おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武東上線「東松山」駅~JR高崎線「吹上」駅。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第4日目。)

2018-11-30 18:29:04 | 日光千人同心街道
                                  東武東上線「東松山」駅。

 11月17日(土)。晴れ。家にくすぶっていても思い、午後から街道歩きを。昼過ぎに東武線「東松山」駅に到着し、歩き始めます。
 3時少し前にJR線「吹上」駅に到着。前回、ここまで歩くのは無理だったので(「東松山」駅を過ぎると最寄りの駅がなくなってしまう)。今回の3時間足らずでは、かなり中途半端な感じですが・・・。
 次回には東武線の「川俣」駅か「茂林寺前」駅まで進んでおけば、最終回の佐野まではさほど距離がなくてすみます。
 「八王子千人同心街道(日光脇街道)」は、最寄り駅としては「西八王子」駅から「佐野」駅まで。
 達者な方なら4日間で歩けるところを5日半ですので、かなり楽な行程となりました。

(12:14)↓が旧道。

すぐ「下沼公園」の脇に。


その先辺りから街道筋の旧家らしいおうちがちらほら。
                                    家の両側に「うだつ」のあるおうち。

堂々とした見世蔵。

                                  

(12:23)「歯科 嶋田医院」。大正初期に建てられた洋館。
 元は、旧松山郵便局だったようです。

お隣の建物。

かなり痛んではいますが。

                 「埼玉新聞東松山通信部」の看板。

宿場のはずれには「八雲神社」。その先に「上沼公園」。 

 宿場を出ると、のどかな道筋になります。
 
                                            カルガモの群れ。
「東松山市民病院」の下、切り通しの道を進みます。

「滑川(なめかわ)」。

(12:55)「馬頭観音」のところを右折し、「東平」の歩道橋を渡ります。

「国道407号線」。

「県道66号線」から「加藤農園」の脇を左折する細い道が旧道。振り返る。



熊野神社の脇を抜けると、県道に再び合流します。里山風景。

 (13:22)県道をしばらく進み、右の道に入ります。
 熊谷市に。

農家や住宅が続く道。

農産物販売所。久々に見ました。

のんびりと歩きます。来た道を振り返る。

小さな集落となります。
                この先で、旧道は左手に入り、コの字型で春日神社の前を通っていましたが、省略。

いつしか田んぼが広がる道へ。

 旧道は田んぼの中を進んでいたようですが、そのまままっすぐな道を荒川に向かって歩いて行きます。



1880年代のようす。左手ジグザクに進む道が街道。



2010年代のようす。斜め直線の道が歩いたコース。右手上に「長島記念館」。

 (13:46)そのまま進むと、左手奥に見えてきたのが「長島記念館」。
長島記念館
 平成4年に没した 元埼玉銀行頭取 長島恭助が 生前に蒐集した 絵画・刀剣等の美術工芸品を展示しているスペースです 当所に本拠を置く 財団法人長島記念財団は 故人の事蹟を顕彰するため 平成5年に発足した財団法人で長島記念館を開設し また県下の高校生・大学生を対象に奨学事業を 展開しております


                          

石蔵。

              
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-28 19:45:43 | 日光千人同心街道
                            「江戸時代のままの石橋」。

 通りを右手に進むと、「高済寺」。戦国時代に高坂館(やかた)があった場所とのこと。江戸時代には「高坂藩陣屋」となりました。
「高済寺」門前の「庚申塔」。

 この付近には「江戸時代のままの石橋」があるはずなので、都幾川河川敷の「リバーサイドパーク」内をうろうろしましたが、見つからず。工事中の係員に尋ねたところ、「この先のところにありますよ。ま、何の変哲もない橋ですよ。」と。
 (12:39)たしかにその通り。石橋のそばにはシートが無造作に置かれ、水の流れもさえない雰囲気。
 解説板にある「長さ約370㎝・幅約150㎝」とは思えない、といってはいけないか。埋もれてしまったのかもしれませんが。


ちょっとその上を歩いて、江戸時代を味わうことに。

解説板。
石橋及び石橋供養塔
 この石橋は、八王子・日光道が松山方面に抜ける「高坂の渡し」の手前の水路に設けられたもので、往時の姿のまま残されています。長さ約370㎝・幅約150㎝の一枚岩です。
 石橋供養塔は橋の新設や架け替えに際し、橋がいつまでも利用できることや通行人の安全を祈って造られたものです。現在は保存のため、原位置より北側に移されています。材質は安山岩で高さ約120㎝・幅約41㎝・奥行き約27㎝の角柱です。・・・左側面には、松山・行田・熊谷道の道標銘、・・・

そのそばに「石橋供養塔」。道標も兼ねています。

                            

 この先は旧道は河川敷内となって消滅するので、そのまま進んで、「国道407号線」に出て、「新東松山橋」を越えます。


旧道は左の河川敷から渡し場を経由し、右に抜けたようです。

 少し上流にある「東松山橋」を渡り、田んぼの中の道を歩く方もいますが・・・。


 (13:02)国道から右に入り、田んぼの中の道を進みます。国道には上下線とも車がひっきりなしに通るので、渡るのは大変危険です。
 
         旧道は右手の田んぼの中を進んでいたようです。              前方右手の森は「将軍塚古墳」。



1880年代のようす。当時も現在も田んぼの中の一本道。



2010年代のようす。かつてのように田んぼの中の道。中央の直線道路は国道407号線。

一面、田んぼが広がっています。

 

 (13:15)県道に合流して少し右に進むと、「将軍塚古墳」。


                     
                         鬱蒼とした森の中にあります。
 近くにあった切り株に腰掛けて、休憩。
「農村センター」信号脇にある「野本村道路元標」。

しばらく静かな住宅街を進みます。

前にも見かけた大きなユズ? 

「上野本の獅子舞」解説板。江戸時代から続く伝統行事のようです。

(13:52)しだいに住宅が建て込んできます。この先が「若松町一丁目」五叉路に。



 コンビニ右横の道を進みます。途中には。

かつての街道筋らしいおうち。

 この先で、少し残っている旧道を歩いて、東武線「東松山」駅に向かいます。

 時間も早いですが、今回はここまで。(14:22)「東松山」駅は煉瓦造りで趣のある駅舎。 


                   

注:「深谷駅」駅舎は赤煉瓦の生産地という関連で、東京駅を模して造られています。

駅構内の案内図。→が街道。赤い線がその旧道。
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-27 18:43:06 | 日光千人同心街道
                           街道は小学校の敷地内(右手)を進んでいたようです。

