうので、国道と離れて、跨線橋を渡ります。
 「我孫子市立第4小」の脇を進むと、「我孫子宿」に入ります。

    
                                                来た道を振り返って望む。

この先から「我孫子宿」。

(12:14)宿場らしい鈎型に曲がった道になります。
    

我孫子宿(あびこしゅく)
 水戸街道千住宿から4つ目の宿場町。現在の千葉県我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。
 本陣・脇本陣が置かれた大規模な宿場町で、東西に1km弱の範囲に広がっている。宿場町東端から数百m水戸側に離れたところには、成田方面に向う街道筋との追分があり、石碑が建てられている。天保14年(1843)では家数114軒、本陣1,脇本陣1軒。常備人馬は10人、10疋。
 旧道筋が拡幅されたこともあり、ほとんど古建築は残されていない。本陣跡も、説明が付された杭が立てられているだけである。

               (「Wikipedia」より)

 (12:25)さて、やっとJR我孫子駅前に着きました。それほど大きな駅ではないようす。さっそく、知人に電話。

「もしもし、今、我孫子駅前にいるんだけれど」
「あっそう、なんでまた? 」
「ほら、水戸街道歩きでここまで来たのさ。」
「それはご苦労様です。」
「飯でも一緒に食おうかと思って。」
「大変残念でしたね。今、銚子に来ているんですよ。銚子。」
「えっ、せっかくの休みの日なのに。」
「キノコの採集でさ、来てるんだよ。けっこう今日は寒いね、ご苦労さん。」
「ホント、風が冷たいよ。」
「僕のうちはさ、天元台駅の方だから。」
「いないうちに行ってどうするんだよ。」
「ここが私のうちかって確認してもらってもいいよ。」
「そんなの意味ないじゃない。これから取手に向かうところだよ。」
「お疲れさん。寒い中、ま、頑張って下さい。」
「このへんに飯屋はあまりなさそうだね。」
「う~ん、老舗のうなぎ屋はその先の方にあるけれどね。」
「ご馳走してくれるならいいけど。」
「銚子だから無理だよ。」

・・・
 
 大いに当てが外れて、「日高屋」に入りました。先週の街道歩きに続いて同じチェーン店に。

我孫子にゆかりのある文化人。そういえば志賀直哉なども。

 さて、再開。我孫子宿の中心地を進みます。

    
                             (12:59)「割烹旅館 角松本店」。

せめて写真だけでも。(HPより)

その先で道は左に折れます。振り返って望む。

道標「従是子ノ神道」と解説板。

水戸道中と我孫子宿の町並み
 江戸幕府は今から約400年前の江戸時代初めから、江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。江戸と水戸とを結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に次いで重視されました。水戸道中は奥州街道の千住宿から分岐し、新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、江戸初期は布佐から竜ケ崎経由で水戸を目指していましたが、天和2(1682)年には第一小学校入口交差点を北に進み、取手宿を譬喩するルートに変更されたことが資料から判明しています。
 江戸中期の宝暦8(1758)年に書かれた「土浦水戸道中絵図」の我孫子宿(吾孫子と表記)では、カギの手状に曲がった道に沿って70軒ほど家並みが続き、幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約50㍍)。また、現在地付近には伝馬(馬・人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。本陣、問屋ばともどのような建物が建っていたのか不明ですが、ここから約1キロ東にある旧村川別荘の母屋は、本陣の離れを大正10(1921)年に解体移築したものと伝えられ、当地角に立つ寛政元(1789)年の「子の神道標」と合わせて、江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。

  平成24年3月           我孫子市教育委員会

    

その先、左手に「我孫子本陣跡」碑。 
 この付近には江戸時代の参勤交代などのときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた「本陣」がありました。

  平成13年3月           我孫子市教育委員会


 今度は大きく右に曲がりますが、その手前、左手には「脇本陣跡・小熊邸」。今も現役の茅葺き屋根のおうち。
    

交差点の左手には「割烹・鈴木屋」。

そこから来た道を振り返って望む。

 鈴木屋は明治12年に成田街道沿いの宿場町・我孫子の宿という場所に宿屋を構えたのがはじまりです
 おかげさまで137年店を営んでくることができましたこと 心より感謝申し上げます
 我孫子は都心より35分という便利な立地ながら北に雄大な利根川をひかえ南に水鳥の群れる手賀沼をのぞむ緑ふかく、豊かな水に恵まれたその風光明媚な景色から「北の鎌倉」と呼ばれ、かつて志賀直哉をはじめ多くの文人たちに愛されてきました
 時が流れ町の景観がかわりゆくなか 今もなおその自然は多くの人の心に安らぎを与えてくれます
 鈴木屋も日本料理の伝統を受け継ぎつつ、「どこか心安らぐ場所」であり続けたいと願っております

・・・

(以上「鈴木屋」HPより)

 ここでは、毎月、「わいわい亭 寄席」を開催しているとのことです。
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小金~我孫子~取手。その2。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-03 20:35:10 | 水戸街道
 (10:52)「柏神社」前を行きます。北柏から我孫子へ向かいます。

 柏神社脇の解説板。

水戸街道の木戸
 江戸時代、柏市域の一部は小金牧といわれた幕府直轄の馬の放養地、供給地であり、当時の水戸街道はこの牧の中を通過していました。その情景は下の「水戸土浦道中絵図」から探ることができます。
 牧の中を水戸街道が画面東西に走りぬけ、その街道沿いには松並木と想われる樹木、周辺の野原には野馬の群れる姿が見られます。牧のはずれには木戸(「柏木戸」「新木戸」)が置かれ、その周囲には野馬土手が築かれている様子がわかります。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や人々の物資の輸送などに使われた重要な道でした。そのため牧と村の出入口には木戸を作り、人々の往来を確保し、無宿者や浪人者などにも対処するための関所の役目も果たしていました。明治時代になって地租改正が行われ土地に番地がつくようになると、柏木戸のあったところが柏一番地となりました。
 現在、木戸は残されていませんが、水戸街道の「新木戸」や成田街道(現在の県道我孫子・関宿線)と言われた「花野井木戸」「船戸木戸」などが今でもバスの停留所の名称として使われています。

駅前商店街。

(10:57)「巻石堂病院」。

ユニークな道標? 

