おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

歌舞伎鑑賞教室。その2。令和4年7月国立劇場。『藤娘』。藤間紫・藤間爽子。華麗なる一族。

2023-06-30 20:24:42 | お芝居

令和4年7月舞踊公演「花形・名作舞踊鑑賞会」より『藤娘』

舞踊として名高い「藤娘」。

    

             

真っ暗な中で幕が開くと、「若紫に十返りの、花を現す松の藤浪・・・」と長唄が始まります。

一瞬にして舞台に明かりが灯ると、大きな松の木に絡んだ藤の花が一面に咲き誇り、その下には黒塗りの傘を被って藤の枝を持った美しい娘が立っています。

実はこの娘は人間ではなく、若い娘に姿を変えた藤の精なのです。

傘を被ったまま一時舞い踊った後、松の陰に姿を隠した娘は、今度は傘を手に持って藤の花房をかき分けて姿を表します。

           

そして近江八景の情景を読み込んだ長唄の詩に合わせて、初々しい娘の浮気な男への恋に身を焼く女心を見せる「クドキ」の場面になり、艷麗に舞い踊ります。

            

再び松の陰に隠れた娘は、今度は傘を持たず衣装を変えて登場し、この舞踊の見せ所でもある「藤音頭」を披露します。

藤の花の精が娘の姿で現れ、女心を踊る作品です。とりたててストーリー展開はありませんが、衣裳を何度か着替えて、娘の愛らしい姿を見せていきます。笠を使った振りでは、「男ごころの憎いのは他の女子(おなご)に……」と男性の浮気性をなじる詞章で、すねてみせるなど、切ない反面可愛らしい恋心が表現されます。次の「藤音頭(ふじおんど)」は見どころの1つで、お酒を少し呑まされて酔い、恋しい男性を思う踊りです。鉦(かね)という金属音のする打楽器が醸し出す、美しくリズミカルな曲を背景に、男性が帰るというのを引き留めたりする女心満点な振りがついています。両肌脱ぎ(もろはだぬぎ)をした格好になると、テンポのよい曲調になり、明るく楽しく踊ります。「まだ寝が足らぬ……藤に巻かれて寝とうござる[まだ眠いので、藤に巻かれて眠りたい]」という詞章で、寝そべったりする仕草が可愛らしい部分です。やがて鐘の音が聞こえてくると、娘は藤の枝を担ぎ夕焼け空に飛ぶ雁を見上げるのでした。 

              

ここからは、下世話話になりますが。

                        (「」より)

祖母は日本舞踊の紫派藤間流・初世家元藤間紫。祖父は藤間流宗家の舞踊家で人間国宝二世 藤間勘祖(六世 藤間勘十郎)。父は元俳優藤間文彦。母は元女優の島村佳江。兄は元ジャニーズJr.で日本舞踊家の初世藤間翔(藤間貴彦)

幼少より祖母・初世家元藤間紫に師事。7歳で歌舞伎座の舞踊会で初舞台を踏む。小学4年生の時に舞った「羽根の禿(はねのかむろ)」は二代目市川猿翁が絶賛し、藤間紫が嫉妬したほどで、早くから後継者に指名されていた。藤間紫の死後、二代目を襲名した猿翁に師事してきたが、弟子からも技術が認められ、2018年に三代目襲名が決まった

女優としては、2017年に連続テレビ小説ひよっこ」(NHK)でデビュー。2018年には野田秀樹脚本、中屋敷法仁演出の舞台「半身」で桜井玲香とW主演を務める。

2021年2月28日、東京の日枝神社で三代目藤間紫を襲名し、日本舞踊の紫派藤間流家元となった。兄の貴彦は初代・藤間翔(かける)を襲名している。襲名披露公演は2022年1月に国立劇場で行われる。女優業は当面、藤間爽子名義で続ける意向を示した。師匠の二代目市川猿翁(二代目藤間紫)は「初世の遺言通り、『孫の爽子が年ごろを迎えた暁に、3代目家元として藤間紫を襲名させて欲しい』という遺志を実現する時期に達したと思い(中略)継承させる運びとなりました。それに伴い、妹を支えて共に芸道に励む覚悟をした兄の貴彦には、私の生き様を示す『天翔ける心』から藤間翔と命名し、初代として名乗らせることを決めました」と文書でコメントしている

2022年1月、延期になっていた紫派藤間流舞踊会を国立劇場にて開催し、三代目藤間紫を襲名披露。『京鹿子娘道成寺』白拍子花子、『道行初音旅』静御前などを務めた。(この項「Wikipedia」より)

華麗なる一族。

市川照之(市川中車)とは叔父と姪の関係。図にはないが、今、世間を騒がせている市川海老蔵とも遠縁に。  

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歌舞伎鑑賞教室。令和4年7月国立劇場。『紅葉狩り』。三橋鷹女・この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉。

2023-06-29 20:53:27 | お芝居

このところ、出歩く機会がなく、ブログも滞りがち。

そこで、「YouTube」を視聴。第三回目の「歌舞伎鑑賞教室」でも開いてみることに。

今回は、去年行われた夏の「歌舞伎鑑賞教室」を。

         

紅葉が夕日に照り映える戸隠山。余吾将軍平維茂(よごしょうぐんたいらのこれもち)が従者の右源太、左源太とともに紅葉狩にやって来る。そこには宴を張る先客がいた。聞けば、やんごとない女人が侍女たちとお忍びでお出掛けとのこと。維茂が遠慮しようとすると、その高貴な姫自ら、是非ご一緒したいと誘う。そこまで言われてひいては男がすたる。言われるままに維茂は宴に加わることにする。

美女に美酒

さっそく酒よ、肴よと下へも置かぬもてなしぶりに、盃を重ねる維茂。腰元が舞を舞い、調子に乗った右源太、左源太も滑稽な踊りで座を盛り上げる。


なおも一献とすすめられた維茂は、その代わりにと姫に舞を所望する。恥ずかしがる姫だったが、局に手を取られ舞い始め、やがて二枚の扇をつかってあでやかに舞いすすめてゆく。

