おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その1。「明治天皇御野立所」。「仲よし公園」。「千葉都市モノレール」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-01-31 19:52:58 | 房総往還
                     「房総往還」2日目。「京成稲毛」駅から。1月25日(土)。晴れ。
少し上り坂。駅方向を振り返る。

 街道は海岸から離れ、千葉までは台地上を進みます。

1880年代のようす。


2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

 ただし、明治中ごろから旧街道(↓)はJR(旧国鉄)「稲毛」駅から先が次第に失われ、海岸線沿いに新たに「千葉街道」(→)が千葉以南の道路として成立します。
 内陸部は陸軍の軍用地として利用されたり、そのための鉄道が敷設されるるようになったためと思われます。
(「今昔マップ」より)

沿道には、古風で趣のあるおうちも。

しばらく行くと、交差点。その先の三叉路を左に進みます。

 JR線のガードの手前の空き地に、
明治天皇御野立所」碑。
 この地は明治15年(1882)5月、明治天皇が近衛師団(天皇を守る軍隊)対抗演習をご覧になるため、八街市丹尾台(たんのおだい)、千葉市緑区東山科町四谷ヶ原(よつやがはら)に行幸されたときに休息をとられた所です。・・・(以下、そのときの細かな旅程が掲載されています。)

 昭和10年(1935年)に国の史蹟に指定された当時の石碑が残っています。(戦後、史蹟の指定は、取り消されました。)この「御野立所」は八街などこの近辺だけでなく、全国にあるようです。
 説明板の下には大きな切り株が。かつては大木が生えていたようで、当時はうっそうとした森だったようです。

ガードをぬけると、結構賑やかな街並みになります。右手がJR「稲毛駅」東口。

↓が「房総往還」街道。

左手にけっこう広い「仲よし公園」。
                  注:「なかよし公園」とひらがな表記する記事もあり。

 ネーミングは何だかかわいらしいですが、ここは、小仲台5丁目の一帯(園生小、小中台中、県立千葉女子高、仲よし公園など)は、千葉陸軍高射学校の跡地。「仲よし公園」の隅に「開拓の町小仲台」の碑があります。

 その碑文によると、この周辺8万坪は終戦まで「陸軍防空学校」のち「陸軍高射学校」だった。戦後、千葉県に縁故のある引揚者、戦災者用を入居させる公営住宅を450戸を建設した。商店もない焼け野原の地区は治安も悪く、住民は明日の米代にも困っていた。そこで、住民達は自治会を結成、以来今日まで町造りに精魂を打ち込んできた、と。(昭和59年現在)

注:「陸軍防空学校」は1938年(昭和13年)に設立された。

 こうした「美しい町造り」という自治会運動が、現在の小中台町の発展の礎となっているようです。
 

「県立千葉女子高」。千葉県初の女学校「千葉県高等女学校」。

しばらく進み、「園生十字路」交差点を右折。振り返る。

大きなお屋敷。

商店がほとんど見当たらない穴川地区を進む。

しばらく行くと、頭上に「千葉都市モノレール2号線」が通る広い通りに出ます。「天台」駅付近。
 

 この路線は、「東金街道」歩きのときに「都賀」駅~「千城台」駅間で利用しました。

 千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。1988年3月28日に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年3月24日に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年にギネス世界記録に認定されている。
                  
(この項、「Wikipedia」参照)

《路線図》
(「千葉市」公式HPより)

この付近の今昔。
        
        
1880年代のようす。○が合流点。            2010年代のようす。

戦前は、現在の「天台駅」一帯には、「歩兵学校」など軍関係の施設が多くあった。(「今昔マップ」より)
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名鉄線「旧美濃駅」。路面電車。野口五郎。うだつが上がる。美濃和紙。関の孫六。美濃焼。・・・

2020-01-29 18:41:49 | 鉄道遺跡
                      1月26日(日)晴れ。所用ではじめて岐阜県美濃市に出かけました。
 新幹線「岐阜羽島」駅まで迎えに来てもらいました。開業当時は周りには何もなかったこの駅もビジネスホテルなどができて、少しは賑やかな感じ。
 車で約1時間。高速道路ができ、名古屋に行くのにもけっこう便利になった、とのこと。
 美濃市は、日本の中心部または岐阜県の中心部に位置しています。夏の猛暑でも有名。2007年8月16日には最高気温40.0°Cを観測、2018年には7月18日(40.6°C)、8月3日(40.3°C)、8月6日(40.3°C)、8月8日(41.0°C)の計4回、40°C以上の最高気温を観測した。このうち8月8日に観測した41.0°Cは、岐阜県下呂市金山(2018年8月6日)、高知県四万十市江川崎(2013年8月12日)と並んで国内観測史上2番目に高い記録で、岐阜県内の観測史上最高気温でもあった。・・・

 この地はいろいろ見所があるところのようですが、ちょっと帰りの車で寄っただけでした(それも一か所)。

          
美濃町線 旧美濃駅
 名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44年(1911)2月に神田町駅から上有知間を開業しました。
 大正12年(1923)10月に美濃駅が当所に開設されて以来、地域住民をはじめ多くの方々の重要な交通機関として、地域相互の交流・発展に貢献してまいりました。
 しかし、日本経済が急速な発展を遂げるとともに車社会の進展により、平成11年(1999)4月1日には、美濃町線新関駅から美濃駅間が廃線となりました。
 ここに残る旧美濃駅は、美濃町駅から美濃駅間の廃線にあたり、先人が築き上げられた功績を称えるとともに、永く歴史にとどめるものであります。
                                                                美濃市
より詳しく。
登録有形文化財旧名鉄美濃町線美濃駅本屋・プラットホーム及び線路
指定年月日 平成17年2月9日
 旧名鉄美濃駅は、大正12年10月1日に現在地にて開設されたもので、平成11年4月1日の名鉄美濃町線新関-美濃間の廃止により、当時の駅舎、プラットホーム、線路が保存されているものです。
 名鉄美濃町線・岐阜市内線の前身である美濃電気軌道株式会社は明治42年資本金50万円、社長才賀藤吉(大阪電気商)、取締役松久永助・正木三郎四・須田清英(美濃町)他4名で設立されました。明治44年2月1日に神田町(岐阜柳ヶ瀬)-上有知間24.9㎞を開業し、開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。大正12年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
 保存されている駅舎・プラットホーム・線路(カーネギー製、1919年)はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。美濃橋(重要文化財)とともに、大正期の貴重な近代化遺産です。
(この項、「」HPより)

