おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

これだけ厚顔無恥なお上を相手にするのには当方がよほど腹が据わっていないとね。

2017-02-21 11:48:17 | 世間世界
国有地売却「ただ同然」 土地浄化に約1億3千万円負担

 これほど次々と不正行為が暴かれても、おそらくはいっこうに動じない、厚顔無恥な権力を相手にするのには、こちらがよほど腹が据わってないと、・・・。ほぼ同じ事を二度も書かなければならないのである。ただ同然の土地を手に入れて、それほど財力もなさそうな学園が「安倍晋三記念小学校」をつくることに相成ったわけは? 
 タダどころか、多額の補助金まで与えてそうだが。
 アベ及び「日本会議」(「とっちゃん坊や」のアベもいいように泳がされているとも思えるが)の意向を忖度する今のお役人。
 そのアベ。「まだ現役の政治家である以上、私の名前を冠にするのはふさわしくない。私が死んだ後であればまた別だけれど」とまんざらでもなかったようす。生きている内から「○○記念××会館」と名付けているのは、かの「○○」先生(今や生きているか、死んでいるか、さだかではない、とも囁かれる)くらいだが、そこまでいかなかったのか、さすがのアベ先生も。
 それにしても、マスコミの追求は続くのか。そのうち、矛先が変わってきて、うやむやに。「民進」「共産」いじめに変わってくるのではないか。彼らの「扇動」で抗議行動が行われるようなら、早く「共謀罪」法を成立させて、予備罪を適用させちまおう、何しろこちらには天照大神や明治天皇様がついているのだから、てな具合。
 おかしな事は何だかぞろぞろ出てきそう。
 今は、国有地の購入問題に焦点があるが、他にも・・・。
 この4月、「瑞穂の國記念小学院(もともとは「安倍晋三記念小学校」)の開校を目指している森友学園。「塚本幼稚園」を経営しているが、幼児に教育勅語や五箇条の御誓文を暗唱させ、伊勢神宮への合宿参拝、軍歌を歌わせたりと、戦前の軍国主義教育強育・凶育・狂育・教育を実践している、らしい。その上で、同じような教育方針と教育内容での小学校教育を行うために作ろうとした。
 そこで生じている第1の疑惑が、設立に当たっての認可承認の問題です。認可されなければ小学校は設立できません。
 しかし、ここにも二つの問題があります。小学校用地が決まっていない段階での認可という問題と極めて短期間で承認が下りたという問題です。
 設立認可が用地取得のめどが立たないうちに下りたとすれば極めて異例で、普通に考えれば文科省の判断が「異常」であることは明らかです。認可承認には通常1年ほどかかるそうですが、3カ月ほどの短期間で承認されたのも特別扱いされたように見えます。
 国有地払い下げに当たっては費用が公開されますが、何故かここだけが公開されませんでした。その後、裁判が提起されて公開されましたが、隣接国有地の約10分の1にあたる1億3400万円で払い下げられています。しかも、一括でなく10年払いで。
 この大幅な値引きについて財務省の佐川宣寿理財局長は「更地の不動産鑑定価格、9億5600万円」から「新たな埋設物があって、その埋設物を撤去する費用を見積もって差し引いた額」と答弁しましたが、売買が決まる前に除染費用として1億3176万円が森友学園に支払われていました。この用地の売買代金が9億5600万円だとされていますから、ほぼタダ同然でこの土地を手に入れたことになります。
 そして第3の疑惑は、前に挙げた二つの疑惑に安倍首相夫妻が深くかかわっているではないかとの疑惑です。森友学園理事長の籠池泰典さんは「日本会議」の幹部で、安倍首相とは10年も前から懇意にしていたと言われています。
 小学校の設立に当たっての寄付金の振込用紙には、当初「安倍晋三記念小学院」の設立のための資金だとの記載があったそうです。現在も名誉校長は「安倍昭恵」とされ、その肩書は「安倍晋三内閣総理大臣夫人」と記載されています。
 つまり、個人ではなく首相夫人としての資格で、名誉校長を務めていることを明記しているわけです。明記する側からすれば首相夫人としての信用と威光を利用しようとする意図があり、明記される側からすれば、それを良しとするほどの強いつながりと教育方針に対するシンパシーがあるということは明らかです。
 これらは疑惑の一部にすぎず、なかには刑事事件に発展する可能性のある事案も含まれています。政治力を背景にした国有地の不正な払い下げ事件はこれまでにもしばしば発生してきましたから。
 今回も臭い匂いがプンプンしています。司直による追及の手が安倍首相の周辺に及べば、安倍内閣は瓦解するでしょう。
 テレビのワイドショーなどのマスメディアが報道に及び腰なのは、それだけ影響が大きいからです。ビビってしまうだけの十分な理由があるということではないでしょうか。
 国会での追及と真相の解明が待たれます。安倍「一強」政権が露呈させた稀有な「弱み」なのですから。
 「ポスト真実」によってウヤムヤにされ、疑惑が握りつぶされてしまうのか。「真実」を明らかにする場としての国会や国会議員の真価とマスメデイアの姿勢が問われています。

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水戸偕楽園。3分咲きの。その2。(「水戸街道」をゆく。第6日目。)

2017-02-17 19:01:13 | 水戸街道

好文亭」。

解説板。
 好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦などの催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1843年)に建てたものです。
 好文というのは梅の異名で、「文を好めば則ち梅開き,学を廃すれば則ち梅開かず」という中国の故事にもとづいて名付けられました。
 建物は木造3階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。 奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時貼んないでは管弦など禁制であったので城中の婦人達の遊息の場所としたという配慮があったようです。
 昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1969年)9月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
 平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の剥落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。

 好文亭本体は柿こけら葺き、奥殿は茅葺で、調和のとれた素朴清雅な格調高い数寄屋造りです。

「芝前門」。    「中門」。

梅の木は花もさることながら、枝ぶりも大事。 



   

             

 満開ならさぞかし見事。  

梅の下の小径をたどる。

表門の方へ進む。陽から陰へ。木漏れ日の中。



              

「一の木戸」。 「表門」。

あわただしく一巡して再び東門へ。3時過ぎ。東門からのバスをけっこう待って、水戸駅に戻りました。待っている間も自家用車が次々と訪れています。シーズン中はそうとう混み合う感じです。

 水戸駅から3時半過ぎの常磐線・普通列車で帰京しました。
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水戸偕楽園。3分咲きの。その1。(「水戸街道」をゆく。第6日目。)

2017-02-15 18:49:39 | 水戸街道

食事をして、駅北口からバスに乗り、「偕楽園」東門まで。

 着いたときにはもう2時近くなっていましたが、見物客がたくさん。
 東京を出るとき、以前来たことがある方に聞くと、けっこう風が吹いて寒かった、と。梅はすばらしいけど、「千波湖」から吹き上げてくる風と寒さで参った、とか。
 しかし、今日は真冬とは思えない、穏やかな陽射しで、午後になっても寒さを感じずに散策。ただ、まだ2分か3分咲きなのが惜しかった!

                「偕楽園の歩き方」

                 (HPより)

偕楽園(かいらくえん)
 国の史跡及び名勝に指定されており(指定名称は「常磐公園」)、隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた「偕楽園公園」は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ。また伝統的に、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えられてきた。
 偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本のウメ(梅)が植えられている[13]。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。弘道館は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
 水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。同じく彼の設立した藩校弘道館で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。偕楽とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。伝統を受け継ぎ、いまなお偕楽園は日本三名園のうちで唯一、入園無料である(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)。
 偕楽園では毎年2月下旬から3月下旬に、水戸の梅まつりが開催される。水戸の梅まつりは、2016年時点で120回開催された。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする夜梅祭や茶会など、種々様々な催し物が行われる。また園内で4月には水戸の桜まつり、5月には水戸のつつじまつり、9月には水戸の萩まつりが行われる。偕楽園公園を含め8月には水戸黄門まつりが行われる。関連の観光大使として茨城県水戸市により水戸の梅大使が毎年選出されている。
 また、毎年6月第2土・日に梅の実を偕楽園公園センターで頒布する。ただし、平成28年は不作だったため、6月11日土曜日のみの頒布となる予定。なお、頒布価格は平成26年は300円/1.5kg・袋(1人2袋まで)、平成27年は300円/1.5kg・袋(1人3袋まで)、平成28年は200円/1kg・袋(1人1袋のみ)

 表門から好文亭までは孟宗竹や杉の林の中を通る道が通じている。
偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから黒門とも呼ばれている。表門から園内に入り、一の木戸と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。
 好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑『偕楽園記の碑』があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。
 現代においては、表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、この門から入園する観光客は少ない。現在は梅林へと直接通じる東門が主要な出入り口として利用されている。
                                     (以上、「Wikipedia」参照)



(梅の写真はHPより)

 シーズン前の今の時期、自家用車やタクシーで来ると着やすいが、バスは意外と便が少ないようです。会社によっても停留所が異なるようです。
 今回は、バス停の関係で「東門」から表門へ散策することに。同じように、上の案内図(本来の作庭意図に近い)とは異なって、「陽」から「陰」へと一巡して戻る人も多そう。


                     「千波湖」を望む。

仙奕台(せんえきだい)
 千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出た台地を仙奕台と称します。
 「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだところです。
 石でできた碁盤や将棋盤、琴石、卓石は当時のものです。