だが、ふと見ると美酒に酔いしれたか維茂はうたた寝をしている。姫は用心深く何度か様子を窺い、維茂が熟睡したことを確認すると表情を一転させ、維茂と従者を残して一同とともに山へ姿を消す。

山神の警告

入れ替わりに眠りこける維茂主従の前に現れたのは山神である。この山奥には鬼神がいて人を取って喰う、こんなところで寝ていては命は風前の灯同然と、山神は杖を突き、肩をゆすり、地団駄踏んで維茂らを起こそうと躍起になるが、一向に目覚める気配がない。とうとうあきれ返って帰ってしまう。

鬼女の出現

夜風にようやく目が覚めた維茂は、姫の正体を見届けようと山奥へ向かう。従者二人は恐れわななき、ころがるように山を下りていく。やがて維茂に追われて出てきたのは、形相凄まじい鬼女。

    

勇猛な維茂もたじたじと押されていくが、平家に伝わる名剣小烏丸(こがらすまる)の力を借り、鬼神を追い詰めていく。

信濃国の戸隠山にがおり、平維茂によってそれが退治されたというのが共通する伝説の要素である。その鬼は女性であり、名前を紅葉(もみじ)であるとするものが一般に流布されている。

室町時代から江戸時代にかけて、浄瑠璃歌舞伎では「紅葉狩」(もみじがり)という題名で描かれつづけ、平維茂が戸隠山におもむき、そこで出会った紅葉見物の美しい女性たち一行に出遭うという展開を設けている。その女性たちの正体が戸隠山の鬼、鬼女・紅葉であるとする。をもとにして作られた河竹黙阿弥による歌舞伎『紅葉狩』(1887年)は、紅葉に相当する鬼の名を更科姫(さらしなひめ)としている。

※鬼無里での紅葉伝説は他と違い、紅葉が村人に施した事が伝えられている。一般には主人公の「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれる。 

(この項、「Wikipedia」より) 

美女が鬼に変身して暴れる、という意外性が面白い。当然、同じ役者が演じるわけですが。

華やかな舞台が繰り広げられます。

女性の俳人・三橋鷹女の有名な句、この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」を想起させます。

燃えるような夕紅葉には鷹女の句を通して、ゾクゾクとさせるものがあります。

・・・

女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和47年(1972)、73歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 
三橋 鷹女(みつはし たかじょ)は、女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれました。

女性の情念を詠む前衛的な句風で、表現の激しさは、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。以下のような、まさに鬼気迫る句を残しています。

老いながらつばきとなつて踊りけり
墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし


注:鞦韆=ぶらんこのこと。

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鎌倉野草園・鎌倉公園。北総線・新柴又駅下車。ヒツジグサ。ヤブカンゾウ。キキョウ。ナデシコ。ハンゲショウ。ブドウ。トクサ。ガマの穂。メダカ・フナ。・・・

2023-06-26 20:21:16 | じじばばがゆく

6月25日(日)。晴れ。

久々に出かけました。以前に来た時とのすっかり変わって、ずいぶんとこぎれいになっています。

案内板。

ひつじぐさ。

              

やぶかんぞう。

                

半夏生(はんげしょう)。

                 

ぶどう棚があります。

公園ではあまり見かけない。

ガマの穂。

小さな流れを配置し、水辺風に仕立ててあります。

 

池では子供たちが、

東側は、公園になっています。

付属施設。

水槽にはフナやメダカが。

桔梗(ききょう)。秋の七草。

撫子(なでしこ)。これも秋の七草の一つ。

バックは、とくさ? 

                

暑いさなか、休日のせいか、親子づれが屋内外で遊んでいました。

 

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その4。激しい通り雨。江ノ電。車窓から。由比ヶ浜。JR鎌倉駅。

2023-06-25 19:57:33 | 境川

振り返ると、江の島上空は晴れてきそうですが、

行きのときの記念碑付近は、ビショビショ。

そのまま、藤沢駅に戻りました。すっかり晴れてきます。

このまま帰るのも、もったいなので、藤沢から江ノ電で鎌倉に行くことに。

江ノ電「藤沢駅」。

鎌倉から江の島、また途中駅まで何度か乗ったことがありますが、全線通して乗るのは、初めて。

4両編成ですが、江の島駅付近からけっこう混んできます。

路面電車風に走るところも。

車窓からの湘南の海。

長谷寺のアジサイなどちょうど満開の時期。外国人観光客などどんどん乗ってきます。

席を立って外を撮るわけにもいかず、そのまま鎌倉駅に。

久々に海でも眺めようか、と。

由比ヶ浜まで歩きます。

                            逗子方向。

稲村ヶ崎方向。

 海岸では、「海の家」づくりが盛んに行われています。

トンビが低空飛行。              

以前、弁当を広げたところ、おかずを見事にさらわれたことがありました。

海開き前ののどかなひととき。

JR「鎌倉駅」に戻る途中に、「畠山重保邸趾」。

畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ嘗テ北条時政ノ婿平賀朝雅ト忿事ス朝雅其ノ余怨ヲ蓄ヘ重保父子ヲ時政ニ讒ス時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス乃チ実朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ囲ム重保奮闘之ニ死ス時ニ元久二年六月二十二日此ノ地即チ其ノ邸址ナリ其ノ翌年重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵国二俣川ニ闘死ス 大正十一年三月建 鎌倉町青年団

JR横須賀線「鎌倉駅」。

こうして、中途半端な江の島の旅を終了します。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その3。昔からの街並み。背後には切り立った崖。モース。江の島ヨットハーバー。一天にわかにかき曇る。

2023-06-24 19:31:17 | 境川

島の東側、海沿いにある昔からの集落を歩いてみます。

 

細い路地の両側に家が並ぶ。

                  背後は森(江島神社)が高く広がる。

藤沢市のマンホール。

         江の島モース臨海実験所跡推定地。

エドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年)7月17日~8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け、海産動物の研究・指導を行い、我が国の近代動物学の基礎をつくりました。

