おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

追分。一里塚。桜並木。・・・(「日光道中」をゆく。その40。)

2016-06-29 22:27:24 | 日光道中

 少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。


 裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
             

日光街道と奥州街道の追分
 江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。

「バス停・伝馬町」。

 この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。

       

高札場跡
 ここには、江戸時代に高札場がありました。高札場には人々が従わなくてはならないお触れやきまりごとなどを書いた木の札(高札)が立てられていました。宇都宮宿内の所々にも同様な高札場がありました。

 江戸時代の宇都宮城下図があります。南から進んできた道(日光街道・奥州街道)が右折し、すぐに北へ向かう「日光街道」と東に向かう「奥州街道」が分岐します。「奥州街道」は宇都宮城(現在の東武宇都宮駅の南東側)の北側を屈折しながら通過し、北へ向かいます。
 「日光街道」を歩き終えたら、次回は「奥州街道」を白河まで歩くつもりです。

右手奥の方に「宇都宮城」がありました。現在は公園になっています。

これから歩む「日光街道」を望む。

「本郷町」解説板。

 宇都宮城の北を流れる釜川の西側一帯は、古くは西原と呼ばれていました。この付近はその本村であったことから本郷町と呼ばれるようになりました。
 江戸時代は日光街道沿いに多くの商家が軒を並べにぎわいました。また町内には本郷山妙覚院という寺院がありましたが、この境内にあった二十三夜尊が、今でも大切に祀られています。

古い商家風のおうちがちらほらあります。

    

       
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」
 元和5年(1619)宇都宮城第28代城主・本多正純公は、城下の町割りを行うとともに、五街道の奥州道中と日光道中を伝馬町で分岐(追分)させ、街道を整備しました。当地は日本橋から17番目の宿場「宇都宮宿」として栄えました。
 徳川家康が祀られている日光東照宮は、基点の日本橋より36里。一里塚は、国の史跡である22里(小金井)をはじめ、上戸祭の28里など一部が整備されていますが、この27里は昨年に当委員会が、江戸期の絵図からその存在を明らかにしました。
 この度、当委員会が小幡清住地区まちづくりの一環として、日光道中追分一里塚「二十七里」の標識を設置いたしました。

 平成26年11月吉日   日光街道 小幡清住まちづくり委員会

(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。

 旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
    

星が丘付近。  

 (12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
       
     勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
 「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。

この付近の地名は「松原」。旧道には松並木があったのか?

 しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
    
 ここからは、日光までこの国道を進むことになります。杉並木が楽しめそうです。今の時期は花粉症の方でも大丈夫でしょう。

(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。

 「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。

 こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。


 (13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。

     
                        大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。

    

 (13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。それでも期待感が増します。
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新旧の追分。宇都宮宿。蒲生君平。・・・(「日光道中」をゆく。その39。)

2016-06-28 20:11:13 | 日光道中
 左の道(日光街道)を進みます。道幅は広いですが、先ほどに比べて車の交通量もぐっと少なくなります。

    
 「国道119号線」を「東京街道」と表示。                            振り返って望む。

「宇都宮宿」に向かって進みます。 

JR日光線。

 しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
    

解説板。宇都宮宿に入るとこうした解説板があります。

不動堂
 江戸時代の初めごろ、宇都宮城主恩田正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
 不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後におここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するのです。
 碑には、「御大典記念正面東京ニ至ル」。

 ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。

宇都宮宿
 日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
 宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
 東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
 元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
 伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
 宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
 門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照。)

 先ほどより狭くなって車の量も一段と少なくなった道。道端には「蒲生君平」に関わるポスターが目につくようになります。
                           
「蒲生君平花街道」をゆく。2018年生誕250年。

途中にあった標語。小学生としてはなかなか見事。「かさのかげ 見えない鬼が ひそんでる」。

東武宇都宮線のガードをくぐります。

 ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
    

解説板。

蒲生君平勅旌碑
 明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
 蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
 歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山陵志」を著し修復の必要性を説きました。
 また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や国防についてまとめた「不恤緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。 

 左手前方を見ると、ひときは高い木が見えます。左に折れて近づくと、案内板に「とちぎ名木百選 新町のけやき」とあります。


 この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
 「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。


 初代下野の国司である宇都宮宗円が、奥州征伐のときに戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したうちの一体で、不動明王が鎮座しています。宇都宮城の安泰を祈って祀られたもののようです。星霜九百余年の歴史を持っているそうです。

静かな住宅街。

「蓬莱大黒通り」。

「米兵質店」やけに新旧うまくマッチしたな店舗。
ただし、「べいへい」ではありません、「こめひょう」と読みます。

 道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
    

更に材木町通りとなります。「宇都宮城址」は右手奥の方になります。

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雀宮駅から宇都宮駅まで。「雀宮」。「一里」。国道4号線。・・・(「日光道中」をゆく。その38。)

2016-06-27 22:01:20 | 日光道中
 さて性懲りもなく翌日。曇り、時々晴れ。昨日よりは歩きやすい感じ。(9:30)雀宮駅に降り立ちます。この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。
                         

雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたものです。
 わが国の鉄道工場で鋳鉄柱が製造されるのは1882(明治15)年からですが、1907(明治40)年の鉄道国有化を境として民間会社でも製造されるようになりました。
 しかし、大正時代になると古レールや形鋼などの鋼材を利用するようになり、急速に廃れてしまいました。
 合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
 そのような時代に製造された鋳鉄柱の一つとして、また当時の鉄道建造物の技術を伝える貴重な柱です。  

 2011年3月  東日本旅客鉄道会社 大宮支店 

旧道(国道4号線)に戻って右折すると、「雀宮神社」があります。

ここで「雀宮(神社)」という地名の語源について。(より)

    

    


