おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

水戸偕楽園。3分咲きの。その2。(「水戸街道」をゆく。第6日目。)

2017-02-17 19:01:13 | 水戸街道

好文亭」。

解説板。
 好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦などの催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1843年)に建てたものです。
 好文というのは梅の異名で、「文を好めば則ち梅開き,学を廃すれば則ち梅開かず」という中国の故事にもとづいて名付けられました。
 建物は木造3階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。 奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時貼んないでは管弦など禁制であったので城中の婦人達の遊息の場所としたという配慮があったようです。
 昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1969年)9月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
 平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の剥落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。

 好文亭本体は柿こけら葺き、奥殿は茅葺で、調和のとれた素朴清雅な格調高い数寄屋造りです。

「芝前門」。    「中門」。

梅の木は花もさることながら、枝ぶりも大事。 



   

             

 満開ならさぞかし見事。  

梅の下の小径をたどる。

表門の方へ進む。陽から陰へ。木漏れ日の中。



              

「一の木戸」。 「表門」。

あわただしく一巡して再び東門へ。3時過ぎ。東門からのバスをけっこう待って、水戸駅に戻りました。待っている間も自家用車が次々と訪れています。シーズン中はそうとう混み合う感じです。

 水戸駅から3時半過ぎの常磐線・普通列車で帰京しました。
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水戸偕楽園。3分咲きの。その1。(「水戸街道」をゆく。第6日目。)

2017-02-15 18:49:39 | 水戸街道

食事をして、駅北口からバスに乗り、「偕楽園」東門まで。

 着いたときにはもう2時近くなっていましたが、見物客がたくさん。
 東京を出るとき、以前来たことがある方に聞くと、けっこう風が吹いて寒かった、と。梅はすばらしいけど、「千波湖」から吹き上げてくる風と寒さで参った、とか。
 しかし、今日は真冬とは思えない、穏やかな陽射しで、午後になっても寒さを感じずに散策。ただ、まだ2分か3分咲きなのが惜しかった!

                「偕楽園の歩き方」

                 (HPより)

偕楽園(かいらくえん)
 国の史跡及び名勝に指定されており(指定名称は「常磐公園」)、隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた「偕楽園公園」は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ。また伝統的に、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えられてきた。
 偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本のウメ(梅)が植えられている[13]。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。弘道館は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
 水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。同じく彼の設立した藩校弘道館で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。偕楽とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。伝統を受け継ぎ、いまなお偕楽園は日本三名園のうちで唯一、入園無料である(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)。
 偕楽園では毎年2月下旬から3月下旬に、水戸の梅まつりが開催される。水戸の梅まつりは、2016年時点で120回開催された。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする夜梅祭や茶会など、種々様々な催し物が行われる。また園内で4月には水戸の桜まつり、5月には水戸のつつじまつり、9月には水戸の萩まつりが行われる。偕楽園公園を含め8月には水戸黄門まつりが行われる。関連の観光大使として茨城県水戸市により水戸の梅大使が毎年選出されている。
 また、毎年6月第2土・日に梅の実を偕楽園公園センターで頒布する。ただし、平成28年は不作だったため、6月11日土曜日のみの頒布となる予定。なお、頒布価格は平成26年は300円/1.5kg・袋(1人2袋まで)、平成27年は300円/1.5kg・袋(1人3袋まで)、平成28年は200円/1kg・袋(1人1袋のみ)

 表門から好文亭までは孟宗竹や杉の林の中を通る道が通じている。
偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから黒門とも呼ばれている。表門から園内に入り、一の木戸と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。
 好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑『偕楽園記の碑』があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。
 現代においては、表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、この門から入園する観光客は少ない。現在は梅林へと直接通じる東門が主要な出入り口として利用されている。
                                     (以上、「Wikipedia」参照)



(梅の写真はHPより)

 シーズン前の今の時期、自家用車やタクシーで来ると着やすいが、バスは意外と便が少ないようです。会社によっても停留所が異なるようです。
 今回は、バス停の関係で「東門」から表門へ散策することに。同じように、上の案内図(本来の作庭意図に近い)とは異なって、「陽」から「陰」へと一巡して戻る人も多そう。


                     「千波湖」を望む。

仙奕台(せんえきだい)
 千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出た台地を仙奕台と称します。
 「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだところです。
 石でできた碁盤や将棋盤、琴石、卓石は当時のものです。

    
                                           石でできた将棋盤。

やっと咲き始めた気配。見事なほどたくさんの梅の木。

 遙か目の下、見渡す限り広大な敷地。下までは降りていくには時間がなさそう。


「偕楽園記碑」。


偕樂園記
天有日月地有山川曲成萬物而不遺禽獸艸木各保其性命者以一陰
一陽成其道一寒一暑得其宜也譬諸弓馬焉弓有一張一弛而恒勁馬
有一馳一息而恒健弓無一弛則必撓馬無一息則必殪是自然之勢也
夫人者萬物之靈而其所以或爲君子或爲小人者何也在其心之存與
不存焉耳語曰性相近習相遠習於善則爲君子習於不善則爲小人今
以善者言之擴充四端以脩其德優游六藝以勤其業是其習則相遠者
也然而其氣禀或不能齊是以屈伸緩急相待而全其性命者與夫萬物
何以異哉故存心脩德養其與萬物異者所以率其性而安形怡神養其
與萬物同者所以保其命也二者皆中其節可謂善養故曰苟得其養無
物不長苟失其養無物不消是亦自然之勢也然則人亦不可無弛息也
固矣嗚呼孔子之與曾點孟軻之稱夏諺良有以也果從此道則其弛息
而安形怡神將何時而可邪必其吟詠華晨飲醼月夕者學文之餘也放
鷹田野驅獸山谷者講武之暇也余嘗就吾藩跋渉山川周視原野直城
西有闓豁之地西望筑峯南臨僊湖凡城南之勝景皆集一瞬之間遠巒
遙峰尺寸千里攢翠疊白四瞻如一而山以發育動植水以馴擾飛潛洵
可謂知仁一趣之樂郊也於是藝梅樹數千株以表魁春之地又作二亭
曰好文曰一遊非啻以供他日茇憩之所蓋亦欲使國中之人有所優游
存養焉國中之人苟體吾心夙夜非懈既能脩其德又能勤其業時有餘
暇也乃親戚相携朋友相伴悠然逍遙于二亭之間或倡酬詩歌或弄撫
管弦或展紙揮毫或坐石點茶或傾瓢樽於華前或投竹竿於湖上唯從
意之所適而弛張乃得其宜矣是余與衆同樂之意也因命之曰偕樂園
天保十年歳次己亥夏五月建 景山撰并書及題額

(碑陰)