※エドワード・シルベスター・モース

アメリカの動物学者。明治10年6月日本腕足類研究のため来日して、江ノ島で研究。
1度帰国し、翌年再び、来日、東京理学部で動物学の初代教授となった。横浜から東京への車窓から大森貝塚を発見、その後発掘を行って報告書を刊行した。これによって、近代科学としてのわが国の考古学研究の基礎がつくられた。・・・

モースは、大森貝塚発見で知っていましたが、江の島にも縁があるとは。

海岸側に出ます。背後は切り立った岩山が続きます。

          

江の島の今昔。

                     1880年代のようす。集落は海に張り付くように。

                     2010年代のようす。

海に広がっているのは、「江の島ヨットハーバー」。

昭和39年(1964)東京オリンピック開催に際し、日本で初めての競技用ハーバーとして建設されました。
最近では東京2020オリンピック競技大会のセーリング競技会場としても使用され、記憶に残るレースが繰り広げられました。
メイン施設のヨットハウスのほか、クルーザーヨット泊地、ディンギー陸置場などがあり、 ヨットマンで賑っています。一般の人はこれらの横にあるセンタープロムナードを散策したり、さざえ島に登ったり、タイドプ-ルで潮遊びなどが楽しめます。

(この項、「」HPより) 

さて、昼食のお店はたくさんあって、迷いましたが、弁天橋正面にある、大きな「レストラン貝作」で。

のんびりと窓から。

ところが、突然黒雲が広がってきます。

そのうち、大粒の雨が降ってきました。

     

お店を出て、参道を上がりかけましたが、けっこう雨脚が強くなってきたので、これ以上は止めようと弁天橋を戻ることに。

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沖縄「慰霊の日」。6月23日(金)。沖縄全戦没者追悼式。沖縄というのは非常に力のある平和製造工場なのだby池澤夏樹。

2023-06-23 18:22:48 | 平和

      

沖縄は今日、「慰霊の日」を迎えました。

沖縄は太平洋戦争において、日本国内で唯一の地上戦が繰り広げられた場所。

昭和20年6月23日未明、沖縄防衛第三十二軍司令官・牛島満中将と同参謀長・長勇中将が糸満の摩文仁にて自決したため、この日を実質的な沖縄戦の終結日ととらえて『沖縄慰霊の日』に制定。戦没者の霊を慰め、平和を祈る日として1991年に沖縄県内の公休日として定められました。

この日は平和祈念公園にて『沖縄全戦没者追悼式』が行われ、さらに、同時に県内各所でも慰霊祭が行われました。二度と悲惨な戦争を繰り返すまいという沖縄の願いを全世界に伝えています。

沖縄戦では20万人以上の戦死者を出し、その半数に近い9万4000人余りが一般県民や子供という悲惨なものでした。

追悼式が行われた糸満市摩文仁の平和記念公園にある「平和の礎」には、日米の兵隊、沖縄の民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった人達の名前が刻まれています。本土の日本人の名前も、アメリカ人の名前も男ばかり。しかし、沖縄は、半分が女性です。

米軍の空襲によってもたくさんの本土の街並みが破壊されましたが、昭和20年(1945)3月10日・「東京下町大空襲」が典型的なように、その犠牲者も多くは、取り残された老人、女性、子供たちでした。広島や長崎への原子爆弾の投下も同様です。

自分たちの住んでいるところが戦場になる、ということはこういうことなのでしょう。

戦後78年。今、米中関係の緊張、台湾有事になったらと、南西シフトとして「沖縄」への自衛隊の部隊配備、敵基地攻撃能力を持つミサイルの配備も取りざたされています。

マスコミなどにより、ロシアのウクライナ侵攻による国民の不安感をかきたて、自公政権は、防衛費の大幅な増額も財源を後回しにしてまで、国会で成立させました。結果、アメリカのバイデン大統領からは「俺の言うとおりにさせた」とうそぶかれる始末。・・・

友人達が20日から沖縄辺野古移設反対の座り込み行動に出かけています。4年前、小生も参加しました。

美しい辺野古の海は、反対の声にいっさい耳を貸さず、着実に埋め立てが続けられています。しかし、軟弱な地盤を相手にいつ完成するかも分からない工事になっているような・・・。

今朝(6/23)の朝日新聞。「オピニオン&フォーラム」欄のインタビュー記事で、作家の池澤夏樹さんが登場していました。その示唆的な発言のいくつかを取り上げてみます。

・「歴史というのは、毎年、本を床に1冊ずつ積んでいくようなものだと考えています。1冊積むごとに少しずつずれが生じる。前の年だけを見て新たな本を積むと、ずれがだんだんと大きくなる。ある段階まで達すると、重心が一番下の本から大きく外れてしまい、崩壊する。戦後の最初の1冊は憲法9条だったわけですが、それを見ようとしないから初めに戻れない。敗戦によって日本国憲法ができ、平和国家として再出発して、少しずつずれながらも、よたよたとここまで来た。それが、ここ10年で、ずれがいきなり大きくなったように思います。やはり、本の積み方を是正しようとする力が働かなかった。・・・」

・「沖縄に住んでいた2001年、9・11テロが起きると、沖縄の米軍基地は最高度の厳戒態勢を発し、武装した米兵達がフェンスの外側に銃口を向けた。その年、全国から来るはずだった修学旅行の予定が一斉にキャンセルされました。米軍が最厳戒態勢を敷いている危ない所に子供を送りたくないという学校や保護者の意向でした。そのとき、沖縄にも子供が住んでいることを想像した人が本土にどれだけいたでしょうか。9・11のときは、日本国内に住む人も大きな衝撃を受けましたが、実際に目の前の何かが変わったのは、沖縄だけでした。」

