おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-22 20:58:00 | 甲州街道

旧道はJR線の土手によって寸断されたようです。

「東京から105㎞」ポスト。

(13:43)しばらく進むと、右側から道が。旧道? 

「笹子川橋」(「国道20号線」)。

国道は左へカーブしながら「笹子川橋」を渡りますが、旧道はこの橋を渡らずに手前をまっすぐ進んでいました。笹子小学校のところで分断されてしまうので、左手にある橋を渡ります。
「旧笹子橋」(車両通行禁止)。

(13:52)その先にある酒蔵が「笹一酒造」。


 ここで休憩。お酒をいくつか試飲し、隣の食堂でお蕎麦を食べ、ネーミングにひかれて、「純米 無濾過生原酒 夢山水 720ml」 1本買う。
             

(14:19)そのまま道なりに進むと、「笹子駅」。この付近が「阿弥陀海道宿」だったらしい。


 阿弥陀街道宿は、江戸から24番目の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒の宿。前の白野宿と先の黒野田宿と3宿で合宿となってい宿場の継ぎ立てを行っていました。「此地一名を葦(よし)が窪といへり。駅の南に阿弥陀堂あり」ということから名前がついたらしい。

              「観光案内板」。

 まだ時間が早いので、路線バスの時刻を確かめ、笹子峠入口付近まで歩くことにします。
 中央線のガード右手にある人道用のトンネルをくぐると、旧道が少し残っています。


               

すぐに国道に復帰。

(14:32)「黒野田」バス停。

火の見櫓の下にあるのが「笠懸け地蔵」。

その先、立派な屋敷門のあるおうちが「本陣跡」。


              

「笹子川」に架かる「黒野田橋」。

(14:37)その先右手の「普明禅院」門前には、
「江戸より25里」。
 但し、「Wikipedia」の資料だと「26里」目。

「黒野田一里塚」跡碑。
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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その6。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-21 22:07:47 | 甲州街道

 この付近には旧道も断続的にあるようですが、現甲州街道の「国道20号線」を進みます。
(12:53)「立河原」バス停。右奥は「中央道」。

                 

かなり高いところに中央線の鉄橋があります。右に旧橋脚跡らしき建造物。


 おそらく旧道(甲州古道)は先ほどのバス停付近から右に入って天神峠を登り、「白野宿」へ向かっていました。その途中に「白野一里塚」がありました。ただし、明治になって旧甲州街道が国道として整備された時にはすでにその古道は失われていて、現国道と同じルートになっています(「今昔マップ」参照)。

 (13:05)国道を回り込んだところで右の道に入ると、「白野宿」となります。


白野宿
 白野宿は、江戸から23番目の宿場。次の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿の3宿で継ぎ立てを分担するという小さな宿場でした。本陣1、脇本陣1、旅籠4。

行き交う車も人通りもなく、静かで落ち着いた町並み。


               

「庚申塚」。

土曜の昼下がり。暑い日差しです。

宿内を振り返る。

(13:11)「白野宿」表示。

「宝林寺」。この付近に今泉本陣跡などがあったようですが。

このおたくかな? 

「白野下宿」バス停。

そこから来た道を振り返って望む。


(13:18)宿場の出口付近にある「子神社」。

「ヤマザキYショップ」のところで、国道に復帰。

ちなみにこの先、コンビニ・食料品店は笹子峠を越えて「甲斐大和」駅付近に出るまで、まったくないようです。
「原入口」から右に入り、JRのガードをくぐったら左に進みます。
 
案内図。

(13:21)「伝説立石坂の立石」案内杭。

この立石は現存しているようで、先達のレポートがありますので紹介します。なお、読みは「たていし」ではなくて、「たちいし」のようです。

(以下、「鬼の石杖 http://www.ymnco2.sakura.ne.jp/me/onitue/onitue.htm 」HPより)

 郡内には石杖の伝説がある。このことについて書いてある本がいくつかあるのだが内容がすこしづつずれている。・・・たいていのものは「大月市の伝説と民話:石井深編.大月市教育委員会.昭和55年」を元にしている。”大月市の伝説と民話”は地元のお年寄りのお話や、”北都留郡史”を基にしているという。
 石杖がどのようなものか現地調査してみた。 
立石坂の立石
 笹子駅を出て国道20号を大月方面へ進む。”武田ニ十四将”で有名な、笹一酒造の前を過ぎ、笹子川を渡る。左側に田んぼが出てきて中央線が平走するようになると吉久保バス停が現れるのでここを左に入り、中央線をくぐってT字路を右に進む。稲荷神社で左に曲がると滝子山であるが、石杖を見るには真っ直ぐ進む。旧甲州街道を10分ほどして右に中央線が手に触れるほど近づくあたりで、右へカーブしながら坂道を下り、中央線をくぐって再び国道20号に出る。さらに進めば白野に至る。
 20号にぶつかるところは工場の敷地の一角で、中央線をくぐるところに「立石坂の立石」の標があるので、これにしたがって工場の敷地の中を進むと線路沿いの林の中に引きこまれ、説明板とともに、石杖(立石坂の立石)が現れる。中央線のすぐ横に ザクッ と刺さっている。
 高さは2mほどある。岩盤から突き出しているのだろうが、仮に地下に同じだけ刺さっているとすると、全長4m。厚さは20cmほどある。巾は1mほどある。全部で800000cm3ということになる。石の種類にもよるが、2t以上にはなりそうだ。この石が山姥の杖だとすると山姥の身長は少なくとも4mくらいありそうである。巨大だ。この石が岩殿山の鬼のものだとすると、2tの石を9.5kmほど投げ飛ばしたことになる。これまたすさまじい。
   

注:記事は笹子駅から大月方向に進む行程になっています。

しばらくは線路沿い。振り返って望む。

南側を望む。

「原」の集落。「大月宿」付近からは「笹子峠」まで、ほぼ上りが続きます。

                   
                    

(13:26)「萬霊塔」。

「古久屋」という表示。

落ち着いた家並み。

「親鸞聖人念仏塚」。

(13:33)稲村神社角は「滝子山」の登山道入口となっています。


旧道をそのまままっすぐ進むと、JRの線路にぶつかってしまうので、左に折れてガードをくぐります。


                    

その分岐点にある白壁のおうち。

(13:36)JRのトンネルをくぐる手前左手の高台に「蘆が池由来」碑と解説板があります。ただし、解説板は判読不明個所多し。


                


先ほどの「親鸞聖人念仏塚」に解説文がありますので、引用します。

 ・・・去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
 鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土真宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願を懇請される。
 葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧・晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中、その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。
 地頭の懇願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成仏済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた、小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中、東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
 池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。・・・

来た道を振り返って望む。
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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-19 22:12:16 | 甲州街道

初狩宿
 下初狩宿と中初狩宿の2宿で1つの宿場の任を担い、月の前半15日を中初狩宿、後半15日を下初雁宿が勤めました。下初狩宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒と比較的大きな甲州街道の宿場町でした。建物の敷地と道路とはかなり段差があるものの、旧本陣だった奥脇家の建築年代は不詳ですが木造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、間口が広く本陣としての威容は健在でした。宿場の入り際には文化3年(1806)に建立された聖護院道興歌碑「今はとて かすみを分けてかえるさに おぼつかなしやはつかりの里」があり文明19年(1487)に聖護院道興が訪れ「回国雑記」の中に下初狩宿に訪れた様子が記されています。又、山本周五郎誕生之地としても知られ、生家は洪水によって消失しましたが石碑が建立されています。
・・・
 中初狩宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、宮川橋は当時は名勝として知られ、橋の上から富士山が見える事から「宮川橋の一目富士」と言われたそうです。

(以上、「初狩宿(甲州街道・宿場町)- 山梨県:歴史・観光・見所 www.yamareki.com/ootuki/hatu.html」HP参照)