                       。
              『雀宮南小学校50周年記念誌』『雀宮の地名の由来」(吉野益太郎氏執筆)より抜粋

 なるほどさまざまないわれがあるようです。いずれも興味深い説。
 中でも「雀宮の丸呑み男」の話。「雀宮」と「大杭(おおぐい・大食い)とかけてあるところ。
 また、「紅雀」説は、物語性があって、なかなかのすぐれもの。
 光源氏だとされる藤原実方朝臣の話で、都にて女性のことで騒ぎを起こした科により青森の地に国造として単身赴任を命ぜられた。彼の若妻が後を慕って雀の宮の地まで来たが風邪がもとで寝ついて、もはやこれまでと村の女房たちを集め「私は陸奥の国造藤原実方朝臣の奥方です。私はここまで来ましたが、病が重くもう死ぬでしょう。心惜しいのですが実方朝臣が来たならばこの藤原氏に伝わる三種の神器をぜひ渡して欲しい」と言い切ると息を引き取った。これを知らぬ実方朝臣は国実検の途路、落馬して死んでしまった。実方は死して紅雀となり雀の宮まで飛来して奥方の埋葬されている綾女塚の上に来て息絶えた。あまりの悲しい物語のため墳頂に綾女神社として祀り供養し、現在は雀宮神社境内に移されている。

 藤原実方は「三十六歌仙」の一人で、その歌は「小倉百人一首」にも入っています。

 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかったようで、風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられています。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもあります。
 死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされます。また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)
                (「Wikipedia」参照)

 この場合も「雀」になっているようで、やはり「雀宮」にはご縁があるわけです。

(9:44)その先が「東京から100㎞」ポスト。

 「国道121号線」との立体交差を過ぎると、左手に富士重工の工場。その先が「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」(10:07)。正門からぞろぞろ親子連れが入場しています。イベントがあるようです。



 横目で見ながら先に進みます。この辺りは自動車の関連工場や販売店が並んでいます。 


(10:12)「東京から102㎞」ポスト。

その先、左手の奥まったところにあるやけに派手なお堂は「寿鶴(すず)薬師堂」。

「栃木ヂーゼル」。ハテナ?

 エンジンの名称は発明者にちなむものであるが、日本語表記では一般的な「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」「デイゼル」とも表記された。日本の自動車整備士国家試験では「ジーゼルエンジン」と呼称している、とのことです。

石造りの建物。

ミニクーペの中古車。販売している? 

開けた街並み。来た道を振り返って望む。

 (10:34)しばらく進むと、右側にJR宇都宮線の線路が近づいてきます。その脇の停留所名が「一里」。この付近に日本橋から26里目の「江曽島一里塚」があったようです。
    

踏切を貨物列車が通過中。 

踏切の名称も「一里踏切」。


 頭上に爆音が。見上げると自衛隊のヘリの編隊飛行。さきほどの駐屯地のイベントの一環なのでしょう。


(10:44)「東京から104㎞」ポスト。

この付近から「国道4号線」の道路幅がかなり広くなります。

 それでも古いおうちや竹藪などが沿線に。
   

広い道路の向かい側にも。

 (10:50)「西原」の交差点。ここまで辿ってきた「国道4号線」ともおわかれです。国道4号線は大きく右に曲がって続いていきます。
     

国道4号線
 東京都中央区から青森県青森市へ至る一般国道である。総延長・実延長および現道区間の延長が日本一長い国道です。

起点:東京都中央区(日本橋点)
終点:青森県青森市(長島2丁目10番2・青い森公園前)
経過地:東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県、青森県。
路線延長 : 869.2 km(実延長868.0 km、現道742.3 km)
 国道4号は、日光街道・奥州街道(道中奉行管轄)およびその延長区間の白河から函館間(日光街道を除く3街道は1873年、陸羽街道に改称)を継承しています。

 50年ほど前、青森港の青函連絡船の岸壁で「国道4号線」のマークを見た時の驚きと感激は今でも忘れません。青函連絡船もとっくになくなり、「国道4号線」の終点はどこになるのでしょうか?

 左に進む道が「日光街道」になります。
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雀宮宿本陣、脇本陣。鐵道院。・・・(「日光道中」をゆく。その37。)

2016-06-25 13:17:47 | 日光道中

 右手に「鞘堂地蔵尊」。
    


鞘堂地蔵尊の由来
 寛政6年(1794)に書かれ、天保14年(1843)に発行された紀行文によれば室町時、足利義満が将軍の時代には将軍と将軍の争うことが多く、この地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し、戦争の中心地となった所です。茂原合戦ともいわれています。
 この地内には地蔵院とゆうお寺がありました。戦争で焼かれ多くの人が亡くなりました。村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め、小さなお堂を作りその中に石仏の地蔵様を安置しました。
 それが鞘堂とゆう地名になったそうです。
 明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり、安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手作りの舞台で演劇やお踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり、昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され、大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました。地蔵尊の中には地蔵様の頭五~六寸大と日本画で全身像が額縁で安置されています。
 鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています。鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と細い紐を作り、安産のあとに二本かいすことになっています。
 このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているのです。
     お祭(縁日)  旧三月二十四日
     壱万灯    六月二十四日

                  鞘堂自治会

 なお、旧道はここまでの区間も現在の国道より少し西側を通っていたようです。この道?


「星宮神社」。

(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東自動車道」の橋脚。

(13:40)ようやく「宇都宮市」に入ります。

右手奥には東北新幹線の橋梁。

(13:46)さらに「茂原正観音道」碑。    
                                     社殿は、新幹線架線・在来線の線路を越えた東側にあります。

 左手には「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」が広がります。
    

                   (13:59)「東京から98㎞」ポスト。

「雀宮宿」に入ります。 

(14:20)そろそろバテ気味。「東京から99㎞」ポスト。

ひたすら国道を歩く。
 この付近に日本橋から25里目の「雀宮一里塚」があったようです。

 (14:28)「大和田内科胃腸科病院」の先「やまや」のところに「小倉本陣跡」碑があります。
    

来た道を振り返って望む。

雀宮宿
 日光街道および奥州街道の16番目の宿場。
 雀宮宿は江戸時代に下野国河内郡にあった宿場町である。雀宮宿は、もともと下横田村の台地部にある村落であったことから台横田村と呼ばれ、奥州古道の時代にはその中心地は雀宮宿の東方にあったが、江戸時代に日光街道が整備されたことにより沿道に人家が集まり宿を成し、近所にあった雀宮神社に因んで雀宮村と改称し、後に江戸幕府によって宿駅とされたものである。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、雀宮宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が38軒あった。宿内の家数は72軒、人口は268人であった。

前方右手に曲がると、JR「雀宮」駅へ。

 その角で昔風の建物を建築中。ここが「芦谷脇本陣」のようです。


 (14:31)脇には門などが解体、復元中。
    

 今回はここまで。JR「雀宮」駅から戻ります。えきの上りホームの時刻表掲示板、どこかで見たものと同じ鋳鉄製の柱があります。京浜東北線の大森駅東口の喫煙スペースにあったような、・・・。はてさて?