・―戦後の日本が掲げ続けてきた平和主義の旗に、逆風が吹いているように見えます―

「ぼくは、平和は消費財だと思うんですよ。一つ一つの問題を何とか解決して平和を維持していく。放っておくと平和は減っていくから、その分、どこかでつくらなければならない。その意味で、沖縄というのは非常に力のある平和製造工場なのだと考えています。戦争体験が有り、平和への意志をもって伝え続けてきた人達がいる。県立の公文書館を備え、あの戦争とは何だったのか、考えるための史料を集めている。他の地域で、これほどのことをしているところはありません。

・「・・・ただ平和と唱えていれば、平和が来るわけではありません。憲法9条にしても、護持していればいいというものではなく、積極的に運用しなければいけない。その意味でも、現状にあらがって平和をつくり続けている沖縄は、日本の宝なんです。」

(聞き手・真鍋弘樹)

2022/12現在。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その2。弁天橋沿革。青銅の鳥居。岩本院・岩本楼。弁天小僧菊之助。

2023-06-22 19:27:39 | 境川

鎌倉、三浦半島方向。

江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。

振り返ると、怪しげな雲行き。

こちらは青空が広がる。

「弁天橋沿革」解説板。

この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。

さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。

売店、お土産店の前では並んでいます。歩きながら大きなtakosennbeを食べている人、・・・。

青銅の鳥居。

江之島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の鳥居でしたが、1821年(文政4年)に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の厚さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。・・・

左手に古めかしい郵便ポスト。

 「明治時代の郵便差出箱」。

「岩本楼」。

             

前身は金亀山与願寺(現:江島神社)の別当職を務めた岩本院で、鎌倉時代以来の歴史を持つ。

古くは中の坊と称していたが、その後岩本坊・岩本院と改名した。上の坊・下の坊と共に与願寺の別当を務めていたが、後に上の坊・下の坊を支配下に置き、総別当となる。

江戸時代中期以降、江の島は江戸から手軽に行ける観光地として栄え、岩本院も宿坊として栄えた。文久2年(1862年)初演の歌舞伎、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)に登場する弁天小僧は岩本院の稚児をモデルにしたと言われている

1873年明治6年)、神仏分離令により与願寺は廃され江島神社となり、岩本院も翌1874年に岩本楼と改名し旅館となった

(この項、「Wikipedia」より)

弁天小僧といえば、歌舞伎の演目の一つ「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」。

・・・

以前、このブログに投稿した記事を再掲。

「続「歌舞伎鑑賞教室」その5。「弁天娘女男白浪 ・浜松屋見世先の場」。菊五郎。吉右衛門。幸四郎。・・・そして、青砥。」(2021/6/19)

旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。

               

     

鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。

              

しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。

大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。

       

逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。

           

この場面での名台詞

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ

二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。

            

安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。

               松本幸四郎

この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。

実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。

この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。

「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。

かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)

京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。

・・・

岩本院文書(藤沢市文書館寄託)

江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。

竣工当時の江の島弁天橋
 
大正時代の海水浴の様子(片瀬海岸)
 
現在、当館は創業から150有余年。

時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。

今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。

(この項、写真を含め「岩本楼」HPより)

江の島エスカー乗り場。

昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場しました。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています。

(「」より)

右手を見上げると、けっこう急な高さ。

これは便利な乗り物。しかし、帰りのエスカレータはないので、歩いて降りてくることに。

「行きは良いよい、帰りは怖い」ではイヤので、少し腹ごなしをしてからにしようと、参道をいったん下りることに。

賑やかな坂道。

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夏至。ウツボグサ。アヤメ。はんげしょう。冷酒。夏越の祓・水無月祓。

2023-06-21 21:08:29 | 二十四節気

今日、6月21日は、「夏至」。二十四節気の第10番目。

「夏、至る」とあるように、いよいよこれから夏の盛りに向かっていく頃。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い。反対に、南半球では、この日に最も昼の時間が短くなる。

暑さは日に日に増していくが、日照時間は「冬至」に向かって少しずつ短くなっていく。「立夏」と「立秋」のちょうど真ん中となる。

七十二侯でいうと、

・初侯 6月21日〜6月25日頃

乃東枯 なつかれくさかるる

冬至の頃に芽を出した「靫草(うつぼぐさ)」が枯れていく頃。

「うつぼぐさ」(「向島百花園」にて)。

円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する

・次侯 6月26日〜6月30日頃

菖蒲華 あやめはなさく

アヤメが花を咲かせる頃。アヤメが咲くと、梅雨到来といわれていた。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタはよく似ており、非常に見分けがつきにくい。  

アヤメ? (「日光東往還」南河内町にて)

アヤメもショウブも漢字で書くと、同じ「菖蒲」。アヤメは「文目」、「綾目」とも書く。

アヤメは、アヤメ科、ショウブは、サトイモ科。

ショウブというと「堀切菖蒲園」の花菖蒲をすぐ連想しますが。他のところにも名所がたくさん。

花菖蒲。 

(「旧東海道」知立―ちりゅう―池鯉鮒宿にて)

・末侯 7月1日〜7月6日頃

半夏生 はんげしょうず

半夏(からすびじゃく)が生える頃であり、半夏生の名をもつ草の葉が白く染まる頃。

農家にとっては大事な節目の時期で、「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、採った野菜は食べてはいけないとされたりした。

この頃に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と言い、この雨が降ると大雨が続くと信じられていた。

サトイモ科の植物。別名や、乾燥させた根茎は半夏(はんげ)の名で知られる。花は小型の仏炎苞で、ひものような付属体が上部に伸びるのが特徴。

のものとして

果物 夏みかん

さかな 鮎

野菜 オクラ

たしなみ 冷酒

行事

夏越の祓(なごしのはらえ)

6月の末日(晦日)は、12月の大晦日と同じく「大祓(おおはらえ)」の日。各地の神社では、 茅(ちがや)というイネ科の植物で編んだ直径数メートルの輪をくぐる「茅の輪くぐり」が行われる。心身を清めて災厄を祓い、無病息災を願う行事。

「夏越の祓」は、〈水無月祓〉として、兼好法師の『徒然草』にも出てきます。

《折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ》※この段の内容は、季節感にあふれ、今でも当てはまっています。

