おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その3。野鳥の森。秩父鉄道。八十八夜。(「荒川」を遡る。第5日目。)

2021-04-30 19:42:10 | 荒川を遡る

            橋の下をくぐり抜けると、森の中の道に。

広大な「野鳥の森」。さまざまな鳥の鳴き声が。

  

森を抜けて明るい道へ。振り返る。

麦畑。

道はゴルフ場にぶつかり、右折します。

正面に秩父鉄道の踏切。堤防が分断されています。

ここにも「荒川大麻生公園」の標識が。

堤防に沿って歩きます。

来た道を振り返る。

左手は「大麻生ゴルフ場」。

なかなか堤防の上へ上がれません。

「海まで80.0㎞」ポスト。

堤防に上がり、振り返ると直線で続いていました。

右手、堤防下は「秩父鉄道」の線路。

「大麻生駅」が見えてきました。

                   

秩父鉄道の電車が。

ここで「秩父鉄道」について。

1899年(明治32年)11月、「上武鉄道株式会社」として設立し、1901年(明治34年)10月、熊谷~寄居間(18.9キロ)が開業。その後、区間が逐次延長され、1930年(昭和5年)3月、秩父本線 羽生~三峰口間全線が開業しました。1916年(大正5年)3月、埼玉県大宮町(現在の秩父市)が秩父町に名称変更されたため、社名も「秩父鉄道株式会社」に改称しました。
現在は、秩父本線 羽生~三峰口間(71.7キロ)と貨物専用の三ヶ尻線 武川~三ヶ尻間(3.7キロ)から成り、営業キロ75.4キロは地方民鉄の中ではトップクラス。沿線は寄居を境に、東は関東平野、西は秩父盆地と、平野部と山間部の二つの顔を持ちます。
1988年(昭和63年)から運行を開始した「SLパレオエクスプレス」は、都心から日帰りでも利用できる観光列車として2017年度(平成29年度)に運行30周年を迎え、沿線地域や企業との連携イベント等で他のSL列車にはない話題作りに努めています。また、「長瀞ラインくだり」や「宝登山小動物公園」など長瀞地域の観光施設を運営するほか、沿線地域を中心とした不動産事業も展開しています。

☆2019年11月8日に秩父鉄道はおかげさまで創立120周年をむかえました。

<秩父鉄道のロゴマーク>
秩父鉄道は荒川とともに。
荒川と並走し、橋を渡り、人々を観光地へ。
その川の流れと水しぶき、長瀞の岩畳。
それらをシンプルな図案・色合いで「秩父の表情」として表現しました。
CHICHIBU頭文字の「C」をモチーフにしたシンボルマーク。
鉄道の「車輪」もイメージさせます。
また、「人の笑顔」も図案に隠されており、「喜んでいただく鉄道」を表しています。
沿線地域の人々と歩んできた鉄道、地域をつなぐ鉄道。
これからも地域の未来を切り開く鉄道でありたいという思いを込めたロゴマークです。

(この項、「」HPより)

路線図

(「」より)

熊谷から三峰口までこれから度々利用する鉄道です。ただし、当面、PASMO、Suicaが使えないのが残念!

「荒川左岸81.2K」ポスト。

 

このゴルフ場が荒川河川敷ゴルフ場としては最上流になっているようです。赤羽から歩き、ずいぶんとたくさん、河川敷のゴルフ場を眺めてきました。

 

ところで、明日5月1日は、「八十八夜」。

立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後の日)にあたるわけです。

「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期である。一般に霜は八十八夜ごろまでといわれているが、「九十九夜の泣き霜」という言葉もあり、5月半ばごろまで泣いても泣ききれないほどの大きな遅霜の被害が発生する地方もある。農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節が作られた。八十八夜は日本独自の雑節である。

この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれている。茶の産地(埼玉県入間市、狭山市・静岡各地・京都宇治など)では、新茶のサービス以外に手もみ茶の実演や茶摘みの実演など、一般の人々も参加するイベントが行われる。

              (「Wikipedia」より)

文部省唱歌『茶摘み』

  1. 夏も近づく八十八夜
    野にも山にも若葉が茂る
    あれに見えるは茶摘みぢやないか
    あかねだすきに菅(すげ)の笠
  2. 日和(ひより)つづきの今日このごろを
    心のどかに摘みつつ歌ふ
    摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
    摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ

5月1日といえば、「メーデー」。コロナ禍の下、昨今のご時世では余り話題にもなりませんが・・・。

そして、5月5日が「立夏」。

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JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その2。Uコン。荒川大麻生公園。熊谷大橋。(「荒川」を遡る。第5日目。)

2021-04-29 20:52:29 | 荒川を遡る

          草原の中を進みます。左手が荒川の流れ。右手は灌木。

 「荒川大麻生公園」入口。

できるだけ自然のままを保たせる公園のようです。

何やらモーター音が聞こえてきます。

ぐるぐる回る飛行機。

      

手で器用に操りながら飛ばしています。コントロール・ライン(別称・通称「Uコン」、略称「CL」)というらしい。

CLはラジオコントロールに代わる安価な飛行法であるが、高度1.5 mくらいで地表近くを飛行するところが目の前に見えるためにそれ以上強い興奮が与えられる。

機体と操縦者は、2本の操縦ラインでつながっている。U字状のハンドルを使いラインのそれぞれを引いたり伸ばしたりして、昇降舵(エレベータ)を操作することにより、模型機のピッチ軸(機首の上げ下げ)を操作する。この操縦ラインによって、機体の飛行は操縦者を中心とする半球面上に拘束される。

操縦者と機体を繋ぐ1本の鋼の単線を使って、それを捻ることによって、機体内のネジ機構を廻して昇降舵を操作するシステムもある。ラインが1本だと、2本使う「Uコン式」よりも空気抵抗が少ないので、スピード競技機に使うと有利である。但し、操縦の正確さは2本式よりも劣る。

(この項、「Wikipedia」参照)

ラジコンに押され気味だったのが、復活しつつあるようです。各種大会、競技会もあり。ラジコンとは別のおもしろさがあるのですね。

左手に荒川の流れが見えてきます。

     

   

右手は森(の向こうはゴルフ場)。 

来た道を振り返る。  

     

上流方向。

右手には林(たぶんゴルフ場の)が続きます。

行き来する人にもまったく出会わず、一人、のんびりと歩いていきます。

ここにも「タラ」の木が幾本も。

広々とした草地へ出てきました。

 

「火入れ」(野焼き)をしたようです。

新しい草花が芽生えています。

右手には運動公園。

新緑がまぶしい。

荒川大麻生公園「野鳥の森」総合案内板。

   番号標識が各所に。

木陰にタラの木。

花大根。

「熊谷大橋」の下にさしかかります。

                 

