おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小渕一里塚。追分。北緯36度線。「九品寺」道標。・・・(「日光道中」をゆく。その14。)

2016-05-24 23:18:16 | 日光道中
「新町橋」を渡ってしばらく先の交差点を左斜めに。
                      

その先、右手に「小渕一里塚跡」碑と「庚申塔」。

 日光から江戸に向かうとすぐ見つかりますが、東京から来ると、見逃してしまいそうな位置にあります。
                         

 前方にY字路。ここは、「日光街道」と「関宿(せきやど)往還との追分。
                         

(10:16)大小二つの道標があります。      

 右の小さな道標は宝永6年(1709)のもので、「右方 せきやど道、左方 あふしう道」と刻まれています。左の大きい道標は宝暦4年(1754)のもので、正面に「青面金剛」左面には「左 日光道」と刻まれています。
                         

 「せきやど道=関宿往還」は「日光東往還」と呼ばれ、水戸街道・小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道・石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する街道で
 この地点を通っていたわけではなく、この追分が直接「せきやど道」そのものとの分岐ということではなさそうです。

右手には白壁の塀に囲まれたお屋敷。

来た道を振り返って望む。

 そのすぐ先で「国道4号線」に合流し、さらに「国道16号線」と交差します。
                             

                       (10:22)「東京から37辧廛櫂好函

左手奥に「観音院」というかなり古びたお寺。

その先で、春日部市から杉戸町に入ります。

左手には梨畑。

 (10:35)その先の駐車スペース手前には「北緯36度線」の地球儀のモニュメント。
                       

    

年季の入った「解説板」。

 「すきすきすぎーと36」。同じ緯度線上にはチンタオ、ナッシュビル、ラスベガス、グランドキャニオン、テヘラン、杉戸町、ジブラルタル、地中海、カラコルムがあるそうです。

しばらく進んでから、左の道に入ります。
                      分岐点には家庭用?スロット、パチンコ台を並べたお店があります。

しばらく行くと、左手に「九品寺」。

(10:53)境内には「日光街道」の道標があります。

    

日光街道の道しるべ
 この道しるべは、天明4年(1784)堤根村の農民42人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この向かい側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人が見ながら旅を続けていたと思われる。
 この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという、三尸(さんし)を除いて、青面金剛に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
 なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。

 杉戸町教育委員会

    

 また、道標の左下には几号水準点が刻まれています(○のところ。「不」)。草加宿のはずれの神社で見たものと同じです。
                  

そこから行き先を望む。

真向かいのおうち。ここが立場だった家? 

地酒の「杉戸宿」を売っているお店。

左手にある立派なお屋敷。

 その先の「堤根(南)」交差点で「国道4号線」に合流します。
来た道を振り返って望む。

                        (11:08)「東京から40辧廛櫂好函
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春日部駅から幸手駅まで。問屋場跡。高札場跡。・・・(「日光道中」をゆく。その13。)

2016-05-23 21:05:09 | 日光道中
 5月20日(金)。
 このところ、「日光道中」にご執心。何しろ関東平野をまっしぐらということで、ほとんどここまで高低差がなく、平らな道をひたすら。ならば、かせげるだけかせいでおこう、という次第。
 今日もそんな気分で、9時45分過ぎから2時10分頃まで。約12劼瞭擦里蝓ところで、春日部市は「彫刻のある街づくり」を提唱していて、駅東口から旧道へ出るまで沿道には素敵な彫刻があちこちに。
 上の作品は、「春 大地からこんこんと湧きあがる水」という作品。

他にも    など。


 街のポイント、ポイントに展示されています。機会があったらじっくりと。(以上、写真は「かすかべ遊学」HPより)

 (9:55)旧道に戻って再開。

埼玉県信用金庫春日部支店前の解説板。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

注:「三枚橋」は、「春日部市民会館」付近にあった橋のようです。



1880年代のようす。


現在のようす。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)東武線「春日部」駅は下方。

シャッターに粕壁宿の絵。

その先に「問屋場跡」の解説板。

日光道中粕壁宿 問屋場跡
 問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は文政9年(1826)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。

 平成27年7月 春日部市教育委員会

    
 その先右手には、「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。お米などを扱うお店のようで、けっこう人の出入りがありました。。

「無洗米専門店 伝統のお米屋「十九代目庄兵衛」 - Rakuten.ne.jp」(www.rakuten.ne.jp/gold/naga-shou)

 残念ながらこの浮世絵は実は東海道の大津宿のものです。


 東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。
 その手前の交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

その交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 

高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 

     新町橋 上喜蔵河岸跡」。

 新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29叩法横幅3間((約5叩砲糧超兇如高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように板橋が架けられた。新町橋の上流には上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬〜8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

    
                       「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。
 
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粕壁宿。脇本陣跡。「ミセと蔵」。クレヨンしんちゃん。・・・(「日光道中」をゆく。その12。)

2016-05-20 22:11:17 | 日光道中

 粕壁宿
 五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、 江戸時代に整備され、日光街道及び奥州街道に設置された宿場町。 江戸・日本橋から数えて4番目の宿場町である。 現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。

 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。その後、江戸時代正保年間(1645年頃)には「糟壁」、「糟ヶ辺」という表記が交互で使われており、元禄年間(1700年頃)に「粕壁」、「糟壁」と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」では「粕壁」と記されている。

 天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、粕壁宿が、日光街道及び奥州街道の宿駅として開設したのは、元和2年(1616年)である。
『日光道中宿村大概帳』によると天保14年(1843年)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は23宿のうちの6番目であった 。
 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、商業の町として近世以降発展した町であった。 江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取った。
 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわったという。日光街道・奥州街道の宿場町であり、また古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。
 一方で、水被害に襲われる土地条件の悪さから、農業不振に悩まされた地域でもあったという。

 江戸・日本橋から約36劼曚鼻ここが一泊目だったようです。1日に9時間ほど歩くのですから、昔の人は健脚ですね。

お店の前の木製ベンチ。「日光道中 粕壁宿」。 

 (13:36)何やら宿場内の案内用の立派な柱。近づくと「脇本陣」とあります。

         

この付近に「本陣跡」の標識があるらしいですが。向こうのデパートは今、改装中。かつては「ロビンソン百貨店」? その後、「西武百貨店」になって現在は・・・。

    
                                 「匠大塚」が入るそうです。これってお父さんの方?