(12:18)初狩駅旧ホーム跡(現側線)。
  
 首都圏路線の軌道のバラスト(砕石)を製造する「砕石工場」(前回紹介)があり、ここから出発する砕石輸送列車のために、スイッチバックの施設が今でも残されているようです。
 かつての中央本線にはこの付近だけでも笹子駅や勝沼ぶどう郷駅(旧勝沼駅)など多数のスイッチバック構造を持つ駅が存在した。
 ただしこのスイッチバック構造は当駅(初狩駅)発着の工事列車および貨物列車が発着するための設備として残されているに過ぎない。当駅の付近に東洋一の規模といわれた砕石工場(甲州砕石)があり当駅から専用線がのびているため、この設備が必要なのである。また、当駅の側線脇に保線基地を有しており、ここへ越中島貨物駅接続のJR東日本東京レールセンターからの工事資材用のレールの到着がある。
 現在でも当駅はJR東日本の砕石(バラスト)輸送列車の発駅およびレール輸送列車の着駅となっているが、JR貨物の貨物列車の発着は既になくなっている。また工事列車自体の編成も短い事から、スイッチバック施設も大部分が遊休化しており、末端部の引き上げ線付近が道路拡張によって一部撤去されている。
 かつては当駅に停まる旅客列車もスイッチバックを行っていたが、1968年(昭和43年)の複線化の際、勾配のある本線上に新しくホームが設けられ、スイッチバックは行われなくなった。

                                          (以上、「Wikipedia」参照)

 ここで、江東区の「越中島貨物駅」が登場するとは思いませんでした。「レール」がここまで運ばれて来るのですね。

「大月市立初狩小学校」。
 小学校の校庭に「芭蕉句碑・山賊乃 頤とつる 葎哉 芭蕉」があるようですが、見逃しました。

やまがつの おとがいとずる むぐらかな

 貞亨2年、43歳。『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での句。山梨県内の何処であるかは本当は不明だが、今日では山梨県都留市であると同市では主張している。
 甲州の山は何処も急峻。夏草の茫々と生い茂る山路では、さすがに山人もおとがいを閉じて歩かなくては、口の中に夏草の穂先が入ってしまう。おとがい(頤)とは下顎のこと。
 山道で会った木こりか猟師が無口で通り過ぎたのを、夏草が口を塞いで喋れないためとして興じたものであろう。
 
           (「山梨県立大学」 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kai.htm HPより)
  
土蔵造り。

(12:28)右手に「明治天皇御小休遺跡」という石碑。立派な門構えのおうち。小林本陣跡。


                       

その先にも旧家らしいたたずまい。

(12:35)「唐沢橋」のたもとに「首塚」案内板(↓)。

これは武田勝頼から離反した、小山田信茂の「首塚」だといわれています。
         

小山田信茂の謀反と武田氏の滅亡(以下、「Wikipedia」参照)
 天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し、また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。木曽義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。・・・
 勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
 なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある。
 勝頼一行が郡内領へ退避するさなか、信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
 信茂離反に関して、武田方の史料『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。
 一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
 一方、織田・徳川方の史料『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
 織田・徳川勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
 『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。・・・『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

左手崖上に古仏が何体も。

前方が次第に開けてきます。

                  

中央線の電車。

田植えを終えたばかりの田んぼ。


                     

「船石橋」。

(12:44)左手に「船石由来」碑。
  

  

 「船石」とは、船の形をした大きな石だったそうで、親鸞上人が船石の上で説法を行い、また、船石の上で布に名号を書き、老婆に与えたといいます。石は明治代に水害で埋没しまったようです。左側には草に埋もれて「御船石所在地ハ従是東三拾間余」と刻まれた碑もあります。
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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-17 21:05:05 | 甲州街道
 (11:46)橋を渡ると、正面は「採石工場」構内となり、立入り禁止。左から途中で消滅した旧道? が現れてきます。


         旧道?

線路沿いを進みます。

時々、電車がすぐ脇を通過します。

人っ子一人通りません。



右手前方に街並みが見えてきました。

(11:57)採石工場の構内を通ります。

わが国砕石業のあけぼの
 わが国の砕石業は、道路舗装工事の普及に伴って発達してきました。明治時代までの道路は、敷石または河川砂利を散布しただけでしたが、大正初期になって米国からアスファルト舗装工法が導入され、それに必要な骨材の生産が行われるようになり、こうして大正8年、日本石油(株)道路部の森豊吉技師および東京の石材業者・荻島茂留氏によって、山梨県初狩に安山岩の砕石工場が建設されました。

 これがわが国初の砕石工場です。その後しばらくして関東大震災が起こったことから、道路用砕石の需要は急増し、初狩の砕石事業は順調な経過をたどって成長しました。しかし、荻野氏はやがて根府川に良質の安山岩の山を見つけて移転したため、初狩における本格的な砕石事業は第二次大戦の後まで幕を閉じることになりました。この本邦初の砕石工場は、のちの甲州砕石株式会社初狩鉱業所のすぐ近くでしたが、直接のつながりはありません。
(甲州砕石(株)25年史より抜粋)
 上記資料により、諸先輩方が初狩の豊富で良質な岩石に着目されたことにより、砕石発祥の地が生まれました。

(以上、HPより)

前方に踏切が見えてきます。

(12:00)「第七甲州街道踏切」。

 「駒橋宿」の手前でJRの「第五甲州街道踏切」を渡りましたが、「第六踏切」はどこにあったのでしょうか?


 旧道が明治になって国道になったときには、ここよりもう少し東側にあったのですが、現国道になったときに、旧道と共に廃止されてしまったようですが・・・。

右手に「聖護院道興歌碑」。


 碑面の「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」の歌は、京都の聖護院門跡道興の作である。
 道興は、関白近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門は修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を務めた。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を「回国雑記」に記している。
 それによると文明3年(1806)『甲斐国志』の編者、森島基進が自筆し建立したもので、碑高138㌢、周囲76㌢の六角自然石柱である。

                         

今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里

民家の軒先に馬頭観音。

しばらく進むと国道に復帰。

(12:06)「東京より100.1㎞」表示。

街道沿いらしいおうち。「下初狩宿」の家並み。下初狩宿は旧街道が拡張され、国道20号線となっているので、古い町並みは国道の道路面よりも大幅に下がっています。


                         

下初狩宿
本陣2 脇本陣2 旅籠12軒の宿。問屋業務は中初狩宿と半月交代で行った。     




「山本周五郎生誕之地碑」。

山本 周五郎
 1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。

 作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた]。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
 『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである。

・・・

逸話
 山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
 山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
 ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。

主な作品
・日本婦道記 (1942年)
・柳橋物語 (1946年)
・樅ノ木は残った (1954-58年)
・赤ひげ診療譚 (1958年)
・五瓣の椿 (1959年)
・青べか物語 (1960年)
・季節のない街 (1962年)
・さぶ (1963年)
・虚空遍歴 (1963年)
・ながい坂 (1966年)
(以上、「Wikipsdia」参照)

 以上挙げた作品は読んだことがあるものです。こうみると、けっこう読んでいますね。

「二十三夜塔」と「常夜燈」。

(12:10)「初狩駅前」信号。



     
             今池家(国登録有形文化財)。医院だったそうだ。

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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-16 21:42:02 | 甲州街道

国道沿いですが、落ち着いた街並み。


                   

「大月市酪農組合 花咲集乳所」。

(10:24)「花咲下宿」バス停。

右手を見ると、「オトリ鮎」の看板。ちょっとのぞいてみました。


          オトリの鮎。


「ガスト」の先に見えてきたのが、本陣「星野家」の豪壮な建物。


       
         (10:29)期待して近づきましたが、閉館中です。残念!