この橋の下流側に「樋春の渡し」と呼ばれる(「おりっとの渡し」とも称する。)、いつから存在したかは定かではないが、1878年明治9年)頃までには存在した村道に属する船2艘を有する私設の渡船が存在した。すぐ下流の「村岡の渡し」に荒川大橋1909年(明治42年)に架橋された後もこの渡船の利用は多かったようである。この渡船場は昭和初期に廃止されている

橋は熊谷東松山有料道路の第二期工事である広瀬線建設(事業区間4.8 Km)の一環として架けられた。開通当時は熊谷市と大里郡江南村を結ぶ橋であったが、2007年(平成19年)の合併で両岸とも熊谷市となった。

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JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その1。葉桜。荒川大橋。花大根。タラの芽。(「荒川」を遡る。第5日目。)

2021-04-28 20:51:52 | 荒川を遡る

4月10日(土)。快晴。再び熊谷駅に降り立ちます。

熊谷桜堤。すっかり桜も散り、葉桜へ。「三日見ぬ間の桜」という表現がありますが、わずか一週間でこのように。

一週間前の人混みもいつの話しやら、人出もなく静かな堤に。河川敷のグランドでは賑やかな歓声が聞こえてきます。

澄んだ空です。

「荒川大橋」。


 「村岡の渡し船」は、大里郡熊谷宿と同郡村岡村(現熊谷市)を結ぶものでありましたが、明冶42年(1909)荒川大橋の完成によって廃止されました。渡し船は人馬を対岸へ渡す船であり、渡船場に配備されていました。江戸時代には、江戸の町を警備するためや川を往来する船の航行を妨げることのないように、架橋は控えられていました。そのために、渡し船は重要な交通手段になっていました。

現在、吉岡小学校の保管庫に馬船(馬を運ぶ船)1艘と歩行船(人を運ぶ船)2艘が保管され、荒川の交通の歴史を知る上で重要な資料となっています。

        

(この項「熊谷市」HP参照)

                 

下流方向。おだやかな流れ。

上流方向。幅広くゆっくりと流れています。

右手に水位監視塔。

運動広場の脇を進みます。

  

新緑があざやか。

少年野球が盛んに。世話する方も。

左手の河川敷には農地が見えます。家庭菜園? 

前方に農作業中の方が見えたので、行ってみます。

右手は「埼玉自動車学校」。

紫の花をたくさん付けた花が群生しています。

農作業をしている方にお聞きしたら、「花大根です。」と。こちらはど素人。「大根ができるのですか? 」。笑われてしまいました。菜の花と同じアブラナ科の多年草のようです。「この先にもけっこう咲いてますよ。」と。

     

何人もの方が農作業中。  

こちらでは「大根」を。

梅の花のようです。

川沿いの道に戻ります。

許可を得て農地としているのかはさだかではありませんが、けっこう小さな畑が点々と。

ここにも「花大根」が。

これは「タラ」の木。「タラの芽」は最高の食材。

勝手に取ってはいけない! もの。でも、取る時期は過ぎているようです。

かつて、どういうわけか職場の玄関脇に、一本植わっていて、新芽が出るといつの間にか無くなっていました。

天ぷらにすると美味しい。他にごま和え、おひたし・・・。

(「タラの芽は山菜の王様!おいしく季節感を味わおう! | DELISH KITCHEN https://delishkitchen.tv 」HPより)

この先、道筋に何本もあります。自然に生えてきたものとは思えませんが。

と、今日、岐阜からタラの葉(?)が送られてきました。

これも美味しいらしい。天ぷらにして食しました。ほろ苦い味と香りが絶妙です。

この前は、「フキノトウ」を送ってもらい、食する機会がありました。

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その7。ムサシトミヨ。荒川の西遷。熊谷桜堤。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-27 22:05:13 | 荒川を遡る

熊谷桜堤の桜並木に近づく。

                

堤防下に「熊谷市 ムサシトミヨ保護センター」があり、その敷地内に「元荒川」の源流があります。


 ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
 湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
 しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
 2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。

※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
                           (HPより) 

現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
 荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。
 関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。

流路の付け替え前。

    流路の付け替え後。

(この項、「」HPより)

「荒川の 流れを変えた 伊奈(備前守)忠治」。

見事な桜並木。ちょうど満開。

4月3日(土)。おおぜい見物に来ています。

               

 

 

「75.2K」ポスト。

道路も花びらでいっぱい。

河川敷運動広場。

    圧巻の景色。

 「荒川左岸 76.0K」。

約2㎞にわたる桜並木です。    

さて、そろそろ「荒川公園」から熊谷駅へ。

         花びらの絨毯。

「荒川公園」。

今回は、ここまで。桜と菜の花の共演は見事でした。

次回は熊谷から寄居まで(の予定)。

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その6。久下橋。思いやり橋。旧中山道と合流。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-26 21:36:38 | 荒川を遡る

              「久下(くげ)橋」が見えてきます。

かつての新川村跡?  

久下の集落方向。旧中山道はこの地域を進みます。

「海まで73.0㎞」ポスト。

「久下橋」。

橋を越えて上流へ。

左手、荒川の流れが間近に。

「久下橋」方向。

                  上流方向。

右手の土手下に解説板が。

 

 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
 春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。
  車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました

 幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
 昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。


《周辺の歴史》
 この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったおいわれる。
 江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
 以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
 舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
 
 もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
 
 開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
 橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
 1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
 珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
 埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
 2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。

    
                                    冠水時のようす。
                        (HPより)

この付近に「旧久下橋(冠水橋)」があったか? 

この付近の今昔。


1880年代のようす。
 現在の久下橋よりも上流の地点。「旧久下橋」が出来る前の対岸への渡し場があります。中山道沿いに集落を形成しています。

                      2010年代のようす。             右下に現在の「久下橋」。旧中山道の道筋が残っています。

この解説板がある付近は、旧中山道沿いになっているようです。土手下には「権八地蔵」や「道標」があります。

    元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

 その前の久下権八公園には、「熊谷堤碑」。篆額は伊藤博文、とのことです。
(元は明治12年建立)

「中山道」の道標。    「右 熊谷道 左 松山道」。

「中山道」はこの先、すぐに土手を下って「みかりや」(中山道を往来する旅人相手の茶店で、「しがらきごぼうに久下ゆべし」のことばがある通り、「柚餅子」が名物だったのだろう。また、忍藩の殿様が鷹狩りに来ると、ここで休んだので、「御狩屋」と呼ばれたという)跡を過ぎ、「熊谷宿」の方へ進んで行きます。

「旧中山道」道とはここまで。

荒川の堤を先に進みます。

                 