 「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に墻根かきねの草萌えいづる頃より、やや春深く霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも、雨風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘はなたちばなは名にこそ負へれ、なほ、梅のにほひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、ふぢのおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。

 「灌仏くわんぶつの比、祭の比、若葉の、こずゑ涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月さつき菖蒲あやめふく比、早苗さなへとるころ水鶏くひなの叩くなど、心ぼそからぬかは。六月みなづきころ、あやしき家に夕顔ゆうがほの白く見えて、蚊遣火かやりびふすぶるも、あはれなり。六月祓みなづきばらへ、またをかし。

 七夕たなばた祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒よさむになるほど、かり鳴きてくる比、萩の下葉したば色づくほど、早稲田わさだすなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分のわきあしたこそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語げんじのものがたり枕草子まくらざうしなどにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

 さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。みぎはの草に紅葉の散り止まりて、しもいと白うおけるあした遣水やりみずよりけぶりの立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余り空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名おぶつみやう荷前のさき使つかひ立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事くじども繋く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるゝさまぞ、いみじきや。追儺ついなより四方拝しはうはいに続くこそ面白おもしろけれ。晦日つごもりの夜、いたうくらきに、松どもともして、夜半よなか過ぐるまで、人の、かど叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足をそらに惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残なごりも心ぼそけれ。亡き人のくる夜とてたま祭るわざは、このごろ都にはなきを、あづまのかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。

 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路おほちのさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

次は、「小暑」。

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江の島。藤沢~鎌倉(江ノ電)。その1。「境川」左岸突堤。江の島縁起。怪しげな雲行き。

2023-06-20 20:55:43 | 境川

6/16。再びやってきました。

片瀬橋を渡り、左岸へ。

右岸を望む。

川べりのテラスへ。

江の島を望む。

左岸の突端。

右岸、西方向を望む。

          すっきりしたお天気ならば、伊豆半島その向こうに富士山などが見えそうですが。               

                     手前の突堤が前回たどり着いたところ。

振り返る。

「江の島弁天橋」。

片瀬漁港。

            雲の流れが速く、いやな予感。

             

「名勝史蹟 江ノ島」、

 江の島の成因と周辺の地名由来についての伝説

昔、鎌倉の深沢に周囲40里の湖があり、この湖には五つの頭を持った「五頭竜」が主として住んでいた。

この五頭竜は、洪水を起こしたり山を崩したり、或いは病気を流行させたりして暴れまわり、里人を苦しめていた。

人々は非常に困り、また大変に恐れたが、相手が竜ではどうすることもできず、少しでも竜におとなしくしてもらうために、いけにえとして村々からくじ引きで村人を供えるようにしたが、竜はそれに満足せずますます暴れまくった。

そのため、子は親と別れ、親は子を失い村人達は次々とよそへ移住していった。津村の長者には、16人の子どもがあったが、一人残らず五頭竜に飲まれ、死んだ子を恋い慕いながら他村へと逃げていった。

その時から、深沢から西へ行く道の付近を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、これが現在の腰越の地名の起こりであると言われる。

竜を恐れた人々は、続々と他村に移住し村からは人影が消え、荒れ果ててしまった。そんな時一大異変が起こった。欽明天皇13(552)年4月12日のことである。

突然起こった大地震が天地をゆるがせ、10日間も続いた。23日辰の刻にはぴたりと地震がおさまり、人々がほっとして海の方を望んだ時、今まで何もなかった子死越前方の海に忽然として一つの島が現れた。これが江の島の誕生であるという。

この天地の異変を五頭竜は見つめていた。すると天から美しい天女が五色の雲にのり、童女を従えてしずしずと湧き出たばかりの島へと降りたった。

天女の美しさに感じた竜は、やがて結婚を申し出たが、人々の幸せを任としている天女が里人を苦しめてきた竜のような者の妻には到底なれないと言って、竜の申し出をはねつけ洞窟に隠れてしまった。

しかし、どうしても思い切れない竜は、たびたび島を訪れ、ついにこれからは人々を助けることに努力することを天女と固く約束した。

それからの五頭竜は、人々を守るために日照りの時には雨を降らせ、秋の台風には体をはってはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守り、一生懸命人々のために働いた。やがて竜のかたい心を知った天女は、竜に結婚することをゆるし、お互いに人々の幸福のために力を合わせた。

時がたつにつれ竜の体はだんだんと衰えていった。自分の寿命の尽きるのを知った五頭竜は、天女に「死んでも私は山となって島と里人を守ります。」と告げ対岸に渡り江の島の方に向かって長々と横たわり一つの山なった。

これが現在の片瀬山で、竜の口のある場所が、現在の竜の口(たつのくち)であるという。里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社(やしろ)を建てた。

これが竜口寺の西隣にある竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられ、今でも60年に一度の「巳年式年祭」の日には、おみこしに乗せて江の島へ渡り、天女の弁財天とあわせている。

2. 伝説から考える

伝説とは、昔話と異なり定まった場所・物・人物等があり、昔から「そういわれればそうだ」と信じる物が多く、土地にどっかりと根を下ろしたものである。

五頭竜と天女の伝説は、「江島縁起(えのしまえんぎ)」に書かれたものでこの伝説に言う江の島涌出説は、根拠のないものではない。

地質学の研究成果より見ると、江の島は、7~8万年前頃海上に姿を現し、その後隆起を重ねながら現在の姿になったと考えられるからである。

最も新しい隆起は、大正12年の関東大震災による約1mの隆起である。その長年にわたる証拠は、江の島の岩屋の中に残されている。

島の南側に発達する海蝕洞(岩屋)は断層に沿って波が浸食し形成されたものであるが、第一の岩屋に入ると高かった洞窟の天井が、ローソク配布所の先で急に低くなり、またその先二方向に洞窟が別れるあたりで少し低くなる。