(11:12)「国道16号線」と交差します。    
                                         「旧水戸街道入口」。

たどってきた道(柏方向)。  

これからたどる道(我孫子方向)。

 (11:21)JR常磐線跨線橋を渡ります。正面の建物は、「ハート柏迎賓館」。
    

「ハート柏迎賓館」。
                        ここは、結婚式、歓送迎会、パティーなどに利用されているようです。

線路に沿って進みます。

民家の脇に古い馬頭観音道標。「ながれやまみち」、正面に「馬頭観音」。    


 しばらく進むと、「国道6号線」北柏入口交差点になります。旧道は寸断されるので、陸橋下をくぐります。「国道」の向こうは、大規模物流施設「ロジポート北柏」。

    
                        (11:33)呼塚河岸跡(呼塚橋から。正面は常磐線、その先は手賀沼)


「根戸大坂」。緩やかに右に左に曲がる道筋。

根戸地区。大きなおうちが目立ちます。
    

「災害用井戸 協力の家」。

(11:47)JR「北柏駅」を過ぎた左手に「東陽寺」。

    
                           邸内にたくさんの石像が並ぶおうち。

しばらく進むと、右に大きく曲がります。

昔ながらの大きな農家、そして、祠。  

(12:00)「国道6号線」根戸交差点を渡ります。

    
来た道を振り返って望む。                                  我孫子方向を望む。
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小金~我孫子~取手。その1。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-02 19:00:04 | 水戸街道

 11月23日(祝)。曇り。風冷たし。水戸街道第2日目となります。
 我孫子に知人がいるので、うまくしたら飯でもご馳走してもらおうかと、そんな魂胆で。

 北小金駅を降りて前回の「道標」のところまで。「小金宿」から「国道6号線」に向かいます。


(9:28)今日はけっこう肌寒い。イチョウ並木。

国道6号線との交差点が「根木内」。左側の丘陵が「根木内城跡」。
    
 「北小金」駅方向を振り返って望む。                     

 一帯は、「根木内歴史公園」として整備されています。丘陵奥に広がっています。

(9:37)案内板。 

根木内歴史公園
 松戸市内には戦国時代の城郭が10ヶ所以上あったと考えられています。残念ながら大半は急激な市街化によって消滅してしまいました。当時の面影を残しているのは、ここ根木内城跡と小金城跡の2ヶ所です。
 根木内歴史公園には、「空堀」「土塁」「土橋」などがよく残されています。戦国時代を物語る歴史遺産として、地域の誇りとも言える遺跡です。・・・

城のはじまり 戦国時代がはじまった15世紀中ごろ
築城者    原氏または高城氏(下総国守護千葉氏に関わる武家)
城の役割   小金城の東側を守る拠点・街道の監視など 
城のおわり  豊臣秀吉が天下統一を果たした16世紀末(1590年ごろ)
城郭の規模  東西200m、南北500m(公園の南北を含む推定範囲)

 ゆるやかな坂道を行くと、「柏市」に入ります。
    

右手に庚申塚。   「庚申塚」バス停。

民家の入口付近にあった聖徳太子塔・庚申塔。「中新宿村」とあります。
  

(9:57)その先、香取神社の境内に「一里塚の碑」。
    

一里塚の碑
 この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります
 むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を生やし 旅人たちの目じるしとも 濃い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは嬉しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました 
 ここにも 一里塚があって 長い年月の程を朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
 過ぎゆく 忽忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました
 昭和六十二年秋 氏子総代
  下陰を さがしてよぶや 親の馬 一茶

 注:この句は、小金牧の放馬を詠んだ句で、季語は下陰。一茶(この頃、48歳)は、文化7年(1810年)6月14日、流山から小金原を経て守谷に向かいます。

   十四 晴  小金原  布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。(『七番日記』より)

 余談ですが、「七番(しちばん)日記」は、一茶48歳から56歳までの句日記で、特に若い妻をめとり、「交合」(セックス)の回数などの記録が赤裸々に綴られているのでも有名な生活記録「日記」です。昼夜を分かたず交合し、子作りに励むようす、精力剤のことなどもあり。(まさかこうして公にされるとは思っていなかった? ということはないでしょうが。) 

 「七番日記」中、有名な句を一句。痩蛙まけるな一茶是に有

旧道沿いには農家風の古いおうち。

 (10:19)直線の旧道は、かつて松並木になっていたそうです。
解説板。

水戸街道の松並木
 江戸時代、水戸街道(水戸道、水戸道中)は、江戸と水戸を結ぶ重要な街道でした。日本橋から千住、江戸川を渡り、松戸、柏の小金牧の中を通り、我孫子で利根川を渡り取手、牛久、土浦を経て水戸に至る行程です。現在、この旧道に沿って国道6号線やJR常磐線が走っています。
 水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていましたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、道に迷うことがあったようです。そこで、水戸藩から資金を与えられた街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木のはじまりといわれています。
 昭和50年代までこの付近には、当時をしのぶ松並木が見られましたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、現在では残されていません。
     
