おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その7。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-21 20:49:03 | 川越街道
                               けっこうな人通り。外国人の姿も大勢。
    生活道路なので、車がひっきりなしに通ります。

 実はお目当てのお店があります。「河村屋」さん。ここで長く仕事をしている方とちょっと遠い縁があって、一度訪ねてみようと思っていました。
 「創作漬け物」のお店。本店は「中山道」沿いの大宮にあります。


                   「河村屋」。

 しばらくお茶を飲みながらあれこれお話をし、「生姜の味噌漬け」など、いくつか漬け物を買って引き揚げます。

 

                          とても美味しい品揃え。 

 東武東上線「川越駅」へ向かいます。途中もすてきな新旧の建物が。


                                              

埼玉りそな銀行川越支店」。
 川越には蔵造りの建物と共に、明治・大正時代の洋風建築も多く残っています。その代表的が埼玉りそな銀行川越支店の建物。
 大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けています。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在です。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていません。
 旧国立八十五銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され八十五番目にできた銀行です。現在の建物は大正7年(1918年)に建設。なんと埼玉県で初めて設立された銀行なのです。
 鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て、塔屋・金庫室付の建物で、塔尾の先端までの高さは25.2mあります。ルネサンス様式を基調としながら、ゼブラ模様の付け柱やアーチ部分がサラセン風にデザインされています。料理名の様に例えるなら、「ルネサンス様式建築 サラセン風」となるはずです。

保岡勝也とは?
 明治・大正・昭和と活躍した建築家です。丸の内の赤煉瓦オフィス街を初め多くの住宅建築を手がけています。川越では4つの作品を設計していて、旧国立八十五銀行本店、旧山崎邸、山吉デパート、川越貯蓄銀行がその建築で、その内川越貯蓄銀行以外が現存しています。
(この項、「」HPより)

                    


鍛治町広場」。
由 来
 この広場のある場所は、現在の町名である仲町になる以前は、「鍛冶町」という町名でした。
 室町時代後期、鍛冶職人の平井某が相州(現在の神奈川県)から移り住み、その後弟子田達もこの町に住んだことにより、「鍛冶町」と言われるようになったと、江戸時代に描かれた「武蔵三芳野名勝絵図」に記されています。

高層マンションと蔵造りと。

                                

水戸街道「石岡宿」で見かけたような看板建築。「田中屋」。木造モルタル造り(のはず)。

「大正浪漫通り」。
                     
こちらの建物もさっきと同じ造り。



                             木造3階建て。

 東武の川越駅まではけっこう歩きます。お店が並び、観光客や地元の人が行き交う通りを進みます。

 (15:40)。こうして、二日間の「川越街道」歩きを完歩。

 道中。都内では宿場と商店街が一体となって今も賑やかな街道筋。埼玉に入っては、まだまだかつての面影を残す旧宿場、裏通り。ケヤキの並木道。
 そして、終点。小江戸・川越の賑わい。

 当初の予想とは違って、けっこう変化に富んだ街道歩きでした。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その6。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-18 20:26:32 | 川越街道
                            市役所前の通りを東に向かいます。「中ノ門掘」跡。
                     
 明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門掘跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
 川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。
 江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。
 1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。
 この際に、天下が治まって間もない時代に、戦いを想定されて中ノ門掘は整備されたと考えられています。
 例えば、敵が西大手門(現:市役所)方面から攻め込んだ場合、この中ノ門掘に阻まれて、本丸(現:初雁球場)方面へ直進することが困難となります。また、堀の深さは7m、幅18m、西大手門側の勾配は30°本丸御殿側は60°になっており、堀が壁のように切り立って敵の侵入を防いでいたことが分かります。
 整備された現在の中ノ門掘跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。
 本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。
 また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。
(この項、「」HPより)

 

                          

人通りはぐっと少なくなります。「郭町」交差点。

「川越市立博物館・美術館」。

川越城本丸御殿」。

 
 嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いたつくりが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。
 川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。
 現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。
 大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。 
                
(この項、「同上」HPより)
                            


「川越城」の全体像。城郭は「市役所」から東に大きく広がっていた。

 
川越城 富士見櫓」跡。
 川越城本丸御殿裏手に「富士見櫓跡」があります。
現在は櫓もなく、高台になっているだけですが、川越城があった頃は、城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった、ということです。
 高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのだそうです。
 川越城本丸御殿の中に川越城富士見櫓模型が展示されていますので、ご覧頂くことができます。
 富士見というからには、当時は富士山も見えていたのでしょうが、現在はマンションや高層ビルなどで見ることができません。
 かなり薄暗く舗装もされていないので、頂上に行かれる方は足下に注意して下さい。
 富士見櫓跡と同じ場所に川越城田曲輪門跡の石碑があり、山頂には御嶽神社が祀られています。
川越城の櫓の役割
■虎櫓(とらやぐら)城の出入り口を警護した建造物。
■菱櫓(ひしやぐら)食料を保管した建造物。
■富士見櫓(ふじみやぐら)天守閣の代わり。
■太鼓櫓(たいこやぐら)太鼓が置かれており時刻と非常時にはそれを乱打して城下に知らせた。
 川越市のホームページによると教育委員会教育総務部文化財保護課では平成12年度から川越城富士見櫓復元整備事業に着手しているそうです。
 現在は、昨年発見された富士見櫓のものと考えられる図面について検証・分析を行なっている。ということなので、もしかしたら近い将来、富士見櫓復元!なんてことにもなるかも。とても楽しみです。
検証中の富士見櫓ではないかとされる図面です。
(この項、「」HPより)