    
                        「新宿」とか「上宿」とかの表示が。

沿道には古くて大きな屋敷が残っています。

来た道を振り返って望む。

    
 (13:46)大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

 その先しばらく進むと「ミセと蔵」という案内表示。
    

ミセと蔵
 中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や、旅籠屋などが多く建ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観のひとつである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。

 平成27年7月 春日部市教育委員会 

    

    

夕方から人が来るというので、今回はここまで。

(13:56)春日部でこの子を外せないでしょう。
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Toritateて何もなしで「粕壁(春日部)」へ。備後一里塚跡。・・・(「日光道中」をゆく。その11。)

2016-05-19 22:10:10 | 日光道中
 先に進みます。このあたりからは旧道らしく曲がっていて道幅も狭く、車もけっこう通り過ぎるので、前にも後ろにも注意しながら歩く必要があります。
 しばらく進むと、東武線の踏切を渡ります。

    

 踏切からしばらく進むと、「草加バイパス」(国道4号線)陸橋下の「大袋駅入口交差点」。左手が東武線「大袋駅」。



沿道には何ヶ所か小さな墓地が点在しています。家の脇にあるのがこの付近の風習なのか?

旧道のようす。

 旧道を進むと「陸橋入口」。ここで「国道4号線」に合流します。
中央奥が来た道(旧道)。

                            「日本橋から30辧廛櫂好函

 そろそろ昼食。しばらく進んで、左に折れて「せんげん台」駅前に。「なか卯」に入ってここで、昼食・休憩。けっこう日差しも強くなってきました。
 再開。(12:26)「新方川」に架かる「戸井橋」を渡ると、春日部市にはいります。
    

正面の「道路表示」は「小山 古河」という地名が。栃木県もそう遠くなさそうですが。
                                 

 「国道4号線」ということで、車の通行量も多いようです。道沿いにはいろいろなお店が立ち並んでいます。自転車通学生が勢いよく通り過ぎていきます。


「武里駅」入口を過ぎて備後という地域に入ります。右側には田園風景が広がります。緑も濃い中に、立派なお屋敷が。
    

 (13:00)その先、「備後(北)」交差点には右手に「備後一里塚跡」碑。
    

碑の裏手は「大落古利根川」。    
                     

大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
 埼玉県に流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。
 その名のとおり徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年(1594年)に会の川が羽生市上新郷で、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。後排水路となり、「大落」とは農業排水を落とすの意味である。
 かつては、加須市川口付近にあった会の川と浅間川の合流点を始まりとしたが、現在の当川の上流は葛西用水路で、久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋が現在の起点である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、松伏町と越谷市の境で中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。

ゆるやかな流れ。畑や住宅地が広がる。

             (13:15)「日本橋まで34辧廛櫂好函

「東武野田線」のガードを過ぎる。

さらに「35辧廛櫂好箸魏瓩、「一宮交差点」を左へ進みます。旧道は、斜め左の道。春日部駅方面を目指します。いよ「粕壁(春日部)宿」。
                      


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←が現在の「一宮交差点」付近。
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イシハラの時には何も言わず、何も言えず。今、かさにかかっての口撃は?

2016-05-18 00:09:41 | 平和
舛添氏批判「ひとごとのよう」 枝野氏、谷垣氏に疑問

 明らかに舛添を降ろし、「橋下」担ぎ上げの布石? アベのえげつない「一石二鳥」作戦。
 参院選に向けた「おおさか維新」との連携作戦とみた。橋下の参院選出馬は無理だと、しからば・・・。
 こうして野党は翻弄されるがまま。
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越ヶ谷宿。塗師屋。鴨場。・・・(「日光道中」をゆく。その10。)

2016-05-17 22:31:03 | 日光道中

             
 越ヶ谷宿に入ってくると、道沿いに古い家屋が残っています。遠くには「栃木銀行」の建物。都内ではお目にかからない銀行。さすが日光道中です。


 道幅は往時のようですが、すっかり雰囲気は近代的。「越ヶ谷宿」を示す標識は見当たりません。唯一、この幟が。


 「越谷本町商店会」は、「越谷」駅の東側を走る旧日光街道(県道54号線)沿いの商店街だ。瓦屋根の蔵造りが印象的な昔ながらの商家や土蔵が立ち並び、建造物によっては驚くほどコンディションの良い状態で残っている。越ヶ谷宿は江戸時代に整備された江戸・日本橋に次ぐ3番目の宿場町で、慶長7(1602)年に徳川家康が奥州街道(後の日光街道)を公道に指定して以降、道沿いに商家や旅館が次々と建てられ街並みが整備された。

    
                      宿場町の趣きを残す旧商家の「塗師屋」。
 黒い漆喰造りの旧家」(小泉市右衛門家)で、かっては「漆」を扱い、江戸時代には呉服商を扱った商家。
日用品や荒物を扱う「鍛冶忠商店」。
 商店会の中程にある「鍛冶忠商店」は1900(明治33)年に建てられた立派な商家で、屋号からも推察される通り当時は鍛冶屋を営んでいた。現在は日用品雑貨・荒物の販売店として業態を変えて営業を続けており、お盆など季節ものの提灯や菅笠、和紙、藁工品(筵、こも、荒縄)など、店頭に並ぶ商品も趣き深いものが多い。

 越谷名物のくわい饅頭が並ぶ「岡埜製菓店」。昔なつかしい手作りの和菓子がガラスケースに並ぶ「岡埜製菓店」は、1892(明治25)年創業の和菓子の老舗だ。ここでしか味わえない越谷名物の「くわい饅頭」は冬場の限定商品で、軒先に「くわい饅頭販売中」の旗がかかげられると季節を感じるという地元客も多い。
 ところ狭しと金物が並ぶ「木下半助商店」。このほか旅籠の名残を感じさせる佇まいの「白屋旅館」、親子3代昔の味を引き継ぎながら毎日出来たての豆腐を販売している「木田とうふ店」、工芸品のだるまや雛人形、桐たんす屋などの商店が点在しており、江戸を往来する旅人で賑わった当時の日光街道の面影残る街並みが続く。

(以上、案内文は、「越谷本町商店会」HP参照)

    

    

 (10:11)「越ヶ谷本町」の交差点を過ぎると、「元荒川」に架かる「大沢橋」で渡ります。「元荒川」は、旧中山道歩きで通った、熊谷駅の南側・久下付近を源流とする川。左には東武線の鉄橋。「元荒川」を右に進むと、「越ヶ谷御殿跡碑」(市旧跡)があります(訪問は省略)。