    平成19年10月 柏市教育委員会

 現在のようす。「南柏駅東口」交差点を過ぎた先、「とんこつラーメン店」のところから西に「日光東往還」が始まっています。常磐線跨線橋を渡って西北に向かいます。


日光東往還
 日光東照宮参詣の為に造られた日光街道の脇往還である。水戸街道小金宿 - 我孫子宿間の追分と日光街道石橋宿 - 雀宮宿間の追分を結んでいた。
 日光東往還は、水戸街道小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する官道であった。その道程は20里34町(約82キロメートル)に及ぶ。参詣目的のほかに周辺大名の参勤交代や物資の輸送、庶民にも利用された。関宿道、結城街道、結城道、多功道という名称もあったほか、江戸幕府による正式名称は関宿通多功道であった。
 現在、周辺住民からは旧日光街道と呼ばれるほか久世街道、結城街道などとも呼ばれる。前述の南柏駅付近を走る国道6号には「旧日光街道入口」という交差点も存在する。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照)

(10:25)その付近にある「新木戸」バス停。

    

1880年代のようす。「日光東往還」との追分付近。


現在のようす。すっかり住宅地に。



「雷神社」。

(10:43)JR柏駅前の賑やかな街並みに。

《付》

小金牧 ~開墾と野付村の生活~
 水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図(大久保忠寛家蔵)

 小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
 牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

(以上、HPより)
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型通りの猿芝居。何度も何度も見せられる国民。

2016-12-01 19:56:23 | 世間世界
カジノ法案審議入り=自民、今国会成立の意向

 いつものパターン。アベもそれを見越して、強気の態度。「たかがこんな法案ごときで、与党から離れることはないでしょ。」「君たちが賛成しなくても、維新の会が賛成するから」
 この法案、「日本維新の会」への恩を売る法案。ここで恩を売れば、ますます改憲の際には大賛成する。他の法案も、思い通りに。
 「日本維新の会」。今や自公政権の補完勢力として、アベ政権提案の法案にことごとく賛成、賛成。野党、特に「民進党」への憎悪はアベ顔負け。
 しかし、選挙となると頼りになるのは、創価学会の組織票。「維新の会」は吹く風任せの政党(組織といえるかどうか)。結果的に獲得した議席数のみ当てにしている。
 なんといっても、怪しげな信仰心に根ざして、集票活動に手弁当で頑張る「運動員」を抱える組織が頼り。
 衆院選。最近はその時期などもまずアベが公明党党首にささやくことになっている、らしい。
 今夏の「都議選大勝利」が至上命令の公明党・創価学会。出来たら新年早々に、それがだめなら秋口。秋になると時機を失する可能性大。伝家の宝刀をいつ抜くか。フリーハンドでいたい。
 ならば、国民の非難を浴びるかもしれない法案は、今国会ですべて通しておけばいつでもOK。のど元過ぎれば何とやら。年が明ければすっかり忘れて、・・・間髪を入れず選挙で大勝利。これを公明党もしかとご承知の上の猿芝居。こうしてまたも、・・・。

 それにしても、「カジノ法案」に賛成とは!
                                                                               以上
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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その6。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-29 21:27:19 | じじばばがゆく

公園の片隅に放射線の線量電光掲示板。誰もいないのに、間断なく流れるように表示しています。

 公園は荒れ放題。遊具もベンチも・・・。
     

 「ちょっとの間ですぐ雑草が生えてきちゃうんだよな」とつぶやきながら、黙々と公園の草を抜いたり、枯れ葉を集めている一人の老人の姿。作業員にも見えない、いったいどういう方か?
         

左手には「浪江小学校」。    

              校庭は草ボウボウ。
     
鉄棒。

 今日、11月14日。月曜日。しかし、子どもたちの声はどこにもありません。今、皆はバラバラになって、福島県内の仮校舎や関東、遠く関西、あるいはもっと遠くに移り、そこでの学校で学んび、すでに卒業している子どももいるのでしょう。幼なじみからも離れ、地域の人々とも離れ、中には親とも離れ、親ももちろん、年寄りも同じように、・・・。
 横浜では深刻ないじめ事件も起こりましたが、けっしてそこだけの話ではないようです。  

 そろそろバスに戻る時間になります。解体が終わり、空き地となったところには、立て札が立っています。それぞれ記号で記されています。その建物に、敷地に住んでいただろう人の固有名詞はありません。
 新築中なら「○○様邸」とかあります。そうした家族の、商売の、生活の、営みの、一人ひとりの、痕跡はまったくうち捨てられ、単なる記号化されてしまう。すでに手放した土地なのでしょうか? 分譲地、宅地販売地の符号のような立て札にぞっとしました。

 こうして地域から隔絶させられていく(それも、国策のもとで)ことへの憤りを強く感じます。

                      

一方で、残された建物もあちこちに。   

地震で痛めつけられただろう建物。 

 古民家を改装した飲み屋さん。今でも開業していそうな雰囲気。もちろん、営業はしていません。
    
                                       その隣はすでに解体整地済み。

 浪江町は「高原の駅よさようなら」の作曲家の故郷だそうです。


はげ落ちたスローガンがむなしく響きます。 
                                                「安心して暮らせるやさしいまち」。

