おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR渋川駅~津久田駅。その7。敷島マレットゴルフ場。敷島橋。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-30 21:23:55 | 利根川を歩く

河川敷にゴルフ場があり、お年寄り達、大勢の人がゴルフを楽しんでいます。

        

                  「赤城敷島マレットゴルフ場」。

利根川河川敷に平成12年にオ−プンした、計36ホールのマレットゴルフ専用施設です。

  マレットゴルフとは、通常のゴルフより大きなスティックとボールを用いて行うスポーツで、初心者から熟練者まで幅広いプレーヤーが一緒に楽しむことが可能です。

  コースもほどよい長さで、プレーしながら自然の中を散策する感覚で、子どもからお年寄りまで無理なく参加できます。

(この項、「」HPより)

※マレットゴルフとは、木づちを意味するマレットという名のクラブとボールを使い、決められた打ち出し地点からできるだけ少ない打数でホールにボールを入れることを競うスポーツで、発祥は1977年に福井市の職員によって考案された、比較的新しい歴史のスポーツで、日本発の“ニュースポーツ”となっている。

(「NPO法人 日本マレットゴルフ協会」HPより)

  

コース利用料・器具使用料とも、それぞれ1日200円という設定。

さきほどの「運動広場」といい、群馬県(渋川市)は健康啓発に熱心なようです。

※「ゲートボール」は団体戦ですが、この球技は、個人戦のようです。

ゴルフ場の向こうに利根川。

今回の終着地JR「津久田」駅に向かって歩きます。

周囲は、全山、紅葉。

「敷島橋」からの利根川。

「県道70号線」を進み、上越線の跨線橋に。

右手後方に「榛名山」。

跨線橋から左に折れる道がなく、そのまま進み、交差点を左折。利根川からは離れてしまいます。

干し柿が軒先に。

右手高台に上越自動車道の橋脚が見えます

振り返ると、榛名山。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その6。「ホタルの里宮田」。赤城健康公園。ヘルシーパル赤城。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-29 20:14:13 | 利根川を歩く

               深まりゆく秋の、のどかな田園風景が続きます。

「大根干し」。

利根川沿いへの道が分からず、県道を進み、適当な所で左折。畑や豚小屋の先を右折。

たわわに実る柚子。

県道に合流ししばらく進むと、「ほたるの里 みやだ」という看板が。

「宮田ほたるの里を守る会 活動紹介」

宮田ほたるの里を守る会の活動拠点は、渋川市赤城町宮田地区にあります。のどかな田園風景の中に流れる約400メートルの水路には、ゲンジボタルとヘイケボタルの2種類のホタルが生息し、同会では一年を通じて水路の整備などを行い、ホタルが生息しやすい環境を整えています。
 また、ホタルの保護活動を通じて「子どもたちに自然の大切さを伝える」ということを最も大切にし、子どもたちに身近にある自然や地域への理解を深めてもらえるよう、工夫を凝らした活動を行っています。

ヘイケボタル  (「心にグッグと群馬県」HPより)

宮田ほたるまつり

かつては全国のいたるところで見ることのできたホタル。 今は水のきれいなところでしか見ることができず、ホタルを守る会が設立され、全国各地で大切に保護されています。 ここ、群馬県渋川市の山間でも、6月に見ごろを迎えるホタルたちがいます。 ゲンジボタルとヘイケボタルの2種類がおり、それぞれ見ごろがずれるため、6月から7月にかけて長く楽しむことができます。 中でも美しく見ることのできる時期にホタル祭りが開催されると、その日は特に混み合います。 子どもも喜ぶ綿菓子やおでんの無料サービスも嬉しいポイントですよ。

(この項、「」HPより)

そこを左に下りていくと、利根川に近づきます。

       

流れがゆったりとしている印象。水だまりもあるようです。

           

その先、公園が見えます。 

「渋川市赤城健康公園」。

近所の公園にも運動器具がありますが、ここはかなり大規模な運動公園。

芝生やアンツーカーなど整備が行き届いているのに感心します。

つい、いくつか試してみました。けっこう面白い運動が取り入れられています。家族連れが一組。ベンチで会食してだけで、誰もやっていないのが残念です。

「ヘルシーパル赤城」。 

「浅田橋」からの利根川(下流)。

2016年(平成28年)に竣工した新しい橋のようです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その5。白井宿北木戸口。道の駅こもち。宮田(みやだ)橋。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-28 19:08:45 | 利根川を歩く

                      「白井宿北木戸口」。

宿内を振り返る。

「常夜燈」。

なまこ壁と火の見櫓が。「白井宿」を出た右手、「国道17号線」沿いに「白井宿ふるさと物産館」と「道の駅 こもち」があります。

               

水車小屋。

          

水車小屋の向こうには。

地元の野菜などが販売されています。大根や白菜、ネギなど。けっこう賑わっています。「六斎市」という建物も。かつての賑わった白井宿のようすを反映しているかのようです。

群馬県内には国道沿いにこうした道の駅があって、地元の野菜など特産品を販売しています。大勢の人が車でやってきて、野菜などけっこうたくさん購入しています。「地産地消」の観点で、とてもいい取り組みだと思います。小生も何ヶ所かで小物をいくつか買いました。この先も歩き、かつ東京に戻りますので、大きい野菜などは持って帰れませんが

さて、ここからは「利根川歩き」再開。「若鮎橋」からここまで、のんびり見学しながら、約1時間30分。

「国道17号線」から離れて利根川方向を目指します。

      

                     中央、遠くに雪をかぶった谷川連峰が。

久々に利根川の流れ。

               

「子持山」。

        

利根川対岸。紅葉が見事。

「宮田(みやだ)橋」に向かいます。

   赤城山がほんの少し。

上流方向。

宮田橋からの利根川。

上流には断崖絶壁が。

              

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その4。「白井宿その4」。「北国紀行」。新田町の井戸。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-27 20:29:25 | 利根川を歩く

                   「白井宿」案内板。

       「堯恵の歌碑」。

京都の修行僧堯恵法印は、北国紀行の道すがら、越後から三国峠を関東に入り、文明18(1886)年9月9日、菊の節句の日に白井城に入った。時に白井城に駐留していたのは関東管領上杉顕定支援のため、越後の軍兵を率いて越山していた上杉定昌である。