    

振り返って望む。

 しばらく進むと、北越谷駅前のライオンズステーションタワーに到着します。さらに5分程行くと、東武スカイツリーラインの高架をくぐります。

本来の旧道はこの道のようです。南を望む。

 道なりに進むと、すぐ目の前は「元荒川」に面した「北越谷第五公園」となります。

    

 路傍には、「道標」と二基の石塔。道標の正面には「青面金剛」、左面には「右 のしま」とあります。
       

 この先に「宮内庁埼玉鴨場」があります。
    

 越谷市大林地区にある宮内庁埼玉鴨場は、明治41年につくられた約10ヘクタールの面積を持つ御猟場だ。
 ここでは、天皇・皇族の方をはじめ、外国からのお客さんなどたくさんの人が訪れて鴨の猟を楽しんでいる。
 そもそもなぜ、越谷に埼玉鴨場があるのだろうか。 それはもともと昔から、元荒川の沿岸のあたりに野鳥がたくさん集まり、 江戸時代には幕府や紀州藩の鷹場があった。 かの徳川家康もここの地を訪れ、鷹狩りをしていたそうだ。 それが明治41年になり、正式に宮内庁埼玉鴨場として創立された。
 鴨は渡り鳥なので、毎年秋になるとシベリア方面からエサを求めに日本へ飛んできて、翌年の春に帰ってゆく。 また飛来してくる鴨も、マガモ、コガモ、オオガモ、オシドリなどと種類が多い。 なのでここ越谷にも、秋から春にかけて数えきれないくらいの鴨が埼玉鴨場に集まってくる。



 昭和32年3月11日の新聞記事によると、この日、天皇皇后両陛下や皇太子、皇族揃って埼玉鴨場を訪れた。 多くの越谷市民は両陛下たちが来ることを知らなかったため、この日は沿道の出迎えが少なく静かだったとのこと。
 最近では越谷も都市化され賑やかさを増しているが、 そのような中でも、越谷市環境保全区域となっている宮内庁埼玉鴨場には、 多くの樹木が生い茂り、自然の緑地帯がまだまだ残っており、非常に貴重な場所になっている。 ただし一般の方は、特別な企画(越谷市の市政移動教室など)以外自由に出入りできないのでご注意を。
※鴨場内部の撮影も禁止されています。

参考文献:「越谷の歴史物語(第三集)」1983年3月15日 越谷市教育委員会
文章:「越谷っ子」特派員:阿部智恵美

HPより)

 鴨場は狩猟期以外には地元住民の見学会なども行っているようです。

「公園」と「鴨場」の位置関係。
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東武「新田」から「春日部」まで。蒲生の一里塚。越ヶ谷宿。・・・(「日光道中」をゆく。その9。)

2016-05-15 22:49:59 | 日光道中
 
 5月7日(土)
(8:52)再び東武線「新田」駅から前回の終着点まで戻り、再開。今回は「春日部」駅まで。駅から東に向かい、綾瀬川にぶつかり、前方を望むと「蒲生の一里塚」のこんもりした木立が見えます。

 綾瀬川に架かる「蒲生大橋」を越えて行きます。橋の真ん中が草加市と越谷市の市境。橋のところに高浜虚子の句が。
「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり 俳人 高浜虚子」。 

    

蒲生大橋
 「日光道中分間延絵図(文化3年・1806年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ12間4尺、幅2間1尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
 昭和51年に永久橋に架け替えられた時の橋歴書によると、大正7年6月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和40年及び48年補修整備や重量制限(2邸砲鮖楾圓靴討たが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架け替えられた。
 草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。

 「蒲生大橋」を渡ったすぐ右手の古い木々が生い茂るところが「蒲生の一里塚塚」。
    

蒲生の一里塚
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
 文化年間(1804〜1818)幕府が編さんした「五街道分間絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基ずつ設けられていたことが分かる。
 現在は、高さは2叩東西幅5.7叩南北幅7.8辰療貘Δ琉豐陲世韻、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5辰離吋筌のほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。

 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎

    

 「綾瀬川」と「出羽堀」との間の道を進みます。


途中にあった石塔の「馬頭観音」(右)と「不動尊」(左)。不動尊の台座は道標で「是よりこしがや路」とあります。
       

しばらく進むと、右手に「清蔵院」の冠木門。

 その先で旧国道4号線に合流し、北へ向かいます。かなりの直線距離になります。「日光道中」は現在もあちこちで直線道路になっています。周囲が畑や田んぼの中をまっすぐに進んでいたのでしょうか?



途中にあった「十九夜塔」。

 東武線「蒲生駅入口」交差点を過ぎてしばらく進むともうJR武蔵野線「南越谷駅」になります。「新越谷駅」入口交差点、JR武蔵野線の高架付近。



「久伊豆科学」?「くいず」? 。
 「クイズを科学する」会社でしょうか? よく見ると、「ひさいず」でした。会社名は「久伊豆神社」にちなんだもののようです。

 (9:48)「瓦曽根」ロータリーのY字路で旧道は左へ入って行きます。

     

里程表
東京雷門 三里    草加(草の陰で不明)
浦和   三里半   吉川   〃
大宮   五里    野田   〃
川口   四里    粕壁   〃
鳩谷   三里    岩槻   〃

右側にある「照蓮院」。

 いよいよ「越ヶ谷宿」に入っていきます。

越ヶ谷宿
 江戸時代に整備された宿場町の一つで、江戸・日本橋から数えて3番面の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)。江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。
 越ヶ谷宿は越ヶ谷と大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町であり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。
越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。 元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、 慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。
 越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の合体により完成したという 。
 江戸時代初期、元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。
 越ヶ谷御殿とは、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられた御殿。現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の越谷市御殿町に移築され「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿いの低湿地地帯で、昔は野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠もしばしばこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。
 しかし、明暦3年(1657年)の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用され江戸城二の丸に移された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。
 越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。
 当初、越ヶ谷町の会田一族には、本陣、問屋役持回りなど宿場の要職に集中していた。ところが、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決めた。また、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。
 そのため、越ヶ谷町は商店の集中が見られる地域、大沢町が旅籠機能の集中が見られる地域という特徴的を持った町場を造っていった。
 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。
 飯盛り旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒が集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという。
 越ヶ谷宿は、何度か大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、文化13年(1797年)3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。
                   
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百代(はくたい)橋。松尾芭蕉文学碑。・・・(「日光道中」をゆく。その8。)