 こうして福島駅に戻ってきました。その道中も至る所で除染作業中の幟が目立ちます。放射線を浴びながら悪戦苦闘する作業員たち。果てしもない戦いにいつ終わりが来るのでしょうか? 劣悪な作業現場での作業員たちの生命・健康を損なわせての帰還事業によって、新たな災害を生むことにならなければ、と。福島第1原発の廃炉作業も遅遅として進まず、新たな被害を生み出さなければ、と。

 国民の一人ひとりの生命と暮らしをないがしろにしての政策はどこか無理があるはずです。沖縄基地問題もそうですが、今また原発再稼働、原発輸出に狂奔するアベ自公政権。

 こうした政治を許さない! 昨年の沖縄辺野古現地闘争を垣間見た経験と今回の経験を糧に、老いてもまだ盛んなり、の精神で。

    

 かつて、広島に行った時の感想で、「広島からヒロシマへ、そして再び広島へ」と書いたことがあります。具体性から幅広い普遍性へ、そして地域に根ざした具体性へ。
 「福島からフクシマへ、そして再び福島へ」。言葉が一人歩きするのではなく、生活や人生に裏付けられた(一瞬のうちに強制的に奪われた暮らしに思いをはせ)視点を大事にしつつ、打って出る戦いが重要だ、と改めて。                              
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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その5。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-28 19:42:25 | じじばばがゆく
 浪江町に入って行きます。ここも無人の町。解体作業と除染作業と、その関連の作業員とトラックと。信号は点滅していても、通る人間はいません。ただ、車が行き来するのみ。地震と津波と原発事故で今や建物もそのまま放置され、あるいは解体中、そしてすっかり整地された区画が点々とあるだけ。

               
 建物が並んでいても、人っ子一人もいないというのは、実に不思議な、というより不気味な様相。

 JR常磐線・浪江駅前で下車します。

    
                                     荒廃したままの商店。

          駅前広場。1.21μ㏜/時。ここも、高線量。

常磐線「浪江駅」。そこにいるのは私たちだけ。

被災後の常磐線について》(以下、「Wikipedia」参照)

竜田 - 原ノ町間
 この区間は大半が原発事故後に警戒区域とされたことから詳しい被害調査ができず、富岡駅の津波による流失、大野駅の駅舎一部損壊や大野駅 - 双葉駅間の第一前田川橋梁上り線の崩壊の被害などが確認されている程度だったが、2015年2月までにすべての被害調査が完了した。
 代行輸送については、並行する国道6号も許可車両以外の通行が規制されていたため行われていなかったが、2014年9月15日からは自動車のみ自由通行が可能となったこともあり、2015年1月31日には 竜田 - 原ノ町間にてバス2往復による代行輸送を開始している。当初途中停車は設定されなかったが、2016年7月12日に小高 - 原ノ町間の運転が再開されたことを受け、利便性から運行区間は竜田 - 原ノ町のまま、小高駅のみ停車を開始し小高駅からいわき駅方面への乗り継ぎを可能にしている。

竜田 - 富岡間
 避難区域の再編後大半が避難指示解除準備区域となったが、富岡駅付近を中心に津波による被害が発生した区間である。2015年3月の国土交通省発表では、運転再開目標は竜田 - 富岡間は「3年以内」(2018年春まで)とされた。再開目標の提示以前から、津波被災区間について路線自体に津波対策などを施した上で現在位置で復旧させる予定が2013年に発表されており、富岡町のまちづくり計画では、拠点性の向上のため富岡駅を復旧に当たって現在位置よりやや北側に移設させる予定であるとされていた。その後、2016年2月には富岡駅の移設協議が進んだことを受け、運転再開時期を2017年末に繰り上げることが明らかにされた。

富岡 - 浪江間
 避難区域の再編後も大半が帰還困難区域および居住制限区域とされた区間である。この区間については高い放射線量の区間があることから、2015年3月の国土交通省発表では「除染や異常時の利用者の安全確保策を完了した後」の開通とされ、具体的な時期は明示されなかった。被災区間では最後まで再開目標が明示されていなかったが、2016年3月10日、国土交通省より2020年3月までに運転を再開する見通しが発表されている。
 これに先立ち、2015年8月に富岡駅 - 浪江駅間で除染の試験施工がJR東日本により行われている。2016年2月の報告によるとこの区間における帰還困難区域相当の空間放射線量であった区間は1割程度であり、試験施工についても効果が見られたと報告されている。
 なお、上り線が倒壊した第一前田川橋梁については、再利用が困難として、下り線も含め2015年6月29日から撤去工事を行った後、2016年3月18日に復旧工事を開始している。

浪江 - 原ノ町間[編集]
 避難区域の再編後大解除準備区域となり、2015年3月の国土交通省発表では、運転再開目標は浪江 - 小高間は遅くとも2017年、小高 - 原ノ町間は2016年春とされた。
 2016年7月12日には南相馬市小高区に出されていた避難指示が帰還困難区域を除き解除されることを受け、同日から除染・復旧工事が完了した小高 - 原ノ町間の運転を再開した。列車は原ノ町 - 相馬間の列車を一部延長するような形で設定となったが、相馬 - 浜吉田間が復旧する2016年12月10日以降は上り1本を除き仙台方面との直通は行われない予定である。