    
                                           石でできた将棋盤。

やっと咲き始めた気配。見事なほどたくさんの梅の木。

 遙か目の下、見渡す限り広大な敷地。下までは降りていくには時間がなさそう。


「偕楽園記碑」。


偕樂園記
天有日月地有山川曲成萬物而不遺禽獸艸木各保其性命者以一陰
一陽成其道一寒一暑得其宜也譬諸弓馬焉弓有一張一弛而恒勁馬
有一馳一息而恒健弓無一弛則必撓馬無一息則必殪是自然之勢也
夫人者萬物之靈而其所以或爲君子或爲小人者何也在其心之存與
不存焉耳語曰性相近習相遠習於善則爲君子習於不善則爲小人今
以善者言之擴充四端以脩其德優游六藝以勤其業是其習則相遠者
也然而其氣禀或不能齊是以屈伸緩急相待而全其性命者與夫萬物
何以異哉故存心脩德養其與萬物異者所以率其性而安形怡神養其
與萬物同者所以保其命也二者皆中其節可謂善養故曰苟得其養無
物不長苟失其養無物不消是亦自然之勢也然則人亦不可無弛息也
固矣嗚呼孔子之與曾點孟軻之稱夏諺良有以也果從此道則其弛息
而安形怡神將何時而可邪必其吟詠華晨飲醼月夕者學文之餘也放
鷹田野驅獸山谷者講武之暇也余嘗就吾藩跋渉山川周視原野直城
西有闓豁之地西望筑峯南臨僊湖凡城南之勝景皆集一瞬之間遠巒
遙峰尺寸千里攢翠疊白四瞻如一而山以發育動植水以馴擾飛潛洵
可謂知仁一趣之樂郊也於是藝梅樹數千株以表魁春之地又作二亭
曰好文曰一遊非啻以供他日茇憩之所蓋亦欲使國中之人有所優游
存養焉國中之人苟體吾心夙夜非懈既能脩其德又能勤其業時有餘
暇也乃親戚相携朋友相伴悠然逍遙于二亭之間或倡酬詩歌或弄撫
管弦或展紙揮毫或坐石點茶或傾瓢樽於華前或投竹竿於湖上唯從
意之所適而弛張乃得其宜矣是余與衆同樂之意也因命之曰偕樂園
天保十年歳次己亥夏五月建 景山撰并書及題額

(碑陰)

 禁條
凡遊園亭者不許先
卯而入後亥而去  
男女之別宜正不許
雜沓以亂威儀
沈醉謔暴及俗樂亦
宜禁
園中不許折梅枝采
梅實
園中不許無病者乘

漁獵有禁不許踰制


偕楽園記 書き下し文

天に日月有り、地に山川有り、万物を曲成して遺(のこ)さず。禽獣草木、各々其の性命を保つ者は、一陰一陽其の道を成し、一寒一暑其の宜しきを得(う)るを以てなり。諸(これ)を弓馬に譬ふ。弓に一張一弛(いっちょういっし)有りて恒(つね)に勁(つよ)く、馬に一馳一息(いっちいっそく)有りて恒に健(すこや)かなり。弓に一弛無ければ則ち必ず撓(たわ)み、馬に一息無ければ則ち必ず殪(たお)る。是れ自然の勢ひなり。夫(そ)れ人は万物の霊にして、其の或いは君子と為(な)り、或いは小人と為る所以(ゆえん)の者は何ぞや。其の心の存すると存せざるとに在るのみ。語に曰く、「性相(あい)近く、習ひ相遠し」と。善に習へば則ち君子と為り、不善に習へば則ち小人と為る。今善なる者を以て之(これ)を言はば、四端を拡充して以て其の徳を修め、六芸(りくげい)に優游して以て其の業に勤(つと)む。是れ其の習ひは則ち相遠き者なり。然(しか)り而(しこう)して其の気稟(きひん)或いは斉(ひと)しきこと能はず。是(ここ)を以て屈伸緩急相待ちて其の性命を全うする者は、夫(か)の万物と何を以て異ならんや。故に心を存して徳を修め、其の万物と異なる者を養ふは、其の性に率(したが)ふ所以にして、形を安んじ神を怡(よろこ)ばしめ、其の万物と同じき者を養ふは、其の命を保つ所以なり。二者皆其の節に中(あた)るを、善く養ふと謂ふべし。故に曰く、「苟(いやし)くも其の養を得ば、物として長ぜざるはなく、苟くも其の養を失はば、物として消せざるはなし」と。是れも亦自然の勢ひなり。然れば則ち人も亦弛息(しそく)なかるべからざるや固(もと)よりなり。嗚呼(ああ)、孔子の曾点に与(くみ)し、孟軻(もうか)の夏諺(かげん)を称する、良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。果たして此の道に従(よ)れば、則ち其の弛息して形を安んじ神を怡(よろこ)ばしむること、将(はた)何(いず)れの時にして可ならんや。必ず其の華晨(かしん)に吟詠し、月夕に飲醼(いんえん)する者は、文を学ぶの余なり。鷹を田野(でんや)に放ち、獣を山谷に駆る者は、武を講ずるの暇(いとま)なり。余嘗て吾が藩に就き、山川を跋渉(ばっしょう)し、原野を周視するに、城西に直(あた)りて闓豁(かいかつ)の地有り。西は筑峯を望み、南は僊湖に臨む。凡(およ)そ城南の勝景、皆一瞬の間(かん)に集まる。遠巒遙峰(えんらんようほう)、尺寸千里(せきすんせんり)、翠(みどり)を攅(あつ)め白を畳み、四瞻(しせん)一(いつ)の如し。而(しこう)して山は以て動植を発育し、水は以て飛潜を馴擾(じゅんじょう)す。洵(まこと)に知仁一趣の楽郊と謂ふべきなり。是(ここ)に於て梅樹数千株を芸(う)ゑ、以て魁春(かいしゅん)の地を表す。又二亭を作り、好文と曰ひ、一遊と曰ふ。啻(ただ)に以て他日 茇憩(ばっけい)の所に供するのみに非(あら)ず。蓋(けだ)し亦国中の人をして、優游存養する所有らしめんと欲す。国中の人、苟(いやし)くも吾が心を体し、夙夜(しゅくや)懈(おこた)らず、既に能く其の徳を修め、又能く其の業を勤め、時に余暇有るや、乃ち親戚相携へ、朋友相伴ひ、悠然として二亭の間に逍遙し、或いは詩歌を倡酬(しょうしゅう)し、或いは管弦を弄撫(ろうぶ)し、或いは紙を展(の)べて毫(ふで)を揮(ふる)ひ、或いは石に坐して茶を点じ、或いは瓢樽(ひょうそん)を華前に傾け、或いは竹竿を湖上に投じ、唯(ただ)意の適する所に従ひて弛張せば、乃ち其の宜しきを得ん。是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり。因りて之に命じて偕楽園と曰ふ。
天保十年、歳(とし)己亥に次(やど)る夏五月、建つ。 景山撰并(なら)びに書及び題額。

禁条
凡そ園亭に遊ぶ者、卯に先だちて入(い)り、亥(い)に後れて去るを許さず。
男女の別、宜しく正すべし。雑沓以て威儀を乱すを許さず。
沈酔謔暴及び俗楽も亦宜しく禁ずべし。
園中、梅枝を折り梅実を采(と)るを許さず。
園中、病無き者の轎(かご)に乗るを許さず。  
漁猟禁有り、制を踰(こ)ゆるを許さず。

(「小さな資料室」www.geocities.jp/sybrma/69kairakuenki.html」HPより借用しました)

 偕楽園の名前の由来や創設した理、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
 碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
 また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
 偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたいとの思いから名付けられました。
 碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止事項(六条)が刻まれていますが、その内容は今日の公園管理の先駆けをなすものといえます。


                           

紅梅や白梅が咲きそろえば、さぞかし見事。
    
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長岡~水戸。その4。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-14 18:47:40 | 水戸街道
 「吉田神社」を右折し、いったん新道から離れて進みます。
その先、左手のくの字が旧道(らしい)。

    
 そのまま通りを突っ切っていくと、「備前堀」にぶつかります。そこを右折すると、「銷魂橋」となります。

街道筋らしいおうち。

 

「備前堀」の手前にある「金刀比羅神社」から来た道を振り返る。


「備前堀」に着きます。


備前堀
 水戸藩初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のため、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かれた用水堀で、伊奈「備前」守忠次の名から「備前堀」といいます。当時は千波湖から直接水を流していましたが、大正から昭和にかけての千波湖改修により、桜川から取水するようになりました。
 備前堀は現在でも農業用水に利用されており、酒門や浜田、常澄の水田地帯を潤します。また下市地区周辺は、歴史ある堀としての遺産を生かす都市整備がなされ、「歴史ロード」として美しい景観を見せています。平成8年には、新水戸八景の1つに選ばれました。(「水戸観光協会」HPより)

伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)は、「鉄道遺跡・深谷」のところで取り上げています。
 この方の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
 利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
 関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
 諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。


(12:19)渡った左手に「江戸街道起点」、右手に「高札場跡」の碑があります。
    
江戸街道起点
 水戸~江戸間、29里19町(約116㎞)を結ぶ街道は、五街道に次ぐ重要な幹線道路で江戸街道または水戸街道と呼ばれた。その起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は19箇所、行程は通常2泊3日であった。この地には広場が設けられて高札が立ち、備前堀に掛けられた橋は、ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれていた。

 ここで終点ですが、もう少し「水戸宿」を進んで行きます。
 「常陽銀行」の角を右折すると、「ハミングロード513」。この通りが旧水戸宿の中心の通りで、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠などがありました。今は、商店街ですが、水戸駅から東南に離れているせいか、駅周辺や北口付近の賑やかさに比べて、活気があまりない街並みになっています。その代わり、落ち着いた雰囲気。

    
「旧町名七軒町」碑。

「ハミングロード」。
    

整然とした街並み。

 ほとんど宿場らしい建物はみあたりません。
「江戸(水戸)街道宿場跡」碑。

左手に「井幸茶舗」。

 かつての雰囲気で、現役の商家はこのお店くらい?