2016-05-13 22:31:39 | 日光道中

橋名
 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
 お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。

    
 百代橋から南を望む。                         北を望む。

    
                松尾芭蕉文学碑。

 ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
 只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
 西村本「おくのほそ道」より

《現代語訳》

 今年は元禄二年であろうか。奥州への長い行脚の旅ただふと思いたって、知らない土地の空の下で白髪になってしまうほどの嘆きを重ねたとしても、噂には聞いていてもまだ目にしていない土地(を見たいと思い)、もし生きて帰ってこられたならと、あてもない期待を行く末にかけて、その日ようやく草加という宿場にたどりついた。やせ細った肩にかかる荷物がまず私を苦しめる。
 ただ身ひとつでと出発したのに、紙子一衣は夜の寒さを防ぐものだし、ゆかた、雨具、墨、筆など、あるいは、断りにくい餞別などはさすがに捨てることができなくて、道中の悩みとなっていることはどうしようもないことだ。

「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」

水原秋桜子
 ホトトギス派の俳人として知られる。東京神田生まれ、本名水原豊。獨逸学協会学校(現・獨協大学)、第一高等学校、東京大学医学部に学び、産婦人科医として学位を受けた。
 俳句の世界では、高浜虚子の高弟で、雑誌『ホトトギス』の中心的な俳人であった。彼と草加との関わりは昭和初期にさかのぼる。東京から春日部の安孫子医院へ通勤していた秋桜子にとって、草加は通り道であった。当時の草加は、かつての宿場町を抜けると、のどかな農村風景が広がっていた。「草紅葉草加煎餅を干しにけり」「蝉時雨草加の町はなほありぬ」「畦塗りが草加の町をかこみける」。秋桜子は生涯に1万句にも及ぶ俳句を残しているが、その中ではっきりと地名を表した句は少ない。

HPより)

まもなく松並木も終わりを告げます。振り返って望む。

「今様草加宿」。

(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。

草加と「おくのほそ道」
 俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
 この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
 平成8年3月吉日

    

 もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。う〜ん、「中山道」軽井沢から先はしばらくほっておいて、まず「日光街道」を制覇しようかな。約150劼領皇のはず。11日か12日で歩ければ、と。

日光街道(日光道中)
 江戸時代に設けられていた五街道の一つ。
 江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。
 道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。
 現在も国道4号(宇都宮市以南)と国道119号の通称として用いられる。
 日光街道は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 - 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備されている。
 もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 - 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置されている。宇都宮城下では城主本多正純の下で宇都宮城の整備と町割りが行われ、その西部に宇都宮宿が新たに設けられた。
 日光街道は旧奥州道を辿って北上し、宇都宮城の手前の不動堂付近で古道奥州道から外れ、城の西側方面に一旦折れた後に北上する経路が取られ、宿内の新石町と伝馬町、本郷町の界隈に新奥州街道との追分が設けられた。
 ここより奥州街道は東進し、日光街道は北進する。かつて沿道には杉の木が植えられ、特に松平正綱は約20年に亘って植樹を続けたといわれている。現在も栃木県日光市の一部区間に日光杉並木として残されている。
 日光西街道または日光中壬生通りと呼ばれる街道は、小山宿(現小山市)北部の馬頭観音堂付近(喜沢村または木沢村)で分岐し、壬生城下壬生宿、鹿沼城下鹿沼宿などを経て今市宿に至り、ここで再び日光街道にもどる。
 日光街道の敷設の目的として、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣と云われているが、もともと五街道を計画したのは徳川家康であり、その際に日光山の参詣を目的とする街道を徳川幕府の政策上の重要路線としていたとは考えにくい。
 実際、徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城下の本郷追分から日光御成街道を通るのが通例であり、幸手宿までの区間は日光街道は使われておらず、また小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生道および日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられており、このことからも、本来江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備されたものであることが容易に推察される。
(以上、「Wikipedia」参照)
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曽良、芭蕉像。名勝「草加松原」。綾瀬川。・・・(「日光道中」をゆく。その7。)

2016-05-12 20:07:03 | 日光道中
 (12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。

 解説板。

松尾芭蕉翁像と河合曾良像
 河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100団離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。

 ぐるりと「日光道中」の宿場名が。
    

「草加せんべい発祥の地」という大きな石碑。

 左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。

               

望楼
 望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。 
 この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。

                         

 芭蕉像は先ほどの曽良像と相対するかのように江戸方向を向いています。

        

国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
 この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
 「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5劼寮仂の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。

 国指定「おくのほそ道の風景地」とは?
    

    

    などです。

 「スタンプラリー」の紹介を。

とき : 平成28年4月29日(金・祝)〜平成29年2月28日(火)
参加特典 :
参加賞…5か所以上の名勝地を巡った方全員に奥の細道むすびの地記念館受付にて粗品(手ぬぐい)をプレゼント

ダブルチャンス賞…5か所以上の名勝地を巡り、応募した方抽選で30人に関係市町の特産品(3,000円相当)をプレゼント
平成28年度応募期限:平成29年2月28日(火)
応募場所:奥の細道むすびの地記念館受付

踏破賞…全ての名勝地を巡った方全員に大垣市特産品(1,000円相当)をプレゼント
受付場所:奥の細道むすびの地記念館受付

お問合せ : 大垣観光協会
〒503-0923 岐阜県大垣市船町2-26-1 TEL:0584-77-1535


(以上、「大垣観光協会」HPより)



「句碑」。
 「巡礼や草加あたりを帰る雁 (高浜)虚子」。子規の句は見逃しました。

「綾瀬川」。

 かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。 
 汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。

  
  
  
1880年代のようす。                   現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「日本の道百選 日光街道」。

 ここから1勸幣紊砲錣燭辰鴇省駄擇瞭擦砲覆蠅泙后ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
 以前、この脇(旧国道4号線)を何回か車で通過したことがあります。そのときに松並木や太鼓橋が印象に残りましたが、歩いたのは初めて。

          
        「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。

若い松並木。50年後、100年後はさぞかし見事な松並木に。

     
          「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原 ドナルド・キーン」。

        

