おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鹿島臨海鉄道大洗鹿島線・(JR鹿島線)。その3。一面のサツマイモ畑・芋甘納豆。北浦。旧大洋村・別荘。長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅・日本一長い駅名。(関東ローカル私鉄の旅。その2。)

2023-07-31 20:50:11 | ローカル鉄道の旅

広がる田園風景。

「鹿島旭」。

一面、サツマイモ畑が広がる。

                 この付近は、サツマイモの一大産地。

茨城産「芋甘納豆」。別の機会にセットで購入。たいへん美味しい。

車外は、暑そう。

           

車内は、部活帰りの高校生でいっぱい。

空はますます高く、青く。

振り返ると、右手に大きな湖が。

一面の田んぼ。

「北浦湖畔」。※ひと駅前の「新鉾田」は、大きな駅でした。

「大洋」。「大洋村」。

※息子の高校時代の友人の家族がここに別荘を持っていて、何度か車で出かけたことがあったようです。現在、「大洋村」という地名は無く、大洋村は平成17年(2005)に鉾田町、旭村と合併し、鉾田市となっています。

息子が行っていた頃から20年近く経った別荘地は、今。

「Wikipedia」によると、

バブル期には乱開発により小規模な別荘地が続々と造成され、鉾田市が2018年に行った調査では鉾田市内の空き家の内、約8割が旧大洋村に集中していたが、その数約2700戸であった。昭和期に鹿嶋市は「鹿嶋開発」という名の工業用地としての開発が進んだが、事業用地の展開を見込んだ東京の不動産業者によって隣接する大洋村でも多くの山林が買われた。その後、開発は大洋村までは到達せず、別荘地として開発された経緯がある。こうした別荘地は、主にターゲットを週末を利用する都内のサラリーマンに的を絞っていた関係で土地も小規模で、建物も貧弱であったため、その後、放置される物件が多くなり、現状は放置された建物から建具が盗まれるなど治安も悪化し荒廃している

・・・

茨城県鉾田市。ここにかつて存在した「大洋村」では、バブル期に小規模な別荘地が乱開発された。しかし、現在その多くは空き家になり、中には既に崩壊した別荘もあるという。「限界別荘地」で今、何が起こっているのか?「限界ニュータウン探訪記」でおなじみ、吉川祐介さんと共に潜入、実態に迫る。(「youtube」より)

           

                    

            

                     現状。

それでも生活を楽しんでいる方も。

・・・

※荒廃した別荘地(丘陵・山林)以外は、のどかな田園風景が広がる農村地帯です。また、新型コロナ禍によって、都会から田舎暮らしが見直され、状況に変化もあるようです。

みんなはどこまで乗るのだろう?

まっすぐ進む線路(振り返る)

「鹿島灘(かしまなだ)」。

      使わていない線路。

日本一長い駅名。

          「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅(ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまええき)」。

同駅が日本一の称号を手に入れてからわずか2年後、1992年に誕生した熊本県の南阿蘇鉄道南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」が誕生し、日本一の座を二分する形となりました。また、島根県の一畑電車の北松江線古江駅が「ルイス・C.ティファニー庭園美術館前駅」に改称するなど、一時は日本一の座を明け渡すこともありました。しかしその後、「松江イングリッシュガーデン前駅」へと改称したことで、「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅」は再び日本一長い名前の駅へと返り咲いたのです。表記上では熊本県に一文字差で短いですが、読み仮名は22文字と同数のため、日本一の称号を二分することになっています。

駅の近くには市営公園「大野潮騒はまなす公園」があり、360度のパノラマが楽しめる宇宙展望台やジャンボすべり台などがあり、観光名所となっています。

(この項、「」HPより)

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鹿島臨海鉄道大洗鹿島線・(JR鹿島線)。その2。大洗・ラッピングカー・大洗海岸・カーフェリー・水族館。涸沼。そして「共栄学園」甲子園へ。(関東ローカル私鉄の旅。その2。)

2023-07-30 18:59:42 | ローカル鉄道の旅

「大洗駅」に到着。

この駅。この路線の中では、大きな駅。いろいろな車両が停まっています。

        

水戸から大洗までは、けっこう列車が出ています。

海水浴シーズンですが、平日のせいか、降りる人はほとんどいません。

広大な砂浜に覆われた遠浅のビーチ。
海水浴場はユニバーサルビーチとしても有名。夏の海水浴はもちろん、サーフィンなどのマリンスポーツも楽しめます。

(「よかっぺ大洗ー大洗観光協会ー」HPより)

※奥に見える船は三井商船「サンフラワー号」。大洗から北海道・苫小牧を結ぶカーフェリー。

         

また、「アクアワールド大洗水族館」があります。

 

     

                            (「」HPより)

ここで、30分以上停車。その事情を運転士や駅員さんが何やら説明しますが、ちょっと判読不明。上り列車が到着しないらしい、いや大洗駅構内での点検作業? 

乗客の皆さんは、悠然としている感じ。

運転士さんも、しばし列車から離れて、

都内の電車では考えられない、のんびりムード。

    駅弁の広告。

やっと出発! 11:45。

             奥に見えるのは、「大洗マリンタワー」。

部活帰りの高校生がたくさん。

海岸線は望めず。

「涸沼(ひぬま)」。

遠くにチラッと。

                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

この先は、順調に、というか、けっこうスピードを出して進みます。

そして、祝! 「共栄学園」、東東京大会優勝! 甲子園へ初出場! 

孫が今年の3月、卒業したばかり。小生の出身中学もすぐそばにあって。葛飾区・お花茶屋の地元では大喜び! 

幼稚園から共学の高校まで、あの手狭な校舎で、ってここで練習していたわけではないでしょうが。

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鹿島臨海鉄道大洗鹿島線・(JR鹿島線)。その1。北千住~水戸~大洗~鹿島神宮・・・。隅田川花火大会。(関東ローカル私鉄の旅。その2。)

2023-07-29 20:49:48 | ローカル鉄道の旅

7月28日(金)快晴。

今回は、JR水戸駅から出ている「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」の旅。

8時前に家を出て、JR「北千住」から常磐線で「水戸」まで、約2時間。

「鹿島神宮駅」からは、JR「鹿島線」(まだ乗ったことがなかった。)で佐原駅まで。そこから成田線で成田まで行き、京成線に乗り換える予定。北千住から水戸・大洗を通って、佐原・成田、京成とぐるっと回ってくる感じ。

JR成田駅に着いたのは、午後2時30分頃でした。

※JR鹿島線は「鹿島サッカースタジアム」まで乗り入れて、パスモなどICカードが使えます。一方、「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」は、ICカードが使えず、現金で。