白井城の戸部亭で、堯恵は旅のつらい思いを憐れんでもらい、労ってもらった。(白井城主長尾景春は上杉氏にそむき、城を追われて武蔵国鉢形城に駐留していた。)9月十三夜に、白井城で風流な歌の会が催され、列席した堯恵は「月と共に神を詠む」と題した歌を詠んだ。

ずっと後の世まで人々が超えては旅をしていくに違いない、この三国峠の東、上野の道を守ってくれる道の神様もこよい十三夜の月をながめ、たたえていることだろう。という意味であり、この時の紀行文が「北国紀行」である。

(付)翌年9月堯恵は再び白井城を訪れているが、長享2(1488)年3月、上杉定昌は白井城で謎の自害を遂げている。

石碑には

「重陽の日、上州白井といふ所にうつりぬ。則ち藤戸部定昌に旅思の哀憐をほどこさる。十三夜には一続はべりしに」とあって

寄居神祇

越えぬべき千とせの坂のひがしなる道まもる神も月やめづらむ

と刻まれています。

「八軒町の井戸」。

町並みの井戸の中で北から3番目に位置し、明治3年(1870)3月吉日に井戸無尽の方法で掘ると記録にある。八軒での管理は昔から同じ。

「薬師の井戸」。

「新田町の井戸」。

町並みの井戸で、一番北に位置し、明治5年(1872)頃、井戸無尽の方法で掘る。大正6年(1917)1月に積み替えをして今も使用している。

※「無尽」

通常の無尽は、毎回参加した全会員が一定の金を拠出して資金を集め、その回の参加者のひとりがその全資金を受領することを繰り返す。各会員は全期間の内の1回は必ず資金を受領することで、会員間の公平性を担保している。この形態の場合には、資金の受領が一巡した時点で一旦終了となる。また、「無尽」という名のもとに積み立てた金額で会員同士旅行に行ったり(旅行無尽)、誰も資金を取らずに積み立てておき、一定期間後に積立金を全額会員に払い戻す(積立無尽)こともある。無尽は、鎌倉時代に登場したといわれる。庶民の相互扶助として始まったものだと考えられる。江戸時代になると、地域に問わず大衆的な金融手段として確立し、大規模化していく講(無尽講・頼母子講)も存在するようになった。

(この項、「Wikipedia」参照)

「井戸無尽」は、会員が積み立ててお金が貯まったら井戸を掘る資金にするという方式か?

「上之町」。火の見櫓。

               

宿内を振り返る。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その3。「白井宿その3」。白井町の道しるべ。土蔵造り。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-26 18:45:58 | 利根川を歩く

                          マンホールの絵柄。

                   「大井戸」。

名の通り、町並みの8ヶ所の井戸の中で一番大きい井戸で、多くの来訪者も利用している。明治元年 (1868)頃、頼母子講により掘る。      

中央の流れに沿って桜並木。お花見シーズンには賑わいそう。

かつての屋号が掲げられています。  「萬屋」。 

 種々の商家が軒を連ねていた。 

          「炭屋」。   

下之坂。      

「和泉屋」。

        「白井宿 歴史資料館」になっています(閉館中)。         

北向地蔵尊石堂。

「中之町」(「白井中宿」バス停。)

延命水の井戸。

「白井町の道しるべ」。

                  左は「庚申塔」。

                 

日光・江戸道(南面)、ゑちご・くさ津道(西面)、奴満多道(北面)。

解説板。

城下町白井に通じる「中の坂」を下りきった水路のかたわらに、高さ170センチメートル、幅38センチメートルの道しるべが建っています。道しるべとしては大きく文字も達筆で堂々としています。嘉永2年(1849)の建立です。

  道しるべにしたがって、町を北へ進むと沼田城下へ、中の坂を上がると草津道、南に進めば渡屋(とや)の渡しから八崎を経て、日光道・江戸道に通じています。

  往時の白井町は、三国街道から外れていたものの、かつては白井城の城下町であり、江戸時代には市場町へと変貌(へんぼう)発展し、多くの人々が集まり旅人も通っていました。白井町が地方の核心都市として栄えたことは、現在も残る城下町の景観や町割(まちわり)などで知ることができます。

(この項、「」HPより)

「草津道」。「中之坂」へ。武者返しの石が。

「草津道」は、名湯・「草津温泉」への道。

醤油屋カフェ。

土蔵造りの家並み。

        「薬種」。

特色ある町並み―土蔵造りの家並み―

町の起源は室町時代、白井城の城下町である。沼田へ4里8丁、中之条へ5里、前橋へ4里8丁、渋川へ2里と交通の要衝の利点を活かした市場町への更正は、もっとも当を得た生き残り策といえよう。取り扱われた品名は、馬草・薪・材木をはじめ、麻・繭糸・木綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆のほか、ひな市など時季のものと多岐にわたり、その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたという。

元禄13(1700)年時点で酒造りが5軒あった。主に露天商であるが、経済の発展とともに大通りに面した家並みが構成され、他村では宿と呼ぶ者もいたほど賑わったが、3度にわたる(江戸中期・文久2・明治31)大火で家並みの大半が焼失し、武者返しの遺構もほとんどなくなってしまった。

いまの町並みの中で、土蔵造りの家並みが残っているのは豊嶋屋と薬種屋の2軒である。豊嶋屋は江戸時代を通しての豪商で、24文の私鋳銭を通用させていた。酒造・質屋も営み、幕末時には生糸で横浜貿易にも参画している。また打ちこわしにも遭い、梲(うだつ)付き長屋門(延享2・1745年頃建造)も傷められ、その傷跡が今も残っている。 天保8(1837)年建造の3階建て土蔵は現存し、薬種屋の土蔵も豊嶋屋の長屋門と同じ頃のものと思われ、市の日には土蔵の下屋の真ん中の戸を開けて補気竜勢円などの家伝薬を販売した。      

