おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

府中~日野~横山(八王子)。その7。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-29 18:54:42 | 甲州街道
 ガードをくぐった後、JR線に沿って左に曲がり、「大坂」という急な坂をたどります。けっこう長く続きます。途中で「中央道」の下を行き、さらに住宅街を進みます。しばらく進むと、「都道256号(甲州街道)」に合流、西へ向かいます。途中、右手には広大な敷地の「日野自動車」の工場があります(12:20)。このかん、ひたすら歩いたため、写真はなし。



 (12:34)しばらく進むと、「コニカミノルタ」の工場。「日野自動車」工場内には「一里塚」と「上人塚」、「コニカミノルタ」には「富士塚」がある、とのことですが、パス。「上人塚」と「一里塚跡」は「日野自動車」側を歩いていれば発見できたようです。
 そこで、HPより写真をお借りしました。

「上人塚」。古墳。

「日野台一里塚跡」。日本橋から10里目。

 なお、「日野自動車」工場には2011年に古河への移転問題が惹起しました。その後の経過はどうなのでしょうか?

日野自が本社工場閉鎖へ 地元に波紋、跡地活用も焦点に(「日本経済新聞」2011/1/21付 より)

 多摩地域の産業界を代表する日野自動車が2020年までに東京都日野市の本社工場を閉鎖することを発表し、波紋が広がっている。同社に部品などを納める中小企業は多く、約2300人の従業員の配置転換などによる商業売り上げの減少など地元経済に影響が出そうだ。約30万平方メートルの工場跡地の活用も今後の焦点となる。
 日野自動車と取引がある多摩地域の中小企業の多くは、同社が茨城県古河市に建設する新工場と部品加工、一部組み立てなどの契約を継続する見通し。ただ輸送コストなどで不利になる面があり、一部企業は古河市周辺に移転するところもでてきそうだ。ある企業は多摩で生産を続ける考えだが、「受発注や仕様変更などの情報入手が遅くなる難点がある」と話す。
 日野自動車は跡地について、街づくりに貢献できる形での活用を検討する方針。日野市では09年に閉鎖したレジャー施設、多摩テックの跡地約20万平方メートルを明治大学が買収する調整が進んでいるものの、10年には東芝が携帯電話端末の開発拠点だった日野工場の閉鎖を決めており、相次ぐ閉鎖でイメージダウンは避けられない。
 馬場弘融・日野市長は20日、「大変ショックであり、身体の一部をもぎとられるような寂しさを感じる。日野という名前を持つ会社の主要工場が日野からなくなる。一つの工場がなくなるということを超えた影響が出てくるのではないか」とコメント。これからの街づくりを根本的に見直す考えを示した。
 日野自動車の本社工場は東芝の府中事業所などと並ぶ多摩地域を代表する大規模事業所。日産自動車が01年に村山工場(武蔵村山市と立川市)での車両生産をやめ、その後完全撤退したあとは多摩地域に生産拠点を持つ自動車産業のシンボル的な存在となっている。


(12:37)八王子市に入ります。

 街道筋らしく大きなおうちが目立ちます。
    

 (12:45)しばらく進むと、「南武線」跨線橋先で分かれた「国道20号線(日野バイパス)」と合流します。


八王子市大和田町。甲府、大月の地名も。

「JR八高線」。

住居表示。

 (12:55)何だかしゃれていて古風な建物のお店。「とうふ」の文字が。
    

ABOUT US とうふ屋うかい 大和田店について

 のれんをくぐればそこは江戸下町の賑わいを感じるお座敷でとうふ料理に舌鼓

 時を超えて現れる、江戸の下町情緒溢れる街並み。
粋と風情が織り成す、非日常の時間。
庭園を流れる水音に耳をそばだて、安らぎの中で食事を楽しむひと時。
穏やかな空間で、大和田の銘水が生んだ珠玉のとうふ料理を、どうぞ。

・・・

 足を踏み入れれば、活気にあふれた江戸・下町の賑わいがお出迎え。
 母屋造りの窓から見える朱塗りの鮮やかな橋、
 清らかな流れの水車や四季の草木が、美しい和の趣をたたえています。
 奥座敷の個室では、喧騒から離れゆったりとしたひと時をお過ごしいただけます。

・・・
 創業より伝わる、うかいの心。
 料理も空間も、人の温もりを感じられる“おもてなし”があってこそ真の価値が生まれるものだと考えております。
 心からの感動の時間を味わっていただくためには、常にお客様と喜びを分かち合えるような料理であり、接客でなければならない……
 それが、うかいの考えるおもてなしの心です。

・・・


「とうふ屋うかい 大和田店―とうふ料理―」
〒192-0045 東京都八王子市大和田町2-18-10 TEL 042-656-1028

つい宣伝をしてしまいました。

東京タワーのそばに「芝店」があるようですが、お値段はけっこう・・・。下町にしては敷居が高そうな・・・。


(12:58)「日本橋から43㎞」ポスト。

 (13:04)「国道16号線」(「大和田4丁目」交差点)のガードをくぐってすぐに左の道に入ります。
    

 旧道らしい道筋。「大和田橋」に向かいます。
    
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府中~日野~横山(八王子)。その6。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-28 19:52:43 | 甲州街道
日野宿
 甲州街道の5番目の宿場町であり、日野市の前身である。
 宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている。甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越え、東京都道149号立川日野線を南下し、新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった。
 本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場と高札場があったが、現在は石碑が建つのみである。
 1889年(明治22年)に町村制が施行された時点では、日野宿という名称のまま神奈川県南多摩郡の自治体となったが、東京府への移管後に日野町へ改称されている。

本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。

 (11:12)橋を越えた右手には「市民の森公園」。ここでトイレ休憩。

 (11:26)その先、右手にログハウス調の建物。「クレアホームアンドガーデン」。
    

 この先で、右に曲がります。いよいよ「日野宿」。


 左側に大きな旧家らしい建物が並んでいます。
    

 交差点の左角に「高幡不動」へ向かう「道標」。川崎街道の道筋でもあります。
    
                                写真では右手に行く道。

 (11:32)その先、左手に「日野宿本陣」の看板が見えてきます。
    

解説板。   

日野宿本陣跡
 日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられた物である。下佐藤家は正保年間(1644~48年)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に名主を勤めてきたといわれる。また正徳6年(1716年)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永2年(1849年)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久3年(1863年)4月には上棟し、元治元年(1864年)末に完成したものである。
 日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。