そのまま進んだ交差点の右角に「旧本四町目」「陸前浜街道起点」という小さな赤茶色の道標。
   (12:31)到着。

ここで今回の「水戸街道」歩きも終了。

来た道を振り返って望む。


①「亀有」駅~「北小金」駅
②「北小金」駅~「取手」駅
③「取手」駅~「ひたち野うしく」駅
④「ひたち野うしく」駅~「石岡」駅
⑤「石岡」駅~「奥谷」バス停
⑥「奥谷」バス停~「水戸」駅

 JR常磐線と関鉄バスを利用しての6日の旅でした。行き帰りの交通の便がとてもいいいので、とても楽でした。
 これで、「東海道」、「日光道中」、「奥州街道」、「水戸街道」(「五街道」に準ず)とやっと制覇。
 あとは「中山道」の残りと手つかずの「甲州道中」。「中山道」はしばらく置いて、次回から「甲州道中(街道)」を歩いてみようと思います。53里(約200㎞)の道のり。

 そこから水戸駅まで出て(けっこう距離がありました。約25分)、食事をして北口からバスに乗って「偕楽園」へ向かいます。
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長岡~水戸。その3。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-13 21:52:44 | 水戸街道

 2011年の「東日本大震災」では、ここ水戸も大きな被害を受けました。その爪痕は目に付く範囲にはなく、整然とした街並みが続きます。
 かつて「水戸街道」歩きをしていた方が、その3月11日に大地震に遭遇しました。その時のようすを生々しく記録しています。無断で申し訳ありませんが、引用させていただきます。

 「大震災に遭遇する」(はやとちりの  旧 街 道 旅 日 記)www.geocities.jp/y8_momi/m9nagaoka.http...さんの体験。

 元吉田十字路(交)(注:上の写真の右手先)の右手には旧吉田村の庄屋だった綿引家があり、そちらに向かいます。
 その時、地面を突き上げるような激しい揺れと同時につれが「お父さん地震よ」と叫ぶ。足元がおぼつかないなか高い建物から離れ、幸いにしてすぐ脇にあったフェンスにしがみつき激しい揺れに耐えます。その瞬時に周辺の屋根瓦が崩れ落ち、空に舞い上がる土埃があたり一面をセピアカラーに変色させ日本沈没が脳裏をよぎりました。わずか2~3分の悪夢の出来事です。
 建物と言う建物からは人が飛び出し、ある人は座り込みまた茫然と立つくし、誰もが何をする事もできず不安の表情で虚空を見上げています。
すぐに携帯で娘に連絡を入れたが、圏外の文字とプ―プ―と空しい音が聞こえるだけ。つれと二人あちらこちらに連絡をとろうとしたが全て駄目。
 少し落ち着いてそばに居た人から情報を得ようとしましたが、誰も同じようにまだ何の情報も持っていません。向かいのコンビニは電気が消え、ガラスが割れて商品が散乱し、地震の後にテレビで見るあの光景を一段と悪くしたような状態で、「怖くてとても入れない」と店の方は。
 まったく情報はありませんが揺れもおさまり、一区切りと思い江戸末期に建てられた藁葺屋根の綿引家住宅にカメラを向けます。母屋と蔵が県指定文化財に指定されている建物ですが、塀の外一面には飛び散った藁屑だらけ。
 この時点ではまだ事の重大さを認識していない暢気な二人は気を取り直して先に進みます。・・・
 水戸街道は台町で右に左にと曲る枡形になっています。ここで再び地面を突き上げるような激しい揺れに襲われ、道端の目に付いた物に必死に掴って身体を支えます。
 Dクリニック前に集まっている方から再び情報を得ようとしましたが、クリニックの損傷具合からそんな事を聞くこともはばかられます。
 随所に惨憺たる情景が見られますが、とてもシャッターを押す心境にはなれませんでした。
 この状況から水戸が一番ひどいのだろうと思っていました。しかしカーラジオを聞いている方からの情報だとまだ此処は良い方だとか。
 震源も宮城だ福島だ震度は7だ、6強だと情報は輻輳していますが、もはやのんびりと街道を歩いている状況ではなさそう。
 狭い道路は危険。再び揺れが来ないうちにと広い道路、駅南中央通りに出ます。そして一縷の望みを託し今日の宿に急ぎます。しかしその通りでも近代的なビルの窓ガラスが歩道に散乱し、高い所から今にも崩れ落ちてきそうな塀が見え決して安全ではなさそうです。途中にあった公衆電話で自宅近所の家に連絡が取れ、かなり揺れたけれど隣近所とも異常がないことがわかりやや安心します。

(筆者たちは、泊まる予定だったビジネスホテルも損壊し、避難した地元の方と避難場所へ移動)

・・・街灯も民家の灯りも、ネオンも看板の明かりもない真っ暗やみの中、隆起したり陥没していたりする悪路を、再び20数分中学校まで引率されて行きます。やはり指示されて小学校に来たという方々と総勢20人程がぞろぞろと。
 真っ暗な千波中学校多目的ホール(翌日になって分かったのですが)には、すでにかなりの人が避難しています。そこに割り込んで場所を確保し、ひとまず落ち着きます。すると今まで夢中だったからか、気にならなかった寒さを急に感じます。多少ましな防寒対策をしているはやとちりでも寒さが身に凍みるのに、春物のオシャレをしてきた一般の観光客の方には気の毒なくらいです。暗い中、目を凝らすと毛布を被った人も大勢います。後で分かったんですが地元の方も避難していて、こういった方は自宅から防寒対策品を持参していたんです。
 余震の不安と寒さから寝るどころではない状況に、やっと毛布が配られたのが夜中の2時頃。有難いがそれも全体的には二人に一枚程度。段ボールを敷いて毛布を被って横になりますが、寒さをしのぐには焼け石に水。
 余震におびえながらほとんど寝れなかった夜が明けると、昨夜一緒に避難してきたグループがいつの間にか一箇所に集まります。滅多にない恐怖を体験したからか、ほんの少し一緒に居ただけなのに、特殊な仲間意識が芽生えたんです。持っているお菓子などのやり取りをしながら。
 昨夜の夜食はその仲間から頂いたおにぎりが一個だけ。朝は市から塩味の効いたクラッカーが一人に一個(20枚入り)が配られました。しかし、興奮しているのか緊張しているのか食欲はあまりありません。こんな物を貰う羽目になって涙が出たと、つれは後に述懐しています。
 学校の2階に公衆電話があり長い行列の末、娘と連絡が取れ無事を報告。
・・・午後に電気は通じます、でも水道はまだ、昼もクラッカー。「次はおにぎりが配れると思います」と市の職員が報告。3時頃だったろうか厚木市からの支援物資が届き、これがお湯を注ぐとおかゆになる久しぶりの暖かい食べ物で子供たちは「チョ~美味い」と大喜び。大人だってみんな美味しく感じたらしい、そう言うはやとちりも厚木市に感謝しつつ。
でも中には、次はおにぎりだと言ったではないか、と感情的になっって職員と小競り合いを起こす場面も。米が集まらなかったらしい。
 この時点で一番の悩みはトイレです。次から次へとトイレを利用するが、全く水が流れない水洗トイレの状況を想像して下さい。この時は昔の汲み取り式があればと痛切に感じました。段ボール組立て式簡易トイレが設置されたのは翌日未明のことです。
 携帯電話が使えるようになると、つれが持っていた充電器は引っ張りだこ。いつもは持っていないのに何となく持ってきたという、殊勲賞ものです。
 夜は安心米、これはおかゆではなく普通のご飯。避難所の受け入れ態勢が徐々に整いつつあることを感じながら、2回目の夜を迎えました。

 (息子さんたちとようやく連絡がとれ、車で迎えに来てもらえることに)

 そして明けた翌日、9時前に息子が到着、3時半頃に出て約6時間かかったと。とんぼ返りの強行軍で申し訳ないが、小山まで歩く覚悟をしたご夫婦共々、異常な体験を強いられた水戸から脱出することができました。
 一昨日からの仲間を始めまだ多くの人が避難所に残り、この先いつまでここに留まるのかと思うと、申し訳ない気持もありましたが。