 地元の方々の保存運動、維持などが熱心に取り組まれているようです。
駅舎内。右の電車は段ボール製。

使用車両のパネルが掲示されています。

改札窓口には何やら写真がいっぱい。
「野口五郎」の出身地だそうで、気がつくと、至る所に若い頃の写真などが所狭しと飾られています。

 「西城秀樹」「郷ひろみ」とともに、新御三家の一人として、男性アイドルとして一世を風靡しました。妻はタレントの三井ゆり。子供は一女一男。
芸名は北アルプスにある「野口五郎岳」に由来する。現在では歌手・野口五郎の知名度が高く、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人もいるという。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補となっていた。野口五郎とどちらかを選ぶように言われ「山の名前を芸名にするなら高い山のほうがいい」と考えて、黒部五郎岳 (2840m) よりも高い野口五郎岳 (2924m) にちなんだ野口五郎を選んだという。当初は「水城哲也」という芸名でデビュー予定であった。(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに初代「御三家」は、「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」だったかな?

 すでに齢65歳を過ぎているようです。
 ちなみに、我が家の近所に「野口六郎」商店というのがありました。そこは、更地になり、マンション建設中です。

 旧ホームにはモ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号(前の部分だけ)が保存車輌として展示されています。


                          

 
                          路面電車なのが魅力。地元密着の庶民の足という印象。

車内にも入れます。家族連れが運転席に。楽しく操作しています。

この先が旧線路跡で、道路となっています。

          

 また、うだつの上がる町並み」も観光地として有名なようです。

 ・・・「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
美濃市は、江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っています。
 ・・・
(「ぎふの旅ガイド」https://www.kankou-gifu.jp/ HPより)
ここは、車から横目で眺めただけでしたが。

 岐阜県美濃市は、美濃和紙を基幹として栄えた商人の町です。長良川左岸の小倉山城の築城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核とした「うだつの上がる町並み」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、2014年(平成26年)11月には本美濃紙「日本の手漉き和紙技術」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙とうだつが上がるのどかな町並みを歩いてみませんか?
(「」HPより)

 そう、「美濃紙(和紙)」の町としても有名です。

和紙とは・・歴史が産み、育てた紙
・・・
 日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子で朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。
 明治時代、インクや印刷機、洋紙が流入し、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれることがほとんどです。
 現在、優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への注目が高まっています。江戸時代以降に海外から入って来た、木材パルプを原料とした機械生産による紙を、和紙と区別して言います。ここでは、和紙と用紙との違いを、歴史背景も絡めて紹介します。
 「洋紙は100年、和紙は1000年」という言葉があります。文字通り、和紙と洋紙では紙の耐久性に大きな違いがあります。
木材パルプとインクを使用した洋紙は、多くの薬品を使いほとんどが酸性であるため、100年も経つと黄ばんでボロボロになってしまいます。
 しかし、和紙は天然の植物繊維を、漉くことによって繊維を絡ませることができるため、強靭で保存性に富んでいます。日本で漉かれた紙で最も古いものは、正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の日付のある美濃、筑前、豊前で作られた戸籍に使われたもので、洋紙は、19世紀中ごろに作られた本の3分の1が、今では補修もできないほど劣化してしまっていたといいます。
 見た目の美しさも、大きな違いです。洋紙では白くするために薬品などを使います。和紙の中にも化学薬品を使っていて、時間がたつと黄ばむものがありますが、そうでない和紙は逆に時間とともに光線にあたって白くなる性質があります。和紙は長く大事に使うことによって、時間とともに味わいとすっと手になじむ触感が感じられます。手漉きのため一枚一枚いちまい違った持ち味の和紙は、天然素材で地球に優しく、美しい和紙は、世界からも注目されています。
加工しやすく、強靭であるという点でも違います。洋紙は、低コストで大量生産するために、木材の繊維をすり潰して粉末のようにして使います。
しかし、和紙は繊維をすり潰さず、漉すことでそのまま生かすため、繊維が持つ本来の強靭さを失わず、加工性に富んだものができます。
 和紙は加工用として、雨傘・提灯・行灯・下駄の泥よけ・着物・食器など、私たちの生活と密着な関係にありました。現代では、国内だけでなく世界中で、美術品や文化遺産の補修など、さまざまな用途で和紙が使われています。

「美濃和紙」1300年の歴史
 美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
 和紙の生産に必要なものは、原料である楮、三椏、雁皮がとれること。そして良質の冷たい水が豊富にあることです。美濃は、その二つの条件を満たしており、しかも都にも近かったため、和紙生産地として栄えました。・・・
 民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後でした。
美濃の守護職土岐氏は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開きました。紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなります。
 大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
 そして、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。
こうして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
 明治維新以後も、国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
 しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
・戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。 昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
・・・
「美濃和紙」は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般のことを指します。美濃和紙の中でも、重要無形文化財指定の決まった材料、決まった道具を使って認められた一部の職人が漉いた和紙のみ「本美濃紙」と呼ぶことが出来ます。上品な色合いと、薄くても布のように丈夫で陽の光に透かしたときの優雅な美しさから、本美濃紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきました。
 長い歴史の中で伝統の技を受け継ぎ、本美濃紙は昭和44年に国の重要文化財に指定されました。平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙和紙技術(石州半紙・本美濃紙・細川紙)が登録され、世界的に評価されました。
和紙の原料
楮(こうぞ) クワ科
 現在の主な産地は高知県、茨城県。かつては岐阜県美濃でたくさん取れました。繊維が太く長いため、強い紙が作れます。奉書紙、水墨画用紙、書道用紙などから、和紙人形、工芸品の紙にいたるまで幅広く使われます。
三椏(みつまた) ジンチョウゲ科
 主な産地は四国・中国地方の山地。繊維が短くやや強さをかきますが、表面が滑らかで光沢のある紙ができます。襖(ふすま)紙、印刷用紙などに用いられます。
雁皮(がんぴ) ジンチョウゲ科
 栽培が難しいため山野に自生しているものを使います。細かい繊維で、薄くて強い光沢のある紙ができます。また虫害に強いので保存が必要な紙などに使われます。
トロロアオイ アオイ科
 紙漉きに欠かせないネリ(粘液)として、トロロアオイの根が使われます。くだいた根を水につけると、ドロドロの透明の粘液がとれます。粘液を入れることで、原料が漉槽全体に浮遊するので、漉簀(すきす)の上に汲んだ原料をうまくからませることができます。これにより薄くても強い紙が作れるわけです。・・・
(この項、「」HPより)