    

大森駅前広場にあるもの。
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石橋宿。グリムの里。・・・(「日光道中」をゆく。その36。)

2016-06-24 22:57:48 | 日光道中

 国道352号線の立体交差を進むと、「石橋宿」へ。

石橋宿
 日本橋から15番目の宿場。
 元は上石橋村、下石橋村、上大領村、中大領村、下大領村、前原村の6か村が1村となり、当時天領とされていたため内裏領村と呼ばれていた。時期は不詳だが内裏領村が宿駅となり石橋宿となった。
 宿役はこの宿の旧家で元多功城城主多功宗朝に仕え、後この地に土着し農民となったと言われる名主伊沢近江守、問屋伊沢出雲守、本陣伊沢越前守の各家が代々交代で勤めた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、石橋宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が30軒あった。宿内の家数は79軒、人口は414人であった。

(11:36)  
          街並み。時間のせいか、思ったよりも交通量は少なめ。

「石橋駅入口」交差点。

 その手前の左側に、脇本陣跡(伊沢写真館)、本陣跡(伊沢茶舗)があります。
    
 伊沢写真館。                                伊沢茶舗。

その付近から振り返って宿内を望む。

さて、そろそろ昼飯の時間。駅前に行けば何かあるだろうと。見上げると「グリムの里」という幟。また、街灯もしゃれたつくり。はてさて?

    駅前広場には大きな時計台。はてさて?

 3年ほど前の記事ですが。

宿場町「グリムの里」に (2015年09月26日 05時00分)
◆町の名の縁 
 旧石橋町(現下野市)を南北に貫く国道4号(日光街道)から西に500メートルほど入ると、住宅街の中に2・4ヘクタールの雑木林が現れる。「七人の小人の広場」や「黄金のがちょうの泉」などでグリム童話の世界を表現した「グリムの森」だ。

 なぜ栃木県でグリムなのか。きっかけは1966年、グリム兄弟が生まれたドイツ・ヘッセン州にある町と石橋町の児童が、絵画や習字などの作品交換を始めたことだ。その町の名は、ドイツ語で「石橋」を意味するシュタインブリュッケン。両町の縁を取り持ったのも、独協医大の初代学長を務めた石橋長英氏だった。

 両町は75年に姉妹都市となり、96年には町の「グリムの里づくり」事業の拠点施設としてグリムの森が完成した。その一角にある「グリムの館」は、ドイツの市庁舎と木組みの民家をイメージした建物で、グリム童話の初版本など貴重な資料や、グリム兄弟の業績を紹介する写真やパネルが展示されている。

 オープン当初からグリムの館に勤務している中林真弓さん(39)は、姉妹都市となった年に石橋町で生まれ、その交流とともに育ってきた。「小学生の頃、学校にドイツ人が来てドイツ語のあいさつを習ったのを覚えています」と振り返る。

 日独双方とも、現在は合併で町名が変わった。中林さんは「住所から『石橋』が消えて、由来の説明が必要になりましたが、市域が広がった分だけ認知度も高まったと思います」と話す。最近は、欧州風のロケーションが好評で、アニメファンなどがコスプレ姿で撮影する姿も目立つという。

◆将軍の休憩所
 石橋は、江戸時代に日光街道の宿場として栄えた町でもある。現在の町並みにその面影はほとんど感じられないが、往時の雰囲気をよく残しているのが、JR石橋駅近くにある開雲寺だ。781年の開山と伝えられ、江戸時代には徳川将軍家が日光に向かう際の休憩所となった。境内には、3代将軍徳川家光が手植えしたというマキの木が、落雷で根元だけとなったものの現存している。
 住職の塩沢弘崇さん(32)は旧国分寺町の出身で、2011年に就任した。「お寺というと、若い人は入りづらいと感じるかもしれませんが、社会に開かれたコミュニティーの場を目指していきたい」と話す。
 また、檀家総代の伊沢敬一郎さん(84)は、先祖が代々、石橋宿の名主を務めてきた。1876年に明治天皇が東北地方を視察した際は、明治天皇が開雲寺で、随行の岩倉具視が伊沢家で休憩したといい、江戸時代の石橋宿の地図なども数多く残る。合併については「旧3町それぞれの個性がうまくかみ合い、規模も大きくなってよかったんじゃないか」と評価している。

◆B級グルメ
 石橋商工会青年部が、下野市のB級ご当地グルメを開発しようと企画した「プロジェクトB」も進められている。今年3月の同部のイベント「イブニングライズいしばし」では、特産のかんぴょうとゴボウを使った「かんぴょう&ごぼうフライ」が来場者の投票で1位になった。
 青年部長の大関貴志さん(32)は「下野市がゴボウの産地ということはあまり知られていないので、よい料理が選ばれたと思います」と話す。料理の「きんぴら」にかけて「下野カンピラ」と命名。「ゆくゆくは市全体の名物に育てばうれしい」と夢を膨らませている。(福田淳)

◆ビールまつりやコンサート 「グリムの森フェス」きょうとあす

 グリムの館は、移動可能な300席の座席がある多目的ホールのほか、グリム童話をはじめ約1000冊の児童書が読める図書コーナー、土日営業のカフェなどを備えている。
 26、27日には「第4回グリムの森フェスティバル」が開催される。期間中は、ドイツのビールやソーセージが味わえる「ビールまつり」をはじめ、「AiSONIQ」(26日)や「とちおとめ25」(27日)のコンサート、上三川高校書道部のパフォーマンス(26日)、地元中学生による紙芝居上演(27日)などのイベントが繰り広げられる。問い合わせは、0285・52・1180。
 石橋商工会では、会員が軽トラックやテントで店の商品や農産物、飲食物などを販売する「第13回いしばし軽トラ市」を10月18日、JR石橋駅前通りで開く。この日は「下野カンピラ」は出展されないが、11月8日の下野市産業祭には登場予定だ。問い合わせは、0285・53・0463。

《2015年09月26日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun》より。

 なるほど。「軽トラ市」も面白い。農作業用なのか、行き来する車は軽トラが目に付きます。

以下は、「グリムの森・グリムの館」公式HPより。

  

          

