おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「天平の丘公園」。その8。「琵琶塚古墳」、「摩利支天塚古墳」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-18 21:32:43 | 日光例幣使街道
                             西側(壬生通・例幣使街道側)を望む。
東側を望む。

 「琵琶塚古墳」は栃木県内最大級の前方後円墳です。
                        「前方後円墳」の基本形。(「Wikipedia」より)

南側を望む。いくつか杉の大木が折れたままに。

けっこうな大きさと高さ。

              そういえば、古墳の上を歩くのは初めて。

北側を望む。後円部墳頂には小さな祠。

「摩利支天塚古墳」の方へ向かいます。ここにも倒木。

「解説板」。
史跡 琵琶塚古墳
 琵琶塚古墳は県内最大の前方後円墳です。古墳の形状や出土した円筒埴などから、隣接する摩利支天塚古墳に次いで、6世紀の前半に築造されたものと考えられています。
 墳丘は、自然地形の地ぶくれを利用して基壇を設け、さらに2段の土盛をすることによって構築されています。
 また、墳丘のまわりには幅およそ20mの広大な周濠が存在しており、調査の結果、東側と西側では二重にめぐらされていることがわかりました。
 琵琶塚古墳をはじめとし、思川、姿川の流域には、強大な首長が葬られていると思われる大型古墳が散在しています。この地域は、遠く大和朝廷の時代に、下毛野国を代表する首長達の活躍の舞台となったことがうかがわれます。
 
こちらが「摩利支天塚古墳」。杉林の中にあります。
       
            後円部墳頂には、摩利支天社。

二つの古墳の案内板。上が「琵琶塚古墳」、下が「摩利支天塚古墳」。

市道を進み、自転車を置いたところへ。南東側からの「琵琶塚古墳」。


2010年代のようす。
             中央が「琵琶塚古墳」。下方が「摩利支天塚古墳」。鬱蒼とした森に包まれています。


右側に新しい建物があります。資料館のようです。立ち寄ってみます。
国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館 について
設置趣旨
 栃木県では、古墳時代の中頃から大型の前方後円墳が相次いで築造されました。これらの前方後円墳は世代を継承するように築かれていることから、下毛野(現在の栃木県の大半)の首長墓と考えられています。下毛野の首長墓ははじめ県中央部の宇都宮市周辺に築かれていましたが、摩利支天塚古墳(5世紀末から6世紀初頭)の築造を契機に、小山市北部から下野市・壬生町へ続く思川・黒川流域が首長墓の造営地となりました。
 古墳時代後の奈良時代にも当地は下野の中心地であり続け、下野国庁・下野国分寺・下野国分尼寺が置かれるなど、古代下野国の中心地となりました。
 本施設は、当地が下野国の中心地となるきっかけとなった「国史跡 摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳」と、周辺に広がる旧河川跡を中心に、歴史的な価値を守り伝えるための拠点施設であり、古墳の実態や土地の歴史・背全を解説展示するとともに、自然との関わりをテーマとした活用の場・市民の地域づくり活動の拠点施設として計画・設置されました。
(「」HPより)

 2018年4月21日にオープンしたばかりのようです。

館内。大型の円筒埴輪などが展示されています。見事な造形品。

さて、再び「小金井駅」に戻ることにします。

 途中の農家の庭先に薄紫色の花が咲き誇っています。はて? 何という名の花?


                  



イヌサフラン」のようです。
 平成26年9月4日夜、静岡県の70代男性が、ギョウジャニンニクと間違って栽培していたイヌサフランを他の野菜と混ぜ自宅で煮物にして食べたところ、5日未明から吐き気や胃痛などの症状を訴え入院し、9日に死亡した、との記事がネットにのっていました。

イヌサフランとは
 イヌサフランは、ユリ科イヌサフラン属の球根植物で、園芸植物として広く植えられています。
球根は径3から5センチメートルの卵形で、9月から10月に花茎を15センチメートルほど伸ばし、翌春に20から30センチメートルほどの葉を根生します。
 イヌサフランの有毒物質は、球根や種子に含まれるコルヒチン(colchicine)です。鎮痛薬として使用されますが、嘔吐・下痢などの副作用を示し、重症の場合は死亡することもあります。

間違えやすい植物
ニンニクやタマネギ、ジャガイモとの誤食は、球根が出回る秋に起こります。
 葉は開花後に出るため、春にギョウジャニンニクやギボウシ、山菜などとの誤食が起こります。


 のどかな農家の庭先を眺めながら、1時半過ぎ、「小金井駅」前の観光案内所(レンタサイクル)まで戻りました。
 資料館なども充実していて、半日でも足りないほど。

 今度は桜の季節に訪問したいと思います。
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「天平の丘公園」。その7。歌碑、琵琶塚古墳・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-17 18:33:11 | 日光例幣使街道
                      山の神塚「額田王歌碑」。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る            


 「レストハウスしもつけ」で昼食休憩後(「手打ちそば」が美味です)、少し東に向かい、歌碑を見つけにいきます。 
       
 
 紫草塚「柿本人麿歌碑」。
         東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

大海人皇子歌碑」。
                  紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも

 この他にも、「桜広場(桜樹)」には額田王の「熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」があるようです。

 熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、潮の流れも船出にふさわしくなった、さあ、今こそ漕ぎ出そう。

この歌は少し解説を。
 左注には憶良の『類聚歌林』からの引用があり、斉明天皇七年(661)正月、伊予国熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊った時の斉明天皇御製としています。
 この歌が詠まれたのは、白村江の戦いと呼ばれる戦いの時期。朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作。

白村江の戦(はくすきのえのたたかい)→白村江(はくそんこう)の戦

《百科事典マイペディアの解説》
 663年,日本が唐に敗れた海戦。白村江(〈はくすきのえ〉とも)は朝鮮南西部の錦江(きんこう)河口付近の古名。かねてから百済(くだら)と争っていた新羅(しらぎ)は,高句麗(こうくり)と戦っていた唐と結び660年,ついに百済の都を占領,王らを捕虜としたので,百済の遺臣は日本に救援を求めた。大和朝廷は朝鮮南部の日本の権益を守るため,これに応じて大軍を派遣,斉明天皇・中大兄皇子らも北九州に本営を置いて指揮したが,天皇は病死。水軍は663年8月27・28両日の海戦で唐の水軍に挟撃されて大打撃を受けたので,朝鮮からすべての兵を引き揚げ,内政に専心することになった。
(出典 株式会社平凡社百科事典)

 朝鮮南西部の錦江河口付近で663年,日本軍と百済復興軍とが唐・新羅の連合軍と交じえた戦い。白村江(〈はくすきのえ〉ともよむ)は錦江の古名。戦争は2日にわたって行われたが,河口の岸上に陣を張った百済軍は文武王のひきいる新羅軍に打ち破られ,日本軍は海上で蘇定方のひきいる唐軍に敗北した。このため,周留城にたてこもっていた豊璋のひきいる百済復興軍も崩壊した。・・・
(出典 世界大百科事典)

 再び公園に戻ってきます。途中には、
「加良久利(カラクリ)水車小屋」。中は見られません。

「防人街道」を南に向かいます。

防人街道について
 防人とは、古代、唐・新羅などの備えとして、九州北辺に配備された兵士のことで、下野国など東国から多くの兵士が、その任についていました。防人街道は「下野国分尼寺跡」から「紫式部の墓」までの細道で、万葉集の中に下野の防人が詠んだ「松の木の並みたるを見れば家人のわれを見送ると立たりしもころ」の情景にところから、名付けられました。

 但し、この道の両側は杉林になっています。もともと、派遣地の九州での松並木を見ての望郷の歌です。
 

 「防人桜」との命名板。

 「周辺散策マップ」を見ると、南に「琵琶塚古墳」とあります。前回の街道歩きで西側から遠目で眺めただけ。そこで、間近に見ようと、向かいます。これも、レンタサイクルならではのこと。
東側から見た「琵琶塚古墳」。

塚上に上がれそうなので上ってみます。


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「天平の丘公園」。その6。古民家カフェ「夜明け前」、「国分尼寺」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-16 21:44:07 | 日光例幣使街道
                         古民家カフェ「夜明け前」。


 北西に向かって下って行くと、広場が。この建物は、そこにあります。駐車場もあって、けっこう人が立ち寄っています。


               奥の座敷や縁側で休憩ができます。

暖簾には「天平」と。

                     
 「夜明け前」がリノベーションし、古民家カフェとしてH30年4月7日にオープン! とのこと。

その左隣にあるのが「10 picnic tables」。

              

「10 picnic tables(テンピクニックテーブルス)」は和を感じる創作イタリアンのお惣菜をはじめ、コーヒーやスイーツが揃う新感覚デリカカフェ。
​ ​公園でピクニック気分が楽しめ、選べる四季折々の美味しいお料理&お弁当。
​ ご家族と。お友達と。お1人でも。
気軽に美味しく、楽しい、下野市のNEWスポット ​天平の丘公園の10 picnic tables。
(「」HPより)