上之町の井戸。

白井町の町並みでは中ほどの位置で、明治2年(1869)頃、水不足解消のため、町内寄り合いの結果、井戸無尽の方法で掘り、今でも使用している。

このように各所にある井戸は今も現役で、つるべをたぐる太い綱も真っ白で新品のようです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その2。「白井宿その2」。羅漢水。武者返し。・・・(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-25 20:38:52 | 利根川を歩く

                         「白井宿」には井戸が多くあり、今も現役です。           

 

   

羅漢水

「嫁に行くなら白井はおよし、田なし水なし井戸深し」とまでいわれたように、薬師井・延命水だけでは、寛政頃(1789~)、白井宿内200戸の家並みの飲用水には到底間に合わなかったのである。この窮状を見かねた下之町の叶屋金井氏は、住民のため井戸開せいのことに意を決し、私財を投じ寛政7年(1795)年正月4日、地鎮祭にこぎつけた。位置は家の前庭3・4間程の堰の傍らで、2月1日当主故弥次右衛門妻貞光尼が第一の鍬を下ろした。12日、4丈程のところで、横に2寸許りの穴が開き、赤蛙が這い出してきた。7尺掘りうまい清泉が出てきた。竣工は3月6日。日数36日、人夫延べ475人がかり、井戸の深さ4丈7尺、水深9尺であった。これより先、2月14日、先霊と井戸の成功を祈るため、十六羅漢の供養を行った。更に、赤蛙の這い出したことは誠に珍事であり、瑞祥であると、「羅漢水」と命名された。翌寛政8年春1月、雙林寺第37世玉州大泉和尚が「羅漢井記」を後世にと記す。寛政11年3月、「羅漢井記」を刻んだ法華経供養塔を下之町が施主となって建立し、盛大に法要が営まれた。塔の高さ345センチ、幅90センチである。

※「1丈」約3メートル。「1尺」約30センチ。

    叶屋。

「叶屋蔵」。

「下之町」。宿内は、南から北へ、下・中・上町と連なっています。

解説板。

特色のある町並み ―武者返し―

白井町は沼田街道西通りに位置する在郷町である。農業の仕事の合間に開く50の六斎市を最高の収入源としていたが、経済界の発達から、商家などが旅客や市への来訪者、定住民の需要に応じて、大通りのある特色ある市場町の景観が作り上げられていた。

通りに面している家は、間口が狭く、奥行きが長い短冊型である。間口(地割)は3間幅から始まって、5間幅~7間幅が最も多い。間口の広いのは植木(植田)の豊嶋屋・金井の叶屋・宮下の和泉屋などであった。奥行きは東側が長く東遠構(ひがしとうがまえ)まで、西側は城郭の防御の構えを持った小丘に制限されてやや短い。

真ん中に堰があったが、これは雨水などの排水溝の役目をしたもので、これも白井町の特色である。

現在の群馬用水が流れる白井堰・町並み整備がなされた当初は、代官の命により、その支配統治の必要から、通りから家屋を斜めにずらして建て、小溝の縁に立て石で細長い三角形の空き地、いわゆる武者返しが全町に亘って整備されていた。長い年月の間に次第に消滅し、現在、下之町から宮本町にかけて、カーブのある位置にこの区画の残影を見ることができる。

※「武者返し」=武家屋敷で、表長屋外溝の縁に一歩置きに立てた石

※「群馬用水」

            

        (「群馬用水管理事務所」HPより)

     

                   (「今昔マップ」より)

                                                                           1970年代のようす。田畑に囲まれた集落。解説板のような家並みが残っている。

   左に折れて高台の方へ。

石段の上に祠が。

「神明宮」。

白井西方のこの地域が、白井の伊勢神領で明蔵院裏で白井城外堀の土居に当たる所に鎮座している。元禄の頃の除地は下畑4畝4歩で、別当は明蔵院住職が兼ねていた。・・・この下の町を宮本町ともいう。

そこから宿内を望む。                                                                           

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR渋川駅~津久田駅。その1。「利根川自転車道」。「白井宿その1」。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-24 19:43:16 | 利根川を歩く

               「若鮎橋」からスタート。正面奥に「子持山」。

この先、「子持山」が目立つ歩きとなります。

最寄り駅はJR。前回からJR上越線が頼りの「利根川」歩き。今回は、「白井宿」に立ち寄っため、距離はかせげません。

快晴ですが、「上州空っ風」が冷たく感じます。

「大正橋」。

ちょっぴり赤城山が。

「利根川自転車道」は、この先、左手の「吾妻(あがつま)川」沿いに進み、「吾妻川公園」で終点(起点)となります。

       

久喜市栗橋からここまでほぼ「利根川自転車道」(67.7km)を歩いてきましたが、ここでお別れ。

 