 ということで・・・。ところで、お店は、というと。

「清水蕎麦屋」。

 昔ながらのお店という雰囲気。ビールを頼んだら、今どき珍しく、大瓶(633ミリリットル? )。「カツ丼セット」を頼んだら、カツ丼も盛りそばも並の量。隣の方の大盛りを見たら、まるで大山。蕎麦も黒々と太く、素朴な味わい。・・・
 都内のチェーン店でのセットメニューになれていると、食べきれないほど。野武士とお公家さんくらいの違い。土地柄か、値段は安くて、大盤振る舞い(翌日の昼定食もそうでした)。何とか食べ終えて、お腹いっぱいになりすぎ、午後の歩きがおっくうになるほど。

 さて、12:40。午後編。
    
                         古めかしく立派なおうちもちらほら。 

「石橋あやめ園」案内板。

 その先の民家の庭先には紫陽花が咲き誇っています。
    

 下小山の交差点を過ぎると、右手には緑豊かな「前田製菓」の広大な工場。この付近に日本橋から24里目の「下古山一里塚」があったようですが、位置は不明。


  (13:10)「東京から95㎞」ポスト。

 その先には、取り壊し中、あるいは放置された巨大な建造物? このままモニュメント化しているのか?

    

その右手には「黄金比率のデミグラスソース だびんち」。「黄金比率の」?

 街道沿いのお店には車の運転手の目を引くネーミングや建物が多いようです。
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下野市役所。「丸大食品」。・・・(「日光道中」をゆく。その35。)

2016-06-23 20:46:36 | 日光道中

 西側の視界が広がってきます。田んぼ、畑、森、・・・。
     

(10:14)しばらく進んで、国道から左に折れる道が旧道。

 現国道の西側を一直線に伸びています。

    
    
1880年代のようす。沼地がある。               現在のようす。但し、下野市役所はまだない。

左に折れたら、右のあぜ道のようなところを進みます。本来はもっと手前で国道から分かれていたようです。
    
                           振り返って望む。

 すぐパチンコ店と駐車場との間の舗装道路となります。電柱と建物との間が旧道?
振り返って望んだところ。

(10:18)正面にしゃれた建物が見えてきました。下野市役所。

 新しい解説板。
    

日光街道を歩く 日光街道と笹原新田
 江戸幕府は、江戸日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を幹線とする全国的な交通網を整備し、一定の距離をおいて宿駅(宿場)を定めました。 
 下野市役所周辺は笹原新田といわれ、小金井宿と石橋宿の間に位置しています。庁舎建設に伴う発掘調査では、側溝をもち幅約8~10mの日光街道跡が3時期確認されました。
 笹原新田は、「日光道中略記」によると「当所ハ万治2年小金井宿の民、此の地の民と戮力して開発せし故、金井村新田と呼びしが、其のはじめ笹原なりしを以て元禄の頃より笹原新田と改む。」とあり、万治2(1657)年、小金井宿の住民とこの地の住民が力をあわせて、笹の生えた原野を切り開いたことをうかがうことができます。また、「日光道中絵図」には、庁舎敷地の南側、杉並木のある日光街道を挟んだ両側に「野池」が描かれており、「日光道中略記」によると、野池の説明が「暮春のころはかきつはた見ごとなり」と書かれ、かきつばたの名所とされていました。
 この野池周辺は、土地が低かったため土橋がかかっていたのか、土橋という地名が残っており、現在も土橋公園と公園南側の土地が低く、野池の名残を見ることができます。

振り返って望む。

旧道は、市役所庁舎のほぼ中央を南北に貫いています。

 北側に回り込んで見るとドアがちょうどその道筋を示しています。閉庁していなければ、中山道・熊谷の「八木橋デパート」のように通り抜けできるようになっているのかもしれません。
    

市役所方向を望む。一直線の道を進みます。

    
          けっこう日差しが強くなってきます。まっすぐな道をひたすら進みます。

視界が開けてきました。

(10:41)  

 右側を通る国道4号線沿いにはみごとな松並木。
    

まっすぐに進むと、行き止まり。この先は、木々が生い茂って通行不能。本来はもっと進んで行きますが。

(10:49)  

来た道を振り返って望む。真夏の炎天下では大変そう。

 右に折れて国道に出ます。また国道歩きが始まります。

森の際を旧道が通っていたか?

 この辺りに、日本橋から23里目の「下石橋一里塚」があったようですが、今となっては定かではありません。

    
 (11:00)「丸大食品」関東工場の敷地ぎりぎりを旧日光街道は進んでいたようです。

 右手には大きなお店。「とんかつ合掌」。奥には合掌造りの巨大な建物。入口の門も城門のようで、立派。
    

     (11:06)「東京から91㎞」ポスト。

 「夕顔の橋」(「国道352号線」との交差点付近)の手前に10体の石仏が祀られています。「旧日光街道」は、この付近で現在の国道に合流し、「石橋宿」へ向かいます。「丸大食品」からここまでは国道の際を進んでいたようです。
 

  
  
1880年代のようす。                    現在のようす。
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JR小金井駅から雀宮駅まで。小金井一里塚。小金井宿。・・・(「日光道中」をゆく。その34。)

2016-06-22 21:21:03 | 日光道中
 6月18日(土)。快晴。またまた「日光道中」の旅。が、炎天下の歩きで、宇都宮まで行く予定が挫折。暑かった!
 翌日、再チャレンジ。曇りがちの天気で、前の日よりは歩きやすい。が、夕方から人が来るという連絡が入り、これまた途中で引き返すことに。
 どうもついていない「歩き」です。が、家を7時過ぎに出ても、往復が可能。泊まらずに行ける範囲。東武線とJR線の併用で何とか。
 そういえば、小学生の頃、日光は日帰り遠足で行ったこともあるところ。東海道や中山道ではそうもいきません。その点、地の利です、ね。

(9:28)前回はしょったところ(旧道)近くに戻り、歩き始めます。

遠く正面に「小金井一里塚」。旧道を歩く「感動」です。

道は畑にぶつかります。畑の中を歩くのは・・・。

 左に回り込んで「一里塚」へ向かいます。現日光街道が東側に通るようにつくられた関係で、両側の塚とも運良く残ることができました。

(9:36)東の塚と西の塚(手前)。その間が「日光道中」となります。

    