従って、「鹿島サッカースタジアム」から「鹿島神宮」まではJRの有人駅でカード精算というかたちになります。

水戸から鹿島神宮までは、片道1,400円。「鹿島サッカースタジアム」から「鹿島神宮」間はICカードで189円。

         一両編成の気動車でワンマンカー。単線。※通常は、二両編成のようです。

 

沿線案内図。

  

  (「Wikipdia」より)         (「」HPより)

水戸 - 大洗間

水戸の近郊エリアとして通勤・通学や、水族館(アクアワールド・大洗)や大洗マリンタワー大洗サンビーチ大洗シーサイドステーションといったマリンレジャースポットが多数点在する大洗へのアクセスに利用される。

この区間の運転本数は1時間に2 - 3本ほどあり、第三セクターの地方鉄道線としては比較的列車密度が高い。水戸 - 大洗間の区間列車が約半数を占めており、旅客輸送において大洗駅は重要な拠点駅となっている。

大洗 - 新鉾田間

この区間は鹿島灘の海岸線に沿って進むが、5kmほど距離を置いて走行するため、車窓から太平洋が映る区間はない。農地が続く平地を直線状に路線が敷かれ、駅間距離も5kmほどと長いために、ローカル線の気動車ながら走行速度は高い。大洗より南は、列車本数は1時間に1本ほどと少なくなる。特に概ね9時台から13時台は2時間に1本と間隔が大きく開く。

新鉾田駅は途中駅としては大洗駅に次いで利用者数が多く、大洗鹿島線における拠点駅の一つである。大洗鹿島線の開通によって、鉾田市(開通当時は鉾田町)から水戸市までの移動時間が大幅に短縮された。鉾田市には鹿島鉄道(旧関東鉄道鉾田線、2007年廃止)の鉾田駅があり、鉾田市にとっては大洗鹿島線は初めての鉄道路線ではなかったが、開通時は大洗町と同様に地元からの歓迎を受けた。大洗鹿島線の新鉾田駅と鹿島鉄道の鉾田駅(現在はバスターミナルのみ存続)は、道のりで2kmほど離れている。

新鉾田 - 鹿島サッカースタジアム間

北浦と鹿島灘の間を走行し、大洋 - 鹿島サッカースタジアム間は鹿島灘の沿岸から2kmほどの距離を置いて走行する。

大洗鹿島線の終点は鹿島サッカースタジアム駅だが、カシマサッカースタジアムでの試合開催日以外は旅客営業を行なわないため通過する臨時駅である。大洋 - 鹿島サッカースタジアム間は、県道242号と並行する。

鹿島サッカースタジアム - 鹿島神宮間は東日本旅客鉄道(JR東日本)鹿島線に乗り入れる。

(この項、「Wikipedia」より)

JR水戸駅構内。

上記にもあるように、乗客は地元の高校生など、地元密着型の路線という雰囲気。

観光客が多かった「いすみ鉄道」とは、かなり趣を異にする印象です。

夏休み期間中で平日の午前中の時間帯だったので、空いていましたが、学校がある時や通勤時間帯はけっこう混んでいそうな。

しばらくは高架線が続く。「那珂川」に合流する「桜川」。

      

            

東水戸駅。上り列車が到着しないので、しばらく停車。

          乗客は皆さん落ち着いた雰囲気。

水戸駅方向を振り返る。

しばらくすると、田園風景が広がってきます。

右は「東水戸高速道路」。         

             奥には那珂川に架かる「新那珂川大橋」。橋長533mの斜張橋。

             (「ものつくり大学」HPより)

踏切がない高架なので、けっこう速度が早い感じ。

  景色は抜群。

 

さて、今夜は、隅田川の花火。どれだけ大勢の人が集まるのか? かなり盛り上がっているようですが。

TV中継で見るのが一番!

いつものように「テレビ東京」の独占中継です。

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小湊鐵道・いすみ鉄道(「五井駅」~「大原駅」)。その5。国吉駅・駅弁・いすみのたこめし。JR大原駅。大原漁港。

2023-07-28 20:33:31 | ローカル鉄道の旅

遠ざかる「大多喜城」(中央奥)。

                        

 

「国吉駅」に着くと、駅弁などを売るおやじさんたちが入ってきます。

・・・

急行列車が到着するとホームから「べんとぉ〜べんとぉ〜」の声が。

ここではいすみ鉄道応援団の皆さんによる、駅弁の立ち売りが行われているのです。昭和時代の駅では当たり前だった光景。まさにタイムスリップした気分です。

「国吉駅」で発売されている駅弁は「いすみのたこめし」。

古くから蛸つぼ漁が行われてきたこの辺りでは「たこめし」が漁師のまかない飯だったそう。コリコリ食感のたこの身がたっぷり。たこの味もご飯にしっかり染み込んでいます。

おかずには、房総半島の郷土料理「なめろう」を焼いた「さんが焼き」。魚のハンバーグみたいな味と食感ですが、大葉の風味がいい感じに効いています。美味しかった!

皆さんもぜひ、駅弁を片手に昭和レトロな急行列車の旅を楽しんでみては!

(この項、「」HPより)

※土日は普通列車でもはんばいしているようです。けっこう「たこめし」や「ポップコーン」を販売、けっこう乗客も購入しています。当方もポップコーンを孫へのお土産に購入しました。

            シールは、「大原駅」でもらいました。

終わって帰るとき、乗客に声を掛け、一本締めを乗客ぐるみで。

楽しいひと時でした。

            心なしか海岸に近づいてきたような。    

「大原駅」に到着。

    右がJR大原駅、左がいすみ鉄道「大原駅」。帰りは、JR線で帰る予定です。

せっかくですので、大原漁港に行ってみます。

               

漁を終えた小型漁船がたくさん。          

「イセエビ・地だこ」。

JR外房線。

       JR「大原駅」。

戻るといすみ鉄道の列車。

途中、動画で車窓からの風景を撮りましたが、そのうち何枚か掲載します。

 

 

        

                    

    広がる山里風景。

帰りは、JR外房線「大原駅」から蘇我駅で乗り換え、内房線で千葉駅へ。

行きと帰り。運賃のかなりの差にビックリ!

