かつて(戦後しばらくまで)、車で立石方面から青戸方面へ向かう道は限られていました。今の葛飾小学校(青戸地域では最古の学校)の前を通り、青砥駅への道がその道。この道路は、他よりも広く、直線道路の部分が多くありました。
立石(奥戸)からの分かれ道付近が、この写真です。角の家は今はしもた屋風ですが、以前はお店をやっていたようです。
この店のところが、青戸への分岐点になっていて、中川沿いからの道を左に折れていきます。ここは、「立石」様の近くに位置し、昔からの道であったことが知れます。また、この近辺には、古くからあった「とげぬき地蔵」なども置かれています。
今でこそ、車での青戸への交通路は、広くなった水道路や水戸街道、環七などさまざまな道筋がありますが、ほんの60年くらい前までは人の行き来は車ではなく、徒歩や自転車(大八車)だったのでしょうか。
周りは水田地帯。次第に田んぼの中の水路が埋め立てられ、たんぼ道が広がりやっと交通網が整備されたのは、昭和30年代に入ってから。今の区役所あたりは、まだ水田と池と湿地帯でした。
立石(奥戸)からの分かれ道付近が、この写真です。角の家は今はしもた屋風ですが、以前はお店をやっていたようです。
この店のところが、青戸への分岐点になっていて、中川沿いからの道を左に折れていきます。ここは、「立石」様の近くに位置し、昔からの道であったことが知れます。また、この近辺には、古くからあった「とげぬき地蔵」なども置かれています。
今でこそ、車での青戸への交通路は、広くなった水道路や水戸街道、環七などさまざまな道筋がありますが、ほんの60年くらい前までは人の行き来は車ではなく、徒歩や自転車(大八車)だったのでしょうか。
周りは水田地帯。次第に田んぼの中の水路が埋め立てられ、たんぼ道が広がりやっと交通網が整備されたのは、昭和30年代に入ってから。今の区役所あたりは、まだ水田と池と湿地帯でした。