「明治天皇花咲御小休止所跡」碑。

隣に「本陣」跡碑。

そこで、本陣・星野家の解説文を拝借。

 星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。
 下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。
 江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。
 再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。
 現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。
 明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。
 江戸時代から続く壮厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。

 星野家住宅 附家相図一枚
 ●主屋一棟 居室部及び座敷部
 ●籾蔵及び味噌蔵
 ●文庫蔵一棟 土蔵造


富士納豆製造所の商品は、星野家住宅敷地内に星野家に隣接したところで作られています。

(以上、HPより)



             

(10:33)「東京から96㎞」ポスト。

「中央道」大月インター入口。

「笹子川」に架かる「西方寺橋」を渡り、左折して行くのが旧道?


 この道は、かつて地域興しのイベントとして行っていた「JR・甲州古道ウォーキング」シリーズのうち「大月駅→初狩駅」掲載の「古道」です。
 大月JCTの真下を進み、前沢橋から善福寺、真木諏訪神社を経由して、「初月橋」で国道20号線に合流するコース。 ただ、古地図では確認できず。
 結局、現甲州街道「国道20号線」を行くことにします。

 国道を歩くよりは、と「笹子川」の土手を歩いてみました。鮎釣りらしい方の姿も。


               

 国道に戻り、しばらく進んだ右手の坂に「二十三夜塔」、その左手奥には古仏群。現国道改修工事の際に移動したようです。
 

                               


「中央道」大月JCTから分かれて河口湖に向かう高速の下をくぐります。

(10:53)「東京から97㎞」ポスト。

右手奥の高台に「日本電気」の工場。

左手はJR線。右手は田園風景。


           

                    

上下線で電車が通過中。


               

「笹子川」に架かる「真木橋」を渡ります。

「真木」の集落を進み、しばらく行き、左にカーブするところに「いなだや食堂」があります。そこで、昼食休憩。


お店に入ると、総出でおにぎりづくり中。「田植えのイベントで来ている人達のお昼ですよ。この先の田んぼでやっています。東京からも来ていますよ。」

(11:37)さて、再開。

国道をしばらく進むと、左手に「源氏橋」。この橋を渡ると、途中で崩壊してしまった先ほどの旧道にぶつかります。


              

橋の右手下にはさっき「いなだや」さんで話に聞いた「田植え」風景。けっこうな人数です。


 江戸時代の甲州街道は「大月警察署」の先から、JR線の南側、「笹子川」右岸に沿って進んでいて、その道が明治になって旧国道として存在していました(「今昔マップ」で確認できます)が、現国道ができて廃道、いつしか失われてしまったようです。
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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-15 21:56:51 | 甲州街道

 (9:32)「デイリーヤマザキ」のところで国道に戻って大月に向かいます。途中にあった街道筋らしい古いおうち。


 本来、旧甲州街道は国道の右側にあったはずですが、消滅しているので、「国道20号線(現甲州街道)」を「高月橋」入口交差点まで進み、そこを右折します。目の前には特異な山容の「岩殿山」が迫ってきます。

交差点角に「大月織物会館」。

JRの線路にぶつかったら左折し、大月駅前に通じる商店街の道を進みます。線路を挟んで「岩殿山」。
              

岩殿山
 東京スカイツリーと同じ高さの634m
 JR大月駅から徒歩1時間ほどで頂上に到達できるお手軽なハイキングが可能です。かつて岩殿山城があったこの山一帯は岩石で構成され、豪快な石の壁と秀麗富嶽12景に選定された富士山が堂々と目に入ってきます。・・・
 岩殿山頂上の南側には、鏡岩(かがみいわ)と呼ばれる礫岩(れきがん)が露出した約150メートルの崖が大迫力で眺められます。山容とは裏腹に山頂までのハイキングルートは丁寧に整備され、誰でも山頂を目指せます。JR大月駅から山頂まで1時間ほどで到着するアクセスの良さも魅力で、山梨県が定めた秀麗富嶽12景に選定された絶景は見ごたえたっぷり!
 岩殿山の標高はさほど高くありませんが、下を流れる桂川から一気に山頂まで階段で登るので思いがけず大変です。ですが、ルートの整備状態は良く途中までは舗装路を行き、登山道に入っても歩きにくい場所はありません。高齢者や家族連れも多く訪れていて、頂上までの往復なら登山初心者には最適です。
 稚児落とし分岐から山頂までは20~30分ほどで到達します。おおむね階段が整備され、危険な個所もありません。さらに山頂からは猿橋方面へ下る東ルート、稚児落とし分岐からの巨石や崖が楽しめる西ルートも見逃せません。
 東ルートは岩殿山の東側へダイレクトに下山し葛野川に沿うように名勝猿橋を経由するもの。西ルートは鎖場を幾度となく越えて天神山を縦走する崖沿いのルートで、稚児落としを経由するスリル満点のルート!西ルートは高所恐怖症の方にはお勧めできませんし、整備状態が良いとはいえすべて自己責任ですからよく考えてルートを選びましょう。
 猿橋駅までの東ルートは約3時間、さらに西ルートは岩殿山山頂経由でJR大月駅までもどる標準時間は約4時間です。その分素晴らしい体験ができるのは間違いありませんが過信は禁物ですから、西ルートは経験者や上級者との同伴をお勧めします。
 岩殿山はその姿に似合わず、だれでも登れる山としてルートが整備されています。さらに駅から徒歩で赴けるハイキングルートとしても注目です。さらにコンビニやお土産屋などの充実も見逃せません。ぜひ観光協会で自分の目的に合ったルートを紹介してもらって、最適なスケジュールを組んで出かけてみてはいかがでしょうか?
HPより)

岩殿山城(いわどのやまじょう)
標高634メートルの岩殿山に築かれた山城。
甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。
相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。
・・・
甲州街道の通過する大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。その後は武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられている。
岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にしている。全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。

(以上、「Wikipedia」参照)

まっすぐ行った右側には「大月駅」。


             

(9:48)「大月宿」の表示。

「岩殿山」。右奥から歩いてきました。


 駅前から西に延びる商店街の通りがかつての宿場の街並み。


             

右手には「木村屋菓子舗」。
                                                 昔懐かしい印象の店構え。

(10:00)「大月二丁目」のところで国道に合流。

国道を少し進むと、「明治天皇御召換所址」という石碑があります。


              
 明治大帝は王政維新後民情安定に大御心を注がれ給ひ明治十三年六月十六日宮城御發輦二品伏見宮貞愛親王を始め太政大臣三條實美参議寺島宗則仝伊藤博文仝山田顕義宮内卿徳大寺實則文部卿河野敏謙内務卿松方正義侍從長米田虎雄山口正之陸軍中将三浦梧樓宮内少輔土方又元太政少書記官伊東巳代治等百官有司供奉し峻坂難路の甲州街道を降らせられ小佛の險を越へ鳳輦親しく我縣に臨み一週日間に亘り縣下の民風土情を宸察あらせらる此の砌仝十八日大月町字大月先々代溝口五左ヱ門宅に御駐輦あらせられた由緒深き尊き御遺跡なり


しばらく進むと左手下に「富士急上大月駅」。


 「大月橋」東詰の交差点へ。「富士道」(現国道139号線)との分岐点となりますが、かつて旧道は「桂川」の上流を通っていたようです。そこで、手前で右に折れ、富士急の線路沿いに進み、JR線を越えた後で左折し、「新大月橋」を渡ることにします。「大月得東中学校」の脇を抜けて行きます。



路傍に「鮎供養」碑。

城塞のようにそそり立つ「大月東中」校庭。

「新大月橋」からの「大月橋」とJR鉄橋。

桂川(笹子川)には鮎釣り人が点在。

旧道? 