そこで飲み物を購入、ジャズが流れる庭先で小休止。

「盛岡石割桜」。
平成8年、盛岡裁判所庭に咲く天然記念物シロひかんで石割桜と呼ばれている桜の子孫をここに移植した、とのこと。

 この公園は、一帯にさまざまな桜が植えられ、春になると大勢の見物客で賑わうそうです。
 さて、レンタサイクルで移動。次は、「下野国分尼寺」跡です。


                             
~下野国分寺・国分尼寺~ 
 国分寺は奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国の平和と繁栄を願い、国ごとに造営を命じた寺院です。
 下野国分寺跡は大正10年3月3日に国の史跡に指定され、現在は伽藍の基壇(建物の基礎)跡が地膨れとなって平地林の中にひっそり眠っています。・・・
 下野国分尼寺は昭和39~43年度にかけて栃木県教育委員会と町教育委員会により4次にわたる発掘調査が実施され、伽藍配置が明らかになりました。昭和40年に僧寺同様国指定史跡となり、昭和45年度までに国・県の補助を受けて史跡整備が実施されました。・・・

 「国分尼寺」は別名「法華滅罪之寺」と呼ばれています。

下野国分尼寺跡(国指定史跡)
下野国分尼寺跡は、下野国分寺跡の東方約600mのところにあり、国分寺と同じく聖武天皇の詔によって建てられた国立の寺院です。
伽藍(寺の建物)配置も、国分寺と同様に東大寺式ですが、塔はつくられませんでした。
昭和39年度から43年度にかけての発掘調査の結果、建物の規模は、金堂が間口7間(21m)×奥行き4間(12.1m)で、凝灰岩の礎石をもつ瓦葺きの建物であることがわかりました。
また、講堂の北側には尼たちが日常生活を営む尼房という建物も見つかっています。さらに、平成5年度から10年度にかけて、寺院の範囲を確認するための発掘調査が実施され、その結果、全体の規模は南北約270m、東西約145mで、その東側に南北約211m、東西約52mの張り出し部分があることがわかりました。
現在、下野国分尼寺跡は、主要伽藍の基壇と礎石が復元表示され、史跡公園として人々の憩いの場として活用されています。

(この項、「」HPより)

        

「中門跡」。

                「金堂跡」。

西(「国分寺」跡方向)を望む。

 ところで、
       
          JR東日本「大人の休日倶楽部」のポスター。吉永小百合さんの後ろのすばらしい桜は、「国分尼寺跡」の桜とのことです(地元の情報)。

 敷地内には、この他にも大きな桜の古木が見られます。薄墨桜、シダレザクラ・・・。 
「鐘楼跡」。
           吉永小百合さんの背後に咲く満開の桜は、この桜のようですが・・・。

      広々とした空間。
         ここにどれほどの素晴らしい堂塔がそびえていたか。天平の古を空想させます。
「僧坊跡」。

「鐘楼跡」。

                   「経蔵跡」。 
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「天平の丘公園」。その5。「万葉歌碑」、「平成の丘」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-15 21:30:51 | 日光例幣使街道
    「明日香川」に架かる「子宝橋」を渡って広場に出ます。ヒカンザクラが咲き始めています。
                

咲き満ちて なほ咲く桜 押し合へる 剛一

今瀬 剛一(いませ ごういち、1936年9月15日 - )
 茨城県出身の俳人。少年時代の1944年、父の生地である茨城県小松村(現・城里町)に疎開し、以後同地に住む。1959年より高校教諭として勤める。1961年、「夏草」入会。1971年、「沖」創刊とともに参加し能村登四郎に師事。1975年、沖賞、1979年、茨城文学賞受賞。1986年、「対岸」を創刊・主宰。2008年、句集『水戸』により第47回俳人協会賞を受賞。他の句集に『対岸』『約束』『高音』『仲間』『新船』『地力』など、俳書に『芭蕉体験・三冊子をよむ』『能村登四郎ノート』などがある。俳人協会副会長、日本現代詩歌文学館評議委員、大子町観光大使などを務める。日本文藝家協会会員 日本ペンクラブ会員。NHK俳壇講師なども務めていた。俳人の今瀬一博は息子。


「明日香川」。山上憶良の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」にあやかって、順に「銀橋」、「金橋」、「宝橋」、「子宝橋」があります。


川のほとりには「犬養孝先生 万葉歌碑」。



                            

下野火長 物部真嶋
麻都能氣乃  奈美多流美礼波  伊波妣等乃  和例乎美於久流等  多々理之母己呂

松の木の 並みたる見れば 家人の 吾れを見送ると 立たりしもころ


(訳)松の木の並んでいるのを見ると、家の人達が私を見送って立っているようだ。

 防人として九州・太宰府に赴く途次、松並木を見る度に、見送ってくれた家人との別れの情景を思い浮かべ、故郷・下野にいる家族への思いをいっそう深くする。 

防人(さきもり)
 646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。
 663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。「さきもり」の読みは、古来に岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫、肥前の諸国に配備された。
 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 ・・・
 院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。
 防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。

『万葉集』には、こんな歌も残されています。

韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
(訳)すそにすがりついて泣く子どもを置いてきてしまったなぁ。母親も(死んでしまって)いないのに。
 
林の中にある小高い丘は、
 
                             オトカ塚古墳 古墳時代後期6世紀後半に築造された帆立貝形前方後円墳。

 前方に芝生の小高い丘が見えてきます。
「平成の丘・国見山」。

 空撮では「前方後円墳」の形をしています。
 
 「解説文」によれば、この土地の西側は谷筋のため、耕作地としては適せず、植林もしにくい所だったようです。そのため、誇れる町の子孫に残さんとして古墳の形を擬した。さらに、小金井区画整理事業の残土を運んで谷を埋め、頂上を国見山と呼んだ、とのこと。
 また、筑波山より双石を移し、その石の下にはこの地より発掘した五百年前の古銭を埋めて「銭成石」と名付けたようです。

銭成石の鳴き竜
 平成2年7月20日、この塚の造成中に地下に眠っていた渡来銭、開元通宝など59種12,441枚が出土した。
 この塚の銭成石の下に古銭百枚が埋めてある。階段下の石畳にある白線の上で拍手をすると鳴き竜がする。

 確かに辺りに響くようないい音がします。頂上にある解説文では、「銭成石」とは「銭鳴石」とのことです。

「サルスベリ」。右下に「銭石」。

渡来銭及び常滑壺
 この渡来銭は、天平の丘公園整備工事中に発見されたものです。出土した渡来銭は合計12,441枚で、唐の開元通宝(初鋳621年)から明の宣徳通宝(初鋳1426年)までの59種類で、中国の北宋・南宋時代のものが約77%を占めています。埋められた年代は、宣徳通宝の初鋳年から考えて、遅くとも15世紀前半の室町時代中期と考えられます。この渡来銭が入っていた壺は、器高41cmの常滑焼(愛知県知多半島)で、中世の六古窯のひとつとして有名です。この壺の生産年代は15世紀前半から半ばと推定されます。
(「」HPより)

南を望む。

西を望む。急な谷になっています。

2010年代のようす。公園として整備されています。

1970年代のようす。公園が造成される前。

 関連する万葉歌。
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く 額田王

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は 舒明天皇 
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「天平の丘公園」。その4。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-12 23:40:10 | 日光例幣使街道
                        「さわひよどり沢鵯(沢蘭・さわあららぎ)」。
この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は 黄葉たりけり 孝謙天皇
この里は、いつも霜(しも)が降りるのでしょうか。夏の野で私が見た草《澤蘭(さはあららぎ)》は、色づいていました。

 この歌の題詞には
 「孝謙天皇と光明皇后が揃って藤原仲麻呂の家にいらっしゃった時に、色づいた澤蘭(さはあららぎ)を一株抜き取って、・・・藤原仲麻呂にお贈りになった歌」
 とあります。

(「」HPより)

「すみれ」。
春の野に すみれ採(つ)みにと 来しわれそ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける 山部赤人

「ささ」。
小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱るとも われは妹思ふ 別れ来ぬれば 柿本人麿
 柿本さんの熱い思いにはささやかすぎる笹の群れ(それもなさそう)。

「すもも」。
吾が園の 李(すもも)の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも 大伴家持

「しきみ」。
奥山の 樒(しきみ)が花の 名の如とや、しくしく君に 恋ひわたりなむ 大原真人今城(おおはらのまひといまき)

「たで(蓼)」。
童(わらは)ども 草はな刈りそ 八穂蓼(やほだて)を 穂積(ほずみ)の朝臣(あそん)が 腋草を刈れ 平群朝臣(へぐりのあそん)