「薬師堂」。

 この先で旧道は消滅し、その先も、住宅公団(UR)の北坂戸団地の開発によって消滅しています。東武線の跨線橋を越えて線路の西側にあるの団地へ。

 跨線橋から南側を望むと、遠くに富士山が(↓)。

左下の小学校から分かれた旧道も○では不明。

北坂戸団地。

(11:16)団地のはずれ、県道の向こうに「昔を偲ぶよすがの場所」。

「上吉田の座標」。

𦾔(旧)日光街道の碑」。
 上吉田の起原については明らかでないが、正代氏文書に拠れば承元4(1210)年3月29日の記録に沙弥行速が小代有平に与えた譲り状によしだむらの四至として東こさむのつつみ南あとかは西大とうのふるみち北たむきのさかひを挙げてすでに集落が存在した事を示し居る 降って天正10(1582)年武田勝頼の敗死によりその家臣が此処に帰農し江戸中期には49戸を数える集落となった 又この街道は戦国時代、小田原北条氏が鉢形厩橋忍城との連絡路として利用し、江戸初期日光東照宮造営15年後の慶安4(1651)年八王子千人同心がその火の番役を仰せつかり、勤務の為50人ずつ半年交代で日光へ往来した為日光街道と名付けられ、八王子から始まって坂戸宿を通り当集落付近を横切り松山吹上忍を経て例幣使街道に合流した
 この街道に沿うむらの入口に雨降山の石灯籠と馬頭観世音供養塔が建てられた頃植えた吉田の松はその樹形が美しいことで道往く人々に永く親しまれて来た
 慶応6(1866)米価暴騰に堪えかねて飯能暴動と云われる吾野谷等の山村民の蜂起による「打ちこわし」が日光街道を坂戸宿まで押し寄せたとの情報に急遽むら中の家々で炊き出しを行い、これを両問屋に持ち寄り酒と握り飯を振る舞ったため一揆は乱暴することなく過ぎたと言い伝えて居る 明治以降近衛第1第14師団の秋季演習の都度在郷軍人青年団員が湯茶の接待に当り、また行軍の靴音に子供達が胸躍らされたのもこの吉田の松付近であった
 昭和農業恐慌の救農事業として道路改修が行われ昭和40年代北坂戸団地が日本住宅公団の手によって造成され街道は全くその姿を失うに至った 今むらの人々相諮り協力して「吉田の松」周辺の荒廃を修復し且つ𦾔日光街道の碑を建て後世に伝えると共に昔を偲ぶよすがとする次第である 

さらに「石灯籠」、「馬頭観音」や形のいい松が植わっています。

            

来た道。ただし、この道が旧道どうかは定かではない。  

県道を渡って道なりに進みます。

「昔を偲ぶよすがの場所」(↓)を振り返る。  

田んぼの中の道に向かいます。

                           

この辺りの道も不明。


 さきほどの県道に突き当たります。旧道はそのまま「越辺川(おっぺがわ)」に向かったのか? 


                       

振り返って望む。

 土手で行き止まりになるので、県道で東武線の下をくぐり、「国道407号線」へ向かいます。(11:35)「越辺川」に架かる「高坂橋」を渡り、「高坂宿」へ入ります。


                         

                                 

西方の鉄橋(上流)を通る東武線。その付近に渡し場があったか?

 国道をしばらく進むと、左に広い分かれ道。ついその道へ進んでしまいましたが、この道は「高坂駅入口」交差点に通じる道で、旧道ではありません。途中で気づいて国道に戻ります(ロスタイム)。 


                    注:このルートではありません。
  
国道を進み、「東松山市高坂市民活動センター」を左に曲がります。 



 (11:50)「川越・児玉往還」と合流して、「九十九川」に架かる「坂下橋」を渡ると、「高坂宿」。


ゆるい上り坂を行きます。左手に祠。 

宿場らしい雰囲気はないが、りっぱなおうちが目立つ。

            

時に昔の雰囲気が残るおうちも。

ほぼ直線に進む街道。

先の方に旧家らしい建物が。

宿内でも一番立派なおうち。

                        

新しいおうちが目立ちます。

かつての家紋入りの鬼瓦が門前に。

門と古木を残してあります。

 (12:20)街道は新しい道で遮られます。そのまま進むと「都幾川」の広い「リバーサイドパーク」内に。
 

 「高坂駅」を中心に、周囲一帯が区画整理され、道路の拡幅整備が進み、大きく様変わりしている印象。そのためか、かつての街道の面影はほとんど見られなくなっています。
 宿内の途中にあった「六地蔵」「馬頭観音」以外、かつて路傍にあった石仏や道標などは見つけられませんでした。

        
         
                
1880年代のようす。                    2010年代のようす。
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-26 19:42:48 | 日光千人同心街道
          (9:42)「日光街道(千人同心街道)」と「川越街道(越生道)」との交差点(脚折才道木)角にある「道標」。

↓のところに「道標」。



                         
才道木日光街道道しるべ
 この道しるべは、江戸時代の八王子と日光、川越と越生を結ぶ重要な街道が交わった場所にあります。形は角形の石柱で、大きさは高さ73センチ、幅23.5センチ、厚さ15センチ、刻まれた干支から文政4年(1821)のものであることがわかります。
 道しるべの各面には「北 日光 さかと 道」、「東 江戸 川ごへ 道」「南 八王子 たかはぎ 道」「西 慈光 をこせ 道」と刻まれています。南北は、この道が八王子から高萩(日高市)、坂戸を経て日光へ通じる日光街道であったことを表しています。・・・また、東西は川越街道(越生道とも呼ばれた)であったことを示し、東は川越を経て江戸へ通じ、西は、越生を経て古刹慈光寺(ときがわ町)へ通じることを表しています。 
 

歩道橋には「日光街道」という名称が。

歩道橋の向こうにはどなたかのりっぱな「顕彰碑」。

「坂戸宿」へ向かいます。

一番下の道が「日光街道」。

(10:11)「関越道」をくぐる。

「日光街道」という標識。

東武越生線、続いて東武東上線の踏切を渡ります。

東武越生線。

東武東上線。

「坂戸宿」の現在のようす。

                                

 (10:30)「坂戸神社」からしばらく進んだ「日の出町」交差点の角が「旅籠角屋跡」。交差点手前の祠に「延命地蔵」。
 

振り返って望む。

特に宿場らしい建物などは見当たらない、近代的な家並み。

と、それらしい見世蔵造りのおうち。

その先に「解説板」。
歴史の道・日光脇街道
 近世における江戸より日光への道は、「日光街道」と将軍社参の道である「日光御成道」がよく知られていますが、この街道以外にも、裏街道、脇街道と呼ばれる道は、各地に存在しています。
 坂戸を通る道は、「日光脇街道」と呼ばれ、日光東照宮の火の番(警護)をつとめた「八王子千人同心」が勤務地への往来に使った道になります。
 明六つ(午前6時頃)に八王子を出発した千人同心の一行は暮六つ(午後6時頃)に「坂戸宿」に到着し、最初の宿泊地としますが、日光までの21次を3泊4日で歩き通しました。当時の坂戸宿は、坂戸神社から坂戸小学校に向かう通りで、道幅2間半(約4.5㍍)、民家180余軒が軒をつらねていたと言われ、今は宿場の面影も薄れてしまいましたが、北東へ進み坂戸小学校に突き当たった所には、往時のままの姿で道しるべ(宝暦10年)が残っています。
 日光への道はここで二つに分かれ、左が脇往還になりますが、住宅開発や道路網の整備が進み、かつての道筋は、大きく変化してしまいました。

↓が「日光脇街道」の道筋。

「坂戸市文化会館」前にも「坂戸宿」の解説板。
坂戸宿
 「坂戸の宿はさかさ宿」と伝わるように、坂戸小学校前の交差点付近(下)から、坂戸神社方向(上)へと発展してきました。元町(4丁目)、仲町(3丁目)本町(2丁目)の順に整えられ、1丁目(本町)に宿並みが整備されたのは、江戸時代になってからです。
 坂戸宿の開設は、天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が主君・小田原北条氏の命を受け、元坂戸(北坂戸)から、農家39軒を移して、新しく集落を整備したのが始まりといわれています。
 坂戸宿を通過する街道は、八王子・高萩から坂戸を経て、高坂・松山・吹上・忍・館林に通じる当時の幹線道路で、江戸時代になると徳川幕府によって、「日光脇街道」として整備され、関東郡代配下の「八王子千人同心」が日光火の番(警備)のために往来した道で、八王子を出発して最初の宿泊地でした。しかし、当時は旅館も無く、隊員達は、周辺の農家に分宿したと伝えられ、享保8年(1723)になって、現在の日の出町交差点角に旅籠「角屋」が開業すると、同心隊の役付け隊員のみが角屋に泊まり、平隊員50人近くは、依然周辺の農家に分宿したといいます。
 江戸時代の坂戸宿は半農半商の宿場で、この通りにおいて、3・8日に開かれた坂戸の市は、他の地域の市日とずれていたため、広い範囲から生産・生活物資が持ち込まれて賑わいました。後に店売りが始まり、市日以外の商売が定着して、宿通りは発展しました。