                     日野市教育委員会

日野宿脇本陣跡
 日野宿は、甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には、日野本陣の名主と日野宿問屋役人を兼帯し世襲する、二軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤家」)は本陣を、東側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤家」)は脇本陣を務めました。本陣は、公家・大名・旗本や幕府役人の専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初冬以降、本陣と同様の機能を担っています。
 本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣などの二軒共に100坪を越える例は犬目宿(山梨県)と日野宿だけであったとされます。
 嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は、元治元年(1864)に完成しました。北西中央に式台玄関を備え、屋根は瓦葺きであり、一般的な名主屋敷と異なり、脇本陣としての格式を備えた建物です。また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。
 東京都内には、江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が設置されていましたが、敷地外屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。

                          平成24年3月 建設 東京都教育委員会
    

    

 「日野宿本陣」は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。
 今の建物は嘉永2年(1849)正月18日の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして建設されました。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として翌元治元年(1864)12月から使用された建物です。
 大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、近藤周助に入門し、自宅に道場も開きました。佐藤彦五郎は卓越した技量からか4年後には免許皆伝をとっています。
 この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身の土方歳三・井上源三郎らを交えた新選組と日野の人々との物語の幕が開けられたのです。まだ、この建物が完成する前のことです。
 建物は文久3年(1863)4月に上棟され、翌年完成しています。上棟の少し前、同じ文久3年2月には徳川14代将軍家茂が上洛。その警護のために新選組の前身となる浪士組が京都へ向っています。この浪士組に近藤勇や土方歳三、井上源三郎、沖田総司らが参加しています。本陣の建物の準備には10年に及ぶ歳月を費やしたと言いますから本陣建設の槌音を聞きながら、同じ敷地内にあった道場ではのちに新選組になる面々が木剣の音を鳴り響かせていたことになります。
HPより)

 ところで、いったいこの建物は「本陣」なのか「脇本陣」なのか? 「脇本陣」の方は「・・・跡」という解説になっていますし、建物は、ここ一つしかないようですし、・・・。
 解説板も日野市と東京都で別々に建っています。結局推するに、「脇本陣」だったものが「本陣」格になった建物ということなのでしょう。「脇本陣」よりか「本陣」の方が格式は高いし、観光的価値も高いのでしょう。
 上・下両佐藤家(どちらも「佐藤」姓?)の由緒争いもあるのでしょうか?
 こっちの方がよほど興味深いですね。



道路を挟んだ右側に日野市図書館の古風な雰囲気のある建物。

その前に「日野宿問屋場・高札場跡」碑。

図書館脇も整然と落ち着いた雰囲気の道。

本陣以外には宿場町当時を偲ばせる建物はなさそうです。古い商家。

(11:57)「天然理心流奉納額」。
 安政5年(1858)天然理心流近藤周助の門人であり、佐藤道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(牛頭天王社)に奉納。欅板に大小2本の木刀が架けられていある。
 最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に総司と改めている。正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。
 八王子の千人同心、井上松五郎と弟の 井上源三郎の子孫は今でも日の出近藤勇の子孫と共に「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承している。

天然理心流とは
 天然理心流は、寛政年間(1789年~1800年)に近藤内蔵之助が創始した武術で、鹿島神道流を淵源としています。
 その内容は、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術等を含む総合武術です。
 また、幕末期には四代目の近藤勇と、門人の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが京都において「新選組」を結成し、有名な池田屋事件の際には京の町を焼き 払う計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救ったことでも知られています。

公式HPより)

 現在活動している会派としては、松崎和多五郎から井上才市へ伝承された天然理心流剣術の全伝を伝える心武館を大塚篤が主催している。また、同系の高鳥天真が試衛館を主宰している。(この項、「Wikipedia」より)

 もともとの「甲州街道」はそのまま正面の坂道を進んで行きました。現在はJR線でさえぎられてしまうので、「日野駅東」を右に折れ、ガードをくぐり、左折します。信号先の左手にあるお寺が「宝泉寺」(12:00)。


そのまま坂道を上がると、JR線の手前、右手に「坂下地蔵堂」があります。
 立ち寄らなかったのでHPより拝借します。





1880年代のようす。「大坂」に続く。



現在のようす。JR線で分断されているが、旧道がつながっていることが分かる。
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府中~日野~横山(八王子)。その5。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-27 21:12:43 | 甲州街道

 これまでの喧噪から静かな道になります。
    

 (10:43)ここを左折、多摩川方向へゆっくり下って行きます。
    

1880年代のようす。↓のところ。現在も当時と同じようにほぼ直角に曲がっています。北へ進む道は拝島方面へ向かう道。

↑に「日ノ渡シ」とある。

現在のようす。

↓が左折するところ。

解説板。  

旧甲州街道
 この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。江戸時代に幕府が主要なかいどうとして整備した五街道のひとつで、江戸と甲州を結び、甲州道中ともよばれました。
 街道はここで多摩川を渡り、日野の宿場へ続きます。当時は多摩川に橋がなかったので、旅人たちは舟や人力で川を渡っていました。
 この渡し場は「日野の私」ともよばれ、現在下水処理場脇に記念碑があります。
 また体育館北側の道は拝島方面へ通じる道で、分岐点には昭和30年代まで道標がありました。現在、この道標は富士見町の歴史民俗資料館に移設されています。

 沿道の右手は「立川市立柴崎体育館」などの施設・緑道公園風に整備されています。その緑道脇に句碑。
    
 「初日さす 松はむさし野に のこる松  秋桜子
 水原秋桜子(明治25年10月9日~昭和56年7月17日没)俳誌「馬酔木(あしび)」を主宰。
 この句は、第八句集の「蘆刈(あしかり)」の中のお気に入りの一句で昭和14年の作です。
 戦前の立川には、まだ赤松林や雑木林があり、武蔵野の尾風景がありました。こんな絵画美を詠んだ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に育てられました。

 平成13年9月8日 立川市


都道との交差点から振り返って望む。

(10:54)渡った左手、「下水処理場」角に「日野の渡し」碑やモニュメントなどが建っています。
    

多摩川の渡し跡なるわが住まひ 河童ども招びて酒酌まむかな  芳
            

 江戸時代初期、五街道のひとつとして整備された甲州街道(当時は甲州海道)は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を万願寺で渡っていました。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 されました。
 それと共に、貞享元年(1684)、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年(1926)年まで240年あまり、使われ続けました。
 渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められていました。僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用ができました。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場の収入源ともなっていました。
 現在に模していえば、新しいバイパスが開通し、そこに架けられた有料橋を地元の自治体が管理運営するようになったわけです。
 渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていました。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められています。
 船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘があり、渡し賃は資料によると、延享年間(1744〜48)の一人3文から4文、文政7年(1824)には10文、天保5年(1834)には13文、慶応4年(1868)には30文となっています。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金となりました。  江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になりました。
 明治22年(1889)甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し始めました。また、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが問題になり始めます。
 「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのです。
 大正15年(1926)日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じています。
HPより)