 「美濃和紙あかりアート展」(「© 美濃和紙あかりアート展実行委員会」HPより)
 

帰りに、「関」という地名を目にしました。運転してくれた方に、「この関というのは《関の孫六》で有名な日本刀の・・・」「その通りです。」

 鎌倉時代の昔から孫六の息吹が現代によみがえる、日本刀鍛錬。まさに秘伝の妙技。

 関市に刀鍛冶が誕生したのは鎌倉時代。刀祖「元重」がこの関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたといわれています。良質の焼刃土と炉に使う松炭、そして長良川と津保川の良質な水・・・刀鍛冶にとって理想的な風土条件を備えたこの土地にいつしか多くの刀匠が集まりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれた関の刀は、その名を全国に広めていきました。戦国時代には、武将の間で愛用され、無類の切れ味を発揮したといわれています。
 特に「関伝」を有名にしたのは、「関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。兼元(孫六)は、独特の鍛刀法(四方詰め)により頑丈な刀を作ることに成功しました。その後、関市は日本一の名刀の産地として繁栄し、この卓越した伝統技能が現代の刀匠や刃物産業に受け継がれています。そして、今や世界でも有数の刃物の産地として知られています。
(この項、「」HPより)

 「美濃焼」にも触れたいところですが、字数に関係で残念ながら省略。・・・

 岐阜の「高山」にはかつて何回か出かけたことがありましたが、岐阜県は印象の薄い県でした。「美濃」は初めて。まだまだ見所がありそうな、岐阜も奥行きの深いところのようです。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」でご当地は盛り上がっているようです。「美濃国」といえば、斎藤道三。それに仕えたとされるのが明智光秀が、主人公。一時期、女優交代劇で、話題になりましたが・・・。
 次回(2月2日)は「美濃」が舞台のようです。

 また、機会があったら、じっくりと歩いてみたい、と。案内してくれた方に感謝、感謝。
 冬の最中、穏やかな日差しのもとでの一日でした。暑い夏はちょっと遠慮したいですが。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その7。「東関道」。「稲毛海岸潮干狩り」(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-27 20:52:44 | 房総往還
            「東関東自動車道」の下を進みます。目の前が一気に開けてきます。

来た道を(↓)を振り返る。

 この付近の変貌ぶりは著しい。ちなみに航空写真を南にそのままつなげると、
      
       
      
      
      



2010年代のようす。ここで、やっと海面が。        1880年代のようす。すぐ海面に。○が「東関道」との交差付近。

「東京から31㎞」ポスト。

その先で、左の細い道に入ります。旧街道の道となります。

1880年代のようす。↓が旧道。 2010年代のようす。

こんな細い道が旧道? 

小さな川を渡って行くと、旧道らしい雰囲気の道に。

住宅地の中を進みます。

しばらく進むと、県道に突き当たります。そこを左折。

来た道を振り返る。静かな住宅街。

県道の左手は稲毛浅間神社の小高い杜。

      
        
1880年代のようす。神社は海に接した高台に。      2010年代のようす。小山は残っている。 

稲毛園」。お茶と海苔のお店。
 稲毛に根付いて80年ー。
 まちに変わらぬ情熱とこだわりを。
 稲毛園は、1935年(昭和10年)10月1日に初代がこの地に本店を構えて以来80年、ここ千葉・稲毛にてお茶、海苔、お茶菓子などの販売を行っております。
 遠浅の海岸が埋め立てられる前の稲毛は、古くからアサリや海苔の養殖が盛んな漁業の町として栄えた街であり、また夏になると都心からの海水浴や 潮干狩りの客で賑わうリゾート地でもありました。稲毛のまちには今でも歴史的建造物や、有名な方々の別荘だった建物が現存し、まちの所々にその歴史を垣間見ることができます。
 店主が3代目となった今でも、新たな試行錯誤と挑戦を繰り返しながら地域に寄り添い、皆様に親しまれるお茶屋としてご愛顧を頂いております。
  
HPより) 

「京成稲毛」駅。  

「稲毛」というと遠足や家族で潮干狩りで来たことがあります。

 昭和36年 千葉市の稲毛海岸で、潮干狩りに熱中する子供たち(1961年05月撮影) 【時事通信社】(HPより)
 

                   

来たのは、昭和30年代の前半だったと思いますが。

「稲毛海浜公園」。(「千葉市」公式HPより)
ここでの潮干狩りは禁止されています。
「稲毛海浜公園」。

京成線には「京成稲毛」駅の一つ先に「みどり台」駅があります。

 みどり台駅は、1923年(大正12年)2月22日「浜海岸駅」として開業しました。その後、帝大工学部前駅→工学部駅→黒砂駅となり、1971年(昭和46年)10月1日より、現在に至っております。千葉大学が近いことから、学生向けアパートも多く、周辺は学生街としての顔も持っています。駅名と共に発展したこの街が今後どう変遷するか期待感いっぱいです。(「京成電鉄」HPより)

ここも海岸とは遠く離れてしまっています。

かつての駅名「黒砂」の方がなじみ深い印象です。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その6。元は漁師町? 間口二間半。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-24 20:16:02 | 房総往還
                      街道らしい道筋に新旧の建物。
                           

街道沿いには、間口が狭く(二間半ほど)奥行きが長いおうち、敷地が目立ちます。

これまでの旧街道沿いや宿場町にはよく見かけるものです。京都市中にも、そうした典型的な建物が多くありますが。

手造り味噌工房「櫻井麹店」。

こちらは昔ながらのお店。

他の店先には井戸の跡? 