        「おくのほそ道の風景地 草加松原 指定日 平成26年3月18日」。
 日光街道草加宿の北側に位置する草加松原は、一節には寛永7年(1630)の草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられたと伝えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていました。
 平成26年(2014)3月、この草加松原は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、国の名勝に指定されました。今なお、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の時代の雰囲気を色濃く伝える風致景観として、高く評価されたことによるものです。
 元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は門人の河合曾良を伴い、江戸深川を旅立ちました。古歌の名所、由緒、来歴の地を訪ね陸奥・北陸路を旅し、これにより日本を代表する紀行文学「おくのほそ道」を完成させました。
 深川から船で千住に向かった芭蕉は、そこで見送りに来た人たちに別れを告げ、歩みを草加に進めます。

 「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」

 この日は、今の暦では5月16日に当たります。初夏の陽光を浴びながら、芭蕉は旅の感慨を新たにしたのかもしれません。
 芭蕉の旅路を見送った草加松原は、度重なる手入れや補修が行われ、明治維新前後まではおおむね500本前後で推移していました。
 しかし、昭和8年(1933)には、国道4号(現在の県道足立越谷線)の道路拡幅工事に伴い、松の伐採計画が持ち上がりました。また、昭和40年代には、高度成長に伴う公害の影響で、成木は70本程度まで減少してしまいました。なお、このような危機の度ごとに松並木保存の機運は高まり、ことに、昭和51年(19769には市民団体「草加松原松並木保存会」が発足し、同会を中心とした多くの市民による松の保護・補修が行われるとともに、市民と行政が一体となった保存運動によって草加松原は護り継がれ、現在は遊歩道として訪れる人々の憩いの場となっています。
 なお、名勝指定を後世の市民に伝え残すため建立された標識(記念碑)は、草加市ともゆかり深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫になるものです。

 平成27年3月 草加市教育委員会
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草加せんべい。「かおり風景100選」。・・・(「日光道中」をゆく。その6。)

2016-05-11 23:55:51 | 日光道中

 この一画は、「おせん茶屋」。
 街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。
・・・かつて草加町役場、鳩ヶ谷警察派出所などのあった場所である。 

     

かつて一帯は、どこも「関東ローム層」の赤土に覆われていたのでしょう。

「草加せんべいのできるまで」図解。
 現在、市内にあるせんべいの製作所や販売所は60軒以上に及び、名実ともに草加市を代表する名物となっています。製造工程は機械化されつつありますが、昔ながらの天日干しや手焼きも行われています。「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。

 ちなみに「かおり風景100選」とは? (「Wikipedia」より)

1ふらののラベンダー 北海道 富良野市
2 北見のハッカとハーブ 北海道 北見市
3 登別地獄谷の湯けむり 北海道 登別市
4 釧路の海霧(うみぎり) 北海道 釧路市
5 尾上サワラの生け垣 青森県 平川市
6 南部町長谷ぼたん園 青森県 南部町
7 浄土ヶ浜の潮のかおり 岩手県 宮古市日立浜町
8 盛岡の南部煎べい 岩手県 盛岡市
9 南くりこま一迫のゆり 宮城県 栗原市
10 金華山の原生林と鹿 宮城県 石巻市
11 風の松原 秋田県 能代市
12 小坂町明治百年通りのアカシア 秋田県 小坂町
13 大潟菜の花ロード 秋田県 大潟村
14 羽黒山南谷の蘚苔と杉並木 山形県 鶴岡市
15 大石田町蕎麦の里 山形県 大石田町
16 東沢バラ公園 山形県 村山市
17 須賀川牡丹園の牡丹焚き火 福島県 須賀川市
18 郡山の高柴デコ屋敷 福島県 郡山市
19 偕楽園の梅林 茨城県 水戸市
20 今市竜蔵寺の藤と線香 栃木県 日光市
21 日光霧降高原のニッコウキスゲ 栃木県 日光市
22 那須八幡のツツジ 栃木県 那須町
23 草津温泉「湯畑」の湯けむり 群馬県 草津町
24 川越の菓子屋横丁 埼玉県 川越市
25 草加煎餅醤油のかおり 埼玉県 草加市
26 天津小湊町誕生寺の線香と磯風 千葉県 鴨川市
27 山田町府馬の大クス 千葉県 香取市
28 神田古書店街 東京都 千代田区
29 江東区新木場の貯木場 東京都 江東区
30 箱根大涌谷硫黄のかおり 神奈川県 箱根町
31 鵠沼、金木犀の住宅街 神奈川県 藤沢市
32 福島潟の草いきれ 新潟県 新潟市
33 砺波平野のチューリップ 富山県 砺波市
34 黒部峡谷の原生林 富山県 黒部市
35 富山の和漢薬のかおり 富山県 富山市
36 輪島の朝市 石川県 輪島市 魚介類
37 白山神社境内菩提林の杉と蘚苔 福井県 勝山市
38 勝沼・一宮のぶどう畑とワイン 山梨県 甲州市 笛吹市
39 赤沢自然休養林の檜 長野県 上松町
40 松本大名町通りのシナノキ 長野県 松本市
41 飯田りんご並木 長野県 飯田市
42 霧ヶ峰の高原と風 長野県 諏訪市 下諏訪町
43 加子母村の檜とササユリ 岐阜県 中津川市加子母
44 飛騨高山の宮川朝市と古い町並 岐阜県 高山市
45 種蔵棚田の雨上がりの石積 岐阜県 飛騨市
46 豊田香りの公園 静岡県 磐田市
47 牧之原・川根路のお茶 静岡県 島田市 掛川市 御前崎市 菊川市 牧之原市 吉田町 川根本町
48 松崎町桜葉の塩漬け 静岡県 松崎町月
49 浜松のうなぎ 静岡県 浜松市
50 半田の酢と酒、蔵の町 愛知県 半田市
51 答志島和具浦漁港の塩ワカメづくり 三重県 鳥羽市
52 大台ヶ原のブナの原生林 三重県 大台町
53 伊勢神宮参道千年の杜 三重県 伊勢市
54 比叡山延暦寺の杉と香 滋賀県 大津市
55 古窯信楽の登り窯 滋賀県 甲賀市
56 祇園界隈のおしろいとびん付け油のかおり 京都府 京都市
57 宇治平等院表参道茶のかおり 京都府 宇治市
58 伏見の酒蔵 京都府 京都市
59 東西両本願寺仏具店界隈 京都府 京都市
60 法善寺の線香 大阪府 大阪市
61 鶴橋駅周辺のにぎわい 大阪府 大阪市
62 枚岡神社の社叢 大阪府 東大阪市
63 淡路市の線香づくり 兵庫県 淡路市
64 灘五郷の酒づくり 兵庫県 神戸市 西宮市
65 山崎大歳神社の千年藤 兵庫県 宍粟市
66 ならの墨づくり 奈良県 奈良市
67 なら燈花会のろうそく 奈良県 奈良市
68 高野山奥之院の杉と線香 和歌山県 高野町
69 一目十万本の桃の花 和歌山県 紀の川市
70 酒と醤油のかおる倉吉白壁土蔵群 鳥取県 倉吉市
71 石見畳ヶ浦磯のかおり 島根県 浜田市
72 吉備丘陵の白桃 岡山県 岡山市 倉敷市 赤磐市
73 毛無山ブナとカタクリの花 岡山県 新庄村
74 厳島神社潮のかおり 広島県 廿日市市
75 シトラスパーク瀬戸田の柑橘類 広島県 尾道市
76 萩城下町夏みかんの花 山口県 萩市
77 吉野川流域の藍染めのかおり 徳島県 藍住町
78 上勝町の阿波番茶 徳島県 上勝町
79 白鳥神社のクスノキ 香川県 東かがわ市
80 内子町の町並と和ろうそく 愛媛県 内子町
81 西条王至森寺の金木犀 愛媛県 西条市
82 愛媛西宇和の温州みかん 愛媛県 海岸線全域
83 四万十川の沈下橋をわたる風 高知県 四万十市 四万十町 中土佐町 津野町
84 梼原神在居の千枚田 高知県 梼原町 土、草、花、稲わら 通年
85 太宰府天満宮の梅林とクスノキの森 福岡県 太宰府市
86 合馬竹林公園の竹と風 福岡県 北九州市
87 柳川川下りとうなぎのせいろ蒸し 福岡県 柳川市
88 虹の松原潮のかおり 佐賀県 唐津市
89 伊万里焼土と炎のかおり 佐賀県 伊万里市
90 野母崎水仙の里公園と潮 長崎県 長崎市
91 大学山の照葉樹林 熊本県 水俣市
92 河浦崎津天主堂と海 熊本県 天草市
93 別府八湯の湯けむり 大分県 別府市
94 大分野津原香りの森 大分県 大分市
95 臼杵・竹田の城下町のカボス 大分県 臼杵市 竹田市
96 くじゅう四季の草原野焼きのかおり 大分県 竹田市 九重町
97 五ヶ瀬川の鮎焼き 宮崎県 延岡市
98 屋久島の照葉樹林と鯖節 鹿児島県 屋久島町
99 指宿知林ヶ島の潮風 鹿児島県 指宿市
100 竹富島の海と花のかおり 沖縄県 竹富島