坂戸小学校前の道しるべ(↓)。

 
道しるべ
 道しるべは、街道の三叉路や十字路の角に建てられ、他国から来た旅人が道に迷わないようしてあります。ここに残る道しるべは、坂戸宿4丁目の皆さんが旅人の安全を願って建てたもので、この道路が江戸時代の承応元年(1652)に日光脇街道に定められ、往来する旅人が増えたためと考えられます。
 道しるべは、坂戸市内に現存する最古のもので、角柱四面に「右 よしミみち、左 日光道、松山道、願主講中、坂戸町中四丁目、宝暦十庚辰六月吉日」と刻まれています。
 「右よしミみち」とあるのは、右の道をたどると坂東33観音のうち11番目の札所「安楽寺吉見観音」があり、札所巡りの盛んであった当時としては、観音霊場めぐりに往来する人たちが多く、坂戸宿を出外れた三叉路で、右か左か思案する姿が見られたためと想像できます。
 また、「左日光道」とあるのは、当時、八王子同心が日光東照宮の火の番(警備)にあたるため、八王子から日光への往来に使った道筋にあたったためで、今日まで多くの人々の往来を見守ってきました。

注:「宝暦10年」=西暦1760年。

振り返って宿内を望む。



1880年代のようす。○が道しるべのある三叉路。



2010年代のようす。西方は東武東上線。
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-21 21:10:43 | 日光千人同心街道
                                    晩秋の田園風景。
「狭山茶」一面、茶畑。


「日光街道」と記された標識。

 「高倉天神」交差点の手前に「榜示杙跡説明板」があります。その脇に朽ちて倒れているのがその榜示杙?(↓)


                               
榜示杙
 牓示とも書く。榜示とは領地の境界を示す標識のことで、古代、中世の寺院、神社の所領や荘園などの範囲を確認するため、その四至、すなわちその四方に設置されたのがはじまりという。一般に石材や木杭、自然木などが利用された。
 越後国、奥山荘(新潟県蒲原郡)の石榜示のごとく巨石を用いた例などもある。
 明治初年まで当市の日光街道にも村境を示すものとして、二本の榜示杙(木杭)が立っていた。
  平成6年6月30日   鶴ヶ島市教育委員会

(9:26)「高倉天神」交差点を渡ります。

                   

並木は続きます。

「鶴ヶ島中」脇にもう一つの榜示杙。ここは、榜示杙が立てられています。

         行く方向を望む。

向かいの細道を入ると、「川崎平右衛門定孝陣屋跡」。

                     
 

解説板。
鶴ヶ島市指定史跡 武州三角原
 川崎平右衛門定孝陣屋跡
 川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
 享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180リットル)の増収を得ようとする計画でした。
 開発当初の出百姓(入植者)の困窮ははなはだしく、また大凶作にも見まわれ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものはわずか9戸であったといいます。
 幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させました。
 平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって500町歩(約500ヘクタール)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任ぜられました。
 その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月74歳で生涯を終えました。
 ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民たちが平右衛門の徳を追慕して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれています。
 陣屋は平右衛門が美濃に任地替になったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
 平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と平行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m・南北55m)の大きさがあることがわかりました。

  平成11年3月     鶴ヶ島市教育委員会


                                  

桜並木」解説板。

 ・・・街道沿いの杉や松は江戸時代(17世紀後半)に植えられたものと言われ、かつては老樹が立ち並んでいました。この老樹も戦後にあった大型の台風により多くが倒れ、昔の面影がうすれていく有様を惜しんだ川上庄作氏(三ツ木)が私費を投じて桜苗を購入し植え付け、現在の桜並木となりました。
 この街道では毎年3月下旬から4月上旬にかけて「桜まつり」が行われ多くの人で賑わい、憩いの場所として親しまれています。
 これからも、この桜並木を皆様と共に親しみ、見守っていきたいと思います。

 2001年4月7日  鶴ヶ島桜まつり実行委員会


 「脚折才道木」交差点の手前には庚申塔と馬頭観音のおさまった祠。
  


 ところで「脚折才道木」の読みといわれは?  
読み:スネオリサイドギ
「脚折」(スネオリ)のいわれ:日本武尊が東征の折、馬が足を折ったという故事から?
「才道木」(サイドギ)のいわれ:??     
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-19 21:22:34 | 日光千人同心街道
                             (8:23)「日光千人同心街道」。

11月15日(木)快晴。好天に誘われて出かけます。


「高萩」交差点を左折、川越線のガードをくぐります。

すぐ右手に真新しい「金毘羅大権現」碑と常夜燈。

                                  

 先達の記録では石碑が倒れていたり、常夜燈が傾いている、という話でしたが、昨年・平成29年6月に「金比羅宮碑等再建並びに整備委員会」の手で再建されました。

 国道407号の旧道沿い、かつて宿場町だった日高市高萩地内に、清水次郎長も一目置いた侠客の清水喜右衛門こと「高萩の万次郎」(1805~1885年)が願主となり慶応2年(1866年)に建立された「金毘羅大権現碑」がある。大正12年(1923年)の関東大震災に始まり、平成16年の新潟中越地震、そして同23年の東日本大震災の影響を受け壊れたままになっていたことから、住民有志が立ち上げた「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」(関孝夫委員長)が地域に協力を呼びかけて碑を再建した。碑をはじめ外柵の新調、往時の高萩宿の様子を示す歴史解説板の設置なども行われ、28日には委員会のメンバーが集まり魂入式が挙行される。
 同委員会によると、高萩を南北に貫く道は江戸時代、「日光千人同心街道」と呼ばれ、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため八王子から日光へ向かうルートとして利用された。高萩宿は八王子から6番目の宿場として、人馬を交代して荷物を運ぶための継立(つぎたて)の役割を担っていた。
 参勤交代で大名が利用する街道ではなかったため、本陣・脇本陣はなく「旅籠(はたご)」が数軒、また、宿場の最高責任者の「問屋」が2軒あり交代で役職を務め、それを補佐する「年寄」がおり、人馬の継立業務を担っていた。
 清水喜右衛門こと高萩の万次郎は、「鶴屋」を屋号とする十手持ちで、高萩宿で宿役人の年寄を務めていた。近隣の村民を集めて地元負担で荷物を運ばせる「助郷(すけごう)」の命令書が中山道熊谷宿から届いた際には、問屋とともに熊谷宿へ赴き助郷免除を嘆願、慶応2年(1886年)に起きた武州一揆の際は宿はずれで一揆衆に酒や食事を振る舞い、高萩宿での打ちこわしを回避させた。
 喜右衛門は侠客としても有名で近隣の侠客から一目置かれ、清水次郎長とも親交があり、若かりし次郎長を匿ったことが縁となり、その縁は喜右衛門の晩年まで続いた。
 金毘羅大権現碑は、その喜右衛門が願主となって建立。以来毎年祈願が続けられ、「祈願無事永続」として明治15年には鶴屋で「金比羅講」が催された。この時、日高、飯能をはじめ県内や東京、山梨、静岡から延べ78人の有力者が世話人として名を連ね、その中には山本長五郎(清水次郎長)、宮﨑文吉(津向文吉)、宮下仙右衛門(枡川仙右衛門)など講談や小説に登場する面々の名もあった。
 碑の文字は「異体字」で記されている。傍らに建つ石尊大権現御神燈に刻まれた「高萩驛下宿」の文字は、この地に高萩宿が存在したことを示す唯一の証。馬で人や物を運ぶ中継地の「駅」としての役割を持っていたことを示している。
・・・
 折れたままになっていた碑は、平成23年3月の東日本大震災で、さらに残っていた下半分もほぼ根元から折れてしまった。・・・
 「後世に高萩宿の歴史を伝えるためにも、碑を建て直したい」。再建の話が再び浮上したのは昨年8月。
「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」を立ち上げた。高萩宿の歴史の解説や後世にその歴史を伝えたい思いを盛り込んだ趣意書を作成し、碑の再建とともに、風化著しい外柵の新調、石尊大権現御神燈の改修、高萩宿の歴史解説板の設置のため地域住民に寄付を募ったところ、約半年の間に目標額を上回る寄付が寄せられた。
 今年5月から工事を始め、無事完成を迎えることに。28日には同委員会のメンバーが集まり魂入式を行う。
 委員長を務める関孝夫さん(62)は、「高萩に宿場があったことを知らない人も増え、後世に高萩宿の歴史を残したいとの思いで再建の話が持ち上がった。実現できないのではないかとの不安もあったが、地域の方々のご協力により目標を上回るご寄付を賜り再建を行うことができた。心より感謝したい」と話している。
(以上、「」HPより)