国道に合流します。正面から来ました。


合流してすぐ国道の左側に「下花咲一里塚」跡の解説板や石仏が集まった緑地があります。



                       

 甲州街道沿いに一里(約4㎞)ごとに設置された塚の一つで、この一里塚は下花咲宿の入口付近にありました。現在、道路工事や鉄道により当時の面影がほとんどありませんが、古い絵図等から、この場所に一里塚があったと分かっているようです。日本橋から24里目。

 庚申塔や題目碑、馬頭観音、芭蕉句碑など多くの石碑が集められています。



 「芭蕉句碑」
     しばらくは花のうへなる月夜かな  はせを 元禄4年 48歳(初蝉)

 ※同じ句を刻んだ句碑が亀戸天神境内にあるようです。

振り返って望む。
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駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-14 23:11:51 | 甲州街道
 6月11日(土)。晴れ。梅雨入りはしましたが、青空が広がりました。今回は、猿橋駅で下車し、笹子駅から乗車するという行程です。猿橋駅に9時前に着き、「猿橋」方向へ少し街道を戻り、コンビニで食料を調達、9時過ぎに出発。そして、県道から「笹子峠」に向かう山道の入口にある「新田下」バス停に15時過ぎに到着。約17㎞の道のり、約28,000歩でした。

 猿橋駅で下車した人は数人。街道歩きの人間はいなさそうです。すれ違う人も稀で、結局、会話したのは、「オトリ鮎」にいたおじさん、途中立ち寄った食堂のおばさん、笹一酒造のお兄さん、そして小一時間待った「新田下」バス停での散歩中の親子連れだけ。
 路線バスでは始発の「新田」から乗ったであろう3人連れの「山おばさん」グループでしたが、話はせず。

 土日にもかかわらず、街道歩きの人たちは、ほとんど見かけません。「東海道」や「中山道」とは大違いです。考えてみたら、もう6日目だというのにこれまでもすれ違う同好の士・旅人も合計でわずか4,5人でした。「山登り」の方々はたくさんいますが。

 「共謀罪」やら「モリ・カケ」問題、次々と指弾されているのもかかわらず、まったく無視して突っ走るアベ自公政権。
 こうして相変わらず「街道歩き」にうつつを抜かすことへの後ろめたさを感じつつ。

(9:07)国道を左にカーブするところに「猿橋一里塚」跡の標柱。大きな石碑に隠れるように立っています。


          

行く先を望む。

右側が急に開けてきます。

旧道は「山梨中央自動車」のところを右折します。雄大な景色の向こうに「岩殿山」が。



                 

土曜日のせいか、静かな道をゆっくり下っていきます。


庚申塚。



 左の道を進むと、右下の「発電所」敷地に大きなタービンが据え付けられています。かつて使用されていたものでしょう。解説板がありますが、ここからでは判読、不能。





 1907(明治40)年に東京電燈が山梨県北都留郡廣里村(当時)の駒橋に建設した「駒橋発電所」は、出力15000kWの、当時としては日本最大の水力発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76㎞を55kVの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなりました。
 当時の「駒橋発電所」は、有効落差104㍍、最大使用水量25.4立方メートル/秒でした。発電所にはEscher Wyss社(スイス)1904年製の横軸フランシス双輪単流形水車が6台(合計27000馬力、そのうちの1台は予備)稼働し、シーメンス社(ドイツ)製の3900KVA発電機6台(そのうちの1台は予備)で発電を行っていました。これらの竣工当時に設置されたフランシス水車と発電機は老朽化のため昭和20~30年代に撤去され、大容量のフランシス水車と発電機それぞれ1台で稼働しています。
 日本で最初の水力発電所は、京都・蹴上の琵琶湖疎水を利用した「蹴上発電所」(1891(明治24)年11月送電開始)でした。東京では明治30年代になって増加する電力需要をまかなうため東京電燈(1886<明治19>年営業開始)によって火力発電所が増設されていきました。東京の市街地に設置されたこれら5カ所の火力発電所は消費地に隣接した近距離送電によるものでした。やがて日露戦争などの影響による産業政策で石炭が慢性的に不足するようになり火力発電では増加する電力需要に応じきれなくなりました。そのため東京電燈は、水力発電による東京への長距離送電を計画しました。長距離送電技術の研究と水利調査などを経て山梨県大月に「駒橋発電所」をつくり(1906<明治39>年1月着工、1909<明治42>年12月20日竣工)東京(早稲田変電所)へ初めて水力発電による長距離送電(76kmで当時は日本最長)を開始しました。山梨県大月に「駒橋発電所」が設置された理由は、桂川が山中湖を水源としており、豊富な湧水が安定して得られることや消費地に比較的近いこと、送電ルートが確保しやすかったことなどによります。

 昭和30年代からの高度経済成長期には、東京では火力発電が主流となり、駒橋発電所からの長距離送電は廃止されます。現在は山梨県東部地域へ送電しています。
 東京電燈「駒橋発電所」時代の発電所本館(煉瓦造)は取り壊され、発電室(煉瓦造)は改修されたため当時の姿を留めてはいません。
 竣工当時は8本の水圧鉄管がありましたが、現在は2本となっています。
 水圧鉄管3本分のアンカーブロックが残されています。
 
(「産業技術遺産探訪~東京電力 駒橋発電所」www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2002/koma/koma.htm」HPより)

※ 先ほど目にしたものは、旧・桂川電力公司 鹿留発電所フランシス水車(1912年フォイト製)のようです。

また、かつて「蹴上発電所」について掲載したことがあります。「インクライン」の時と東海道歩きの時と。
    
                        煉瓦造りの現役の発電所の建物。

導水管を越えたら、すぐ左の坂道に入ります。


 

「第五甲州街道踏切」。

振り返ると電車が通過中。 

じきに「国道」に合流しますが、すぐ「横尾橋」バス停のところから右の道に入ります。


この辺り、旧道は鉄道建設、国道の開通、発電所建設などで寸断されています。

この旧道沿いが「駒橋宿」となります。


              

   

 駒橋宿は、本陣、脇本陣がなく、旅籠4軒と、とても小さな宿でした。
「厄王大権現」。

振り返って望む。

再び国道に合流します。

その手前に旧家。
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読書「伯爵夫人」(蓮實重彦)新潮社(じじばばがゆく。文学編。)

2017-06-12 22:00:19 | 読書無限
 この作品での「三島(由紀夫)賞」受賞会見の実に不機嫌な振舞い・演技・本音? そうした下世話な情報に惑わされてはなりません、この方を見くびってはいけないということですわ。もちろん、この(純・文学)作品はそうした「下(しも)々」のお話を軽く越えているお話しなんだから。

 このお話の舞台は、昭和16年(1941年)、大日本帝国の首都・東京。太平洋戦争(当時の言い方では「大東亜戦争」)勃発直前、頃のお話ということのようね。

 主人公は二朗という童貞のお坊ちゃん。東京帝大法科の受験を控えた旧制高校生ね。一方、「伯爵夫人」。元娼婦らしいのね、ホントウかどうかわからないけどスパイ? かも。で、その道に長けているプロなのね。

 他の登場人物も多士済々、なかなかなものよ、二朗くんの従妹の蓬子なんか、婚約者がいるのにその未熟な肉体・性を二朗にさらすのね、どこまで本気なのか、茶化しているのかわからないけど。

 そんなことだけにお話しはとどまらないのが、この方のお作法。読者を煙に巻くのは手慣れたものよね。

 次々に飛び出す謎かけ的な固有名詞。「平岡」が「三島由紀夫」だ、くらいはすぐ分かったけれど、戦前の聖林スターの名前も映画のシーンなんかちっとも存じ上げないわ。
 もう一方じゃ「武器よさらば」ってゲイリークーパーの映画、私だって知ってるわよ。それを題名は憶えておりません、などと伯爵夫人に平気で言わせるし。でも、「前田山の張り手」なんて知らなかったわ。こんな風にペダンティックなのはちょっといやらしいわよね。

 そうそう、外国の都市名なんかは、すべて漢字表記。最初だけ仮名を振ってあるけど、その後は漢字のみ、あれ! 何と読むんだっけ? まったくわずらわしいわよね。

 さて、伯爵夫人の口からは、いきなり「青くせい魔羅」「あたいの熟れたまんこ」(あら、恥ずかしい! )などという単語が爆撃のように飛び出す始末。

 つい意図せず(「伯爵夫人」の意図に反してかな?)白濁したあれを発射しちゃった二朗を責めて、啖呵を切る場面なんか、作者自身が一番楽しんでいる雰囲気よね。小説な作法としていかがなものかしら、とは思うけどさ。