原ノ町 - 相馬間
 この区間は南相馬市内の一部が緊急時避難準備区域となったが、前後の区間と比較し被害が比較的少なかったため、区域指定が解除されていない2011年5月23日から相馬駅 - 亘理駅間のバスを延長する形で代行輸送が開始され、同年9月30日の緊急時避難準備区域解除を経て、12月21日に運行を再開した。運行再開の時点では徐行運転とし、2012年1月10日からは本来の速度で運転している。この運転再開時には前後の区間から孤立しており、原ノ町 - 相馬間で取り残された車両では運用が困難であったため、701系3編成6両を勝田車両センターへ転属の上、2011年12月13日から15日にかけ陸送で搬入、原ノ町運輸区に常駐させて使用している。
 なお、2016年7月12日の小高 - 原ノ町間再開時には同区間との一体的な運用が行われているが、同年12月10日の相馬 - 亘理間の再開後は震災前と同様仙台方面への直通が実施され、系統も原則的に原ノ町駅で分断となる予定である。

相馬 - 亘理間
 この区間は駒ケ嶺 - 亘理間で津波による設備の浸水・流失が発生したことから、亘理駅の中線にホームを仮設し仙台方面への折り返し運転を行い、相馬 - 亘理間でバス代行が実施された。バス便は各駅停車のほか、途中新地のみ停車する便や、山下 - 亘理の区間便が設定されている。途中駅についてはバス停は旧駅とは異なる場所に設置されている場所がある。
 この区間についてJR東日本は国道6号線沿いの内陸部への移設も視野に復旧案を検討し、沿線自治体である福島県新地町・宮城県山元町ではそれぞれ常磐線の線路(駒ケ嶺 - 浜吉田間)と新地駅・坂元駅・山下駅の3駅の移設を含めた都市計画が立てられたこともあり、相馬 - 亘理間のうち、駒ケ嶺 - 浜吉田間については現位置より山側に移設、相馬 - 駒ケ嶺、浜吉田 - 亘理間は現位置で対策工事を行い復旧させることが、2012年3月5日に発表された。
 うち、浜吉田 - 亘理間については復旧・避難対策完了後の2013年3月16日に先行して運行を再開した。ただしバス代行の区間は従来通りとされ、列車交換がない場合の跨線橋利用を避けるため亘理駅の仮設ホームも存置された。

 JR東日本では2019年の復旧を目指しているようですが、まだまだ本格的運用には時間がかかりそうです。

  
                          (上の図は「福島復興ステーション」HPより)

無人のホーム。

周囲の建物も撤去され、閑散とした駅前広場。

「建物撤去中」の幟が各所に。

 一歩住宅地に足を踏み入れると、整地された土地が目立ちます。
    

居酒屋のショーケース。

大きな総合病院。再開には多くの時間と費用が・・・。
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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その4。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-26 21:50:47 | じじばばがゆく
 「国道6号線」を南下します。この先は、津波の被害にも遭ったところだそうです。場所によっては「6号線」を越えて津波が押し寄せたとも。地震と津波と原発と三重苦に見舞われたわけです。

 海岸側には広大な放射能汚染土集積場と沿岸堤防工事と数軒、取り残された家屋と、・・・。


        勇壮な相馬馬追いの絵柄も何となく元気がなさそう。

    
                  海岸側には一面見渡す限り、作物のない田畑が続きます。

 この信号から左側(海岸側)は一面、津波で流され、何もなくなってしまった?
    

広大な放射能汚染土の仮置き場。 

 秋たけなわ。紅葉も美しく、川の流れも穏やかなのに、いそしむ人の姿は無く、ただ工事用のトラックが行き交うのみ。


     
 手入れされない田畑にはセイタカアワダチソウが一面に。
           

護岸工事用の資材置き場。

解体された建物の残骸と荒野の中にぽつんと取り残された家屋。
        

川には崩れ落ちた橋の橋脚が立ったまま。

    

 これからどうすれば、かつての生活が取り戻せるのでしょうか? 一人ひとり、家族の、地域の生活再建の途方もない、遠さ。目の当たりにする現実。
                     

遠くに「福島第一原発」が見える(↓)ところで引き返しました。

    

 「浪江町」へ向かいます。途中の景色も秋模様。一見、穏やかな風景が広がります。
    

  が! 
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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その3。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-25 18:42:43 | じじばばがゆく
 高台に小学校があります。もちろん、閉校中。

 平日の月曜日、5年前なら元気な子どもたちの姿で賑やかだったでしょう。今は、子どもや先生の姿は皆無で、閑散としています。いつ再開できることやら。そして、何人の子どもたちが戻ってくることやら。

 5年前、都庁で都内への避難児童・生徒の受け入れ窓口をやっていたころ、その多くは飯舘、南相馬などからの相談でした。親の切実な声を受けながら対応してきました。その時、都内に転校してきた子どもたちはもう、中学や高校を出ているでしょう。そのまま都内に残ったり、新天地に旅立った子どもたちも多くいたことでしょう。もちろん、故郷に戻って、生活を再開する子どもたちもいるでしょう。
 はたしてこの小学校に何人の子どもたちが通うようになるのか?

学校入口への道ばた。草むらに置いた数量計。1.21μ㏜/時」。除染基準の5倍以上。

こじんまりとしていますが瀟洒な建物。

 土の入れ代えは終わったのか? やけにふわふわの土。誰もいない校庭。0.80μ㏜/時。 
    

 放置されたままのカサ、一輪車・・・。
    

             「元気いっぱい いいといっ子」。


「立村五十周年記念植樹 やまぼうし」。

集落を望む。

次の目的地に進む沿道にも。

 再開を待ち望む飯舘中学校。校舎もグランドも今は、無人。裏山では造成工事中。
    

いつ、かつてのような賑わいを取り戻せるのか? 