発掘調査と整備について
 史跡整備に伴って平成9年度に実施した発掘調査では、合計3時期にわたる旧街道の砂利敷道路が発見されました。
 江戸時代、最初に街道が作られた頃(Ⅰ期)は、側溝のない砂利敷道路で、道幅は約9m(5間)、現在の地表の高さから比べると約80cm下にありました。
 その後、街道が改修された時には(Ⅱ期)新たにU字溝が設けられ、道幅は約9.4mとやや広くなります。
 明治時代以降、再度改修された時には(Ⅲ期)、道幅約5.7m、箱型の側溝を設けた狭い砂利敷道路になっています。
 明治17年(1884)には、現在の国道4号線が開通しますが、旧街道は、その後も生活道路として昭和50年代まで利用されていました。・・・
 このたび、長い間手が加えられなかった一里塚を将来的に保護活用していくため、地域の区画整理事業に合わせ、史跡ポケット広場として整備することになりました。・・・
 両塚の間には発掘調査の成果をもとにⅡ期の砂利敷道路(約9.4m)の路面を復元表示し(溝は暗渠で施行)、旧街道が南北に続いている様子を壁画に表しています。・・・
 小金井一里塚のように、2つの塚が壊されずに残っているのは全国的にも稀であり、祖先から受け継がれてきた貴重な文化財を、これからもみんなで大切に守っていきましょう。

 平成10年3月  国分寺町教育委員会

来た道(南側)を振り返って望む。

北側は住宅地になってしまいます。

    

国指定史跡 小金井一里塚  大正11年3月8日指定
 この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長9年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道4号を作ったのが明治17年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。
 一里塚は、江戸の日本橋を基点として1里(約3.927キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその22番目の塚で、江戸から22里(約86.4キロメートル)の地点であることを示しています。(実際の距離は90キロメートル以上あります)
 塚は5間(約9.1㍍)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と櫟(くぬぎ)の巨木が同居しています。
 一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になって、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとっては町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。

 平成2年(1990)建立 

 明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に並行して新しい道路を開通させたため、東西の2つの塚がほぼ原形のまま残されました。日光街道の一里塚では、唯一、国の史跡に指定されています。

 この先が「小金井宿」の中心部となるようですが、特に史跡の表示はありません。

慈眼寺、金井神社と過ぎます。  

その先の左手に本陣跡(大越家)の門があります。問屋場もこの付近にあったようです。 

小金井宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場。
 宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄9年(1696年)以降は幕府、宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩、天明7年(1787年)以降は幕府、寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩が担った。現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が43軒あった。宿内の家数は165軒、人口は767人であった。
 「小金井」という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。(天保14年・1843年頃作成と推定される『日光道中略記』より)
 江戸時代以前からの古い宿場であり、15~16世紀には集落が形成されて、「奥大道」すなわち鎌倉街道中道(なかつみち)の「金井宿」と呼ばれていた(『蓮行寺文書』等)。 

その付近から宿内を望む。  

 沿道には古いおうちがちらほら。 修理中なのか、取り壊し寸前なのか。・・・

    

 (9:58)「小金井北」交差点を右に折れた、突き当たりにあるお寺が「蓮行寺」。由緒あるお寺で、将軍が日光社参の際に、ここで宇都宮城主が出迎えたといいます。1329年の開基。

    
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新田宿本陣。「おや、まあ♪ おじさん合唱団」。小金井駅。・・・(「日光道中」をゆく。その33。)

2016-06-20 21:02:23 | 日光道中
 「新田宿」に入ると、沿道のおうちには、かつての屋号が掲示されています。ただし、当時の道幅より広く整備されていますので、その位置にあったかどうかは定かではありません。しかし、宿場町であったことをこういう形で残しているのはいいことだと思います。

             
「奥州道中大町新田宿 下の和泉屋」。    「板戸屋」。                     「栃木屋」。

 (16:17)左手に「新田宿本陣」跡。木の門があります。
    

「中の兵庫屋」。

広い敷地のおうち。

(16:20)「東京から84㎞」ポスト。

 その先、
    
     「幕府代官陣屋跡」。「新田宿」では、どの表示も「日光道中」ではなく「奥州道中 新田宿」と記しています。

「おや、まあ♪ おじさん合唱団」募集案内。

 (16:25)さて、その先、「銅市金属工業」の角を左折してすぐ右折。ここからが旧道の道筋になります。


 この先、旧道は現在の国道4号線の西側を進んでいました。


1880年代のようす。道の片側は松並木だったようです。



現在のようす。航空写真だと旧道(→)がはっきりしています。

 歩道と車道とが区別された道を進みます。
    

最近整備された遊歩道のような印象。振り返って望む。

 (16:37)そのまま進むと、雑草の生い茂ったところで行き止まり。しかたなく空き地を通って国道に戻ります。
    

 国道から再度左に入って先ほどの道(旧道)に復活するということもできますが、そろそろ疲れてきたので、そのまま、国道4号線を歩きます。

(16:49)「(東京から)85.8㎞」という表示。

小金井駅入口交差点。

(16:51)振り返って望む。

 今回は、ここまで。次回は、歩き損ねた旧道から再開の予定。

国道正面奥の方に「小金井一里塚」。

              駅前にある動輪のモニュメント。
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小山ゆうえんち。喜沢一里塚。(「日光道中」をゆく。その32。)

2016-06-18 20:13:03 | 日光道中
 再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。


1880年代のようす。→の部分。ほぼ廃道の状態。

(15:07)「第一奥州街道踏切」。

しばらく進んで振り返ると、ちょうど電車が通過中。

(15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。

 この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
 「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。
 同施設のランドマークとして、小山ゆうえんちから引き継いだメリーゴーランド(横浜ドリームランドから移設したもの)が設置されています。

            (以上、「Wikipedia」参照。写真含む)

まもなく右の道を進むはずですが。

 (15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。

    

 (15:38)しばらく行くと左手は木々がなくなり、緑のシートで覆われ、かなり広く造成中です。
    
                                          振り返って望む。

この一画はかつては木々が生い茂っていたのでしょう。



1880年代のようす。○が分岐点。←が旧道。


現在のようす。←が旧道。沿道に林が写っている。

 今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。

 (15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。
    

 旧道の右手側の空き地にも盛り土が。
                                      「一里塚」跡?