 二朗の「おみお玉」(美称の接頭語が三つも用いられている。「おみおつけ」と同じよね。)と尊称された(内心はバカにしている)男根さまが、硬式ボールに直撃されて損傷。「百戦錬磨」の女たちの手でためつすがめつ丁寧に介抱されるわね。でも、けっこう立派な一物のよう、彼のナニは。そこで、ますます女性陣はほれぼれとしつつかわいがられて、いいおもちゃになるわけなのね。玉と棒とをうまく使い分けながら・・・。

 次朗たち男の間では「M」と呼び合っている男性性器を「おちんちん」などと何度も気楽に呼ぶ女性たち。でも、やっぱり「玉」=「弾」にこだわっているのね、当然「射」にも。

 で、繰り広げられるのは、性(セックス)と戦争にまつわる物語なわけよ。

 二朗を幼少の頃から世話している「小春」という女性も二朗(の何)を手玉に取っての活躍なんかも面白いけど、スパイ物のようなお話しだと思わせているし、・・・。

 作者お得意の、同じような場面、表現が飛び出し、読者を煙に巻くのがこの方らしい小説作法なのね。

 そうそう。今もある、「ドロステ・ココア」の缶(の図柄)が立派な小道具として登場するわ。

(「Amazon」より)

 尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、この図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです。ところが、それは無に向けての無限連鎖ではない。なぜなら、あの尼僧が見すえているものは、・・・戦争以外の何ものでもないと伯爵夫人はいう。(P78) 

 あの尼僧姿のキャサリンがこちらを見ているかぎり、いつどこで戦争が起きてもおかしくない。二朗さん、おわかりになるかしら、今のお話。(p85) 

 絵柄の、白衣と緋色は反転させると、日の丸になっちゃうわ。ということは、かなり意図的な用い方だわ。なるほど、どこまでも続く、繰り返されるってわけね、戦争は。

 そして「蝶々夫人」として、そのモデルとなったアイルランド人女性と共に軍人のお相手をしたときの一部始終を語るのよね。その挿話はなかなか興味深かったわ。でも、その話、本当かしらね?

 しかし、またしても伯爵夫人の前でお洩らしちゃうのよね。伯爵夫人にせせら笑われる二朗くんですわ。まったく童貞野郎はって、あら、はしたない言い方でしたわね。

 そう、このお話、「敏感」な貴方ならすぐおわかりでしょう、Hなお話に見立て、そして「大東亜」戦争にまつわる物語に仕立てているけど、実は・・・。

 ポルノグラフィーの装いは手の込んだつくりかたよね。

 きっと、このお話、今のわがまま童貞風(「高貴な」「氏素性」といってもたかが知れている)のアベ何とかさんへの面当てですわ。「蓮」(ハチ)の一差しをかませてみせたようよ、元東大総長閣下が。

 これって、ちょっと勝手読みしすぎたかしら。

 わたくしども女にとって、殿方のあれが所詮は「あんなもの」でしかないことぐらい、女をご存じない二朗さんにもそろそろご理解いただけてもいいと本気で思っております。
 ・・・「あんなもの」は長かろうが太かろうが、いったん出すべきものを出してしまえばあとはあえなく無条件降伏といった按配で、勝つのはいつだって「熟れたまんこ」の方。女からみれば、殿方の事後のあれほどみじめな喪失感によく耐えられるものだと、驚嘆するほかないという意味のことを伯爵夫人はまくしたてる。
(p139)

 いったん反発はしてみた二朗に執拗に迫ってくるのね、伯爵夫人は。そして、戦争さなかの過去のすったもんだを話し始めるのよね。

 「戦争」と「愛欲ごっこ」は似たり寄ったり、その果ても。もちろん「ごっこ」ではすまされないけどね、戦争は。

 結局、あれこれあったあげくに小春も蓬子も去り、伯爵夫人なしの生活が始まったとつぶやく二朗くん。

 ふと「夕刊」に目をやると、「帝國・米英に宣戦を布告す」の文字が一面に躍っている。ああ、やっぱり。二朗は、儀式的と思えるほどゆっくりとした身振りでココア缶の包みを開け、そのひとつをしっかりと手にとり、何度も見たことがある図柄を改めて正面から凝視してみる。すると、謎めいた微笑を浮かべてこちらに視線を向けている角張った白いコルネット姿の尼僧の背後に、真っ赤な陰毛を燃えあがらせながら世界を凝視している「蝶々夫人」がすけて見え、音としては響かぬ声で、戦争、戦争と寡黙に口にしているような気がしてならない。
(p199) 

 自ら経験をしたこともない「戦争」をもてあそぶ殿方たち、ご自身に当てはめて、よ~くお考えあそばせ。

 すっかり年老いた旦那が寝ている横で、こっそり一気に読みましたわ。

 では、おやすみなさいませ。

 う~ん、でも、なかなか寝付かれない、やっぱり罪な小説だわ。・・・
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読書「このあたりの人たち」(川上弘美)スイッチパブリッシング

2017-06-10 20:49:22 | 読書無限
 久々に川上弘美さんの作品。
 
 ところで、2歳の孫が大好きな「それゆけアンパンマン」。

 我が家に来ても、ミニカーやプラレールで遊びながら、一方で、ちらりとTVの画面を。同じ内容のビデオでも何回も観ています。飽きないのかな、などと思うのは、大人たち。
 何度も観ているうち、ストーリーを覚えているのか、好き嫌いもはっきりしてきます。なんとなく暗い森の場面になる前に、変えて、と迫る。
 どうも気に入らない登場人物の時には、表題が出たとたんに、変えて、と。
 勿論アンパンマン、ばいきんまん、ジャムおじさんなどのレギュラー陣は好きなようです。

 しかし、次々と新しいキャラクターが登場。だいたいが食べ物に関わるネーミングとなっています。それがコスチュームとかとぴったりはまっているのが見事。
 背景・場面も登場人物、ストーリーに合わせて、賑やかな街あり、丘あり、雪山あり、穏やかな山並みあり、深山幽谷あり、お花畑あり、荒れ狂う大海原あり、いくつも浮かぶ不思議な島、果てしなく続く道あり、・・・。

 「アンパンマン」の世界・地理・宇宙はいったいどうなっているのでしょう? つい気になってしまいます。でも、そんな理屈抜きで、毎回楽しませる手法はたいしたものです。観る人をそんな不思議な世界に引き込む。孫と観ていると、爺さんもついつい。ワンパターンだと分っていても、それに徹していると理解していても・・・。ばいきんまんを含め、憎めないキャラクターなんですね、登場 人物(動物)? たち、皆。

 あり得ない世界だけれども、どこかにはありそうな物語の世界。それは、登場人物たちへの共感、彼らの世界への、郷愁を含めた世界への気がついたらのめり込んでいく世界。

「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」は、放映時の変化と共に、電化製品や家具などの大きく確実な変化はありますが、基本的な生活空間、住まい、街並み、自然環境にはほとんど変化はないように感じます。その中で、毎回、まったく同じではない、あれだけのストーリーを描くのですから、それはそれですごいものです。
 アニメの世界では、原作者がとうの昔に亡くなっていても続いていくという「長寿」なのは、実に驚異的なアニメ・TV文化(伝統)です。

 この川上さんの作品の世界も又、柴田元幸さんが「このあたりってどのあたりかなというと、こういう町に住むのっていいかも、とあなたが思うあたりです。」という世界です。「アンパンマン」と同じ、と云われたのでは、どちらにとっても不幸ですが。いや、幸福かな。