という。面白い試みですが、ほとんど行ったことがありません。

「元祖源兵衛せんべい」。

 この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。

    
久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
 草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。
 やや小ぶりな建物ではあるが、宿内では古い形式を伝える町屋建築である。居住部分は後世に建てかえられたが所有者の強い思いから店舗部分が残されてきた。
 外観は平入切妻造り瓦葺きで、いわゆる川越城下に見られる土で厚く塗り籠められる完成された「土蔵造り」とはなっていないが、店舗部分と居住部分が丁の字に組み合わされた形式(町屋建築という)を伝えるものである。
 街道に面して間口(桁行)5間、奥行(梁行)2間半の本体に街道側に差し掛け屋根形式の下屋を降ろしている。屋根は比較的低く抑えられているのは2階に当たる部分が未発達で住むことを意識されなかったためと思われる。・・・正面の出入口には両戸と兼用の「揚げ戸」を用い、全開すれば陽光は店の内部まで届いた。内部に入ると大きな差し桁を縦横に組み合わせ、現代の建築には見られない力強さをみせる。内側から街道を見わたせば太い柱と差し桁が額縁のように光をさえぎりゆったりとした時間が流れるようである。・・・

    

 曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
    
神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号

 石造物に刻まれた「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。
 この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
 その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。
 しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上方の松並木(草加松原)に通じる。
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今様草加宿。本陣。・・・(「日光道中」をゆく。その5。)

2016-05-10 21:51:33 | 日光道中
 しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。

 藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
 街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
 その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
 このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。

 平成26年3月 草加市教育委員会

    

スローライフなまちづくり よみがえれ「今様・草加宿」。

「草加松原」の幟。

 (以下「Wikipedia」参照)
草加宿
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
 慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
 慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
 草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。このころから、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され、
 草加宿は、享保年間(1716年-1736年)から発達し、天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった[9]。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。

※草加せんべい
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。

 ところで、「今様 草加宿」。そこには地元の方々の並々ならぬ思いが込められているようです。





 江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展した草加宿。  その誕生のきっかけとなった街道整備に着手したのが今からさかのぼること400年、 慶長11(1606)年の事です。
 当時の日光街道の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。
そこで、宿篠葉村(今の草加市松江町)の大川図書という人物が、茅野を開き沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。
 この時、沼地の造成に沢山の草が用いられた事から「草加」と呼ばれるようになりました。 その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、 寛永7(1630)年に付近の村々によって草加宿が設置されました。
 こうして誕生した草加宿は、参勤交代や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きなにぎわいをみせるようになりました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で草加宿に歩みを残しています。
 その後、1792年に宿場北端の街道沿いには松が移植され、「草加松原」として知られるようになりました。立地的には、中川・綾瀬川の低平地に位置しており、標高は1.4m〜4.7mで河川の氾濫源であり、稲作に適した土地で、河川・水路が縦横に走っています。その為、灌漑用水の開削や新田開発などを行って江戸幕府の台所を支える穀倉地帯となり、幕府の直轄領としても発展しました。
 当地を南北に貫いた日光街道は、現在、県道足立・越谷線として整備されてますが、高砂1丁目の旧道南側詰から神明交差点にあるおせん公園までの全長約1.5kmが旧日光街道として残されています。  また「今様・草加宿」の対象区域は、国の「地域再生計画」の認定を受けた旧道南側詰から綾瀬川・松並木に至る約134haの区域です。
国の文化審議会は平成25年11月15日に、松尾芭蕉が旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)の1カ所として、「草加松原」を名勝に指定するよう文部科学大臣に答申し、平成26年3月18日、「草加松原」は文化科学大臣から、国の名勝として正式に指定を受けました。
名勝指定は埼玉県内では56年ぶり。長瀞(皆野町、長瀞町)、三波石峡(神川町、群馬県藤岡市)に次いで3件目になります。
 「草加松原」は、芭蕉が草加に足跡を記した頃からその後の時代にかけて松が植え足され、草加市中心部を南北に流れる綾瀬川沿いに、街道の両側に約1.5kmもの松並木にまで成長を遂げています。
幹周りが約2mにも及ぶ古木も含め、川沿いに延びる並木の風景は壮観であり、今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える風致景観の一つとして評価されました。
「今様・草加宿」市民推進会議では、かねてより旧草加宿と松並木一帯の整備と活性化について研究実践を重ねてまいりました。
今回の国の名勝指定によってさらに風致景観の向上に弾みがついたといえましょう。