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小湊鐵道・いすみ鉄道(「五井駅」~「大原駅」)。その4。「桃鉄印帳」。ムーミン谷・ムーミン列車。命名権。「デンタルサポート大多喜」。チーバくん。大多喜城。

2023-07-27 20:39:07 | ローカル鉄道の旅

「いすみ鉄道」車内風景。鉄印帳が登場」。

            ワンマンバスと同じで、運転席横に乗車・下車口があり、清算します。

車外は緑がいっぱい。

             

山深い丘陵地帯が続く。

トーベ・ヤンソンが描くムーミン谷は、山や森、川などの自然に囲まれたのどかで平和な場所。いすみ鉄道も、そんなムーミン谷のようなのどかで美しい風景の中を走ります。いすみ鉄道に乗る際はスマホから目を離し、のんびりと窓の外を眺めてみてはいかがでしょう。豊かな自然が心をほっと癒してくれるはずです。(「いすみ鉄道」HPより)

※かつて運行していた「ムーミン列車」はなくなりました。

山間の風景。

「三育学院大学 久我原」駅。

※「三育学院大学」=看護学部を設置する大学。大多喜町の「久我原キャンパス」と「東京校舎」がある。

      (「同大学」HPより)

いすみ鉄道の駅名には、サブ名が付いています。企業等が協賛している「命名権」によるもののようです。

例:「GSK総元」。GSKとは後藤設備工業の略称で愛媛県松山市に本社、香川県高松市に支店を構える空調・電気設備工事関係の企業。                                                     「サンテック新田野」。「サンテック」は、総合設備エンジニアリング企業。

周囲が開けてきます。

            

大多喜駅に到着です。城門?

「房総の小江戸」とあります。

前面には「チーバくん」。

千葉県マスコットキャラクター「チーバくん」(Chiba Prefecture mascot CHI-BA+KUN)

千葉県に住む不思議ないきもの。好奇心旺盛でいろいろなことに挑戦するのが大好き。
未知のものに立ち向かうときほど勇気と情熱がわき、からだが赤く輝く。食いしん坊でいたずら好きな面も。

(お誕生日:平成19年1月11日)

横から見た姿が千葉県の形をしています。                   

             「奥房総」           

  

大多喜駅。沿線随一の大きな駅? 

                             下り線ホーム(上総中野方面)。                                              

この駅名は、「デンタルサポート 大多喜」。乗降客が多い。

当駅は命名権(ネーミングライツ)により、千葉県内の訪問歯科であるデンタルサポート株式会社が命名権を取得しており、2009年平成21年)9月よりデンタルサポートを冠した愛称が付与され、各種表記に反映されている。当初は1年の契約であったが、さらに契約が延長された。(「Wikipedia」より)

※かつて「デンタルサポート大多喜駅」から「大原駅」の区間で、いすみ鉄道車内にてデンタルサポート株式会社 総合研究所の歯科衛生士による「口腔ケアセミナー」を開催したようです。

「正しい歯磨きの方法、お口のケアの方法、嚥下(えんげ、「飲み下す」の意)体操など、健康のための口腔ケアをいすみ鉄道に乗りながら楽しく学びましょう! 」というコンセプトでした。

大多喜とは?  

大多喜地域は戦国時代から城下町として繁栄した。応仁の乱以後守護大名が台頭し、長南の武田氏、万木の土岐氏、小浜の槍田氏安房里見氏がこの地方で衝突していた。小田喜根古屋城1544年天文13年)武田氏から里見氏の武将正木時茂が取って代わり、里見氏の支配を受けた。1590年天正18年)徳川四天王の1人本多忠勝が10万石を与えられ約11年間領知した。忠勝は里見氏に備えてを整え、城下町の整備、六斎市の開市を企てた。本多氏以後たびたび城主が替わり、1703年元禄16年)から松平氏が9代続いたが、大多喜地域の大部分が他藩領、旗本知行地として支配を受けた。明治維新により大多喜県木更津県千葉県と行政区画が変遷し1889年(明治22年)老川村西畑村総元村上瀑村、旧・大多喜町が誕生した。

1935年(昭和10年)5月、大多喜町で建設が進められていた宮田製作所の自転車工場が一部完成。フレームの生産等を始める。工場の動力は地域産の天然ガスが使用された。大多喜地域は次第に衰退し財政力が豊かではなかった。そこで、町村規模の適正化、福祉の推進、地方自治の発展、行財政の強化のため旧5町村が町村合併促進法により合併し、現在の大多喜町が誕生した。

            大多喜城。(「Wikipedia」より)

  

  観光案内図。

「回送」中の列車。「千葉県誕生150周年」。

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小湊鐵道・いすみ鉄道(「五井駅」~「大原駅」)。その3。「飯給(いたぶ)」。「養老渓谷」・「弘文洞跡」。「いすみ鉄道」に乗り換え、「大原駅」へ。(関東ローカル私鉄の旅。その1。)

2023-07-26 20:31:02 | ローカル鉄道の旅

この先も田園風景が広がる。

                    

「飯給」。      

※「飯給」=「いたぶ」と読みます。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の蝦夷を鎮圧するため同地を通ったとき、住民から飯を献上されたところから名付けられたと伝えられています。    

森の中を進む。

                        

揺れが激しく、車内を立ち歩くことが難しいので、  駅に停車中か、二両目の後ろの席に座ったままの撮影。

 

「養老渓谷」。

何年か前に、この駅で下車して「養老渓谷」の温泉に泊まりに来たことがあります。目的地までけっこう歩きました。

・・・当日の記録・・・

いくつか建物が見えてきて、やっと旅館「黒湯の宿・清代元(きよもと)」に着きます。
そこから眺める「観音橋」。

 一休みしてアルコールを調達に行くか。
 調べると、近くにコンビニはなし。結局、養老渓谷駅前の「ヤマザキ」まで行くしかないことが判明。
 そこには若者が行くことにして、こちらは「弘文洞」へ向かいます。

「観音橋」からの養老渓谷。

渓谷に降りて進みます。


左右の崖を見上げると、地層がくっきり。

やっと「弘文洞跡」に着きます。

 今からおよそ140年前、耕地を開拓するため、養老川の支流、蕪来川を川まわしして造った隧道。
弘文帝と十市姫にゆかりの深い高塚や筒森神社の傍を流れ本流にそそぐ合流点にあることから「弘文洞」と命名され、景勝地、釣り場の代表として世に紹介されましたが、昭和54年(1979)5月24日未明、頭頂部が崩壊しました。
崩壊前のようす。

(この項、「」HPより)

日が西に傾いて左の崖側に日が当たって、ちょっぴり幻想的な雰囲気。
 
                    

・・・

次が終点の「上総中野」駅。

「上総中野」。

ここで左に停車中の「いすみ鉄道」に乗り換えます。

        

                 「小湊鐡道」線を振り返る。

ここで、「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」との関係

小湊鐵道(旧称:小湊鉄道)は、千葉県内房の五井駅を起点として養老渓谷駅を経て上総中野駅へ至る路線で、いすみ鉄道はその上総中野駅から外房の大原駅へと至る鉄道となっています。路線図を見ると両者は房総半島を横断しており、小湊鐵道といすみ鉄道を通しで利用される方も多いです。春のシーズンになれば菜の花や桜、夏になればひまわりを愛でる観光客でその季節ごとにぎわいます。