意味: 子供たちよ、草を刈るな 穂積の朝臣の(におう)脇毛を刈りなさい。

平群朝臣(へぐりのあそん)が、穂積の朝臣をからかって詠んだ歌。
(「Wikipedia」より)
 「タデ」といえば、「蓼(たで)食う虫も好き好き」ということばがあります。辛い蓼(たで)を好んで食う虫があるように、人の好みはさまざまだ、というたとえとして用いられます。
 タデは湿地に生え、草丈30㎝~80㎝程の高さになり、葉の形は披針形をしていています。茎や葉に辛味があり、古くから薬味として親しまれ、特に、タデの香りと辛味が塩焼きにした鮎独特の内臓の苦みや香りと相性がいいようです。
 刺身のつまとして用いられる赤紫のタデは、「ベニタデ(紅蓼)」という種類になります。

という具合に、興味深い歌も多くあって、楽しませてくれます。

「ていかかずら(つた)」。
岩綱(いはつな)の また変若(をち)ちかへり あをによし 奈良の都を またも見(み)むかも
 岩綱のように、また若返って、奈良の都をまた見ることができるでしょうか。

岩綱は蔦のこと。

 奈良から恭仁京(くにのみやこ)に遷都され、奈良の都が荒廃していくのを悲しんで詠んだ歌、三首のひとつ。

ツタ
 キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木で、和名は「定家葛(ていかかずら)」。平安末期、式子内親王を愛した藤原定家が、死後に葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたという伝説から、この名がついたとされています。(能『定家』)

「ところ(ところづら)」。
皇祖神(すめろき)の 神の宮人 冬薯蕷葛(ところづら) いや常(とこ)しくに われかへり見む
代々の天皇に仕えている宮人は野老(ところ)の蔓(つる)のように末長く見守りたいものです。

「トコロ」。
 ヤマノイモ科の蔓性 (つるせい) の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老 (やろう) とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。

(注:写真では「ところ」がどれか定かではありません。足下の小さな草? )

「なでしこ」。
野辺見れば 撫子の花 咲きにけり わが待つ秋は 近づくらしも

「にわとこ(やまたづ)」。
君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ 衣通王(そとほしのおほきみ)

あなたがいらっしゃってから、ずいぶんと日が過ぎてしまった。山たづのように、あなたを迎えに行きましょう、待ってなんかいられない。

 軽太子(かるのひつぎのみこ)が軽太郎女(かるのおおいらつめ)と関係を結んだので、太子は伊豫(いよ)の湯に流された。この時に、衣通王(そとほしのおほきみ:軽太郎女のこと)は恋しさに堪えかねてあとを追っていった時に詠んだ歌、とあります。

「つげ」。
君なくは、なぞ身(み)装(よそ)はむ、櫛笥(くしげ)なる、黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も、取らむとも思はず 播磨娘子(はりまのおとめ)

あなた様がいらっしゃらないなら、どうして身を装ったりするでしょうか。櫛箱(くしはこ)の黄楊(つげ)の小櫛も手に取ろうとは思いません。

「櫛笥」は、櫛や化粧具を入れる箱のこと。

「なつめ」。
玉掃(たまばはき) 刈り来(こ)鎌麻呂(かままろ) むろの樹と 棗(なつめ)が本を かき掃(は)かむため 長意吉麻呂(ながのおきまろ)

玉掃(たまばはき)を刈(か)って来なさいよ、鎌麻呂(かままろ)よ。むろの木と、棗(なつめ)の木の下を掃除(そうじ)するために。

「玉掃」は、キク科の高野箒(こうやぼうき)のこと。
(「Wikipedia」より)

 「万葉集」に登場する草花、樹木は主に一年草や落葉樹が多く、秋から冬にかけては、開花の時期に合わせての鑑賞に適さないものもあり、また「植物園」の趣を保つための手入れも大変そう。

「ふじ」。
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くべき時に 近づきにけり 田辺福麿

「ひめゆり」。
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ 坂上郎女(さかのうえのいらつめ)

(「」より)

手前が「ふたりしずか(つぎね)」、奥が「ほおのき」。
つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し徒歩(かち)より行けば ・・・

「つぎねふ」は「山城」にかかる枕詞。

和名は、2本の花序を、能楽「二人静」の静御前とその亡霊の舞姿にたとえたもの。

「ほおのき」
我が背子(せこ)が 捧げて持てる 厚朴(ほほがし)は あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ) 僧(ほうし)恵行(えぎょう)

あなたさまが持っていらっしゃる厚朴は、まるで青い蓋(きぬがさ)のようですね。

注:ここでの「あなた」とは、大伴家持のこと。

「ひがんばな(いちし)」。
道の辺の 壱師(いちし)の花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻は 柿本人麻呂歌集

道のほとりに咲く彼岸花が目立つように、世間に知られてしまった、我が恋妻のことを(心のうちにしまっておいたのに)。

 ということで、ゆっくりと鑑賞する時間もなく一巡しました。園内には他にも、

我がやどの い笹群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも 大伴家持

家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 有間皇子

白露と 秋萩とには 恋ひ乱れ 別くことかたき 我が心かも よみ人知らず

などがあるようです。

 なお、万葉歌の鑑賞にあたっては、「たのしい万葉集: 草花を詠んだ歌」HPを参照させていただきました。
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「天平の丘公園」。その3。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-11 20:21:09 | 日光例幣使街道
                            園内にある歌碑などの解説図。半日でも回りきれないほど。

 まだまだ遊歩道に沿って草木とそれにちなむ万葉集の歌が掲げられています。
手前が「からむし」。
むしぶすま 柔(なご)やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも 藤原麿

注:「むしぶすま(蒸し衾)」カラムシの繊維で織った夜具。
  「柔(なご)や」〈や〉は、接尾語。柔らかなこと。
京職・藤原麿(麻呂)が大伴郎女(おおとものいらつめ)に贈った歌三首のうちの一首。
 
 ふかふかとした柔らかい布団をかけて寝ているけれど、あなたがそばにいないので肌はすっかり冷たいままだ


 からむしは、イラクサ科の多年草で、苧麻(ちょま)とも言われます。繊維を青苧(あおそ)と呼んでいます。
  

 からむしを原料とする上布の生産地では、越後(越後上布・小千谷縮布)や宮古(宮古上布)、石垣(八重山上布)などがあり、昭和村は本州における唯一、上布原料の産地となっています。
からむし織
 作った糸は、昔ながらの機織り作業(地機による手織り)により、立派な反物に仕上げられます。 糸がデリケートなため高度な技術を必要とします。

 肌に付着しない夏衣として気持ちよく、一度着用すれば他の織物を着ることができなくなると言われています。
現在では、着尺、帯、小物等がからむし織で生産されています。


(この項、「」HPより)


その奥には「あかめがしわ(ひさぎ)」。
ぬばたまの夜(よ)の更(ふ)けぬれば久木生(ひさきお)ふる清き河原に千鳥しば鳴く 山部宿禰赤人

山部赤人が天皇の吉野行幸時に詠んだ歌。
「久木(ひさき)」は「楸(ひさぎ)」で、アカメガシワの古名。

「いちいがし」。
・・・あしひきのこの片山に二つ立つ櫟(いちひ)が本(もと)に梓弓(あづさゆみ)八つ手挟(たばさ)み・・・乞食者

 乞食者(ほかひひと=ほかいびと)とは、文字通りの乞食という意味ではなく、門口や路上で芸を売って食を得ていた、芸能民だったといわれています。
 万葉集にある乞食者の歌二首は、それぞれ鹿と蟹の立場に立って、それぞれ人間たちに食われることの苦しみを歌ったもの。詠うのに合わせて身振り手振りを加えて面白おかしく演じられたのではないかと想像されています。
 上の歌(長歌)は鹿のためにその嘆きを述べた歌の一部。

   愛子(いとこ) 汝兄(なせ)の君 居り居りて 物にい行くと
   韓国(からくに)の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来
   その皮を 畳に刺し 八重畳 平群(へぐり)の山に
   四月(うつき)と 五月(さつき)の間(ほと)に 薬猟 仕ふる時に
   あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本に
   梓弓 八つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み
   獣(しし)待つと 吾が居る時に さ牡鹿の 来立ち嘆かく
   たちまちに 吾は死ぬべし おほきみに 吾は仕へむ
   吾が角は 御笠の栄(は)やし 吾が耳は 御墨の坩(つぼ)
   吾が目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭
   吾が毛らは 御筆の栄(は)やし 吾が皮は 御箱の皮に
   吾が肉(しし)は 御膾(みなます)栄やし 吾が肝も 御膾栄やし
   吾が屎は 御塩の栄やし 老いはてぬ 我が身一つに
   七重花咲く 八重花咲くと 申し賞(は)やさね 申し賞やさね(3885)

 右の歌一首は、鹿の為に痛を述べてよめり。

・・・
 平群の片山の二本の櫟の木の下で、弓と鏑矢を携えて鹿の来るのを待っていると、牡鹿がやってきて、嘆いていうには、私はすぐにも死んで帝にお使えしましょう、私の角は笠のかざりに、耳は墨の壺に、目は鏡に、爪は弓弭に、毛は筆に、皮は箱に、肉は膾に、肝も膾に、腸は塩辛になりましょう。老い果てた私が一つの身であっても、七重八重に花が咲くと、褒めてください、褒めてください。