 「記念碑」のある場所は、↓の位置。現在は旧道や渡し場はっきりしません。

現在のようす。

正面が多摩川の土手ですが、立入り禁止。

 迂回して土手に向かいます。同じ道を抜きつ抜かれつで、先生に連れられた学生たちが歩いていました。このグループとは「日野本陣」でもご一緒しました。


    
 (11:02)多摩川では釣り人がチラホラ。右手に見える「立日橋」を渡ります。橋の上には「多摩モノレール」。

多摩都市モノレール線
 東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
 南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
 基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
 沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
 上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)

《駅名》
上北台―桜海道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター

    

 橋の上からも遠くに富士山が肉眼では見えますが、写真でははっきりせず。
    

来た道(対岸)を望む。

 (11:10)橋を渡り終えると、「日野宿」。「新撰組」の名があちこちに。
 ようこそ 「新撰組」のふるさと 日野へ。
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府中~日野~横山(八王子)。その4。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-24 22:05:28 | 甲州街道
 「甲州街道」は道幅も広く、交通量も多い。反対側の歩道沿いに史跡や案内板らしきものがあってもなかなか気づかず、また横断歩道や歩道橋を渡るのもけっこう面倒。そのため、見過ごすものも。そんな道を西へ向かって進みます。

南側が開けてきて、遠くに山々が。

歩道橋から西方を望む。

右手のおうちの脇に何やら解説板が。さっそく反対側の歩道に(10:06)。

       

潤澤学舎跡
 潤澤学舎は、国立第一小学校の前身です。
 明治5(1872)8月に学制が制定され、各村に学校の設置が義務づけられると翌年9月25日、青柳村で私塾を開いていた杉田吉右衛門氏を首席(校長のこと)とし、この地に開校されました。
 校舎は杉田氏の私邸内にある3間×5間(約50平方メートル)の茶室を譲り受け、仮校舎として教室にあてました。当初は職員1名(杉田氏)と児童30名前後でした。
 その後、明治9年に「谷保小学校」と名前を改め、明治16年に現在の位置に移転しました。

                                     平成22年10月 国立市教育委員会
 
馬頭観音。 

(12:12)渡りかえしたその先に「常夜燈」。
    
元上谷保村の常夜燈
 常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ、江戸時代に村を火事の事故から守るために、油屋近くに建てられたものです。火伏せの神を祀る秋葉神社(浜松市)への信仰です。
 この常夜燈は市内に残る三つの常夜燈のうちの一つで、竿(灯身)には「秋葉大権現」「寛政六甲寅四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」と彫られ、寛政6(1794)年に建てられたことがわかります。
 元々は上谷保村の油屋(屋号・現在の甲州街道北側の原田家)東隣に建てられたもので猛られたもので、昭和6(1931)年から行われた道路改修時に現在地に移されました。
 大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられています。

                 平成23年1月 国立市教育委員会
        


(10:17)道路の反対側に「五智如来」。
    
「五智如来」
 矢川と甲州街道が交差する付近は、「はしば」と呼ばれ、大正の初めごろまでは「矢川橋」が架かっていました。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられています。・・・


 この付近では、道路を右に左に横断して確認するほど史跡があります、前後にある歩道を行ったり来たり。

石倉造りが並ぶ。  

(10:26)左側には「元青柳村常夜燈」。 

大きな「馬頭観音」。 

 道の左側は、多摩川沿いの低地につながる、けっこう急坂になっています。甲州街道は丘陵上(ハケ上)を進んでいることが知れる。
       

(10:32)立川市に入ります。 

(10:37)日野橋交差点。ここで道は4本の道に分かれます。「甲州街道」は、左折して日野橋へ、「新奥多摩街道」は左斜め前方へ。右折するのは立川駅へと向かう「立川通り」。 旧甲州街道は「旧奥多摩街道」へと入って行きます。「甲州街道」という表示に惑わされないように。(「国道20号線」は、この交差点のずっと手前、「JR南武線」を越えた先で「バイパス」として左折していきます。)


                  「旧奥多摩街道」が「旧甲州街道」となります。     
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府中~日野~横山(八王子)。その3。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-23 20:59:28 | 甲州街道

 踏切を過ぎると、「旧甲州街道」は落ち着いた住宅地を進みます。合流します。手前右手にはりっぱな門構えおうち。その先、左手には「本陣」格のような門構えのお屋敷が目に入ります。

    

(9:09)格式の高そうな門構えの大きなお屋敷。

「本宿交差点」で「国道20号線」に合流して、西に向かいます。


1880年代のようす。


現在のようす。斜めの道が旧道。

 (9:19)国道に入って、その先の交差点の角に「常夜燈」。「東海道」ではよく見かけた「常夜燈」をこの付近でよく見かけます。
    
由来書
 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並みが出来たのは17世紀半ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。
つに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政4年(1792)、この地に常夜燈を設けた。
 村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点けて無事を祈り隣へと引きついだ。
 爾来1世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
 このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。
                                             平成2年2月

 すぐその先、右手に「武蔵府中熊野神社古墳」。以前来たことがありますが、道路を横断して近づいてみます。


 武蔵府中熊野神社古墳について、少し長くなりますが「Wikipedia」より。

 1990年(平成2年)、熊野神社の山車の新調とともに、収納庫も神社内にあった小山の一部を削り、規模を拡大して建て替えることにななり、遺跡の発掘調査の結果、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造されたことがわかった。また小山からは河原石が大量に見つかった。
 2003年(平成15年)5月、熊野神社の小山の発掘が開始され、三段築成の上円下方墳であることが確認された。翌2004年(平成16年)には石室内や周辺の発掘が行われた。
 古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、全長は約8.7メートルにおよぶ。玄室内から被葬者の歯と見られる永久歯が3点発見され、いずれの歯も壮年期の初期か前半期のものである。
 「上円下方墳」という墳形は、武蔵府中熊野神社古墳を含めて全国で5例しかなく、きわめて稀少な墳形で、最大のものであり、先進的な畿内の政権と密接な繋がりを持つ、武蔵国の有力な在地勢力が造営したものと見られている。
 築造年代は7世紀中葉から後半にかけて造営されたと思われる。
 古墳造営と前後して古墳東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたとみられ、7世紀末から8世紀初頭にかけては、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと考えられる。そのため在地の有力者であった武蔵府中熊野神社古墳の被葬者が、武蔵国府が現府中市に設置されるにあたって重要な役割を果たしたのではないかとの説が有力である。
 2005年(平成17年)7月14日、国の史跡に指定された。

    

(9:33)JR南武線を越す。

「日本橋から33㎞」ポスト。


右手には大きなお屋敷が続きます。
    



右手に「常夜燈」。

(9:50)「谷保天神」。

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)
 社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。
 東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。
 南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまいましたが、本来の読み方は「やぼ」です。
 江戸時代の狂歌師の・田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝えられています。

野暮(やぼ)」
 洗練されていない様を表す。「いき」の反対。

野暮天
《「天」は程度の高い意を表す》たいそうやぼなこと。また、その人。

・・・
 湯島、亀戸と並び、関東三大天神の一つの谷保天満宮は「やぼ」を名乗り、極めて融通のきかないことを意味する「野暮(やぼ)天」の語源ともいわれる。時は江戸。神様が出雲に集まる神無月の十月、谷保天神のご開帳が目白であった。大田蜀山人に「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」とからかわれた-。
 天満宮の権禰宜(ごんねぎ)菊地茂さん(54)は「土地の人は『やぶ』とも言う。参勤交代の行程表に屋武村、百年前の新聞には藪村と書かれている」。濁音が疎まれてか、いつのまにか駅名や、行政上の地名は「やほ」になった。
 天満宮前を知らせる交差点の標識のルビには「YAHO」。菊地さんは「(YABOが正しいと)訂正を求めるようなやぼなことはしません」と笑った。 (末松茂永)
HPより)

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府中~日野~横山(八王子)。その2。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-21 18:24:24 | 甲州街道

 西へ、「分倍河原」駅方向へ進みます。
番場宿」。
 番場宿は現在の宮西町2・4・5丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場はもとの名を茂右衛門宿といいます。これはこの土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永3年(1636)のことといわれています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』」には「家数103軒、(甲州)街道の左右に甍を連ね」とあります。もともと番場宿は、ハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが新街道の設置(慶安頃=1648~52)に伴って移転したものです。
 地名の起こりは、不明ですが、馬場の転訛とか番所があったからとの説があります。
 この地域には、高安寺、長福寺などの古刹があります。                                                 

沿道には立派なおうちも。

          
 (8:49)その先、右手に宿場時代の建物? その名も「番場屋」。実は50年くらい前につくられた、お酒や食事のできるお店のようです。外見は江戸時代の宿屋風。けっこう風情があるつくり。はたしては店内は? 「食べログ」に詳しく探訪記?がありますので、ご参照を。

鹿島坂」。
 坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。5月の例大祭に「国造代奉幣式」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って拝の宮におも向き、神輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に名前の一部をとって、「鹿島坂」となったようです。

 少し行くと、南北に突っ切る緑道と交差します。「旧国鉄下河原線」の線路跡。
    図で、南北に進む緑道。
下河原線の歴史」 
 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。
                                                                       府 中 市

    
南を望む。                                 北を望む。

 この廃線・緑道は、4年前の2月に探訪しています。約7キロの道のり。そのときの写真を二つ紹介。
    
                                          踏切事故者の供養碑。

(8:51)「高安寺」。藤原秀郷の館跡といわる。

 ここに源義経と武蔵坊弁慶たちが立ち寄った、という伝説があります。街道沿いにはこの先、それにちなんだ史跡が残されています。

片町」。
 片町は、現在の方町1、2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌『身辺武蔵風土記稿』には、番場宿の小名としてその名がみえます。
 片町は、徳川家康が江戸に入場後、新しく整備された甲州街道の開通(慶安頃=1648~52)に伴ってできた町です。
 地名の起こりは、街道の南側に名刹高安寺があり、町場が北側の片方だけに発達したことによります。
 この辺りには、国府に関連する片町・高倉遺跡などがあり、発掘調査の結果、住居址が数多く発見されており、古代にはかなりの規模の集落が存在していたようです。


    
弁慶坂  (べんけいざか)
 『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なづ)け、 東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
 この坂は、 高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。 これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。 高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。 この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。
                             
「弁慶橋」。「石橋供養塔」。  
 ここに、野川に架かる弁慶橋がありました。名は、「弁慶坂」と同様、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来しています。

棒屋の坂(ぼうやのさか)
 坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためといわれています。
 この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中にとっても一宿場として往古の繁栄をとりもどる役割を果たした道です。この街道が開設される以前の甲州方面への道は、もっと南寄りの狭いハケ道で、今でも所々に残っており、往時の面影を伝えています。
    

(8:59)京王線の踏切を越えます。左手に「分倍河原」駅。

 「分倍河原」駅。最初の駅名は、「屋敷分」。当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。
 改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。1333年(元弘3年)5月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、1454年(享徳4年)にもこの地で鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉氏を破った合戦が行われている。
 なお、地名表記は「分倍」と「分梅」があり、由来は「この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるが、なぜこの地名になったかは資料がなく未だに不明である。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていた。
 住所表記上の地名は、駅舎を含む京王線の東側は府中市片町、西側は南武線の北側が美好町、南側が分梅町である。南武線の北側はかつての屋敷分村で、上記の通り旧駅名の由来となった。
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府中~日野~横山(八王子)。その1。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

2017-03-20 18:08:29 | 甲州街道

 3月11日(土)。晴。第2日目。夕方から用事があるので、京王線・府中駅からJR・八王子駅まで。

源義家公とけやき並木
 国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、940余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大国魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062)勝利の報賞として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
 その後、徳川家康により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9㍍に及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。
 義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、7歳の時、石清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役、後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に源氏の武威のの最盛期を迎えた。
 このような大国・武蔵の国の国府であった府中、大国魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するするものである。
・・・
平成4年3月28日 創立30周年記念事業 東京府中ロータリークラブ
 
(8:36)ケヤキ並木。

大国魂神社と馬場大門欅並木」。

・・・なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦後時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、
9月晦日まで5ヶ月にわたって開催されました。
 ケヤキ並木は国の2番目の天然記念物に地域指定されています。毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。

    
                   「万葉集歌碑」。

歌碑に寄せて
 この歌は万葉集巻14東歌の武蔵国の一首です。武蔵の国は東京、埼玉、神奈川にわたる大国であり、その国府が府中にありました。訓読では次のようになります。
武蔵野の 草は諸向(もろむ)き かもかくも 君がまにまに 吾(あ)は寄りにしを
 「草が風になびくように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌で、自然と共に生きた女性を歌ったものです。・・・

 宮西町へ入ります。右手が昔のお休み処・松本屋。いまも旅館業をやっています。


その付近から進む道を望む。    

 (8:43)その先右手角が問屋場跡で「中久本店」。ここが府中の中心地。店の前が高札場跡になる。
    

    

 「中久本店」は酒座。地酒などお酒やワインなどたくさん扱っている老舗。

(「中久本店」フェイスブックより)

札の辻と問屋場跡」。  

 甲州街道(道中)と鎌倉街道が鍵の手に交わる所に高札場があったところからこの界隈を「札の辻」「鍵屋の辻」と呼び親しまれていました。
 安政6年(1859年)府中宿本町に大火があり、それを機に万延2年(1861年)中久本店の店蔵を防火建築物として再建。
 隣地は問屋場(江戸時代の宿駅・人馬・駕籠などの継ぎ替え所)であったため、大道芸人の辻芸をを楽しむ人々で賑わい、武蔵府中の中心として栄えました。