解説板。
      「高萩宿の歴史」 「清水喜右衛門(清水万次郎 高萩の万次郎)と金毘羅大権現」 

その対面のおうちは「旅籠亀屋」跡ということですが。 

かつての宿場町という雰囲気はありません。 

昔を偲ぶ唯一の建物ともいえるのが、元「日高郵便局」。

                            
                              明治12(1879)年築。通信業務の中心として活躍した木造平屋の下見板張りの建物。

 お隣の見事な板塀のあるおうちが旧家の「犬竹」家。土蔵造りの二階には閑院宮をはじめ山岡鉄舟などの著名人が宿泊している、とのこと。


 ところで、沿道に「犬竹」の名の家が目に付きます。それも大きな立派なおうち。ちょっと珍しい姓。

【名字】犬竹
【読み】いぬたけ
【全国順位】 10,750位
【全国人数】 およそ650人
【名字の由来解説】
 現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国巨摩郡犬竹村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)季衡流北条氏族。近年、埼玉県日高市などに多数みられる。「竹」は植物の竹を表す。
(この項、「」HPより)

 ついでに調べると、我が父方の姓は、

【全国順位】 18,366位
【全国人数】 およそ270人

 だそうなので、もっと珍しいということに。

 この先、道路の拡張整備、住宅地区画整理などで旧道は失われています。現在の道路の西側に旧道はあったようです。
交差点の西方向。

平日の午前中。幹線道路としてお店も多く、車の行き来が激しい。

           「高萩宿」方向を振り返る。

(8:45)まもなく「日光街道杉並木」に入ります。

                        

車道の左側に「遊歩道」があります。木陰の中の歩き。

切り株や伐採された杉がけっこう目立ちます。

スギの他にマツ、カエデ、サクラなどが植えられています。これはサザンカ。
                                          目を楽しませてくれます。

しばらく進むと「日光街道杉並木碑」があります。

                                 
日光街道並木保全の記
 小田原の北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設された、この道路は当時軍用道路として重要な使命をもったものである。勿論その頃は野中の一本道で高萩村から鶴ヶ島村を通過、坂戸町まで5.3㎞と続いていたので、この街道を旅する人達は暑さにつけ寒さにつけその難儀の様は言語を絶するものがあったと思われる。
 時は流れ徳川三代家光の代に入って懸案の日光東照宮を完了したのでその警備に八王子千人同心を起用することとなり警備の人々の往来した道としてこのあたりから日光街道と呼ばれるようになった。伝承によると江戸期は忍城主松平伊豆守が松は相模国、杉は武蔵国御嶽山、櫟は上野国赤城山から苗木を取り寄せて植樹したものと云われて樹齢は300年、日光の杉並木と並ぶ歴史的名所となっているが、代の移ろいに従って寿命による枯樹木や台風その他の気象条件或いは交通事情の影響によって植栽当時の樹木も減少の一途を辿り前途を想えば消滅をさえ感じさせられる経緯を示して来たので昭和55年11月高萩地区同志相諮り日光街道並木保存会を結成、会員を募り徹底した奉仕活動を展開、理解ある多くの会員と共々これを持続、杉苗600本を南北並木に植樹し先人の意図を継承する礎が出来たのである。茲に5周年を迎えるに当り碑を建てて由来を記すものである。  

(9:04)「鶴ヶ島市」に入ります。

左手は車道ですが、右手はこうした雑木林も。

埼玉県が立てた「日光街道杉並木」の解説板。
日光街道杉並木
 この街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番を交代で勤めるために往来した道で、日光街道と呼ばれている。
 この街道は、千人同心隊だけではなく、上州や信州から東海道へ出る近道として、また、相州や甲州から上州へ旅する人達の主要道路として盛んに利用された。
 並木は、鶴ヶ島町、川越市、日高町にまたがって、5.3㎞と長く続いている。樹の種類は、杉と松が主で、桧、櫟、楢、そろなどが混じっている。・・・
 今や日光の杉並木と並ぶこの並木は、町を代表する歴史的な名所となっているが、昭和3年に5,571本もあった並木も、今では1,118本に減ってしまった。現在、地元を中心にその保存に努めているところである。
 

                         
            
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「三原城」跡。JR山陽本線・新幹線「三原」駅。その2。そして、「HelloKitty Shinkansen」。

2018-11-15 21:30:05 | 歴史・痕跡
                           お濠側から見た「天主台跡」。
「やっさだるマン」からのおねがい、と。
やっさだるマン(Yassadaruman)
 広島県三原市の公式マスコットキャラクターである。
 2014年11月17日から12月25日に応募された1017点の応募作から優秀作8点を選び、その中から市民投票などで採用された三原市の公式マスコット。
 2015年4月29日、三原市芸術文化センター(ポポロ)で開かれた「三原市合併10周年記念式典」で初披露された。 三原といえばやっさ祭りと三原神明市(ダルマ市)ということから、やっさ踊りを踊る日本一の大だるまをイメージして生まれた。
 2018年4月21日、やっさだるマンがタイトルの三原市のご当地映画『やっさだるマン』が公開された。

名前:やっさだるマン
年齢:推定450歳
住まい:東町のとある倉庫
好きな食べ物:三原のスイーツ
好きな飲み物:三原のお酒。大吟醸が大好き
性格:とても優しい。特に、子どもと年配の人に
チャームポイント:ワイルドな眉毛とつぶらな瞳
好きなタイプ:三原なまりの女性
趣味:人前に現れ、ハッピーをもたらすこと。やっさ踊りを踊ること
座右の銘:七転び八起き
(以上、「Wikipedia」より)

三原市のご当地映画『やっさだるマン』
 広島県三原市を舞台に、人気のない市の公式キャラクターを人気者にすべく奮闘する市役所の若者たちを描いた青春映画。如月肇と赤畑里美は広島県三原市役所やっさだるマン課で市の公式キャラクター「やっさだるマン」の管理運営を担当している。
 しかし、やっさだるマンの人気は低く、全国からご当地キャラなどが集まる「ゆるキャラグランプリ」でも全国236位という順位に甘んじているが、肇はさして気にもとめずに昼は淡々と業務をこなし、夜は行けつけのバーで飲んだくれる日々を送っていた。
 ある日、やっさだるマンの大ファンである礒谷優那が課に配属されてきた。彼女に一目ぼれした肇は、これまでにないやる気を見せ、やっさだるマンの一大プロジェクトを立ちあげることとなるのだが……。
 人気声優の竹達彩奈らが出演し、同じく竹達が実写映画初出演した「ライトノベルの楽しい書き方」の大森研一監督とメインキャストの佐藤永典、須藤茉麻、竹達が再結集した。
(この項、「」HPより)