※草加宿と芭蕉
元禄2(1689)年3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。
 後に日本を代表する紀行文学『おくのほそ道』として結実するこの旅は、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2400km)、150日間の壮大なものでした。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす……」
(月日は永遠の旅人であり、行く年、来る年もまた旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭、また馬の口を取って街道で年老いていく馬方は、毎日が旅であり、旅を住処として生きている)
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず……」と続きます。真の美を求め、身の回りの一切のものを捨てて、草枕の旅に出た芭蕉。悲壮感すら漂う決意のほどがうかがえます。
 深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになるのです。
 芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5〜6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。
きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。
 それから約150年後、天保14(1843)年の調査によると草加宿は戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3km)にわたって家屋が軒を接 し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光街道では千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模で、周辺の交通の要衝として栄えま した。
また綾瀬川では江戸中期ごろから舟運が始まり、魚屋河岸・甚左衛門(札場)河岸・藤助河岸が設けられて発展しました。

(以上、HPより)

 「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になうまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。

    

                   
草加宿の本陣
 江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

 大川本陣(〜宝暦年間)
 清水本陣(宝暦年間〜明治初期)

 この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
 近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
 本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。
 当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。

 「今様・草加宿」市民推進会議

注:「宝暦年間」=1751年〜1764年。
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大曲。草加宿へ。・・・(「日光道中」をゆく。その4。)

2016-05-09 18:38:52 | 日光道中

「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。

一直線に伸びる「旧日光街道」。

(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。

「スーパーボーヤ」。

「増田橋」。今は暗渠。停留所名にのみ? 

「淵江小学校」を過ぎると、一直線に進んだ道にも変化が。

 (9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。

    
                       左手角の「セブンイレブン」から見たところ。右手奥の道が旧道。ここで買い物をして、小休止。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 「大曲」という地名は「旧水戸街道」にもあります。綾瀬から東に行ったところ、街道が大きく曲がっています。こことよく似ている道筋です。

    

 わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。

    

(10:24)草加市入り。

 東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。



「広報そうか 第363号 昭和56年6月20日号」より。

孝行娘の哀れな最期 <6> 火あぶり地蔵(瀬崎町)

 旧4号国道(県道足立・越谷線)沿いの瀬崎町と吉町との境に、「火あぶり橋」という橋があります。橋の際に通称“火あぶり地蔵”と呼ばれる地蔵堂が建っており、昔の処刑場跡と伝えられています。今回は、この地蔵堂にまつわる悲しい話を紹介します。
 昔々、千住の掃部(かもん)宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生けんめい働きました。生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。
 ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。
 お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。
 幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。
 しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。
 お地蔵さんは現在、旧4号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。

(以上、「」HPより)

 ここにも旧日光街道にまつわるお話が残っているというわけです。

「東海道」や「中山道」でも見かけた石造り。

(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。

「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。

小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。

 目の前の信用金庫のベンチでおにぎりを食べながら小休止。

 さて、その先の左手に立派なお屋敷。


「草加神社」案内板。神社は東武線を越えた西側にあります。

宿内のようす。

 駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
    

黄色いポールのある道が「葛西道」。

交差点の歩道の真ん中付近にある「草加町道路元標」。

その先の左手には、「八幡神社」。

「獅子頭雌雄一対」という草加市指定有形文化財があるそうです。

・・・大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として神幸に供奉したものである。しかし、現在では山車に乗せて曳いたという以外に伝承は残っていない。
 かかる大型の頭では、重量の関係もあり彫技に変化をつけることは至難であるが、江戸末期の平面的な技法によって構成されている。この彫工も男獅子の角には、かなり苦心したらしく宝珠との釣り合いもあり、中央に一角の太い角は、獅子の頭部の一部が岩のように盛り上がったごとく彫り込んであるが、獅子の角としては珍しい手法である。塗りは、布着せ黒漆塗りとし、唇・鼻の穴・舌は朱漆塗り。巻毛・耳・宝珠等は金箔押しとし保護のため生漆をかけてある。本体は寄木工法からなり、材は檜であろう。歯は上顎から二本の牙がでて歯の並びに変化を与える古い手法を用いている。
 このような大型の獅子頭は、遺構も少なく貴重なものである。

  昭和56年3月 草加市教育委員会
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「横山家」。「名倉医院」。梅島駅。・・・(「日光道中」をゆく。その3。)

2016-05-07 21:35:20 | 日光道中

 このあたりには昔ながらの家屋がちらほら残っています。重厚な建物の「横山家」住宅も健在です。

    

横山家住宅
 宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道筋に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
 敷地は、間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。
 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。

 平成2年 東京都足立区教育委員会

今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

千住名物「かどやの槍かけだんご」

そろそろ「宿場通り」もおしまい。

  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

 旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、ここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。


「荒川」の土手にぶつかります。

来た道を振り返って望む。右手奥が千住宿方向。 

荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」

 分岐点から少し北に進むと、骨接ぎで名高い「名倉医院」。

奥に昔のままの建物が残っています。



千住名倉医院
 名倉医院は江戸時代以来、骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。
 名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(1716〜36)頃千住に移り、明和年間(1764〜72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
 現在、江戸中期から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。
 かつての名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。

 平成23年3月 足立区教育委員会

土手から千住宿方向を望む。

河川敷を望む。

荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。現・日光街道「9辧廛櫂好函

 橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
               

「旧日光街道」。ここからは北に向かいます。

 この付近の変遷。「今昔マップ」より。Aが千住宿のはずれ、Bが「川田橋」付近。






現在。

ほぼまっすぐな道を北へ。

 しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道  是より二丁行く」という道標。


整備された道路。電柱には「旧日光街道」。

右手にはショッピングタウン「KARIBU」。

 「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。

                         ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3丗海ます。
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掃部宿。一里塚跡。本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その2。)

2016-05-06 22:18:01 | 日光道中
 「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。

千住掃部宿
 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
 昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。