つまり、海水による浸食が断層線に沿って進行し、ローソク配布所の先まで洞窟を作った時、島が隆起し洞窟は水面上に姿を現した。さらに海水の侵入が継続すると今度は下の方が削られる。こんなことの繰り返しで奧まで浸食が進んだが、その後の隆起で全体が海面上に姿をあらわし、また新たな浸食が進み始めた後、大正12年の関東大震災による隆起で現在を迎えている。

「江島縁起」の涌出説は、島の隆起を取り入れたものであり、突然海底から湧き上がったという江の島誕生の不思議さと、想像を絶するような力を持った竜を結びつけ物語の信憑性を増すために付近の深沢・腰越・竜の口などの地名が巧みに取り入れられ、神秘的な島として語り伝えられることによって弁財天への信仰は、より高められてきたものだろう。

吾妻鑑の健保4(1216)年1月15日の項に書かれている、江の島と片瀬の間の海底が隆起し徒歩で島へ渡れる様になり参詣人が群をなしたということも、この伝説の信憑性をますます強くしたであろう。

3. 江の島という地名について

江の島の古図。

  • 宮城県牡鹿町 江ノ島
  • 長崎県崎戸町 江ノ島
  • 北海道島牧村 江ノ島
  • 愛媛県魚島村 江ノ島
  • 鹿児島県垂水 江之島
  • 広島県沖見町 絵の島

地名の由来、藤沢の江の島との関係等は未調査であるが、以上が他県に見られる主な「えのしま」地名である。この他神奈川県内にも江の島の地名があり、江の島との関連が伝えられている地があることはあまり知られていない。新編相模風土記稿の愛甲郡宮ヶ瀬村の項に「河中岩あり雑木生して孤島の如し、昔弁天の小祠ありしを以て江の島と字す」とあり、半原村の瀑布塩川滝の項にも、江の島淵の地名が見られる。共に淵や滝壺の水脈が、藤沢の江の島岩屋に続いているという伝承があり、塩川滝には滝壺に落とした弁当箱が、江の島の岩屋の中でみつかったという伝説も語りつがれている。

この地名の起こりは、愛川町の八菅(はすげ)山を本拠とする八菅修験と関係あり、共に八菅修験の峰入行所(廻峰行者の修行場所)であった。修験道の祖、役小角(えんのおずの)は、大和国葛城山に住み、吉野の金峰山・大峰などを開いたが、文武天皇3年、葛城の神におとし入れられ伊豆に流された。

「役行者本記」にはこの時役小角は昼は禁を守り伊豆にいたが、夜は天木、走湯、箱根、雨降、日向、八菅、江島、日金、冨士山等へ空を飛んで通ったという。

この中に江の島も含まれ、江の島の洞窟で初めて修行を行ったのは、役行者であるという伝承もあり、江の島は八菅修験の外なる聖地であった。

そのため、津久井郡石老山顕鏡寺の洞窟・八菅山覚養院の修験者胎内行用の洞窟・愛川町角田八幡宮うらの洞窟等が江の島につながっているという伝承が生まれ、修験の人々によって地名と共に伝えられてきたものである。

富士山の風穴に入った仁田四郎が、穴の奥深く進みついに江の島の洞窟に到達したという話も修験道に関係するものと思われる。

平安時代の頃、江の島も修験者によって開拓され、洞窟は信仰の道場として利用される様になったと思われる。かくて、数多くの有名無名の天台・真言系の修験者が来島することになり、この人々によって勧請されたのが弁財天であった。江の島を有名にした人々の中に、名もなき修験の人々を加えても良いのであろう。

古くから語り伝えられて来た伝説の内容をどの様に見るかは受け取る側の責任であるが、その中に含まれる歴史を読み取ることも、地域の歴史を考える上で大切な事であると思われる。

初出『ふじさわ教育』第119号

(この項、「」HPより)

ここにある「役小角」に関して。

生年:生没年不詳
7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道開祖とされる。賀茂の一族,のちの高賀茂朝臣の出身で,大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市)の人と伝えられる。大和国葛城山で修行し,呪術にすぐれた神仙として知られ,多くの伝説が生み出された。五色の雲に乗り,大空を飛び,神仙の宮殿で神仙と交わり,心身を養う霊気を吸いたいと願い,岩窟に籠もり,葛を身にまとい,松の葉を食べ,清泉で沐浴し,世俗の汚れを落とし,山林で修行した。孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口にしないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や方術に習熟した行者であった。 文武3(699)年,弟子の韓国連広足に妬まれて,妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。また別に,大和の金峰山と葛城山の間に橋を架け渡せと神々に命じたところ,神々は嘆き,葛城山の一言主大神がある人に乗り移って,役小角が陰謀を企んで,天皇を滅ぼそうとしていると讒言したといわれる。天皇は捕らえようとしたが,役小角の験力のためにかなわず,代わりに母親を人質として捕らえた。母を釈放してもらうために,自ら囚われの身となり,流刑となったが,昼間は伊豆で,夜間は富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになり,罪を許されると,神仙となって天空に飛び去ったといわれる。修験道の本尊,蔵王権現は,金峰山上で役小角が衆生を救済するのにふさわしい仏を出現させようとして祈願して,湧出させたものという。修験道の開祖として,寛政11(1799)年には,朝廷から神変大菩薩の諡号が贈られた。<参考文献>『続日本紀』,景戒『日本霊異記』

(川村邦光)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典

※修験道は仏教に神道が交じった山岳宗教。修験道の実践者を修験者または山伏という。

さて、江の島へ向かいます。        

                   「江の島周辺トイレマップ」。

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向島百花園。カルガモの親子はどうなっただろうか。はんげしょう(半夏生)・タコ。ねむのき。・・・

2023-06-19 18:58:28 | 向島百花園

向島百花園。6月カルガモ親子。その後どうなったのか? 確かめたくて出かけました。6月17日(土)

いました! 親と雛が6羽くらい。

     

        雛たちは元気で泳ぎ回り、親は木下で毛繕い。まもなく旅立ちかも。

訪れた方たちも興味深そうに、しばらく様子を眺めています。

スカイツリー。緑がすっかり濃くなった園内。

           