 人間ともつかず、植物、動物ともつかない、そう、自然界の行きと生ける者(「もの」「物」「モノ」ではなく、毅然として存在し、活動している者)たちとの心の通い合う世界こそ、川上さんが心身・人生の歴史で感じとった世界・宇宙です。

 ま、こういう物語世界は、読者にとっては好きか嫌いか分かれてしまうかも知れません。例えば、「グルッポー」=鳩鳴病にかかった人々の話=「何、この話。わけが分らないわ」という一言で終わってしまう。「白い鳩」=テンポ良く進みすぎて分らなくなる話はなおさら、・・・。

 しかし、こうして、「川上ワールド」にはまってしまうと、実に心地よい空間になってしまいます。

 「町」ができていく、とは? 26の物語を楽しんで下さい。そして、川上ワールドにひたって下さい。

 ところで、今度はいつ「甲州街道」を歩きますか。  

  

                                  (www.anpanman.jp/ 「アンパンマン公式ポータルサイト」HPより)
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その9。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-08 21:40:45 | 甲州街道

 橋には緋毛氈が敷かれ、対岸には的が設置されています。さて? そのうち、高校の弓道部の生徒でしょうか、4人の男女。リハーサルのため、舞台に登場、向こう岸の的に向かって矢を射るようす。見ていると、見事に真ん中に命中する生徒も。


          なかなか見事な腕前を披露。

 次に登場したのは、「笹子追分人形芝居」のリハーサル。


      

なかなか息の合った人形遣い。国立劇場の文楽とは当然、大違いですが、それでも先日の人形浄瑠璃の感動が蘇ってきます。

そのうち、地元の方々が集まってきます。
「第16回さるはし観月の会」。

・紅富士太鼓
・絵本と演奏
・リコーダー演奏
・笹子追分人形芝居
・俳句表彰式

など盛りだくさんのイベント。

中でも、「笹子追分人形芝居」。ついこの間、文楽を観たばかりなので興味津々。

隣では紫陽花の鉢の無料配布。聞いたら地元の方で1年間世話をして来年の紫陽花祭に持ってくるということ。残念ながら地元の方以外はダメ! でした。

 「猿橋」は安藤(歌川)広重の浮世絵でも有名です。
甲陽猿橋之図 上下
The Monkey Bridge in Kai Province

詳細情報
作者歌川(安藤)広重 作者英名hiroshige 画題甲陽猿橋之図 掛物絵判錦絵 寸法72.8×25.0 署名広重筆 一立斎

(「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/0424 HPより)

今回のイベントはそれにもあやかっているようです。4時から開始ということなので、大月駅まで歩くのはやめにして、ビールと地酒を飲みながら小一時間、待つことにします。

 さて、待望の4時。大月市長の挨拶があって、開会。

 最初に橋の上で披露された「紅富士太鼓」。西(上流)に向かって豪快で巧みな太鼓の合奏。世界一大きな太鼓だそうです。たたき手も若者が目立ちます。
 幼稚園の先生による絵本の読み聞かせ、リコーダーの演奏と続きます。

さて、「笹子追分人形芝居」。


  「追分人形式三番叟」。

この間「国立劇場」で観た文楽と同じ、三人がかりで人形を操ります。少々小ぶりな人形に素朴な衣装を身につけ、テープの義太夫節に合わせて動作をします。中央の人は高下駄状の履き物をはいています。素朴な中に地域の伝統芸能を観させてもらった感じです。歌舞伎でも全国のあちこちに、地域歌舞伎が残されていますが、江戸時代の伝統芸能の伝播、そして地域ごとの上上演、継承、保存というものの熱意・重さ強く感じました。
 次々回くらいに「笹子峠」を越える時、その手前で、発祥の碑を見ることができそうです。

笹子追分人形芝居 (「パンフレット」より)
 むかし、甲州街道で最大の難所にあたった麓の笹子村は、旅人が草鞋を脱ぎ、ひと息つく宿場にあたりました。
 笹子村の先人たちは山仕事のかたわら、淡路、江戸伝来の人形芝居を習得し、明日は峠に向かう客人をもてなしました。
 そのころ峠はより高く、谷は深く、緑は鬱蒼と濃く感じられたことでしょう。山と川とともにあった厳しい暮らしを、助けあい支えあったふるさとの、灯火のような人形芝居でした。
 以来、約300年、時の流れに翻弄されながら、人形は土地の絆に守られ、連綿とつながるふるさとの歴史を今も舞いつづけています。
 ひとえに、峠のあったおかげです。

・・・近年には、座員の高齢化という苦境のなか、前会長・天野宇吉氏らの尽力によりなんとか守られてきた活動も、平成6年ついに途絶えることとなりました。 復活の幕があいたのは、平成16年。大月市制50周年での10分間の上演がきっかけでした。古老たちの想いを受けた有志が集い、翌年から活動を再開。ほとんどの座員が未経験からのスタートでした。
 最盛期に県内各地に広まっていた人形芝居も今や追分人形が残るのみです。

上演演目
・吉窪美人鏡
・本朝二十四孝
・傾城阿波の鳴門
・伊達娘恋緋鹿子
・奥州安達原

など






                   

(17:21)イベントはまだまだ続くようでしたが、席を立ち、駅方向へ。浴衣姿のこどもたちが続々集まってきます。


             


(17:26)「猿橋宿」にはこれといった史跡は見当たりません。


さっき演奏していた「紅富士太鼓」トラック。猿橋上での演奏はなかなか迫力がありました。


(17:38)「殿上下宿(とのえしもしゅく)」バス停。

街道を西に進みます。「猿橋宿」を抜けたところにJRの駅があります。


今回はここまで。ここを左に曲がれば「猿橋」駅。(17:45)
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その8。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-07 20:34:00 | 甲州街道
 いよいよ奇橋・「猿橋」に向かいます。

「東京から90㎞」ポスト(14:41)。

蛇骨沢を過ぎ、常夜灯のある七面大明神の石碑の下を過ぎると、


「小菅」交差点。そこを右に折れます(14:45)。

                この道が旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。

「仙台屋食堂」の手前に旧中央線トンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いています。




 もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のためにハッキリとは目視できません。また、「猿橋」のすぐ脇で「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。

(↓)

 ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。

水路橋(以前撮った写真)。

    
                「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。

(14:49)眼下に「猿橋」が見えて来ます。
         

橋の上には毛氈(緋毛氈)が敷かれ、何かのイベントがありそうな雰囲気。


猿橋
 江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

《構造》
 猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
 刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

《歴史》
 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
 猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
 室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
 1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
 江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
 1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
 木造で現存する刎橋はない。
 古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
 なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。

                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

注:奇橋=日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとして挙げられる橋。

 「日本三大奇橋」には説がいくつかあるようです。
・猿橋 【山梨県大月市】
・錦帯橋 【山口県岩国市】

 の二つは確定的ですが、現在は3番目にはいろいろと。
・愛本橋 【富山県黒部市】
 かつては全長63mにも及ぶ刎橋(はねばし)=「猿橋」と同様の構造=であったため。  

 おそらく、江戸時代にはこの三橋だったと思われます。しかし「愛本橋」が近代的な橋に架け替えられ、観光的・歴史的な意義はあっても外れてしまった?

そこで、三番目の候補として。
・木曽の桟(かけはし) 【長野県上松町】
 険しい山の崖ぎわに短く切った木をかけ渡した木の橋。
※現状では存在していないようです。石垣の一部が史跡として保存されているのみ。これもちょっと?

・かずら橋 【徳島県三好市】
・神橋 【栃木県日光市】

 などが挙げられるようです。こちらは現存する橋。

 「祖谷のかずら橋
     
 現在の西祖谷山村善徳のかずら橋は長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財である。大正時代に一度、ワイヤーを使った吊り橋に架け替えられたが、1928年(昭和3年)、地域振興目的でかずら橋が復活された。ただし安全のためワイヤーは使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾とも言える。
 1970年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことで知名度が飛躍的に向上。現在でも年間35万人の観光客が通るため、老朽化が早い事から3年に一度架け替えが行われており、約1ヶ月を要する。材料である太いかずらの調達は年々困難になってきており細いかずらを撚り合わせて使用しているという。使用するかずらは高知県産のシラクチカズラである。
 東祖谷菅生のものは奥祖谷二重かずら橋と呼ばれ、男橋と呼ばれる長さ42mのものと女橋20mが並んで架かっている。いずれも人ひとり渡っても揺れ、床面も「さな木」と呼ばれる丸太や割木を荒く編んだだけであり、すき間から川面が望める。そういったこの橋の特徴をよく表す歌として「祖谷の粉ひき節」が知られている。
 2012年10月、徳島県のかずら橋がトリップアドバイザーの企画「バゲットリスト」の「世界の徒歩吊り橋10選」に選ばれた。
(以上、「Wikipedia」より。写真も借用。)

「神橋」は、「日光街道」のゴールにある橋。

 私(わたくし)的には「かずら橋」が入るかな、と。


                        解説板。



                  

            

橋の下(眼下30㍍)は「桂川」。なかなかの渓谷美。


                            

猿橋や 月松にあり 水にあり 芭蕉

甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋  野口雨情
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-06 23:16:23 | 甲州街道

「鳥沢宿」に入ります。
鳥沢宿(山梨県大月市)
概要:
 甲州街道の宿場町である鳥沢宿は2宿に分かれていて上鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒(大5軒・中3軒・小5軒)、問屋1軒、宿場の規模は6町17間(約685m)。下鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠11軒(大3軒・中4軒・小4軒)、問屋1軒、宿場の規模は4町30間(約495m)と甲州街道では小規模の宿場町がほぼ隣接(約550m)した形で設置されました。
 人馬継立や問屋役等は1ヶ月を半分に分け前半15日間を上鳥沢宿、後半15日間を下鳥沢宿でその役を務めました。元々は小西村と称していたそうですが、江戸時代初期に周辺の地名と共に十二支に因んだものに変更になったとされます(犬目宿や猿橋宿、駒橋宿など)。明治時代以降、鉄道の駅舎が設置された事で、周辺(旧富浜村)の中心として地位を確立し村役場や小学校が建設され市も開設され繁栄しました。道路の幅が当時から広かった為、藩政期の建物は少ないものの両側に木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋建築が軒を連ね、宿場町らしい町並みを一部残しています。

(「山梨県:歴史・観光・見所」 www.yamareki.com/ootuki/tori.html HPより)

 申(さる)=猿橋、酉(とり)=鳥沢、戌(いぬ)=犬目。 「猿橋」がもともとあって、それにあやかって東側に続く宿場の名をつけたのではないでしょうか?

「国道20号線」沿いの宿場町。

(13:38)「東京から87㎞」ポスト。

古い街並みが残っています。

「下鳥沢宿」表示。
                           「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」とあります。

木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋造りの建物が続きます。そのいくつか(順不同)。


               
          


                                     


(13:46)この信号、左手に「鳥沢駅」。
                                      駅のベンチで小休止。

(14:04)右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。「井上本陣」跡。


              

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。


通りを挟んで古民家。

しばらく進み、「三栄工業」の看板のところを右に入ります。(14:09)


「横吹沢」。

再び国道に合流。

 
              

この付近は、鳥沢駅から猿橋駅までかつてあった中央線の廃線跡探索で歩いたことがあります。その時の記録も交えて。

 ※かつての線路・築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道が今回歩いた「旧甲州街道」。
                     



(14:25)再び国道から右の道を上り、Y字路を左折します。その道が旧道。


         

 ※曲がらずに右の坂を上って行くと、突き当たりに「富浜公民館小向袴着分館」。その右手奥にトンネルの猿橋側の入口が見えます。
   
「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。              

旧道は私有地に入ってしまい、行き止まり。雑草の中の細道を国道側に降ります。


                         

降り立ったところは、国道20号線「宮谷橋」の脇。東京電力の管理する「水路橋」が橋のすぐ右手にあります。

※道路沿いの目の下に古びた橋梁(以前撮った写真。今回は、周囲の木々の緑が濃くて、全容がはっきりしませんでしたので)。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。
    

名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。

「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
 東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
 建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
 取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
 八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
 わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)

(14:31)

 下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、見上げると、なかなか壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。
京都・南禅寺「水路閣」。

 なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
 この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その6。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-05 20:15:57 | 甲州街道

 「鳥沢宿」に向かって進みます。
古びた案内図。

「扇山」への道標。

 かつての甲州街道は今まで来た印象でも、現在のように車道となって曲がりくねっている道ではなく、尾根道をもっと直線的に進んでいたと思われます。この付近は特に標高が高く、富士山などの周囲の景観ももっとすばらしかったでしょう(足下はかなり悪いと思いますが)。
 地元の方々によって古道が復活されているところがしばしば見られます。しかし、荒廃している箇所もあるようで、一般の街道歩きでは現在の甲州街道・車道を歩くことが安全で確かなのかもしれません。景色は今ひとつ物足りませんが。

右手上に、茅葺き屋根のおうち。「瀧松苑」という蕎麦屋さんでしたが、現在は廃業?


旧道のようです。


        

 「君恋温泉」を経由して行く道のようでしたが、「君恋温泉」はすでに廃業しています。


(12:35)県道をそのまま進むと、正面に「恋塚一里塚」が見えて来ます。



恋塚一里塚
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つで、江戸日本橋から21番21里にあたります。
 塚は原形をよく残しており、直径約12㍍、高さ約5㍍の円丘です。昔は街道を挟んで北側にもありました。
 もともと付近は峰続きでしたが、旧街道を造る時に堀割にしたため、道の両側に小高い場所ができました。この地形を利用して一里塚が築かれたものと考えられています。
 ・・・平成18年、大雨によって塚の西側斜面が崩れたため復旧工事を行いました。
・・・
           平成23年9月           山梨県教育委員会 上野原市教育委員会

 

振り返って望む。

カーブを曲がり、赤い鳥居のところを右に入って行きます。「馬宿」の集落。


              

その先に江戸時代の甲州街道・石畳が残っています。

枯れ葉に覆われた石畳道が40㍍ほど。

  

すぐ県道に出てしまいます。

左手が開けてくるので、富士山に期待が。

大月市に入ります。



                           

右手の高台に石仏と祠。

右側も開けてきます。山里風景。

しばらくすると山谷の集落に入って、どんどん下って行きます。旧道は途中、右に入る坂道を下って行くようでしたが、その入り口に気が付かず、そのまま県道を右に左にカーブしながら進みました。次の集落「中野」に向かいます。


               

小さな川を越えると中野の集落。

中野を過ぎると、目の前に中央道の高い橋脚が見えてきます。


中央道の高架下を進みます。

                  

しばらく進むと、「国道20号線」と合流。今回の出発地「上野原宿」以来、久々の国道(現「甲州街道」)との再会です。


             
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-03 18:42:06 | 甲州街道

森の中の道を出て「新田」の集落に入って行きます。 

右手に立派な門構えのおうち。

「甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」の看板とそのいわれの解説文。

  
・・・米山家では一時期尾張の殿様が泊まる定宿だったことがあり、それを示す象嵌の札や三つ葉葵の金杯が残されている。新田宿は犬目宿の脇宿で、大きな大名行列の時だけ利用された。犬目宿の本陣ではなく、米山家になぜ宿泊したのかは、この前の駐車場から富士山がよく見え、甲州街道で最も眺望が良いためにお殿様がお気に入りになり、定宿となったものです。
・・・尾張の殿様は、徳川御三家でも筆頭の大名であったので、尾張の殿様が宿泊している間はそれを示す札(将棋の駒型で黒漆の象嵌で表に「踏馬」裏に「御免」と書かれている)を門にかけ、三つ葉葵の紋所の高張り提灯がたてられて門番がたち、いかなる格の高い武士でも馬にのったまま、通ることは不敬となるため許されず、馬を引いて歩いてとおらなければなりませんでした。
・・・宿場は遠くから見通しができないように入口の道路は曲げて造られていた。下の県道30号線(大月・上野原線)は、明治天皇が馬車でご巡幸するために造られた道であり、「新道」とよばれています。


正面の紅白に塗られた高い鉄塔(山梨放送・電波塔)を見ながら進むと、県道に合流します。広々とした合流点にはバス停があります。


 すれ違った中学生に「学校は近くにあるの?」と聞くと、「ありません。スクールバスで通っています」と。しばらくするとそのバスが来て、少年は乗り込みました。土曜日の部活のためなのでしょうか。

この先で「犬目宿」に入ります。

道路より下にある街道筋らしいおうち。

正面に近代的で大きなビルが現れます。「石垣エンジニアリング」とあります。


「犬目宿」の入口には「犬目兵助の墓」案内板。

「犬目宿」のようす。人っ子一人いないところに、正午のアナウンスが響きます。


犬目宿
 山梨県上野原市。正徳3年(1713)宿が構成された。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であった。しかし、昭和45年の大火で宿の6割を焼失してしまう。
「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれいた。

 この宿は、標高510㍍という高所に位置し、眺望が大変素晴らしかったところです。JR線から遠く離れ、今は静かな落ち着いた街並みです。
「下宿」バス停。一日に数本。

集落の中心に「犬目宿直売所」があります。土日は午後1時からなので、残念ながら開店前。やむをえず、その前の道端で小休止。


 新鮮な朝採り野菜ばかりをとりそろえ、安く販売しています。犬目地区は、旧甲州街道の犬目宿として栄え、葛飾北斎の富岳三十六景のひとつに甲州街道犬目峠が描かれています。
品目:野菜、果樹、その他(筍など季節のもの)
特産品:山菜(蕗・ウド・山椒など)
HPより)

(12:02)「犬目宿」碑。

「犬目宿案内板」。

―犬目宿のいわれ―
 犬目宿は、一つの村が「宿」そのものになった形と考えられます。言い伝えによれば、正徳2年(1712)、現在の集落より600mばかり下方の斜面(元土橋)にあった部落が、急遽そのまま現在の所に移住し、その翌年、宿駅起立の際に、統一的意思により「一村一宿」の宿場として創設されたということです。
 天保14年(1842)においては、戸数56戸、人口255名、本陣2、脇本陣0、旅籠15(大3、中3、小7)を数えた山峡の小さな宿場です。

                 平成7年3月   上野原町教育委員会


左側に兵助の生家「水田屋」。
解説板。

義民『犬目の兵助』の生家
 天保4年(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保7年(1836)の大飢饉がやって来ました。
 その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。
 各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。
 称して、『甲州一揆』と言われています。  
 このときの兵助は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。
 一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余りの苦しい旅のようすが伺えます。
 晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没しています。

   平成11年11月吉日                        上野原町教育委員会

静かなたたずまい。

この付近に本陣があったと言います。「犬目」バス停付近。


                

(12:19)宿場はすぐ終わり、桝形を右に折れていきます。寶勝寺が右手にあります。道路脇に「空」と刻まれた球形のオブジェ。
 

                  

この辺りからの富士山は葛飾北斎や歌川広重の版画でも有名。残念ながら今日は雲にかすんではっきりとは見えません。


葛飾北斎 冨嶽三十六景:甲州犬目峠

 新緑のなだらかな甲州道中の峠道を旅人や馬子が登っていく。摺り残して表現した雲は坂道と富士の間に距離を作り出し、眼下に渓谷があることをうかがわせる。鋭角の富士と峠の斜め線による簡潔な構図によって、明るくのどかな景色が広がっている。

犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。

HPより)

実際では構図的にはおかしい印象ですが。

歌川広重 不二三十六景:甲斐犬目峠

 本図は、甲州を旅した折に残したスケッチとよく似ているものの、やはり見えないはずの桂川を描きこんでいる。『甲州日記』の中で、4月の往路で開店したばかりの「しがらき」という茶屋で休憩し、11月の復路でも立ち寄っているが、右手の茶屋はこれを思い出してモチーフに選んだのかもしれない。

(同上)

これも実際とはかなり異なります。
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-01 21:45:08 | 甲州街道
                                           ↓が「談合坂SA」(下り線)。

 宿場の外れに位置する「犬嶋神社」から旧道は左に曲がって行きます。しばらく進むと、正面に「西光寺」。左手には中央道の防音壁が迫ってきます。



           
カエルの石像。

西光寺の右手を進むのが旧道。曲がりくねった上り坂になります。

(11:04) 振り返る。

しばらくすると、中央道の側道に合流、中央道を陸橋で越えていきます。橋付近からは、左手奥にある「談合坂SA」がよく見えます。

(11:08)陸橋を渡ると、森の中の砂利道。

県道30号線に合流し、「犬目宿」へ向かいます。


         

(11:12)右手石垣の上に「荻野一里塚跡」碑が立っています。その先には解説板。


                  

荻野一里塚跡
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれ塚の一つです。江戸日本橋から20番20里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って、3番目の一里塚です。
 一里塚の標柱が現在地から東に約10㍍の県道脇に建てられていますが、古老の話によると、北側の塚の上に「ヒラマツ」と呼ばれた老松がありました。
 一里塚は、旅人が、もう1里、もう1里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みをする場所でした。また、人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治34年(1901)、中央線が開通するまで大いに利用されました。
 地域の歴史を知る貴重な文化財ですので大切に保護しましょう。

              平成23年9月         上野原市教育委員会

甲州の山々が広がります。のどかな山村。中央道が間近にあるとは思えないほど、静か。


           

人の姿も車の行き来もありません。初夏のような日差しのもと。


左手は深い谷になっています。

新緑の山々を眺めながらのんびりと。


                   

右手に中央道の防音壁が現れ、それに沿って進むと、右手には、中央道に架かる陸橋が。その橋を渡ってまっすぐ進みます。

(11:27)陸橋上から左手奥に見える富士山を肉眼では確認できますが、写真では判別不能。
                

その先、県道からは正面、右手の坂を上っていくようになります。


(11:29)その坂の入口に立っているのが、「矢坪坂の古戦場跡」解説板。


矢坪坂の古戦場跡
 大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。
 享禄3年(1530)4月23日甲斐国の郡内領主であった小山田信宥の軍勢が相模国の北条氏縄の軍勢を矢坪坂で迎え撃ち、激戦を展開しました。戦いの末、小山田勢は敗れ、多数の死者が出たと伝えられています。
 現在、戦いをしのぶ跡はありませんが、付近では時々、矢じりが掘り出されることがあったといいます。
 一説によると、矢坪の武甕槌(たけみかづち)神社(軍勢神社)や新田の丹勢神社はこの戦いに際に祀られたといわれています。

           平成29年3月           上野原市教育委員会


いよいよかつての難所、「座頭転がし」に向かいます。


               

(11:35)民家の脇を抜け、森の中に入って行きます。



左手が開けた所に出てきます。眼下には県道。急峻な崖になっています。フェンスがなかったらかなり不安。


(11:38)「矢坪金比羅神社参道」道標。

 

    

木々の間から遠くの山々が。


                                     (11:42)「座頭転がし」。

「座頭転がし」は、中山道・碓氷峠にもありましたが、それに比べればあっけなく着きます。しかし、今でもここで転げ落ちたら、たしかにおおごとになりそうです。むしろ、追いはぎでもあって突き落とされたら・・・。


参考:中山道・碓氷峠「座頭ころがし」
    

座頭ころがし(釜場)
 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので,すべりやすい所である。

 ここのように崖から落ちてしまう、というのではなく、「碓氷峠」では足下が滑りやすく転びそうで、たいへん危険で急な坂道という場所でした。
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