      「吾妻川公園」(「Wikipedia」より。

         流れは「利根川」ではなく、「吾妻川」。

「上越線」をくぐるため、「国道17号線」へ。さらに右折して、利根川に向かい、「吾妻川」に架かる「落合橋」へ。

「落合橋」から。

「吾妻川」と「利根川」との合流地点。

「吾妻新橋」(「国道17号線鯉沢バイパス」)。

「吾妻川」。

                         「榛名山」。

「上越線鉄橋」方向。

この装置は? 「Wikipedia」で上空から見ると、船の形をしている。

         周囲を厳重に金網で囲んでいる。

「国道17号線」に戻ります。

遠くに「子持山」。

「白井下宿」交差点。ここを左折。

案内板。

その手前のおうち。ピラカンサが見事。

白井宿」。常夜燈。

中世、子持村白井には白井長尾氏の居城白井城があり、近世初頭には本多・戸田・西尾・本多などが入った白井藩が置かれたが、寛永元年(1624)廃藩となり以後幕府領に組み込まれた。
江戸時代子持村の南部・西部を三国街道が通り、北牧・横堀は宿として、又白井は六斎市の立つ市場町として栄えていた。
白井は利根・吾妻郡地方と中毛地方の物資交流地で、利根川左岸への渡河点でもあり、白井藩廃藩後の寛永元年(1624)以後5日・10日を市日とする六斎市が立てられた。白井は道路中央に悪水処理の排水路があり、この水路に沿って共同井戸があった。
寛永11年(1634)の名寄帳によると、西町・東町と大ざっぱに区画され、その後新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。南北路の道幅は、北端で8.7メートル、南端で8.3メートル、中央の最高幅員は20.15メートル。真ん中に悪水を処理した溝があり、町の長さは945メートルであった。
町の地割りは南北の主要道を挟んで,道路に直角に短冊形に設定されていて、東側は長く、西側は城郭の役目をした段丘に制約されて短い。地割りは3間幅から最高36間幅まであり、5間幅・6間幅・7間幅が最も多い。
利根川の河岸段丘にある為、地下水は低く飲料水の確保には苦労を極めた。
元禄13年(1700)の村明細帳では、火山灰土で水田に向いてないため全て畑であった。同年の家数は150・人数749。安政6年(1859)横浜開港以後は繭・生糸の生産が活発になり、活発に取引が行われた。
前述のように白井は宿場町でないのに、白井宿と呼ばれている。寛永元年(1624)の廃城後は城下町から市場町になったのだが、町並の形態は宿場町そのもので、街道の真ん中に宿場町特有の用水路まであったためだろうか。
町並は明治31年の大火後に建てられた家屋が多く、古い家屋は少ないが、道路中央に流れる用水路が当時の町並を彷彿とさせているようだ。そんな中で一部であるが土蔵造りの家屋も残り、共同井戸や路傍の石造物など、昔の佇まいを今に残していた。
町並み指数  40
参考文献
群馬県の歴史散歩  山川出版社  群馬県高等学校教育研究会  1998年
角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63
群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年

(「」HPより)

※「六斎市」(ろくさいいち)

六斎日は1か月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した。

六斎日にちなんで月に6回行われる定期市を「六斎市」(ろくさいいち)と呼ぶようになった。室町時代ころから行われるようになったといわれ、月に3回行われるものは「三斎市」(さんさいいち)と称される。六斎市が行われる日は、例えば2と8が付く日(2日・12日・22日と8日・18日・28日)など定期的な日に行われた。

応仁の乱後は六斎市が一般化され、当時の荘官や農民たちは、これらの市で農産物を売却して、貨幣を入手した。これにより、それまで年貢として領主におさめられていた農産物の多くが商人の手に渡り、商品として流通するようになった。

(この項、「Wikipedia」より)

さて、これからじっくりと見学です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その6。関東電化工業 渋川工場。「若鮎橋」。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-21 17:55:01 | 利根川を歩く

今回の目的地は、JR渋川駅。ここからはそう時間はかからないはず。

左は、「関東電化工業 渋川工場」の広大な敷地。

独創的な技術開発力を強みに関東電化工業は、基礎化学品メーカーとして産業社会に有用なさまざまな化学製品を提供してきました。そのフィールドは多彩な分野へと広がり、現在では、環境・エネルギー/電子・情報通信/ライフサイエンス・ヘルスケアの3分野で大きく成長、発展を遂げています。なかでも精密化学品部門は著しい躍進を遂げ、フッ素化学では世界のトップシェアを誇る製品も提供しています。
今後も「創業的開発型企業」を目指し、当社の製品を世界へ発信していきます。(同社HPより)

※「渋川工場」が初めに操業されたようです。

河川敷は、「大崎緑地公園」。

利根川の流れに近づこうとしましたが、「立入禁止」。

木々越しの利根川。

「平沢川」に架かる「若鮎橋」。正面は、「子持山」。

ここから左折して渋川駅に向かいます。

利根川ともここまで。

前橋以来の「国道17号線」。

国道を右折して駅方向へ。ところが、駅への道を過ぎて遠回りに。

榛名山」が遠くに。

渋川駅は、西側に改札口があります。さすが「榛名山」・「伊香保温泉」の最寄り駅です。

やむをえず、駐車場を横切って跨線橋に。

思いがけず廃線跡。

           

                                                                          2010年代のようす。右が利根川、左が吾妻川。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その5。東京電力リニューアブルパワー 佐久発電所。関越道。中村の浅間石。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-19 19:44:48 | 利根川を歩く

                  遠く正面に見える山は「子持山」。

「日本カーリット 群馬工場」沿いの道に。

1934年当社のカーリット爆薬の原料工場として、利根川のほとりに設立され、その後、電炉製品・製品・農薬・プラント分野へ発展を遂げ、研究開発センターと密接な関係を保ちながら、工業薬品、農薬薬品、電子材料、研削材の製造を行っています。(同社HPより)

利根川の流れ。 

「東京電力リニューアブルパワー 佐久発電所」。

  高い筒状の建物は、「サージタンク」。   

※「サージタンク」

ダム水力発電所ため池に接続される用水路の末端に設けられる大型のタンクである。サージドラム (surge drum) と呼ばれることもある。水圧鉄管。

容量に余裕を持たせたサージタンクの中に一定量の液体を満たしておき、取水施設の何らかの異常によって急激に流量が増えた際や、発電機側のタービンが急停止した際、また、逆に流量が減少した際などに、水力を動力源とするシステムに急激な水圧変化(水撃作用)による悪影響を与えることを避ける効果がある。急激に流量が増えた場合にはサージタンクに水を導き、発電機などに過負荷が掛かることが防止できる。逆に取水量が減少した際にはサージタンク内の水で補うことで発電機の回転数の低下を予防できる。(「Wikipedia」より)

東京電力リニューアブルパワー 佐久発電所

浅野セメント創業者、浅野総一郎氏により開設された発電所で、その名を奥さんの名前「作」さんの雅号「佐久」から採っており発電所名の由来が非常に珍しい発電所。日本で初めて差動型(差動式)サージタンクが設置された。当時世界一の高さのサージタンクであり、建替えられた現在でも御当地のランドマークになっている。

利根川吾妻川の双方から取水している。利根川では沼田市岩本の綾戸ダムで取水し、渋川市北橘町真壁にある真壁調整池へ一度貯められ、水圧鉄管を通ってサージタンクに導き、山頂から3本の水圧管路に別れて山腹を下って発電所に至る。吾妻川から取水された水は、金井発電所・渋川発電所を通り、利根川と吾妻川合流地点付近でサイフォンを用いて吾妻川・利根川を渡り、水路を経て佐久発電所へ至る。