 特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
 ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
 19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。

来た道を振り返って望む。

旧道はJR線に阻まれます。高架は新幹線。

 高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。
    

「海道間第二公園」。「海道」は「奥州街道」の古い言い方。

桑畑。かつては北関東戸では見慣れた風景でした。

けっこう長く新幹線の高架脇を歩きます。

 高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか? 
          

その先、斜め左に入る道が旧道です。



1880年代のようす。←旧道はすでに鉄道(現「宇都宮」線)によって寸断されています。斜めに進む旧道は、今も健在です。

細道を進むと、「国道4号線」に合流します。   

 合流した先が「新田宿」になります。「東海道」や「中山道」に比べて宿間の距離が短いような気がしますが。

新田宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
 宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。
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千駄塚。「若盛」。小山宿。脇本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その31。)

2016-06-17 22:08:48 | 日光道中
 400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、


さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。

 「千駄塚」はかつての古墳。
 この古墳は、墳頂の平坦部に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている大形の円墳である。
 墳丘の直径は約70m、高さ約10mで、墳丘裾部から約3m立ち上がったところに幅7-8mの平坦な段築面があることから、二段築成である。
 円錐形の形をした墳丘の周囲には、幅15-20mほどの周溝がみられ、その外側にある周庭帯は周溝がよく残っている西側と北側に認められる。
 内部主体が未調査であるため築造年代は不詳であるが、6世紀代のものという見方がつよい。
             栃木県教育委員会 小山市教育委員会(現地案内板より)

(「埼群古墳館」HPより)

 (13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。
お店に入って3種類を試飲。

 「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!

    

右手には「新幹線」。

(13:24)そして「東京から75㎞」ポスト。

 「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。
    
                                     来た道を振り返って望む。

「向日葵」。

そのまえには立派なお屋敷。(13:41)ここで、小休止。

                        

(13:53)「神鳥谷東」立体交差点。右手に新幹線。

街道筋らしいおうちもちらほら。

(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。奥に煉瓦煙突。

 『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)

 小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。

古河宿のように、電柱のないすっきりした「小山宿通り」。

(14:10「須賀神社」参道。    

「酒 野崎本店」。

野崎 一彦

明治5年、近江の国日野町から出てこの小山の地に酒屋を開き、以来130年余市、町の皆様のご愛顧を受け、酒屋一筋に商いを続けてきました。
 この度、宮本町野崎本店は創業時の建物をリニューアルしました。
 水と緑の豊かな自然に育まれた小山の地域ブランドを中心に酒のおいしさ、酒の楽しみをお届けします。
                        (HPより)

「日光街道 小山宿 開運のまち」。

小山宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
 元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。

小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。

    
                   明治天皇小山行在所跡
 (14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。

 (14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。

    

「かんぴょう街道」。

 けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。
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小山市。乙女一里塚。「間々田宿」問屋場、本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その30。)

2016-06-16 21:42:11 | 日光道中
  (11:03)しばらく進むと、「小山市」に。

「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。

(11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」? 

    振り返って望む。 

この付近の地名は「乙女」。

・『乙女の里物語』 pp.21~22に、乙女の由来の記述があった。明治44年(1911)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書p.22には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳4年(1332)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
・『とちぎの地名』 p.50に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。

(以上、HPより)



1880年代のようす。松並木が続いています。

またしても「馬頭観音」碑。

「東京から70㎞」ポスト。    振り返って望む。

(11:30)「佛光寺」付近から振り返る。

 そろそろお腹が空いてきます。「間々田駅」入口交差点、左手の角にお蕎麦屋「小川庵」。

お店を出てパチリ!

(12:09)表示も「宇都宮36㎞ 那須高原92㎞ 福島202㎞」

右手に「車屋美術館」。古民家と蔵。

           
                      「小川家住宅」。堂々たるおうち。国の登録有形文化財。
 小川家の屋号が「車屋」だったそうです。
 平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館しました。
 
「乙女発動機」。言い得て妙なネーミング。

 その先に「日光道中」の中間地点に植えた榎があり、「逢いの榎」の碑があるはずです。大きな榎が立っているばかりと思い込み、前方を見ると、右手に大きな木々が立つ一画があります。

そこだと思って近づくと「琴平神社」。

 ここではありません。「神社」と通りをはさんで斜め前にある「佐山酒店」の幟でガマン。

 ↓が「逢いの榎」碑があるところ。残念! 見逃しました。

 現在、「逢いの榎」碑はこうなっているようですが。

HPより拝借)。

 「間々田宿」は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里という中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていました。「間々田宿」の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、いつの頃からか「逢いの榎」と呼ばれるようになりました。
 「旧東海道」では「袋井宿」がど真ん中。「ど真ん中茶屋」とか「ど真ん中小学校」がありました。

右手には「下野風土菓 乙女屋」。

 乙女屋の代表銘菓=かんぴょう物語「るかんた」。 
                                                                (「乙女屋」HPより)

蔵造りの古いおうちも残っています。



間々田宿問屋場跡
 間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
 天保14年(1843)の記録によると当宿は
 石高 944    家数 175軒
 人口 947人   旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めにより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。
 それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。

    間々田商工会 小山歴史研究会


 11番目ということは、「東海道」では「三島宿」にあたります。やっと箱根峠を越えたところ。「日光道中」はそうした峠道もなく、ここで行程の半分になりました。

振り返って望む。

      「東京から72㎞」ポスト。



間々田宿本陣跡
 本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・門跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休けいしているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
 本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過ごされました。

    間々田商工会 小山歴史研究会
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いったい何が見えてきたのか? そして何が見えなくなったのか?