この建物は実に細長い! 
        
でも、家の間取りはどうなっているのでしょうか?
たとえばこんなようす? 
                   (HPより)

 車の通りも少なく、冬の日差しのもと、のんびりと。
  

昔の街道のままの道幅? 
               
こちらも車一台分の敷地。お隣も。しかし、奥行きが長い。

家並みを眺めながら進むと、広い通りに合流します。

そこに「階段下」というバス停。
                    左を見ると、「三峯神社」への階段がありました。

間口二間半くらいの建物が3棟並んで。

都内では間口も狭いし、奥行きもない家ばかり。それに比べればまだまし。

この建物も細長い! 

この付近の今昔。
1880年代のようす。すぐ左は東京湾。漁師町だったか。

2010年代のようす。←が旧道。

(「今昔マップ」より)
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その5。幕張海水浴場。青木昆陽。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-23 19:56:44 | 房総往還
                        小休止のあと、再開。このへんのおうちには立派な松が植えられています。

来た道を振り返る。落ち着いた家並み。

 街道は大きな道路にぶつかり、右手の信号機のところを渡って、向こう側に出ます。


                        (かつての)海側を望む。

街道に復帰して振り返る。↓が来た道。

 かつてはスーパーだった「八百石」さん、「志村薬局」さんなどの建物が昔を偲ばせます。


                
                   
                         

 すぐ車の行き来の激しい広い道に出ます。左手(北側)奥には「京成幕張」駅があります。この付近で海沿いの道になります。

この付近の今昔。
(「今昔マップ」より)
国鉄(JR)「幕張」駅。「馬加」という地名。      ↓が街道。○が横断地点付近。

ここで「幕張」の歴史を「Wikipedia」を参照して。
 「幕張」という名前自体の発祥は、定かではない。一説には、真桑瓜(まくわうり)の栽培に適しており、それがゆえんと言うが、「まくわうり」が栽培された記録は残っていない。近世までは馬加(まくはり:旧かな遣い)と表記し、まくわりと読んだ。
 千葉に多くみられる頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地にたちよった、馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になった、または、天幕を張ったので「幕張」になった、などという言い伝えもきかれる。
 12世紀後半、下総国千葉郡武石郷と呼ばれていた。領主は、千葉常胤の三男。武石三郎胤盛であった。その後、次第に開発が進められ、13世紀後半には、約1500軒を数えるまでの集落に発達したようである。・・・
 大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていた。子守神社の旧名も素加天王社といい、大須賀山、須賀原などの地名も見える。
 江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で享保20年(1735年)に青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。このため、天明の大飢饉の際に餓死者は皆無だったようだ。弘化3年(1846年)に村人たちは彼の徳を敬い、昆陽神社を建設した。京成幕張駅の近くには昆陽神社や甘藷試作地記念碑がある。また、京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。また、江戸後期の大相撲で活躍した荒馬大五郎(宮城野馬五郎、二代目宮城野)の出身地であり、その墓が大須賀山にある。
 明治時代になると、千葉郡に編入され馬加、武石、長作、天戸の各村の役場を統一して、馬加に行政を統一した(明治11年)。そして同時期にJRおよび京成電鉄の幕張駅周辺は東京近郊の海水浴場として賑わった。そのため千葉市内にある駅としては幕張駅は千葉駅に続いて設置され、総武線の中でも古い駅の一つになっている。沖合いの埋め立てが始まるまでは幕張駅から数分のところ(国道14号辺り)に砂浜があり、その先に東京湾が広がっていた。そのため、昔は漁業も行われ、のり養殖なども盛んであった。また、首都圏の需要を支える野菜の産地としても栄え、特に砂丘部分の畑で収穫される幕張人参は味がよいことで高い評価を得ていた。
 この先の海浜部分の埋め立てが始まったのは1960年代中頃からである。全体が計画都市として設計され、団地や教育施設、公共施設などが計画的に配置された。また災害時の場合を考慮して道路が広く取られていることも特徴である。これとほぼ時を同じくして、人参畑やサツマイモ畑が広がっていた花見川区の総武線沿線でも風景が変わり始め、ベッドタウン化が始まった。埋立地では1970年代から住民の入居が始まったものの、予定されていた鉄道の開業が遅れ、1986年にようやく千葉港駅(現:千葉みなと駅)-西船橋駅間で京葉線が部分開通した。その後1989年には東京モーターショーが東京都中央区晴海から幕張メッセに移り、1993年には地域のランドマークとなるホテルも開業し、新都心への飛躍を果たした。
 一方、JR幕張駅周辺は1980年代ごろ、再開発計画がJR海浜幕張駅周辺の都市計画と同時に持ち上がり、幕張メッセへの総武線側の玄関としての構想が練られ、実際に一部自治体による土地買収も実施されたが、駅周辺や商店街の一部の商業者の賛同を得られず、計画は白紙撤回された。代わりに幕張本郷駅がその役目を担うことになった。

青木昆陽(あおき こんよう)》元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日)
 江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。
 江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。
昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。
・・・
(以上「Wikipedia」参照)

幕張海岸潮干狩り 海水浴場入口」(「千葉県公式観光物産サイト」HPより)


1880年代のようす。遠浅の海が広がる。


2010年代のようす。旧道の道筋は市街地の中に。

しばらく進み、左側の道へ(「検見川神社」方向)。「花見川」に架かる「新花見川橋」を渡ります。


                    京成線の橋脚。

 「花見川」の上流は「佐倉街道」歩きのときに通過しています(「大和田機場」付近)。以下はそのときのブログ資料。

 

                 

(この図は「」HPより)

注:旧道に架かる橋名に「新」が付くのは? 下流の橋名は「幕張橋」。



              
 「検見川神社南側」交差点を右折。左手、京成線の向こうには「検見川神社」。街道筋らしい家並みが続く。


1880年代のようす。漁業だけでなく、砂丘ではニンジン、サツマイモなどの栽培が盛んだったようです。○が右折地点。


2010年代のようす。すっかり市街地化している。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その4。「馬加」。「からたちの花」。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-22 18:44:40 | 房総往還
                     再び千葉街道に戻って再開。
左手がかなりの高台になっています。
                          左手上が「花見公園」となっています。
そこに沿うように左手の道に入ります。

この辺りの標高は、3㍍。意外と高い!