利根川の水は1号機から3号機までの発電機フランシス水車で駆動し、吾妻川の水にて4号機の発電機をプロペラ水車で駆動している。発電を終えた水は広瀬桃木用水として放流され、群馬県企画局の各発電所にて再利用されたのちに広瀬川として再度利根川と合流する。

歴史

1925年(大正14年)に浅野財閥関東水力電気により建設が開始され、1928年(昭和3年)に完成。1938年(昭和13年)には吾妻川からの取水を利用した発電も開始された。関東水力電気の創設者である浅野総一郎の妻「作」の雅号「佐久」を取って佐久発電所と命名された。建設時は東洋一の発電所とも言われ、首都圏への送電の他、利根川対岸には後に浅野総一郎によって建設される浅野カーリット(現在の日本カーリット)、同じく対岸に建設された関東電気精錬(現在の大同特殊鋼) 、関東電化工業への送電も行われた。

関東水力電気から日本発送電東京電力を経て東京電力リニューアブルパワーに所属しているが、地元では関東水力電気の略称である「関水」(かんすい)がいまだに佐久発電所の別名として使われている。取水堰となる綾戸ダム近郊のバス停にも関水の名前が残る。なお、法人としての関東水力電気は1942年に関連会社と合併し、最終的には日本カーリットに吸収されている。

1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)にかけてサージタンクや発電施設の大規模改修が行われた。改修前のサージタンクはジョンソン作動型と呼ばれ、繭型のタンクを柱で支える独特の形状であった。今日見られる円筒形のサージタンクは二代目のものである。

(この項、「wikipedia」参照)

「関越自動車道」をくぐります。

       

左手に「榛名山」。

河川敷には「中村緑地公園」、「大崎緑地公園」と続きます。

土手下、「渋川市武道館」駐車場脇に。

        

解説板。

この浅間石は、天明3年(1783)の浅間山大噴火に伴い発生した泥流(浅間押し)により吾妻川・利根川を経由し、この地に流れ着いたものである。

当時の中村は低地に67軒の集落があったが、この泥流で24人が流死し、約51万平方メートルの田畑を失った。その後、昭和7・8年の土地整理で約30万平方メートルの田を再生し、現在に至っている。

なお、この浅間石は関越自動車道渋川・伊香保インターチェンジ付近にあったものを、この地に移築復元したものである。

学名 両輝石安山岩 大きさ 東西11m・南北11m 周囲32.4m

天明3年(1783年)浅間山噴火

 天明3年(1783年)、4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続けていた浅間山は、7月8日(旧暦)に大噴火を起こしました。このとき発生した火砕流に嬬恋村(旧鎌原村)では一村152戸が飲み込まれて483名が死亡したほか、群馬県下で1,400名を超す犠牲者を出しました。
 天明3年の浅間山噴火は直後に吾妻川水害を発生させ、さらには3年後の天明6年に利根川流域全体に洪水を引き起こしました。
 この浅間山噴火による利根川の河床上昇は各地での水害激化の要因となり、利根川治水に重要な影響を及ぼすことになりました。

天明3年の浅間山噴火を描いた「夜分大焼之図」天明3年の浅間山噴火を描いた「夜分大焼之図」

 浅間山の噴火により大量の溶岩と火山灰が噴出し、溶岩流は北側の吾妻川流域へ火砕流となり山腹を流下しました。流下した溶岩は三派に分かれ、一派は東方の分去り茶屋に、もう一派は西方の大笹方面に、残りの一派は他の二派の中央を真直ぐ北流しました。流下した溶岩は、大きな火砕流となって山腹を走り、分去り茶屋に向かったものは、小熊沢川と赤川に流れ込み、旧小宿村・常林寺を経て芦生田集落を埋没させました。また、大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込みました。そして中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃し一村を壊滅させた上で、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下しました。この中央に流下した火砕流が最大のもので、「鎌原火砕流」と呼ばれ、その流下量は1億立方メートルとも推定されています。
 浅間山噴火による火砕流の流下により旧鎌原村では一村約100戸が呑まれ、483名が死亡したほか、長野原210名、川島128名、南牧104名など多くの犠牲者を出しました。
 また、浅間山噴火は大量の火山灰を広範囲に堆積させました。火山灰は主に東流し、遠くは江戸、銚子にまで達し、特に碓氷峠から倉賀野、新町の間は田畑全て降灰し、その形状すら判別できない状況であったといいます。各地の被害を合わせると、降灰の重みだけで70軒が潰れ、65軒が大破しました。ほぼ関東一円に堆積した火山灰は、農作物の生育にも影響を及ぼし、既に始まっていた天明の大飢饉に拍車をかけ、天明飢饉の進行に決定的役割を持つこととなりました。また、大量に堆積した火山灰は、利根川本川に大量の土砂を流出させた天明3年の水害とともに、天明6年の水害といった二次、三次被害を引き起こす要因ともなりました。
参考文献:「利根川の直轄砂防50年のあゆみ」、「群馬の砂防」

(この項、「」HPより)

※北斜面を流れ下った溶岩流が「鬼押出溶岩」。「鬼押出し園」に行ったことがありますが、自然の驚異がつくり出した奇景で、迫力がありました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その4。坂東橋。坂東大堰。八ッ場あしたの会。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-18 19:53:48 | 利根川を歩く

             

「滝沢川」、「午王川」と「利根川」に流入する流れを越します。左手は「渋川市民プール」。

「午王川」。

その先は「坂東橋緑地公園」。

左手は「渋川家畜市場」。

「渋川サイクリングロード」案内図。ちょっと古い頃のもので、薄れていて判読不能。

○が「利根川自転車道」終点。

「坂東橋」。        

                     橋の下流に「坂東大堰」。

 