2016-06-15 23:00:10 | 世間世界
「当然」「自民に責任」=与野党、都知事選へ対応急ぐ―舛添氏辞職

 すべて舛添個人の問題に矮小化され、マスコミこぞって煽ったあげく、都民・国民の溜飲を下げさせて、オシマイ。結局、うやむやのままに関心は参院選に移っていく。事の本質はそっちのけ。

 「政治資金規正法」のいい加減さは、これで問われることもなく忘れ去れ、まさに政治屋たちの思惑通りに。舛添さんへの追求も辞めたんだからいいだろう、と。アベ他議員諸公も実に私的でめちゃくちゃな支出項目があるようなのに、・・・。結局、不問。
 「参院選」とからませて、今度は勝ち馬探しに躍起となる自公、対する民進、・・・。どうせなら不信任案を可決させて議会を解散すればよかったのにね、舛添さん。

 ウルトラCで、橋下が出ることになったら、いったいどうなる? マスコミの一部では橋下待望論を煽るような言説が出てきている。まさか大阪でのことがあるから、自民党は簡単には橋下・勝ち馬に乗らないとは思うが(「公明」は得意の密約でもしてOK? に)、一寸先は闇、利害だけがすべての業界。何が起こるか? アベや菅はそう望んでいるのではないか、「おおさか維新」も。
 他には「嵐」かなんかの父親の名前も取りざたされているし、東国原の名前も。・・・またまた人気投票で決定させる気。

 はたして都民は、アベを裏で操る一部の策士の手練手管に見事、陥落させられてしまうのだろうか? 都知事選はどうでもいいい、狙いは、うまく便乗して参院選に勝利し、念願の改憲勢力の議席、大幅増だから。

 浅薄で口先の魔術師ほど怖いものは、ない。ある意味、舛添もその一味、あるいは、隠蔽工作の人身御供。
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松原。思川。栗の花。芭蕉句碑。・・・(「日光道中」をゆく。その29。)

2016-06-14 23:25:31 | 日光道中
 栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。

(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。

「佐野ラーメン 中村屋」。辺りが開けてきます。

「(東京から)65.8㎞」ポストも歩道のところに立っています。

(10:08)それでもれっきとした「国道4号線」です。

 かつてはこの付近も松並木が続いていました。


1880年代のようす。「松原」という地名は現在も残っています。



現在のようす。国道4号線は旧道をほぼなぞらえているようです。

    
                            立派な門構えのおうち。

別のおうちの奥には石造りの建物。

 「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。

 (10:28)「松原大橋」から。
下流方向。右手奥に「渡良瀬遊水池」があります。

上流方向。ここで小休止。

再開してしばらく進むと、右手に白く細長い花が一面に垂れている木々。

 その木の下で農作業をしている方に聞くと、「栗の花だよ」と。 

    

クリ(栗)
 ブナ科クリ属の木の一種。クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる、栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリもごく一部では栽培される。
 落葉性高木で、高さ17m、幹の直径は80cm、あるいはそれ以上になる。樹皮は灰色で厚く、縦に深い裂け目を生じる。
 葉は長楕円形か長楕円状披針形、やや薄くてぱりぱりしている。表はつやがあり、裏はやや色が薄い。周囲には鋭く突き出した小さな鋸歯が並ぶ。
 雌雄異花で、いずれも5月から6月に開花する。雄花は穂状で斜めに立ち上がり、全体にクリーム色を帯びた白で、個々の花は小さいものの目を引く。また、香りが強い。非常によく昆虫が集まる。なお、この花の香りは芳香成分としてスペルミンを含むため、ヒトの精液の臭いに似た独特の香りを放つ。
 一般に雌花は3個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、不受精のものはしいなとなる。
 9月から10月頃に実が成熟すると自然にいがのある殻斗が裂開して中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1 - 3個ずつ現れる。果実は単に「クリ(栗)」、または「クリノミ(栗の実)」と呼ばれ、普通は他のブナ科植物の果実であるドングリとは区別される(但し、ブナ科植物の果実の総称はドングリであり、広義にはドングリに含まれるとも言える)。

(以上、「Wikipedia」参照)

 整然と植えられた栗林の下に行き、雄花に顔を近づけてもあまり臭い(香り)を感じませんでした。鼻が鈍感になっているのかな、それとも・・・。 なお、雌花は確認できず。
                

 歩いていると、沿道には他にも「ウメ」「ナシ」「ブドウ」などの樹木が植えられています。庭先であったり、果樹園のようだったり。

        

    

「馬頭観音」石碑。

立派な長屋門を持つおうち。

「東京から68㎞」ポスト。
「馬頭観音」石碑。

 (10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
    

法音寺の芭蕉句碑
 芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり
 法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
 松尾芭蕉(1644~94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野の生まれである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」「漂泊の詩人」といわれる。
 「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月芭蕉庵を人に譲り、河合曾良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。「曾良旅日記」によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
 間々田出立後、室の八島(現栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白川の関を越え、松島に向かった。
 ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向かった際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
 この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
                                   野木町教育委員会

「奥の細道」の旅程図。
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野木宿。野木一里塚跡。野木宿道標。・・・(「日光道中」をゆく。その28。)

2016-06-13 20:12:55 | 日光道中
日光道中 野木宿周辺の松並木
 日光道中今市宿を合流点に、日光道中、例幣使道、会津南山通り(西街道)の両側には杉並木が植えられている。この杉並木は、武蔵国川越城主の松平正綱が、寛永2~3年(1625~6)から約20年の歳月をかけて植えつけ、杉並木を寄進したものである。
 日光道中野木宿周辺では、杉並木ではなく、松並木が続いていた(「増補行程記」盛岡市中央公民館蔵)。この松並木は、元和8年(1622)古河藩主永井右近大夫直勝が、中田より小山までの街道に、松を植えたといわれている(「下総国古河城主代々記」田沼忠昭家文書)。またその子尚政が寛永期に植えたともいわれる(「小山市立博物館紀要3号」)。元和河寛永期(1615~43)までには松並木ができていたということになる。
 弘化2年(1845)、山形藩主秋元志朗は上野国館林へ国替えとなり、家臣山田喜太夫は妻音(とわ50歳)とともに移動することになった。音羽は、間々田より友沼に向かう付近で、松並木をとおる一校の絵と歌を残している(「道中記」)
 「暑さがしのぎにくいほどで、松並に風音涼しく吹いて聞こえてくる。『松風を琴のしらべに聞きなして 心なぐさむ旅の道野邊』。進んで野木では、「此辺は皆松並木で、景色がない、…それに松なみの間 皆小石を敷いてあるので、足が痛んだが、…歩を進め、八ッ半頃であろうか 古河の宿へ着いた」とあり、ずっと松並木が続いていたことがわかる。

 野木町教育委員会

 ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
 「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。

来た道を振り返って望む。

大きな建物もなく、周囲は明るく開けていきます。

                    (9:37)「東京から64㎞」ポスト。

(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。

向かいには「馬頭観音」石碑。

その先を望む。

 沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
       

 その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
    

日光道中野木宿
 江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
 野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
 宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
 宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
 野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。