旧街道は、しばらく海岸から離れ、海岸段丘沿いに。
立派な瓦屋根のおうち。

大きな建物を建築中。左手は高台。

門構えの立派なお屋敷。

しばらく進むと左手に階段。
 「大須賀山」という小山の入口で、上ったところには、馬加(まくはり)=幕張=を支配していた千葉一族の馬加保胤の塚があるとのこと。
解説板。「大須賀山の自然と文化財」。
幕張町は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原(おおすかのしょうすがはら)あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以降は馬加(まくはり)村と呼ばれていた。この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山とも呼ばれます。
(自然環境)この丘は標高15m程で、南側は埋立てられるまでは、直接東京湾に面していました。現在でも自然の海岸林が残り、市内では貴重な自然です。林は海風を受け、タブノキを主にスダジイ、ツバキ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、トベラを混え、西から東へ林相が変化していく様子が見られます。
(文化財)階段上の右に文政11年(1828)関脇に昇った郷土力士荒馬大五郎(年寄宮城野馬五郎)の供養塔があり、左前方が大日堂で、以前大日如来が祀られていたが宝幢寺(ほうどうじ)に遷され千葉市文化財となっています。またかつて御堂では旧暦2月に天道念仏という踊念仏が行われていた。
左奥の坂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と伝えられる方形の塚と、その上にその供養のために建てられたという江戸初期の五輪塔があります。

 この山は標高15㍍ほどの小山のようです。膝が気になるので、上るのは省略。


1880年代のようす。○が「大須賀山」付近?


2010年代のようす。高台が削られ、一部「花見公園」として残っています(↑)右手の森が「大須賀山」周辺。

この先、小さな橋を越えたら、左折します。

落ち着いた家並みが続きます。

 その先で直角に右折します。奥には「子守神社」。

その手前にりっぱなお屋敷が二軒。

しばらく喧噪から遠ざかって、静かな通りを進みます。

左手にある「幕張3丁目公園」。

                         

ここは、馬加代官所大須賀家跡。明治天皇が休憩されたという碑があります。
                                       「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之所」

解説碑。
 江戸時代、幕張町は天領として北町奉行所配下にあり、当地にあった大須賀家はその代官所にあてられていた。
 当時の建物は昭和43年に千葉市に寄贈され、現在、加曾利貝塚公園の一部に、「代官屋敷」として保存されている。
 明治15年、明治天皇が市内中野方面における陸軍対抗演習総督の際、休憩所にあてられたところとしても知られている。
 また、音楽家山田耕作が幕張小学校に通った頃、このあたりに見事なからたちの花があり、名曲「からたちの花」が生まれたと言われている。

からたちの花

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。

からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとおる道だよ。

からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。

からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

カラタチ(枳殻、枸橘)はミカン科カラタチ属の落葉低木。原産地は長江上流域。日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。(「Wikipedia」より)
注:現在の「カラタチバナ」とは異なるようです。

HPより)
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その3。阿武松部屋。幕張本郷駅・連接バス。(房総往還をゆく。第1日目。)

2020-01-20 21:01:36 | 房総往還

 しばらく直線道路が続きます。

かつては農家だったようなおうちがチラホラ。

漁師のお宅だったか? 

                         

この付近の今昔。

1880年代のようす。街道沿いにのみ家が。


2010年代のようす。海側に宅地などが広がる。

↓が千葉街道。(「今昔マップ」より)

道の両側にりっぱなおうちが目に付きます。



進行方向の左手には高台(海岸段丘)が続く。

左手は緩やかな上り坂。

右手(かつての海側)は緩やかに下っていく。
その先はずっと平ら?

真っ直ぐ延びる街道、かつては海岸線沿い。

家の向こうの高台にも家並み。

クラシックなレンガ造り風の建物。

「京葉道路」幕張インターに近づきます。

 インターチェンジということで入口、出口と複雑に交差して、車がひっきりなしに通過します。突っ切ることもできなくはなさそうですが・・・。
 しばらく様子をみましたが、危ない目に遭うのはごめん、ということで、左の脇道を進むことにします。
(11:08)左手に「阿武松部屋」の大きな看板が。

 ところで、「阿武松部屋」って何と読むのか? 「おうのまつべや」と読むそうです。

 阿武松部屋の船出は平成六年三月、阿武若が弟子第一号となり、親方のマンションから始まりました。当然稽古場はなく、大鵬部屋に師弟共にお邪魔しての出稽古でした。
 平成七年四月、親方の長年の夢が叶い、現在地習志野市鷺沼に「阿武松部屋」が完成し、四月二十九日盛大に部屋開きが行われました。
 その後弟子が増えて力士部屋が手狭になり、平成九年五月二階大部屋を増築し、風呂場も拡張して現在に至っています。
(この項、「」公式HPより)

 大相撲には詳しくないので、・・・この程度で。

 さて、「京葉道路」の防音壁沿いにしばらく進むと、右手に何やら大きな扉があります。見ると「京葉道路」を地下で横断する(くぐる)ための通路の案内。恐る恐る扉を明けて入ります。ほとんど通行者もいなさそうな通路。
  