・・・最初に見学した坂東大堰は、八ッ場ダムを建設中の吾妻川が利根川に合流する地点より4キロ余り下流にあります。坂東大堰の上には坂東橋がかかっています。

 1951(昭和26)年に完成した現在の坂東大堰と魚道は、老朽化したため現在、大規模な保全対策工事が行われています。
 坂東大堰は群馬県が建設し、保全対策工事も県が行っていますが、管理は坂東大堰から農業用水を取水している土地改良区が行っているということです。

坂東大堰 坂東大堰の魚道は、取水口と同じ左岸側にあり、坂東橋から階段式の魚道を見下ろすことができました。
 案内してくれた群馬県蚕糸園芸課水産係の方の説明によれば、ここまで遡上してくる主な魚はサケ、サクラマス、鮎だということです。
 魚の生態に詳しい参加者らからは、魚にとっては左岸側の魚道だけでは遡上に支障があるので、できれば右岸側にも魚道をつくってほしいという声がありました。
 この日は10月の台風の影響がまだ続いており、例年より利根川の水量は多くなっていました。
 
坂東大堰合口 (3) 坂東橋の下に坂東大堰合口が見えます。
 この取水口は、下流の群馬県前橋市、高崎市、伊勢崎市、玉村町の田んぼを潤す広桃用水と天狗岩用水へ繋がっていて、水力発電を行っている東京電力の佐久発電所(群馬県渋川市)の放流水の不足分を取水します。
 現在、坂東大堰は修理中のため、取水を行っていないということですが、普段はここから取水した水が利根川左岸では広桃用水(利根川左岸)、右岸では天狗岩用水として利用されています。手前の川面に沢山の水鳥がいました。取水口は左岸側にあるため、天狗岩用水へは利根川横断暗渠で繋がっています。

(この項、「」HPより)

※「八ッ場あしたの会」

八ッ場あしたの会は、2006年10月、八ッ場ダムを考える会会員有志らによる東京でのコンサート「加藤登紀子と仲間たちが唄う 八ッ場いのちの輝き」を出発点として、2007年1月発足しました。

活動目的

(1)2006年10月のコンサート「八ッ場いのちの輝き」を主催した「八ッ場といのちの共生を考える実行委員会」の活動を継承し、八ッ場ダム計画の見直しを視野に入れて、ダム事業の現状と課題を一人でも多くの人に知らせ、「八ッ場の良きあした」を考える人々の輪を広げる。

(2)半世紀前より水没予定地とされてきた「八ッ場」と周辺地域の苦悩に深く共感し、地元を尊重しながら八ッ場に持続可能な暮らしを取り戻す支援活動を粘り強くすすめる。

(3)「八ッ場」同様、巨大開発によって疲弊と破壊と絶望のなかにある日本全国の地域が活気を取り戻すための多様な知恵を集める。

(「同」HPより)

なお、「八ッ場ダム」は1935(昭和10)年に「国の名勝」に指定された吾妻峡に建設された。
2015年1月に始まった本体工事は、自然林に覆われた両岸の山と河床を掘削後、2016年10月よりダム堤体のコンクリート打設を開始。2019年6月に打設を完了し、10月から開始した試験湛水を終え、2020年3月に完成、2020年4月より運用を開始している。

(「Wikipedia」より)

         

  上流は一段と緑が濃く。 

        

下流方向。

上述の「坂東大堰合口」。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その3。上毛大橋。吉岡ケイマンゴルフ場。道の駅よしおか温泉。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-17 18:20:02 | 利根川を歩く

「上毛大橋」。

1999年(平成11年)3月に。右岸側(吉岡町側)より左岸側(前橋市側)のほうが標高が低いため、右岸側から左岸側にかけて3.7 %の下り勾配になっている。周辺に群馬県総合スポーツセンター敷島公園などの施設があるため交通量も多い。また、眺望が良く初日の出観賞スポットとしても人気。(「Wikipedia」より)

その脇に、乗馬クラブ「ふれあい牧場 リトルファーム」。

          

前方が明るく開けてきます。

                   「↑ 道の駅 よしおか温泉・坂東橋」。

紫色の花が一面に。

左手に「榛名山」。

       

    「吉岡ケイマンゴルフ場」・吉岡町緑地運動公園」。公営のゴルフ場。

「ケイマンゴルフやパークゴルフ、グラウンドゴルフの3種類のゴルフが楽しめます。ケイマンゴルフとパークゴルフについては道具の貸し出しが可能で気軽に挑戦できます。また、パークゴルフについては全国公認の大会会場として認定され(2018年)ました。ゴルフといえば紳士のたしなみですが、家族でコースを回ることもできます。家族旅行のメニューの一つにしてみてはいかがでしょうか。」

※「ケイマンボール」=内部に発泡性の合成樹脂を使用したもので、普通のゴルフボールと比較して重量は半分であり、飛距離も半分となるよう設計されている。

※「グラウンドゴルフ」=専用の木製スティックでボール(直径6センチ)を転がして、決められたホールポストにできるだけ少ない打数で入れていく。

※「パークゴルフ」=1983年、「公園で幅広い年代の人ができるスポーツ」として、北海道十勝管内幕別町で考案される。ルールは、ほぼゴルフと同じ。

「新坂東橋」。奥は、「赤城山」。

            国道17号線「前橋渋川バイパス」の橋。

左手にある「道の駅 よしおか温泉」へ到着。

ここで昼食休憩。車も多く、けっこうな人出。足湯につかっている人、くつろいでいる人。

「観光マップ」。

「新坂東橋」。

利根川の上でカーブしています。

さて再開。写真を撮り忘れて。

1880年代のようす。利根川の流路が入り組んでいます。

2010年代のようす。カーブする橋が「新坂東橋」。右が前橋方面、左が渋川方面。

河川敷にはゴルフ場が続きます。家族連れやお年寄りが楽しんでいます。

        

左手が開け、「榛名山」が視界一面に。中央を横切る道路は「国道17号線」。

       「伊香保温泉」は山の向こう側。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その2。勝山城跡。天狗岩用水。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-16 22:15:43 | 利根川を歩く