(「今昔マップ」より)

→が「中山道」。荒川の堤は現在の熊谷駅付近まで。河川敷は桑畑。右図で「河原町」という地名がある。

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その5。元荒川。「決壊の跡」碑。一里塚。新川村。緊急事態宣言。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-23 19:58:35 | 荒川を遡る

                 「元荒川」が眼下に。

熊谷市市街地を遠望。

「中山道」歩きの時に見たおうちが健在。

河川敷は農地。

熊谷駅方向を望む。

中山道歩きに通過した「ライオンズマンション」がようやく目の前に。 

この手前に「決壊の跡」碑。

                

            日ごとの洪水地域の拡大図。

昭和22年(1947)9月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。
流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。
下の画像は洪水から約一ヶ月後の昭和22年10月に米軍が空撮したものですが、破堤している様子がわかります。

(この項、「」HPより)

「洪水の 怖さ伝える 決壊碑」。

1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県大利根町付近)での利根川堤防の破堤。この地点は、利根川の水は全て集中する上、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
 こうした要因によって、9月15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに、東村の利根川右岸提が340㍍にわたって決壊。濁流は南に向かい、午前3時には栗橋町、午前8時には鷲宮町、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達する。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には、笠原村(現在の鴻巣市)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達した。19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没した。・・・
 同じころ、八条村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。
 なお、この2年後に大型で強い台風、キティ台風が上陸。高潮のために、今度は下町の江東区や墨田区などを襲って、浸水などの大きな被害を受けた。わずか2年足らずの大型台風の被害だったので、この台風と混同している人もいる。
 最近の研究では、超大型の台風(大きな集中豪雨)が襲った場合には、この時とほぼ同じように利根川の堤防が決壊する可能性が指摘され、その場合の想像以上の大きな被害予測が報告されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに我が家付近では、濁流は、3㍍の高さに達すると予測されています。

2019年(令和元年)10月の台風19号によって、荒川流域は録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。治水との戦いはまだまだ続きます。

下流方向を望む。

堤防下の住宅地。

「旧中山道」沿いにあたる「ライオンズマンション」2棟。

 

馬頭観音(↓)                   中山道一里塚跡(↓)

「中山道」歩きの時の記録を再掲。

・・・

草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



(12:15)そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

・・・

「旧中山道」はこの先で、堤防から離れて行きます。

輪型の碑」(↓)。

分かれ道のところにある輪型の碑(久下堤の碑)」。
 明治45年(1912)に建立。この付近の堤防は、もともと旧荒川(元荒川)を締め切る堤防として築かれたもの。江戸時代初頭から存在する堤防(近年になって大改修されてはいるが)。碑文には約4Kmにわたり、久下堤を修復したと記されている。
 「後の世までも 修堤記録 輪型の碑」。

「輪型」とは敷き石にある車輪用の溝のこと。もともとこの坂道に設置されていたのでしょうか? 頻繁に行き来する大八車などの轍が深く残っていた、ということでしょうか?

さて、左手の河川敷にはかつて集落がありました

「熊谷市役所久下出張所」にある絵入り解説板。

荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)の当時のようすが記されています。


         
        左手に広がる河川敷あたりか? 畑は耕され、遠くには屋敷林なども。



 1880年代の「新川村」のようす。河岸には集落や船着場もあります。右上をかすめているのが、「中山道」(久下の長土手)。荒川に沿ってもう少し東北方向に家並みが広がっていました。現在残っている「三島神社」そのはずれにあたります。



2010年代のようす。すっかり河川敷内に。屋敷林など集落があった当時の面影も残されているようです。

 新川村は人口は約550人、家数94戸、舟の数49艘(明治20年)でした。「新川」とは江戸時代初頭におこなわれた荒川の瀬替え(流路を西へ変更)によって、新たに開削された荒川を指しています。
 当時の村では、男は養蚕、農業のあいまに舟や筏に乗って新川と江戸(東京)を往復。女は蚕仕事がない時は、糸を紡ぎ機を織った。村内には鵜づかい漁ををする者もいました。
 「新川」河岸は荒川の河岸場としては最上流に位置していますが、明治時代の初期でも、かなりの規模があったようです。
 江戸時代には新川河岸は、忍藩の御用河岸として、年貢米の積み出しも行われていました。また、新川河岸には、筏に組まれて荒川を下って来た木材を、一時的に保管する係留場もあり、筏の組み替え作業なども行なわれたうた、といいます。絵図を見ると、賑わいを見せていたことがわかります。

 荒川の右岸、左岸の河川敷には、旧・新川村(しんかわ)の墓地が残ていて、今もご先祖の供養に訪れる人が多いという。また、河川敷には墓地以外にも、新川村上分(かみぶん)の屋敷森と土砂に半分埋まった三島神社の鳥居が残っているそうです。

 

今日、「緊急事態宣言」の発出が決定。対象は東京都と大阪府、京都府、兵庫県。期間は4月25日から5月11日まで。飲食店の営業時間の短縮を求めるだけでなく、酒類を提供する飲食店、カラオケ、大型施設を含め、映画館、劇場などにも休業を要請する(東京都)。Jリーグやプロ野球などのイベントも原則無観客に。

今年に入って2回目(通算3回目)。しかし、5月11日まで、という期限付き。IOCバッハ会長が17日頃、来日する、とか。それまでに何とか解除し、オリンピックに向けて、という魂胆がミエミエ。さすがに専門会委員からは無条件の解除はありえない、と。

実際、たった2週間で事態はよくなるのか?

 何が何でもオリンピックを! しかし、「笛吹けど踊らず」。いよいよ強権発動。夜8時以降は街灯以外は店の灯りを消すように、とも。飲食店だけで済むのか。街中、灯火管制をするつもり。

「欲しがりません、勝つまでは」、「撃ちてしやまん」、「贅沢は敵だ」・・・。暗い世相になりそうです。

司馬遼太郎さんが『この国のかたち』で憂えた日本。

コロナ禍を奇貨として、次々と繰り出される施策。特に、憲法に「緊急事態」条項を入れよう、と。ナチスばりの政策に喜々としてとしてはしゃぐ自公政権。

これから、いったいどうなるのでしょうか? 国民一人ひとりが深刻に考え、行動しなければならないときになっているようです。

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その4。荒川パノラマ公園。白井権八。旧中山道。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-22 20:06:27 | 荒川を遡る

                  パラグライダーの姿が。

             

              対岸、中央に見える水門は、「和田吉野川」の「玉作水門」。  

右手の林の中に長い「ローラー滑り台」。

「荒川パノラマ公園」。

トイレもあるし、自販機もあるので、ちょっと立ち寄ろうと思いましたが、こちら側からは入れないようです。

横目で眺めるだけ。残念! 