 禁條
凡遊園亭者不許先
卯而入後亥而去  
男女之別宜正不許
雜沓以亂威儀
沈醉謔暴及俗樂亦
宜禁
園中不許折梅枝采
梅實
園中不許無病者乘

漁獵有禁不許踰制


偕楽園記 書き下し文

天に日月有り、地に山川有り、万物を曲成して遺(のこ)さず。禽獣草木、各々其の性命を保つ者は、一陰一陽其の道を成し、一寒一暑其の宜しきを得(う)るを以てなり。諸(これ)を弓馬に譬ふ。弓に一張一弛(いっちょういっし)有りて恒(つね)に勁(つよ)く、馬に一馳一息(いっちいっそく)有りて恒に健(すこや)かなり。弓に一弛無ければ則ち必ず撓(たわ)み、馬に一息無ければ則ち必ず殪(たお)る。是れ自然の勢ひなり。夫(そ)れ人は万物の霊にして、其の或いは君子と為(な)り、或いは小人と為る所以(ゆえん)の者は何ぞや。其の心の存すると存せざるとに在るのみ。語に曰く、「性相(あい)近く、習ひ相遠し」と。善に習へば則ち君子と為り、不善に習へば則ち小人と為る。今善なる者を以て之(これ)を言はば、四端を拡充して以て其の徳を修め、六芸(りくげい)に優游して以て其の業に勤(つと)む。是れ其の習ひは則ち相遠き者なり。然(しか)り而(しこう)して其の気稟(きひん)或いは斉(ひと)しきこと能はず。是(ここ)を以て屈伸緩急相待ちて其の性命を全うする者は、夫(か)の万物と何を以て異ならんや。故に心を存して徳を修め、其の万物と異なる者を養ふは、其の性に率(したが)ふ所以にして、形を安んじ神を怡(よろこ)ばしめ、其の万物と同じき者を養ふは、其の命を保つ所以なり。二者皆其の節に中(あた)るを、善く養ふと謂ふべし。故に曰く、「苟(いやし)くも其の養を得ば、物として長ぜざるはなく、苟くも其の養を失はば、物として消せざるはなし」と。是れも亦自然の勢ひなり。然れば則ち人も亦弛息(しそく)なかるべからざるや固(もと)よりなり。嗚呼(ああ)、孔子の曾点に与(くみ)し、孟軻(もうか)の夏諺(かげん)を称する、良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。果たして此の道に従(よ)れば、則ち其の弛息して形を安んじ神を怡(よろこ)ばしむること、将(はた)何(いず)れの時にして可ならんや。必ず其の華晨(かしん)に吟詠し、月夕に飲醼(いんえん)する者は、文を学ぶの余なり。鷹を田野(でんや)に放ち、獣を山谷に駆る者は、武を講ずるの暇(いとま)なり。余嘗て吾が藩に就き、山川を跋渉(ばっしょう)し、原野を周視するに、城西に直(あた)りて闓豁(かいかつ)の地有り。西は筑峯を望み、南は僊湖に臨む。凡(およ)そ城南の勝景、皆一瞬の間(かん)に集まる。遠巒遙峰(えんらんようほう)、尺寸千里(せきすんせんり)、翠(みどり)を攅(あつ)め白を畳み、四瞻(しせん)一(いつ)の如し。而(しこう)して山は以て動植を発育し、水は以て飛潜を馴擾(じゅんじょう)す。洵(まこと)に知仁一趣の楽郊と謂ふべきなり。是(ここ)に於て梅樹数千株を芸(う)ゑ、以て魁春(かいしゅん)の地を表す。又二亭を作り、好文と曰ひ、一遊と曰ふ。啻(ただ)に以て他日 茇憩(ばっけい)の所に供するのみに非(あら)ず。蓋(けだ)し亦国中の人をして、優游存養する所有らしめんと欲す。国中の人、苟(いやし)くも吾が心を体し、夙夜(しゅくや)懈(おこた)らず、既に能く其の徳を修め、又能く其の業を勤め、時に余暇有るや、乃ち親戚相携へ、朋友相伴ひ、悠然として二亭の間に逍遙し、或いは詩歌を倡酬(しょうしゅう)し、或いは管弦を弄撫(ろうぶ)し、或いは紙を展(の)べて毫(ふで)を揮(ふる)ひ、或いは石に坐して茶を点じ、或いは瓢樽(ひょうそん)を華前に傾け、或いは竹竿を湖上に投じ、唯(ただ)意の適する所に従ひて弛張せば、乃ち其の宜しきを得ん。是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり。因りて之に命じて偕楽園と曰ふ。
天保十年、歳(とし)己亥に次(やど)る夏五月、建つ。 景山撰并(なら)びに書及び題額。

禁条
凡そ園亭に遊ぶ者、卯に先だちて入(い)り、亥(い)に後れて去るを許さず。
男女の別、宜しく正すべし。雑沓以て威儀を乱すを許さず。
沈酔謔暴及び俗楽も亦宜しく禁ずべし。
園中、梅枝を折り梅実を采(と)るを許さず。
園中、病無き者の轎(かご)に乗るを許さず。  
漁猟禁有り、制を踰(こ)ゆるを許さず。

(「小さな資料室」www.geocities.jp/sybrma/69kairakuenki.html」HPより借用しました)

 偕楽園の名前の由来や創設した理、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
 碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
 また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
 偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたいとの思いから名付けられました。
 碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止事項(六条)が刻まれていますが、その内容は今日の公園管理の先駆けをなすものといえます。


                           

紅梅や白梅が咲きそろえば、さぞかし見事。
    
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長岡~水戸。その4。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-14 18:47:40 | 水戸街道
 「吉田神社」を右折し、いったん新道から離れて進みます。
その先、左手のくの字が旧道(らしい)。

    
 そのまま通りを突っ切っていくと、「備前堀」にぶつかります。そこを右折すると、「銷魂橋」となります。

街道筋らしいおうち。

 

「備前堀」の手前にある「金刀比羅神社」から来た道を振り返る。


「備前堀」に着きます。


備前堀
 水戸藩初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のため、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かれた用水堀で、伊奈「備前」守忠次の名から「備前堀」といいます。当時は千波湖から直接水を流していましたが、大正から昭和にかけての千波湖改修により、桜川から取水するようになりました。
 備前堀は現在でも農業用水に利用されており、酒門や浜田、常澄の水田地帯を潤します。また下市地区周辺は、歴史ある堀としての遺産を生かす都市整備がなされ、「歴史ロード」として美しい景観を見せています。平成8年には、新水戸八景の1つに選ばれました。(「水戸観光協会」HPより)

伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)は、「鉄道遺跡・深谷」のところで取り上げています。
 この方の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
 利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
 関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
 諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。


(12:19)渡った左手に「江戸街道起点」、右手に「高札場跡」の碑があります。
    
江戸街道起点
 水戸~江戸間、29里19町(約116㎞)を結ぶ街道は、五街道に次ぐ重要な幹線道路で江戸街道または水戸街道と呼ばれた。その起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は19箇所、行程は通常2泊3日であった。この地には広場が設けられて高札が立ち、備前堀に掛けられた橋は、ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれていた。

 ここで終点ですが、もう少し「水戸宿」を進んで行きます。
 「常陽銀行」の角を右折すると、「ハミングロード513」。この通りが旧水戸宿の中心の通りで、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠などがありました。今は、商店街ですが、水戸駅から東南に離れているせいか、駅周辺や北口付近の賑やかさに比べて、活気があまりない街並みになっています。その代わり、落ち着いた雰囲気。

    
「旧町名七軒町」碑。

「ハミングロード」。
    

整然とした街並み。

 ほとんど宿場らしい建物はみあたりません。
「江戸(水戸)街道宿場跡」碑。

左手に「井幸茶舗」。

 かつての雰囲気で、現役の商家はこのお店くらい?


そのまま進んだ交差点の右角に「旧本四町目」「陸前浜街道起点」という小さな赤茶色の道標。
   (12:31)到着。

ここで今回の「水戸街道」歩きも終了。

来た道を振り返って望む。


①「亀有」駅~「北小金」駅
②「北小金」駅~「取手」駅
③「取手」駅~「ひたち野うしく」駅
④「ひたち野うしく」駅~「石岡」駅
⑤「石岡」駅~「奥谷」バス停
⑥「奥谷」バス停~「水戸」駅

 JR常磐線と関鉄バスを利用しての6日の旅でした。行き帰りの交通の便がとてもいいいので、とても楽でした。
 これで、「東海道」、「日光道中」、「奥州街道」、「水戸街道」(「五街道」に準ず)とやっと制覇。
 あとは「中山道」の残りと手つかずの「甲州道中」。「中山道」はしばらく置いて、次回から「甲州道中(街道)」を歩いてみようと思います。53里(約200㎞)の道のり。

 そこから水戸駅まで出て(けっこう距離がありました。約25分)、食事をして北口からバスに乗って「偕楽園」へ向かいます。
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長岡~水戸。その3。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-13 21:52:44 | 水戸街道

 2011年の「東日本大震災」では、ここ水戸も大きな被害を受けました。その爪痕は目に付く範囲にはなく、整然とした街並みが続きます。
 かつて「水戸街道」歩きをしていた方が、その3月11日に大地震に遭遇しました。その時のようすを生々しく記録しています。無断で申し訳ありませんが、引用させていただきます。