 2011年の「東日本大震災」から6年。被災した当時の建物もすっかり新築、修復されたようで、車や人々が行き交う街並みを進みました。

 (11:48)右手のおうちの庭先に「旧吉田村立余吉田小学校」跡碑。明治6年創立。
   

二つ目のカギ型。

「台町」交差点を左折。

左手に「薬王院」。奥に藁葺き屋根の山門。

「神楽屋敷跡」碑。

 (12:03)坂道を下って行きます。正面奥の杜が「吉田神社」。


途中見かけたおうち。

 「男坂」「女坂」と真ん中の道「新道」との交差点。




 真ん中の直線道を一気に下れば、「銷魂(たまげ)橋」に出ますが、旧道(女坂)を通ります。
    

「吉田神社」自動車参道入口。続々と車が上って行きます。
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NODA・MAP「足跡姫 時代錯誤冬幽霊 ときあやまってふゆのゆうれい」(じじばばがゆく。観劇=感激編)。

2017-02-11 18:47:14 | じじばばがゆく
2月7日(火)。東京・東京芸術劇場 プレイハウス。

 もう限界よ。まるで玄界灘の荒波にもまれている感じよ。

 会ったとたん、いきなりそれですか。

 疲れるわよ、毎日。でも今日はかなり期待してるから。久々だし。

 ホントですよ。久々に。

 余計な期待はしちゃダメよ。お芝居見物なんだから、今夜は。

 いい加減にご自分の体をもう少しお大事にしたら。

 そう言ってもさ、そううまくいかないのが、より添う人生よ。

 お悟りあそばされたようなお言葉ですが。まずはご飯でも食べてから、行きますか。

・・・

 ここの席だな。ま、いい席だ、満席だ。さすが。 

 野田秀樹さんの芝居は初めてだわ。宮沢りえに妻夫木聡、古田新太(ふるたあらた)か。野田さんも出るんだ。

 野田も声がかすれてきて、若い頃の滑舌はちょっと期待できなくなっている。「高低のテンポが味なんだ」けど。「校庭の店舗が鰺なんだ」じゃないよ。言っておくけど。でも、相変わらず元気だよね。

 そんな訳の分からない言葉遊びはやめてくれない。でも、「おやじぎゃく」があるのかな。

 「親自虐」じゃないからね、言っておくけど。ま、そんな程度のギャグはあると思うよ、経験的には。

 くだらないこと言ってないで。さ、始まるわよ。

 そういうくだらないおしゃべりと動きに、面白さと鋭い社会批評、世相批判をちりばめるのが野田芝居だけれどね。さて、どうだ。

 「時代錯誤冬幽霊ときあやまってふゆのゆうれい」ってどういう外題なのかしら

 照れだよ、諧謔精神かな、きっと彼独特の。 

・・・

 この芝居は、さっきも言ったけど、野田さんの照れ屋、はにかみ屋ぶりがよく出てくる予感が。それに最後の最後まで我慢するだろうけれど、最後にはきっと爆発するよ。

 あの女性が宮沢りえか。へえ、いきなりすごい迫力で迫ってくるわね。

【客席には特設の花道が作られ、江戸の芝居小屋仕立てで話は進む。観客席も縦横無尽に使って。】

 出雲阿国座の看板踊り子、三・四代目出雲阿国(宮沢りえ)と座付き作家のなりそこない、その弟サルワカ(妻夫木聡)。
 小屋では、阿国と踊り子のヤワハダ(鈴木杏)たちが幕府では御法度とされている女カブキを上演している。その一座に紛れ込んだ、腑分けもの(野田秀樹)と戯け者(佐藤隆太)。
 伊達の十役人―伊達の十役―(中村扇雀)が入れ替わり立ち替わり、取り締まりの目を光らせる。
 将軍に取り入りたい座長の万歳三唱太夫(池谷のぶえ)によってサルワカは一座を追われそうになる。そこで、阿国は、サルワカに女カブキの“筋”を書くことを勧める。うまく書けないサルワカを「売れない幽霊小説家」(実は由井正雪家―ウとレをなくすと―)(古田新太)がゴーストライターとして助け、新作「足跡姫」が誕生する。

①由井正雪の乱
②ゼロの成立と無限、有限
③女歌舞伎から野郎歌舞伎へ
⑤地球(?)の裏側まで掘る行為。
④満開の桜。散る花びら。真っ赤な血の色。
⑤たたら製鉄、長浜ラーメン、・・・

 など、いろんな要素を盛りだくさんに詰め込んでの展開。ただ、古田新太の演じた「由比正雪」系は中途半端でちょっといただけなかったが。

 足跡姫の阿国は弟のサルワカの持つ刀(これのみが真剣)に身を投げて死んでしまう。
 死んだ姉を抱きかかえ、満開の桜をバックにサルワカは「勘三郎」として姉の芝居への執念を受け継ぎ、舞台を末の世の東銀座まで続け伝えようという思いを自らに言い聞かせる。

 「足跡姫」。まさにその「足跡」こそ盟友・名優、その途上で若くして亡くなった、中村勘三郎の「足跡」に通じている。
 だから、(それまで我慢に我慢をしていた)野田の叫びが、最終場面、野田の演劇戦友・勘三郎へのいまわの際の訴え(と思わせる)に重ねていくという趣向に。
 特に、昔、演劇を志した人間なら誰でもが知っている、やったことがある「イエアオウアオ」のような発声練習から「死にたい=死に体」は「生きたい=生き体」への音韻変化、それは生と死とが「竹膜を隔つ」っていうことに通じる言の葉で幕は閉じる。

・・・

 初めて見たけど、とても面白かったわ。浅利慶太とか民芸とは違って、斬新でとても楽しかった。

 浅利は嫌いだけど、アサリは好きだよ、アサリは。民芸は民芸で面白いけれどね。傾向が違うのは確かさ。
 夢の遊眠社時代からの野田芝居を見ているからね。
 言葉遊びをこれでもこれでもかとマシンガントークのようにして、そして、肉体を駆使して、舞台の上にも下にも左にも右にも縦横無尽に駆け回る、そんなだった。その傾向は今でも同じさ。
 『贋作・桜の森の満開の下』なんかは、今回の「桜」に通じているかもしれない。
 解散した後、野田秀樹は「野田地図」(NODA MAP)を旗揚げして今になるというわけ。段田安則なんか、今も舞台やっているよね。ほら、この宣伝パンフに載っているよ。
 ただ、商業演劇になり過ぎたようで、料金も高いし、・・・。野田はこれで満足しているのだろうかね。彼なりの演劇作法的にさ。・・・(と、つい饒舌になってしまう)

 ふ~ん。そうなんだ。で、相談なんかあったっけ?

 それは、今度会ったときにさ。

 宮沢りえは、演技も踊りもすごい。キリッとした容姿、魅力的だわ。

 妻夫木だって何だか頼りなさそうでもはつらつとした青年らしいサルワカを熱演していたさ。さすがタレント、才能が開花した印象だった。

 古田さんは、存在感はあるけど、ちょっと動きが鈍い感じで、時々素が出ている感じだったけど、いつもあんな演技なのかな。

 「伊達の十役」ならぬ伊達の十役人(何とか助平衛。背中にはサービスで何番目の役か表示)として登場する中村扇雀。役柄によって衣装は変えてもワイシャツとネクタイはそのままっていうのも野田らしい。


 舞台は、江戸時代です。
 作品は、中村勘三郎へのオマージュです。彼から最後の病床で「俺が治ったら、この姿(医療器具でがんじんがらめの彼の姿)を舞台にしてよ」と言われた。それを彼の遺言とも思っていないし、彼は冗談半分のつもりだったように思うのだけれども、ずっと気になっていた。今年の12月5日で、彼が逝ってから4年になります。「あの姿」を書こうとは思わないけれども、彼の葬式の時に、坂東三津五郎が弔辞で語ったコトバ。「肉体の芸術ってつらいね、死んだら何にも残らないんだものな」が私の脳裏に残り続けています。その三津五郎も、彼を追うように他界してしまいました。あれから「肉体を使う芸術、残ることの内ない形態の芸術」について、いつか書いてみたいと思い続けていました。
 もちろん、作品の中に、勘三郎や三津五郎が出てくるわけではありませんが、「肉体の芸術にささげた彼ら」のそばに、わずかな間ですが、いることができた人間として、その「思い」を作品にしてみようと思っています。
 本来は、オマージュなんていうのは、「しゃらくせえや」と思う方なのですが、こうして臆面もなく「勘三郎へのオマージュ」と書くことで、自分へのプレッシャーにもなるし、勘三郎の名前と「思い」が少しでも長く人の心に残っていくための、私の本など微力だとは思いながらも、書かないよりはいいな……と、そんなわけで『足跡姫』です。
                                                           野田秀樹
 
 この野田さんの言葉の中に、「オマージュ」ってあるけど、どういうこと? たしかフランス語では尊敬、敬意とか賛辞を意味すると思うんだけど。

 芸術作品の場合には、尊敬する作家や作品に影響を受けて似たような作品を創作することを指すらしい。作品のモチーフを過去の作品に求めることも指すんだ。
 このことばは騎士道から生まれた。だから、単なる模倣ではないんだね。「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。フランス語として使う場合、hommageだけでは「尊敬、敬意」の意味だけになるんだって。この作品はどうも両方の意味を含んでいるようだね。