開業してまもなく避難を余儀なくされた病院。

 その先の役場では帰還に向けて業務を再開したようす。地域の車もたくさん集まっています。しかし、その周囲には無人の家、家。荒れ果てた農地が広がります。
            


 途中、トイレ休憩で立ち寄った「いいたてミートプラザ」。ここは、「飯舘牛」というブランド。しかし、営業再開のめどは?
    

プレハブの復興・除染作業員宿舎が点在。

 昼食休憩した「南相馬原町区道の駅」観光案内板。いくつもの観光地が「津波被災」の張り紙が貼ってあります。
                           
真野川漁港(鹿島区)、北泉海水浴場(原町区)、オートキャンプ場(原町区)、村上海水浴場・キャンプ場(小高区)

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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その2。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-24 21:58:52 | じじばばがゆく

                            全国からの参加者。
    
  北海道から。                                 九州・沖縄から。

                         
 訪問した現地は、その当時のままに取り残され、果てしもない除染作業と建物の解体作業。交差点の信号の点滅で行き交うのはそうした作業関連の車のみ。日常生活の匂いがまったくない地域にも足を踏み入れました。

 翌、14日。バスに乗り込むと、最初に「放射線量計」を手渡されました。「0.23μ㏜/時以下に除染することになっていて、福島市内は0.13か0.14くらいですが、これから行くところは数値が上がっていくはずです。住宅の半径20㍍以内は除染する、ことになっていますが、それ以外はそのまま放置されているのです。特に、枯れ葉が多く溜まっているところなどは、最近計っても高いところがまだまだあります。」

 福島駅周辺の繁華街から郊外へ向かうと、手元の数値はしだいに上がっていきます。
    「0.48」

 飯野町、川俣町通過。沿道には避難している児童・生徒、教職員のための仮校舎(飯舘村小学校仮設校舎)。
   

人の気配がない、放置されたままの住宅。

 バスの中から、広大な土地に黒い袋(「フレコンパック」というそうです)が山積みされ、さらにグリーンのシートをかぶせたものが並んでいるのが多く見られるようになりました。
 「除染作業によって集められた汚染土の仮置き場です。道路沿いのあちこちに山積みされた広大な敷地が広がっています。帰還しても周囲にこのような状態では不安になるのは当然です。いつまでなのか、目処もたっていません。また、どこだってこういうものを受け入れようとする住民はいないでしょう。」

    

 その周囲の田んぼだったと思われる土地は除染作業で荒れ地になった土地に草が生えているのみです。そういう風景が目の前に広がってきます。
    

作業車が行き交う傍らにうち捨てられたバス。

 飯館村飯樋地区に入って来ました。ここもまったく人の気配、生活の匂いがありません。
    

「飯舘解体 安全巡視車 古俣・斎藤JV」。

郵便ポストの張り紙に書かれた生々しい現実。 

平成23年6月30日
 ポストの閉鎖について
 このたび飯舘村全域が、原子力災害対策特別措置法に基づく「計画的避難区域」に設定されたことに伴い、飯舘村全域の集配業務を休止させていただきます。
 つきましては当分の間、本ポストも閉鎖させていただきます。
 「計画的避難区域」解除後に、再開を予定しておりますので、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

 郵便事業株式会社 福島支店

 こうしてすでに5年以上の月日が経過しました。

 生活が止まったままのおうち、一方で、帰還のために新築しているおうちもあります。
    
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「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その1。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-22 19:51:36 | じじばばがゆく
 11月13、14日。両日とも晴時々曇り。

 福島に行って来ました、かつての仲間と共に。全国からは北海道から沖縄まで40名以上の参加者。
 初日は飯坂温泉「公立学校共済・あづま荘」で学習会と交流会。翌日は、バスで現地を案内してもらいました。

 新幹線で「福島」。そこから「飯坂温泉」までローカル線で。「飯坂」は松尾芭蕉の「奥の細道」にも登場する、有名な温泉地。といっても、華やかさをはほとんど感じない、大きな旅館・ホテルもあるようですが、全体的にはひなびた風情のある温泉地。
 駅から宿舎まで歩いてみました。駅前には、芭蕉の像。

    

 其の夜、飯塚(注:「飯坂」のこと)にとまる。いで湯あれば湯に入りて宿を借るに、土坐に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて雷鳴、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶、夜の余波、心すゝまず、馬かりて桑折(こおり)の駅に出ずる。遥かなる行末をかゝえて、斯る病、覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是れ天の命なりと、気力聊かとり直し、路、縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす。

                                                          (「奥の細道」より)
 この文章を読む限り、芭蕉は飯坂温泉にはいい思いをしなかったようですが。
   
    豪華な建物・「波来湯(はこゆ)」。

波来湯(はこゆ)
 平成23年に改築された波来湯は開湯以来1,200年もの歴史があるとされており、おおよその開業年代が分かる共同浴場としては飯坂温泉最古の共同浴場といっても過言ではありません。
 当時、十綱橋近くの摺上川沿いの露天風呂として開業した波来湯は交通の便も良く、古くは伊達地方からも軽便鉄道を利用しながらの利用者も多かったとされ、現在も飯坂温泉駅からほど近い場所にあり、周辺環境も整備され観光客も含め、県内外からの利用者も多く訪れています。
 地下1階に浴室があり、男女ともに飯坂ならではの源泉掛け流しの熱い湯と、適温に調整された温い湯の2つの湯船が設けられています。
 波来湯の隣には波来薬師や乙和の清水といった史跡があり、手湯や足湯、東屋などが整備された波来湯公園は、季節ごとに楽しめる植栽とともに憩いの場所となっています。
 名前の由来ですが、これには諸説あり箱形の浴槽だった、摺上川の波の来るところにあった、周囲が岩で囲まれた場所から「ハコ」・・等、多くは謎に包まれています。