 「愛子」から「八重畳」までは「平群山」を導き出す序詞(じょことば)のようなもの。内容は、捕らえられた鹿の嘆きを身振り手振りで即興劇にしたようなものでしょうか。お上によって身ぐるみ剥がれる民衆の嘆きをも譬えているようです。

イチイガシ(一位樫)
ブナ科コナラ属の常緑高木。
 本州(関東以西の太平洋側)・四国・九州・済州島・台湾・中国に分布する。神社に植栽されることが多く、特に奈良公園で多く見られる。
 大きいものは高さ30mに達する。樹皮は黒っぽい灰色、非揃いに剥がれ落ちる。葉は倒非針形から広倒非針形、先端が急に尖り、縁は半ばから先端にかけて鋭い鋸歯が並ぶ。葉はやや硬く、若いうちはその表面に細かい毛を密生、後に無毛となり深緑になる。また、裏面は一面に黄褐色の星状毛を密布する。雌雄同株で4・5月頃に開花する。
 カシ類では例外的に果実をあく抜きせずに食べることができる。また木材は、建築材、器具材として使われる。
奈良公園の「いちいがし」。(HPより)

 「うめ」。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 大伴旅人

春の野に 鳴くや鴬 懐(なつ)けむと 我が家の園に 梅が花咲く 志氏大道

「万葉亭」(四阿)で小休止。

そぞろ歩きに最適な小道。

「こなら」。
下毛野 美可母の山の 小楢のす ま麗(ぐは)し児ろは 誰が笥か持たむ

下つ毛野のみかもの山の、こ楢(なら)のように美しいあの娘は、だれの笥(け)をもつのだろう。

「下毛野」=今の栃木県。「美可母(みかも)の山」=栃木県下都賀郡藤岡町の三毳山。
「笥(け)」=食器のこと。「笥(け)を持つ」というのは、妻になるということ。
    (「Wikipedia」より) 

手前が「さといも(うも)」、奥が「このてかしわ」。
蓮葉は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは 芋(うも)の葉にあらし 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)


サトイモ。(「同」より)

ハス。(「同」より)

奈良山の 児手柏(このてかしは)の 両面(ふたおも)に かにもかくにも 侫人(こびひと)の伴(とも) 消奈行文(せなのぎょうもん)

 奈良山(ならやま)の児手柏(このてかしは)の裏表のように、どっちにしてもひねくれた奴らだな。

 この歌の題詞には「侫人(こびひと)を謗(そし)る歌」とあります。侫人(こびひと)とは、心のひねくれた人のこと。
(「同」より)
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「天平の丘公園」。その2。「万葉植物園」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-10 21:54:00 | 日光例幣使街道
                   「天平の風薫る 下野国分寺周辺散策イラストマップ」(下野市観光協会)



            「修学の門」。「万葉植物園」の標識。


 落ち葉が敷き詰められた道を進む。あまり訪れる人もいないのか、ちょっと手入れが行き届かぬようすですが。
 しかし、万葉集中の歌が関連のある草花や樹木に添えられていて、飽きません。
 

            あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王

 「あおぎり(梧桐)」。
 梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬(つしま)の結石山(ゆひしやま)の孫枝(ひこえ)なり 此の琴夢に娘子に化りて曰く・・・ 大伴旅人

729年のことです。
大宰府長官大伴旅人は朝廷の要職にあった藤原房前(ふささき:不比等の第二子 参議)に梧桐(ごどう)で作られた琴を贈るにあたり歌二首を添えた書状をしたためました。
 梧桐とは一般的には青桐(アオギリ科)とされていますが、文学作品では普通の桐(ゴマノハグサ科)をいうことが多いようです。
 書状は旅人が夢に見た琴の精である乙女との会話から始まります。
 『この悟桐製の日本琴(やまとこと)は対馬の結石山(ゆひしやま)の孫枝(ひこえ:根もとの脇から生えた枝) から作られたものです。
  この琴が夢で乙女になって現れ、こう言いました。
 「私は遥か遠い対島の高い峰に生え、大空の美しい光に幹をさらして育ちました。
  いつもまわりを雲や霞に取り囲まれ、山や川のもとで遊び暮らし、遠く海の風波を眺めながら、伐られるか伐られないか分からないまま立っていました。
 ただ一つ心配なことは、このまま長い歳月を経たのち寿命を終え、空しく谷底に朽ち果てることでございました。
 ところが幸いにも立派な工匠(たくみ)にめぐり合い、伐られて小さな琴になることができたのです。
 音は粗末で響きも悪うございますが、いつまでも徳の高いお方のお側に置いて戴けることを願っております。 」
 このように語った乙女は次のように詠いかけました。
「 いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ
    人の膝の上(へ) 我が枕かも 」    巻5-810 大伴旅人
 そこで私も歌で答えました。

「言問わぬ 木にはありとも うるはしき
    君が手(た)馴れの 琴にしあるべし 」   巻5-811 同上
 すると乙女は「つつしんでご親切なお言葉をうけたまわりました。ありがたいきわみでございます。」と答えたのです。
 私はふと目が覚めて、しみじみと夢を思い、乙女の言葉に感じ入ってじっとしていることができません。
 そこで公用の使いにことづけて、その琴を御進呈申し上げる次第です。 』

(以上、「万葉集遊楽manyuraku.exblog.jp」HPより)

「あせび(馬酔木)」。
わが背子に わが恋ふらくは 奥山に 馬酔木の花の 今盛りなり

「あおつづらふじ」。
上毛野(かみつけの) 安蘇山葛(つづら) 野を広み 延ひにしものを 何か絶えせむ

どれなのか分からなかったので、「Wikipedia」から。

  「えのき」。
わが門の 榎の実もり食む 百千鳥 千鳥は来れど 君ぞ来まさぬ


けっこうたくさんの草木と関連する歌が添えられています。「かつら」。
黄葉する 時になるらし 月人の 桂の枝の 色づく見れば

 この歌にもあるように、中国の伝説では、「桂」は「月の中にある理想の木」ですが、中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)のことであって、日本と韓国では古くからカツラと混同されているようです。

 万葉集にはこんな歌も。
目には見て 手には取らえぬ 月の内の 楓(かつら)のごとき妹を いかにせむ 湯原王

「おきなぐさ(ねっこ草)」。
芝付(しばつき)の 御宇良崎(みうらさき)なる ねつこ草 相見ずあれば 我れ恋ひめやも  

 注:「芝付の御宇良崎」=神奈川県の三浦半島とされている。

オキナグサ
 白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭にたとえ、翁草(オキナグサ)という。 ネコ(ネッコ)グサという異称もある。
 日本では、本州、四国、九州に分布し、山地の日当たりのよい草原や河川の堤防などに生育する。アジアでは、朝鮮、中国の暖帯から温帯に分布する。
 かつて多く自生していた草地は、農業に関わる手入れにより維持されていた面があり、草刈などの維持管理がなされくなり荒廃したこと、開発が進んだこと、それに山野草としての栽培を目的とした採取により、各地で激減している。
 全草にプロトアネモニン・ラナンクリンなどを含む有毒植物。植物体から分泌される汁液に触れれば皮膚炎を引き起こすこともあり、誤食して中毒すれば腹痛・嘔吐・血便のほか痙攣・心停止(プロトアネモニンは心臓毒)に至る可能性もある。
(以上、「Wikipedia」参照)

 気のせいか、紹介されている歌は、どうも恋の歌(相聞歌)が多いようです。 

「うづき(うのはな)」。
鶯の 通ふ垣根の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ

 ウツギの名は「空木」の意味で、茎が中空であることからの命名。花は「うつぎ」の頭文字をとって「卯(う)の花」とも呼ばれ、童謡『夏は来ぬ』で歌われるように初夏の風物詩とされてきました。また、旧暦4月を卯月と呼ぶのは「卯の花の咲く季節」の意であるとされています。


「夏は来ぬ」(作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助)

1卯の花の 匂う垣根に
 時鳥 早も来鳴きて
 忍音もらす 夏は来ぬ
2さみだれの そそぐ山田に
 早乙女が 裳裾ぬらして
 玉苗植うる 夏は来ぬ
3橘の 薫るのきばの
 窓近く 蛍飛びかい
 おこたり諌むる 夏は来ぬ
4楝(おうち)ちる 川べの宿の
 門遠く 水鶏声して
 夕月すずしき 夏は来ぬ
5五月やみ 蛍飛びかい
 水鶏鳴き 卯の花咲きて
 早苗植えわたす 夏は来ぬ

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「天平の丘公園」。その1。(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-09 20:04:08 | 日光例幣使街道
 「壬生通(小山~楡木)」を歩いたとき、「下野国分寺」跡以外は、通り過ごした「天平の丘公園」に行ってきました。
(9:40)JR宇都宮線「小金井」駅に到着。ここから「天平の丘公園」までは歩くとけっこうありそう。