 ストリップショーみたいな演技が面白かった。

 ストリップじゃないさ、「はだけ」踊り。死骸が戸板に乗って流れてくる場面もあった。

 この前見た「四谷怪談」でもそんなシーンがあったわね。隠亡堀の場のよう。

 これも前、歌舞伎座で勘三郎がお岩さんを演じたのを観たことがある。

 橋を行ったり来たり、回り舞台を船に見立てたり、群衆劇風なのも野田らしいのかな。

 そのあたりの演出も歌舞伎座でやった「野田版・研辰の討たれ」に依拠しているようすがありありかな。

 その芝居に、中村勘三郎(当時はまだ勘九郎)が主役をやったのよね。

 あの芝居での主役は、実は「大衆」。彼らは身勝手で軽薄。そのときの気分次第で右にも左にも揺れ動く。仇討ち騒動を楽しんでいる。
 
 そうそう、今回はやたらと「大衆」と「体臭」をつきまぜて、くどいほど解説しながらけっこう使っていたよね。

 終わり頃、辰次が追っ手の兄弟の刀を研ぎながら、紅葉が落ちるのを見て「生きてえ、散りたくねえ」と。そこで、それまで笑っていた客席が静まり返る。このへんは今回も活かされている感じ。
 そして群集が去ってしまって、追っ手の兄弟も行ってしまって、助かったかと思った辰次は、結局、引き返してきた兄弟に殺されるってわけさ。そのへんも趣向が似ている。

 ところで、最後に姉弟が花道の「セリ」から上がってきたじゃない、すっぽんとか言っていたけど。

 いいところに気がつきました。サルワカが掘り続けていたのは、江戸城襲撃の穴でもなく、地球の裏側でもなくて、「すっぽん」だった、ていう落ちが効いているよね。

 落ちが効いてるって、上がってきたんじゃないの。それまで、役者は舞台上のセリ(穴)に落ちたり、上がってきたりしたけど。

 花道にあるセリを「すっぽん」と言うんだ。奈落ってもいうけれど、そこから舞台上へ役者が登場するときに使われる装置さ。
 「セリ」も「すっぽん」もどっちも舞台へ上り降りするときに使うけれど、「セリ」は本舞台上、「すっぽん」は花道にある。
 そうそう、歌舞伎じゃ、すっぽんを使って登場するのは人間以外である、という約束事があってね。妖怪変化や幽霊・忍術使いなどの役が登場する時に使われる。例え人間であっても、すっぽんから登場したものは、既に亡くなっている人間を意味するんだ。

 なんで「すっぽん」ていうの?

 名前の語源は亀のスッポンからかな。おそらく役者が首を出す姿がすっぽんに似ていることから連想したのだろうと思うよ。

 ふ~ん。

 生きているときも死んでしまっても役者なんだな、皆。勘三郎も三津五郎もそして野田も。名も無き役者もすべて。でも、「思い」の中にしか残らない。

 エンディングで流れるバックミュージックは何であんなに陳腐なんでしょ。サルワカの台詞を聴かせたいのはわかるけど。ちょっと残念。

 もう少し付け加えると、サルワカ(猿若)という役名は、勘三郎に縁が深いんだ。
 「猿若」というのは初期の歌舞伎で、こっけいな物まねや口上などを演じた役柄を言ったんだけど、猿若の芸を専門とした初代中村勘三郎およびその一族の別名でもあるんだな、これが。

 「平成中村座」という芝居小屋をつくって、勘九郎の頃からやっていたわよね、浅草や外国でも。

 何回か観に行ったことがあるよ。江戸時代の歌舞伎小屋風のつくりでけっこう面白かった。

 ラストの満開の桜って、「京鹿子娘道成寺」という趣向にあやかっていたのかしら。勘三郎が踊ったこともある。

 いや、「桜の樹の下には死体(屍体)がある」という趣向のような気がしたけれど。真っ赤な色が使われていたし。

《参考》『桜の樹の下には』(梶井基次郎)

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
・・・
 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
・・・
 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。
                                            (「青空文庫」より)

 う~ん、それはかなり考えすぎじゃない。



 あら、もう10時、もう帰らなければなりませんわ。

 今度お会いするまで御身大切に頼みますよ。 

 老いていく体と付き合いながらまだまだ前向きに生きますわ。

 その通り。「老いる」は「Oilオイル」だから、使いようによっては生きるエネルギーにもなるはずだよ。って、これも野田の受け売りだけど。

 上手に老いたいものよね。
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長岡~水戸。その2。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-09 20:56:17 | 水戸街道
「国道6号線」に合流したあと、矢頭で「北関東自動車道」インターチェンジを越えます。


 かつての旧道らしく車の行き来の激しい大通りの道ばたには古い祠が。


いよいよ水戸市に入ります。

(10:42)「東野交差点」で左へ。    

 この通りに入ると、道の両側に棒杭や小さな卒塔婆、花立てが何ヶ所も立っていました。写真には撮りませんでしたが、交通事故の死者を弔うためのものか? それにしてはやけに点在しています。果たして何があったのでしょうか?

 (10:53)「自動車教習所」を左手に見て、その先「吉沢交差点」を右に入ります。


    

常夜燈? ライトが設置されています。

旧道らしく立派なおうちが沿道に。

ケヤキの古木。

 (11:11)「水戸街道」沿いには庭木の手入れが行き届いたおうちをけっこう見かけました。


市街地に入って行きます。

(11:28)「一里塚下西」バス停のすぐ先、住宅地の一画に「一里塚」があります。


江戸街道と一里塚
 江戸街道は、一般には、江戸からみて、水戸街道と呼ばれた。水戸から江戸まで29里19町(約116㎞)の里程で、水戸から長岡・小幡(以上水戸藩領)・片倉・竹原・府中・稲吉・中貫・土浦・中村・荒川・牛久・若芝(柴)と上り、下総に入って藤代・取手・我孫子・小金・松戸・新宿(葛西)・千住の各宿駅を経て江戸に入る。松戸には関所があった。
 1里塚は街道の道標として道の両側に一対で設けられ、木陰で旅人が休息できるよう榎が植えられた。常陸国内では木沢新田(吉田)・長岡・奥の谷・小幡・片倉・竹原・下土田・下稲吉・真鍋・土浦・中村・東猫穴・田宮・若芝(柴)などにあったが、現存するものは少なくなってきている。
 現在、当地にある一里塚はそのうちの一つで、道の片側のみであるが、榎も植えられ、当時の面影をしのぶことができる。

                                   水戸市教育委員会

    

エノキ。樹齢約100年。

「庚申塚」。

「六地蔵」。

 (11:38)「魚いちず」さん。定食が600円というのが驚き。「水戸」駅近くで昼食の予定なので、パス。でも、ここの方が良かった!
     

 「一里塚三叉路」バス停の先の細い、まっすぐな道を行きます。
    

その交差点には「馬頭・牛頭観音」の石仏があるはずですが、見当たりません。ふと足下を見ると、無残にも壊れたままの石仏が。車がぶつかって倒したのでしょうか、それとも、2011年の「東日本大震災」で倒壊したのでしょうか、根本からポッキリ。そのまま放ったままの状態。

    

(11:46)ここからカギ型が2ヶ所。右に曲がって左に曲がります。
    


  
  
1880年代のようす。              現在のようす。○が最初のカギ型。
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長岡~水戸。その1。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-07 19:08:27 | 水戸街道
 いよいよ「水戸街道」歩きも最終回。梅もほころび始めた「偕楽園」を最後に回ることにして、という算段。



 2月4日(土)。快晴。風も無く、冬にしては穏やかなお天気。
 石岡駅8:40発のバスに乗って前回の最終地点・「奥谷」までやってきました。9:20に出発です。
 「涸沼川」に架かる「高橋」を渡っていきます。





廃屋の屋根に猫が2匹。暖かい陽射しの下。


「小鶴橋」バス停。      

 (9:26)旧道は左に入って行きます。  

見事な造りの佐久間米店。


亀甲模様のなまこ壁の蔵。唐破風の飾り窓。

「こども屋」。昭和3年の建築。

石岡でも見かけた看板建築の一つ。

街並み。

来た道を振り返る。火の見櫓。

 (9:43)「諏訪神社」「如意輪寺」を過ぎて、涸沼前川に架かる「長岡橋」を渡ります。


 その先ですぐ右の旧道に。右手には藤屋製菓。「みそまんじゅう」が名物らしいが、味噌味ではないところが「ミソ」。


 注:まんじゅうの皮が茶色で「味噌」に似ているので「みそまんじゅう」と名付けられた。

 だんだん坂道を上がって行きます。途中、「水戸浪士毛塚」の案内表示があります。(右に向かうようです)
    

坂の右手に「高岡神社」。振り返って望む。

 水戸街道最後の宿場である「長岡宿」には旧脇本陣の木村家住宅が保存されています。門が閉まっていたので外側からパチリ。


藁葺き屋根の大きな建物。
    

木村家住宅
 江戸時代長岡宿の協本陣で、問屋(人や荷輸送)や庄屋を勤めていました。
協本陣は、大小名などが休泊した本陣の予備にあたる宿舎で、街街道駅に設けられていました。当家は、安政4年に(1857)の長岡宿の大火により消失、現在の建物はその後建設されたもので、改築はなく、カンナによる仕上げ、草葺きの屋根になっています。
 こうした協本陣は県内の宿場建築でも現存しているものが少なく希少価値があります。

                                 (上の写真を含め、「茨城町観光協会」HPより。)

裏手から。

古い門構えのおうち。

街道の左手には「みくらや」。かつての旅籠「中えびす屋」の跡?
        