お濠の周囲を回ってみます。
               明治時代の天主台跡周辺古写真
 左の古写真では、すでに三原城の天主台の櫓は壊されており、石垣のみとなっています。西国街道があった天主台跡濠の北側には、家が立ち並んでいる様子が見えます。右の古写真では、橋が架かっていますが、その後埋め立てられて現在のような道になりました。

史跡 三原城址」。東・西・北のお濠周辺は、公園として整備されています。

史跡 小早川氏城跡(三原城跡)
 『小早川家文書』によると、三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10(1567)年沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで築かれたと伝えられています。城は、海に向って船入りを開き、満潮時には海に浮んだように見えることから「浮城」とも呼ばれました。
 小早川氏の後は福島氏・浅野氏の支城となり、明治維新後には建物・樹木などが競売に付されました。
 その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)には三原駅が開業しました。
 今では、市街地化がすすみ、天主台跡とその濠、船入櫓跡、船入跡、中門跡などが残るのみです。

「天主台」跡。石垣が見事です。

後藤門の石垣」(推定復元)。天主台濠の北側に設けられていた城門。
 『備後国三原城絵図』(慶応年間三原城絵図)に描かれた後藤門(絵図では後東門と表記)の石垣をもとに復元しています。実際の石垣は高さがもう少し高く、北側の石垣も現在の市道の歩道部分あたりまで延びていました。門自体は、現在の市道直下にあたります。石垣の東側は階段状の雁木となっています。・・・

三原城下町」。
 三原城の東西に形成された町は、小早川隆景の時代(戦国時代の終わり頃)にまず東側(東町)から整備がすすめられました。その後、福島氏の時代(江戸時代のはじめ)に西側の町割りを行い、西町の整備がすすめられました。江戸時代後期の絵図では、西国街道に沿って両側に町屋が並び、活気ある様子がうかがえます。
 

解説板

                    

西側のお濠。右上に見えるのが新幹線のホーム。

                        


三原城跡歴史公園」。
・・・この公園は、平成23(2011)年から3年をかけて発掘調査を行い、歴史公園として整備しました。『備後国三原城絵図』が描かれた江戸時代末期の様子をイメージしています。

 
西国街道の石列
 天主台濠端の周囲から(濠から1.4mの場所)で石列がみつかりました。この石列の上部がすでに壊されていたため正確な構造ははっきりしませんが、柵などの跡もみつかっておらず、西国街道の土砂が濠に落ちるのを防ぐ土止め役割と、歩く人の転落防止の機能を持たせたものであったと考えられます。

桜山」。

さて、そろそろ「新幹線」に乗る時間。お濠巡りはここまで。
                                 「公衆電話ボックス」の上もお城。

 石垣が新幹線高架下に。   

天主台石垣」。
 日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら6つも入るという広さを持つ。三原城が作られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。しかしこの三原城築城時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
 この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群をぬきます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積み形式を400年経た今日まで立派に伝えております。
 1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損箇所は、・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵圓のことと推測します。


 駅南側にも石垣などの史跡が残っているようです。時間があれば行って見たい、と。残念ですが、ここまで。
          

新幹線ホームから見た「天主台」。

しばらく待っていると、下り線ホームにピンク色の新幹線が到着。

                               

HelloKitty Shinkansen 」。

「ハローキティ新幹線」って?
 新大阪~博多間を結ぶ山陽新幹線に登場する、ハローキティ仕様の新幹線。鋭いロングノーズの500系が、おしゃれ可愛く“変身”します。
 西日本の地域活性化をめざし、ハローキティが案内人となり期間ごとに西日本の沿線地域を取り上げ、地域といっしょに魅力を発信します。

 「ハローキティ新幹線」はココがすごい!
 特に可愛い注目ポイントを3点ほどピックアップします。
①500系が可愛いピンク色に!
 地域を「つなぐ」「結ぶ」という思いが詰まったリボンをモチーフにデザイン。先頭車両では制服を着たハローキティのイラストがお出迎え。また各号車には地域限定デザインのハローキティが描かれています。

②内装もハローキティ!
 8両編成のうち、1・2号車の車内はハローキティの世界観が楽しめる遊び心もたっぷりの特別デザイン(3~8号車はほぼ通常内装)です。
1号車は展示スペース。可愛い車内で西日本の各地域を展示や映像で発信、お買い物や休憩もできます。2号車はハローキティ仕様の自由席で、どこかに隠れハローキティも!?フォトスポットも設置されます。
 ハローキティ新幹線は2018年6月30日から「こだま730号」(博多6:40→新大阪11:13)・「こだま741号」(新大阪11:29→博多15:38)として運行されます。


                    

                           
(この項、写真含め、「」HPより)

 孫に見せたら、あまり反応せず。彼の関心は、キティーちゃんではないんですね、残念! 今度乗せて、と言われなかっただけでも幸いですか。      
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「三原城」跡。JR山陽本線・新幹線「三原」駅。その1。

2018-11-14 20:01:59 | 歴史・痕跡
                             「三原城・天主台跡」。
「史跡 小早川氏城跡 三原城跡」
 小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。
 隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築き、ここに移った。三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、「浮城」とよばれていた。「船入櫓」。

 小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、今は天主台跡とそれをめぐる濠および船入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
「鉄道開通後」。

(「Wikipedia」より)

 先日、広島県三原市市内へお葬式のためにでかけました。
 出棺を見送り、車で送ってもらい、JR「三原」駅まで。新幹線に乗るまで時間があったので、駅構内を歩いていると、
 
 案内板に誘われて駅の北側に向かいます。

 かつての三原城本丸など一帯が「山陽本線」「山陽新幹線」の鉄道敷地になっています。手前が新幹線ホーム。奥が在来線。
(「」HPより)

そのため、駅構内の階段を上ると、すぐそこが「三原城・天主台」跡。
国指定の史跡になっています。



                西北側。

高台だけに景観はすばらしい。石碑「大游園」。 


東北側。

                   東南側(JR線方向)。

ひとしきり天主台跡の園内を散策、いったんJR構内へ。
その途中の新幹線の壁にある標識。「761K000M」
                               『駅探』では、「東京~三原 822.8km」となっていますが。



                 三原やっさ」。
 毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間、「三原やっさ祭り」が開催され、中国地方を代表する夏祭りとして約40万人の人出で賑わいます。
○「やっさ踊りの由来」
 今から約450年前の永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために、水・陸・交通の要地である備後の国・三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。
 やっさ踊りは、この築城を祝って老若男女を問わず三味線・太鼓・笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝いごとは "やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
 また、その歌詞は、時代とともに移り変わり、近郷の地唄・はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。
 全盛を極めて明治のはじめ頃は、子どもが踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものである。また当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。
○「やっさ踊りの特徴」
 足の踊りといわれ、動きのある踊りであるが、きまった踊りの型はなく、はやしのリズムにあわせ、各人各様におもしろく、気やすく踊れるところにあり、三味線、鉦・太鼓・笛・四つ竹など賑やかなはやしと歌声にあわせ、各人思い思いの所作で自由奔放に踊る様は、見ている者もそのおもしろさに我を忘れて踊りたくなるものです。 
  

(「」HPより)

 ところで、「毛利元就」といえば、「三矢の教え」と呼ばれる逸話が知られています。

 晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。

 この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。

(この項、「Wikipedia」参照)

 今度は構内の外に出てみます。
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その6。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-12 21:21:53 | 日光千人同心街道
                      (15:42)「国道407号線」を北に進みます。その先に杉並木が。

キャベツ畑。最近作付けを始めた?