 そこで、駅前にある「下野市観光案内所 オアシスポッポ館」でレンタサイクルをお借りします。(1日300円)
 「観光案内図」ももらって、出発です。半袖では少し肌寒い感じ。でも、かえって快適。ほぼ真西に進みます。

「国道4号線(現日光街道)」を越えると、田園が広がります。

 (10:06)「姿川」に架かる「紫橋」を越えて行くと、向こうの森が「天平の丘公園」。「伝紫式部の墓」はここの地名「紫」と関連がある、とのこと。


姿川
 栃木県の南部を流れる利根川水系思川支流の一級河川である。
 栃木県宇都宮市新里町の鞍掛山から流れ出る栗谷沢に源を発する。宇都宮市西部の宝木台地西縁を南に流れ、下都賀郡壬生町・下野市を経て小山市黒本で思川に合流する。宇都宮市新里町の源流部の標高は約200m、思川との合流地点の標高は約40mであり、この標高差約160mを約40kmかけて流れる。
 流域には大谷石の採掘で著名な大谷地区がある。
 流域に石室を持つ古墳が多く存在していることから、採掘された大谷石の運搬水路として古代より利用していたと想像されている。下流域にあったとされる下野国府の礎石も大谷で切り出されて姿川を経て運ばれたとされる。
 江戸時代に江戸の経済圏に組み込まれた北関東は一円の運搬水路が整備され、姿川でも舟運が行われた。(以上、「Wikipedia」参照) 



2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」)
→が「壬生通」。○が「下野国分寺跡」、右上に「国分尼寺」跡」。右下の橋が「紫橋」。中央の森一帯が「天平の丘公園」。

駐車場に自転車をとめて園内を散策。「研修・公園管理棟 秋山亭」。

 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我れは 額田王

 こういうぐあいに、要所、要所、20箇所ほど「万葉集の歌碑」があるようです。それを探しながら歩くのも楽しいものです(実際にはなかなかそうもいかず、そのうちのいくつか)。

 
 「防人街道」をたどり、「伝紫式部の墓」へ。



                  
紫式部の墓
 この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約1㎞北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と言われるようになったと思われます。 

では、本物の墓はどこにあるのでしょうか?

66 紫式部の墓はどこにあるか (『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫)よりお借ります。(HP)

 紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362~68年ごろ初稿本成立)に、
 式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
 ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802~52)墓との二つが並んでいます。
 実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
 篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
 紫式部は人々をたぶらかす狂言綺 語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
 したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
 それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。

作成日:2015年2月6日

 園内に戻ると、木々に歌が取り付けられてあります。「やまざくら」には「匂宮」という名称、そして万葉集の歌。

 去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも 若宮年魚麿(あゆまろ)

 公園内に原生していた山桜には近在の愛好家によりニックネームが付けられているようです。

この山桜にも「空蝉」と。そして、歌が。

 山峡に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をか思はむ 大伴池主

 それぞれ、紫式部の『源氏物語』にあやかって、このほかにも

 「光源氏」、「大弐三位」、「夕霧」・・・

 それぞれの桜を探しながら、愛でるという趣向。けっこうな古木・山桜が目に付きます。

 誘われるように「万葉植物園」へ。 
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その6。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-10-02 19:48:55 | 日光例幣使街道
                            先に進みます。
小さな祠の前に大きな鉄釜? 

その先、左手奥には酒造会社の煙突らしきもの。廃業に? 

これまでの街道筋で見かけた「馬力神」が。

これもよく見かけるカエルの置物。

こちらは「馬頭観音」。

御殿のようなおうちも見かけます。


遠く正面に「「男体山」(↓)。すっかり晴れてきます。

(13:52)「七ツ石伝承館」案内。
どういう内容の「伝承」なのでしょうか? ところで、
地名の由来
 七ツ石地内にある伊邪那岐命を祀る熊野神社の伝説にちなんでおり、神社の傍らにある丸い石が7度鳴動して現出したという。また、鎌倉時代に日蓮一行7人が布教のためこの地を訪れた際に道端の7つの石に腰を掛け休憩したことから名づけられたという説も伝えられる。(「Wikipedia」より)

先に進みます。

正面に見えていた「男体山」が左手の田んぼ越しに。

(14:03)「鹿沼市」に入ります。

かなり大きな自然石の「馬力神」。

田んぼの向こうに「男体山」。

これは親子のカエル。

しばらく進むと、田んぼの中に「前方後円墳」。

                        
判官(はんがん)塚古墳」。
 判官塚古墳は、南流する黒川と思川に挟まれた台地上に位置している前方後円墳です。市内には数多くの古墳がありありますが、大正年間の耕地整理の際に、付近にあった十数基の小円墳が壊されましたが、この古墳は、それらの群集墳(判官塚古墳群)の中心墳でもあります。
 ・・・古墳時代後期のもので、7世紀前半につくられたものと思われます。
 石室は、後円部にあって南に面して開口しています。両袖型の横穴式石室は全長5.9㍍ですが、現状は羨道(入口)が土砂で埋まっていて、中へ入ることはできません。
 この古墳は、源九郎判官義経の冠を埋めたので冠塚(かぶりづか)と呼ばれ、また、判官の名前をとって判官塚古墳というなど、いくつかの伝説を秘めています。

(14:23)さらにその先に今回最後の「北赤塚一里塚」。

                                

 
「江戸から25里目(約100㎞)」。

塚の西側には「馬頭観音」などの石仏群。 


その先で、本日最後の杉並木に。
   



振り返って望む。 

(14:45)「東北自動車道」をくぐると、「楡木の追分」もいよいよ間近に。
  

左手にこの前歩いた「例幣使街道」の家並みが見えてきます。 

新しく整備された並木道に。

前方に「追分」の道路標識が。  

合流して日光へ向かう道が見えてきます。いよいよ今回のゴール。

(14:56)追分の道標。「右中山道 左江戸道」。

「例幣使街道」を望む。

 ここまでで、「壬生通(道)」歩きは完了。「倉賀野~楡木」(例幣使街道)と「小山~楡木」(壬生通・道)が合流。さらに、下今市で「江戸~日光」(日光道中)と合流して日光・神橋へ。

 これで、「日光道中」(「日本橋」~「日光」)、「日光御成街道」(「本郷」~「幸手」)、「例幣使街道」(「倉賀野」~「楡木」)「壬生通・道」(「小山」~「下今市」)と日光社参にかかわる街道歩きは完結。

 が、実は、まだ日光にまつわる街道があります。「千人同心街道」(「西八王子」~「佐野」)。次回はこの道を歩いてみようかな、と。

 15時10分発の上り電車に乗るため、「楡木駅」へ急ぎます。
(15:06)東武日光線「楡木」駅到着。ぎりぎり間に合いました! 

鹿沼・日光方向。 
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その5。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-10-01 18:40:18 | 日光例幣使街道

 壬生の町を出ると、田園風景が広がります。食事処は見当たりませんが。左側には用水が流れていてのどかな道筋。
 


一面の蕎麦畑。

来た道を振り返る。右手に水路。

 街道沿いに「蕎香」の看板や幟が。期待して立ち寄ってみよう、と街道からはずれて向かいます。ところが、「臨時休業」!
 
                                (12:34)残念! 街道に戻り、先へ。

杉に混じってバショウの木。 

「北関東自動車道」の高架下を過ぎると

 道の正面遠くに「男体山」が姿を見せます。けっこう見応えのある山容。
           

(13:05)その先、コンビニの隣には「金売り吉次の墓」がぽつんと。
 
金売り吉次の墓(伝説)
 金売り吉次は、鎌倉時代の始めに源義経に仕えた金売り(砂金などの売買を商売とした者)です。
 義経は平家を壇ノ浦に滅ぼした後、兄頼朝と不仲になり、奥州平泉へ逃れました。吉次は義経の伴をし、この稲葉の地まで逃れてきましたが、病にたおれこの地で生涯を終えました。里人たちにより、吉次の墓とともに吉次の守護仏である観音像を祀ったお堂(ここより約20m東に現存)が建てられたといわれています。
 また、江戸時代の「奥の細道」で知られる松尾芭蕉に随行した曽良の日記に、

「壬生ヨリ楡木ヘニリミフヨリ半道ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方 20間ハカリ畠中ニ有」

と記されています。

 「金売り吉次」の墓は「奥州街道」・「白河」の手前にもあります。(訪問時の記録。吉次三兄弟の石塔と解説板。)

 林の中に三基の石塔。 

市指定重要文化財(史跡) (伝)金売吉次兄弟の墓 
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混ざっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。