                                         裏手に回ると大きな敷地。


宿内のようす。

 桜田門外の変・大老井伊直弼暗殺の発端は長岡宿。安政6年(1859)、水戸藩攘夷派数百人が長岡宿に屯集し、その中心人物らが薩摩藩の浪士とともに翌年3月、桜田門外の変を起こしました。先ほどの「毛塚」もそれにちなんだ史跡。

 しばらく進むと、左手に大きく立派な建物。「柏屋肥料店」。水戸街道沿いにはこうした肥料や種、農機具などを販売する、昔からのお店が目立ちます。




ここの梅はまだつぼみ。はたして「偕楽園」は? 


大きな鎮魂碑? 詳細不明。

 その後、「国道6号線」に合流します。それまでの6号線から上下線分離のかなり幅広い道路に。
    

 気がつくと「東京まで101㎞」ポスト。あともう少し。



1880年代のようす。中央が「長岡十字路」。「水戸街道」から分かれ、水戸へ通じる道が北西に延びている。



現在のようす。「国道6号線」と立体交差する県道。右下が「長岡宿」。
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読書「隷従への道」(フリードリヒ・ハイエク 村井章子訳)日経BPクラシックス 

2017-02-05 13:50:11 | 読書無限
 アメリカの経済学者・ブルース・コールドウェルによる序文によって、ハイエクのこの書のルーツと出版のいきさつ、その後の肯定、否定両面からの反応、そして、この書が今なお失わない今日的意義について知ることができます。
 「党派を問わずすべての社会主義者思想の持ち主に捧ぐ」という冒頭の一句や第12章の「ナチズムを生んだ社会主義」という表題が示すように、徹底した自由主義経済論の立場から、ドイツのナチズムへの批判を基本にしながら、ロシア革命によって成立した旧ソ連の「社会主義」という名の下での計画経済の誤りをも論じた内容で、生産手段の集約化、計画化、統制化などがいかに自由な経済活動を阻害するか(ケインズなどとの論争は有名)について論考しています。
 その点では、主として社会主義(運動)に共感を持つ人々からは毛嫌いされ(社会主義とファシズム、ナチズムを同一視しているという)、反対に自由主義を標榜する立場からは賞賛される(社会主義体制を批判しているという)書。
 そういうこの書の内容を巡る論争を置いても(評価など云々するほど経済には知識もありませんので)多面的で大部な内容ですが、興味深く読み進めることができます。
 中でも、次の内容が大変面白く読みました。まさに、これこそ今日的意義ではないかと。アメリカ大統領トランプ誕生と彼の政策、発言、行動とがオーバーラップしてくるからです。(ちょっと引用文が長いですが)

第10章 最悪の人間が指導者になるのはなぜか
 単一の虚偽を奉じる強大な集団は、主に三つの理由から、とかく最高の人間ではなく最低の人間で形成されやすい。このような連中を動員するからくりは、私たちの基準からすればどれも好ましくない。
 第一に、教育水準が高く知的になるほど、一般に意見や好みは多様化するため、ある特定の価値観を共有する可能性は低くなる。同じような意見を大勢が共有する状況が見られるのは、倫理規範も知的水準も低い集団であり、そこでは大勢がより原始的な「共通」の本能や好みを共有している。なにも、大方の人はモラルが低いと言いたいのではない。誰もが同じような価値観を抱いている大集団があったら、その中にいる人々は倫理的・知的水準が低いということだ。言うなれば、最大多数をまとめるのは最小公約数なのである。特定の価値観をすべての国民に強要できるほど強大な集団が、知的水準が高く意見も好みもまちまちな人たちで形成されることはまずない。そうした集団を形成すのは、悪い意味での「大衆」の一員であり、独創性も自主性もなく、数を力と恃むような連中である。
 支持者の数を増やすには、大勢を洗脳して引き入れなければならない。
 そこで、第二のいかがわしいからくりが登場する。それは従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない人を根こそぎ支持者にするというやり方である。こういう人たちは、耳元で何度も大声でがなり立てられれば、どんな価値観も受け入れてしまう。かくして、ものごとを深く考えようとせずあっさり他人に同調する人や、すぐに感情が昂ぶる人たちが加わって、全体主義政党の党員はあっという間に膨らむ。
 第三の、おそらくは最も好ましくないしかけは、熟練した扇動者が結束力の強い均質な支持母体を形成する手口にある。どうやら人間の本性というものは、建設的なことよりも、敵に対する憎悪や地位の高い人に対する羨望といった非生産的なことで一致団結しやすいようだ。どんな集団でも、連帯意識を高め共同歩調をとるためには、仲間内と外とをはっきり区別し、外に対して共闘することが必須であるらしい。このやり方は、政策の賛同を得るためにも、大衆の無条件の忠誠を勝ち得るときにも使われている。扇動者の立場からすれば、下手に建設的なことを言うよりも行動の余地が広い、という大きな利点があるからだろう。敵は、ユダヤ人や富農など内部の敵でもいいし、国外の敵でもいい。ともかくも全体主義の指導者にとって、敵は必要不可欠な動員手段だと見える。
 ドイツでは「財閥」が敵とされるまではユダヤ人が敵と位置づけられていた。またロシアでは「富農」が敵とされていた。・・・(P354)

 ハイエクにとって経済政策・思想上での批判の対象は、「集産主義」。「全体主義」経済の思想・手段そのものです。

※「集産主義(コレクティビズム)」=生産手段などの集約化・計画化・統制化などを進める考え。広く国家の経済への介入や計画全般を指す。

 ハイエクは、共産主義もファシズムも「集産主義」という面では同根であり、傲慢な全体主義体制であると批判しているわけです。

 もちろん、トランプが矢継ぎ早に出している(大統領選中の激しい排他的、米国利益第一主義の主張。選挙民の共感を得たと主張する)「大統領令」は、包括的な経済協力体制否定であったり、規制緩和であったりしていて、一見、「国家・政府」の介入を緩和しようとする「小さな政府」(共和党の年来の立場)と言えそうですが、具体的な会財政策は、強引なほどの政府誘導による(自国、外国問わず)企業介入、景気浮揚、賃金アップ、雇用確保のようで、かつての「ニューディール政策」などと類似している印象です。(「ニューディール政策」は、一種の集産主義と呼ばれることもありますので。)特にその「排他主義」の危険はどこにアメリカを導くのか、・・・。
  
 また、トランプにはカリスマ性があまりなさそうで(自分ではそう思っているふしがありますが)、ヒトラーが率いたナチズムなどのようにはならないと楽観視する見方もあるようですが、まったく危険がないわけではありません。その証拠になびき始めた企業家やマスコミも出てきていますから。
 特に我が国の総理は、巨額な国のお金を使って貢献しようという「朝貢」外交を展開しようとしている「愚か」ぶりですので。

 目的は手段を正当化するという主張は、個人主義の倫理観からすれば倫理の否定にほかならない。ところが集産主義の倫理観では、これが究極のルールとなる。筋金入りの集産主義者にとって、彼らの言う「全体の幸福」に役立つことであれば、してはならないことは文字通り何もない。「全体の幸福」こそが彼らにとっての唯一の価値基準である。集産主義の倫理観を単純明快に表す概念に「国家理性(レゾン・デタ)」というものがある。これは国家の存在を市場のものとみなす原理で、国家が恣意的に決める条件以外には、行動を縛る原則はない。個々の行為は、国家の目的に適いさえすればよいのである。・・・
(P366)

 その結果、
「・・・集産主義の政策はつねに一部の集団の利益のみに適うということだ。そうでない集産主義が果たして現実にあり得るのか、考えてほしい。また、排他主義(国粋主義であれ、民族主義であれ、階級主義であれ)に陥らない集産主義があり得るのか、考えてほしい。・・・」(P357)

 アメリカではジョージ・オーウェルの小説「1984年」が読まれ始めたようです。この小説は反全体主義・反集産主義の立場。ここに登場する独裁政党の政治思想・イングソック(イングランド社会主義)は、政府宣伝によれば社会主義の一種ということになっていますが、支配者たちはその正体を「少数独裁制集産主義」とみなしています。アメリカ市民はそんな危機感を感じとっているのかもしれません。
 トランプNO! の声がどこまで届くか、アメリカ民主主義の真価が問われています。いや、世界の、日本の、・・・アベ政権は、先取りでどんどん国家主義的政策をおし進めている、それが実はトランプのますますお気に入りになっているのではないでしょうか。
 だとすれば、すでにアメリカ・トランプ政権と軍事も経済も一蓮托生を歩み始めた日本の(民主主義国家としての)未来も実に危ういものになっていきます。何とかしなければ取り返しの付かない事態に。・・・ 
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その5。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-03 22:09:40 | 水戸街道

集落を抜けると、果樹園。

「国道6号線」に合流するまでは田園風景が広がります。
    

   
   