※ここでいう「鎌倉街道」は、「中久本店」の西側の道だったようです。

 四つ角の向かい側には「高札場」。屋根付きの札懸けが昔のまま残っています。
    府中高札場」。
 府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
 府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
 以前は街道に面して建っていましたが、昭和40 年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。

(以上、HPより)

 「高札場」の裏手は、大国魂神社の御旅所となっています。

※「御旅所(おたびしょ)」
 神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
 御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。

1880年代のようす。
○が「鍵の辻」。カギ型になっています。

現在のようす。
○が「鍵の辻」。広い「府中街道」があるためにはっきりしません。

「甲州街道」碑。その隣に「府中小唄碑」。

府中小唄」について(「府中市史談会」HPより)。

 昭和の初め、府中の町にふさわしい民謡を作ろうという機運が高まり、昭和4年に府中小唄が誕生しました。その後、昭和27年に久保幸江さん、昭和42年には小唄勝太郎さんの歌で録音され、広く市民に親しまれてきました。市制50周年を記念し、演歌歌手の北島三郎さんに唄の吹込みを依頼し、CD化が実現しました。
 歌詞は下記の通りです。作詞:野口 雨情 作曲:中山 晋平 編曲:丸山 雅仁

六社明神さま暗闇祭りヨ
 闇に旅所へ渡御なさる
  あれは灯じゃない空の星    
   星さえ府中を出てのぞく

けさも見ました馬場大門のヨ
 欅並木に立つ風を
  あれは空吹く通り風
  風さえ素通り出来やせぬ

鮎は若鮎早瀬が頼りヨ
 水にせかれて瀬をのぼる
  あれは関戸の川遊び
  府中多摩川見においで

恋のかけ橋金仏さまもヨ
 ひとり渡りはなさりゃせぬ
  あれは身ごり金仏さん
  身重がわるけりゃお詫びする

ここは名高い分倍河原ヨ
 道は鎌倉街道すじ
  あれは新田と北條と
  火花を散らした古戦場

武蔵府中は自慢じゃないがヨ
 萱やすすきの中じゃない
  あれは府中の六社様
  松は憂いもの杉ばかり
 

「府中小唄ゆかりの地」案内図。

沿道の商家。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その7。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-19 17:46:28 | 甲州街道

いよいよ「府中」入り。

重厚な蔵造り。

 旧町名などの立派な解説板が左右に登場します(気がつかないものもありますが)。

(15:22)
常久
 常久(つねひさ)は、現在の若松町1丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
 幕末の地誌には、「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(新編武蔵風土記稿)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。
 地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久とも)という人を名主とする名田であったようです。「新編武蔵風土記稿」には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし恒久と云し人居住せしによりて唱えしと云う、今村内の農民嘉右衛門なるものはその子孫と云う」とあります。 

「旧甲州街道」案内板。

 左手に廃墟と化した工場。どういういきさつがあるのか? 街中に。
    

(15:41)「国府八幡宮」参道。

その脇に「八幡宿」。
 八幡宿(はちまんしゅく)は、現在の八幡町1,2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)には「六社領」の小名としてその名が見えます。
 もともと八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=1648~52)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが、八幡宿は農業を中心とした村落でした。
 地名の起こりは、この地に国府八幡宮が鎮座していたことによります。国府八幡宮は由緒深いお宮で、聖武天皇(在位724~749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。
 
「八幡宿東」バス停。

(15:55)本日の終着地は「大国魂神社」。

 「大国魂神社」は、景行天皇の代(111年)に創建。出雲臣天穂日命の末裔が武蔵国の国造(みやつこ)に任ぜられて以来、代々の国造が祭祀しました。その後、大化の改新(645年)の際には、ここ府中に武蔵国府が置かれ、神社も国衙の斎場として武蔵総社と呼ばれました。六所宮、六所神社とも。
 府中は古代から重要な地位を占めていたわけです。周囲には古代遺跡が多く残されています。

1880年代のようす。

現在のようす。

「観光案内図」。

 次回はここから。京王線「府中」駅から乗車。「水戸街道」や「日光街道」の時と比べて、帰宅には思ったよりも時間がかかりました。
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その6。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-18 13:17:24 | 甲州街道

 住宅街を進みます。

下石原公会堂。屋上には半鐘がある火の見櫓。

(14:25)その先、左手には「常夜燈」。

 (14:35)「西光寺」仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像があります。西光寺は、旧甲州街道沿いにあり、慶応4年(1868)3月、近藤勇が甲陽鎮撫隊をひきいて甲府へ向かった時も、この寺の前を通りました。に近藤勇の座像の案内板。
    

    

新撰組局長 近藤勇
 近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌2年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
 文久3年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年6月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
 然しながら世情の移り変わり激しく、慶応3年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
 その年3月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応4年4月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の人生を閉じた。
 会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を称えている。
 調布市『近藤勇と新撰組の会』は、没後130年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。
 奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

   平成13年10月8日           近藤勇座像建立委員会代表 土方貢・発起人一同

 その先で、「中央道」の高架下を抜けます。
    

りっぱなお屋敷。

「飛田給」地区になると、右手奥に「味の素スタジアム」。

 (14:48)その先、左手には、「行人塚」。


 この塚は、松前意仙の入定塚(にゅうじょうづか)です。意仙は元仙台藩士でしたが、出家して諸国をまわり、遍歴の末、この地に庵を結びました。意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられています。意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれました。昭和47年(1972)、塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されました。

蔵造りの建物がいくつかあります。
    

長い直線道路。振り返る。

東海道や日光街道でも見かける石造りの蔵。

(15:07)西武多摩川線の踏切を通過。
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「窮鼠猫を噛む」になるか、それとも・・・

2017-03-17 18:45:11 | 世間世界
「首相から100万円寄付」=籠池氏証言、政権は否定―衆参で23日証人喚問

「窮鼠猫を噛む」的な展開。

【読み】 きゅうそねこをかむ

【意味】 窮鼠猫を噛むとは、絶体絶命の窮地に追い詰められれば、弱い者でも強い者に逆襲することがあるというたとえ。

【注釈】 追い詰められたネズミが逃げ場を失ったとき、必死で猫に噛みつくことがあるということ。
『塩鉄論・詔聖』に「死して再びは生きずとなれば、窮鼠も狸(野猫)を噛む(死に物狂いになった鼠は猫を噛むこともある)」とあるのに基づく。
「窮鼠反って猫を噛む」とも。

【英語】 A baited cat may grow as fierce as a lion.(犬にけしかけられれば猫もライオンのように荒々しくなる)
     Despair makes cowards courageous.(絶望は臆病者を勇敢にさせる)