                                  野木町教育委員会


(9:46)交差点には、「←のぎ水辺の楽校 入口」の表示が。

 左に曲がって行った先は緑豊かなようす。



 その交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。

沿道には廃屋。

    
                           「浄明寺」入口付近に設置された「水準点」。

水準点
 水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
 国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
 全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。
 日本水準原点の次に重要な水準点を「基準水準点」といい、全国に88ヶ所設置されたがそのうちの2箇所は樺太に設置されたものであり現在は樺太の領有権を放棄しているため2007年3月現在の日本の基準水準点の数は86ヶ所である。一等水準点網から少し離れた地盤が強固な山や丘陵地に設置されることが多く設置場所も道路から少し離れた林や公園の中などに設置され、道路の拡張工事などで移転が必要になる事態を防いでいる。柱石だけでなくすぐ横の地中にも石とクロム金属製の標識があり、3つの標識を設置することにより万一の破損に備えている。さらに柱石と地中標の蓋は柵によって囲まれている。基準水準点は水準点網の再測量の基準点となっている。
                                                                (以上、「Wikipedia」参照)

 ここの水準点の標高は「24.2m」。ということは、国会議事堂付近の標高とほぼ同じということになります。日本橋から70㎞過ぎても、まだこの標高。関東平野の平坦さがうかがわれます。

            (9:54)「東京から65㎞」ポスト。

その先左手に、「野木宿道標」があります。

       

町指定文化財 野木宿道標
 本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、栃木へ向かう日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思われる。
 なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村への侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より太平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内としての性格が強く、江戸時代の人々の太平山神社に対する信仰の厚さを知ることができる。

 野木町教育委員会

古地図ではこの道は栃木に通じている。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←が道標のあるところ。○が栃木に向かう道。
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JR古河駅から小金井駅まで。本陣跡。高札場。松並。・・・(「日光道中」をゆく。その27。)

2016-06-11 13:43:02 | 日光道中
 6月4日(土)。晴れ後薄曇り。
 7月までに何とか「日光道中」を制覇しようと思い、しゃかりに出かけています。ただ梅雨入り。そうタイミングよく出かけられるか?
 今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。距離はそれほどではありませんでしたが。

 (8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
    

高札場と本陣
 日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化4年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本をはじめ幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は117・5坪(約400平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足25人、馬25匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも3~4軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は5間4尺(約10メートル)ほど、延長17町55間(約1850メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。

 平成元年3月  古河市教育委員会

通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。

そこから宿内をかえりみる。

本格的に歩き出します。行灯風のモニュメント。    

智の大老 土井利勝
 土井利勝(1573~1644)は、江戸幕府初期における最大の実力者にして16万石の古河藩主である。後の2代将軍、徳川秀忠の誕生と同時に近習となり、年寄(老中)として常に政権の中枢にあった。秀忠没後は、家光政権下で大老に就任、引き続き幕政を支えている。
 組織の未熟な江戸初期の幕府にあって、利勝が取り扱った事項はきわめて多く、その活動ぶりから知謀の人と称された。高い政治力・行政能力を有する利勝のもとに権力・権限が集中するのは当然であるとしても、その影響力の大きさから利勝が徳川家康の御落胤であるという説まで囁かれていたという。また、古河藩主としては古河の城と町を大規模に拡幅整備、天守に相当する「御三階櫓」を建造した。近世城下町「古河」の完成にも貢献したのである。

永井直勝 古河の町並み整備のさきがけ
 江戸時代、日光道中を行き交う旅人たちが、往還随一と絶賛するものに、古河藩領の道沿いに植えられた松並の景観があげられる。その美観を生み出したのは、江戸初期の古河藩主、永井直勝(1563~1625)であった。元和8年(1622)、7万2千石の古河城主となった直勝は、同3年、神君徳川家康の日光改葬に伴う交通量の増大に備えて、古河城及び城下を通る日光道中の整備を急速に行っている。領内の街道沿いに松を植樹、また、古河城御成門を築造するなど、現代風にいえば、直勝はその後たび重なる将軍の日光社参で大勢の人々を受容するにふさわしい町並み・景観造りを果たした。
 なお伝存する人差し指の描かれない肖像画は、小牧長久手の戦いで敵将の池田恒興を討ち取るときに負ったとされる傷をとおして、彼の武功を如実に表現している。文武に秀で、家康に重用された好男子、永井直勝。市内の永井寺に現存するその墓は、林羅山の頌徳碑と並び、家康に足を向けぬように日光に北面して建てられている。

この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。

      

日光街道古河宿道標
 寛永13年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参などの往来でひときわ賑わうようになった。
 日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
 この道標は文久元年(1861)に太田屋詮六が願主となり、八百屋議左衛門ほか11名によって建てられたもので、常夜灯形式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外・梧同・選堂という父・子・孫3人の書家の揮毫である。

 平成20年1月  古河市教育委員会

     

 この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。


「よこまち柳通り」。

 この沿道には古いおうちがいくつかあります。川魚料理・うなぎの「武蔵屋」。
    

さらに、  

「大和屋薬局」。

宿場の出口付近。左手には「本成寺」。

旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。

(9:15)振り返って宿内を望む。

 (9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
    

 塩滑地蔵は自分の具合の悪いところに塩を塗ると治るということで、治ったお礼に塩を奉納するらしい。

「松並」という地名が。この辺りも松並木があったようです。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○が日光道と筑波道の分岐。→が松並木が続く旧道。。

 (9:33)しばらく進むと、野木交差点で現在の国道4号線に合流します。そこに、「野木町煉瓦窯」の大きな案内板があります。
             


旧下野煉化製造会社煉瓦窯(国指定文化財)【通称:野木町煉瓦窯】
 かつて野木町の近代産業を支えた旧下野煉化製造会社の工場の一部。国の重要文化財に指定されている煉瓦窯は、「ホフマン式円形輪窯」といい、明治23年に作られました。
現存するものの中で唯一完全な形を保っている貴重な産業遺物です。
外形は16角形、高さ約34メートル、周囲は約100メートル。
明治23年から昭和46年までの約80年間、多いときで月408,000本もの赤レンガを焼き上げました。


 ここで製造された赤煉瓦は東京駅舎の一部に使用された他、日光金谷ホテルにも用いられましたそうです。

 この手前辺りで、茨城県から栃木県に入りますが、特に県境の標識は気づきませんでした。
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