「摺上川」。

    
                               見事な紅葉。

    
  「芭蕉ゆかりの地入口」碑。73段の石段で、「滝の湯」への道。

飯坂温泉名物 ラジウム温泉たまご。

    
 この橋を渡りしばらく進むと、会場です。

    
 学校ぐるみ避難を余儀なくされた現場の先生の講演です。この飯坂温泉にもそうした仮住まい、仮校舎があるとのことです。

 次回から現地のようすを。

 ところで、早朝、福島沖の地震には驚きました。「大地震」「大津波」「原発事故」という前代未聞の災害を被った現地が再び大きな災禍に見舞われた! と。
 報道では、仙台市では1メートル40センチ、福島県相馬市で90センチと太平洋沿岸各地で津波が観測され、福島第二原発3号機の使用済み核燃料プールの冷却装置が一時停止し、約1時間40分後の午前7時47分に再開した、と。原因はいったい何だったのか?

 うねるような奇妙な揺れ方にすぐに3・11を思い出す。福島の地域住民はかつての悪夢が甦ったのではないでしょうか。  「ニュージーランド」に引き続いて起きる大地震。いやな予感がします。
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新宿~松戸~小金。その4。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-19 13:40:37 | 水戸街道

 (13:35)「旧水戸街道」は「6号線」から斜め右に入って行きます。
    

水戸街道
 江戸と水戸を結ぶこの街道は江戸時代には諸大名、旗本の往来で賑わっていました。松戸市内は大部分が国道6号線として整備され、大きく変貌しましたが、現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。

 緩やかに曲りながら下り、JR武蔵野線のガードをくぐります(13:38)。
    

今度はくねくね曲がって行きます。左にあるおうち。土留めに常滑焼きの甕をびっしり敷き詰めてあります。3、400個はあるでしょうか? 壮観です。


 来た道を振り返って望む。のどかな昼下がりの街道です。
    

左手にポツンと古い祠。

 (13:50)再び「北小金駅入口」交差点で「国道6号線」と合流し、そのまま北小金駅方向に進み、「小金宿」に入ると、旧家が続きます。
    

(13:53)「日蓮正宗・金龍山一月寺」。

 江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。
    

 普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。

 ・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。

注:普化宗(ふけしゅう)
 日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
 1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
 心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
 1950年、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照)

注:虚無僧
 「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)

沿道には旧家が並んでいます。

    「玉屋」小金宿の旅籠。

    「玉屋」解説板。

旅籠玉屋
 此処の街道は旧水戸街道として有名であるが、成田街道の道筋でもある。小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原形を留めている。当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、いまだ姓は現存している。

「東漸寺」。

(14:09)「小金宿」。  

・・・今日まで小金町は松戸市の中でも歴史文化を大切に継承してゆく思いが色濃く残る地域で会って「歴史と花と緑のある街」のイメージを子供から年配の人まで共有し住んでいる人達が一つになり魅力ある豊かな街づくりを進めてきました。
 近年の昭和29年10月に小金町は東葛市(現在の柏市)と市境を変更する形で旧小金町の大部分が松戸市に合併して60周年を迎える年となります。
 当時の人口は8千人、現在、平成27年には4万3千人となりました。
 ここに、平成26・27年度、小金町記念事業として次世代に向けた伝統の継承を祈念し小金宿観光モニュメントを設立しました。

小金宿(こがねしゅく)
 水戸街道千住宿から3つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市小金にあたる。
 中世において小金城の近くまで迫っていた太日河(江戸川)河岸からの城下に向かって形成された金宿(こがねしゅく)を原点として、水戸街道の整備とともに宿場町を形成していったと考えられている。宿場は南北に約1キロ程度の範囲に広がっており、北端で屈曲して東に向きを変えている。屈曲点からは更に北に本土寺への参道が伸びており、追分の石碑が建てられている。この屈曲点には八坂神社があったが、再開発によって別の場所に移転し、跡地は商業施設となっている。
 家並みは百軒余りで宿場町としての規模は大きくなかったが、幕府の軍馬牧場である小金牧の近くに位置しており、重要性は高かった。一般大名用の本陣が置かれていたほか、水戸藩は独自に本陣(日暮家)を指定していた。

                    (「Wikipedia」より)


    
    
1880年代のようす。                        現在のようす。


(14:13)交差点の角に道標二基。  

 一つには「右 水戸海道」もう一つには「右 水戸道中」と刻まれています。「旧水戸街道」は、右折して「国道6号線」との交差点「根木内」へ向かいます。

 (14:15)まだまだ陽は高いですが、今回は、ここで終了します。
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強い者に気に入られるそうだ、アベさんは。

2016-11-18 19:19:41 | 平和
安倍首相「信頼築けると確信」=トランプ氏と初会談―1時間半、再会で一致

 誰よりも早く、イの一番に駆けつけたアベ。機を見るのに敏であることは認めます。

 トランプ氏は強烈な個性の持ち主ですが、安倍首相と個人的にウマが合うとも言われています。首相自身も「ワンマンタイプの大統領や首相に好かれる」と周囲に漏らしたことがあるそうです。