【用例】 「あまりのひどい仕打ちに、窮鼠猫を噛むということもある。権力者は、権力を振りかざしてばかりいると、いつか反撃されるだろう」

HPより)

 果たして真実は? 下手すれば、「ケサ」れるのではないか、というような懸念も。

 誰かが犠牲になって、一件落着とならなければいいが、・・・。

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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その5。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-16 19:57:35 | 甲州街道

 再び「国道20号線」へ。

「日本橋から21㎞」ポスト。

右手には「金子のイチョウ」(奥に顔をのぞかせている) 。推定樹齢:約250年。  

沿道には広い敷地の家が残っています。

 「柴崎駅」を過ぎて、「野川」に架かる「馬橋」を渡ります。
    

野川(のがわ)
 国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。西武国分寺線・JR中央本線と交差し、真姿の池湧水群からの湧き水を合わせ、東へ向きを変える。小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから南東に流れ、西武多摩川線と交差し、野川公園に入る。小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。
 京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて、小田急小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下をくぐった後、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。
 野川は、南岸が平坦なのに北岸が急斜面となっている。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き、都内でも珍しい自然が残っている。
・・・
                                                                   (以上、「Wikipedia」参照)
 「野川公園」には数年前に昔の仲間と出かけたことがあります。
    

 橋を越えてすぐに左折し、「布田五ヶ宿」へ向かいます。
    

注:布田五ヶ宿(ふだごかしゅく)
 国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の宿場。通行大名が少なく、9軒の旅籠だけという小さな宿場で、本陣・脇本陣は無かった。


1880年代のようす。

現在のようす。京王線北側の道が旧道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

右に進む国道沿いには大きなケヤキ並木。

旧道。  

 さすがにここまで来るとお腹もかなり空いてきたので、明るく開けた「国領」駅前のお店に入って食事・休憩。
再開。

 「調布駅」前の賑やかな通りを進みます。ここで、「調布」という地名の由来を
 「調布」という名称は昔の税制である「租庸調」の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来します。そのため以前は当地の他にも都内に幾つかの「調布」地名がありました。「田園調布」は元は荏原郡調布村(のちの東調布町)であり、小泉八雲の「雪女」に出てくる「調布」は西多摩郡調布村(現在の青梅市長渕地区)にありました(南多摩郡にあって現在の八王子市という説も)。
 「調布」と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた(調布市の総合文化施設の名称が「たづくり」なのもそれに由来する)。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在します。
 江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っています。
 万葉集・東歌の「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだかなしき」(かなし=愛らしい)という歌碑が「布多天神」境内にあるようです。

注:租庸調

 田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。


 正丁(21歳~60歳の男性)・次丁(61歳以上の男性)へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。庸を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。人頭税の一種といえる。
 庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

調
 正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品34品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。
 正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って、当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

「布多天神」参道。  

 「小島町一丁目」交差点先に「一里塚跡碑」があったはずですが、見逃してしまいましたので、HPから拝借。


 ここは江戸時代の初めごろ、甲州街道に築かれた一里塚のあったところである。江戸日本橋を起点として、およそ6里(24キロメートル)の距離にある。
 一里塚は街道の1人ごとに、その目じるしとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。
 ここにも樹齢200年余と推定されるエノキの大樹があって、その昔がしのばれたが、危険防止のため昭和40年頃に伐られた。
                                        (調布市教育委員会の解説板)
 
 なお、地図で確認すると、一里塚碑のある敷地の駐車場が「えの木駐車場」となっています。大いに関連がありそうです。

右手には大きなお屋敷。「旧甲州街道」。

ケヤキの大木。

 賑やかな通りから住宅地の道になっていきます。春先らしい木々の花が庭先に。
    
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その4。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-15 19:09:40 | 甲州街道

 旧道らしい道。沿道はすっかり変わっていますが、道筋はかつてのまま。
    

 南烏山から給田へとつづくこの道はかつての甲州街道です。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていませんが、、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできます。(「せたがや百景」)
 「烏山」には「下宿」「中宿」「上宿」という地名が残っています。間の宿だったのでしょうか?

ゆるい上り坂を行くと再び「国道20号線」へ合流。

(12:02)その手前、右手に「新一里塚」。
里程標(新一里塚)
 銘文( 
 (正面)内藤新宿より三里 品川県
 (左右側面も同じ銘文)
 (背面)明治三庚午年八月 武蔵国多摩郡給田村
 伝承
 甲州道中には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、4キロメートルごとに築かれていた。
 この里程標は明治3年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された一里塚で、記録によれば芝生に覆われた3メートル位の塚の上に建てられてあったという。
 この標石は、上馬1丁目の前川鉄郎氏によって保管されたのち、昭和51年12月、同氏から世田谷区区立郷土資料館に寄贈された。その後、同59年2月、元位置に近い現在地に復元した。・・・

                                  昭和60年3月  世田谷区教育委員会

 この碑にある「品川県」は、1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県で、おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄した。
 1871年「明治4年)、廃藩置県を経た第1次府県統合において廃止され、品川県の管轄した区域は主に入間県と東京府が占めることとされ、翌年、 多摩郡全域は神奈川県が占めることとされ、1872年(明治5年)には、多摩郡のうち、東京府に移管された区域が神奈川県に編入された。

    

 (12:10)「仙川」を越します。
    

仙川(せんかわ)
 多摩川水系野川の支流である。「せんがわ」と称されることが多いが正式名称は「せんかわ」。
 現在の上流部は人工的に作られたもので、狭い幅・浅い深さ・枯れ川に等しい水量・曲がり角が蛇行でなく直角であるなどにその証拠を残す。
 東京都小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。
 現在、仙川の源流は消滅している。コンクリート垂直三面張りの改修が施された流路の大半も、すでに20年以上にわたって常時水のない状態が続いている。
 源流域からおおむね東に向かい、公務員住宅の横を流れ、市街地(北大通り北側歩道と重複する箇所は暗渠)を曲がりながら武蔵野市に入る。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変え、武蔵境駅の少し東でJR中央本線の下をくぐり、市街地(一部暗渠)を曲がりながら抜けてゆく。このあたりでもふだん水のない状態は変わらない。やがて三鷹市に入る。
 三鷹市をしばらく行くと野川宿橋の所から川幅が広がり、流れも自然な蛇行となる。ここで地下から汲み上げた水を放流する。ここが21世紀現在確立された最初の水源である。少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき、調布市に入る。
 少し下流で再び三鷹市の境界に触れるが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流される。水量もある程度のものになったところで、住宅地の広がる緑ヶ丘や仙川町を抜け、国道20号や旧甲州街道と交差し、世田谷区に入る。
 京王電鉄京王線と交差し、両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れる。小田急小田原線をくぐり、成城の東を流れ、世田谷通りと交差して大蔵住宅の横を流れ東名高速と交差する。世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流する。
(以上、「WIkipedia」参照)