 白河市教育委員会

「奥の細道」の頃も今も畠中(田んぼの中)。


1880年代のようす。街道の左に用水。左右が並木道。


2010年代のようす。
            「北関東自動車道」の先、コンビニの脇に金売り吉次の墓が見えます(↓)。


すぐ先に「稲葉の一里塚」が見えてきます。

左の塚。

右の塚は一部が住宅地の一角に保存されている。
 稲葉一里塚は、国指定史跡の壬生一里塚と同様に、日光道中壬生通り(日光西街道)に設けられた一里塚です。
 江戸日本橋から数えて24里目にあたり、江戸時代の古文書によれば塚の上には松が植えられていました。
[壬生通りの一里塚]
  壬生通りには、小山の喜沢から今市の間(約45km)に、次の11ケ所の一里塚がありました。
喜沢の一里塚(小山市・市指定)  ・鹿沼の一里塚(鹿沼市・消滅)
飯塚の一里塚(小山市・市指定)  ・富岡の一里塚(鹿沼市)
壬生の一里塚(壬生町・国指定)  ・小倉の一里塚(今市市)
稲葉の一里塚(壬生町・町指定)  ・板橋の一里塚(今市市)
赤塚の一里塚(鹿沼市)       ・室瀬の一里塚(今市市)
・奈佐原の一里塚(鹿沼市・消滅)

 今回の歩きでは、このうち、5つの一里塚が残されています(赤字)。

その付近から先を望む。

(13:12)右手に「鯉沼九八郎翁」の碑。

                          
 明治維新後、自由民権運動が盛んになり本県では県南を中心に運動が起こり、その一翼をになったのが下稲葉の鯉沼九八郎でした。
 明治17年(1884)、栃木県庁が栃木市から宇都宮市に移され開庁式が行われることになり、九八郎を中心とする急進的な民権論者たちは、この機に県令三島通庸をはじめ政府要人の暗殺を計画し、騒乱を起こそうとしました。しかし、失敗し自分自身も爆裂弾の暴発により左腕を失いました。また、この事件は「加波山事件」の引き金となりました。
 これにより、九八郎は投獄されますが、明治26年(1893)出獄し、その後県会議員となり「加波山将軍」とも称され県議会で活躍しました。
 九八郎は大正13年(1924)、73才をもって波乱の一生を終えました。

注:加波山事件とは (以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」の解説)
 1884年(明治17)9月、栃木、茨城、福島3県下の急進的自由党員が明治政府を転覆しようとした事件。
 1882年以来のいわゆる松方デフレ政策は米価の暴落と増税をもたらし、中・貧農層の急激な没落を招き、84年には最悪の状態となった。関東、東海地方では没落農民たちが借金党や困民(こんみん)党を結成して蜂起(ほうき)した。
 加波山事件は、群馬事件、秩父(ちちぶ)事件、飯田(いいだ)事件など、この年に起こった事件とともに、農民の窮乏状態を背景としていた。
 福島事件で弾圧されたのち83年4月に釈放された河野広体(こうのひろみ)、小針重雄(こばりしげお)、三浦文治(ぶんじ)らは、宿敵の福島県令三島通庸(みちつね)を暗殺しようと計画して上京した。
 10月、三島は栃木県令をも兼務することになり、ここでも早速に奥羽街道の開削と栃木町から宇都宮への県府移転にとりかかった。こういう情勢のなかで、栃木県下都賀(しもつが)郡の自由党員鯉沼九八郎(こいぬまくはちろう)らも同志を集め、83年末から政府転覆を企てて爆裂弾の製造に着手していた。この二つのグループは84年の初めに連合して三島の暗殺をねらったが好機を得ず、その後7月に東京で開かれる授爵祝賀会の際政府高官の暗殺を企てたが、会が延期されたため志を遂げえなかった。
 そこで、9月に宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に出席予定の太政(だじょう)大臣三条実美(さねとみ)以下の顕官暗殺を計画し、茨城自由党員富松正安(とまつまさやす)らを同志に引き入れた。彼らは落成式が9月15日に行われるという情報を得、計画実行のために、一方では河野らが東京・神田神保(じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って資金を得ようとして失敗し、他方では鯉沼が爆裂弾の製造中に誤って重傷を負った。そのうえ、落成式は延期された。
 官憲は強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏していることをつきとめた。事態が急迫するなかで、彼らはついに茨城県の加波山に兵をあげた。9月23日のことである。挙兵参加者はわずか16名であったが、専制政府の転覆を掲げた最初の挙兵であり、爆裂弾を使用した点でも初めてであった。
 同志は各地で逮捕され、富松、保田駒吉(やすだこまきち)、琴田岩松(ことだいわまつ)、小針、杉浦吉副(きちぞえ)、三浦、横山の7名が死刑、河野ら7名が無期徒役(とえき)、ほか戦死1名、公判前死去1名であった。[後藤 靖]
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その4。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-28 19:37:59 | 日光例幣使街道
                        (11:23)「壬生通(道)」の名のもととなった壬生宿(町)へ。

壮大なおうち。沿道にはこういう建物が目に付きます。

「東武宇都宮線」の踏切を越えます。

振り返ると、電車が壬生駅方向へ。

その先、左から来る道は「栃木道」。

「壬生交番」の前で右折します。


(11:35)さらに「壬生駅入口」交差点を左折します。

「蘭学通り」となり、宿場らしい直線の道筋に。

すぐ右手に堂々たる門構えの「松本内科医院」。

              「本陣」と見まがうようなつくり。
 注:壬生宿の副本陣は「松本家」が勤めていたようです。

「下野近代医学発祥の地 蘭學通り」解説板。

                         
 壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭學通り」と命名したものです。

わが街 空から
先端医学幕末に実践
2014年10月25日 05時00分

蘭学通り (壬生町)
 壬生町役場の西側、国道352号交差点から壬生駅前交差点までの県道約1キロを「蘭学通り」という。今は老舗の理容店や菓子店などが軒を連ねるが、幕末には国内有数の蘭学者が集い、「医学の街」として栄えた。通り沿いには蘭学者の息吹を伝える史跡も多く、町が20年ほど前に名づけた。
 壬生と蘭学との関わりは1801年、蘭学医の斎藤玄正が壬生藩のお抱え医になったことに始まる。玄正の嫡子・玄昌が学問塾「勝怠(しょうたい)堂」を開き、門人を育成した。玄昌はさらに、藩主の鳥居忠挙(ただひろ)の支援を得て、当時ご法度だった人体解剖や、天然痘予防の牛痘ワクチン接種を県内で初めて実施。蘭学研究の機運がいっそう高まった。
 通りの北西側にある常楽寺には鳥居家と斎藤家の墓が並び、壬生の発展を見守り続ける。常楽寺から路地を抜けて通りに出れば、勝怠堂跡にぶつかる。そこから南下すると見えてくる蔵造りの長屋は、玄昌とともに藩医を務めた石崎正達の生家。長屋の裏では、子孫が「石崎眼科」を開業している。
 町は蘭学で街おこしをしようと、電線地中化など通りの整備を進めてきた。石崎家の長屋は改装して観光客の休憩所とし、長屋の向かいには壬生の歴史を紹介する「自成館」を建てた。自成とは、「おいしい実や美しい花をつける桃やスモモの木の下には、自然と人が集い小道ができる」という古いことわざの一部。壬生藩の江戸藩邸にあった藩校「自成堂」にちなんだ。
 「蘭学通り」の名づけ親で、壬生の医学史を20年以上研究している町立歴史民俗資料館の中野正人学芸員(55)は「自成の言葉通り、奥深い歴史と美しい街並みに魅せられ多くの人が集まる街」と胸を張る。「壬生がいかに先進的な医学を導入していたか、研究が進むごとに分かってきました。詳しく知りたい方はぜひ資料館にも足を運んでください」
 壬生藩で蘭学が発展した要因の一つに、徹底した論語教育がある。1713年、時の藩主・鳥居忠英ただてるは県内初の藩校「学習館」を開学。論語の素読を教育の柱に据えた。蘭学の本は全て漢文に翻訳されており、その理解には論語で培われた漢文読解力が不可欠だったのだ。
 町は蘭学による街おこしと並び、論語教育を現代に復活させる活動も展開している。2009年から町内の小中学校に資料館の学芸員が出向き、論語の素読を教えている。学習館開学300周年の昨年には、町民1000人の大朗誦(ろうしょう)会を開き、大人から幼稚園児に至るまで論語を浸透させた。
 論語から100章句を選んで壬生藩伝統の読みと解釈を加えた副読本も今春にまとめた。朝学習などでの素読用に全小中学生に配布し、毎週末に開く大人向けの素読会でも活用している。
 蘭学通り沿いで化粧品店を営む石川一郎さん(64)は、副読本をポケットサイズに作り替えて持ち歩いている。「友人や観光客にいつでも壬生のことが話せるように、手放せません」と語る。

(「2014年10月25日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun」HPより)

「増田輪業」さんとその奥一帯が「本陣」跡とのこと。

 左手一帯が「壬生城」跡。
 壬生城は室町時代に壬生氏によって築城された平城。壬生氏は秀吉の小田原攻めで北条方に加わり滅亡し、家康の関東入封後は、一時結城秀康が城主となり、その後、江戸中期に鳥居氏が城主となって幕末まで続きました。

古い家並みが残っています。



                     南方向を振り返って望む。



                       

「淀川肥料店」。

                 

筋違え道。あえて十字路にしない。

文字通りの「長屋門」。お店が連なっています。
                
                            