 平成27年3月  千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会

「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。
 看板には「かもん宿診療所」。
 なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。

 ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)

千住宿
 日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
 水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
 千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
 当時の千住宿は、現在の足立区千住一〜五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
 文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
 『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
 千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
 江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
 明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
 慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』

 農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠が見られることから、現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近の景色という。

『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』

 現在の千住仲町から千住関屋町付近に相当し、人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道となり、中央には千住仲町の氷川神社が描かれているという。


 「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。

『奥の細道』

・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

  行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)

これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。

 時にどこで舟を上がったのか、が話題になります。「(千住)大橋」の南岸か、北岸か? 南岸は荒川区、北岸は足立区。どちらも譲らないようですが。

 もう一人、小林一茶も忘れてはならないでしょう。直接、日光道中・千住宿には関わりませんが、足立区六月にある炎天寺には小林一茶の句にゆかりあるものが伝えられています。

「やせ蛙まけるな一茶是にあり」(文化13年4月)

「蝉なくや六月村の炎天寺」(文化13年9月)

 さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。

「高札場」跡。

「一里塚」跡。

「問屋場・貫目改所」跡。

        
千住宿問屋場・貫目改所
 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には馬寄場がありました。問屋場は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150圈砲鮴僂爐繁槐蓮20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話もあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は日本橋から2里8丁(8.7辧砲任垢ら、江戸時代の人にとっては気楽に出かけられる距離だったのでしょう。

 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。

 平成18年3月 足立区教育委員会
 
 北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
 

その付近からの街並み。

通りの一画にある「千住ほんちょう公園」。

案内図。以前来た時よりもきれいに。

「千住宿高札場 由来」解説板。
・・・このような高札場は、明治の初期まで幕府の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口のところに設置されていました。
 これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいと思います。

 昭和63年11月吉日 千住の街並み景観を考える会

 お店のシャッターには日光道中の宿場にちなんだ絵柄が描かれています。
    

 なかなか「千住宿」から出立できません。   
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やっちゃ場。千住宿再訪。(京成「千住大橋」駅から東武「新田」駅まで。「日光道中」をゆく。その1。)

2016-05-04 20:24:37 | 日光道中
 5月某日。久々に中山道へ、と思い立ち、朝早くから準備していざ! 日暮里駅の窓口で。「軽井沢」まで新幹線で往復、「大人の休日倶楽部」を利用なので、「3割引」。ところが、今は、期間外! との表示。
 家を出る前に気がつかず。世間はGW、いかに浮き世離れしていたか、如実に思い知らされるハメに。今日はあきらめて、と。それとも、行く先を変えて「甲州街道」あるいは「日光街道」。なら、近場で千住宿から草加宿まで歩くかと、いったん家に戻ってPCで「日光街道(道中)」の歩き方を調べて、出直すことに。
 「中山道」には今度、いつ行けるのか? まずこっちを先に歩いてみるか? もともと東武線沿線、まるっきり縁がないわけじゃないし、特に「北千住」には昔、縁があったし、ま、いいか。
 というわけで、今回は、急遽、「日光街道」編。正式には「日光道中」というらしい。

 「千住宿」はかつて2回取り上げています。それを再掲。

かつての町並みが再現されています(昭和5年当時)。道路の両側に青果商などが並び、賑わいを見せていました。市場は京成線の南側に集約された大きな敷地に移り、戦災では壊滅的になりました。その後、家主が変わったり、代替わりなどしてずいぶんと街の様子も変わりました。それでも、何代も続いて残っている店も、まだまだあるようです。

現在の建物にやっちゃば当時の店名が掲げられています。家主は同じでも違う商売になっていることや他の方の店舗等になっているのも多い。

「千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑」(河原稲荷神社境内。明治39年建設)。

やっちゃば(街道沿い)にある「千住宿歴史プチテラス」。


その入り口にある芭蕉の句碑。「鮎の子のしら魚送る別哉」。「奥の細道」に旅立つ芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てたもの。

五代目が経営する蒟蒻問屋さん。市場に関係する商店も多くあるようです 

 北上すると次第に北千住の賑やかな商店街になります。北千住駅の近く、現在の日光街道とにはさまれた地域。そこが旧千住の宿場の中心。
 千住大橋「やっちゃ場」から広い「墨堤通り」を渡ると、千住仲町。そこから北へ向かいます。ここから荒川の土手までほぼ直線で、歩行距離約1.4辧 
 千住は、江戸時代の頃から日光街道・奥州街道の第1宿として整備され発展してきました。現足立区北千住(ただし、北千住という町名はない)。「北」を略して「千住」とも。千住大橋の南、荒川区南千住については「南」を略しません。ここが、「大江戸八百八町」の北限であったようです。
 江戸から一つ目の宿場であり、江戸四宿のひとつとしても数えられました。南北千住を結ぶ千住大橋の北岸を北組・中組(掃部宿)の二つに分け、橋の南に南組(小塚原・中村)を設けこれら3組を合して千住宿と称しました。奥州街道(日光街道とは宇都宮で分岐。)、水戸街道(葛飾区新宿で佐倉街道を分岐)の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わいました。

正面奥が旧「やっちゃ場」通り。

商店もまばらな通り(旧日光街道)。

川魚専門の問屋さん。

賑やかな商店街の一角にある「高札場(の復元)」。

人通りの激しい商店街を抜けると、人影もまばら。

このあたりには昔ながらの家屋がちらほら残っています。重厚な建物です。横山家。

今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

ところどころに残る街道沿いの造りの家。

東・水戸佐倉街道との分岐標。地図で見ると、葛飾区小菅にある「水戸橋」に通じる道になっています。

骨接ぎで名高い「名倉本院」。

奥に昔のままの建物が残っています。

荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」

ガードをくぐった墨堤通りの脇。「掃部(かもん)」の名を付した施設があります。このあたりが「掃部宿」だったのか。慶長(1596-1615)の始めに新田の開発を行い、「掃部堤」ー隅田川(荒川)の堤ーを構築した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)の名にちなんで掃部宿と呼ばれている、とか。「掃部宿排水場」。






 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「千住大橋」から千住宿の北の外れまで。「やっちゃ場」は「大橋」の北側。その先から千住宿。北の外れから東に向かう道が「水戸街道(浜街道)」。

今回の記録

    
 (8:00)「千住市場問屋街(やっちゃ場)」。「旧日光道中」標識と通りのようす。朝早いせいか、静かな町並み。
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