芭蕉も随分伸びてきました。

半夏生(はんげしょう)が咲きはじめました。

はんげしょう(半夏生)の群生。(三浦半島・小網代の森にて。昨年の夏)

     

               開花時期は、 7/ 1 ~ 7/20頃。

・上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなるのがおもしろい。 「半化粧」「半夏生」「片白草(かたしろぐさ)」など、いろんな呼び名がある。

・花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要からこのように進化したのではないか、といわれている(白くて目立つ)。

・花は葉と同じく白で、紐状。 ・花が咲き終わって夏の盛りの頃になると、白い葉の白い部分は色落ちして、ふつうの緑色っぽくなる。 ・山の水辺に群生することが多いが、都会でもときどき  植えられてるのを見かける。

■名前の由来 「半夏生」(はんげしょう)   夏至から数えて11日目頃   (もしくはその日からの5日間)を   「半夏生」と呼ぶが、その頃に花が咲くことから。※「半夏生」=「1年の真ん中」1/1~12/31の1年の、真ん中。「7月2日」のことが多い。「7月1日」のこともある。

タコを食べる日、で知られる。 (なんでだろ?)

(この項、「」HPより)

タコを食べる風習について、

夏といえば“タコ”、“タコ”といったら“半夏生(はんげしょう)”。
半夏生は節分や土用などと同様の雑節の中の一つで、関西地方ではタコを食べる日としての風習が残っています。
今でもスーパーの鮮魚売り場には、半夏生の日にたくさんのタコが並びます。

半夏生にタコを食べる理由はどこからきているのでしょうか?

半夏生とタコ

昨年(2020年)の総務省統計局「家計調査 1世帯(2人以上)当たり日別支出」のデータを項目別に見てみると、半夏生にはタコがたくさん買われているのが読み取れます。

(出典:家計調査 1世帯当たり1か月間の日別支出 2020年6月~7月)

日本では古来、立春や夏至など中国から伝わってきた二十四節気とは別に、雑節(ざっせつ)という暦日があります。雑節は、日本人の生活文化や農習慣を踏まえて設けられてきた歴日です。 半夏生のころはちょうど梅雨明け間近。田植えの終わりの季節を示す目印とされていたのでしょう。

半夏生にタコを食べる理由は、8本足のタコの吸盤が吸い付く様にあやかり、「苗がしっかり根を張りますように」という願いを込めて、神様にタコを捧げたからといわれています。
また、半夏生の時期は、「田植えの疲れを癒す養生の時期」ともされています。このことも、半夏生にタコを食べる理由かもしれません。

(この項、「」HPより)

                

ネムノキ。

手向山。

もみじ。

  秋の七草の一つ、ききょう。

こうして季節が確実に移っていくのですね。

                       6月21日(水)夏至。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その8。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。片瀬橋。右岸突端。江の島。(「境川」を河口まで。)

2023-06-18 13:34:53 | 境川

これまで歩いてきた利根川、荒川、江戸川、多摩川などと異なり、河口まで住宅が続きます。

山本橋。

漁船(ボート)がたくさん係留されています。

正面に、江の島が見えてきました。

残り500m。

河口付近に架かる「片瀬橋」。

     

小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。

       龍宮城を模したユニークなデザインの駅舎。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している。

片瀬橋のたもとで小休止。        

右手に江の島へ渡る「江ノ島弁天橋」。

片瀬橋から河口を望む。

片瀬漁港。

岸壁の突端まで歩きます。

                               手前に釣り人が数人。

ここが右岸側の河口? 

西側を望む。

東側を望む。左岸の突端が。

              

                       台風2号の影響か、波が高く、雲の流れも早い。

上流を望む。

江の島方向。

右岸歩きはここまで。次回は、江の島めぐりをする予定です。

                                       (「今昔マップ」より)

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その7。鵠沼(くげぬま)の今昔。下藤が谷公園。飛び出し坊や。クロマツ。(「境川」を河口まで。)

2023-06-17 18:57:01 | 境川

※鵠沼の今昔。今は住宅地が広がっていますが、かつては、

                            (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

1880年代のようす。 荒涼たる砂浜が広がっている。        

現在は、

                            2010年代のようす。住宅がびっしりと。

戦前から鵠沼海岸として開発・整備され、住宅が増えてきています。

神奈川県による湘南海岸開発

1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。

震災からの復興は急ピッチで進められた。・・・

1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。

1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。

主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道(鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号)敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピックを見越した県営鵠沼プール(後に藤沢町に移管)の建設が加わった。

日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、「国際観光地」としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年(昭和14年)ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。

皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年(昭和15年)10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、疎開先に選ばれた鵠沼の人口は激増した。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。

戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。

(この項、「Wikipedia」参照)

「海から2.0㎞ 標高5.1m」。

下藤が谷公園。

小池に水中に潜るカルガモ。

「江の島シーキャンドル」が見えてきました。

久々に「飛び出し坊や」。

「海から1.5㎞ 標高3.5m」。

振り返る。松林が残っている。

クロマツ。海岸らしい雰囲気。

釣り船が係留されています。

「海から1.0㎞ 標高3.6m」。

         あと15分足らずで河口に到着予定。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その6。奥田公園。柏尾川。境川橋梁(江ノ電)。鵠沼(くげぬま)。(「境川」を河口まで。)

2023-06-16 20:39:06 | 境川

さて、この先どうするか? 境川からは離れてしまいますが、市役所を抜けて大通り(「国道467号)を歩くことに。

賑やかな通りから、「藤沢市民会館」などが併設された「奥田公園」の中を抜けて「境川」へ。鵠

このかん、左岸に「柏尾川」が合流します。

柏尾川

源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川(ひらどながやがわ)と瀬谷区から流れる阿久和川(あくわがわ)が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは神奈川県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは神奈川県道32号藤沢鎌倉線藤沢駅方向に流れ、藤沢市川名境川合流する

流域は工場や宅地が数多く立ち並んでいるため、高度経済成長期ごろになると大量の工場排水生活排水が川に流れるようになった。このため川はヘドロで淀み、夏場になると悪臭が漂うドブ川となっていたが、下水処理網の整備が進んだことなどにより近年では川鳥や川魚が生息できるような状態に改善されている。

戸塚駅から大船駅までの堤防には、江戸時代から続く並木があり、地域住民の憩いの場となっている。

(この項、「Wikipedia」より)

奥田橋から上流を望む。

下流を望む。川幅も広くなり、水量も豊富に。

       

「海から3.5km 標高5.6m」。

この付近の今昔。

(「今昔マップ」より)※今と違って、「江ノ電」線路が流路脇に。

対岸の森は「藤沢市新林公園」。

振り返る。上空にトンビ?