長い地下道をくぐり抜けると、りっぱな西洋風のお城が。ラブホテルのようです。

 思いがけずそれほど遠回りせずに「京葉道路」を通過し、東側に出ることができました(11:22)。
             

千葉市入り。

この付近の今昔。

1880年代のようす。海岸線に沿って街道が。


2010年代のようす。幕張インターチェンジ付近。

左手の坂を上ると、「幕張本郷」駅があります。京成線とJR線との共通駅。バスロータリーのベンチで小休止。
 この駅からは、
幕張メッセ

・千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)

イオンモール幕張新都心
方面へのバス便があります。
 そこで運用されているバスに、日本では数少ない連節バスを見かけました。   
       
         「メルセデス・ベンツ・シターロG (Mercedes-Benz O530 “CITARO”)」 。全長は、約18mで、座席定員48人。
今ひとつ分かりにくいので。
     
            (「」HPより)

 人がたくさん乗り降りし、ひっきりなしに発着しています。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その2。「谷津遊園」。「谷津干潟」。(房総往還をゆく。第1日目。)

2020-01-16 19:50:16 | 房総往還
                                「習志野市」へ。

京成線の向こうは高台に。かつての海岸線沿いに街道は進む。

「谷津」駅。来た道を振り返る。左手が遠浅の海でした。

1880年代のようす。      2010年代のようす。↓が「谷津」駅。

ここは、かつてあった「谷津遊園」の最寄り駅。

 「谷津遊園」もよく小学校の遠足や家族と来ました。懐かしいところ。

谷津遊園
 大正時代に塩田地として使われていた海岸地帯が、国の塩業試験場などに転用された後、この一帯を埋め立てて娯楽施設に再転用し、1925年(大正14年)に京成遊園地として開設した。その後に谷津遊園と改称されているが、戦時中は遊の字を取って一時的に谷津園と改称されている。また、1931年(昭和6年)から1936年(昭和11年)にかけては、阪東妻三郎によって阪東関東撮影所が開設されていた。
 昭和40年代に南側前面の東京湾が埋め立てられる前までは、近隣の船橋ヘルスセンターとともに潮干狩り・海水浴のできる海辺の遊園地として人気があった。プールもあったことから、夏季には多くの海水浴客を集めた。当時の海岸(干潟)の一部が谷津干潟として残されている。しかし母体の京成電鉄自身の経営が当時悪化したことと、東京ディズニーランドへの経営参画計画により、黒字経営であったものの1982年(昭和57年)12月21日をもって閉園した。実質的には発展的解消と言え、閉園時の従業員のうち、多くは東京ディズニーランドに移籍している。閉園直前に園内のステージで、着ぐるみショーとして「機動戦士ガンダムショー」が上演されていた。
 日本国内初のコークスクリューを含む2機のローラーコースターは、北海道のルスツリゾートに売却。シンボル的存在であった観覧車は数年間放置されたが解体され廃棄された。跡地に日本住宅公団の公団住宅団地(現・都市再生機構谷津パークタウン)が建設されたが、バラ園については閉鎖を惜しむ声が上がったことから、のちに習志野市が買収し「谷津バラ園」として運営している。
 谷津遊園の閉園後、京成電鉄の遊園地事業は三井不動産と共同出資しているオリエンタルランドが引き続いでおり、バラ園の管理運営など園芸・造園事業は、千葉県八千代市内の子会社、京成バラ園芸が引き継いでいる。

 谷津バラ園入口の脇には、「読売巨人軍発祥の地」の碑が残る。
 1934年(昭和9年)に来日したアメリカ選抜チームと対抗するため結成された、東京六大学出身者を中心とした全日本チームがここで練習しそのチームがのちの東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)になった経緯からである。

 読売巨人軍発祥の地記念碑は、昭和9年(1934年)、アメリカ大リーグのオールスターチームと名選手、ベーブルースが来日しました。当時まだプロ野球団がなかった日本は、6大学から選手を選抜して全日本軍を編成しました。両チームの練習場となったのが旧谷津遊園内にあった谷津球場です。この選抜のメンバーが巨人軍の創設メンバーとなり日本プロ野球誕生への歴史的な第一歩となりました。バラ園の入口の脇に記念碑が建立されています。

(この項、「公益社団法人 千葉県観光物産協会」HPより)
駅名の変遷
「谷津海岸駅」→「谷津遊園駅」→「谷津海岸駅」→「谷津遊園地駅」→「谷津駅」。

「谷津遊園」の今昔。

2010年代のようす。「谷津干潟」、「バラ園」は健在。


1970年代のようす。左上に「谷津遊園」。

 それより以前、1880年代のようす。

斜めの道が「房総往還(千葉街道)」。干潟、浅瀬が広がる。

「谷津干潟」の案内。
谷津干潟
 千葉県習志野市にある干潟。国指定谷津鳥獣保護区、ラムサール条約登録地、日本の重要湿地500指定地に含まれる。
 東京湾岸の干潟は、そのほとんどが1960年代から1970年代にかけて埋立地として整備され、工業地や住宅地として開発し都市化が進んだが、習志野市谷津地先の干潟は利根川放水路計画により旧大蔵省の所有であったために埋め立てを免れ、埋立地の中に2本の水路(高瀬川・谷津川)で海とつながる池の様に残された。その後、埋め立ての計画は持ち上がったが、東京湾に飛来するシギ類、チドリ類、カモ類といった渡り鳥の希少な生息地になっていることが指摘され、また保護活動家による重要性の宣伝活動や清掃活動によってその重要性が広く市民の間でも認知されたため、1988年(昭和63年)に国指定谷津鳥獣保護区(集団渡来地)に指定され(面積41ヘクタール、うち特別保護地区40ヘクタール)、さらに1993年(平成5年)6月10日にラムサール条約登録地に登録された。習志野市では、毎年6月10日を「谷津干潟の日」としている。これらの歴史的経緯から、谷津干潟はほぼ長方形という不自然な形状である。さらに干潟の四方は宅地化・都市化が進んでおり、干潟の上には高架橋が建てられJR京葉線、東関東自動車道、国道357号が通っている。北側には谷津バラ園(旧:谷津遊園バラ園)、南側には谷津干潟自然観察センターおよび谷津干潟公園が整備されている。
 サギ類・カモ類・カモメ類などの水鳥が一年を通して見られ、年間を通じて60-80の種類、少ない時でも10-20種類の鳥が飛来する。また、シギ・チドリ類が飛来する場所として全国的に有名でセイタカシギが定着するなど貴重な環境である。これらの水鳥の餌となるチゴガニなどの甲殻類が生息するほか、エイなどの魚類も生息し、アユなど回遊魚の稚魚が生育する場にもなっていると考えられている。
 埋め立て後も非常に多くの渡り鳥が渡来していたが、ラムサール条約登録にあたり大規模な工事が行われ、その後の調査では大幅な激減が確認された。文一総合出版より刊行されている『谷津干潟を楽しむ干潟の鳥ウォッチング』によれば1976年に1500羽を数えたシロチドリは1996年(平成8年)では150羽ほど、サギ類など他の鳥類についても数十分の一へと渡来数は減少した。
 小さな干潟において貴重な餌場が消失した事の影響は大きく、東京湾全体でも渡来数は約半分ほどに減少しているなか、谷津干潟においては数十分の一と大幅な減少が目立っている。
 水質汚濁が原因と思われるアオサの異常発生が問題になっている。アオサの枯死が原因で酸素濃度が低下、干潟の泥に酸素が非常に少なくなり、アサリやヤドカリとゴカイなどが死滅しているのが発見された。これにより、渡り鳥のエサになるゴカイなどが減っているため、渡り鳥にも影響が心配されている。また、水質汚濁をもたらす以前に、多くの人手によって毎年除去が繰り返し行われる。
 保護活動家と呼ばれる森田三郎が、新聞配達のかたわら、1974年(昭和49年)からゴミ拾いを始め、埋立て中止・保護へとなったことが1993年(平成5年)週刊少年マガジンに「埋もれた楽園 -谷津干潟・ゴミと闘った20年-」(作画・三枝義浩)として、漫画化されたほか、2009年(平成21年)2月1日「エチカの鏡〜ココロにキクTV〜」や、同年12月8日「たったひとりの反乱 ヘドロの干潟をよみがえらせろ」で放送された。
(以上、「Wikipedia」参照)

 
(写真は「」HPより)


2010年代のようす。都市化の波の中で希少な自然を必死で保つかのような存在。

(「今昔マップ」より)


この付近で京成線と離れていきます。↓が「房総往還(千葉街道)」。下に「谷津干潟」。

(「今昔マップ」より)←が「谷津」駅。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その1。「船橋ヘルスセンター」。(房総往還をゆく。第1日目。)

2020-01-15 20:43:44 | 房総往還
 今回から「房総往還」の旅に。
 約3ヶ月ぶりの歩き。前回の歩き(「東金街道」最終日)で3万6千歩のせいなのか膝を痛め、しばらく中止していましたが・・・。

 房総往還は、江戸時代に、江戸から内湾沿いに船橋(船橋)・寒川・浜野(千葉市)・八幡・五井(市原市)・桜井(木更津市)・市内の坂田・中野・貞元・下湯江を通り、佐貫・湊(富津市)を経て安房北条(館山)に至る街道です。
 東海道など五街道の名称は幕府によって一定の規定が設けられていましたが、房総往還を始めとするその他の街道については特に定めはなく、街道沿いの人々や利用者等によって名称が付けられたため、地域によっては上総道や木更津道、房州道、鎌倉道とも呼ばれていました。
 当時の街道は、道幅が狭く曲がりくねっていました。小糸川には橋がなく馬や舟を使って渡ったり、水が少ない時には歩いて渡ることもあり、大人数の時には、舟を横に並べ、その上に板を敷いて渡ったそうです。
 房総往還は房総の主要道であり、それは参勤交代や外国船に対する江戸内湾の警備のためだけでなく、内房と外房を結ぶ道の発着点となる継場が並ぶ街道でもありました。
(「」より)

 地図でも分かるように、ほぼ内房の海岸線沿いに進んでいた街道。現在はすでに遠く海岸線から離れ、また京葉工業地帯などや宅地開発などで大きく変化して、旧道の面影はかなり薄くなり、さらに旧道そのものが失われてしまっている箇所もあるようです。
 船橋から千葉までは、現在の「千葉街道」(国道14号線)がその道筋となっています。

 果たして無事に館山までたどりつけるかどうか。当面、千葉を目指す予定。
 先達の記録を参考にしながら、・・・。 

「大神宮下」駅前の市街図。
                       ○が成田街道(佐倉街道)との分岐。→が「千葉街道」。旧道は一本左の道(←)。

 1月13日(「成人の日」)。晴れ。汗ばむような日差しのもと。
「船橋大神宮」下。成人式で着飾った姿もまだ見かけない(9:25)。

その先を左折して進みます。

                                     

昔からある雰囲気のお宅。

この付近の今昔。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。以下の写真・図版も同様。)

1880年代のようす。すぐ南は内海。


2010年代のようす。赤が「現千葉街道」。緑が「京葉道路」。

 しばらく進み、(9:40)「船橋競馬場」駅付近で現「千葉街道」に合流、京成線沿いに進みます。


「千葉街道(国道14号線)」を少し戻ると、
「船橋競馬場」駅。ららぽーとTOKYO-BAY」の最寄り駅。

 千葉県船橋市浜町二丁目にある三井不動産商業マネジメントが経営するショッピングセンター。ららぽーと第一号店およびフラグシップ(旗艦店)に位置付けられ、ららぽーとの中で最大の店舗面積を持つ。店舗数は約440店舗とショッピングセンターの中では国内最大の規模であり、年間約2,500万人が訪れている。
 1981年(昭和56年)4月2日、船橋ヘルスセンターの跡地に開業。三井不動産が初めて手掛けたショッピングセンターで、開業時の名称は「ららぽーと船橋ショッピングセンター」。2006年8月に「ららぽーとTOKYO-BAY」に変更した。当初から日本最大規模の大型ショッピングセンターであり、その先駆けだった。

 かつて、この駅の名称は、「センター競馬場前」駅でした。その「センター」が「船橋ヘルスセンター」だったわけです。
 「船橋ヘルスセンター」。懐かしい施設です。子供の頃に親に連れられて来たことが何回となく。

注:同駅は「花輪」→「京成花輪」→「船橋競馬場前」→「センター競馬場前」→「船橋競馬場」と4回、改称されたようです。

 以下は「Wikipedia」を参考にして。

 1955年11月3日オープン。「12万坪の海辺に1万坪の白亜の温泉デパート」をキャッチフレーズにした健康ランド的施設ではあるが、浴場のみならず大プールや遊戯施設、子会社経営で隣接する船橋サーキットなども含む大規模な総合レジャー施設である。入場料が当時の物価を鑑みても比較的安く、それでいて一度入場すれば使い放題になる無料施設(浴場や座敷など)の多さが特徴であった。
 1962年に関東ローカルで放送されたテレビCM(横山隆一作画による老人のアニメと三木鶏郎作詞・作曲、楠トシエ歌唱によるCMソング)で多くの人々に知られるようになった。
 全盛期にはザ・タイガースなど当時の人気歌手・グループによる「歌謡ショー」が屋外ステージで行われたほか、人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』(TBSテレビ)の公開放送も行われた。また、ローラースケート場はTBSが中継を行っていた国際プロレスの試合会場としても使用された。
 しかし、1970年代頃からレジャーの多様化によって来場者数が減少し始めたうえ、1971年には地盤沈下を抑制するために温泉やガスの汲み上げを差し止められたことが致命的となり、1977年5月5日で閉園して21年半の歴史に幕を閉じた。
 その後、施設は撤去され、跡地には商業複合施設「ららぽーと船橋ショッピングセンター」(現・ららぽーとTOKYO-BAY)」が建設され、1981年4月2日にオープンした。

 施設として
・巨大温泉(ローマ風呂)・岩風呂・牛乳風呂・子供風呂・家族風呂
・舞台付きの宴会場
・人工ビーチ(ゴールデン・ビーチ)
・海水プール
・劇場
・ゴルフ場
・ボウリング場
 などがありました。

 大きなお風呂に入って、宴会場で歌謡ショーを観た記憶があります。


 船橋ヘルスセンターは、昭和30(1955)年11月3日に開場し、高度成長期の終わりを追うように昭和52(1977)年5月に営業を閉じました。経済白書で「もはや戦後ではない」と発表されたのが、昭和31(1956)年。日本経済が日々発展していった時代に船橋ヘルスセンターは、瞬く間に庶民の心をつかみ、当時「東洋一」といわれたほどの大娯楽施設に発展しました。レジャーの多様化による来場者数低下等により昭和52(1977)年に惜しまれながら閉園し、現在その跡地は、船橋を代表する大規模商業施設「ららぽーとTOKYO-BAY」となっています。
(この項、「」公式HPより)
      
      
      
      
2010年代のようす。                1970年代のようす。「船橋ヘルスセンター」があった頃。
注:現在は中央に見える「オートレース場」はなくなっています。

 駅名のもとになっている「船橋競馬場」にはまったく縁がありませんが。
船橋競馬場
 千葉県船橋市(一部施設が習志野市にまたがる)に所在する地方競馬の競馬場。広報などでの表記は「船橋ケイバ」。
 競馬の主催者は千葉県競馬組合(千葉県、船橋市、習志野市からなる一部事務組合)で、土地・施設は株式会社よみうりランドから賃借している。
 大井競馬場、浦和競馬場、川崎競馬場と共に南関東公営競馬を構成する。(「Wikipedia」より)
(「船橋競馬場」HPより)
注:上が南。

 海岸線に走る京成線(津田沼~千葉)は、海水浴や遊園地などレジャー施設があって、遠足や潮干狩りなどによく出かけました。
 駅名もそのころから変わっている駅もあります。子供の頃の印象と比較しながら歩くのも楽しみです。
 
                                   (9:50)「千葉街道」の標示。
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行く年来る年。香港からも。

2020-01-04 19:48:36 | じじばばがゆく
 暮れの24日、25日と香港から若者がやって来ました。毎年、この時期に訪日。

 4年前にホームステイでお世話した青年。

 33歳の誕生日を我が家で。お土産もいっぱい持ってきての参上です。ありがとう!

 去年は雪と光のプロムナード見物で、仙台に向かいました。
 今年は、盛岡に雪を見にと、26日に出かけました。それから台湾で正月を迎えてそのまま、帰国とのこと。

 毎年、けっこう活発に海外旅行をしているようです。

 盛岡に向かうまでの時間、人生相談を。積もる話もたくさん、たくさん。
 結婚のこと、仕事のこと、香港のようす、・・・。出発時間ギリギリまで「ニッポンのお母さん・お父さん」と。

 ところで、訪日外国人のために「JR7日間(新幹線含む)乗り放題」のチケットが3万円くらいで入手できるようです。
 JAPAN RAIL PASS
 これを使ってフルに旅をする計画。

 行く先々でビジネスホテルを取っての旅。盛岡は大浴場があるという「ルートイン盛岡駅前」を予約。

 東京に来る前は、大阪で日本語学校時代に友人や先生と。

 離日前には、東京で同じような仲間と再会を楽しむとか。
 けっこう有効活用しています。日本人向けでこの値段なら、当方も利用するのにね。

 さっそくビールを飲みながら歓談。香港のビール以外にも日本のご当地ビールやお酒を。
 ただし、彼は日本酒は苦手なようです。でも、日本語もけっこう上手なので、会話も進みます。孫達も大喜び。

 27日朝、さっそく盛岡の写真を送ってくれました。少し雪が積もっています。

 実は、当方、6日にお葬式が入って、盛岡に行くことに。さっそく青年と同じ「ルートイン」を予約。6,700円也でした。

 今年も、あわただしい1年になりそうです。

            
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