 (HPより)

 プーチンにもそのようだし、自分もそうであるという自負心なのか、それとも何にも中身のな~い、ただのポチなのか。・・・
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新宿~松戸~小金。その3。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-17 18:48:35 | 水戸街道

 「春雨橋」を過ぎた、その先、左に剣豪千葉周作の実父、浦山寿貞の墓と、周作の剣の師である浅利又七郎の供養碑がまつられている「宝光院」があります(11:39)。
 「宝光院」の入口には、「千葉周作修行之地」(右)と記された標柱が建てられています。
    

千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
 幕末の剣豪・千葉周作は文化6年(1809)15歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠右衛門(幸右衛門)は浦山寿貞と称してこの参道付近に開業します。また、幼児から剣術に長けていた周作が入門した浅利又七郎の道場が宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
 周作は又七郎の下で才能を開花、23歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
 修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの徒弟を輩出するに至りました。
 浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養費がまつられています。
 周作の父、浦山寿貞は天保2年(1831)に没、その墓所もこの境内にあります。
 「千葉周作修行之地」標柱の材木は旧松戸宿本陣の大黒柱です。

「本陣大黒柱」。

「松戸探検隊ひみつ堂」。
                             まつど観光案内所。「空き家相談窓口」の看板も。

    
          「松戸駅」近くにある「水戸街道」「旧松戸宿」解説板。

水戸街道
 江戸幕府は東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の5つの道を「五街道」と呼び、最も重要視し、道中奉行を置き、五街道を直接管理しました。他に五街道に付属する街道として水戸佐倉道、日光御幣使街道なども道中奉行が管理していました。
 水戸佐倉道は、日本橋を起点に①千住を経て②新宿で水戸街道と佐倉道に分岐します。俗に水戸街道二十宿といわれ新宿から③松戸、④小金、⑤我孫子、⑥取手、⑦藤代、⑧若柴、⑨牛久、⑩荒川沖、⑪中村、⑫土浦、⑬中貫、⑭稲吉、⑮府中(石岡)、⑯竹原、⑰竪倉、⑱小幡、⑲長岡と経由して⑳水戸に入ります。江戸と水戸の間の距離29里31町(117㎞)を当時の旅人は普通2泊3日で旅をしました。参勤交代の際に水戸街道を利用する大名は仙台、相馬、平、土浦、笠間など20余藩があり、大名行列では3泊4日の日程で通行しました。
 江戸川の渡し場には「金町松戸関所」が設置され、番所は金町側に置かれました。通行は明け六つから暮れ六つまでの間で、夜間は一般人の通行が禁止されていたため、松戸宿の旅籠は相当繁盛したといわれます。

旧松戸宿
 松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数は450余りを数え、商いには28軒の旅籠をはじめ、鍛治屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結い、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞄屋等のあらゆる商売の店が軒を並べ、六歳市(6回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
 また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根・江戸川流域の水上輸送もありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚・藤ヶ谷(柏市)・金ヶ作(現常盤平)を経由して松戸河岸まで陸送し、ここから江戸へ送られました。
 銚子方面から江戸への陸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も利用さ鮮魚(「生)街道と呼ばれました。

「松戸駅」西側の繁華街を進みます。
 
 その先「根本」を過ぎてしばらく進み、JR線の跨線橋(歩道橋)を越え、北東に向かいます(「県道261号線」)。「竹ヶ花」を経て、「上本郷」で「国道6号線」に合流します(12:25)。
    
                                       振り返って望む。

 大きなおうちに、松の木。
    

「国道6号線」。 

 「北松戸」駅近くのラーメン屋さんで昼食、休憩して、再開です。

                       「東京から20㎞」ポスト(12:57)。

「北松戸」を過ぎ、「中根立体入口」交差点から左手の「馬橋駅」方向に入ります。
         

 (13:08)すぐ先に「馬橋」という地名の起こりになった「馬橋」があります。
    

解説板。  

馬 橋
 鞍型の橋から名が生まれる。「馬橋」という地名のもとになった橋である。
 その昔、長津川にかかる旧水戸街道のこの橋は多くの旅人が往来したが、大雨のたびに流された。そこで、満満寺と縁のあった良観上人が馬の鞍の形をした橋をかけさせたところ、それ以後流されることはなくなった。
 今「鞍」を思いおこさせるものは何もないが、以来、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになった、と伝えられる。

※右の説明板。
 本土寺過去帳に「マハシ」の地名が出てきます。「馬橋」の名は、この橋にちなんで名付けられたといわれ、江戸時代には水戸街道が通っていました。

    
 旧水戸街道(駅方向)。                                     (「国道6号線」方向)。

「馬橋駅入口」から進み、右斜めに曲がる、その正面に「萬満寺」。

                                 その手前には大きなおうち。
    

  
  
  
1880年代のようす。←が「馬橋」。           現在のようす。




                          「八ヶ崎交差点」。
    

「歩道橋」を渡った向こう側に「道標」。  

水戸街道道標
 水戸街道を利用する旅人の道しるべです。碑文から文化3年(1806年)に建てられたことが分かります。

「左 水戸街道」・「右 印西道」「葛飾郡馬橋村」。

            (13:28)その先右手に「一里塚跡」碑。
     

沿道の左右には大きなショッピングモール。

こちらは大がかりに造成中。

(13:33)「東京まで22㎞」ポスト。

左手に「蘇羽鷹(そばたか)神社」。
    
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