(15:47)「鎌倉街道」交差点。ここから本格的な杉並木が始まります。
鎌倉街道 上の道
 鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道です。
 各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限りません。街道は古代の官道などを繋いだり、不足部分は幕府が建設したりして造られました。中世から江戸期にかけて政治的、文化的に果たした役割は大きいものがあるようです。 
 関東には下記の3本の道があります。
上道:鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ抜ける古道。←ここで交差しているのは、この道
中道:鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国東部を経て下野国から奥州へ至る。
下道:鎌倉から朝比奈切通を越え、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して常陸へ抜ける。

(『国史大辞典 第三巻』国史大辞典編集委員会編」より)

車の行き来の激しい通り。歩道を進みます。

左は工業団地、右はゴルフ場。

                                  

次第に並木もまばらになってきます。

                              振り返る。


(16:00)左側が開けてきます。「高萩南」交差点で国道から離れて左に進みます。

                     

しばらく進み、「日高消防署高萩分署」のところから左に入る道を進みます。
  
「谷雲寺」の墓地脇、さらに小川に沿って進み、県道に突き当たります。右に折れると、「高萩」交差点。その交差点を左に折れると、「高萩宿」。


        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。○が「高萩」交差点。→が旧道。

 今回は、ここまで。JR川越線「武蔵高萩」駅へは、県道を左に折れて向かいます。
(16:16)「武蔵高萩」駅。

                           
「川越」で東武東上線に乗り換え、都内へ。

 先月30,31日、今月5,6日、さらに9,10日と葬儀(法要)続き。熊本、静岡、広島へ飛行機、車、新幹線を利用しての泊まりがけで、行ったり来たりでした。       
      
 
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-08 21:35:56 | 日光千人同心街道
旧「根岸宿」の家並み。

橋を渡って歩道橋の下に「馬頭観音」。その先の道を右に入ると「根岸宿」になります。
                     
                    秋の日ざしも傾きはじめ、のどかな宿内のようす。

 (14:48)「明光寺」参道の前にあるお屋敷は「久下家」。塀際に「日光脇往還(脇街道)」と記された標柱が建っています。


                         

「金谷坂」の上り坂を上ると「国道407号」に合流。

        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。「根岸宿」(→)は国道から離れた静かな佇まいに。

 緩い坂道を上っていきます。上り切った先で狭山市から日高市に。次の高萩宿を目指します。
 
                                          来た道を振り返る。

左手が「圏央道・狭山日高IC」付近。

左手に密生した杉林、雑木林。(15:12)その先、「田木」交差点の手前の細い道を入ります。
 

県道を越えて進みます。
 

 この先は「圏央道」のため、旧道の道筋は不明。静かな田舎道を高速道路の高架まで進みます。

 とある家からお婆さんが出てきて、「散歩はいいですよね。私もこれから・・・」ふと庭を拝見すると、たわわに実った大きな黄色。「あれはなんですか?」「ユズですよ。大きくなっています。よかったら今度差し上げますよ」

 街道歩きの途中とも言えず、写真だけ撮って先に。それにしても巨大なユズです。

洒落た門構えのおうち。

これもすてきな生け垣。

圏央道の高架下をくぐり、川沿いに進みます。

一面に田んぼが広がります。

 木々の向こうが「圏央道」。

左手の角に「日高市児童ふれあいセンター」の建物。

その脇を通っていくと、左手に「子安地蔵堂」の所に出ます。

                         

 (15:35)街道はその先で国道に合流して坂道を上っていきます。



1880年代のようす。すでに旧道は現圏央道の南は直線になっているようです。


2010年代のようす。「田木」交差点の先、「圏央道」高架手前で左に入る細い道が旧道のようです。「圏央道」を越えた左上に「児童ふれあいセンター」。
 
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-07 21:09:37 | 日光千人同心街道
                        「(扇)町屋通り」。ほとんど宿場時代の面影はありません。
 

 「入間市駅」へ通じる賑やかな通りに入っていきます。正面のY路路を左に向かいます。


 左手に入る手前に「道標」(↓の先辺り)がありますが、歩道橋を歩いたため、見逃し。享和2年(1802)建立のその道標には、
  従是 入間川 かわこへ 道
  道祖神
  従是 まつ山 日こう 道
 と刻まれているようです。

「丸広百貨店」横を進むと下り坂になります(「黒須坂」)。

 「丸広百貨店」先を右に入ると、「旧豊岡小学校」の跡地が「温故(故きを温ねる)公園」となっています。注:「新しきを知る公園」は別のところに。


                 椅子がずらり。趣はちょっと?
 
 (13:31)その一角の小高い所に「道標」。もちろんここにあるはずはなく、元は河原町交差点近くにあったものだそうです。「北 日光道」「東 江戸 ・・・みち」等と刻まれています。
 
豊岡温故公園の道標
 江戸から旧正丸峠を越えて秩父に入り、雁坂峠を越えて甲州に至る道は、秩父甲州往還として古くから開かれ、中世には重要な道として利用されていた。近世に入り秩父霊場巡りが盛んになると、江戸から所沢、入間、飯能、吾野を経て秩父へと抜ける秩父往還として次第に整備されてきた。現在の東町から県立豊岡高等学校脇を通り黒須を経て笹井の渡しに至る道がそれである。
 この道標は、初め秩父往還と日光脇街道が交差する現在の河原町交差点付近に建てられたものであるが、道路の拡張や新設、土地区画整理事業などにより現在地に移転されたものである。道標の造立年代は不明であるが、道標と同じ場所に建てられたと思われる地蔵菩薩立像に延享4年(1747)の銘があり、この頃建てられたものと推定される。
                   

この辺りで昼食をと思って駅方向に進み、うろうろしましたが、お店が見当たらず。昼食はしばらくあきらめて先に進みます。


街道は黒須坂を下って西武線のガード下を通り、「河原町交差点」を横断し、霞橋を渡ります(13:51)。


                  

右手に比較的新しい「常夜燈」。

 霞橋を渡って数分、歩道橋の下に「旧黒須銀行」(左)の建物が保存されている。明治42年(1909)に黒須銀行本店として建てられたもので、その後、埼玉銀行豊岡支店として昭和35年(1960)まで使われていた。
 道路を挟んだ北側には文化15年(1815)創業という繁田醤油の建物があります。
歩道橋からの「旧黒須銀行」。

同じく「繁田醤油」。

 
                                       扉には「・・豊岡支店」の文字が。
「解説板」。
旧黒須銀行
 この建物は、明治42年(1909)5月に黒須銀行本店として建設されたもので、土蔵造り二階建て、寄棟瓦葺き、総床面積236.02㎡の建物である。
 黒須銀行は、明治27年に設立された黒須相互組合を前身に、明治33年2月に誕生した。その経営は、創設時の中心人物・繁田武平満義の考えから道徳を規範としたもので、大正3年(1914)には顧問の渋沢栄一から「道徳銀行」の名を与えられ、順調に業績を伸ばした。しかし、第一次大戦後の不況の影響により、大正11年6月に武州銀行と合併して幕を下ろした。
 その後は昭和18年(1943)7月に埼玉銀行(埼玉りそな銀行)豊岡支店となり、昭和35年11月まで営業が行われていた。・・・
 現在は、当市の近代金融史を象徴する遺産として大切に保存されている。