                

「美しいまち賞」受賞にあたり
 この壬生蘭学通りは、・・・通学路の歩道整備と商店街の活性化を目的に電線類地中化工事が計画され、平成6年から平成14年にかけて総延長780㍍の工事が完了しました。
 壬生町は古くから城下町として栄え、社寺や医者が多いと言われ、特にこの整備された通りには、明治初期の地図や文献を見ると
「神戸 察」「渡辺元良」「匂坂玄皐」「齋藤玄昌」「石崎鼎吾」「五十嵐順知」「渡辺百」「若井武一郎」の名前が確認でき、幕末から維新にかけて開業医たちが活躍していたため蘭学通りと呼ばれています。・・・

向かいには藩校の名にちなんだ「自成堂」。

「興光寺」。
 ・・・慶安4年(1651年)徳川大献院殿の御尊骸日光山へ入御の砌、当寺で通夜が勤められ、この時幕府より「葵」の紋が贈られ、三代将軍家光公ご位牌を安置す。・・・



 どこか食事を、できたらお蕎麦でもと探しながら歩きますが、沿道には見当たらず。ベンチでコンビニで買っていたおにぎりを食べます。
 (12:00)この先、「国道354号線」との交差点「大師町南」で左折します。
          
        
            「壬生宿」の今昔。今も昔も、ほぼ南北に一直線。
      
      
      
1880年代のようす。↑が宇都宮・石橋への道。       2010年代のようす。現在は「国道352号線」。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その3。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-27 21:16:48 | 日光例幣使街道

                  (9:50)「下野国分寺跡」。

 「飯塚一里塚」からしばらく進んで右手に入ると「伝・紫式部の墓」さらに北側には「天平の丘公園」が広がっていますが、そこへ行く道を通りすぎてしまい、「下野国分寺」跡のみ行くことが出来ました。この周囲には史跡が多く点在し、けっこう散策を楽しめるところのようです!
 実際には「国分寺」跡をもっと東に進めばよかったのですが・・・。

 そこでHPより拝借。
全周コース(徒歩約4.5時間、10km)
 しもつけ風土記の丘資料館→伝紫式部の墓→琵琶塚古墳→摩利支天塚古墳→下野国分尼寺跡→下野国分寺跡→愛宕塚古墳→丸塚古墳→国分寺薬師堂→しもつけ風土記の丘資料館
          

「天平の丘公園」。

「伝紫式部の墓」。

「下野国分尼寺跡」。

・・・

 「伝紫式部の墓」とされる五輪塔は鎌倉時代のもので、このあたりの地名が 『紫』 という地名であったので、いつの頃からか紫式部の墓といわれるようになった、とか。

 また、公園内には「万葉植物園」があり、万葉集にちなんだ樹木・植物が植えられているそうです。
 たとえば、「あかね」(「Wikipedia」より)にちなんで 

    あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

 大海人皇子(おおあまのおうじ)が蒲生野で狩りをしたときの宴席で、額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌。額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚をして一女をもうけていましたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、天智天皇(中大兄皇子。大海人皇子の兄)と恋人関係にありました。
 この歌に対して、大海人皇子は返歌をします。それが

    紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

という歌で、この歌も有名。

 注:「あかね」は「あかねさす」という風に用いられ、「紫」「日」「月」「照る」「昼」にかかる枕詞。

 また、公園内には「明日香川」と名付けられた水辺があり、万葉学者犬養孝さんの筆による、万葉仮名で表記された防人歌の歌碑がある、とのこと。

物部真嶋
 松の木の 並みたる見れば 家人(いはびと)の我れを見送ると 立たりしもころ


 後日、訪問してみようと思いますが、車以外だと、JR宇都宮線「小金井」駅から歩くしかないようです。

 さて、「下野国分寺跡」には「県道(壬生道)」から「ラブホテル」脇の道を入っていきます。
「下野国分寺」跡の広大な敷地。

「南大門」から「中門」。その奥、正面に「金堂」、右手に「七重塔」。さらに「講堂」、「経蔵」、「鐘楼」。最奥には「僧坊」と壮大な伽藍を有した寺院でした。

             周辺の史跡案内。

礎石、周囲の石垣の高さ等で当時の建物の規模を再現。

奥が塔の位置。「七重塔」が建っていたようです。 

「中門」跡。

「金堂」跡。

「金堂」の復元想像図。
金堂とは
 ・本尊をまつる寺院の中でも中心的な建物。
  中央須弥壇に本尊の釈迦如来像、脇侍菩薩二体、四方に四天王像を配置していたと考えられます。
 ・下野国分寺ではすべての建物の中で最初に建造されました。
構造
 凝灰岩製壇上積基壇・一重・寄せ棟造り
基壇規模
 東西33.6m(112尺)・南北21m(70尺) 

「経蔵」跡。

「鐘楼」跡。

「金堂」跡から南を望む。

すぐ西にある「甲塚古墳」。円墳形式。

(10:18)街道に戻ってしばらく行くと、「下野市」の標示が。

沿道の所々には大きな樹木があります。かつての並木の名残り。

                 

「花見ヶ岡」交差点。

 この地名の由来となった、親鸞の大蛇退治ゆかりの「蓮華寺」が左手奥にあります。

「壬生(まで)4㎞」。

(10:45)今度は「栃木市」となります。

見事というか風変わりな巨木が左右に。

                             

「黒川」を「御成橋」で渡ります。

                        

注:「御成橋」
 「例幣使街道」で鹿沼宿を過ぎ、「黒川」を渡るときに架かっていた橋が「御成橋」。江戸・本郷からの「日光御成街道」もそうですが、徳川歴代将軍などの「日光社参」に関わる橋の名称のようですが、天皇の行幸などの際にも名付けられた橋の名としても全国各地に存在しています。  

壬生の街中に入って行きます。

                       

(11:16)しばらく進むと、「壬生一里塚」。

                     


・・・壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて23里目(約96㎞)にあたります。
 壬生通は日光道中と小山の喜沢で西に分かれ、壬生・鹿沼・今市を経て、今市において再び日光道中に合流する街道です。壬生の一里塚は、この地が壬生城の入り口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例としたといいます。

左塚のみ残っています。右塚は住宅地の一角に。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その2。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-26 19:19:42 | 日光例幣使街道
宿場入口にある「七面堂」のヒガンバナ。

(9:15)最初の宿場「飯塚宿」。

 かつての屋号を掲げてあるおうちがちらほら。
 

「下本陣」「宮本本陣」。

               ここは「銭湯屋」。

重厚な門構えのおうち。

                               

手打ちそば・うどん「よろず屋」さん。

 このお店の向かいのおうち「矢田貝」さんが「脇本陣」跡、との先達の記事あり。


                 「飯塚宿」の今昔。
    
    
1880年代のようす。              2010年代のようす。下方の旧道は田んぼの中。 

「飯塚宿」を過ぎると、「琵琶塚・摩利支天塚古墳」(右手)の案内板。

この道の突き当たりにあるようです。

 旧道は「杉(?)並木道」だったようで、現在、その跡には新しい樹木が植えられたグリーンベルトが続いています。


(9:31)右手の田んぼの向こうに「琵琶塚古墳」が見えてきます。杉林越しに前方後円墳のかたちが分かります。


                        
琵琶塚古墳
 栃木県小山市大字飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。
 栃木県では第2位の規模の古墳で、6世紀初頭(古墳時代後期)の築造とされる。栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。
本古墳の南方には同じく大規模古墳である摩利支天塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった。
 栃木県では、古墳時代の中頃から大型の前方後円墳が相次いで築造された。これらの前方後円墳は世代を継承するように築かれていることから、下毛野(現在の栃木県の大半)の首長墓と考えられている。下毛野の首長墓ははじめ県中央部の宇都宮市周辺に築かれていたが、摩利支天塚古墳(5世紀末から6世紀初頭)の築造を契機に、小山市北部から下野市・壬生町へ続く思川・黒川流域が首長墓の造営地となった。
 古墳時代後の奈良時代にも当地は下野の中心地であり続け、下野国庁・下野国分寺・下野国分尼寺が置かれるなど、古代下野国の中心地となった。

(以上、「Wikipedia」参照。)

    
    
    
1880年代のようす。並木が続いている。     2010年代のようす。下方の森が「琵琶塚古墳」、「摩利支天古墳」。

(9:35)前方左右にに「飯塚一里塚」が見えてきます。

                    

 
飯塚一里塚(史跡)
 注:かすれて判読不能の箇所あり。
 「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
 この街道は、日光東照宮参詣を中心に開かれた街道で・・・使者、日光輪王寺門跡などの要人も多く利用した。特に東照宮例祭が行われた4月中には通行人でにぎわった。
 明治に入り、鉄道の普及にともなって交通手段も変わり、一里塚の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約4キロメートル南に進んだ地点には、「喜沢一里塚」いる。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。
    