いすみ鉄道株式会社は、千葉県夷隅郡大多喜町に本社を置く鉄道事業者。日本国有鉄道特定地方交通線の一つだった木原線を引き継いで、いすみ線として運営している、沿線自治体や民間企業が出資する第三セクター鉄道事業者である。(「Wikipedia」より)

 

※「大原」駅では、JR外房線「大原」駅と接続しています。

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小湊鐵道・いすみ鉄道(「五井駅」~「大原駅」)。その2。田園風景が広がる。「海士有木(あまありき)」。早場米の産地。「上総鶴舞」ドラマのロケ地・トイレ。喜動房倶楽部。(関東ローカル私鉄の旅。その1。)

2023-07-25 20:30:02 | ローカル鉄道の旅

街並みを過ぎると、田園風景が広がります。

田んぼの向こうは住宅地。

「海士有木(あまありき)駅」。

海士(あま)と有木(ありき)が一つになって、この地名がつきました。海士は、その昔漁夫(海人)の集落、有木のほうは附近に有木城(蟻木城とも書く。現在の泰安寺)があったため、その名がついたと云われております。(「小湊鉄道」HPより)

駅名で読み方が難しいものが出てきます。「飯給」=いたぶ、「馬立」=うまたて。

いすみ鉄道では、「上総東」=かずさあずま、「大多喜」=おおたき、「小谷松」=こやまつ、「総元」=ふさもと。・・・

「いすみ」も漢字で書くと、「夷隅」。千葉県には「匝瑳=そうさ」という地名もあります。他にも、・・・。

単線。けっこう横にも縦にも揺れるので、座席を立って撮影するもの大変。

ここは、早場米の産地らしく、すでに稲が黄色くなりつつあります。8月に入れば、収穫の時期。

                       

            

素朴な駅舎。車掌さんがホームで切符の回収。

          

「馬立=うまたて」。 

馬立という名の由来は、鎌倉時代の頃、この附近で馬のセリが行われたという説と、馬の集結場があったという説があります。

                

        車内風景。のんびりと旅を楽しむ。  

?!?! 

               旅行バッグがたくさん埋め込まれた壁? はたして・・・         

田園地帯が広がる。

「上総鶴舞」。

昭和33年1月1日に鶴舞町駅より現在の上総鶴舞駅に改称されました。鶴舞町は井上正直氏(6万石)の城下町で、桜の名所でもあります。平成10年10月14日に「関東の駅百選」に認定され、テレビドラマ、雑誌のグラビアなどの撮影に使われております。駅の裏には電気を駅舎などへ供給した発電所が残され、その記念碑もあります。2018年に藤本壮介氏設計の新しいトイレが完成しました。

            (「Wikipedia」より)

この駅は『相棒』などドラマのロケ地として有名なようです。

                                                       

 里見(さとみ)。

里山トロッコの停車時には、ホームの特設屋台でおもてなし!

喜動房倶楽部が営業している土日は、トロッコ列車が運行していることが多い日でもあります。トロッコ列車が里見駅に到着すると10分ほど停車しますが、その時間はホームに屋台を出してみんなでお迎えしています。焼き豚弁当やおにぎり、昔懐かしいプラボトル入りのお茶など、お腹をすかせた乗客のみなさんには大変ご好評いただいています。ここでもその季節でしか味わえない地元グルメに出会えるかも! ぜひ何度もいらしていろいろ味わってください!

喜動房倶楽部のこと

以前、廃線の話が持ち上がった際に地元有志が立ち上がり、駅周辺をキレイに整備。元々無人駅だった里見駅構内を借りて改札口からコーヒーを提供するといった活動をしていたのが私たち「喜動房倶楽部(きどぼうくらぶ)」の始まりです。
それから15年以上の時間をかけて少しずつお店が拡大。だんだんと人も集まるようになり、今では小湊鉄道の協力を得て駅舎の横に厨房や直売所の建物もできたことでさらににぎわいを増しています。これからも里見駅周辺がもっと元気になっていくように頑張りますので、応援よろしくお願いします!

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小湊鐵道・いすみ鉄道(「五井駅」~「大原駅」)。その1。「電鉄」の「鉄」は「鐵」。乗り換え時間が! 女性の車掌さんは大忙し。市原市を通る「小湊鐡道」。(関東ローカル私鉄の旅。その1。)

2023-07-24 20:38:50 | ローカル鉄道の旅

暑い夏。歩くのはやめて、関東エリアのローカル私鉄に乗る旅を計画。

7.上毛電鉄
8.わたらせ渓谷鉄道
9.真岡鉄道
10.ひたちなか臨海鉄道
11.関東鉄道
12.鹿島りんかい鉄道
13.富士山麓電鉄(富士急線)
 
などが現役でがんばっています。
 
※「電鉄」の「鉄」は「金を失う」から、「」にしている鉄道会社もあります。
 
「江ノ電」や「流鉄流山線」「箱根登山鉄道」「銚子電鉄」は乗ったことがありますので、省略。
 
はたしていくつ乗れるか? 
 
今回。小湊鐵道は終点の一つ手前「養老渓谷駅」までは乗ったことがありますが、その先、接続する「いすみ鐵道」は乗ったことがありません。
 
というわけで。
 
7月22日(土)晴れ。
 
JR内房線「五井駅」で「小湊鐵道」に乗り換え、出発です。
 
土曜日のため、けっこう大勢の方が乗り換える様子。
 
「小湊鐵道」「いすみ鐵道」は、スイカやパスモなどが使えません。
 
乗り換え口でたくさんの人が券売機や窓口で切符を買うため、長蛇の列。発車時刻まで6分しかありません。
 
これじゃあ乗れないか! 発車ベルが鳴り響いてきましたが、まだ何人もの人。
 
すると、駅員さんが車内でも切符を買えるので、乗る人は乗って下さい、と。
 
購入途中の人を尻目に、階段を駆け下り、飛び乗りました。ホッと一息。何とかならないものですかね。
 
思ったより車内は混雑していません。
 
女性の車掌さん。さっそく切符を売りに来ました。汗を掻き掻き、一人ひとりに。
 
ドアの開閉や無人駅での切符の回収など行ったり来たり、大奮闘ぶり。
 
たしかに切符を買わずに大勢の人が乗っては、一人じゃ、どうにもなりそうにありませんでした。
 
というわけで、スタート。
 
                      「五井」を出て、最初の駅「上総村上」。
 
素朴な駅舎。
 
終点「上総中野」までの案内図。
 
                                  (「ジョルダン」より)
 