                          遠くに見える橋は、「上毛大橋」。

「勝山城跡」。

この城は、赤松氏の居城(砦)で、1371年(応安4年)に築城されたと伝えられている。1427年(応永34年)赤松能亮の時、姓を関口と改姓したという。1525年(大永5年)関東管領の上杉氏・長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年(永禄9年)長野氏箕輪城落城後、武田勢の攻略により落城し、廃城となった。

勝山城は、元景寺の北西に位置し、総曲輪は約4㎞にわたる縄張りを持っていた。廃城後、北条氏康の領有するところとなり、この地(上野郷や高井郷)が瀬下豊後守にあてがわれた。1607年(慶長12年)総社領主秋元長朝によって総社城の一部に取り入れられたが、勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川に崩落した。

                                                                     

1880年代のようす。自然堤防が複雑に。              2010年代のようす。流路変更されている。

この先で、自転車道は利根川を離れて「天狗岩用水」沿いの道となります。

 

         

「水天宮石祠」。

天狗岩用水に沿って造立されたこの石祠は、水の守護神である水天宮である。稲作農民にとって水は命であった。水神は八大竜王や弁才天である。水禍の災難を除くために造立された水の神とも考えられる。

天保14年(1843)8月、植野村立石の発願主榎田庄五郎外11名の講中の名が刻まれている。天保の飢饉から用水の恩恵に感謝し水天宮を造立、信仰を深めた歴史の証しである。

秋元長朝と天狗岩用水

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの翌年、総社藩主となった秋元長朝は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。
長朝は総社藩の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井藩に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。
そこで、白井藩主の本多氏の許しを得るために、高崎藩主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井藩につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。
知行高が6千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、3年間年貢を取り立てないことにして、慶長7年(1602年)の春に用水工事に取りかかりました。
工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。
長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々に言いました。
「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」
人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。
この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。
長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、3年の年月をかけて慶長9年(1604年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社藩は6千石から1万石の豊かな土地になりました。
秋元氏は長朝の子である泰朝のときに、甲州谷村(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社藩の領民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長9年より172年後の安永5年(1776年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力めて愛を遺せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕(した)っていたかを示すものといえましょう。
封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

(この項、「」HPより)

江戸時代には「植野天狗岩堰」と言いましたが、明治15年に「天狗岩水利土木会」ができてからは、「天狗岩堰」
という呼び方になりました。現在は、利根川坂東大堰取水合口から八幡川との合流地点までを「天狗岩用水」と呼び、
それより下流の烏川への落水口までを「滝川」と呼んでいます。明治25年には「天狗岩堰普通水利組合」が設立され
昭和24年の土地改良法の制定に伴い、昭和27年に天狗岩堰土地改良区に組織変更されました。その間、カスリン台
風やアイオン台風、キティ台風など数多くの台風による被害を受けながらも、整備・改修を施し現在に至っています。

(この項、「」HPより)  

       

 「総社緑地」付近からの利根川。

対岸は、ゴルフ場。

暗渠になっているところも。

けっこう流れは急です。

                                          1880年代のようす。掘割が「天狗岩用水」。

        まだまだ下方に続き、田畑を潤した。

                                          2010年代のようす。林の中の水路。

            上は「上毛大橋」。  

                                     上越線付近。    

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR新前橋駅~渋川駅。その1。中央大橋。大渡橋。萩原朔太郎詩碑。(「利根川を歩く。第7回目。)

2021-11-15 18:46:35 | 利根川を歩く

「新前橋」駅下車。徒歩で「利根川」河畔に。対岸は、「群馬県庁」の高層ビル。

下流には「群馬大橋」。

グランドを眼下に見て進む。

                       正面の橋は、「中央大橋」。

対岸は、「ヤマダグリーンドーム前橋」。

「中央大橋」。 

前橋公園の中から架橋されており、競輪が開催されるグリーンドーム前橋への利用者の利便のため、橋と下の道路を結ぶ歩道が付けられている。また、大手町側の樹齢約100年のケヤキ並木を、当時の群馬県知事神田坤六「市内の自然景観を保護してほしい」と陳述し、知事公舎の用地を削る形で取り付け道路が付けられたため、橋が途中でカーブしている。(「Wikipedia」より)

木々の間からの利根川。

木洩れ陽の下を進む。歩く人、多し。

明るい日差しの道へ。

見上げると、赤紫の実を付けた木。何という名の木?

    

大渡橋」。背後は赤城山。

「大渡緑地 河川敷グラウンド」。

大渡橋(おおわたりはし)

群馬県前橋市総社町総社と同岩神町の間の利根川に架かる群馬県道6号前橋箕郷線の橋で、日本百名橋に選ばれた。 今日の橋は3代目にあたり、左岸側には萩原朔太郎の詩碑、右岸側には緑地がある。(「Wikipedia」より)

大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より ちよくとして前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
 
ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干らんかんにすがりて齒を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
 
(萩原朔太郎『純情小曲集』より)

左手に「大渡自動車学校」。

高台(河岸段丘)の住宅。 

対岸は、「正田醤油スタジアム群馬」。

      釣り人の姿が。

                     2010年代のようす。「大渡橋」付近。

                     1880年代のようす。橋はない。      

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR高崎駅~前橋駅。その7。交水堰。比刀根橋。前橋空襲追悼碑。詩碑。・・・(「利根川を歩く。第6回目。)

2021-11-14 21:52:13 | 利根川を歩く

「記念館」を出て、「広瀬川」を上流に向かって歩きます。早瀬になっています。

「交水堰」。

広瀬川のこの辺りは、江戸時代に水運のための『広瀬河岸』があったところで、のちに水利の『十五本堰』が設けられました。

製糸業が大発展した明治時代には、水車や工業用水に利用され、大正時代に入って現在の形に改修されこの名で呼ばれました。「糸のまち」の王子をしのばせるこの堰は、今わたしたちのまち前橋を代表する魅力的景観のひとつとして親しまれております。

    

「弁天通り商店街」アーケード。

広瀬川に架かる「比刀根橋」。

比刀根橋の舗道の縁石には、今も昭和20(1945)年8月5日の「前橋空襲」の傷が遺されているそうです。

8月5日は前橋空襲の日です。前橋のまちは破壊と殺戮を出発点として出来上がっているんです - 猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日 (goo.ne.jp)