注:現在の上流(上端)部分は、かつて探索したことがあります。

「国道20号線」を進みます。

 (12:22)「仙川駅東」交差点の右手、「セブンイレブン」脇に「一里塚」の案内碑があります。日本橋より20㎞地点。
    

市旧跡 仙川一里塚跡
 この地は、仙川一里塚の跡である。江戸日本橋を起点にして5里(約二十キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長7年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。
 一里塚は、街道を行く旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれた。塚は、普通5間(約9㍍)四方、高さ1丈(3㍍)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。旅人にとっては空腹をいやしたり、木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。
 この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在、昔のおもかげはまったくみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚とよんでおり、地名に当時の名残りをとどめている。

 平成6年3月吉日        調布市教育委員会    


右手にある大きなおうち。

下り坂にさしかかります。

(12:37)その先、右手に「瀧坂旧道」碑。側面に「馬宿 川口屋」。
    
 甲州街道が武蔵野段丘崖を上下する坂で、その高低差は15m。市内の同街道で最も高低差があるところであり、平野部を走る江戸~八王子間でもやはり有数の坂で、東上する通行の人々や物資の輸送に当たる馬方等に難所の一つとして数えられたものらしい。特に登りは人を乗せ、荷を着けた馬・車にとっては大変で、車の場合は下りも楽ではなかった。また、この坂の名は、大雨の時雨水が路上を滝のように流れ下ったから付いたと言われる。

一気に急坂を下るようす。

坂上の石仏(薬師如来坐像)付近。 

振り返って望む。

道沿いには「滝坂」の名を持つ工場。

旧道らしい道筋。
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はたから見れば、右往左往させられる気の毒な方々。でも当事者たちは意気揚々。勝つぞ勝つぞ。

2017-03-14 21:59:55 | 世間世界
【東京都議選】1人区と2人区で公明が都民ファースト候補を推薦へ 双方が政策合意…公明団長「国政の自公連携に影響はない」

集票組織として多大な力をまたも見せつける、つもり。

都議選では小池グループに。それが終わると、来たるべき衆院選では自民党の候補者へ投票行動。

自分だけではなく、必死に支援・応援活動をして。

そういえば、大阪でも維新の会とうまく棲み分け、・・・。

今回は、東京で。私立高校学費のムショウカ策をよりどころにして、公明党。小池さん、双方が「当選」といううまい汁を吸おうという算段。

都議選では全国から集結しての一大決戦にするのだろう。

いやはやご苦労様です。右ならえ! 左ならえ! と命令されるがままの団体とはげに恐ろしきものかな!

今やアベさんたちをも自在に牛耳る、手玉に取る、団体ではあります。

手玉に取る  出典:デジタル大辞泉
手玉をもてあそぶように、人を思いどおりにあやつる。「善良な人々を―・る詐欺師」 (より)

注:用例が言い得て妙です。

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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その3。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

2017-03-10 19:48:09 | 甲州街道
 「明大前」駅を眼下に見て進みます。上・下高井戸宿へ向かいます。

高井戸宿
 かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。
 通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。
 当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
 周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
 助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。

下高井戸宿
 日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿
 日本橋から4里12町40間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。
                                 (「Wikipedia」参照)

「下高井戸商店街入口」。

相変わらず首都高の下を歩く。

(10:57)通りの向こうに面白い建物。

「薪ストーブ専門店・TOKYO STOVE」とあります。

 東京・杉並区にある薪ストーブ屋のInstagramです。毎日を素敵に、そしてちょっと贅沢にしてくれる“薪ストーブのある暮らし”をご提案します。メンテナンスもお任せください! #東京ストーブ www.tokyo-stove.com


        (blogより)

ようやく首都高が大きく右へ曲がって行きます。

通りの向こうに「鎌倉街道入口」の標識。

(11:13)「甲州道中一里塚跡」解説板。
 江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
 この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。
 この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて4里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
 当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
 塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えられてありました。

 昭和54年2月1日          杉並区教育委員会

    
                              街道・旧道(「国道20号線」)は左方向に進みます。

 頭上の圧迫感がなくなって、ホッと。
      

「八幡山駅」を過ぎ、「環八通り」陸橋の下を進みます。その手前にある交番には「上高井戸」とあります。


(11:28)「日本橋から17㎞」ポスト。

 陸橋をくぐったあと、すぐ「国道20号線」から分かれて左に入り、芦花公園、烏山方面へ進みます。
    

「長泉寺」入口にある石仏群。

材木屋? 廃屋? 

木工所。

うだつがある建物。「山本農機」。
 かつて農村地域だったことを彷彿とさせます。

旧道らしい道筋を歩く。

「烏山下宿」バス停。

 その先、左手に橋の欄干を模した大きな碑。「大橋場跡」。他に「庚申塚」など石仏が何体か。奥に由来碑がありますが、判読不能。
    


この付近の、1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央付近に川があります。この川に架かっていた橋?

 実は、由来碑にまつわる記事がありました。関東大震災の時に起こった「朝鮮人虐殺事件」にかかわるものです。

烏山の惨行
9月2日午後8時頃、北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向かって疾走する一台の貨物自動車があって、折から同村へ世田ヶ谷方面から暴徒来襲すと伝えたので、同村青年団、在郷軍人団、消防隊は手に手に竹やり、棍棒、トビ口、刀などをかつぎ出して村の要所要所を厳重に警戒した。
 この自動車もたちまち警戒団の取締りを受けたが、車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた朝鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原の土工親方、二階堂左次郎方に止宿して労働に従事していた朝鮮人で、この日、京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼があり、それに赴く途中であった。
 朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の朝鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
 時を経てこれを知った駐在巡査は府中署に急報し、本署から係官が急行して被害者に手当てを加えるとともに、一方で加害者の取調べに着手したが、被害者中の一同1名は翌3日朝、ついに絶命した。(中略)
 加害者の警戒団に対しては10月4日から大々的に取調べを開始した。18日までに喚問した村民は50余名におよび、なお目下引き続き署長自ら厳重取調べ中である。
(「東京日日新聞」1923年10月21日付。『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』収録)
※ 読みやすさを考慮して新かなづかいとし、一部の漢字をかなに開き、句読点を打った。「鮮人」も「朝鮮人」に直している。

(2014年2月23日記)