1880年代のようす。                  現在のようす。斜めの道路が「6号線」。

(14:41)「6号線」に合流。  

その先、左手に「千貫桜碑」。横断歩道を渡って近づいてみます。
       

 義公観賞の桜 千貫桜
 かつてこの地に桜の巨木があり、義公(水戸光圀公)が終日めでて「千貫の価値」がある、と絶賛したといわれる。現在は枯死したが、この地を千貫桜と称し、往時のよすがをしのんでいる
   茨城町教育委員会

春風も 心して吹け 散るは憂し 咲かぬはつらし 花の木のもと」光圀の歌碑。

そこから水戸方向を望む。

「国道6号線」を進み、「東関東自動車道」を越えます。

(15:04)「東京から95㎞」ポスト。

「国指定史跡 小幡北山埴輪公園」への案内板。

 埴輪を焼いた窯跡が59基(全国一位)で国の指定史跡。現在公園として整備され、窯跡は埋め戻され植樹で位置を示している。(「埼群古墳館」HPより)

そのまま「国道6号線」を進みます。

 しばらく左の側道のような道を行き、右に折れて「6号線」をまたぐ橋を渡ると、旧道になります。しばらく進むと、「奥谷坂上」交差点。
(15:28)

(15:33)坂を下って行くと、「奥谷」交差点へ。
    
                                   振り返って望む。

 今回はここまで。「奥谷」バス停でけっこう待って、16:05発の「石岡駅」行きに乗りました。駅まで乗った乗客は一人でした。790円と思ったよりも高い運賃。「茨城空港」行きのバスが通り過ぎて行きました。

 次回は、いよいよ「水戸街道」完結編となるはずです。今回は、約3万歩、18㎞でした。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その4。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-02 20:12:08 | 水戸街道

 (13:22)宿場を抜けると、田園地帯。その先で「巴橋」を渡ります。
遠くに「国道6号線」。

「小岩戸」交差点で「6号線」を横断し、「西郷地」へ(13:28)。冬の日差しのもと、のんびりと。
    

「二十三夜塔」文政年間(1820年代)の建立。

 路傍、左手に石仏。その奥の林の中にもいくつか。
    

集落に入ります。ここにも何体かの石仏。
    

人の姿も通り過ぎる車もありません。

 (13:43)珍しい亀甲形のなまこ壁の蔵。
    

これはよく見かけるなまこ壁。

路傍には幼子を抱いた母子観音。

集落を抜けると冬枯れの田園風景。

「茨城町」に入ります。

周囲には果樹園。剪定作業中。

道路の向こうには水準点。

大きなおうち。まもなく「小幡宿」となります。

宿の入口に位置する「法円寺」。
 かっては水戸家の旅籠でもあったそうです。

 小さな宿場だったせいか、史跡らしいものはなんにもなさそう。そてでも、御殿のような大きな屋敷が建ち並んでいます。


板塀の立派な門構えのお屋敷。

奥行きがとてつもなくあります。100メートル以上? 

入口に大きな「かえる」の置物があるおうち。
                                          「カエル」でお金に困らないとか、あるいは魔除け?

一方で、解体中の家や整地されたところを見かけます。大きく変貌しつつあるのかもしれません。
    

木の下に聖徳大神、二十三夜塔の小祠。


1880年代のようす。


現在のようす。左上に「「国道6号線」。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その3。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-01 21:26:40 | 水戸街道

 そのまましばらく「国道6号線」を進みます。路傍には馬頭観音像など石仏が何体か。


(11:52)左手に「故北辰一刀流大貫先生之碑」という大きな石碑が建っています。 

 北辰一刀流といえば、江戸時代後期に千葉周作が創始した剣術と薙刀術の流派。幕末期には門人が6千人を超えるほど。幕末の志士では坂本龍馬らが北辰一刀流を学んだといわれる。現在、水戸に伝わった北辰一刀流の道場が茨城に2箇所、東京に1箇所、徳島県に1箇所現存している。2013年(平成25年)に水戸東武館の北辰一刀流と新田宮流抜刀術が水戸市無形文化財に指定された。

(12:01)「東京から86㎞」ポスト。

コスモス畑。「秋桜」いうくらいですから、今は畝が広がるばかり。
    

「水準点」を見つけました。

水準点(すいじゅんてん、benchmark)とは、水準測量に用いる際に標高の基準となる点のこと。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
 水準点は海の潮位や河川の水位を知る水準基標又は水準拠標なども意味し、これらの意味が転じてコンピュータにおけるベンチマークという言葉遣いとして使われるようになった。
 国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
 全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。

母子の石仏など。「子安信仰」? 

「大曲三叉路」付近から左側に桜並木が続きます。
「大曲三叉路」交差点を振り返って望む。

「東京から87㎞」ポスト。

 「桜並木整備」の記念碑? 

さぞかし桜の季節には見事でしょう。
    

 (12:28)ちょうどお昼時。けっこうお腹も空いてきたので、桜並木の下、何かお店がないかと歩いてると、お蕎麦屋さん「そば処たむら」。そこに入って昼食です。量も味もほどほど。


再開。相変わらず桜並木が続きます。

(13:03)「堅倉三叉路」から左に入ります。

 「明治」の工場先から「片倉宿」が始まります。宿場の入口には共同墓地や石仏群。
    

宿場の街並み。
    
車の量も少なく、静かで落ち着いたようす。「く」の字型に曲がっていく。

右手に「一本槍」という屋号。かなり古びた商家? 

その左手斜め前にあるのが「加藤家復旧門」。門の左に解説碑があります。
    
復旧門の由来
 当門は、水戸徳川藩士加藤本家より、加藤伊衛門の代に水戸から分家して当地常陸国東茨木郡堅倉に郷士として土着したとき、母屋と一緒に建てたもの物でありましたが、幕末に藩主の世継ぎ問題に端を発した天狗党の乱が起こり、元治元年(1864)当時加藤家は名主職を勤めていた関係もあり、反乱軍天狗党のために母屋と共に門も総て焼き打ちに遭い、その際門の前柱2本のみが焼け残りました。門柱上部の黒い部分が焼け跡です。そのため当時の祖先の苦労を偲び又戦乱(内乱)の歴史を後世に残すべく、焼け残った2本の前柱をそのまま氏よすシテここに復旧を完了いたしました。
 平成4年 建主 加藤謙二
                         

隣のおうちも立派なお屋敷。
    

その先の左手の角に「かと家」があります。旧道はここを左折して進みます。

現在も、すぐ近くの「国道6号線」沿いで宿屋を営んでいるそうです。
    

その先の「米穀店」も昔ながらの商家造り。

    
1880年代のようす。                   現在のようす。東西に走る広い道は「国道6号線(現水戸街道)」。

旧道の道筋に変化はありません。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その2。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-31 22:06:05 | 水戸街道

 「泉橋」(跨線橋)の上から水戸街道宿場のタイル絵が始まります。起点は「石岡」。名称も「江戸街道」。上は、「千住」宿。一茶はわかりますが、チューリップは?

 足下をたどるうちに「石岡一里塚」に到着します。
    
・・・


その途中、右手に石柱。「是よりきびさけいなり道」。

 「木比堤(きびさげ)稲荷」と表記になるらしい。ここから右に折れて行くようですが、詳細不明。

(10:19)「石岡の一里塚」。街道の両側に残っています。
    

石岡の一里塚
 一里塚は、主要街道の1里毎(約4㎞)ごとに設けられたに一種の路程標である。
 慶長9年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に築いた塚を指したのが始まりと言われる。・・・
 その後、時代の経過にともない荒廃し、改修の熱意がない地方では原形を失うものが多く、天明年間には、その大半が失われたといわれる。明治以降まで残ったものであも、その後、道路の拡張などによって失われた者が多く、今日では、両側に残っているものは少なく、特に榎が残っているものもめずらしい。
 石岡の一里塚は、旧水戸街道の府中(石岡)から長岡に通ずる街道の両側に残るもので、特に東側の塚の上に植えられた榎が、今も樹勢よく天に向かって伸びている。
 この一里塚は築造当時をしのばせ、江戸時代の交通政策を知る上で重要な史跡である。

 昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

西側の塚。

 東側の塚の榎は二代目のようです。
    

二代目榎木
 平成14年7月、台風の影響により残念ながら、一里塚のシンボルである榎木が倒木しました。当時の榎木は、推定樹齢約400年、高さ約20メートル、幹周り約4.2メートルの大木でした。
 平成20年3月、一里塚裾野付近に育っていた苗木を移植しました。二代目の榎木として将来、初代と同じような大木に成長することを願います。
 また、県指定史跡「石岡の一里塚」は地元の子供会の協力により除草清掃を行っています。大切な文化財を将来の子供達に残していきましょう。

                                                 平成21年9月 石岡市教育委員会

「水戸街道絵図・解説板」。

 旧道はそのまま「関東鉄道バス石岡車庫」まで進み、その先で左の坂道を下って行きます。
               
「茶屋場住宅入口」。「茶屋」があった?                     左に下りて行く。


「行里川(なめりかわ)」地区に入ります。

 (10:54)左手に大きな長屋門のおうち。
    

 静かな通りの両側には大きなおうちが目立ちます。
    

 旧道は弓なりに右に曲がって県道を横切ると、冬枯れの田園風景が広がります。
     

 この付近は、「美野里」地区。合併で「小美玉市」となっています。
    

小美玉市(おみたまし)
 2006年(平成18年)3月、東茨城郡小川町・美野里町・新治郡玉里村が合併して発足した市。「小川町」「美野里町」「玉里村」の頭1文字をとって「小美玉市」と命名されました。

    
 (11:16)明和7年(1770)の道標ですが、判読不能。台座は新しいコンクリート製。

 坂道を上っていくと、「竹原宿」に入ります。右手に「竹原神社」。旧道沿いには石碑群。
    

「聖徳太子尊」碑。

 「竹原宿」は、元和年間(1615~1624)に 水戸街道の付け替え工事が行われた際に新設された宿場で、本陣・脇本陣は無く、「問屋場」が置かれ、旅籠が十軒前後あったという小さな宿場でした。
 現在の町並みに史跡らしいものは見当たりませんが、静かな町並み。大きなおうちが多い。


右側のマーケットが「問屋場」跡? 