遠くに「荒川水管橋」を望む。

晴れた日には富士山も見えるそうです。(「Googleマップ」より)

「荒川コスモス街道」。 

先に進みます。

「海まで70k」ポスト。

右手遠く、「旧中山道」のときのマンションが見えてきます。

まもなく鴻巣・吹上を通ってきた「旧中山道」が右手から近づいてきます。

土手下に「権八地蔵」(↓)。右手奥から来る道が「旧中山道」。

・・・

鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はそのご捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会 

「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

「中山道」はこの地蔵堂の先で荒川土手にさしかかり、「久下の長土手」を経て、熊谷宿に至ります。その間は景色の良さと共に追い剥ぎの名所だったとも伝えられます。上の解説板にあるような、平井権八の強盗殺人事件もこの土手で起きた、ということです。  

今は、のどかな土手道になっていますが。   

中山道は下の道になります。

現在の土手は改修され、かさ上げされています。おそらく旧中山道はかつての土手の高さ。                          

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その3。吹上飛行場。コスモスアリーナふきあげ。荒川水管橋。大芦橋。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-21 21:05:24 | 荒川を遡る

                      堤防下の桜並木。

    河川敷。

軽飛行機の姿が。

 

「吹上飛行場」から飛び立ったのか?

左手遠くに建物。「66K」ポスト。

見えていても、なかなか近づかない。

来た道を振り返る。

  河川敷には「吹上飛行場」。

この先、右手にあるのは、「コスモスアリーナふきあげ / 鴻巣市吹上勤労青少年ホーム」という総合運動・学習施設。

 

桜もちょうど満開。大勢の人で賑わっています。

河川敷から見上げる桜並木。注:写真は、4月3日のもの。

河川敷に広がるお花畑。春はポピーや麦ナデシコ、秋は約1200万本のコスモスが咲く。秩父連山や富士山を遠くに望むことができるそうです。

吹上コスモス畑(「Googleマップ」より)

今は、

 

          

ここで、小休止。

遠くに「荒川水管橋」。

                 

「荒川」と、並行する「和田吉野川」に架かる水管橋。全長は1100 mあまりで、日本最長の水管橋として知られる。県西部へは本橋を介して左岸側(吹上)から右岸側(吉見)に送水される。水道専用の橋であり、通常は人が渡ることはできないが、本橋のメンテナンス用通路を歩いて渡ることができる見学会が、例年、春と秋に開催される

(この項、「Wikipedia」参照)

 

この先には「大芦橋」が。

 向こう側へ。

現在の大芦橋が開通する以前は木造の冠水橋、さらに以前の昭和初期頃迄は橋はなく、いつから存在していたかは定かではないが、八王子千人同心道(「日光千人同心街道」・「日光脇往還」)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいた。渡船場には1803年(享和3年)頃開設された「大芦の河岸」が併設され、大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。また、大芦の渡しのすぐ下流側には松山道に属する「五反田の渡し」と呼ばれる私設の渡船が設けられ、こちらも渡船場に河岸が併設され、冬季には川下側に仮橋が架設されていた。 昭和初期頃架設された冠水橋は橋脚、橋桁共に木製で現在の橋の300メートル下流の荒川のみに架けられ、和田吉野川を渡るには抜水橋である吉見橋を渡る必要があった。冠水橋は北足立(現鴻巣市内)と大里(現熊谷市内)を結ぶ重要な交通路となっていたため、洪水で不通となるたびに緊急事態になり復旧までの間、水量がまだ相当ある中、緊急に仮橋が架けられ、のちの永久橋が架けられるまで何度も繰り返された。1949年(昭和24年)8月にはキティ台風、1965年(昭和40年)5月の台風、、3か月後の8月22日台風17号の洪水で相次いで流失した。

1966年に架け替えられた旧大芦橋(1966年)

1965年の洪水の後、冠水橋に架け替えられた。路線バスは橋の通行が不能なため、手前で折り返していた。1979年の永久橋が竣工した際、吉見橋は農道として存続されたが、冠水橋の方は撤去された。

(この項、「Wikipedia」参照)

「大芦橋」は、「日光千人同心街道」歩きの時に渡りました。 




1880年代のようす。「日光千人同心街道」は荒川を渡船で渡り、吹上方面に向かいました。

                                                                                     
2010年代のようす。左の橋が「大芦橋」。右手に「荒川水管橋」。            

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その2。武蔵水路。逃げ水。「穀雨」。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-20 20:57:22 | 荒川を遡る

                   前方に大きな水門が見えてきます。「武蔵水路」。

「荒川」に向かう水路が見えます。

「武蔵水路」水門から荒川本流方向を。

右手に「糠田排水機場」の建物。

解説板。

 

「武蔵水路」の概略                     「糠田排水機場」の役割

 

「武蔵水路」には、「旧中山道」や「日光千人同心街道」(八王子~佐野)などを歩いた時、ここから北方、行田市内で出会いました。

ちなみに、「日光千人同心街道」のとき、「荒川」は、東松山から鴻巣への途中、(この先、上流にある)「大芦橋」で渡りました。

「日光千人同心街道」の時の解説と写真を再掲。

武蔵水路について
 昭和30年代、首都圏では経済成長に伴う人口の増加や生活の多様化により水道用水の需要の増加が著しくなりました。それに加え、昭和30年代後半から渇水が続き、東京オリンピック直前には深刻な水不足となり、真夏の首都は、「東京砂漠」と言われるほどの厳しい状態となりました。
 そこで、既存の農業用水の安定化を軸に立案された利根導水路計画の一環として武蔵水路が計画され、都市用水及び浄化用水として利根川の水を首都圏に運ぶものとしました。
 地元の方々のご理解とご協力により水路は短期間で完成し、清澄な利根川の水を休みなく送り続けています。
 なお、平成27年度までには通水能力の回復や水路全体の耐震化を行い、リニューアルした施設へと生まれ変わりました。
武蔵水路の役割
武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ延長14.5kmの水路で3つの役割を担っています。
①都市用水の導水 
利根大堰で取水した東京都と埼玉県の都市用水を荒川へ導水しています。(導水した水は、下流の秋ヶ瀬取水堰などで取水され、東京都の朝霞浄水場や埼玉県の大久保浄水場などへ送られています。)
②浄化用水の導水 
荒川水系の水質改善のため、浄化用水を導水しています。浄化用水は、秋ヶ瀬取水堰から新河岸川へ朝霞水路を通じて流れこみ、下流の隅田川の浄化も行なっています。
③周辺地域の内水排除 
周辺地区の河川の洪水や市街地からの出水を取りこみ、荒川に排水する事により浸水被害を軽減します。  