心なしか、海近くの空に。

直線化された流路。

江ノ電が見えてきます。

                        境川橋梁(江ノ電)。

                                      (「」より)

「鵠沼(くげぬま)駅」と「湘南海岸公園駅」との間になります。

※鵠沼には湿地が多くあり、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で白鳥が飛来したからだといわれている。が、白鳥が降り立った沼があったか確証はない新編相模国風土記稿では久久比奴末と読みが付けられている

                                       (この項、「Wikipedia」より)

南西に進んで、「湘南海岸公園駅」となります。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その5。藤沢宿。江の島への道。海から5㎞。藤沢市役所。(「境川」を河口まで。)

2023-06-15 21:18:48 | 境川

旧東海道「藤沢宿」は、境川を渡った西北側に広がっています。

      遊行寺橋からの点線が旧東海道・藤沢宿。

遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡

江戸からの東海道を進むと、東海道第6の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋―だいぎりばし―)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江ノ島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。

上記のように、境川沿いに歩く今回の旅は、宿の江戸方付近のところで離れていきます。

      

藤沢宿の成り立ち・しくみ

藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され、五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数宇4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を活かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町家がわずかに残っています。

※以下、地図上に、①藤原御殿、②本陣と脇本陣、③問屋場、④見附、⑤高札場、⑥旅籠屋、⑦桝形の位置が記されています。

1880年代のようす。藤沢宿の繁華街・中心部。

             (「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

現在の繁華街、JR藤沢駅はもう少し南に位置しています。

旧東海道歩きの際の記録を再掲。

・・・

宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。

 

古く重厚な家屋が残っている。

入口正面に「紙」と。国登録有形文化財(建造物)

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。



 株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
 次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
HPより)

・・・

江の島弁財天道標」。

遊行寺橋を望む。

旧東海道・遊行寺坂を下り、

              境川の手前で右・左折し(桝形・カギ型)、遊行寺橋を渡って宿場の中心部へ入ります。

1880年代のようす。

堂々とした橋柱。藤沢橋。初代は、関東大震災後に造られた。

ここからは東海道から分かれて江の島への道となります。

 下流方向。

上流方向。

この先。境川沿い・右岸の道を歩くことに。

こうした観光絵図(浮世絵)が随所に設置。。

にぎやかな街並みが続く中、境川に近づくと、

カルガモの子が急な流れの中、必死に泳ぐ姿が(〇)。

「海から5.0km 標高7.9m」。

御所ケ谷橋。

川幅が広くなってきます。流れも速そう。ここにも、カルガモが。

直線化された流路。

そのまま進むと藤沢市立大道小学校の先で、

                       JR東海道線にぶつかり、行き止まりになってしまいます。

遠回りして左岸の方を行けば、線路の向こうに行けそうですが。・・・

道なりに回り込むと、藤沢市役所に。そこで、小休止。

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横浜地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その4。国道1号線先で「藤沢・大和自転車道」と分かれる。白旗。遊行寺橋 。藤沢宿。(「境川」を河口まで。)

2023-06-14 20:21:25 | 境川

左手(対岸)からけっこうな水量の落とし口(樋門)。

       「西部水再生センター(横浜市戸塚区)」からの流れ。

高台の住宅地(藤沢市)。

国道1号線沿いの建物が見えてきます。

両岸にはアジサイ。

大清水境川アジサイロード。

ポケットパークで小休止。

                  対岸は、「神奈川県立藤沢清流高等学校」。

「藤沢・大和自転車道」案内図。

この先、国道1号線のところで、境川から分かれ、「引地川」沿いになり、海岸に向かいます。

「境川大橋」(国道1号線)。

「境川歩き」は、そのまま境川沿い(右岸)を。

「境川 海から6.5㎞ 標高10.1m」。

この付近は、すっかり住宅地に。

(「今昔マップ」より) 赤い線が「国道1号線」。旧東海道はもう少し南に。

※白旗神社 社名は源氏の旗である白旗に因む。

 創立年代不詳。寒川神社勧請した寒川神社だったが、宝治3年(1249年)9月に源義経が合祀され白旗明神、白旗神社となった。近くに伝源義経公首洗井戸がある。腰越での首実検の後、境川に捨てられ流れ着いた義経の首がこの地に葬られたという伝説にまつわる。

水管橋にクロウ? (○)

堰。激しい流れに。

市街地に入り、護岸壁も頑丈に。

前方に朱塗りの橋が見えます。

遊行寺橋 (旧 大鋸橋)。

※遊行寺(ゆぎょうじ)

 時宗開祖の一遍上人より数えて4代目の呑海上人開山の時宗総本山です。藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名ですが、呑海上人が正中2年(1325)に廃寺を再建して遊行引退後の住まいとし、歴代の上人も遊行引退後に住むようになったので「遊行寺」と呼ばれるようになりました。現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造りになっています。また、菊の御門と三葉葵が刻まれています。延文元年(1356)の銘を持つ梵鐘は県指定重要文化財です。境内中央の大イチョウは市指定天然記念物になっています。昭和26年(1951)の日本観光地百選に選ばれました。

(この項、「」HPより)

お寺は、この橋の東北にあります。旧東海道歩きの時、遊行寺坂を下って立ち寄りました。

江戸日本橋から数えて6番目の宿場・「藤沢宿」に入ってきました。

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