「繁田醤油」。大きな屋敷。

(13:58)街道沿いには立派な「長屋門」。

脇に大きな甕。亀甲型に「」の印が。

今回もバス停名が歩く道しるべ。

街道は北に向かいます。

老舗風の狭山茶のお茶屋さん。

その先の交差点の角に台湾料理のお店。遅い昼食にします。

再開。(14:37)「入間川」に架かる「豊水橋」にさしかかります。

                             

「豊水橋」の歴史解説板。

                          
初代豊水橋の歴史
 豊水橋付近には、江戸時代から渡し場(根岸の渡し)があり、八王子千人同心の火の番役、物資の流通、山岳信仰の人々が往来する重要なところでした。また、大正時代頃まで名栗方面から産出する西川村の筏流しも行われていました。
 大正4年(1915)に豊岡町にも武蔵野鉄道(現西武鉄道)が通り、駅ができると豊岡町・水富村は橋の架設に寄付を募り、県に請願し全長166間(300m)の木橋が大正9年7月に完成し、2代目豊水橋ができるまで10余年みんなの役に立ちました。 

現在は、3代目の橋のようです。

                                   
          
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-05 19:29:20 | 日光千人同心街道
                                茶室「青丘庵」。
青丘庵とは
 紀元前の中国では、理想郷(シャングリラ)のことを「青丘(せいきゅう)」という雅称で呼び、憧れの地と考えていました。また、日本では、千利休や煎茶を嗜んだ文人たちが、茶室を世俗から離れた理想郷に見立てて楽しんでいました。そこで当館は、緑豊かな当地にたつこの茶室を「青丘庵」と名付けました。

                                                     (「入間市博物館」HPより)。
                  

ちょっと庭園内をぐるりと。
 

野草の道。 
                                   「二輪草」、「大判草」、「丁子草」、「桔梗」、「三輪草」・・・。                      
「芙蓉」。

                              「紫苑」。

 じっくり歩いて、見慣れぬ小さな草花を見つける時間があれば、と。でも、先を急ぎます。
 (12:06)この先、街道は工業団地で遮られ、失われてしまいます。
  

(12:21)工業団地の外郭を回って旧道に復帰します。けっこう時間がかかります。
                                              「狭山開墾記念碑」。

               


1880年代のようす。旧道は直線で北東に進む。


2010年代のようす。赤い線が旧道の復活部分。

振り返って「工業団地」方向を望む。

 この工業団地は、かつては「旧陸軍狭山飛行場」だったようです。その当時から旧道は失われていました。
 コンビニの脇でパンを食べながら、小休止。

直線道路が続きます。

茶畑。「狭山茶」。

                              

(12:40)「小谷田」交差点で、「国道16号線」に合流します。

                   

道路の向こうは「武蔵カントリークラブ豊岡コース」。

しばらく国道沿いに進む。車の激しい通りです。


(12:48)「横浜から62㎞」ポスト。
                      旧道は、「国道16号線」とたびたびクロスして進みます。   

 「ふれあい橋」歩道橋を渡ります。車の行き来が多い「小谷田」交差点。
               

北方向を望む。

                    西方向を望む。

(12:56)その先の三叉路で、旧街道は真ん中の道を進み「扇町屋宿」に向かいます。

かなり交通量は少なくなります。道路脇には茶畑。

            


 (13:02)「扇町屋3丁目」交差点脇に子育地蔵、馬頭観音、そして「扇町屋上町の道標」。左手から「青梅道」が合流します。
 
 道標(石塔)は安政3年(1856)に建てられたもので二つの道標には、それぞれ「青梅 みたけ山道 婦し山(富士山) 高尾山 今熊山 道」「八王子 大山 道」などの文字が刻まれています。

「解説板」。
扇町屋上町の道標
 江戸時代の主要な通りであった日光脇街道と青梅道が扇町屋村(現入間市)の上町で合流するが、ここに建てられたのがこの道標である。当時、扇町屋村宿継場はここから北に向かって、長さ6丁(654.5㍍)、道幅8間(14.5㍍)余、戸数90軒、左右に軒を連ね、三・八の日ごとに米穀や雑穀の市が立つなど賑わいを見せていた。また、日光勤番に当たる八王子千人同心が日光へ向かう昼食地であり、帰りの宿泊地でもあった。
 道標は、御岳山・本社(武蔵御嶽神社)、富士山、高尾山、大山、今熊山といった信仰の地を示す名称や、青梅、小河内原湯といった行き先を示す名称が刻まれている。扇町屋村で
旅籠と料理屋を営んでいた江嶋屋半六が願主となり、安政3年(1856)2月に建てられたものである。
 この道標は、当時の山岳信仰の巡礼や交通の様相と、扇町屋宿継場の盛況を伝えるものとして貴重である。

「青梅道」。 

        
        
1880年代のようす。顕著な二つの街道。           2010年代のようす。○がその地点。分かりにくくなっています。

この辺りから宿場がはじまります。

ひときわ目を引く建物。

                                              
    
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-02 19:32:38 | 日光千人同心街道
                                庭先の「ピラカンサ」。

右の分岐点に「庚申塔」。


 (11:16)しばらく進むと、「富士山(ふじやま)」交差点。辺りが開け、車の行き来の激しい「国道16号線」を歩道橋で横断します。


                         

「国道16号線瑞穂バイパス」。

来た道を振り返って望む。

 バイパス道路建設は地元の念願だったようで、歩道橋下の広場には石組みのモニュメントと解説板があります。
足下には方位計。

                            

手作りパン屋さんの庭先には「コスモス」。

茶畑が沿道に。この先から「狭山茶」産地。

お茶の花。
 花は10-12月初旬頃に咲き、初冬の季語となっています。ツバキの花に似ていますが、花弁が包み込むように丸く開いています。常緑樹であるお茶の木の、葉の下の方に白い花が咲いています。

 

                                              (HPより)

「埼玉県入間市」入り。

 (11:35)道が突き当たって右に折れます。その交差点左に自然石でできた「道標」。
    
                         「左 大山 八王子  右 青梅」
二本木上宿の道標」解説板。
 八王子と日光を結ぶ日光脇街道(通称日光街道)は、八王子から拝島、箱根ヶ崎を経て二本木の上宿で、青梅の新町から新河岸に至る街道(通称河岸街道)と合流する。その合流点に建てられたのがこの道標である。二本木宿は、八王子同心が日光勤番の際の宿継場として栄え、当時の記録によると、道幅4間余、戸数170余であったといわれており、現在でもそれぞれの家の屋号に当時の盛況ぶりを窺うことができる。
 道標は銘文によれば延享元年(1744)に上町の人々が交通の安全を願って建てたものであることがわかる。単独の道標としては市内最古である。

                 
1880年代のようす。○が道標のあるところ。         2010年代のようす。



ほとんど宿場の面影はなく、静かな通り。



                               

「二本木神社入口」交差点。

まだまだ現役の土蔵。

(11:48)この先の右手、囲いの中にある木製の「常夜燈」。

  
 江戸時代から今日まで、夕方になると近所の人がロウソクを灯し続けているのだそうです。

 街道はこの先で「国道16号線」に合流する手前で、左に曲がっていきます。
 


1880年代のようす。←が左に折れるところ。西南に延びているのが「二本木宿」。


2010年代のようす。幅広い道路が「国道16号線」。

久々に見つけた「飛び出し注意」のお嬢ちゃん。
 「旧東海道」歩きでは、いろんなバリエーションの「飛び出しトビ太」くんをよく見かけました。
 特に三重、滋賀、京都と断続的に。まるで「東海道」を道案内してくれているようでした。関東ではほとんど見ませんが・・・。
京都へ入る手前、「東海道」最後の峠「日ノ岡峠」での「飛び出し」坊や。