宿内を振り返って望む。

 (11:26)国道6号線に合流し、そのまま左に曲がっていきます。正面には立派なお屋敷。


(11:31)「竹原下郷」。

国道沿いには立派な生け垣作りのおうちが目立ちます。

(11:42)「東京から85㎞」ポスト。しばらく「国道6号線」を進む。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その1。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-30 21:41:49 | 水戸街道
 年明けて久々の街道歩き。1月28日(土)。快晴。風も無く少し寒いですが、歩きやすい一日。

 (9:46)前回の「丁字屋」さんまで戻って再開。


 火災後の昭和5(1930)年から6年にかけて建てられた登録有形文化財の建物が3軒並んでいます。
 手前から「福島屋砂糖店」。昭和6年に建てられた木造2階建ての伝統的な商家意匠建築。
 真ん中の建物は「久松商店」。昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。
 一番の奥が「十七屋履物店」。昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった。
       「久松商店」と「十七屋履物店」。 

     
 「すがや化粧品店」。
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つである。
注 ペディメント:西洋建築における切妻屋根の妻側屋根冑水平材に囲まれた三角形の部分
  コリント、イオニア様式:古代ギリシャ建築様式


        「森戸文四郎商店」
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
 他にもまだまだあるようです。それぞれがコンクリート製ではなく、すべて木造(一部銅板)なのがすごい!

「パンとケーキの店 ビィオレ」。
 この付近に「府中宿本陣」があったようです。

 その付近から通りを望む。
    

 まだまだ「常陸国府」にまつわる「国分寺」「国分尼寺」「国衙」跡など見所満載ですが、先を急ぐことにします。
    

 「国分町府中3丁目」交差点を右に折れて、常磐線を越えて行きます(10:11)。

「跨線橋」に「水戸街道」の解説板。
 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、街道の整備を始めました。東海道・中山道・日光街道・奥羽街道・甲州街道は「五街道」と呼ばれ、江戸幕府が直接支配していました。それに次ぐ「脇街道」の一つとして水戸~江戸間に開通したのが。この水戸街道です。石岡は当時、府中松平家の陣屋の所在地であり、水戸街道の宿駅「府中」として繁栄しました。

「杉並木」。
 昭和30年まで、ここから先約2㎞にわたり由緒ある杉並木がありました。徳川幕府時代、街道の並木として松並木は各所に見られましたが、杉並木は日光以外にはこの府中だけに許されたものでした。これは「御三家」の一つ水戸徳川家の分家である府中松平家の当時の地位の高さを物語っています。

「泉橋」。国分寺と筑波山。

 この跨線橋には「泉橋」という表示があります。現在、常磐線が敷かれているところには、かつて橋が架かっていたようです。旧街道当時の橋名が残されているのかもしれませんん。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。まだ鉄道が敷かれる前。←の部分。
 
 行きませんでしたが、ここで「国分寺」と「国分尼寺」について。

 国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
 『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]。
 国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
 なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
                                      (以上、「Wikipedia」参照)
「跨線橋(泉橋)」から「石岡駅」を望む。

 かつて「石岡」から「鉾田」まで「鹿島鉄道」線がありました。すでに廃線となっています。正面奥から鉾田方向に進んでいました。現在はどうなっているのでしょうか? 「石岡駅」も大きく変貌し、近代的になっています。見た目にはまったくその存在はわかりません。廃線マニアとしては一度訪問してみたいと思います。しかし、全長27㎞以上もあるようなので、はたして?

鹿島鉄道線
 かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線である。2007年(平成19年)4月1日に廃止となった。
 茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を横断する路線で、霞ヶ浦北岸を通る。地図上ではJR常磐線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで1km以上離れており、大洗鹿島線とは接続していない。この点は、旅行者などが徒歩で乗り換えるケースは少なからず存在していたが、一時期路線バスが運行していた以外、特に接続改善は見られなかった。
 鹿島鉄道は旅客収入だけでは鉄道を維持できないほど利用者が減少していたが、航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送の収入によって経営が成り立っていた。しかし、2001年(平成13年)8月に、鉄道に高く依存していた燃料輸送を榎本駅から百里基地へのパイプラインの老朽化と、安全保障上の対策から中止したため深刻な経営悪化が確定的になった。これに対し親会社である関東鉄道による経営支援と沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われることとなり、廃線の危機は一旦回避された。しかし2005年(平成17年)のつくばエクスプレスの開業により、自社の常総線(特に取手 - 守谷間)や高速バスの利用者が減少し減収となった関東鉄道は、2007年度以降の経営支援を行わない方針とした。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、鹿島鉄道は2006年(平成18年)3月30日に廃止届を提出した。なおこの時点で2007年度以降の自治体と県による公的支援をどうするかは白紙状態であった。その後ぎりぎりまで存続の道が模索されたが状況は好転せず、2007年(平成19年)4月1日に廃止された。
 廃線後の線路や駅舎は順次撤去されることになっていたが、現在は撤去作業は途中で中断され、今も線路・駅舎が一部で残っている。車両は、旧形式5両のうち4両、新形式4両のうち2両が、個人に売却され保存されている。

    

                             (以上、「Wikipedia」参照)



1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東南に向かって弧を描く線路。
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読書「世界をわからないものに育てること」加藤典洋(岩波書店)

2017-01-13 20:14:49 | 読書無限
トランプ氏、語らぬ具体策 雇用創出・国境税掲げるが

 トランプの記者会見の模様を見聞きして、やっと読み始めた本の、今読んでいる冒頭に近い個所に目が止まりました。加藤さんには申し訳ないですが。ウルトラ右翼で、『永遠の0』の作者、百田尚樹がまったく思想的には反対とも言える宮崎さんの『風立ちぬ』に感動した、という発言に触れて、

 「情報化社会の昂進によって・・・自分の考えをもっていること、論理的であること、首尾一貫していることは、かつては好ましくもあれば必要なことでもあったのだが、いつのころからか、融通が利かず、持論にこだわり、偏狭だといったマイナス・イメージをともなうようになった。逆に、この高度情報化社会の進行につれ、あっけらかんとしていること、あっさりしていること、こだわらないこと、少しちゃらんぽらんであるくらいのほうが、ノンシャランで、好ましいことと感じられるようになったのである。」(P34)

 「百田は『風立ちぬ』の作者の『平和主義』に寛大なのではない。ただ、自分のスキゾ型の『感動』に正直なのだ。そして彼が『感動』するのに『イデオロギー』は何であろうと関係がない。『作品』が適切な『イデオロギー』を採用し、『感動』の器として機能していれば、それでよいのだからである。ここでの教訓は、ある意味でちゃらんぽらんな百田のあり方のほうが、いまの社会にはよりフィットしている、ということである。没価値的に両者の反応をみれば、後者のほうに(注:百田のほう)に『好感がもてる』ということは、そういうことなのだ。」(P35)

 トランプの発言に対してアメリカのメディアの多くは、激しい拒絶反応を示しています(日本のマスコミも)。しかし、そうしたこれまでの国民世論を導くといったような高みからの姿勢にアメリカ合衆国の人々は共感するのではなく、それらをぼろくそにののしり、自分に不都合な事柄に対してはちゃらんぽらんな受け答えに終始するトランプに快哉を送る。ここに、アメリカ社会の現実が見えてきます。

 トランプは、強気な発言を繰り返し、己の志操堅固なことを誇示しているように見えますが、たぶん、かなりの小心者で、無定見な男のようです。
 フィリピン大統領しかり。こうした為政者が大受けする時代。私宅の夫婦の寝室まで案内され、アベも見事に丸め込まれたあげく、1兆円を差し出すハメに。
 トランプも、大衆の移り気な気分を十分に心得ていて、ますますあっけらかんと、あっさりと、こだわらず、ますますちゃらんぽらんであり続けるのではないでしょうか。
 トランプはその上に、「帝王」・「救世主」気分だからもっとタチが悪そう。核ボタンをもてあそびながら、アメリカをどう導いていくのでしょうか? 
 こうなると、日本を取り巻く国際情勢も安閑としていられません。北朝鮮、ロシア、中国、韓国に続いて、宗主国・トランプアメリカが登場したのだから。安保法制がいよいよ実働化することも。「東京オリンピック」まで世界は平和を保てるのかしら

《ノンシャラン》
 無頓着でのんきなさま。なげやりなさま。

《スキゾ》
 常に制度や秩序から逃れ出てゆく。非定住的・分裂的傾向。

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