(以上、「利根導水総合事業所」HPより)

 交差する「見沼代用水」など他の水路とはサイフォンの原理などで交差しています。 
けっこうな水量です。

上流方向を望む。

    (以上、「日光千人同心街道」ブログ記事より。)

 

「利根川取水口」。

・・・

                                                                         

・・・                                  

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)取水口から合流点まで。

 

  右岸・定点カメラの映像。

(この項、「」より)   

さらに上流へ。道路には「逃げ水」が。

※「逃げ水」=風の無い晴れた暑い日に、アスファルトの道路などで、遠くに水があるように見える現象。近づいてもその場所に水はなく、さらに遠くに見え、まるで水が逃げていくように見えることからこの名前がつけられている。

荒川合流点に流れる「武蔵水路」。 

ここからラジコン飛行機を飛ばしています。

北鴻巣駅方向を望む。

河川敷側。新緑の木々がすばらしい。 

秩父連山が遠くに(↓)。 

 

ところで、4月20日は、24節気の内、「穀雨」。「清明」の次。。田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころです。穀雨とは、穀物の成長を助ける雨のこと。『暦便覧』には「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されている。

穀雨の終わりごろ(立夏直前)に八十八夜(立春の87日後の日)がある。(「Wikipedia」より)

この時期は、前年の秋に蒔いた麦の成長を促す春の雨が降り、清明の頃に蒔いた籾が稲に育っていく頃で、農耕にかかわる人々にとって恵みの雨となる。この時期に長引く雨を菜種梅雨(なたねづゆ)という。(「平成ニッポン生活便利帳」より)

春も終わりに近づき、夏になっていく時候となります。

近所の公園にて。

             

地元の方々の熱心なお世話のおかげで。

                      

全国的に「雨」とは裏腹の快晴。関東地方では夏日になったところも。22日は、もっと暑くなるそうです。

近年。ソメイヨシノが満開の中で卒業式が行われ、入学式は、すっかり葉桜になった木の下で・・・。

現在の暦。関東エリアでは、おおざっぱに、12,1,2月―冬。3,4,5月―春。6,7,8月―夏。9,10,11月―秋。という感覚でしたが、春と秋の期間が短くなって、・・・。

寒さから急な暑さに、暑さから急な寒さにと、微妙な四季の移り変わりを味わう暇も無く、「冬夏」という二季になってしまったかのようです。                             

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JR鴻巣駅~熊谷駅。その1。「災害復旧記念碑」。滝馬室橋。糠田橋。桜と菜の花。(「荒川」を遡る。第4日目。)

2021-04-19 21:21:38 | 荒川を遡る

4月3日(土)快晴。またまたやって来ました「荒川」歩き。今回は、熊谷駅まで。

JR「鴻巣」駅下車。西口から向かいます。住宅街を進んで荒川堤へ。

左手に「大間堤防」の一部か?

「大間堤防」は、明治8年(1875)に民間人によって建設され、規模は長さ508間(914m)、高さ1丈3尺(4.2m)だった。それを記念して、1897 年(明治 30 年)11 月建立された記念碑が、すぐ北にある「鴻巣市立鴻巣西中」にあるそうです。

大きな「災害復旧記念碑」。

1947 年(昭和 22 年)9 月 15 日カスリーン台風により、大間堤防は決壊し、行人樋管も破壊した。この堤防と樋管は 1948 年(昭和 23 年)5 月 30 日に復旧した。「災害復旧記念碑」として 1957 年(昭和 32 年)11 月建立。

・・・

荒川は山岳地帯を抜けると川の勾配や水勢も弱まり、特に、寄居町から熊谷地先で急にその流れが緩やかになります。この
熊谷地先が荒川扇状地の末端であるために、吹上地区をはじめ下流の東部低地では古来よりその乱流に見舞われ、水害に悩まされてきました。
このため、江戸幕府は 1629 (寛永6)年に河川改修の実績のある関東郡代伊奈忠治を命じて、荒川の流路を変えること
とし、熊谷市久下地先で土手を築き締め切りました。
荒川の主要な破堤箇所は、扇状地端で河床勾配が急激に弱まり、また、河川改修(西遷)による曲流点でもある熊谷市から鴻巣市付近に集中しています。

(この項、「」HPより)   

土手上に出ます。「御成橋」方向を望む。

上流に来すぎたために「滝馬室橋」をパスしてしまいました。上の写真で右手奥にあるはず。そこで、

(「YouTube」より)

「2019/12/16 · アップロード元: 地球紀行」。

上流を目指します。

「荒川左岸 62.0K」。

後方遠くに「御成橋」が。

対岸には「天然ガス」の丸いタンク(中央)や東洋製罐の工場(右端)が望めます。そして、中央に「滝馬室橋」がちょっと見えます。

右手は、「鴻巣市立鴻巣西中」。

堤防の斜面には、菜の花がいっぱい。

前方左に「糠田橋」が見えてきます。

その手前で、荒川の流れを見ようと河川敷の中を近づきましたが、工事のため立入禁止。

ちょっぴり見えました。

正面奥に堤防を望む。

農道を「糠田橋」へ。

頭上には ラジコン飛行機がうなりを立てて。

軽快に大空を飛び回る。高度なテクニックが要求されるようです。

       

河川敷は広大な農地が。

                 

「糠田橋」。

糠田橋が開通する以前は、糠田の渡しとばれる渡船2艘を有する私設の渡船であった。また、渡船場には1804年文化元年)頃までに設立された糠田河岸場が併設されていた。この渡船は昭和初期の荒川の改修により廃止された

昭和初期に新河道が開削され、それにより右岸側に分断された地区を結ぶために河道上に架けられた農耕橋が糠田橋の起源である。橋は船を7艘並べ渡り板を敷いた舟橋で、旧河道と新河道の分岐点上流側である現在の永久橋と同じ場所に架けられていた。・・・

(この項「Wikipedia」より)

                   

堤防に上がります。

サクラと菜の花の見事な共演。

                

しばし眺めながら、小休止。

サイクリングの若者も、自転車を停めて、休憩。写真に興じていました。                                       

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JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その9。原馬室橋。御成橋。ポピー。川幅日本一。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-16 22:49:14 | 荒川を遡る

「御成橋」に向かって進みます。

広大な農地。

              

「馬室荒川占有耕作組合境界杭」。植えてあるのは、ポピー?