 左手に「入間市博物館ALIT」が見えてきます。 
ALITとは?
 ALITとは、市民のみなさんから寄せられた多くの案から選ばれた、博物館の愛称です。
Art・Archives
 主催事業として美術展を開催するほか、市民に創作発表の場(市民ギャラリー)を提供する美術館的機能をもっています。
また、地域の歴史資料として重要な文書などを収集・公開し、その活用をはかる文書館的機能をもった博物館です。
Library
 地域やお茶に関する図書類・映像ソフトの閲覧、視聴ができる、ライブラリー機能をあわせもつ博物館です。
Information
 地域の歴史・民俗・自然・文化等に関するさまざまな情報を市民に提供し、地域の情報センターとなることをめざす博物館です。
Tea
 狭山茶の主産地である入間市の博物館として、狭山茶をはじめとする日本各地や世界のお茶の製造・喫茶風習、茶道文化などに関する調査研究を行い、さまざまな形で情報を提供していきます。

 これらの頭文字を組み合わせて ALIT(アリット)といいます。  
(以上、「入間市博物館」HPより)
                   
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JR「箱根ヶ崎」駅~「武蔵高萩」駅まで。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第2日目。)

2018-11-01 20:01:47 | 日光千人同心街道
                    第2日目。「箱根ヶ崎」駅から旧道に復帰(10:48)。
 前夜からの激しい雨も上がり、やっと晴れ間が。せっかくの晴れ。もったいない、そこで、10時40分。立川、拝島経由で八高線「箱根ヶ崎」駅へ。陽が落ちる前にJR川越線「武蔵高萩」駅に着ければいいかな、と。
 こうしてやっては来たものの、まだ雲が多く、ちょっと気がかり。

「残堀川」に架かる「大橋」。橋柱に「常夜燈」のモニュメント。

                           

「解説板」。
常夜燈
 日光街道大橋場脇に常夜燈が建てられたのは、慶応元年(1865)でありました。近村でも珍しい大燈籠でで、通行人への道標となっていました。大正12年(1923)関東大震災のときに倒壊し、現在は狭山池公園に再建されています。
 地域の歴史を思い浮かべ、郷土の誇りを呼び起こすことを願い、常夜燈のレリーフを設置しました。

 (10:53)ゆるやかな登り坂。右手に「日光街道」という標識。
 

右手への分かれ道のところに「祠」。

切り通しを下ります。右手、崖上はこんもりとした森。

(10:59)「都道166号線」を越えていきます。

「馬頭観音」、「征夷大将軍・・」。

左手の高台には「さやま花多来里(カタクリ)の郷」が広がります。
 さやま花多来里の郷は、「みずほ きらめき回廊」の拠点施設であり、都内では珍しい20万株以上のカタクリの群生地です。春になると約3,000平方メートルの斜面一面に見事なカタクリが咲き誇ります。

カタクリとは
鮮やかな薄紫色が美しい花を持つ植物です。
カタクリは、根付いてから花を咲かせるまでに約8年もの長い歳月を要するとともに、開花期間が短いことから「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)とも呼ばれています。

幻の白いカタクリ
さらに数万株に1株といわれている大変珍しい「幻の白いカタクリ」も花を咲かせることがあります。

(以上、「」HPより)

 もともと個人で栽培していたカタクリの丘を町が管理するようになったようです。

(11:03)「駒形富士山(ふじやま)」バス停。
 この付近のバス停や交差点、施設の名には「富士山」と名付けられものが多くあります(「富士山会館」「富士山公園」など)。

すぐ左手に「瑞穂町郷土資料館 けやき館」。
 なるほど立派なケヤキの大木。その傍らには「ニホンオオカミ」像。
 
ニホンオオカミ
 ニホンオオカミと聞くと家畜や人を襲う恐ろしい動物と思われがちですが、実は農作物に被害を及ぼす鹿や猪を退治してくれるありがたい動物で、農民の守り神として、信仰の対象とされてきました。
 昔は、本州、四国などにかなりの数のニホンオオカミが生息していましたが、1900年代から始まった自然開発によってニホンオオカミの生息地を奪い、また、疫病(悪性の病気)や人間による駆除などが原因で、遂に絶滅してしまったと言われています。
 瑞穂町では、江戸末期に狭山丘陵のふもとに潜んでいたニホンオオカミを村人が捕らえたという話があります。その時の皮標本や頭蓋骨が受け継がれ、今も所蔵されています。特に骨は「キツネつき」(精神病の一種)という病気に効能があると言われ、お祓いの道具として使用されたようです。
 この像は、それらを参考にして再現しました。・・・
                       

建物入口脇には「御鷹場の境杭」。 
 これは、尾張家の御鷹場の境界を示すために建てられた杭です。瑞穂町には二本木村、箱根ヶ崎村、下師岡新田に1本ずつ計3本の杭がありました。これは二本木村にあったものとされる杭の複製です。

そのすぐ隣には「耕心館」という建物。



                         

施設の紹介
 周囲に塀をめぐらし、豪壮な母屋と二棟の土蔵から成るこの邸宅は、屋敷森に囲まれ、武蔵野の旧家のたたずまいを残しています。母屋の原型は、江戸時代末期の築造で、当時豪農として、その後醤油醸造業、養蚕業が営まれました。現在の2階は、演奏会・展覧会のための整備がなされましたが、養蚕のための家屋構造が確認できます。離れ和室は、大正時代に増築されたもので、特に和室の書院障子の木組みなどは、大正時代の建具の実例として貴重なものです。

運営者からご挨拶
 守られた伝統、繋ぐ文化、生まれる芸術、ここから。 心を耕すことが大切と「耕心館」と命名され、守り、培い、繋いできた文化、そして、新たに創り上げていくもの、これからも耕心館ならではの企画を実施してまいります。 また、皆様の芸術活動の発表など、新しい文化の発信の場としてご利用いただけます。 お気軽にご相談ください。 おくつろぎに、コンサートに、芸術と、いろいろな耕心館をお楽しみいただけます。  皆様のご来館をお待ちいたしております。

(以上、「耕心館」HPより)

 当地の豪農・細渕家の屋敷を瑞穂町が買収し、社会教育施設としたもの。
 つい最近、「ピアノリサイタル」が行われ、落ち着いた室内の雰囲気にマッチした、すばらしい演奏に魅了されたようすがHPで紹介されています。  

 

                         

庭を散策。 
                                      「クマガイソウ」。
 クマガイソウ(熊谷草)
 ラン科アツモリソウ属に分類される多年草の1種。大きな花をつけ、扇型の特徴的な葉をつける。
 和名の由来は、アツモリソウともに、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、源平合戦の熊谷直実(くまがい なおざね)と、平敦盛(たいら の あつもり)にあてたものである。
 (この項、「Wikipedia」より)

注:「アツモリソウ」
 低山から亜高山の草地や明るい林内に生育する、高さ20~40cmの多年草です。葉は3~5枚で互生し、茎の先には径3~5cmの淡紅色の花を下向きにつけます。
 和名は「敦盛草」。袋状の唇弁を平敦盛が背負った母衣に見立てて名前が付けられました。
・・・
 「絶滅のおそれのある野生動物の種の保存に関する法律」(種の保存法)が平成4年度に制定され、平成9年度にアツモリソウとホテイアツモリソウが特定国内希少野生動植物に指定されました。
 この法律に違反して、採取・譲渡等を行った場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金となります。自然にある植物を傷つけることは罪であると法律で決められたのです。
 (この項、「」HPより)

 前夜の雨露が残っていて、清々しい印象。秋の草花が少ないのが残念。
       
土蔵。   

門の額「大海道」。 

この付近の今昔
        
        
        
1880年代のようす。                   2010年代のようす。国道16号線バイパスなど出来たが、旧道は以前のまま。                
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