 「大震災に遭遇する」(はやとちりの  旧 街 道 旅 日 記)www.geocities.jp/y8_momi/m9nagaoka.http...さんの体験。

 元吉田十字路(交)(注:上の写真の右手先)の右手には旧吉田村の庄屋だった綿引家があり、そちらに向かいます。
 その時、地面を突き上げるような激しい揺れと同時につれが「お父さん地震よ」と叫ぶ。足元がおぼつかないなか高い建物から離れ、幸いにしてすぐ脇にあったフェンスにしがみつき激しい揺れに耐えます。その瞬時に周辺の屋根瓦が崩れ落ち、空に舞い上がる土埃があたり一面をセピアカラーに変色させ日本沈没が脳裏をよぎりました。わずか2~3分の悪夢の出来事です。
 建物と言う建物からは人が飛び出し、ある人は座り込みまた茫然と立つくし、誰もが何をする事もできず不安の表情で虚空を見上げています。
すぐに携帯で娘に連絡を入れたが、圏外の文字とプ―プ―と空しい音が聞こえるだけ。つれと二人あちらこちらに連絡をとろうとしたが全て駄目。
 少し落ち着いてそばに居た人から情報を得ようとしましたが、誰も同じようにまだ何の情報も持っていません。向かいのコンビニは電気が消え、ガラスが割れて商品が散乱し、地震の後にテレビで見るあの光景を一段と悪くしたような状態で、「怖くてとても入れない」と店の方は。
 まったく情報はありませんが揺れもおさまり、一区切りと思い江戸末期に建てられた藁葺屋根の綿引家住宅にカメラを向けます。母屋と蔵が県指定文化財に指定されている建物ですが、塀の外一面には飛び散った藁屑だらけ。
 この時点ではまだ事の重大さを認識していない暢気な二人は気を取り直して先に進みます。・・・
 水戸街道は台町で右に左にと曲る枡形になっています。ここで再び地面を突き上げるような激しい揺れに襲われ、道端の目に付いた物に必死に掴って身体を支えます。
 Dクリニック前に集まっている方から再び情報を得ようとしましたが、クリニックの損傷具合からそんな事を聞くこともはばかられます。
 随所に惨憺たる情景が見られますが、とてもシャッターを押す心境にはなれませんでした。
 この状況から水戸が一番ひどいのだろうと思っていました。しかしカーラジオを聞いている方からの情報だとまだ此処は良い方だとか。
 震源も宮城だ福島だ震度は7だ、6強だと情報は輻輳していますが、もはやのんびりと街道を歩いている状況ではなさそう。
 狭い道路は危険。再び揺れが来ないうちにと広い道路、駅南中央通りに出ます。そして一縷の望みを託し今日の宿に急ぎます。しかしその通りでも近代的なビルの窓ガラスが歩道に散乱し、高い所から今にも崩れ落ちてきそうな塀が見え決して安全ではなさそうです。途中にあった公衆電話で自宅近所の家に連絡が取れ、かなり揺れたけれど隣近所とも異常がないことがわかりやや安心します。

(筆者たちは、泊まる予定だったビジネスホテルも損壊し、避難した地元の方と避難場所へ移動)

・・・街灯も民家の灯りも、ネオンも看板の明かりもない真っ暗やみの中、隆起したり陥没していたりする悪路を、再び20数分中学校まで引率されて行きます。やはり指示されて小学校に来たという方々と総勢20人程がぞろぞろと。
 真っ暗な千波中学校多目的ホール(翌日になって分かったのですが)には、すでにかなりの人が避難しています。そこに割り込んで場所を確保し、ひとまず落ち着きます。すると今まで夢中だったからか、気にならなかった寒さを急に感じます。多少ましな防寒対策をしているはやとちりでも寒さが身に凍みるのに、春物のオシャレをしてきた一般の観光客の方には気の毒なくらいです。暗い中、目を凝らすと毛布を被った人も大勢います。後で分かったんですが地元の方も避難していて、こういった方は自宅から防寒対策品を持参していたんです。
 余震の不安と寒さから寝るどころではない状況に、やっと毛布が配られたのが夜中の2時頃。有難いがそれも全体的には二人に一枚程度。段ボールを敷いて毛布を被って横になりますが、寒さをしのぐには焼け石に水。
 余震におびえながらほとんど寝れなかった夜が明けると、昨夜一緒に避難してきたグループがいつの間にか一箇所に集まります。滅多にない恐怖を体験したからか、ほんの少し一緒に居ただけなのに、特殊な仲間意識が芽生えたんです。持っているお菓子などのやり取りをしながら。
 昨夜の夜食はその仲間から頂いたおにぎりが一個だけ。朝は市から塩味の効いたクラッカーが一人に一個(20枚入り)が配られました。しかし、興奮しているのか緊張しているのか食欲はあまりありません。こんな物を貰う羽目になって涙が出たと、つれは後に述懐しています。
 学校の2階に公衆電話があり長い行列の末、娘と連絡が取れ無事を報告。
・・・午後に電気は通じます、でも水道はまだ、昼もクラッカー。「次はおにぎりが配れると思います」と市の職員が報告。3時頃だったろうか厚木市からの支援物資が届き、これがお湯を注ぐとおかゆになる久しぶりの暖かい食べ物で子供たちは「チョ~美味い」と大喜び。大人だってみんな美味しく感じたらしい、そう言うはやとちりも厚木市に感謝しつつ。
でも中には、次はおにぎりだと言ったではないか、と感情的になっって職員と小競り合いを起こす場面も。米が集まらなかったらしい。
 この時点で一番の悩みはトイレです。次から次へとトイレを利用するが、全く水が流れない水洗トイレの状況を想像して下さい。この時は昔の汲み取り式があればと痛切に感じました。段ボール組立て式簡易トイレが設置されたのは翌日未明のことです。
 携帯電話が使えるようになると、つれが持っていた充電器は引っ張りだこ。いつもは持っていないのに何となく持ってきたという、殊勲賞ものです。
 夜は安心米、これはおかゆではなく普通のご飯。避難所の受け入れ態勢が徐々に整いつつあることを感じながら、2回目の夜を迎えました。

 (息子さんたちとようやく連絡がとれ、車で迎えに来てもらえることに)

 そして明けた翌日、9時前に息子が到着、3時半頃に出て約6時間かかったと。とんぼ返りの強行軍で申し訳ないが、小山まで歩く覚悟をしたご夫婦共々、異常な体験を強いられた水戸から脱出することができました。
 一昨日からの仲間を始めまだ多くの人が避難所に残り、この先いつまでここに留まるのかと思うと、申し訳ない気持もありましたが。

 2011年の「東日本大震災」から6年。被災した当時の建物もすっかり新築、修復されたようで、車や人々が行き交う街並みを進みました。

 (11:48)右手のおうちの庭先に「旧吉田村立余吉田小学校」跡碑。明治6年創立。
   

二つ目のカギ型。

「台町」交差点を左折。

左手に「薬王院」。奥に藁葺き屋根の山門。

「神楽屋敷跡」碑。

 (12:03)坂道を下って行きます。正面奥の杜が「吉田神社」。


途中見かけたおうち。

 「男坂」「女坂」と真ん中の道「新道」との交差点。




 真ん中の直線道を一気に下れば、「銷魂(たまげ)橋」に出ますが、旧道(女坂)を通ります。
    

「吉田神社」自動車参道入口。続々と車が上って行きます。
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長岡~水戸。その2。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-09 20:56:17 | 水戸街道
「国道6号線」に合流したあと、矢頭で「北関東自動車道」インターチェンジを越えます。


 かつての旧道らしく車の行き来の激しい大通りの道ばたには古い祠が。


いよいよ水戸市に入ります。

(10:42)「東野交差点」で左へ。    

 この通りに入ると、道の両側に棒杭や小さな卒塔婆、花立てが何ヶ所も立っていました。写真には撮りませんでしたが、交通事故の死者を弔うためのものか? それにしてはやけに点在しています。果たして何があったのでしょうか?

 (10:53)「自動車教習所」を左手に見て、その先「吉沢交差点」を右に入ります。


    

常夜燈? ライトが設置されています。

旧道らしく立派なおうちが沿道に。

ケヤキの古木。

 (11:11)「水戸街道」沿いには庭木の手入れが行き届いたおうちをけっこう見かけました。


市街地に入って行きます。

(11:28)「一里塚下西」バス停のすぐ先、住宅地の一画に「一里塚」があります。


江戸街道と一里塚
 江戸街道は、一般には、江戸からみて、水戸街道と呼ばれた。水戸から江戸まで29里19町(約116㎞)の里程で、水戸から長岡・小幡(以上水戸藩領)・片倉・竹原・府中・稲吉・中貫・土浦・中村・荒川・牛久・若芝(柴)と上り、下総に入って藤代・取手・我孫子・小金・松戸・新宿(葛西)・千住の各宿駅を経て江戸に入る。松戸には関所があった。
 1里塚は街道の道標として道の両側に一対で設けられ、木陰で旅人が休息できるよう榎が植えられた。常陸国内では木沢新田(吉田)・長岡・奥の谷・小幡・片倉・竹原・下土田・下稲吉・真鍋・土浦・中村・東猫穴・田宮・若芝(柴)などにあったが、現存するものは少なくなってきている。
 現在、当地にある一里塚はそのうちの一つで、道の片側のみであるが、榎も植えられ、当時の面影をしのぶことができる。

                                   水戸市教育委員会

    

エノキ。樹齢約100年。

「庚申塚」。

「六地蔵」。

 (11:38)「魚いちず」さん。定食が600円というのが驚き。「水戸」駅近くで昼食の予定なので、パス。でも、ここの方が良かった!
     

 「一里塚三叉路」バス停の先の細い、まっすぐな道を行きます。
    

その交差点には「馬頭・牛頭観音」の石仏があるはずですが、見当たりません。ふと足下を見ると、無残にも壊れたままの石仏が。車がぶつかって倒したのでしょうか、それとも、2011年の「東日本大震災」で倒壊したのでしょうか、根本からポッキリ。そのまま放ったままの状態。

    

(11:46)ここからカギ型が2ヶ所。右に曲がって左に曲がります。
    


  
  
1880年代のようす。              現在のようす。○が最初のカギ型。
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長岡~水戸。その1。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-07 19:08:27 | 水戸街道
 いよいよ「水戸街道」歩きも最終回。梅もほころび始めた「偕楽園」を最後に回ることにして、という算段。



 2月4日(土)。快晴。風も無く、冬にしては穏やかなお天気。
 石岡駅8:40発のバスに乗って前回の最終地点・「奥谷」までやってきました。9:20に出発です。
 「涸沼川」に架かる「高橋」を渡っていきます。





廃屋の屋根に猫が2匹。暖かい陽射しの下。


「小鶴橋」バス停。      

 (9:26)旧道は左に入って行きます。  

見事な造りの佐久間米店。


亀甲模様のなまこ壁の蔵。唐破風の飾り窓。

「こども屋」。昭和3年の建築。

石岡でも見かけた看板建築の一つ。

街並み。

来た道を振り返る。火の見櫓。

 (9:43)「諏訪神社」「如意輪寺」を過ぎて、涸沼前川に架かる「長岡橋」を渡ります。


 その先ですぐ右の旧道に。右手には藤屋製菓。「みそまんじゅう」が名物らしいが、味噌味ではないところが「ミソ」。


 注:まんじゅうの皮が茶色で「味噌」に似ているので「みそまんじゅう」と名付けられた。

 だんだん坂道を上がって行きます。途中、「水戸浪士毛塚」の案内表示があります。(右に向かうようです)
    

坂の右手に「高岡神社」。振り返って望む。

 水戸街道最後の宿場である「長岡宿」には旧脇本陣の木村家住宅が保存されています。門が閉まっていたので外側からパチリ。


藁葺き屋根の大きな建物。
    

木村家住宅
 江戸時代長岡宿の協本陣で、問屋(人や荷輸送)や庄屋を勤めていました。
協本陣は、大小名などが休泊した本陣の予備にあたる宿舎で、街街道駅に設けられていました。当家は、安政4年に(1857)の長岡宿の大火により消失、現在の建物はその後建設されたもので、改築はなく、カンナによる仕上げ、草葺きの屋根になっています。
 こうした協本陣は県内の宿場建築でも現存しているものが少なく希少価値があります。

                                 (上の写真を含め、「茨城町観光協会」HPより。)

裏手から。

古い門構えのおうち。

街道の左手には「みくらや」。かつての旅籠「中えびす屋」の跡?
        
                                         裏手に回ると大きな敷地。


宿内のようす。

 桜田門外の変・大老井伊直弼暗殺の発端は長岡宿。安政6年(1859)、水戸藩攘夷派数百人が長岡宿に屯集し、その中心人物らが薩摩藩の浪士とともに翌年3月、桜田門外の変を起こしました。先ほどの「毛塚」もそれにちなんだ史跡。

 しばらく進むと、左手に大きく立派な建物。「柏屋肥料店」。水戸街道沿いにはこうした肥料や種、農機具などを販売する、昔からのお店が目立ちます。




ここの梅はまだつぼみ。はたして「偕楽園」は? 


大きな鎮魂碑? 詳細不明。

 その後、「国道6号線」に合流します。それまでの6号線から上下線分離のかなり幅広い道路に。
    

 気がつくと「東京まで101㎞」ポスト。あともう少し。



1880年代のようす。中央が「長岡十字路」。「水戸街道」から分かれ、水戸へ通じる道が北西に延びている。



現在のようす。「国道6号線」と立体交差する県道。右下が「長岡宿」。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その5。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-03 22:09:40 | 水戸街道

集落を抜けると、果樹園。

「国道6号線」に合流するまでは田園風景が広がります。
    

   
   
1880年代のようす。                  現在のようす。斜めの道路が「6号線」。

(14:41)「6号線」に合流。  

その先、左手に「千貫桜碑」。横断歩道を渡って近づいてみます。
       

 義公観賞の桜 千貫桜
 かつてこの地に桜の巨木があり、義公(水戸光圀公)が終日めでて「千貫の価値」がある、と絶賛したといわれる。現在は枯死したが、この地を千貫桜と称し、往時のよすがをしのんでいる
   茨城町教育委員会

春風も 心して吹け 散るは憂し 咲かぬはつらし 花の木のもと」光圀の歌碑。

そこから水戸方向を望む。

「国道6号線」を進み、「東関東自動車道」を越えます。

(15:04)「東京から95㎞」ポスト。

「国指定史跡 小幡北山埴輪公園」への案内板。

 埴輪を焼いた窯跡が59基(全国一位)で国の指定史跡。現在公園として整備され、窯跡は埋め戻され植樹で位置を示している。(「埼群古墳館」HPより)

そのまま「国道6号線」を進みます。

 しばらく左の側道のような道を行き、右に折れて「6号線」をまたぐ橋を渡ると、旧道になります。しばらく進むと、「奥谷坂上」交差点。
(15:28)

(15:33)坂を下って行くと、「奥谷」交差点へ。
    
                                   振り返って望む。

 今回はここまで。「奥谷」バス停でけっこう待って、16:05発の「石岡駅」行きに乗りました。駅まで乗った乗客は一人でした。790円と思ったよりも高い運賃。「茨城空港」行きのバスが通り過ぎて行きました。

 次回は、いよいよ「水戸街道」完結編となるはずです。今回は、約3万歩、18㎞でした。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その4。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-02 20:12:08 | 水戸街道

 (13:22)宿場を抜けると、田園地帯。その先で「巴橋」を渡ります。
遠くに「国道6号線」。

「小岩戸」交差点で「6号線」を横断し、「西郷地」へ(13:28)。冬の日差しのもと、のんびりと。
    

「二十三夜塔」文政年間(1820年代)の建立。

 路傍、左手に石仏。その奥の林の中にもいくつか。
    

集落に入ります。ここにも何体かの石仏。
    

人の姿も通り過ぎる車もありません。

 (13:43)珍しい亀甲形のなまこ壁の蔵。
    

これはよく見かけるなまこ壁。

路傍には幼子を抱いた母子観音。

集落を抜けると冬枯れの田園風景。

「茨城町」に入ります。

周囲には果樹園。剪定作業中。

道路の向こうには水準点。

大きなおうち。まもなく「小幡宿」となります。

宿の入口に位置する「法円寺」。
 かっては水戸家の旅籠でもあったそうです。

 小さな宿場だったせいか、史跡らしいものはなんにもなさそう。そてでも、御殿のような大きな屋敷が建ち並んでいます。


板塀の立派な門構えのお屋敷。

奥行きがとてつもなくあります。100メートル以上? 

入口に大きな「かえる」の置物があるおうち。
                                          「カエル」でお金に困らないとか、あるいは魔除け?

一方で、解体中の家や整地されたところを見かけます。大きく変貌しつつあるのかもしれません。
    

木の下に聖徳大神、二十三夜塔の小祠。


1880年代のようす。


現在のようす。左上に「「国道6号線」。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その3。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-02-01 21:26:40 | 水戸街道

 そのまましばらく「国道6号線」を進みます。路傍には馬頭観音像など石仏が何体か。


(11:52)左手に「故北辰一刀流大貫先生之碑」という大きな石碑が建っています。 

 北辰一刀流といえば、江戸時代後期に千葉周作が創始した剣術と薙刀術の流派。幕末期には門人が6千人を超えるほど。幕末の志士では坂本龍馬らが北辰一刀流を学んだといわれる。現在、水戸に伝わった北辰一刀流の道場が茨城に2箇所、東京に1箇所、徳島県に1箇所現存している。2013年(平成25年)に水戸東武館の北辰一刀流と新田宮流抜刀術が水戸市無形文化財に指定された。

(12:01)「東京から86㎞」ポスト。

コスモス畑。「秋桜」いうくらいですから、今は畝が広がるばかり。
    

「水準点」を見つけました。

水準点(すいじゅんてん、benchmark)とは、水準測量に用いる際に標高の基準となる点のこと。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
 水準点は海の潮位や河川の水位を知る水準基標又は水準拠標なども意味し、これらの意味が転じてコンピュータにおけるベンチマークという言葉遣いとして使われるようになった。
 国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
 全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。

母子の石仏など。「子安信仰」? 

「大曲三叉路」付近から左側に桜並木が続きます。
「大曲三叉路」交差点を振り返って望む。

「東京から87㎞」ポスト。

 「桜並木整備」の記念碑? 

さぞかし桜の季節には見事でしょう。
    

 (12:28)ちょうどお昼時。けっこうお腹も空いてきたので、桜並木の下、何かお店がないかと歩いてると、お蕎麦屋さん「そば処たむら」。そこに入って昼食です。量も味もほどほど。


再開。相変わらず桜並木が続きます。

(13:03)「堅倉三叉路」から左に入ります。

 「明治」の工場先から「片倉宿」が始まります。宿場の入口には共同墓地や石仏群。
    

宿場の街並み。
    
車の量も少なく、静かで落ち着いたようす。「く」の字型に曲がっていく。

右手に「一本槍」という屋号。かなり古びた商家? 

その左手斜め前にあるのが「加藤家復旧門」。門の左に解説碑があります。
    
復旧門の由来
 当門は、水戸徳川藩士加藤本家より、加藤伊衛門の代に水戸から分家して当地常陸国東茨木郡堅倉に郷士として土着したとき、母屋と一緒に建てたもの物でありましたが、幕末に藩主の世継ぎ問題に端を発した天狗党の乱が起こり、元治元年(1864)当時加藤家は名主職を勤めていた関係もあり、反乱軍天狗党のために母屋と共に門も総て焼き打ちに遭い、その際門の前柱2本のみが焼け残りました。門柱上部の黒い部分が焼け跡です。そのため当時の祖先の苦労を偲び又戦乱(内乱)の歴史を後世に残すべく、焼け残った2本の前柱をそのまま氏よすシテここに復旧を完了いたしました。
 平成4年 建主 加藤謙二
                         

隣のおうちも立派なお屋敷。
    

その先の左手の角に「かと家」があります。旧道はここを左折して進みます。

現在も、すぐ近くの「国道6号線」沿いで宿屋を営んでいるそうです。
    

その先の「米穀店」も昔ながらの商家造り。

    
1880年代のようす。                   現在のようす。東西に走る広い道は「国道6号線(現水戸街道)」。

旧道の道筋に変化はありません。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その2。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-31 22:06:05 | 水戸街道

 「泉橋」(跨線橋)の上から水戸街道宿場のタイル絵が始まります。起点は「石岡」。名称も「江戸街道」。上は、「千住」宿。一茶はわかりますが、チューリップは?

 足下をたどるうちに「石岡一里塚」に到着します。
    
・・・


その途中、右手に石柱。「是よりきびさけいなり道」。

 「木比堤(きびさげ)稲荷」と表記になるらしい。ここから右に折れて行くようですが、詳細不明。

(10:19)「石岡の一里塚」。街道の両側に残っています。
    

石岡の一里塚
 一里塚は、主要街道の1里毎(約4㎞)ごとに設けられたに一種の路程標である。
 慶長9年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に築いた塚を指したのが始まりと言われる。・・・
 その後、時代の経過にともない荒廃し、改修の熱意がない地方では原形を失うものが多く、天明年間には、その大半が失われたといわれる。明治以降まで残ったものであも、その後、道路の拡張などによって失われた者が多く、今日では、両側に残っているものは少なく、特に榎が残っているものもめずらしい。
 石岡の一里塚は、旧水戸街道の府中(石岡)から長岡に通ずる街道の両側に残るもので、特に東側の塚の上に植えられた榎が、今も樹勢よく天に向かって伸びている。
 この一里塚は築造当時をしのばせ、江戸時代の交通政策を知る上で重要な史跡である。

 昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

西側の塚。

 東側の塚の榎は二代目のようです。
    

二代目榎木
 平成14年7月、台風の影響により残念ながら、一里塚のシンボルである榎木が倒木しました。当時の榎木は、推定樹齢約400年、高さ約20メートル、幹周り約4.2メートルの大木でした。
 平成20年3月、一里塚裾野付近に育っていた苗木を移植しました。二代目の榎木として将来、初代と同じような大木に成長することを願います。
 また、県指定史跡「石岡の一里塚」は地元の子供会の協力により除草清掃を行っています。大切な文化財を将来の子供達に残していきましょう。

                                                 平成21年9月 石岡市教育委員会

「水戸街道絵図・解説板」。

 旧道はそのまま「関東鉄道バス石岡車庫」まで進み、その先で左の坂道を下って行きます。
               
「茶屋場住宅入口」。「茶屋」があった?                     左に下りて行く。


「行里川(なめりかわ)」地区に入ります。

 (10:54)左手に大きな長屋門のおうち。
    

 静かな通りの両側には大きなおうちが目立ちます。
    

 旧道は弓なりに右に曲がって県道を横切ると、冬枯れの田園風景が広がります。
     

 この付近は、「美野里」地区。合併で「小美玉市」となっています。
    

小美玉市(おみたまし)
 2006年(平成18年)3月、東茨城郡小川町・美野里町・新治郡玉里村が合併して発足した市。「小川町」「美野里町」「玉里村」の頭1文字をとって「小美玉市」と命名されました。

    
 (11:16)明和7年(1770)の道標ですが、判読不能。台座は新しいコンクリート製。

 坂道を上っていくと、「竹原宿」に入ります。右手に「竹原神社」。旧道沿いには石碑群。
    

「聖徳太子尊」碑。

 「竹原宿」は、元和年間(1615~1624)に 水戸街道の付け替え工事が行われた際に新設された宿場で、本陣・脇本陣は無く、「問屋場」が置かれ、旅籠が十軒前後あったという小さな宿場でした。
 現在の町並みに史跡らしいものは見当たりませんが、静かな町並み。大きなおうちが多い。


右側のマーケットが「問屋場」跡? 

宿内を振り返って望む。

 (11:26)国道6号線に合流し、そのまま左に曲がっていきます。正面には立派なお屋敷。


(11:31)「竹原下郷」。

国道沿いには立派な生け垣作りのおうちが目立ちます。

(11:42)「東京から85㎞」ポスト。しばらく「国道6号線」を進む。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その1。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-30 21:41:49 | 水戸街道
 年明けて久々の街道歩き。1月28日(土)。快晴。風も無く少し寒いですが、歩きやすい一日。

 (9:46)前回の「丁字屋」さんまで戻って再開。


 火災後の昭和5(1930)年から6年にかけて建てられた登録有形文化財の建物が3軒並んでいます。
 手前から「福島屋砂糖店」。昭和6年に建てられた木造2階建ての伝統的な商家意匠建築。
 真ん中の建物は「久松商店」。昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。
 一番の奥が「十七屋履物店」。昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった。
       「久松商店」と「十七屋履物店」。 

     
 「すがや化粧品店」。
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つである。
注 ペディメント:西洋建築における切妻屋根の妻側屋根冑水平材に囲まれた三角形の部分
  コリント、イオニア様式:古代ギリシャ建築様式


        「森戸文四郎商店」
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
 他にもまだまだあるようです。それぞれがコンクリート製ではなく、すべて木造(一部銅板)なのがすごい!

「パンとケーキの店 ビィオレ」。
 この付近に「府中宿本陣」があったようです。

 その付近から通りを望む。
    

 まだまだ「常陸国府」にまつわる「国分寺」「国分尼寺」「国衙」跡など見所満載ですが、先を急ぐことにします。
    

 「国分町府中3丁目」交差点を右に折れて、常磐線を越えて行きます(10:11)。

「跨線橋」に「水戸街道」の解説板。
 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、街道の整備を始めました。東海道・中山道・日光街道・奥羽街道・甲州街道は「五街道」と呼ばれ、江戸幕府が直接支配していました。それに次ぐ「脇街道」の一つとして水戸~江戸間に開通したのが。この水戸街道です。石岡は当時、府中松平家の陣屋の所在地であり、水戸街道の宿駅「府中」として繁栄しました。

「杉並木」。
 昭和30年まで、ここから先約2㎞にわたり由緒ある杉並木がありました。徳川幕府時代、街道の並木として松並木は各所に見られましたが、杉並木は日光以外にはこの府中だけに許されたものでした。これは「御三家」の一つ水戸徳川家の分家である府中松平家の当時の地位の高さを物語っています。

「泉橋」。国分寺と筑波山。

 この跨線橋には「泉橋」という表示があります。現在、常磐線が敷かれているところには、かつて橋が架かっていたようです。旧街道当時の橋名が残されているのかもしれませんん。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。まだ鉄道が敷かれる前。←の部分。
 
 行きませんでしたが、ここで「国分寺」と「国分尼寺」について。

 国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
 『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]。
 国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
 なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
                                      (以上、「Wikipedia」参照)
「跨線橋(泉橋)」から「石岡駅」を望む。

 かつて「石岡」から「鉾田」まで「鹿島鉄道」線がありました。すでに廃線となっています。正面奥から鉾田方向に進んでいました。現在はどうなっているのでしょうか? 「石岡駅」も大きく変貌し、近代的になっています。見た目にはまったくその存在はわかりません。廃線マニアとしては一度訪問してみたいと思います。しかし、全長27㎞以上もあるようなので、はたして?

鹿島鉄道線
 かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線である。2007年(平成19年)4月1日に廃止となった。
 茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を横断する路線で、霞ヶ浦北岸を通る。地図上ではJR常磐線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで1km以上離れており、大洗鹿島線とは接続していない。この点は、旅行者などが徒歩で乗り換えるケースは少なからず存在していたが、一時期路線バスが運行していた以外、特に接続改善は見られなかった。
 鹿島鉄道は旅客収入だけでは鉄道を維持できないほど利用者が減少していたが、航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送の収入によって経営が成り立っていた。しかし、2001年(平成13年)8月に、鉄道に高く依存していた燃料輸送を榎本駅から百里基地へのパイプラインの老朽化と、安全保障上の対策から中止したため深刻な経営悪化が確定的になった。これに対し親会社である関東鉄道による経営支援と沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われることとなり、廃線の危機は一旦回避された。しかし2005年(平成17年)のつくばエクスプレスの開業により、自社の常総線(特に取手 - 守谷間)や高速バスの利用者が減少し減収となった関東鉄道は、2007年度以降の経営支援を行わない方針とした。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、鹿島鉄道は2006年(平成18年)3月30日に廃止届を提出した。なおこの時点で2007年度以降の自治体と県による公的支援をどうするかは白紙状態であった。その後ぎりぎりまで存続の道が模索されたが状況は好転せず、2007年(平成19年)4月1日に廃止された。
 廃線後の線路や駅舎は順次撤去されることになっていたが、現在は撤去作業は途中で中断され、今も線路・駅舎が一部で残っている。車両は、旧形式5両のうち4両、新形式4両のうち2両が、個人に売却され保存されている。

    

                             (以上、「Wikipedia」参照)



1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東南に向かって弧を描く線路。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その8。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2017-01-05 21:20:26 | 水戸街道
 (14:07)「国道6号線」をひたすら歩きます。疲れたのと昼飯も満足に食べなかったので、国道沿いのラーメン店に入ります。そこでけっこう長居をしてしまい、気がついたら3時前。再び歩き出しますが、次の「稲吉宿」までは思ったよりも長い道のり(約30分)。

「陶陶酒」の幟がある、その先を左に折れていきます(15:23)。

「旧水戸街道 稲吉宿入口」。 

 国道から左に折れる手前に「一里塚」があったそうですが、見逃しました。緩やかな上り坂を進むと、「稲吉宿」。

 喧噪の国道を離れて静かな道を進みます。早くも冬至直前の陽は西に傾き始めてきます。


    
「刀工 渡辺家」。                        宿場らしい面影を残す集落。

 「稲吉宿」は万治年間(1658年~1661年)に設置されたといいます。本陣・脇本陣・問屋が各1軒。安政年間(1854年~1860年)の旅籠数は17軒だったそうです。本陣(現 坂本家住宅)と旅籠皆川屋(現 木村家住宅)の建物が現存しています。

(15:31)右手にあるのが、本陣・坂本家。門も玄関も堂々とした造り。
    

稲吉宿本陣
 本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、取手、中貫、稲吉だけである。
 本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
                                    かすみがうら市教育委員会

 稲吉宿本陣の隣に木村家住宅(旅籠皆川屋)があります。
    

                 

木村家住宅(旅籠皆川屋)
 ・・・旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。
 二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠である。

茨城県指定文化財   かすみがうら市教育委員会

 立派な門構えのおうちがいくつも。
    

(15:36)宿の外れに「稲吉宿」の案内板。

江戸時代の稲吉宿
《稲吉宿》
 稲吉宿のある水戸街道は、五街道以外に整備された街道の一つで、千住から水戸までを結んでいました。
 稲吉宿には、大名や旗本が宿泊する本陣や脇本陣、それに一般の人々が宿泊する旅籠がありました。また、荷物を次の宿駅に送る問屋場もあり、江戸時代後期には17軒の旅籠も造られて、大変なにぎわいを見せていました。

《助郷》  
 参勤交代により、大名や旗本が江戸と国元を行き来すると、大勢の人々が宿駅を利用することになり、通常の人馬では足りなくなりました。そこで、近隣の村々に割り当てたのが助郷です。稲吉宿では、上志筑村、中志筑村、下志筑村、上土田村、下土田村、野寺村、高倉村、雪入村の8ヵ村に割り当てられました。農民の負担が大きく、一揆の原因となりました。

《水戸街道の宿駅》
 千住―新宿―松戸―小金―我孫子―取手―藤代―若柴―牛久―荒川沖―中村―土浦―中貫―稲吉―府中―竹原―片倉―小幡―長岡―水戸

 右には当時の宿場の配置図と屋号などが絵解きされています。

 宿を抜けると、その先「国道6号線」に合流するまで、千代田町「上土田」「下土田」地区をひたすら歩きます。時折、農作業を終えて家路に向かうトラクターとすれ違うだけ。
    

この付近には、果樹園が多いようです。

来た道を振り返って望む。

一気に陽が落ちてきました。寒さも感じる夕暮れ。

(16:15)ようやく「国道6号線」と合流します。
    

西の空はあかね色。

 国道の前方にインターが見えてきました。そこには歩道がなさそうだと判断して、国道の右側を歩きます。国道に沿う右下の道が旧街道のような気もしましたが。

 インターをくぐった国道の反対側(左側)に小高い塚が見えます。それが「千代田一里塚」です。向こう側に渡れるような雰囲気はありませんので、遠くからパチリ(16:27)。
    

 その先「新治小学校」交差点を左に入っていきます。

 携帯では写真も撮れず、再び国道に合流し、「恋瀬橋」を渡り、左に折れて、府中宿(石岡市)に入ります。都会と違って街灯も沿道の明かりもポツンポツンとしかありません。足元不如意の中、ひたすら「石岡」駅まで向かいました。

(16:59)もうとっぷりと日が暮れました。遠くに筑波山のシルエット。

 (17:17)次回に「府中宿」は見学することにして、せめてかつての染物屋さん「丁字屋」の屋号だけは、と。


 やっと商店街らしい明かりの中を石岡駅に到着。けっこう思ったより時間がかかりました。道に迷った所もあったりして、約4万歩、24㎞でした(17:29)。
    
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その7。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-30 20:46:24 | 水戸街道
 (13:47)「県道64号線」に合流したあと、「国道6号線」を陸橋で越えて行くと、「中貫宿」になります。


中貫宿
 水戸街道千住宿から12番目の宿場町。現在の茨城県土浦市中貫にあたる。
 宿場町は、南北に500メートル程度の範囲に広がっている。本陣が残されているが、宿泊を常とする本陣ではなく、休憩本陣であった。
(以上、「Wikipedia」参照)
 「中貫宿」は次の宿場である稲吉宿への下りの継ぎ立てだけを行い、上りは稲吉宿が中貫宿を通り過ぎて土浦宿まで行うという宿駅でした。本陣は、大名が休憩のみを行う小休本陣で、今も建物が残されています。

 (13:52)大きくて立派なお屋敷が多い。
    

 「中貫本陣」。
    

中貫本陣
 この本陣は、江戸時代に水戸街道を通行する大名が通行するための小休本陣である。
 建物は元治元年(1864)天狗党の焼き打ちで焼失後、すぐに再建されたもので、取手宿・稲吉宿の本陣と並ぶ貴重な建造物である。
 現在、屋根は茅葺きを銅板で覆っているが、主屋の正面に張り出した唐破風造りの二間半の式台付き玄関など、本陣建築を今に残している。

見学についてのお願い
 この本陣は現在住居として使われておりますので、ご迷惑にならないようお願いいたします。

            平成14年(2002)3月 土浦市教育委員会

 この解説板に出てくる「天狗党」について。

天狗党の乱
 元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。

 文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩(とくがわ なりのぶ)は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊(とくがわ なりかつ)を迎えるべきだと主張した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁初立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。
 この斉昭擁立に動いた集団は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。
 安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇より直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
 先に朝廷より水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
 この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。
 水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。
 水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。
 文久3年5月、小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった。小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、耕雲斎の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した。
 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸候と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸候と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷より禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。
 幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。
 その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であると称していた。
 武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の動きに同調して、その圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士との密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。
 藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、小四郎らは日光から太平山(栃木県栃木市)へと移動し、同地に5月末までに滞在した。
 一方水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢はまたも近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木宿(栃木県栃木市、6月5日~6日)・真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。
 北関東における筑波勢の横行に対し、幕府は将軍徳川家茂が上洛し不在であったこともあり、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月に至るまでこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っており、藩主慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫はできないと主張していた。4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩主松平直克(政事総裁職)及び慶篤がその実行者に指名された。
 一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らは、筑波勢による恐喝・殺人によって関東一円の治安が極度に悪化していることを問題視しており、5月に家茂の江戸帰着を機に、すみやかに水戸藩に対し筑波勢を追討するよう求め、筑波勢の侵入に備えて厳重な警戒態勢をとっていた松戸・千住を通過できるよう、市川に身元確認用の「竜」字の印鑑を送った。これに呼応する形で、市川ら諸生党と鎮派の一部の計約600人余が藩主・慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸に急行し、藩執行部から激派を駆逐して藩邸を掌握した。
 6月3日早朝、登城した直克は板倉勝静・酒井忠績・諏訪忠誠・松平乗謨の4人を排除するよう家茂に迫り、彼らを登城停止に追い込んだが、翌日には諸生党および鎮派の意を受けた慶篤が登城して直克を激しく非難し、直克もまた登城停止に追い込まれ、10日間余にわたって江戸城に主要閣僚が誰も登城しないという異常な状態が続いた。18日には直克の要求通り板倉ら4人が罷免されることになったが、20日に家茂の御前で行われた評議において、直克が筑波勢の武力討伐に反対したことで牧野忠恭・井上正直から厳しく批判され、奉行・目付らも直克に猛反発したため、22日に直克は政事総裁職を罷免され、翌日には水戸派の外国奉行・沢幸良らも罷免された。直克の失脚によってようやく筑波勢鎮圧の方針が定まり、7月8日、相良藩主田沼意尊(若年寄)が追討軍総括に任命された。
 また、7月19日には筑波勢の決起に意を強くした長州藩尊攘派が武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩・薩摩藩の兵らと京都市中で交戦したが、孝明天皇の居る御所に向けて発砲したあげく敗走した(禁門の変)。このため7月23日には長州藩が孝明天皇によって朝敵に指定され、朝廷も幕府に対して「夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し、鎖港問題は棚上げされた格好となった。斉昭の息子たちによって煽り立てられてきた鎖港問題が棚上げされたことで筑波勢は挙兵の大義名分を失い、この騒乱は水戸藩の内部抗争としての色彩を強めていくことになった。
 元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した。7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった。
 諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。また筑波勢追討が開始されると、茨城郡鯉淵村(水戸市鯉淵)など近隣三十数か村の領民らが幕府軍に呼応し、各地で尊攘激派およびこれに同調していた村役人・豪農等への打ち壊しが行われた。
 江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
 大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊(ひたちなか市)に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、意尊率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。
 筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。
 幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。
 10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩や古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。
 大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。
 天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。田沼意尊率いる幕府軍本隊は、天狗党の太平洋側への侵入を防ぐため東海道を西進する一方、天狗党の進路上に位置する諸藩に対して天狗党追討令を発した。ところがこれらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあって、天狗党が通過して行くのを傍観したばかりか、密かに天狗党と交渉して城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩も出る有様で、結局追討令に従い天狗党を攻撃したのは高崎藩などごく一部の藩のみであった。
 11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿(岐阜県各務原市)付近まで到達するが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。
 天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩・桑名藩の4000人の兵を従えて彼らの討伐に向った。揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠(岐阜県本巣市・福井県大野市)を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩主間部詮道と福井藩の府中城主本多副元は天狗党を殲滅する方針を固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党が敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。
 12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。
 この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
 天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
 一方、遠島に処せられることになった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた小浜藩に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩主酒井忠氏は、先代の忠義が南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜が小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを若狭国三方郡佐柿(福井県美浜町)の屋敷に移して厚遇した。
 慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。
 水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。
 水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。
 首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。
(以上、「Wikipedia」参照)

 明治新政府を担った薩長土肥に対して、結果的には朝敵となり、水戸藩が新政府での主要な位置を占められなかった理由の一端を知りました。尊皇攘夷から尊皇開国、倒幕へときびすを転じてうまく政権奪取した勢力に対して、水戸藩の立ち位置の曖昧さ、内部抗争に終始したことの結末と言ったら、今も水戸の衆は黙っていられないでしょうが。

街並み。

それにしても立派お屋敷が目立ちます。
    

馬頭観音と案内板。

(14:05)しばらく進んで「国道6号線」に合流、「かすみがうら」市に入ります。
 「東京から70㎞」ポスト。 
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その6。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-29 18:32:58 | 水戸街道

つくばりんりんロード
 土浦と岩瀬を結ぶ全長40㎞のサイクリングロード。もともとは関東鉄道筑波線(注:茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町―現・桜川市―の岩瀬駅とを結んでいた鉄道路線)が走っていましたが、昭和62年(1987)3月31日に廃線となり、その後、サイクリングロードとして生まれ変わりました。旧ホームを利用した休憩所もあり、田園を渡る風が身体と心を健康にしてくれます。(以上、「桜川市」公式HPより)

 その後、2016年には、霞ヶ浦までぐるりと全長180㎞以上の長いサイクリングロード(県道)として開通しました。名称は、「つくば霞ヶ浦りんりんロード」。「つくばりんりんロード」と「霞ヶ浦自転車道」など総延長約180kmのサイクリングコースとして安全・快適に走行できる全国屈指のコースとなっています。
               (「観光庁」HPより)

 「筑波山」方向に少し歩いてみました。
       

 国道を渡ると、田園地帯が広がっていきます。自転車はもちろん、歩いている方もけっこういます。
    

右手遠くに筑波山。

 10分ほど歩いて戻って来たらレールの一部が何本か立っています。
    

 (12:41)さっきは気づきませんでしたが、ホームが残っています。そこで、おにぎりを食べて休憩します。
    
              当時の「新土浦」駅の跡のようです。

 機会があったら徒歩で踏破してみよう、と。先に進みます。街道筋らしい建物がいくつかあります。
    

 「真鍋坂」を上って行きます。

 (13:02)急坂を上りきる右手にある建物。「藤本蠶業株式会社土浦支店」。「蠶」は蚕のこと。どういう会社なのだろうか? 


 以下、「蚕都上田だより」HPより

 蚕糸業で栄えた信州上田は蚕都(さんと)上田と呼ばれました。蚕都上田の歴史・文化は今も豊かに残っています。そうした蚕都上田の話題をお伝えします。

2016年01月24日 佐藤勇二さんに聞く 藤本蚕業土浦支店の記憶 

 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」があります。この建物は1931年(昭和6年)に建てられた旧藤本蚕業の社屋です。現在もこのように残っています。現在は藤本工業が管理をしています。その一室で、佐藤勇二さんに旧藤本蚕業の土浦支店についてお話をお聞きしました。
 蚕都上田の最大の特色は、地域・上田小県が蚕種製造の一大中心地であったということです。一にも蚕種、二にも蚕種、三にも蚕種。蚕種生産高は長野県が他県を圧倒して多く、その中でも上田小県が圧倒的に多い。その中心地が上田市塩尻地区です。上塩尻の藤本蚕業はこの地域を代表する蚕種製造業者でした。大正時代末から昭和にかけては茨城県土浦市に支店を置き、関東方面に蚕種を販売していました。「蚕種製造」とは、「蚕糸業」の中で蚕種製造→養蚕→製糸という蚕糸業の一番の大元になるものです。蚕種をとり、蚕種を販売する。全国で行われていた養蚕の原資が蚕種です。
 上塩尻の佐藤一族が藤本蚕業合名会社を設立したのは1908年(明治41年)3月のこと。1924年(大正13年)1月、蚕種製造経営を合名会社から藤本蚕業株式会社に分離独立、1924年2月、土浦に宅地を購入し、支店を設置しました。(参考文献:松村敏著『戦間期日本蚕糸業史研究 片倉製糸を中心に』1992、東京大学出版会)
 驚くことに、藤本蚕業土浦支店の建物、敷地が今も残っています。ちなみに「藤本蚕業」は、第二次大戦中、国の政策により日本蚕種に統合されます。戦後は上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種…と変遷をしました。土浦支店の建物には「藤本蚕業株式会社土浦支店」と記されていることからも、これが戦前の状態のまま現在に至ったことがわかります。
 佐藤勇二さんは藤本蚕業の戦後の企業体(上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種、藤本工業)を支えた佐藤一族のお一人です。
 佐藤勇二さんが土浦支店で仕事をしたのは1951年(昭和26年)頃の約1年間です。現存している旧土浦支店の現在の写真を目にして「まだ残っていたの」と驚かれていました。
・・・

「真鍋宿」方向を振り返る。

 坂を上がると「国道125号線」に出ます。右手に「県立土浦一高」。本館がゴシック建築で重要文化財に指定されてというので、見学したいと思いましたが、工事中のフェンスで入れず。今の正門を写しただけ。


 (13:17)しばらく国道を進んで「水戸街道松並木」という案内標に従って、右の道に入ります。
    

    
 約1.2㎞に「松並木」が残っています。ここ板谷地区には「水戸街道」で唯一残っているそうです。





市指定史跡 水戸街道松並木
 江戸時代のはじめ、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道をつくった。
 水戸街道は五街道につぐ重要などうろであった。
 この街道は、千住から土浦を通り、水戸までの約30里の長さである。街道筋には一里塚が築かれ、宿場が設けられた。
 街道には、通行人を暑さ寒さから守るために、松が植えられた。現在はわずかにこの板谷地区に残るのみとなった。
                           平成16年(2004)3月 土浦市教育委員会

 (13:30)「厚生病院」の先のところに「板谷の一里塚」が残っています。
    

    

板谷の一里塚
 一里塚は、慶長9年(1604)に江戸幕府が全国の主要街道の両側に築いたもので、江戸日本橋を起点として1里ごとに設けられた。塚の上には榎を植えて旅人の憩いの場とし、道のりを測る目安ともなった。1里は36町を指し、現在の約4㎞に当たる。
 この板谷の一里塚は、日本橋から布川(ふかわ)を経て20里の位置にある。かつて土浦市内には、南から荒川沖、葉の前、大町、板谷の4ヶ所に一里塚があった。板谷に次いでは千代田の一里塚と稲吉宿に続く。
 現在、旧水戸街道の一里塚の多くが失われている中で、街道の両側に残る一里塚としてこの史跡は極めて貴重である。

          平成18年(2006)2月 土浦市教育委員会

その先、松並木の終わる地点で「松並木」の解説板と現代版の道標。
    
 「道標」には、「水戸まで約44粁(㎞)、東京まで約76粁(㎞)」とあります。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その5。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-27 19:51:35 | 水戸街道

 「中城通り」から東に向かいます。かなり古びた建物。

「ほたて」。天麩羅屋さんが右の角に。

2015年8月1日(土)放送 出没!アド街ック天国 「茨城 土浦」
【7位】ほたて食堂(茨城 土浦)
 明治2年(1869)創業。予科練生が家族との面会にも使ったお店。当時は鮮魚店で丼ものを出していたが、現在は天ぷら専門店として営業している。
                    (HPより)

 そのお店の角のところに「桜橋」の柱と「土浦町道路元標」、「解説板」があります。
    
桜橋跡  [うんちく板]
 大正13年(1924)頃、旧土浦警察署(現日本生命ビル)の火の見櫓から川口川に架かる桜橋を望んだもの。
 手前左側に豊島百貨店、その先に木造3階建ての丸勢旅館が並び、桜橋の右の松庄旅館の後方に土浦町役場が見える。
 昭和10年(1935)、川口川を埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。右岸にはバラックが並び、亀城通りはまだ開通しない頃の街並みである。

「亀城通り」。土浦城へ向かう道。

通りの反対側に「桜橋の跡」碑と解説板が設置されています。
    

その近くにしゃれたお店。宿場町を意識した造り。

角にある「三菱UFJ銀行」の脇に旧町名の解説碑。

本町 由来
 東﨑分集落の中心として、その名のごとく中城と共に土浦宿の代表的な町人町で、二つの本陣(山口家、大塚家)もここにあった。問屋も中城と本町の問屋が交代で務めた。また川口川を通じ霞ヶ浦水道の要で船宿もあり、水陸交通の要衝であった。

 (12:09)その先の「土浦商工会議所」が「大塚本陣」跡。
    

ここで旧道は左に曲がります。

足元には「土浦宿」のタイル絵。

ここにも「旧仲町 由来」碑。  

 (12:17)しばらくまっすぐ進み、「常陽病院」のところで左に曲がり、すぐ右に曲がります。宿場の北に位置する「桝形」。
                          「橫町 由来」碑。

 その道もまた左に曲がります。             
    

そろそろ土浦宿の北の外れ。  「北門の跡」碑。

その先で振り返って望む。

 その先にも「土浦城北門の跡」碑があり、そこに「馬出し」の図が記されています。
    

 (12:24)その先の「新川橋」で「真鍋宿」へ向かいます。「真鍋宿通り」という掲示が橋の欄干に。
    

 「真鍋宿」は、間の宿だったのでしょうか。宿場らしいおうちが続きます。

 (12:27)「関東鉄道本社」の手前には「りんりんロード」。かつての線路跡があります。
    
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