さんが先日、当ブログを訪問され、初めて知りました。この橋のそばに慰霊碑がある、とのこと。以下、ブログの一部を借用されていただきます。

・・・

広瀬川の比刀根橋の袂にある前橋空襲戦没者慰霊碑です。今日の午前9時からここで前橋空襲で犠牲になった皆さんの慰霊祭が開かれます。
そうなんです、1945年8月5日の夜の、このまちは米軍の大規模な空襲に見舞われたんです。72年前のことなんです。
この慰霊碑のある場所には、地域住民が共同で使う大規模な防空壕がつくられていました。そして、空襲時にそこに逃げ込んだほとんどの住民が死んでしまったのです。

比刀根橋の舗道の縁石には、今も空襲の傷が遺されています。

当時を知る人の話では、米軍の爆撃部隊は前橋上空に到達すると、円を描くように編隊飛行をし、照明弾を投下したそうです。前橋のまちは、真昼間のような明るさになったと言われています。

それから、焼夷弾の投下がはじまったそうです。
空襲のときにはまだ渋川のまちで暮らしていた青井食堂のおかみさんの話では、「八幡山の上から見てたんよ、前橋の空が真っ赤になって、燃え上がっているのを…」、渋川からも見えたんですね。
比刀根橋に近い愛宕神社の境内には、比刀根橋の回収の時に取り除かれた縁石の一部が保存されています。空襲の傷跡が残っているんです。
このお社の西隣に『柳座』という劇場があったんです。ここで直派若柳流美登利会は始まりました。伯母さんの初舞台もこの劇場なんです。

・・・

※小生が偶然撮った「比刀根橋」。写真からは確認することはできませんでした。中央左側の縁石にあるようです。

前橋空襲追悼碑。

比刀根橋北側(旧「比刀根橋防空壕」跡地) 建立:前橋市戦災被爆者遺族会

(この項、「」HPより)

前橋駅に向かいます。詩碑をいくつか紹介。

 

河畔の歩道が工事中のため、掘り返されたり、煉瓦が積まれたり、・・・。

             

朔太郎の詩句が刻まれた煉瓦も整備中。

 

            

「絹の橋」。

     

前橋は、江戸時代から「糸のまち」として発展し、横浜開港後は「前橋シルク」の産地として世界にその名を轟かせた。この広瀬川添いにも製糸工場が立ち並び、多くの女工さんたちが働き、この橋を渡って町でくつろいだ。「糸のまち前橋」が彷彿としてしのばれる大切な橋である。

この橋は、明治年間に木橋として架設された。その後、大正年間にコンクリートによる改修が行われ、この度日本で初めての「世界詩人会議」が当地前橋市で開催されるにあたり、装飾をほどこした改修工事を行い、それまで無名であったものを「絹の橋」と命名してその歴史を後世に伝えるものである。

両毛線・前橋駅。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR高崎駅~前橋駅。その6。萩原朔太郎記念館。書斎、離れ座敷、土蔵。犬、猫。・・・(「利根川を歩く。第6回目。)

2021-11-13 20:47:00 | 利根川を歩く

                  「萩原朔太郎記念館」。

萩原朔太郎(1886~1942)は、1886(明治19)年に前橋で生まれ、38歳までこの地で過ごしました。1917(大正6)年刊行の第一詩集『月の吼える』と、1923(大正12)年刊行の詩集『青猫』によって日本近代詩史に不滅の金字塔を打ち立てました。

詩人の生家は、1968(昭和43)年まで前橋市千代田町2丁目にありました。往時の姿は左図に示したとおりですが、現在はポケットパークを残すのみとなっています。

生家の一部だった「土蔵」「離れ座敷」「書斎」を敷島ばら園内に移築復元し、1980(昭和55)年より「萩原朔太郎記念館」として長く保存公開していましたが、敷島公園からこの地に移築し、2017(平成29)年4月より同じく「萩原朔太郎記念館」として公開しています。

広瀬川を挟んで向かいに位置する前橋文学館の展示とともに、詩人の息遣いを感じ取っていただけたら幸いです。

※生家は「萩原医院」として、広大な敷地内に診察室や病室などがありました。

書斎。

生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、1913(大正2)年10月に工事を始め、約2ヶ月を要して完成しました。内部はすべてセセッション式に統一され、二重カーテンレール荷は東京三越から取り寄せたカーテンが吊り下げていました。特注品の机と椅子には朔太郎が考案した草花模様の衣装が施されています。『月に吠える』『青猫』などの作品はこの部屋で主に書かれたものです。また、マンドリンの演奏などにも使われ、書斎兼音楽室として使われていました。室生犀星や北原白秋と親しく語り合ったのもこの部屋でした。

 

屋根に猫のオブジェ。

書斎の屋根の上に設置してある猫のオブジェは前橋市出身の陶作家、林麻衣子さんの制作によるものです。左側は「悩ましい夜」、右側は「糸のような三日月」と名づけられ、猫の胸部、尾部には萩原朔太郎の詩「猫」のフレーズが彫られています。

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

       「離れ座敷」。

母屋と接続する渡り廊下で結ばれ、萩原家の客間として用いられていました。朔太郎の父・密蔵が1892(明治25)年に建てたもので、8畳の部屋と床の間、円窓のある水屋から成っています。この部屋からは築山をあしらった立派な庭園が眺められたそうです。北原白秋、若山牧水、室生犀星などが、朔太郎を訪ねた際、この部屋で過ごしたと言われています。

      

離れ座敷の前にある犬のオブジェは、前橋出身の陶作家、林麻衣子さんによって制作(2020年)されました。萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』を犬の形として作品化したもので、表面には詩篇や序文から抜き出した言葉が刻まれています。北原白秋がこの詩集に寄せた序文から採り、「正しく君の悲しい心」と作品タイトルが付きました。

「土蔵」。

・・・1945(昭和20)年8月5日の前橋空襲の際、この土蔵が延焼を食い止めたといいます。ここに保存されていたノート、原稿など数多くの朔太郎資料が今日残ったのも、この土蔵によるところが大きいと言えます。

        内部。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする