おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「わたらせ渓谷鐵道」その7。足尾の街並み。通洞・駅舎・「足尾銅山観光」下車駅・足字銭(足尾銭)・おあし。足尾・海抜640米(㍍)。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-30 18:55:13 | ローカル鉄道の旅

町が大きく広がってきます。

「通洞」。

足尾町の中心にあり観光の拠点となる駅で、行楽シーズンには観光客で賑わいます。駅舎は北方ヨーロッパの木造建築技法であるハーフティンバー様式で、柱や梁が外に出ているのが特徴です。駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されています。
「足尾銅山観光」は駅から徒歩約5分で、足尾銅山の旧坑道を利用した、江戸時代からの銅山の歴史と仕組みを見学できる施設です。園内には、江戸時代に足尾で作られた「足字銭」の鋳造行程をわかりやすく再現した施設もあります。
「古河足尾歴史館」には、江戸時代から昭和まで日本を支え続けてきた足尾町の移り行く姿を伝える写真など、貴重な資料が展示されています。足尾銅山の真の姿をいろいろな角度から見ることができます。また、併設の「足尾トロッコ館」では、復元されたガソリンカーに乗ることができます(運転日は要確認)。
横根山ハイキングコースは足尾の東南に位置し、横根山(1,373m)を中心とした2市(日光市、鹿沼市)にまたがる波状の起状に富んだ前日光県立自然公園に指定されている高原です。他に古峰ヶ原ハイキングコースなどがあります。

※1 江戸幕府直山の足尾銅山は産銅量の減退に伴い、銅山師達は山元(やまもと)の困窮を救うため、寛保元年(1742)幕府に足尾銅山で「寛永通宝・一文銭」の鋳造許可を願い出、鋳銭することとなりました。

寛永通宝は江戸時代に広く流通した銭貨で、寛永13年(1636)に創鋳、幕末まで鋳造。特に足尾で鋳造の寛永通宝一文銭は、裏に「足」の字が刻まれ「足字銭(足尾銭)」と呼ばれ、お銭(かね)のことを「おあし」と言っていたのも足字銭が語源といわれます。

(この項、「」HPより)

※2 「おあし」の語源

お足は、もとは女房詞。
お金はあたかもが生えているかのように行ったり来たりすることから、お金を「足」にたとえ、女房詞なので接頭語の「お」が付いて「お足」となった。
中国晋時代の『銭神論』にある「翼なくして飛び、足なくして走る」に由来するともいわれるが、女房詞は日常から自然に発生した言葉ばかりなので、「お足」だけが書物に由来するとは考え難い。
『銭神論』を直接の語源とせず、日本の「お足」と『銭神論』の「足」は、同様の発想から生じたと考えるのが妥当であろう。
なお、旅費などをいう「お足代」の「足」はなど交通の手段を指しており、お金そのものを指す「お足」と関係するものではない。

(この項、「語源由来辞典」HPより)

  「足尾銅山観光」下車駅。

趣のある駅舎。

 駅前の通り。

        町のようす。

「足尾」。              

「海抜640米(㍍)」。

トロッコわたらせ渓谷号の始発・終着駅です。
足尾駅はかつて、銅製品や原料輸送のための貨車を入換・留置しておくため、広い構内に何本もの線路が敷かれていました。現在も駅構内に国鉄足尾線時代の気動車や濃硫酸輸送に使われた古河工業のタンク車などが保存されていて、往時を偲ばせます。
     
駅舎及びプラットホームなどは登録有形文化財として登録されており、駅周辺だけでも全 5か所の登録有形文化財を見ることができます。
「古河掛水倶楽部」は、古河鉱業の迎賓館として建設された建物で、大正初期に改築され、外観は洋風、内部は和洋、それぞれの様式を用いた2階建てです。現役の福利施設として宿泊や会合に使用されていますが、土・日曜日・祝祭日に限り一般公開されていています(冬季を除く)。

保存されている車両。

次は、終点の「間藤」です。

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仲秋の名月。9月10日。向島百花園。

2023-09-29 21:09:29 | 向島百花園

今年の仲秋の名月。9月29日(金)。お月様は少し雲に隠れて満月ではないような・・・。

そこで、昨年の仲秋の名月の記録を改めて。9月10日で、今年よりも、随分早かった。

「向島百花園」の「月見の会」に出かけました。今までに見たことがないような大勢の人が。

外国人の姿も目につきます。

3年ぶりとか。晴天。きっと満月が望めるでしょう。

              

四つ木橋からの夕日。

園内は、秋の七草をはじめ、秋の草花が。

       

        

 

   

陽が落ち、行灯にも灯りが。

       

            

スカイツリー。

             

琴の音が響いてきます。

              

  水面に映える雪洞。

とっくに満月が東の空に上がってきているはずですが、ビルの谷間のため、お月様は拝めません。

そこで、スカイツリーへ移動しました。

隅田公園から。

                              

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「わたらせ渓谷鐵道」その6。取水堰。左岸沿いに進む。渓谷美。足尾銅山鉱毒事件。原向(はらむこう)・危険!サル出没中。足尾銅山通洞選鉱所跡。通洞変電所。通洞大橋。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-28 20:36:15 | ローカル鉄道の旅

「渡良瀬川」左岸沿いに進む。

※「沢入駅」から次の「原向駅」までの区間は、同鉄道の中でも急勾配区間に当たる。落石に注意する場所が数か所あり、国鉄時代にも台風や大雨による落石で運転を見合わせることがあった。そのひとつに坂東カーブがある。この区間も、蒸気機関車C12形による重連運転が行われていた。自力加速が可能なディーゼルカーでさえも、全力力走にしても足尾方面の場合40km/hが限界である。逆に桐生行きは勾配を下るため惰性走行でもかなりの速度が出るために、坂東カーブ入口手前に、速度照査式のATSが設置されている。(「Wikipedia」より)

「取水堰」。

渓谷が続きます。

              

すばらしい渓谷美が続きますが、かつては足尾銅山からのひどい汚染水が流れていました。今は、澄んだ流れに。

 

           

河川の氾濫などにより、大量の鉱毒が下流の広範囲の田畑に甚大な被害を与えました。

 

                   

            

集落に近づきます。

「原向(はらむこう)」。

栃木県に入って最初の駅です。
足尾町には山歩きをするには格好の場所がたくさんあり、初心者から健脚者まで楽しめます。備前楯山、庚申山登山は原向駅からのアプローチがよく、道標も整備されています。
駅を降りて庚申川に沿って北(銀山平)に登って行くと、2017(平成29)年にリニューアルした国民宿舎「かじか荘」・庚申の湯(日帰り入浴可)があります。

危険! サル出没中

女性や小さなお子さんは特にご注意ください ・目を見つめない ・物を与えない ・威嚇しない   日光市

庚申川。

この付近から、わたらせ渓谷鉄道線は、再び、右岸沿いに進みます。

振り返る。

           「古河機械金属(株) 足尾事業所 技術課」。「旧足尾銅山」「古河」関連の施設が増えてきます。  

      右手に「足尾銅山通洞選鉱所」跡。「古河機械金属(株) 足尾事業所 鉱務課」。   

「通洞変電所」。

変電所は、発電所から送電された電気の電圧を適切な値に変え、必要な所に配分する役目を果たすものです。昭和46年の記録によると、足尾銅山は使用する電力の全量を古河鉱業日光発電事務所(平成15年に古河日光発電株式会社)に所属する5つの発電所(馬道発電所・細尾発電所・上ノ代発電所・背戸山発電所・神戸発電所)によって賄っています。そしてこれらの発電所より、日光足尾2回線、神戸足尾1回線の送電線を経て、通洞変電所・本山変電所・間藤変電所で受電し、それぞれの受持電力使用箇所に送電されました。通洞変電所は、足尾銅山関連施設の多くが廃止され、また取り壊されている中で、現在も足尾地域に電力を供給(東電が古河の施設を使用して各家庭に送電)していると同時に、電力需要の拡大に伴う増設・改変の歴史を伝える貴重な施設です。(「日光市」HPより)

「通洞大橋」が右手下に。

                足尾の町が広がります。 

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「わたらせ渓谷鐵道」その5。草木(くさき)ダム。草木トンネル。沢入。黒坂石川。 「沢入(そうり)」。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-27 21:04:37 | ローカル鉄道の旅

渡良瀬川渓流沿いを進む。

               

この先、草木ダムに差し掛かります。鉄道は長いトンネルに入ります。

 けっこう長く感じる。

草木ダム(くさきダム)

群馬県みどり市東町座間、一級河川利根川水系渡良瀬川の本川上流部に建設されたダムである。旧名は神戸ダム(ごうどダム)。

独立行政法人水資源機構が管理する多目的ダムで、東京都を始めとする首都圏への利水と渡良瀬川・利根川の治水を目的とした利根川上流ダム群の一つである。高さ140.0 mの重力式コンクリートダムであり、利根川水系では川治ダム鬼怒川)と並んで奈良俣ダム楢俣川)の158.0 mに次いで高い。ダムによって形成された人造湖草木湖(くさきこ)と命名され、ダム湖百選に選ばれている。

沿革

渡良瀬川流域は古くから穀倉地帯として、鎌倉時代以後は右岸を新田氏、左岸を足利氏が領有して後に雄飛。江戸時代には館林藩を始め多くの藩がこの地を領有して新田開発を盛んに行った。また、明治時代以降は桐生市を中心に絹織物業が発達する一方で源流部での足尾では古河市兵衛により足尾銅山が大拡張され、流域人口は年々増加していった。

だが渡良瀬川は古くから氾濫を繰り返して流域に多大な被害を与えた。さらに足尾銅山から流出する鉱毒は沿岸農地へ深刻なダメージを与え、洪水による伝播もあって農地への鉱毒被害は更に拡大(足尾鉱毒事件)。渡良瀬川以外の水源に乏しいこともあって水争いも広がった。明治政府はこれを解決すべく田中正造などの反対を意に介さず1905年明治38年)に当時の谷中村を強制廃村させて渡良瀬遊水地を建設。これにより洪水調節と鉱毒防止を図ろうとした。だがそれ以降も洪水は流域を襲い、特に1947年昭和22年)のカスリーン台風においては桐生市を中心に甚大な被害が発生した。こうしたことから利根川水系の根本的治水計画が再検討されることとなった。

多目的ダムの建設

多目的ダムによる洪水調節を利根川水系でも図ることとした。これに基づき利根川水系に九箇所のダムが計画され、藤原ダム(利根川)・相俣ダム(赤谷川)・薗原ダム(片品川)などが完成した。さらに1951年(昭和26年)には国土総合開発法の制定に伴い利根川流域は首都圏の発展に資するという目的で「利根特定地域総合開発計画」地域に指定され、かんがい上水道工業用水道確保を図るための更なる河川整備が計画された。この際に矢木沢ダム(利根川)・下久保ダム神流川)などと共に計画されたのが神戸ダムで、1958年(昭和33年)より予備調査に入った。

この間人口が爆発的に増大した首都圏の逼迫した水需要解消が急務となり、神戸ダムは支流思川の左支川・南摩川の南摩ダムなどと共に第二次フルプランの中心事業として位置付けられ、事業は公団へと移管された。

反対運動

1967年(昭和42年)より工事に着手したが、ダム建設によって東村神戸・沢入(そうり)地区などの住民230戸が水没対象となった。この地域は比較的開けた山村で足尾と桐生の中間点に位置し、交通の便も悪くなく居住者が多かった。このため住民の反対運動は激しく、漁業権補償と並んで容易に解決できない問題となった。このため一般補償交渉は難航し、当初1970年(昭和45年)完成を目標としていたが、同年7月9日に利根川水系におけるフルプランの全面変更を行い、1975年(昭和50年)度完成へと遅らせることとした。

難航していた補償交渉は1973年(昭和48年)には妥結し、本体工事に着手。同時に路線が水没する国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道)の付け替え工事(草木トンネル建設など)を実施した。結局当初の計画より7年遅れること1977年(昭和52年)3月に完成し、運用を開始した。

なお、完成前に神戸ダムは草木ダムと名称が改められたが、これは地元住民の要望によるものである。こうしたケースは全国各地のダムでも見られる。

目的

洪水調節不特定利水かんがい上水道工業用水道供給、水力発電の六つであり、多目的ダムの中では用途が広い。なお、計画当時は足尾銅山が採掘を行っていたこともあって、足尾銅山鉱毒防止も目的としていたといわれている。だが補償交渉の最中足尾銅山が閉山(1973年〈昭和48年〉)、以降鉱毒流出が極端に減少したこともあって鉱毒防止目的は除外されている。完成以後草木湖では厳重な水質調査が毎年行われているが、環境に影響を及ぼす数値は検出されていない。

草木ダムは完成以降、渡良瀬貯水池(谷中湖)と共に首都圏への重要な水がめとして機能している。

草木湖

ダム湖である草木湖総貯水容量が約6千万トンと利根川水系でも屈指の規模を誇る人造湖である。湖上流部にはキャンプ場等が整備され、夏には草木湖上で花火大会も行われる。ダム右岸には国道122号が通過しており、右岸展望台駐車場はツーリングを楽しむライダーが休憩のために利用する光景がよく見られる。冬季には晴天時に冠雪した日光連山の風景を湖越しに見ることも出来る。ダム直下流にも足を運ぶことができる。

(この項、「Wikipedia」より)

※湖畔には、「富弘美術館」があります。

着工前のようす。

       完成後のようす。

※写真は、「」HPより。

草木トンネル

わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線にある、群馬県みどり市東町草木を通過する全長5,242 mの鉄道トンネルである。

1973年(昭和48年)6月27日 - 草木ダム建設に伴い、神土(現・神戸) - 沢入間を現在の新線およびトンネルに付け替え

草木ダム建設によって線路の一部が水没するため新線に付け替えることになり、ダム湖迂回する形で本トンネルが建設された。神戸駅沢入駅の間(駅間7.0 km)にあり、列車は約10分かけて通過する。トロッコ列車を運行する第三セクター鉄道の中では一番長いトンネルである。本トンネルの神戸口と沢入口との高低差は約140 mあり、草木ダムの堤体高さとほぼ同じである。

廃止された旧線は一部が遊歩道になっているが、ほとんどがダム建設により草木湖の中に沈んだ。草木湖に架けられている草木橋辺りに旧草木駅があった。

(この項、「Wikipedia」より)

   ダム建設の前後。左岸沿いだった線路はダムの底に。(「今昔マップ」より) 

やっとトンネルを抜け、視界が広がる。

渡良瀬川。

           「群馬県沢入発電所」が左手に。鉄橋を渡り、左岸沿いに進む。

沢入(そうり)地区に入ります。

         

         黒坂石川。

「沢入(そうり)」。

長い草木トンネル(5,242m)を抜けて渡良瀬川を鉄橋で渡ると、まもなく沢入駅に停車します。駅舎内に簡易郵便局がある珍しい駅です。 沢入駅はあじさいの名所としても知られ、毎年7月頃には約2,200株のあじさいが駅構内を彩ります。また、秋はもみじの名所でもあり、駅構内をもみじが真っ赤に染めます。 待合所及びプラットホームが登録有形文化財として登録されており、ドラマやCMの撮影などにも利用されることの多い駅です。 黒坂石バンガロー・テント村は、黒坂石川の清流に囲まれた大自然の中のキャンプ村で、夏になると多くの若者や家族連れが川辺の水遊び、釣り、ハイキングを楽しんでいます。ハイキングでは、弘法大師が開眼したといわれている世にも不思議な「寝釈迦」「相輪塔」への下車駅です。

     

             

                 なかなか趣のある駅舎。

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「わたらせ渓谷鐵道」その4。「小中(こなか)」。松島橋。「神戸(ごうど)」・列車のレストラン「清流」・「富弘美術館」。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-26 20:24:13 | ローカル鉄道の旅

振り返る。

           

次第に高度を上げていきます。

渡良瀬川が眼下に。

              

                     小中川。

「小中(こなか)」。

小中川と渡良瀬川にはさまれた場所に位置する小中駅周辺は、四季を通じてせせらぎが聞こえる大自然の美しさにあふれた、のどかさがあります。この小中川の上流には落差96mの小中大滝と最大傾斜44%でスリル満点のつり橋(袈裟かけ橋)があり、春夏秋冬を問わず素晴らしい絶景を見せてくれる、みどり市自慢の名所です。また、袈裟丸山へのハイキングコース、小中大滝を経由する健脚コースもあります。
駅から徒歩約4分にある大蒼院のキリシマツツジは、樹高約4メートル、一般に庭園でみられる標準的なキリシマツツジの4倍以上の大きさです。推定樹齢は600年を超え、群馬県内のツツジの中では有数の古木です。毎年4月の終わりから5月上旬にかけて真紅の花が咲き、燃えるようなその樹容は見る人を圧倒します。

松島橋。

             

「神戸(ごうど)」。

             

かつては蒸気機関車C12型の連結・切り離しが行われた広い構内に、現在は「列車のレストラン清流」があります。東武日光線で活躍していた特急「けごん」の車体を利用したお食事処で、食堂車のような雰囲気を味わえます。駅弁の「トロッコ弁当」「やまと豚弁当」も、ここで製造販売しています。
神戸駅は近年花桃の名所としても知られ、毎年3月下旬から4月上旬には約300本の花桃が咲き誇り、大勢の見物客が訪れます。また、駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されており、上神梅駅とともに足尾鉄道の開業当初からの歴史を見守ってきた数少ない駅舎として人気があります。
みどり市東町は、水彩の詩画を通して、生命の尊さ・優しさを語り続けてきた星野富弘さんの故郷です。水と緑に囲まれた草木湖畔には「富弘美術館」があり、いつもやさしく迎えてくれます。
周辺には、石原和三郎の資料を集めた「童謡ふるさと館」や、豊かな水をたたえた草木ダム、湖畔には国民宿舎「サンレイク草木」などがあり、神戸駅は観光拠点になっています。

※「神戸」の読みでもっとも多いのは「ごうど」で、「河川と丘陵地に挟まれて狭小な平地が開ける地形」に名付けられることが多い。また、河川の渡河点にも「ごうど」という地名が存在する。(「日本歴史地名大系ジャーナル」参照)

ここは、二つの要素からも、ふさわしい地名のようです。

駅舎内外の風景。

             

                   「富弘美術館」行きのバスが出ています。

富弘美術館

          

水彩の詩画を通して生命の尊さ、やさしさを語りつづける星野さんの作品を一堂に公開する美術館が、星野さんのふるさと勢多東村(現みどり市東町)に誕生しました。

四季折々の野の草花やシャクナゲの群生、紅キリシマツツジの大木など、青空と緑深い詩情豊かな山々に囲まれた東村。

不慮の事故での9年間の入院生活から久しぶりにふるさとに帰った星野さんを迎えたのは、子どもの頃から慣れ親しんだそんな東村の自然でした。でもそれは、初めて見るような美しさだったといいます。 星野さんを見守り、育んだ、やさしく厳しい東村の自然。

東村のふるさと創生事業により1991年春に開館した富弘美術館は、そんな美しい自然の中にとけこむように建っています。

一歩館内に入ると、星野さんの珠玉の作品がいつもやさしく迎え入れてくれます。星野さんの作品は生きる勇気や喜びを、なにげない毎日のなかから、自然に教えてくれているようです。

1946年 群馬県勢多郡東村(現みどり市東町)に生まれる
1970年 群馬大学教育学部体育科卒業
中学校の教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄を損傷、手足の自由を失う
1972年 病院に入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始める
1979年 前橋で最初の作品展を開く
退院
1981年 雑誌や新聞に詩画作品や、エッセイを連載
1982年 高崎で「花の詩画展」
以後、全国各地で開かれた「花の詩画展」は、大きな感動を呼ぶ
1991年 群馬県勢多郡東村に村立富弘美術館開館
1994年 ニューヨークで「花の詩画展」
1997年
2000年
ホノルルで「花の詩画展」
2001年 サンフランシスコ・ロサンゼルスで「花の詩画展」
2004年 ワルシャワ国立博物館での「花の詩画展」
2005年 (新)富弘美術館新館開館
 
2006年 群馬県名誉県民となる
 
2010年 富弘美術館開館20周年 富弘美術館の入館者600万人
2011年 群馬大学特別栄誉賞(第一回)

現在も詩画や随筆の創作を続けながら、全国で「花の詩画展」を開いている

著書に、新版「愛、深き淵より。」「新編 風の旅」「かぎりなくやさしい花々」「鈴の鳴る道」「銀色のあしあと(三浦綾子氏との対談)」「速さのちがう時計」「あなたの手のひら」「花よりも小さく」「山の向こうの美術館」「たった一度の人生だから(日野原重明氏との対談)」「ことばの雫」「風の詩」「種蒔きもせず」「詩画とともに生きる」「あの時から空がかわった」「足で歩いた頃のこと」

(この項、「」HPより)

お願い 駅構内でを散歩させないでください」

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「わたらせ渓谷鐵道」その3。「水沼(みずぬま)」。「花輪(はなわ)」。『うさぎとかめ』・『金太郎』。「中野」。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-25 20:47:01 | ローカル鉄道の旅

     渡良瀬川に架かる「黒保根(くろほね)大橋」。

   「水沼(みずぬま)」。

全国的にも珍しい、駅構内に温泉のある駅として知られ、上りホームに隣接して水沼駅温泉センター「すっぴん美人の湯」が併設されています(休業中)。渡良瀬川を望む「かっぱ風呂(露天風呂)」からの眺めは絶景です。
駅近くには、「森と水のビレッジ スミテラス水沼」がオープン。BBQやパンケーキなどのブランチが楽しめる新名所です。 また、山麓にはさわやかな気候の花見ヶ原キャンプ場や利平茶屋森林公園があり、夏期は多くの人々で賑わいます。常鑑寺、医光寺、古路瀬渓谷などの数々の名所・旧跡があります。
1997(平成9)年には「関東の駅百選」に選定されました。

             自販機。

のんびりと列車の旅。

         

小さな集落に。

                  

「花輪(はなわ)」。

渡良瀬川が中心に流れるみどり市東町は、江戸時代に足尾の粗銅を運ぶあかがね街道の宿場町として栄えました。当時の銅蔵や古文書が今も残っています。
1865(慶応元)年10月12日、花輪に生まれた石原和三郎は、だれもが歌ったことのある童謡「うさぎとかめ」「金太郎」の作詞者です。童謡の父として称される石原和三郎の出身地であることにちなみ、駅のホームにはうさぎとかめの石像が設置されています。また、列車の発着時には「うさぎとかめ」のメロディーが流れ、訪れる観光客を出迎えます。
駅近くの旧花輪小学校は、日本鋼管の創立者である今泉嘉一郎の寄付により建てられたものです。1931(昭和6)年に建てられた木造の校舎が今も残り、登録有形文化財に指定されています。校庭には和三郎の功績をたたえる歌碑もあります。

童謡『うさぎとかめ』。

もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちで おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか 

なんと おっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの おやまの ふもとまで
どちらが さきに かけつくか

どんなに かめが いそいでも
どうせ ばんまで かかるだろ
ここらで ちょっと 一ねむり
グーグーグーグー グーグーグー

これは ねすぎた しくじった
ピョンピョンピョンピョン
ピョンピョンピョン
あんまりおそい うさぎさん
さっきのじまんは どうしたの

※1901年(明治34年)に『幼年唱歌 二編上巻』上で発表された。

『金太郎』

まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ

あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
ハッケヨイヨイ ノコッタ

※1900年(明治33年)『幼年唱歌』に掲載された。

              史跡案内板。

「中野」。

わたらせ渓谷鐵道の開業と同時にできた駅です。 小夜戸(さやど)地区の入口にあたる場所に、地元からの請願駅として開業しました。 ゆるやかな曲線上にプラットホームのみが設置されたのどかな無人駅です。ホームの先には100mほど続く桜並木があり、春は乗客の目を楽しませてくれます。

             

紅葉には、まだまだ。  

                   次第に山間部へ。

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9月23日。秋分の日。向島百花園。はぎのトンネル。「萩を詠む」。すすき。ひがんばな。ふよう。みずあおい。・・・そして、「新内流し」。

2023-09-24 18:12:01 | 向島百花園

昨日、9月23日(土)。午前中の雨も上がった午後。

菩提寺の彼岸会は日曜日に参詣することにして、「向島百花園」へ。

秋を迎える草花が。暑い夏だったせいか、ちょっと満開が遅いかな?

「なたまめ」。大柄の豆。

ナタマメ(鉈豆)

マメ亜科の蔓性の一年草。原産地は熱帯アジアまたはアフリカ。刀豆(トウズ、タチマメ、ナタマメ)、帯刀(タテハキ)ともよばれる。日本へは江戸時代に渡来。約25センチメートルほどの豆果を結ぶ。以前から漢方薬として知られており、近年では健康食品、健康茶としても一般的に知られるようになった。

アジアアフリカ熱帯原産とされ、食用や薬用として栽培される。日本には江戸時代初頭にから伝わった。特に薩摩では江戸時代から栽培が盛んでNHK大河ドラマ篤姫』のワンシーンでも長旅の無事を祈る餞別として送られていた。福神漬けの材料にもなる

おみなえし(女郎花)。

ほおずき。

そして、お目当ての「はぎのトンネル」。

白と紅と。

  

  

園内のいたるところに「はぎ」。

                  

          

       

「ひがんばな」が、ちらほら。

                     

「ふよう」。

そのうち、三味線を弾きながら歩く浴衣姿の二人の女性。

勝新派社中による「新内流し」と「三味線演奏」。初めて実際に屋外を流して歩くのを見ました。

 

        男性も加わり、「義太夫語り」。

      

            

曲名は聞き逃しましたが、歌謡曲「明治一代女」と関連が深いもののようです。

『巳之さん堪忍して下さい。騙すつもりじゃなかったけど どうしてもあの人と別れられないこのお梅の気持 騙したんじゃない 騙したんじゃない・・・ ア 巳之さんお前さん何をするの 危ない!危ない!堪忍して か・・・ア 巳之さん巳之さん あたしは大変なことをしてしまった』

※その元となった「花井お梅事件(別名箱屋事件)」

美貌で勝気な芸者お梅は二十歳そこそこで待合を持ち女将となりますが、名義人を父にしたばかりに自分の待合から締め出されます。何とか店を取り戻そうと、かつて自分が芸者時代に箱屋として使い、そのときも待合の使用人として使ってやっていた峯吉(唄では巳之吉)に相談します。しかし峯吉は多大の恩にも拘らず、欲に目がくらんで、父親の側に立ってお梅を苛み、あろうことか関係を迫ります。逆上したお梅は峯吉を浜町河岸に追い、背中に出刃包丁を突き立て殺害します。峯吉殺しを父親に告げてからお梅は日本橋久松署へ自首しました。

この後は、「すみだ川」「宵待草」「みだれ髪」「悲しい酒」を観客と一緒に。

※悲しい酒

ひとり酒場で 飲む酒は

別れ涙の 味がする

飲んで捨てたい 面影が

飲めばグラスに また浮かぶ

       

・・・聴き終わって、余韻の中、園内を。

「みずあおい」。

      すすき。

もみじ。

「萩を詠む」句集。

次回は「月見の会」。9月28日(木)~9月30日(土)。

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9月23日(土)・秋分の日。秋の彼岸(ひがん)会。暑さ寒さも彼岸まで。おはぎ。秋の日はつるべ落とし。

2023-09-23 18:36:16 | 世間世界

 

                                     彼岸花。

                              (「権現堂堤 」―「幸手駅」下車―)        

すすき。(「向島百花園」)

夏日が続く東京地方。やっと涼しくなる気配。でも、最近。秋雨前線の影響か、時ならぬ豪雨がところ選ばず襲ってくる。

今朝のお天気。小雨が降り、けっこう涼しく感じる。でも、また来週から暑くなる気配。

「暑さ寒さも彼岸まで」というようなのは、今や死語に?

さて、今日は、二十四節気の第16番目「秋分」。「春分」と同じように、太陽が真東から昇り真西に沈む、昼と夜の長さが同じになる日。

※じっさいには、昼の方が少し長い。

「秋分の日」をはさんで、各寺院では、「秋季彼岸会」が行われます。

「彼岸」とは、サンスクリット語の「パーラミータ」(波羅蜜多)の訳語。

コロナ禍で檀家や信徒が大勢集まれない年が続きましたが、今年は、・・・。

※「秋分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された「祝日法」(昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。(「Wikipedia」より)

これからしだいに秋が深まっていく(はず)。

「白露」 →「秋分」 →「寒露」

「秋の日はつるべ落とし」

秋の日は、井戸のつるべ(釣瓶)が落ちるように早く沈み、暮れてしまうことのたとえ。秋になると、日没の時刻が早まるだけでなく、その後の薄明の時間も短くなり、日が沈んで間もなく真っ暗になる。

※つるべ(釣瓶)は、井戸で水を汲み上げるために使われる道具で、桶を縄の先にとりつけたものを滑車に掛けて使用する。

(渋川・白井宿)

「七十二侯」でいうと、

・初侯 9月22日〜9月27日頃

雷乃収声 かみなりすなわちこえをおさむ

夏の間に鳴り響いた雷が収まる頃。空にはもこもことした鱗雲があらわれます。残暑も落ち着き、秋の気候へと変わっていきます。

荒川・四つ木橋から

・次侯 9月28日〜10月2日頃

蟄虫坏戸 むしかくれてとをふさぐ

外で活動していた虫たちが冬ごもりの支度をはじめる頃。虫たちは秋冬が終わるのを、約半年間も土の中で静かに待ちます。そして、啓蟄の頃に再び姿を現します。

・末侯 10月3日〜10月7日頃

水始涸 みずはじめてかるる

田の水を落として、稲穂の刈り入れを始める頃。

(幸手にて)

               刈り入れが終わった田んぼ。

(この項、「暦生活」HP参照)

秋分の日には仏壇におはぎをお供えします。春は牡丹が咲くので「牡丹餅(ぼたもち)」、秋には萩が咲くため「御萩(おはぎ)」と呼ばれています。

はぎ。(「向島百花園」)

         おはぎ。   

春に食べられるぼたもちは基本的にこしあんで、秋に食べるおはぎは粒あんで作られます。これは小豆の収穫時期の違いが理由。

小豆は秋頃に収穫されるため、おはぎは収穫してすぐの小豆を使って作られます。収穫したての小豆は香りもよく、皮も柔らかいので、粒をいかして粒あんで食べるのです。

「半殺し」とは東北地方や長野県、静岡県、四国地方などの方言で、比較的山間部で使われていることが多いようです。小豆をこしあんにすることを皆殺し、粒あん(粒が残っている状態)にすることを半殺しと表現します。いずれもお米や豆をすりつぶした状態をさした言葉として流布しています。

           (この項、「」HP参照)

次は、10月8日(日)「寒露」。だんだんと秋も深まってきます(くるはず)。

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「わたらせ渓谷鐵道」その2。大間々。わ89-300形気動車。渡良瀬川渓谷。高窓のある民家・養蚕。上神梅(かみかんばい)。本宿(もとじゅく)。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-22 21:30:08 | ローカル鉄道の旅

「運動公園」。

次第に郊外へ。

               

           「わたらせ渓谷鐡道株式会社本社」。

「大間々」。

         下り方向。

トロッコわたらせ渓谷号の始発・終着駅で、わたらせ渓谷鐵道の車両基地があります。
駅前には、引退した開業当時の車両(レールバス「わ89形」)が保存展示されています。
駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されています。
大間々町は江戸時代に足尾銅山に通じる「あかがね街道」の宿場となり、絹糸や農産物の産地として栄えました。商店街には歴史のある酒蔵や醤油蔵があります。

(この項、「」HPより)

大間々駅は、明治44年(1911)4月15日に開業しました。現在の本屋は開業当初の本屋の老朽化や貨物輸送や旅客の増加で建て替えられたもので、昭和16年3月30日に竣工したものです。木造平屋建セメント瓦葺で外壁はモルタル塗り、内部待合室は内壁の腰は人造石、壁面はモルタル塗りで昭和初期のモダンな雰囲気が現在でも残されています。半世紀以上も現役で稼働してきた歴史的経過の中で、明治から昭和初期にかけての歴史的な建造物の建ち並ぶ大間々の町並みと調和し、市場町として発展してきた大間々町の玄関口にふさわしい風格を持っています。

(この項、「」HPより)

          わたらせ渓谷鐵道わ89-300形気動車。

車内風景。

      車内広告。

右手に渡良瀬川。

足尾の山々が見えてきます。

左手には森が迫る。

旧養蚕農家の趣。

                        【高窓のある民家】

蚕は、群馬の農村経済を支える柱でした。「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」といい、座敷を蚕室とし、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼いました。それだけに、人々は蚕を大切に「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と尊称で呼ぶのが普通でした。そんな養蚕は、群馬の民家構造にも大きな影響を与えました。
 富士見村原之郷や渋川市赤城町勝保沢、片品村針山では、掃き立ててから2階で飼育し、下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる「いぶし飼い」を行っていました。天井の板はすき間を開けて、暖かい空気が上昇するように、2階はまわりに障子をめぐらし、床にむしろをひきました。
 大正から昭和にかけて、稚蚕期に蚕室を目張りして、養蚕火鉢などで保温する密閉育になると、稚蚕期は下の座敷で飼い、大きくなったら2階も含め家全体を使って飼うようになります。一般に、養蚕農家の二階は、蚕室として活用できるように、仕切が無く広々としています。さらに、2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするため、さまざまな民家構造が考え出されていきました。
 北部山間部にある、茅葺き屋根の妻を切り落とした民家。赤城南麓に分布する、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型民家。あるいは、榛名山麓のやはり前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた榛名型民家。屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)も養蚕農家の特徴です。

(この項、「」HPより)

コスモスが咲き乱れる。

「上神梅(かみかんばい)」。

2008(平成20)年に、駅舎及びプラットホームがわたらせ渓谷鐵道の施設としては初めて登録有形文化財に登録されました。足尾鉄道の開業当初からの歴史を見守ってきた駅舎は1912(大正元)年の建造で、駅舎ファンの間では全国的にも「横綱級」と称えられています。珍しい木製の改札が残り、昔と変わらぬ姿の現役の駅舎とともに写真撮影スポットとしても人気があります。

「本宿(もとじゅく)」。

    

               渓谷と切り立つ山間を進む。

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「わたらせ渓谷鐵道」その1。桐生~間藤。旧足尾線。足尾銅山・鉱毒事件。「相老(あいおい)」。(関東ローカル私鉄の旅。その7。)

2023-09-21 20:56:16 | ローカル鉄道の旅

JR桐生1番線ホーム。

わたらせ渓谷鐵道―「桐生」~「間藤(まとう)」

わたらせ渓谷線は、足尾銅山から産出される鉱石輸送のために私鉄の足尾鉄道が敷設し、のちに国有化された足尾線が由来である。桐生駅から大間々駅までは市街地を走り、大間々駅から北の区間では、路線名の通り渡良瀬川上流の渓谷に沿って沢や支川を渡りながら谷筋を遡る。特に初夏の新緑と秋の紅葉の風景が美しく、臨時運行されるトロッコ列車では、風に当たりながら渓谷美を堪能できる。足尾地区では、本路線の建設目的であった足尾銅山の跡地や関連施設が沿線に残っており、一部が観光・見学施設として開放されている一方、廃止された旧足尾本山駅付近では、過去の歴史的な公害である足尾鉱毒事件の影響によりいまだにはげ山が連なり、異観を呈している。

足尾銅山は昭和48年(1973)に閉山しましたが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られています。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として稼働しています。

また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつあります。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われています。

9月19日(火)。晴れ。日光市には雨、雷の予報が出ていて、どうしようか迷いましたが、・・・

   

車内風景。

             仕事、観光、地元。連休明けの平日のせいか、乗客は少ない。

桐生駅南口、インパクトあるお店。

しばらくは両毛線と並行。

渡良瀬川を渡ります。

                 

次第に両毛線から離れていきます。

東武線が近づいてきます。

 

「相老(あいおい)」。

わたらせ渓谷鐵道東武鉄道である。

わたらせ渓谷鐵道のわたらせ渓谷線と、東武鉄道の桐生線が乗り入れ、接続駅となっている。駅番号はわたらせ渓谷鐵道がWK03、東武鉄道がTI 56

駅名は、駅の所在地である旧相生村の地名をそのまま使用すると兵庫県相生駅と重なることと、共に老いるという考えから『生』を『老』に変更した。(「Wikipedia」より)

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JR「久留里線」その7。木更津。与話情浮名横櫛・お富 ・与三郎・こうもり安。『証城寺の狸囃子』・アーサー・キット(Eartha Kitt)。。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-19 21:31:36 | ローカル鉄道の旅

木更津市郊外。

「上総清川」。

           

こうして木更津駅に戻ってきます。

       

木更津は「房総往還」の時、半日かけて見て回りました。その時の記録。

通りのようす。

選擇(せんちゃく)寺。

      「こうもり安」の墓「解説板」。
 歌舞伎「与話情浮名横櫛」で切られ与三郎の相棒としておなじみのこうもり安は、本名を山口瀧蔵といい、文化元年(1804)木更津五平町の大きな油屋「紀の国屋」の次男として生まれました。芝居中の人物像とは異なり、実際はなかなかの男振り、天性の美声に加え、金回りもよく、花柳界の寵児といわれれるほどの人物で、ゆすりを働くような人柄ではなかったようです。毎夜ふらふらと出歩くことからこうもり安と呼ばれ、芝居では右ほほにあるこうもりの入れ墨は、実は左の太ももにあったと言われています。
 ここ選擇寺にある紀の国屋代々の墓碑銘には「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と刻まれています。
              

光明寺の「切られ与三郎」のお墓。

「見染の松」。

 歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の主人公お富 と与三郎 が、この場で見染めて以来ここに来ては逢瀬を楽しみ、この松ヶ枝に袖をかけてはかない恋を語ったと伝えられ、袖掛けの松ともいわれたそうであります。
 かつては、ここに老松 がありましたが、時の流れとともに風雨にさらされ、或は害虫に侵蝕されてしまいこれを再現したのがこの見染の松であります。

名科白(三幕目「源氏店妾宅の場」より。)

与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
    命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から
    めぐる月日も三年(みとせ)越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ
    拠所(よんどころ)なく鎌倉の
    谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
    面(つら)に受けたる看板の
    疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
    切られ与三と異名を取り
    押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
    慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)
    その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
    格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ
    お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
    安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
    帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。

・・・

「矢那川」に架かる「証誠寺橋」の手前奥に「証誠寺」。境内左手には野口雨情作詞・中山晋平作曲の狸囃子「童謡碑」。

        

 1946年(昭和21年)から放送された東京中央放送局(のちのNHK)のラジオ番組「英語会話」(講師は平川唯一)では、テーマソングとして『証城寺の狸囃子』の替え歌『Come Come EveryBody』(カムカム エブリボディ)が使用された。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。
・・・
 1955年(昭和30年)、アメリカ人エンターテイナーのアーサー・キット(Eartha Kitt)が『証城寺の狸囃子』を『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』という題名でカバー(英詞:Bill Walsh)。
当時日本で20万枚近くを売り上げ、文化放送『ユア・ヒット・パレード』でチャート1位を記録するなど、当時の日本における洋楽アーティストの楽曲としては大ヒットになった。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)

 アーサー・キットの『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』は、子供心に覚えています。独特の節回しで印象深い曲でした。
奥まったところに「狸塚」。

※「木更津駅」のテーマソングは、この曲になっています。

まさか、春日八郎の「お富さん」というわけにはいかなかったでしょうね。

作詞:山崎 正 作曲:渡久地政信

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 源冶店(げんやだな)

すぎた昔を 恨むじゃないが
風もしみるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ異名(よいな)も 切られの与三よ
これで一分じゃ お富さん
エーサオー すまされめえ

・・・

ということで、「久留里線」の旅は終わります。

動画からいくつか紹介。

     

             

                  

        

房総往還歩きでは、この踏切を左から右へと渡り、木更津駅前に向かいました。

関東エリアのローカル私鉄の旅もあとわずか。次回は、「わたらせ渓谷鉄道」に乗る予定です。

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JR「久留里線」その6。上り木更津行き。久留里・酒造会社・酒蔵。。馬来田(まくた)。田園地帯。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-18 20:34:08 | ローカル鉄道の旅

上りの車内。 振り返る。

路線図。

         心なしかスピードが速く。

               深い森を抜けて、

トンネルを抜けて。

           

              

※紫外線よけの窓仕立てなので、窓外の緑も青空もさえない色合いになってしまいます。残念!

          

久留里に戻ってきます。酒蔵の煙突が見えます。

藤平酒造(資) 工場?

丁寧に、まっすぐに。ただ素直にうまい酒を。

享保元年(1716年)創業。江戸時代中期より千葉上総は久留里の地で代々酒造りを営み、歴史を刻んで参りました。
銘柄「福祝」を考案したのは、先代の藤平富雄。
現在は亡き先代の想いを受け継ぎ、その子息である三兄弟が中心となって、日々研鑽を重ね、切り盛りしています。
仕込み全般を担うのは次男の藤平典久、麹造りと営業を担うのは三男の藤平淳三、事務全般を担うのは長男の藤平和也。
一本一本を丁寧に仕込み、量産では出せないうまさに誇りを持ち、その技術の粋を守り続けています。
私どもは、年間総生産約三百石の小さな造り酒屋です。(「藤平酒造」HPより)                     

  久留里の街並み。

「久留里駅」を振り返る。

「俵田」。

        

次第に家並みが増えてきます。

        

「馬来田(まくた)」。

馬来田駅の南方にある「道の駅」。

「道の駅 木更津うまくたの里」

※「東京湾アクアライン」に通じる自動車道にある。名称は、「うまくた」となっている。

千葉県・木更津東インターのすぐ横にある「道の駅木更津 うまくたの里」。木更津市初の道の駅として2017年にオープンし、体験型テーマパークとして数々のメディアに取り上げられる人気で、すでに来場者は650万人を突破している。
9,488m2の敷地に立つ施設内には地元名産品が約2,000点揃い、地元契約農家の野菜や果物、行列店の新グルメやピーナッツ商品など千葉の魅力を堪能できる場所だ。ちなみに「うまくた」とは道の駅がある富来田地区周辺の昔の地名なのだそう。(「マイナビニュース」より)

      「横田」。

   視界が広がってきます。

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JR「久留里線」その5。平山。上総松丘。上総亀山。小櫃川・渓谷。CAMPiece君津。亀山湖。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-17 19:34:48 | ローカル鉄道の旅

久留里駅に停車中の列車。

「上総亀山」方向。廃線跡。

     

8月19日(土)に行われた「亀山音楽祭」のポスター。

車内風景。お客さんはぐっと少なく。

                         

久留里から3つ目が終点の「上総亀山」。乗客が少なくなる区間となる。

しかし、夏休みのせいか、キャンプに向かう子ども達や若者が乗っています。

                   

          

小櫃川?

           

       

耕作を放棄した(せざるを得ない)土地?

田畑に混じって、・・・

「平山」。

渓谷美。

列車の窓に当たる。

民家が遠くにポツンと。

「上総松丘」。

間もなく終点「上総亀山駅」。

      

「上総亀山」。

駅前広場のようす。

キャンプにいく子ども達と指導者。迎えの車に乗り込みます。他のお客さんも迎えの車に。当方は、このまま、折り返しとなる列車に乗り、木更津へ戻ることに。

行き止まりの線路。

           JR外房線「大原」までつなぐ計画が頓挫。

       

※上総亀山駅周辺には観光資源がないのでしょうか? けっしてそんなことはないようですが。

            

房総半島のほぼ中央部に位置する君津市の旧亀山中学校と隣接する坂畑小学校の2校を利用したキャンプ場です。
広々とした校庭、また校舎や体育館もご利用いただけます。ノスタルジーあふれる教室は全てがフォトスポット!動画の撮影等でもご利用ください。

(「CAMPiece君津」HPより)

       

亀山湖は1980年(昭和55年)に完成した亀山ダムによりできた人造湖です。房総半島の奥座敷として、緑豊かな大自然に囲まれ、千葉県下一の湖を有する観光地です。

四季折々の良さを感じながらのレジャーがおすすめです。都心からわずかに70分ちょっととは思えない大自然に訪れる多くの観光客が魅了されます。特に関東で一番遅いといわれる絶景紅葉にはシーズン中10万人近くの方が、色とりどりの紅葉を楽しみにいらっしゃいます。是非房総かめやまへ遊びにいらっしゃってください。

注:二箇所とも車を利用するように紹介されているのが、残念!

車の免許を返上したため、車で来ることも出来ず、諦めるしかない。残念!

こうしてタッチ・アンド・ゴーということで、折り返しの列車に乗って戻ることになります。

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JR「久留里線」その4。「・・・久留里酒ミュージアム」。上総掘り。上総亀山まで向かいます。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-15 20:21:25 | ローカル鉄道の旅

館内。

     ずらりと各酒蔵のお酒が並び、けっこうお客さんも入っています。

 

         

    

利き酒。「宮崎酒造 峯の精 ぎんから」。名の通り、かなり辛口。

     ま、この量で200円はちょっと高いかな? (少し飲んでしまいましたが)

一隅に、「かずさ掘り」=君津市域の職人たちが育んだ、掘り抜き井戸工法が紹介されています。

地下にはたくさんの地下水があります。君津市や、そのまわりの市は、地下にある土の種類(しゅるい)やかたむきのせいで、地面にほそい穴を深くあけていくと、そこからわき水のように水がふき出してくる不思議な場所です。君津市には水のわきだす井戸が1300か所くらいあって、それは、上総掘りで掘られたものが多いのです。上総掘りを掘るときに使う、大きな足場を、みなさんもどこかで見たことがあるでしょう。水車のようにまわる車がついた、かわった形をしています。

上総掘りは、君津市糠田の池田徳蔵や俵田の大村安之助など、今の君津市内に住んでいた井戸掘りの職人が、工夫をかさねてつくりあげた技術です。明治時代中ごろに完成しました。

上総掘りのポイントの一つは、掘るときに竹ヒゴを使っていることです。竹ヒゴは、竹を1センチか2センチの幅にわって、長さを6メートルくらいに作り、それを何本もつないで、ロープのように使います。竹はあるていどの固さがあり、それがロープとはちがうところです。竹ヒゴの一番下には、土を掘りくずすノミをつけた、重い鉄の管がついています。地上から竹ヒゴを上げたり下げたりして、一番下のノミで掘っていくのです。上の図は、地上と地中のようすです。下の図は、竹ヒゴをにぎりやすいように、シュモクという道具をつけて井戸を掘っているところで、上にある弓のようなものも、竹をしばって作ったもので、バネのように掘るのをたすけます。

地中にたまった掘りくずは、ときどき地上にひきあげてすてなければいけません。そのために、鉄の管をスイコという道具につけかえて地中におろし、掘りくずをその中にあつめて持ち上げます。このときに、水車のようなヒゴ車が登場します。写真のように、竹ヒゴをまきとったり、また地中に道具をさげるために、ヒゴ車に人が入ってうごかします。

君津のあたりの土なら、 2、3人の、人の力だけで1000メートルもの深さも掘ることができたようです。これまでにない少ない人数で、深く安全に井戸を掘る技術であったので、上総掘りはすぐに全国に広がり、水や石油、温泉を掘ることにも使われました。

その後、機械で井戸を掘るようになり、上総掘りは消えていきました。しかし、水不足になやむ外国に協力するために使われるようになったり、昔のすぐれた技術であることが注目されたりして、上総掘りはまた見なおされるようになります。平成18年には、袖ケ浦市の博物館にある「上総掘り技術伝承研究会」という会の伝える技術が、国の重要無形民俗文化財になりました。

(「」小学生用「伝えたい!君津の宝」HPより)

                写真は、「Wikipedia」より)

※水不足で苦しむアフリカなどでもこの工法が活かされているようです。

まだこの先があるので(「上総亀山」まで乗るので)、土産にお酒を2本、購入。

           

久留里駅に戻ります。

                 可愛いタヌキ。

始発駅の木更津は、童謡「証城(誠)寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)作詞・野口雨情、作曲・中山晋平」のメロデイー。それにあやかったものか。

證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 来い来い来い

己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん

負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
来い 来い 来い
来い 来い 来い

皆出て 来い来い来い

 

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JR「久留里線」その3。久留里。「生きた水・久留里」。手打ちそば「藤美」・藤棚。生きた水 久留里酒ミュージアム。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-09-14 21:25:33 | ローカル鉄道の旅

正面に山が迫ってきます。

「久留里」。

「上総亀山」に向かう列車は、2時間近く待たなければなりません。さて、どうする?

             

大手門風のトイレ。

                  旧蹟の「久留里城」にあやかったもの。

駅前のロータリー。

               列車の到着に合わせて車などの送迎が。

この建物は、後で訪問。

駅前の水屋。                 

 

「古代からの贈り物『生きた水・久留里』」。

「生きた水・久留里」は千葉県で唯一平成の名水百選に選定された水として有名です。この水は約10,000年前(縄文時代)からの水を含み、地下450~650mから湧き出ています。遥かな大地を経て地上に自噴した悠久の水は、古代からの大切な贈り物です。井戸からは24時間豊富な水がこんこんと湧き出ています。まろやかで、すっきりとした飲みやすい天然水の恵みを味わってみましょう。

水を汲みに次々と人が。 

               車に大きな水槽を乗せたお年寄りは、「孫のためにプールの水を汲んでいる」と。 

         たくさんのポリタンクに入れています。 

手に掬ってちょっと飲んでみました。冷たくてまろやかでした。

米袋の倉庫? 

               古い屋根には「庫倉合組利購販信町里留久」。

ちょっと歩いたところに、隠れた名店・お蕎麦屋さんが。

           けっこうたくさんの客でにぎわっています。

天ぷらが美味しい。「藤美」。

「ラーメン」も麺は何とお蕎麦だそうです。お蕎麦はのどごしもよく、美味でした。

              

               店名にもなっている大きな藤棚が後方に。

    

駅前まで戻ってきます。

                     観光案内図。

駅を降りて見た、先程の建物は、「生きた水 久留里酒ミュージアム」です。

            随分大きくしっかりした石造りの建物。

ーどういう経緯で作られたのでしょうか?

2022年10月1日からオープンしたのですが、元々は、お米の貯蔵をしてた場所になります。
吉崎酒造、藤平酒造、森酒造、須藤本家、宮﨑酒造、和蔵酒造、小泉酒造のかずさ八蔵の協力を得てオープンすることができました。
また、JRにも協力をして頂き、酒ミュージアムのポスターを制作して頂いて、久留里線の利用促進にもつながってもらえると良いと思います。

-こちらのコンセプトやこだわりを教えてください。

普通の酒蔵ですと、1種類のお酒しか試飲できなかったりするが、ここではかずさ八蔵すべてのお酒があるので、何種類もの酒造を試飲できるため喜ばれる人が多いです。
おちょこ1杯200円で飲むことができて、3杯飲むと平成の名水100選に選ばれた久留里の水(生きた久留里の水)を差し上げています。

(この項、「」HPより)

    

        

さっそく入ってみます。

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