                   

薬剤を散布している。

整然と植えられたポピー。

ポピー・ハッピースクエア

荒川河川敷へのゴミの不法投棄防止と「花のまちこうのす」をアピールする事を目的として、約125,000平方メートルの敷地に約3,000万本が栽培されている日本一広いポピー畑です。
 花の見頃となる5月には、市内外から多くの方が訪れる花の名所となっています。また、この花畑は「日本一の川幅」を誇る荒川の御成橋下に広がり、ここから望む富士山(富士見百景にも選定された)は絶景です。
このほか、隣接する約12,000平方メートルの麦なでしこ畑も見どころです。

(「」HPより)

 

 

左折すると、冠水橋の「原馬室(はらまむろ)橋」。

2001(平成13)年9月の台風で先代の橋が流出し、2002(平成14)年に復旧。上流側に大きな鋼製の流木よけがある。荒川右岸側の比企郡吉見町蓮沼新田と左岸側の鴻巣市原馬室とを結ぶ。

下流方向。

「川歩き」はここまで。JR「鴻巣駅」を目指します。

         

「御成橋」。手前にポピー畑。

         右手、橋のたもとへ。

御成橋

徳川家康が当地へたびたび鷹狩りに訪れ、荒川を渡る際に渡船場に臨時に設けられた舟橋に付けられた名前に因む。近くの鴻巣宿には、徳川家ゆかりの寺院である勝願寺がある。

御成橋が開通する以前は、 御成河岸の渡とばれる渡船二艘を有する官設の渡船場であった。渡船場は現在の河道の場所とは異なり、滝馬室地区の旧河道上(現在の旧荒川)に設けられ、河岸場も設けられた。河岸場の周囲には様々な店が建ち並ぶなど賑わいをみせ、「御成銀座」と呼ばれていた。現在でも滝馬室地区にはかつて河岸場があったことを示す御成河岸という名前の小字が残り、県道には同名の停留所が存在し、すぐそばの稲荷神社には旧御成橋の親柱が保存されている河川改修は1918年(大正7年)に着手され、1935年(昭和10年)に完成した。直線化で取り残された荒川の旧河道は以降、旧荒川となる。

(この項、「Wikipedia」参照)

この付近のようす。

     

2010年代のようす。左に旧荒川、右に直線化した現荒川。中央の橋が「御成橋」。幅広い河川敷に。

「御成橋」東詰へ。

「川幅日本一」の標。「2537m 荒川」。

そういえば、「旧中山道」歩きの時、鴻巣の物産展で「川幅うどん」があったので、買ってきました。何しろ10㌢以上の幅があります。ご当地B級グルメといっては失礼ですが、独特の食感を楽しめました。

            「御成橋」。渋滞気味。

鴻巣市の花パンジーの絵柄。

鴻巣は、ひな人形の街でも有名。

ということで、今回は、ここまで。

次回は、熊谷駅まで。途中、「旧中山道」の道筋とかぶる。

中山道・鴻巣宿から熊谷宿まで。「中山道」歩きの時の写真も織り交ぜて報告できれば。

  ホームには、「中山道沿線物語」と広告。

 籠原駅、熊谷駅、鴻巣駅、桶川駅、上尾駅。

 

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JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その8。北本水辺プラザ。高尾河岸跡・道標。高尾橋。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-15 21:39:14 | 荒川を遡る

「北本水辺プラザ」。

埼玉県北本市荒川地区の荒川河川敷を整備して平成24年に造られた新しい公園です。
 広々とした芝生広場は、かけっこや親子連れで楽しめます。
 江戸時代に荒川舟運で栄えた頃の荒川の流れを再現した旧流路体験水路などを中心に、水路添いの散策路、河川敷側の園路、そして桜の木などが植えられています。
 トイレや水飲み場も整備されていますので小さなお子様連れの方からお年寄りまで幅広い世代の人がのんびり過ごすのに適した公園です。(「同」HPより)

公園を管理・維持するための費用ねん出のため、桶川市にある清涼飲料メーカー「三国コカ・コーラボトリング」(日本コカ・コーラの埼玉県管轄ボトラー。現在はコカ・コーライーストジャパンに合併)と、日本の直轄河川敷開発事業で初となる施設命名権を締結し、完成1年前の2011年2月から2014年3月の3年契約を結んだ。契約当時の名称は「三国コカ・コーラボトリング北本みずべひろば」。なお条例上の正式名は当初より「北本水辺プラザ公園」としている。

(この項、「Wikipedia」より)

「施設命名権」という取組みが興味深い。都内でも見受けられます。

         下流方向。

上流方向。

水鳥の姿も。

この先、右手が「高尾さくら公園」。起伏の中にサクラが満開。

                

案内板。

路傍の道標。 

       「西よしみ邑 東こうのす邑」と刻まれています。市内には、道標がけっこう残されているようです。

高尾橋幅員1.9m。

荒川は昔、旧高尾村(現北本市高尾地区)の西にある「旧荒川」の流路が本流だった。蛇行していた部分で、氾濫を繰り返していたため、昭和初期に行われた荒川の河川改修による流路変更によって直線化された捷水路に付け替えられたことにより、荒川に分断された高尾地区の旧荒川との間に取り残された農耕地を結ぶ橋である。

高尾の渡し

高尾橋が開通する以前は「高尾の渡し」と呼ばれる、高尾村と高尾新田村を結ぶ渡船二艘を有する私設の渡船であった。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、1685年貞享2年)の史料に「高尾渡し」と記されていたことからその頃までには存在したとされる。渡船賃(通行料)は1876年(明治9年)6月の時点では徒歩2厘5毛、荷馬は6厘であった

また、渡船場には河岸場が併設され、1690年(元禄3年)に開設された、荒川筋に4つある江戸幕府公認で、幕府廻米運賃制定の河岸場である高尾河岸が現在の高尾橋の約100メートル川下の場所に位置し江戸への物資輸送の拠点として機能していた。北本で最も栄えていた場所の一つで、河岸場周辺には町が形成され、塩も仕事も高尾に行けば何でもそろい、そこに無いものはないと言われたほどで1883年(明治16年)に日本鉄道(現在の高崎線)が開通するまでは大変な賑わいだったという

「高尾のタンス」と呼ばれた地場産業である桐箪笥作りも盛んで、東京箪笥の元祖として江戸時代からその名が知られていた。この箪笥作りは1940年(昭和15年)に物品税の導入などにより衰退した。なお、高尾河岸は大正の初頭頃に終焉した。現在は阿弥陀堂のみが当時の面影を留めるほかは農家が数軒あるのみである。また、渡船場につながる道も残っている。

旧高尾橋(1962年)

橋は1932年昭和7年)に初めて架設された。通行は有料で船頭が通行料を徴収していたの上に板を並べた橋で、渡ると板がぐらついて慣れないと怖くて渡れなかったという。また、増水時で橋が渡れない場合は臨時に渡船を運行し、橋が流失した際は船頭がそれを架け直した。その後橋は周辺地域で管理するようになり、1968年(昭和43年)までは地元の球根組合の収益金を充てて架け替えや増水時における橋板を外す作業などの管理をしていたことから、戦前より通称として「球根橋」と呼ばれた。橋板の撤去は向う岸(右岸)側より一枚ずつ順次行ったが、足元が不安定でもあり、危険の伴う作業であった。橋板の撤去が間に合わずに流されてしまい、船で東京湾の入口近くまで回収に向かったこともあったという。なお、現在は北本市が管理している

冠水橋なので流失および一部損壊が幾度となく繰り返され、流失については1954年(昭和29年)9月の台風14号、1961年(昭和36年)10月の台風(1962年4月復旧)、1965年(昭和40年)8月の台風17号で発生した。護岸の強度不足や、砂利採掘がその被害を助長させたとみられている

1965年(昭和40年)8月の台風17号で流失した橋は、1966年(昭和41年)1月復旧工事に着手し冠水橋(潜水橋)として架け直され3月に完了した。この1966年に架け直された橋は木部の腐食箇所の修繕を繰り返しながら40年以上使われ続けた。この間、1983年(昭和58年)の台風5号・6号、1985年(昭和60年)の台風6号、2007年(平成19年)の台風9号で冠水が発生している。地元の要望を受け、1996年平成8年)1月末には老朽化した橋桁の木材を交換し、橋桁の塗り替えを行なう改修工事を実施した

近年では2011年(平成23年)の洪水で被災し、その際には上部工の詳細設計に336万円と工費2,121万円を掛けて災害復旧工事を行い、木製の橋桁から現在のコンクリート製の橋桁に交換された。下部工(橋脚)は流用され、塗色も今までの青色から茶系の色に塗り直された。

(この項、「Wikipedia」より)

「高尾橋」付近の今昔。

                     1880年代のようす。中央の渡場付近に集落。

                     2010年代のようす。左上に旧荒川の流れ。

 

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JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その7。麦畑。荒川ビオトープ。城ヶ谷堤(桜土手)。荒井橋。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-14 20:51:22 | 荒川を遡る

                         耕作を待つ畑。      

麦畑が一面に。

 

遊歩道。

しばらく進むと、右手が小高い丘になってきます。満開のサクラの古木も。

左手は「荒川ビオトープ」事業地区。

荒川ビオトープ

荒川ビオトープ

荒川の中流部、川を挟んで北本市と川島町の河川敷につくられています。
野生動植物の生息空間を守り、創出するものとしては国内最大規模を誇ります。北本市側に隣接する「北本自然観察公園」とあわせて60ha以上の土地が確保されています。「荒川ビオトープ」は、かつて平坦な麦畑が広がっていた河川敷に、荒川が本来持っていた豊かな生態系を取り戻そうという試み。生態系の頂点に立つサシバの繁殖をみることを成功の目安にしています。もともとあった水路やその岸辺の林など、よい自然環境はそのまま残して守ります。

整備前の荒川左岸の様子かつての様子(麦畑)。その後。

                   注:写真は、右岸(対岸)のもの。

(この項、「」HPより)

「天神下公園」。

その先、駐車場には車がいっぱい、移動販売車もいくつか。賑やかな雰囲気に。「城ヶ谷堤(桜土手)」に。

城ヶ谷堤(じょうがやつつみ)の桜並木は、北本市の天然記念物「エドヒガンザクラ」で知られている北本自然観察公園の西側の荒川沿いにある古くから親しまれている桜の名所です。土手沿いに約60本ものソメイヨシノが植えられていて、桜のシーズンには満開の桜がトンネルとなってとても綺麗な空間を演出してくれています。

このトンネルは、河川敷の道路に沿って作り出されるため、車でも通ることが出来ますが、それよりもぜひ歩いて通って見られることをお勧めします。また、春には菜の花が黄色い花を咲かせ、桜のピンクとのコントラストがとても綺麗でとても心地いい場所です。例年シーズンには多くの花見客が訪れます。屋台も出ていますし、近隣にも花見スポットが多いため、桜巡りをする人たちでにぎわいます。

もよりの駅からは、JR高崎線の北本駅から、川越観光自動車のバスで「北里研究所メディカル病院」行き、または「石戸蒲ザクラ入口」行きのバスに乗り、自然観察公園前バス停下車し、北本自然観察公園園内を通り、徒歩で約15分のところにあります。
駐車場は、土手を降りたところに無料駐車場がありますが、桜のシーズンには大変混雑しますので公共機関のご利用をお勧めします。

(この項、「」HPより)

けっこうな人出。

サクラの下にレジャーシートを敷き、飲食を楽しむ。

「石戸城跡」がこの堤の東側にあります。

「横田薬師堂」脇から再び河川敷へ。

          

右手にはサクラが点在。一本ごとに番号が。

         「河川区域」の標識。

続いて「荒井橋」にさしかかります。

    

荒井橋が開通する以前は「荒井の渡し」と呼ばれる荒井村と江和井村を結ぶ村道に属する渡船であった。また、渡船場には河岸場である「荒井河岸」が併設され、河岸場はいつから開設されていたか定かではないが、1685年貞享2年)の史料に年貢米を江戸に送った記録が残されていたことからその頃までには存在したとされる。この渡しは「世戸井渡」とも呼ばれ渡船二艘を有する私設の渡船であった。渡船料は1878年明治11年)1月当時は徒歩は1人で二、荷馬は1で六厘であった。また渡船場には荒井河岸が併設されている他、石戸河岸、高尾河岸もあり水運の一役を担っていた[9]。1933年に荒井橋が架設されたことにより渡船は廃止された

1933年昭和8年)3月15日に石戸村東吉見村の間を流れる荒川に初代の荒井橋が木製の冠水橋(かんすいきょう)として架橋された「冠水橋」時代。

・・・橋長90メートル、幅員4メートルで工費は9000円だった。道幅が狭いことから交互通行であった。また、河川改修により直線化される前の旧川に架けられていた。開通当時は村道だったが1939年(昭和14年)4月に県道に編入されている。 橋は荒井地区の人が管理していて、橋が洪水で流失した際は荒川地区が橋の部材を調達し、橋を復旧する作業をしていた。 また、地区の話し合いより船頭を抜擢し、橋が流失するなどして通行不能となった際に臨時で渡船を出していた。 この橋は1938年(昭和13年)9月1日の大洪水で橋が流失したが、その際の架け替えの際の費用として当時の石戸村長が私財を投じたという。その時の状況は1940年に建てられた「荒井橋記念碑」の碑文に記されている。この後も洪水によって橋が度々流失、もしくは一部損壊するなどして長期にわたって通行不能となった。度重なる洪水を鎮めるために人柱を捧げた伝承も残されている。・・・

(この項、「Wikipedia」参照)