右の塚。最近、塚上にあった木々などを取り払ったようです。        左の塚。


来た道を振り返って望む。

その先で、「小山市」と「下野市」の市境。「おやまぁ またきてね」。

路傍に咲く「ニラ」の花。

                柿。
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喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その1。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-25 19:24:30 | 日光例幣使街道
                              (8:15)「喜沢追分」。斜め右奥の細い道が「旧日光街道」。

 「小山宿」の先で「日光街道(日光道中)」と分かれる「壬生道」。「楡木宿」の手前で、「倉賀野宿」からの「日光例幣使街道」と合流し、日光へ向かいます。そこで、小山・喜沢追分から楡木追分まで歩いてみます。
 JR「小山」駅西口からコミニュティバス(「おーバス」)で「喜沢追分」手前の「静林幼稚園」まで。そこから歩き始めます。


1880年代のようす。○が追分(喜沢分岐点)。
 左上(西北)に進むのが「壬生道」(但し、「農業環境閲覧システム」では「旧例幣使街道」と記されている)。
 「旧日光街道」は斜め右の細い道。


2010年代のようす。旧道の西にある道路は「国道4号線(現日光街道)」。

分岐点には「道標」など。車の後ろの道が「旧日光街道」。 

この道を西北に向かいます。

(8:25)しばらく進むと、左右に「小山ゴルフクラブ」の森が広がります。
                                 江戸時代、「壬生道」の両側には杉並木が続いていたようです。その先に「一里塚」。

 
          「日光街道西一里塚」(「喜沢西一里塚」という方が適切か? )
 一里塚は、1里(約4㎞)ごとのしるしとして、道路の両側に木を植えた塚をいう。
 慶長9年(1604)、徳川家康は後の二代将軍秀忠に命じて、江戸日本橋を起点とし東海道・東山道・北陸道にエノキなどを植えた一里塚を築かせ、全国にこれを普及させた。
 エノキが一里塚に多くのは、根が深く広がって塚を固め、崩れにくいことにあった。一里塚は旅人には、里程や乗り賃を支払うとなり、日ざしの強い日には木陰の休み所ともなった。
 この一里塚は、日光街道の脇道である壬生通りにあり、喜沢の追分を過ぎて、最初に位置する一里塚で、次の飯塚一里塚へと通じている。飯塚宿が貞応3年(1654)に伝馬宿になるから、このころまでに一里塚として整備されたようだ。
 西側二基の塚は直径約3.3、高さ1.8㍍で、東側が一部崩れているが、西側は当時の様相を呈している。
                   

 ゴルフ場内に残る旧道? 古い橋が架かっています。
 

小山ゴルフクラブ内古墳群。
                               「桑57号墳跡地」。5世紀後半のもの。「帆立貝式古墳」という形式。
帆立貝式古墳(帆立貝形古墳)
 古墳の一形式で、円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳の総称。

 この先、旧道沿道には古墳群が多く登場します。

 「例幣使街道」沿道もそうでしたが、関東平野の北部(栃木県南部地方)は古代から開けた土地であることが分かります。
 古代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川)は、下野国 - 下総国と流れ現土浦市南方で香取海(銚子で太平洋に繋がる内海)に注ぐ大河で、流域一帯には毛野国が成立しており、ヤマト王権において毛野国は筑紫、出雲、吉備などと並び強大な発言力を有していました。
 県内各地には縄文時代からの考古遺跡が多数認められており、古代には毛人が住む地域であったと解されていますが、第10代天皇・崇神天皇の第一皇子、豊城入彦命が父の命でこの地に入って「毛野国」を建国し、有力豪族となった毛野氏の祖となり、ヤマト王権において有力豪族の一角をなした、といわれています。その後、「毛野国」から上下二国に分かれ、「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、栃木では、現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われています。

 また、沿道には5つの一里塚がすべて現存しています。それを順次確かめながら歩くのも魅力です。
 
                                    「県道18号線 小山壬生線」として続きます。(「壬生まで9㎞」)。 

道の両側は一面のそば畑。

                        

      

小さな集落に近づきます。

「大日山美術館」。
大日山美術館
更新日:2007年04月18日11:27:39
 当館は小山市と壬生町を結ぶ日光街道沿いに小高い雑木林の中に古い民家を移築し、昭和57年に開館しました。かつて芭蕉主従の旅をした由緒ある道であります。郷土の画家、小口一郎の作品、益子焼、七宝焼き、その他日本画、洋画等を交互に展示します。尚、地域の文化向と作家の激励を兼ね個展やグループ展も多彩に開催しています。最近、初心者、老人向けのピアノ教室を開き、四季折々に変化する雑木林に感動しながら和気あいあいと皆さんが鍵盤にいそしんでおります。雑木林に包まれた白壁の古い木造館は郷愁の念にかられると皆さんが口にされます。
(「桜ヶ丘3丁目」HPより)

(8:52)「扶桑歩道橋」の信号を左折します。

    
    
1880年代のようす。○が左折点。           2010年代のようす。

「姿川(思川)」を越えます。

                         

 左手にある、かなり古びた「ドライブイン」。「映画撮影のため休ませていただきます」との立て看板。スタッフが何人も準備をしています。おかみさんが出てきて、「テレビに出ている人もきますよ」と。ここで? 裏手が「思川」なので、そこでの撮影か? 明るく振る舞うおかみさんです。



右手は一面、田んぼ。稲刈りの済んだところも。

                            

しばらく進むと、「壬生道」最初の宿場・飯塚宿になります。
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(東武日光線「下小代」駅~「下今市」駅。その3。「日光例幣使街道」。第7日目。)

2018-09-21 20:18:57 | 日光例幣使街道

                           (11:33)いよいよラストスパート。でも、雨が激しくなってきます。

苔むした古木。しかし、根元が空洞化しているのも目立ちます。

木の間越しに田園風景が広がります。

路傍の草花。

「日光杉並木街道 ←特別保護地域・保護地域→」。

振り返って望む。

根元が剥き出しになってしまった古木。かなり無残なさま。
 

「一里塚跡」からかなり来ましたが、JRの踏切はまだ見えず。

(11:59)ようやくJR日光線の踏切に。

                    

右手には家々が立ち並びはじめます。市街地に入ってきます。杉並木街道はもう少し続きます。



(12:06)右手奥に「日光街道(日光道中)」の杉並木が見え始めます。

 「日光街道(日光道中)」の「杉並木」を歩いたのは、一昨年の7月のことでした。
                  「日光街道杉並木」を振り返って望む(当時のもの)。

雨宿りをかねて、追分の手前にある四阿で小休止(5分)。左手奥を行ったところにJR線「今市」駅。


いよいよ「小倉町」交差点・追分の標示が。

前方が明るくなってきて、「日光街道」と合流する「追分」へ。

(12:18)合流点の右手に「追分地蔵堂」。

「例幣使街道(壬生道)」を振り返る。

右手から来る「日光街道」。

 着いたとたんに雨風が強くなり、軒先で雨宿りをして、東武線の「下今市」駅に向かいます。

 杉並木が強い雨風を防いでいてくれたことを実感し、感謝・感謝です。

 
日光へ向かう道。              左手が「日光街道」、右手(車のかげ)が「例幣使街道(壬生道)」。

(12:27)「下今市駅」。雨宿りする観光客でいっぱい。
                                                                                             SL「大樹」の運転日となっていて、なおさら人がたくさん。

 
  レトロな駅舎。                    階段にはSLの絵柄が。

 駅前には食事をするところも見当たらず、そのまま上り電車を待ちます。目の前に「大樹」が停まっています。
      

 最終日は雨のせいであわただしく終わりました。晴れていれば、食事をしたり、辺りを散策したかったところですが、残念!

 「大樹」には乗ってみたいものです。半世紀も前、大学生の頃、会津若松に行くとき、SLに乗ったという遠い記憶が蘇ってきます。

「驛市今下」。

転車台。

運転区間。

駅名の由来
 日光山の表玄関であり、日光街道・日光例弊使(れいへいし)街道・会津西街道の分岐点にあたるこの地は、室町時代の末頃は「今村」と呼ばれた小村でしたが、日光山の寺領となったのを期に毎月定例日に「市」が開かれ、「今市」といわれるようになりました。当時は、上町・中町・下町があり、それで駅名に「下」の字が付きました。

 駅もレトロに生まれ変わりました 下今市駅
SL大樹の起点となる下今市駅は全面的にリニューアルを行い、かつてSLが走っていた時代を思わせる昭和レトロな駅舎に生まれ変わりました。
 また、構内にはSLの日常の点検等を行う下今市SL機関庫を新設するとともに、SLの雄姿を間近で見学できるエリアを整備するなど、下今市駅を中心として地域の観光拠点性向上を図り、日光・鬼怒川温泉エリア全体の地域活性化を目指します。
(以上、「東武鉄道SL復活運転プロジェクト」公式サイトより。)

 「小山」(「日光街道・喜沢追分」)から「楡木」(「例幣使街道」との合流点)まで「壬生道」を歩けば、「壬生道(日光西街道)」を完歩となるので、次回は、そこを歩くことにします。

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