・・・

 荒川の河川敷で慰霊式典を続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の方から、会でまとめた資料集をいただきました。そのなかに、東京日日新聞1923年10月21日付の「府下版」が掲載されていました。そこには、この「烏山事件」で負傷、死亡したすべての朝鮮人の名前が列挙されていたのですが、それによれば、病院まで送られた人が3人で、死者は洪其白さん1人となっていたのです。
 追悼する会に確認したところ、「新聞によって幅はあるが、おそらく1人が正しいだろう」との答えをいただきました。たしかに、死者、負傷者について、名前を明記しているのですから、この「府下版」の記事がもっとも信頼できると考えるべきでしょう。死者3人とする史料もあり、入院した3人のうち2人が亡くなった可能性もありますが、冒頭に掲載した東京日日新聞の記事の「被害者中の一同」が死亡したという記述は「被害者中の1名」の誤字と考えるのが妥当だと思われます。つまり、『世田谷、町村のおいたち』は、死者数については誤りだということになります(その場にいた朝鮮人労働者全体の数についても史料によって幅があります)。
 しかしそうなると新たな疑問がわいてきます。烏山神社の椎の木は、ではいったい何の目的で植えられたのか。
 この疑問を率直にぶつけると、「追悼する会」の方から、今度は87年に発行された『大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞』を送っていただきました。「編者は世田谷区の文化財保護委員や調査員などをやった方で、事件の地元の人です。椎の木は誰のために植えられたのかについて今の時点ではこれ以上に信頼のおけるものは見ていません」というメッセージつきでした。そこには、あのとき起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳しく書かれていました。
 まず、事件は、旧甲州街道を横切る烏山川にかかる石橋で、朝鮮人労働者を載せたトラックが崩落箇所にはまり、自警団に包囲されたところから始まったとあります。このブログ記事冒頭の写真(「事件があったと思われる附近」)をよく見ていただくと、左右に小道が横切っているのが分かりますが、これが今は暗渠となっている烏山川であり、事件の現場です。石橋の崩落箇所に…という事件のディティールは、内田良平の記録にも出てきます。その後に起きたことについては、おおよそ東京日日新聞の伝えるとおりです。
 そして、烏山神社の椎の木については、『大橋場の跡』は次のように説明しています。

「結局12人の被害者に対して12人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」
「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曾有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」

 この一文から分かるのは、植えられた椎の木は朝鮮人犠牲者の供養のためではなく、殺人罪などによって起訴された被告の「ご苦労」をねぎらうために植えられた気配が濃厚であるということです。苦い結論ですが、そのように受け止めざるを得ません。

 現時点で分かっているのは以上の内容になります。

 釈放された人々とともに椎の木を植えたとき、村の人々の心にどんな思いが交錯していたのか、本当のところはわかりません。なぜ一部で「あの椎の木は死んだ朝鮮人の供養のために植えられたのだ」という話が伝えられてきたのか。それもわかりません。

 今も、烏山神社の正面の鳥居をくぐってすぐのあたり、参道の左右に、4本の椎の木がそびえているのを確かめることができます。
(2014年2月23日記)

(「9月、東京の路上で」関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト
tokyo1923-2013.blogspot.com/2013/09/1... より)

                                 
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その2。(「甲州街道」をゆく。第1日目。)

2017-03-08 21:30:46 | 甲州街道
 「国道20号線(現甲州街道)」に沿って歩きます。道路沿いには史跡やお堂などが出てきます。
白水学校跡」。
 明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。
 忠蔵は、明治維新に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。
 当時の白水分校には尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また、簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。
 明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、同8年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転しました。
 
                                    渋谷区教育委員会

 「現渋谷区立幡代小学校」の前身です。どこかのお騒がせ小学校理事長よりも、はるかに教育者としての識見がありそうです。

案内図。首都高・高架下。

左手には暗渠になった「玉川上水」の緑地が続きます。

    
子育地蔵尊」。
 地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界(みょうかい)と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、いろいろと考えられていました。
 この地蔵は子育地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。
 この地蔵は江戸時代の貞享3年(1686)の造立で、もとはすぐ前にお堂がありましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂が作られました。

                                    渋谷区教育委員会
     古い解説碑。

    
 地下から地上に顔を出した「京王線」がすぐ脇を進んでいます。都営新宿線と直通運転する京王新線は京王線よりも地下深く通過し、「笹塚駅」手前で合流します(右の写真)。

 (10:08)「幡ヶ谷駅」(京王新線・地下駅)を過ぎて、「中野通り」と交差する手前、左手に「道供養碑」「牛窪地蔵尊」があります。
    

    
道供養碑
 この道供養碑は、文化3年(1806)11月に造立されたことが、銘文からわかります。これにより、江戸時代の道供養信仰をある程度知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする珍しい供養碑です。
 中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑はもとはそれに面してたてられていて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
 なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所、という言い伝えもあるようです。

                                   渋谷区教育委員会
      
「笹塚駅」(地上駅)を過ぎていくと、「環七・大原交差点」。

 (10:27)「代田橋駅」近くで「玉川上水」が顔を出します。
    

「代田橋」ホーム下を流れています。


1880年代のようす。

現在のようす。右下が「京王線・代田橋駅」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 この付近は、「玉川上水」を水源から断続的に何日かかけて新宿まで歩いたときに紹介したことがあります。久々の再会。「玉川上水」は甲州街道を越えたあと、しばらく街道の北側を遡上し、次第に離れて北西の羽村方向へ上っていきます。

「沖縄タウン」。「小さい沖縄、生まれタウン」。

沖縄タウン化計画とは
 寂れた商店街を活性化させるために、商店街の強みである『個店の連なり』を最大限活かして街を再生させようとする、全国初の試みです。
 杉並区は、『沖縄学の父』と呼ばれる『伊波普猷(いはふゆう)』や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいたこともあり、23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多いという背景に加え、昨今の物産ブームで商品力のある沖縄に着目し、街おこしのテーマを『沖縄』としました。

 コンセプトは・・・都会の人が出会ったことのない沖縄の発見&体感できる街!!
 沖縄を一過性のブームにしないために、沖縄の食材・文化を都会の人々の生活の中に当たり前に存在させていく、それが『沖縄タウン』の役割と考えています。

 沖縄タウンは平成17年3月、甲州街道の歩道橋改装に合わせてオープンいたしました。


和泉明店街のプロフィールをご紹介します
 『ひとつ屋根の下』など、多くのテレビドラマのロケが行われた懐かしい街並みを残す商店街。   新宿から京王線で2駅、代田橋駅を降りて5分の立地。環7と甲州街道の交わる大原交差点のすぐ近くにあり、駅と住宅地の中間に位置するため、通勤・通学路になっています。また周辺には企業の進出が目立ち、人口は増加傾向にあります。
和泉明店街は、登録74店舗の商店街で、総延長380メートル。沖縄県那覇市の栄町市場と似た雰囲気の大都(だいと)市場を持つなど遊回性のある構造をしています。

HPより)

(10:31)「日本橋より13㎞」ポスト。
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