「荒井橋」際にある「土地改良記念碑」。右手には、昭和15年(1940)に建てられた「荒井橋記念碑」がある。

「荒井橋」付近の今昔。

1880年代のようす。現在の西側河川敷内を蛇行して流れていた。渡船場がある。

2010年代のようす。荒川が直線化、現在、長い直線の橋になっている。一方で、今も田畑が広がる。

こうして歩いてみると、「荒川」は、その名の如く「荒」川であったことが分かります。

一方で、船運による繁栄。橋を架けることで両岸の人々の行き来、物資や人的交流・・・。

その一端を垣間見ることができます。

改めて「橋」の持つ、大きな役割、意義、重要性を感じます。

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JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その6。太郎右衛門橋。原山古墳群。圏央道。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-13 21:01:20 | 荒川を遡る

           「荒川」が広大な河川敷を有することを実感。

一方でいったん大型台風や集中豪雨に見舞われると流域一帯全てが水没する、というのも現実のこと。

長い年月を費やしての種々の流路変更、開削、護岸工事、復旧工事の労苦はむろんのこと、自然の驚異とその復元力にも目を見張ります。

「サイクリングロード」に沿って歩きます。

対岸には「ホンダエアポート」の駐機場。

正面は「泉福寺」。サクラが見事。

銀杏並木も見事。秋にはギンナンが頭上に降ってくるらしい。

駐車場から河川敷に。

遠くに「太郎右衛門橋」。

一本だけ巨木が。

今頃の日差しだと何とか大丈夫ですが、炎天下だと、歩くのは危険! まったく木陰がありません。

「泉福寺」境内とさっきの大木が頼み? 

やっと橋に近づいてきます。

ホンダエアポートに向かう飛行機。

 

太郎右衛門橋

この場所には橋ができる前には私設の渡し場があり、その運営者の名前が後の木製の橋(板橋)の名前となった。この渡しについては人渡し馬渡しそれぞれ一艘で渡船二艘を有する中山道桶川宿川越を結ぶ川越道に属する交通路で、渡船料は1889年明治22年)当時は徒歩は1人で三厘、荷馬は1で八厘であった。また渡船場には江戸時代の末から大正時代にかけて太郎右衛門河岸(川田谷河岸とも呼ばれた)が併設されていた1764年(明和元年)に発生した中山道伝馬騒動(明和の伝馬騒動)の際には三保谷村にて結集した一揆勢が桶川宿へ向かう際にこの渡船場付近で荒川を渡った。 最初にこの場所に橋が架けられた年代は定かではないが明治末期には既に架けられていたもので、大水によって橋が度々流失する被害にあったと言われている。橋は木造板橋で、通行料を徴収する賃銭橋であった。なお、渡しはこの板橋が架けられた後も使用は継続され、1940年(昭和15年)頃に冠水橋が架けられた後に廃止された

               冠水橋時代。

(この項、「Wikipedia」より)

この橋も含め、かつて「荒川」には木製の冠水橋がたくさん架かっていました。現存する冠水橋は、少なくなりましたが。

来た道を振り返る。

橋の先は、「桶川総合運動場」になっています。右手の木陰で一休み。

行く手に「圏央道」の橋脚が見えてきます。

その手前、右手が「原山古墳群」。

「まむしに注意」の看板。

 原山古墳群」解説板。かすれて見えず。

「原山古墳群」は「川田谷古墳群」の一つ。

川田谷地区の荒川東部、川沿いには多数の古墳が確認されてきた。江戸時代から確認されているものもあったが、明治維新以降の開発により破壊されたものも多い。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。この古墳群はさらに4つの支群に分かれ、それぞれ西台支群、原山支群、柏原支群、樋詰支群という。

・西台支群に残る古墳は1基のみ。

・柏原支群埴輪等の出土品があるものの古墳そのものはほぼ全てが削平を受けている。

・樋詰支群の古墳もほとんど全滅に近い状態であるが、埼玉県指定史跡として「熊野神社古墳」が残っている。熊野神社古墳出土品は重要文化財に指定されている。

・原山支群のうち、特に9基の古墳は「原山古墳群」と呼ばれていて、桶川市指定の文化財となっている。原山支群は9基以外にも広がるが、消滅してしまったものもある。(この項、「Wikipedia」参照)

サイクリングロード案内図。「圏央道」が出来る前の図。

圏央道」。

振り返って望む。

先に進みます。 「54.8K」。

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JR「指扇」駅~「鴻巣」駅。その5。樋詰橋。ホンダエアポート・スカイダイビング。(「荒川」を遡る。第3日目。)

2021-04-12 20:53:41 | 荒川を遡る

上空遠くに飛行機の姿。

遠ざかっていきます。

               頭上に。

鈎型に曲がっていきます。「樋管水門」。

 

 

しばらく進み、左折すると、冠水橋の「樋詰(ひのつめ)橋」に。

                

荒川の増水時は欄干が撤去され、通行止めとなることがあります。欄干の着脱は管理要員として年間委託された近隣住民が行なっているようです。

空を見上げると、いくつものパラグライダーが下りてきます。

豆粒ほどの大きさだったものが、

      次々と降下。

対岸にある「ホンダエアポート」に着地。

対岸の「ホンダエアポート」。

    

  •   熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)開校時、「川田谷飛行場」としてこの地に飛行場を開設
  • 同分教場の演習施設として使用されていたが、戦後は長らく荒れた状態で放置されていた。
  • 1964年(昭和39年)3月 - ホンダが航空産業への参入を目指し株式会社ホンダエアポート設立
  • 1970年(昭和45年)
    • 3月 - 本田航空株式会社に商号変更
    • 12月 - 同社が航空事業のノウハウ収集と将来の実験を自由に行える場所として買収・整備し「ホンダエアポート」供用開始
  • 1975年(昭和50年)12月 - 同社がヘリコプターの運航開始
  • その後、同社の事業拡大にしたがって飛行場が多くの目的に供されるようになった。(「Wikipedia」より)

ここに、「東京スカイダイビングクラブ DZ」があります。その関係でしょうか? 

(「東京スカイダイビングクラブ DZ」HPより)

 

「ふれあいんぐロード」の標識に随って進む。

空を見上げながらのんびりと。

来た道を振り返る。歩くという醍醐味を味わう。

自転車で川辺に向かう老夫婦(らしき)二人連れ。川縁にレジャーシートを敷いて、何やら食事をする風情。対岸の景色を味わいながら、というけっこうな午後のひととき。こういう光景をこの先でも見かけます。のどかな風景。

    向かいは、「ホンダエアポート」。軽飛行機が何機も駐機場に。

土手に上がります。右下、小川の両岸は、菜の花。

 

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