 
                           (「小湊鐵道」HPより)
※「小湊鐵道」概要

 非電化・単線の路線で、首都圏にありながら駅舎や車両など古くからの雰囲気を残している。2018年には「小湊鉄道とその沿線の景観」が千葉県により、ちば文化遺産の一つ(広域)に選定された。
 1990年代後半からの10年間で乗客が急減した。2000年代では、多少減少幅が緩やかになったが、やはり乗客は減少傾向にある。
 駅係員の合理化が進む一方で車掌は全列車に乗務しており、無人駅では各駅ごとに検札・集札を行い、無人駅から乗車券を持たずに乗車した旅客には車内で切符(パンチ式車内補充券)を発売する。
 養老渓谷駅 - 上総中野駅間の板谷隧道(トンネル)は千葉県内の鉄道の最高地点になっている。
 女性を積極的に採用しており、車内で精算業務を行う若い女性の車掌が10名弱勤務しているほか、一部の駅では女性係員が勤務している。2007年には女性運転士も誕生した。
 いすみ鉄道いすみ線との乗り換え駅である上総中野駅では、両線の線路が繋がっているが、相互乗り入れの話が出ても、旅客流動上も相互乗り入れのメリットは極めて薄いとされており、両社共に消極的で、路線との乗継割引、直通運転はしていない。
 交通系ICカードは導入されておらず、導入予定もない。

路線データ
管轄(事業種別):小湊鐡道(第一種鉄道事業者)

路線距離(営業キロ):39.1km
軌間:1067mm
駅数:18駅(起終点駅含む)
複線区間:全線単線
電化区間:全線非電化
車両基地:五井機関区

歴史
 当初は安房郡小湊町(現在の鴨川市の一部)を目指して着工された。工事は大日本帝国陸軍鉄道連隊の鉄道敷設訓練の一環としての性格もあった。
1917年(大正6年)に会社を設立したが建設資金調達に苦心し、伝を頼り安田善次郎に出資を依頼するため陳情団が東京を訪れる。安田は利益を上げる見込みのないローカル線への出資を承諾し、1924年(大正13年)には安田財閥の持株比率が6割を超える。安田財閥の資金を元に、同年ボールドウィン社より蒸気機関車を2台(1号・2号)を購入、このとき購入した機関車は、1号車(拓本番号57776)、2号車(拓本番号57777)ともに小湊鉄道五井駅に保存、展示されている。
 1925年(大正14年)3月7日に五井駅 - 里見駅間で開業。1926年(大正15年)9月1日に里見駅 - 月崎駅間、1928年(昭和3年)5月16日に上総中野駅までの全線が開通した。
 上総中野駅から先の延伸工事、並びに終点として想定されていた小湊駅(現在の安房小湊駅付近に設置される予定だった)近辺の工事も一部着手されていたが、資金難のため1929年(昭和4年)5月頃に中止された。資金面の問題に加え、昭和初期の土木技術では延伸区間の清澄山付近で難工事が予想されたこと、加えて1934年(昭和9年)に上総中野駅まで延伸した国鉄木原線(現・いすみ鉄道いすみ線)と接続して房総半島の横断ができるようになったことから、最終的に延伸は断念された。
 太平洋戦争下の1942年(昭和17年)12月、本鉄道は京成電気軌道系列の企業となる。『京成電鉄五十五年史』には、本鉄道が京成電気軌道系列に入ってきた、とされているが、『安田保善社とその関係事業史』では、当局の要請により仕方なく営業譲渡した、とされている。
・・・
(以上、「Wikipedia」参照。)
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7月23日(日)。大暑。土用丑の日。桐。入道雲。オシロイバナ。ニガウリ。打ち水。・・・

2023-07-23 20:46:23 | 二十四節気

今日は、二十四節気の第12番目・「大暑」。一年でもっとも暑さが厳しく感じられる頃。

夏という季節に当てはまる二十四節気は、5月5日「立夏」からスタートし、小満、芒種、夏至、小暑、大暑となります。

梅雨明けが出た東京地方。今日は、一段と厳しい暑さになっています。昔から「梅雨明け10日」とか。

暫く晴れが続きそうです。若い頃は、すわ!登山だ! と。この10日間のうちに、を北アルプスとか南アルプス、はたまた東北の山などの縦走に当てていましたが。今は、炎天下を避けて引きこもりです。

七十二侯でいうと、7月23日から次の二十四節気の第13番目・立秋の8月7日(日)までの期間。

・初侯 7月22日〜7月26日頃

桐始結花 きりはじめてはなをむすぶ

桐が花を咲かせる頃。盛夏を迎える頃には、卵形の実を結びます。桐は、伝統的に神聖な木とされ、豊臣秀吉などの天下人が好んだ花であり、現在も日本国政府の紋章として使用されています。

                 

・次侯 7月27日〜8月1日頃

土潤溽暑 つちうるおうてむしあつし

熱気がまとわりつく蒸し暑い頃。

入道雲がもくもくと。

・末侯 8月2日〜8月6日頃

大雨時行 たいうときどきにふる

夕立や台風などの夏の雨が激しく降る頃。

のものとしては、

・白粉花(おしろいばな)

黒い種子を割ると、白い粉質のもの(胚乳にあたる部分)があり、それがおしろいの粉のようなので、この名がつけられています。「夕化粧」とも言います。

白い花が咲く。

           赤い花が咲く。

・ゴーヤ(ニガウリ)

沖縄県の特産物であるゴーヤ。小さな花が咲いています。

かつての新築前の我が家では、道路に面した西側の窓際にゴーヤを2,3本植えて、暑さしのぎと収穫を楽しんでいました。真夏は、南の日差しよりも午後からの西日の方がはるかに強烈でしたので。

日中の暑さを和らげる工夫として、「打ち水」があります

庭先や道路などに水をまいて涼を得る、という生活の知恵。一去年の東京オリンピックでも、「地球に優しいエコな暑さ対策」として朝顔を並べ、打ち水をすることで猛暑をしのごうとしましたが、果たして効果はあったか? 心理的な効果はあったでしょうが。

水が蒸発するときの気化熱が周囲の温度を下げて地表の温度を上がりにくくし、濡れた地面を通る風を冷やしてくれるという狙いがありますが、直射日光にさらされた日向に水をまくとすぐに蒸発して湿度が上がり、かえって逆効果になるのが、現実のようです。

我が家でも庭先や道路に打ち水でもしようものなら、暑さが倍増という感じ。

この打ち水も、もう見かけませんね。

今は、東京スカイツリーなどで設置されている「ミスト(霧)散布」システムがはやっているようです。

・カブトムシ

・金魚

縁日などでの「金魚すくい」が子どもの楽しみです。でも、その後、金魚鉢で育てているのでしょうか?

昨日の朝刊だったか、朝日新聞の漫画「ののちゃん」でそんな話が載っていましたが。

次は8月8日「立秋」。

※写真は、昨年、7月23日午前、向島百花園などで撮影したもの。

昨日は、炎天下の歩きは遠慮して、JR「五井駅」から「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」を乗り継いで、大原まで列車の旅。

その報告は後日。

家の外では蝉の声がしきりにします。午後からは、近所の図書館に涼みがてら本でも借りに行こうか。

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「かつしかまちナビ」(シニアが創るミニコミ誌)より。SORA-Q(変形型月面ロボット・ソラキュー)月へ。・葛飾が誇る刀匠  吉原義人さん。・・・

2023-07-20 20:02:23 | 葛飾銭湯

この雑誌を銭湯で見かけました。

「シニアが見た! 聞いた! 探した! 地域のもの こと ひと」というコンセプトで、葛飾区内のこと、モノ、人を取材し、まとめる、という構成。なかなか興味深い内容です。

・SORA-Q(変形型月面ロボット・ソラキュー)月へ。※取材・まとめ 飛田健一さん

        

(株)タカラトミー(所在地:東京都葛飾区)が、JAXA(宇宙航空開発機構)等と共同開発した超小型の変形月面探査ロボット。

JAXAの小型月着陸実証機「SLIM(スリム)」に搭載され、月面でのデータ取得を行う計画。おもちゃのアイディアが盛り込まれ、球体から変形する探査ロボット。質量約250g、直径約80mm(変形前)の超小型の変形型月面ロボット、月面に着陸後、瞬時に球体が左右に拡張変形し、月面を走行する。開発にはタカラトミーの玩具つくりにおいて培われた小型化、軽量化の知見と変形機構に関わる技術が活用されました。変形ロボット「トランスフォーマー」が乗物からロボットへとあらゆる方法で変形する機構のノウハウが活かされています。

・葛飾が誇る刀匠  吉原義人さん 

※取材・文 佐藤政志さん 写真 飛田健一さん

・・・今年4月、NHKBS放送の『美の小壺』で、吉原さんの刀剣造りが放送されました。その中で、刀造りで最も大事なことは、「鉄」作りと言います。刀の素材「玉鋼」を熱し、ハンマーで叩き、折り曲げ、また叩く。叩くことによってリン・硫黄などの不純物を取り除いていく。それがいい刀を造る必須条件だと言います。・・・「刀製作は機能性を前提とするが、芸術性に富み、秀でるものでなければならない。・・・」とも言います。今年で80歳になる今でも年に数本の刀製作に取り組んでいます。吉原さんの元で刀作りの修行をしている若者達が大勢います。

この他にも「生徒が運営するレストラン『かつろうキッチン』葛飾ろう学校の訪問記事。

 

・午后のティー・・・堀切5丁目の地域活動

・天気のいい日は公園へ行こう 寄稿 久山千秋さん

などけっこう精力的な取材活動など、なかなか読み応えの多い、ミニコミ誌でした。

           無断転載、ご容赦を。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その5。向島百花園。葛(くず)棚。「葛」の字。カルガモ。せんのう。寺島なす。むかでらん・牧野富太郎の命名。。

2023-07-19 20:17:40 | 向島百花園

くずの棚。足元には、花びら。

               

※秋の七草の一つ。 開花時期は、 8/15 ~ 9/末頃。まわりの木々を  つるでおおってしまう程の生命力。ひと夏で10mぐらい生長する。花は下の方から咲いていく。大和の国(奈良県)の  国栖(くず)というところが葛粉の産地であったところ からの命名。漢字の「葛」は漢名から。

葛餅」は、葛粉から作られる透明でプルプルとした舌触りのいい

しかし、同じ「くず餅」という名前の和菓子でも、関東と関西とではまったく別物。おもに関西地方で作られている「葛餅」は、葛粉に砂糖と水を加え、加熱してできた透明な餅にきな粉と黒蜜をかけた物ですが、関東で作られているくず餅は、小麦粉のでんぷん質を発酵させてできた白っぽい餅にきな粉と黒蜜をかけていただく物をいいます。

「関東のくず餅の起源には諸説あります。弊社は、1805年創業。度々、亀戸天神に通っていた船橋屋の創業者(勘助)が、ここで甘味を出したら売れると見込み、地元の千葉で食べられていたおやつを『くず餅』として売り出しました。

当時、千葉では小麦の生産が盛んだったため、小麦農家では、小麦粉を水で練って蒸した物をおやつとして食べていたようです。小麦の生産地が、以前は「下総国葛飾郡(しもうさこく・かつしかぐん)」という地名だったため、葛飾郡の『葛(くず)』を取って、『葛餅』と呼ばれるようになったのではないかといわれています」(株式会社 船橋屋 広報担当の篠原優奈さん)

(この項、「」HPより)

東京・亀戸にあるくず餅の老舗「船橋屋」は2022年9月27日、SNS上で渡辺雅司社長(創業者の一族)が赤信号を進んで交通事故を起こし、事故の相手方に怒鳴った様子を撮影した動画が拡散されていることについて、公式サイト上で「事故並びに現場での対応は概ね事実であり、弊社としても到底容認できるものではない」と公表しました。渡辺社長は29日の取締役会で辞任しました。新社長に神山恭子氏が就任しました。

ところで、漢字の「葛」。

は古代のかつしかと呼ばれた地域のごく一部にしか過ぎません。古代の「かつしか」という領域は広大なものでした。古代の「かつしか」は、旧南葛飾郡かつしか・江戸川・墨田・江東区)と、千葉県市川・柏・流山・松戸・船橋市や埼玉県栗橋および茨城県古河・総和市までおよぶ広い地域がその範囲でした。
「かつしか」の地名は、当時のかつしかぐん全体の地形的特徴を捉えることで説明ができます。つまり、「かつしか」の「かつ」は丘陵や崖などを指し、「しか」は砂州などの低地の意味をもっています。「かつしか」とは、利根川流域の右岸に低地、左岸に下総台地が広がる旧かつしかぐんの地理的な景観から名付けられたと考えられます。

 「かつ」と「かつ

 ところで、「かつしか」という漢字を書くときに困ったことはありませんか。「かつ」の字が、「かつ」や「かつ」などまちまちだからです。
かつしかくでは「かつ」と書くのが正しいと説明していますが、「かつ」と書く人もたくさんいます。

歴史的にみた「かつしか」の表記

「葛飾」721年 下総国葛飾郡大嶋郷戸籍(正倉院文書 宮内庁正倉院事務所所蔵)

「かつしか」が文字として表記されている最も古い史料は現在のところ、下総国府が都に提出した「養老五年下総国かつ飾郡大嶋郷戸籍」にみえる「かつ飾」です。大嶋郷戸籍と同じ8世紀に編纂された万葉集の中にも「かつしか」が表記されていますが、基本的に音に漢字をあてているだけです。また、下総国府付近から出土した奈良時代の土器には、「かつ」の字が墨書されていました。
中世になると、千葉県の香取神宮に所蔵されている寛元元年(1243)の古文書には「下かつ西」とあり、応永33年(1426)の奥津家定寄進状に「かつ西庄」、永禄5年(1562)に小田原の北条氏が本田氏に宛てた書状には「かつ西」と記されています。このほかにも、「かつ西」と記した史料が多くあり、中世においては圧倒的に「かつ」の字が用いられています。
こうしてみると、古代から中世にかけて「かつしか」の「かつ」あるいは「かさい」の「か」という漢字の表記は「かつ」とする事例が多いように思えます。
江戸時代になると、「かさ井」「笠井」なども使われ、実に様々な表記がなされます。中世や近世においては、当て字なども頻繁に使われており、字よりも音のほうが重要だったようです。

 「かつ」と「かつ」をめぐる混乱

 その後も「かつしか」を表記するときの混乱は続き、現代まで尾を引くこととなります。「かつ」と「かつ」は、新聞の紙面や官公署関係の表示でも、人や機関によって異なった表記がなされていました。
このような混乱を避けるため、昭和61年、かつしか区ではCIサイン(区のマークやロゴ)を選定する際に、区の関連の表示については、略字ではない正字の「かつ」の字を使うことにしました。

国語的に見た「かつ」と「かつ」について

  「かつ」の異体字が「かつ」です。どちらも漢字として存在する正しい字です。異体字ですから、その差は字体のみであり、文字としては同一の意味をもっています。「かつ」の字が、誤字や俗字であるということではありません。なお、第21期国語審議会の「表外字印刷標準字体表試案」では、「かつ」は中国起源の正字「かつ」の略字として扱われています。

法的に見た「区名」の根拠

警視庁・東京府公報(昭和7年5月24日付)

 区名を法的な観点から見るとどうでしょうか。
かつしか区の区制施行を告示した、「警視庁・東京府公報」(昭和7年5月24日付)には、「かつ」と明記されています。また、戦後定められた地方自治法第3条第1項には、「地方公共団体の名称は、従来の名称による」と定められています。したがって、従来からの名称である告示時の名称「かつ」が正式な区名である、というのが本区の見解です。

(この項、「より)より)

※葛飾区亀有にある「都立葛飾野高校」の校章は、葛の葉をかたどっています。

                                        

余談ですが、都立南葛飾高校の校章は、「菊の葉」、千葉県立東葛飾高校の校章は、「柏の葉」。         

さて、カルガモたちはどうしているか? 池の奥の方にいました。

                

水中にけっこう長く潜っています。

そのうち石橋のところに、

             

前見たときは橋の下をくぐっていましたが、橋の上に上がり、そして池の中に。体が大きくなった証拠。

そして、隣の池へ。

ハスの花が一輪。

ヤマユリ。強い芳香を放っています。

             

せんのう。

           

寺島なす。

さわぎきょう。

         とけいそう。

むかでらん。牧野富太郎の命名。

夏の百花園にも、また新たな発見があります。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その4。東白鬚公園。纏(まとい)のシンボルタワー。隅田宿跡。石枕の伝説(一つ家伝説)・浅茅が原。

2023-07-18 20:42:37 | 隅田川

東白鬚公園。

「まといのシンボルタワー」

公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消し人足組が高く掲げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消し」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなかすすみませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相のしどうによって「町火消し」の設置が進められました。町火消しは、地域ごとに火消し組合を組織し、町が火消し人足を定置する消防隊、火事場で互いの勇敢さを競う火消し足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。

        纏のシンボルタワー。

かつて、この地は、古代東海道の宿駅でした。

 

            ↓が、古代東海道。

当地は古東海道の渡河地で、平安の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承4年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には、多くの舟が停泊しにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』)また、室町時代成立の『義経記』には「墨田の渡り両所」と見え、隅田種宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがわれます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一つ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。

石枕の伝説(一つ家伝説)ー浅茅ヶ原の鬼婆(あさぢがはらのおにばば)

東京都台東区花川戸に伝わる伝説一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)、一つ家(ひとつや)あるいは土地の名前だけをとり浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも称される。

浅草寺(東京都台東区)の観音菩薩にまつわる伝説として江戸時代以後には書籍や演芸・芝居なども取り上げられ、広く知られていった。一軒家に棲む老女が宿泊する旅人をあやめて金品を奪っていたなどとする話は各地にみられ、これもそのうちの一例と見ることができる。

用明天皇の時代、武蔵国花川戸の周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる原野があり陸奥国下総国を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し(『関八州古戦録』巻二では、天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す)、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。老婆が殺した旅人が999人に達した。ある日、ひとり旅の稚児(ちご)が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後、観音菩薩の力でと化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている

鬼婆が身を投げたとされる池は姥ヶ池(うばがいけ)と呼ばれてあり、現在花川戸公園に残っている。池の大きさは、古くは隅田川に通じるほどの水をたたえた大きなものであったが、明治時代に宅地造成などのために大部分が埋め立てられており、かつての姿とはかけ離れたものとなっている

(この項「Wikipedia」より)

遠くにスカイツリー。

                

木々の多い静かな公園。

       

「明治通り」に出ます。「向島百花園」がすぐ近くにあるので、ちょっと寄ってみます。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その3。墨田川高校堤校舎跡。木母寺境内。梅若堂。天下の糸平。三遊塚。梅若の秋月・雪月花 隅田

2023-07-17 20:40:40 | 隅田川

墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「東京都立墨田川高校堤校舎」と呼ばれる校舎が存在しました。その後、どうなったのか? 久々に訪れてみました。
 生徒急増期。「堤校舎」は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となりました。17年間の校舎でした。

全館「プレハブ」。夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。

 10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校の話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。それから、20年。

校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。敷地内を見ると、整地され、広大な空き地となっている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか? 

            

         

全景。                 

          

「木母寺」に向かいます。右手に木母寺。

               

木母寺。 

  

木母寺由緒沿革

梅若権現縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺に預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸とどちらが賢いかと稚児比べにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよった後、大津の浜へ逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ、東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年’(795)の3月15日、隅田川の湖畔で

尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し12歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りがかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き、柳を植えました。

梅若丸が亡くなった翌る年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へ向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り、渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが、梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡が池に身を投げてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かび上がりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

木母寺境内之図『新選東京名所図会・隅田堤』。

明治31年(1898)、梅若塚の再興から10年を経た風景。

梅若堂。

都内第一の石碑。

       

三遊塚。

初代円生(1768~1838)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して三遊亭円朝が明治22年(1889)に建立。題字は「幕末の三舟」と言われた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。

・・・              

門前脇にある葛飾北斎「梅若の秋月―風流隅田川八景―」。

・・・木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探して彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲むつまじく舟遊びをしている姿を描いています。  

・・・公園内に、

葛飾北斎『雪月花 隅田』。

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830)年頃の作品です。  

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その2。榎本武揚像。梅若公園。梅若塚。梅若丸・謡曲「隅田川」。鐘ヶ淵陸橋・「鐘ヶ淵」の由来。

2023-07-16 20:03:15 | 隅田川

この地域にあった史蹟や寺社は移転しています。

「銅像榎本武揚」像。

本像は、榎本武揚没後の大正2年(1923)5月に建立されました。銅製で、標高は約3㍍あり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。・・・榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。・・・               

「梅若公園」。

この付近に移転前の「木母寺」があったようです。

正面のガラスに描かれた梅若堂。

明治期の木母寺境内。

江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人々の支援を受け、明治22年(1889)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に消失を免れたものです。「木母寺境内の図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。

「梅若塚」。

                 解説板。

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫の藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中、隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚防災団地建設に伴い、現在地に移転しています。

より詳しい解説板。

         

・・・「たづね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはら(隅田河原)の 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年3月15日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

   

①「木母寺」は、「梅」の寺を分けて「木母」となったと言われています。

②「妙亀塚」は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求め、この地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅が原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園内にあります。

③「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現縁起」があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。

④謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。

梅の木と公園入口。残念ながら物寂しい広場になっています。

「(墨)堤通り」。

東白鬚団地。

鐘ヶ淵陸橋。「鐘ヶ淵の由来」。

鐘ヶ淵の由来には隅田川が子の辺りで直角に曲がり、それが工匠の遣う曲尺に似ているところから、また、寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

※右のレリーフ。

広重の木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を舟で出入りすることができました。

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墨田区鐘淵地域を訪ねる。その1。古代東海道。東白鬚団地。鐘淵紡績・カネボウ・クラシエ。・・・

2023-07-15 20:20:53 | 隅田川

歌舞伎「隅田川」に触発され、久々に鐘ヶ淵地域に出かけました。

正面の道が、古代の東海道。

「古代東海道」

真っ直ぐ進み、荒川を越え、葛飾区に入り、ほぼ直線のまま、小岩、江戸川堤に至る道。

※かつて歩いたことがあり、ブログでも紹介しました。

水戸街道を渡った葛飾区四つ木にある「案内板」。

東武線「鐘ヶ淵駅」踏切をはさんで東西に伸びる。

東武線。

そのまま西に向かい、「堤通り」に出ます。通りの向こうに高層アパート群が。

      

白鬚東アパート(しらひげひがしアパート)

東京都墨田区堤通にある住宅団地東京都住宅供給公社分譲の1号棟(東白鬚第一マンション)、都営白鬚東アパート(2~11・15~18号棟)と駐車場である12号棟、防災備蓄庫である13・14号棟の計18棟からなる。東白鬚公園と一体で墨田区西部の防災拠点として整備された経緯がある。

沿革

墨田区北部は、1923年に発生した関東大震災後に木造住宅が密集し始め、再び関東大震災級の震災が起こった際に、約4万人が犠牲となった旧本所区陸軍被服廠のような火災旋風に見舞われる懸念があった。 戦後も1948年(昭和23年)に福井地震1964年(昭和39年)に新潟地震という都市直下型地震が発生し、防災対策の機運が高まっていた

そこで、1969年(昭和44年)に東京都は江東防災6拠点構想(ほか大島小松川公園・白髭西地区が完成)を策定し、災害に強い街づくりを推進する方針を固めた。当地区は「白鬚東地区防災拠点」として1962年(昭和37年)に操業を停止した鐘淵紡績東京工場跡地を東京都が買収、再開発が計画された。

1972年(昭和47年)9月に白鬚東地区再開発事業として都市計画決定され、1975年(昭和50年)に着工、1982年(昭和57年)3月に10年かけて完成した。施行面積は約27.6ヘクタール。

構造

高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置しており、ドミノ式に建てられた大規模団地は存在するが、1㎞以上一列に並んだ長大団地は国内に類を見ない。1棟ずつずらした配置となっており、棟と棟の間は完全にはつながっておらず、地震の揺れに耐えられるエキスパンションジョイントで棟と棟と接続している。上空からの写真ではのような形と形容されることもある。

縦に長い団地は、防火壁の役割を持っており、密集地からの火災を食い止める効果が期待されている。また、団地の5階部分には墨堤通りに向けて放水銃が設置されており、延焼を食い止める工夫がなされている。そのほか随所に防災拠点としての設備があり、13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている。 団地には災害時に閉鎖する防災ゲートが5つ設けられており、北から順に鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門と名付けられている。

バルコニー側(墨堤通り側)には大火に耐えられるよう防火シャッターが装備されており、団地屋上にはオレンジ色の巨大な水タンクが設置され、火災時にシャッターに散水するための水が蓄えられている。

同時に隅田川沿いに防災機能を有した東白鬚公園が団地に寄り添うように整備され、災害時には約8万人を収容するように設計された。 延焼しにくい常緑広葉樹が植えられており、防災樹と命名されている。公園中央部には火消の象徴であるモニュメントが置かれている。

完成後、訓練などでは各種防災設備は作動しているが、実際の災害はまだ発生していないため、本番での作動はまだ無い。

(この項、「Wikipedia」より)

※久々に訪問しました。防災拠点としては斬新な構造を持った団地ですが、老朽化、住民の高齢化など、今後が気になる点も感じました(平日の昼間のせいでしょうが、出会う人はお年寄り。保育園の子供の声も聞こえず、・・・)。

また、周辺地域(住宅密集地)の再開発も進み、防災面からの住宅環境の整備、公園、道路事情などこの40年で大きく改善されています(むしろ、火災よりも隅田川、荒川に囲まれ、地震、水害の方が危険度が高い)。はたして今後どうなるか、気になるところです。

                                                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

                                (「今昔マップ」より)

1890年代のようす。○が木母寺、↓が古代東海道。上に「鐘淵紡績会社」。「木母寺」付近に入り江がある。

           ○が「墨田川高校堤校舎」(現在は、都の管理地)。その南に、移転した「木母寺」。 

カネボウ・クラシエ

1887(明治20)年、東京綿商社として東京府下鐘ヶ淵に創立(5月6日)→創立記念日とする

(「」HPより)

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