「川越城田曲輪門跡」碑。

立ち入り禁止のロープが張られていましたが、地元の方が上から降りてきて、「大丈夫ですよ。景色がいいですよ。」と。禁を犯して登ってみます。


解説板。 
                                             明治30年建立の「川越城趾」碑。
川越城跡
 川越城は、長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
 江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、8郭・3櫓、12門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
 しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と本丸御殿の一部が残るのみとなった。
 富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた3重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。

南を望む。

                         東を望む。
 
再び「一番街(蔵造り)」へ戻ります。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その5。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-17 18:48:27 | 川越街道
                          「鐘つき通り」突き当たりの通りが「蔵町通り」(一番街)。
 大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。
 同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792年(寛政4)に建てられた大沢家住宅は国の重要文化財に指定されている。
 江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。
 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。
(この項、「」HPより)
旧道からそれて、「一番街」を進みます。


                 「小江戸横丁」



                 国の重要文化財「大澤家住宅」。

「川越元町郵便局」。この建物も通りにマッチしている。

「札の辻」(「高札場」があった)
交差点。ここを右折。

「一番街」(蔵造りの街並み)を振り返る。

旧高澤町」。
 札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒を並べていた。文化15年(1818)に描かれた絵図には、石置屋根・板屋の二階造りの街並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。

 「菓子屋横丁」には寄れなかったので。

 色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。
 素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々…。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。
 「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。
 その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100選”に選定された。
(この項、「」HPより)

「川越市役所」脇の「太田道灌像」が見えてきます。ここが街道の終点。

(14:55)「川越城大手門」碑。

太田道灌」像。

 川越市役所庁舎前(川越城大手門跡)に弓を持った凛々しい太田道灌像が立っています。
 太田道灌:永享4年(1432年)~文明18年7月26日(1486年8月25日)
 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。相模(神奈川県)の生まれ。
 康正2年(1456年)江戸築城を開始、岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の有力者になります。
 文明8年(1467年)山内上杉氏の長尾景春が上杉氏に背くと、以後数年にわたり関東各地で景春方と戦いました。
 これにより、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまで成長させましたが、相模国糟屋(かすや)(現:神奈川県伊勢原市)の主家・上杉定正邸に誘い出されて殺害されました。これは、扇谷家の内部対立と扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言われています。

 長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以後も引き続き埼玉県第一の都市として大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。(川越市長「銅像銘板」より) 

 と言うことで、東京にもゆかりの深い人物です。

 「太田道灌像」は川越の他に、JR日暮里駅前、東京国際フォーラム内でも見ることが出来ます(全てポーズが違います)。また東京墨田区の法恩寺内に「太田道灌の墓」があります。
(この項、「」HPより)

ちなみに日暮里駅前にある「太田道灌像」。

                       

ここが「川越街道」歩きの終点。これから川越の街を散策していきます。平日、さらに暮れかかった頃なのに、まだまだけっこうな人通りです。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その4。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-15 18:49:37 | 川越街道
                            最初の枡形へ向かいます。
街道筋らしいおうちが散見されます。

最初の枡形(鈎の手)。

川越市
 江戸時代には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・寺院・旧跡・歴史的建造物が多く、国から「歴史都市」に認定されている(埼玉県内唯一の認定)。
 戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約704万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い。
 武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点となった。江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
 江戸時代を通して、「江戸の大手は小田原城、搦手は川越城」と言われ、川越藩は江戸の北の砦として重視され、石高に較べ非常に多くの家臣を擁した。川越藩の歴代藩主には、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保などの親藩・譜代の有力大名が配された。
 そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であり、今日でも多くの学校を有す文教都市である。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行った。
 柳沢吉保の頃から川越は「小江戸」と呼ばれるようになる。柳沢吉保は儒学者の荻生徂徠や細井広沢などを召抱えて川越に住まわせて顧問とし、武蔵野の新田を開発、藩財政の安定を図った。
 川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。
 寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ「栗よりうまい十三里」というフレーズと味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。また幕末、川越藩領であった上野国前橋で生糸業を興し、その輸出で川越商人は財を成した。
 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ繁栄を極めた。川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。多摩地域からの物資も、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。
 埼玉県下随一の城下町だったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。現在の埼玉県成立後、最初に市制を施行したのは川越である。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である。また豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会の発足なども埼玉県内で最初である。埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。
 現在では、JR・東武東上線川越駅は1日約19万人が乗降し(埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位、近接する西武新宿線本川越駅を併せた乗降客数は26万人を超える。
 開国期に日本最大の輸出品であった生糸は、産地の前橋から川越藩が横浜の御用商人に専売し莫大な富を生んでいた。生糸と茶という日本の2大輸出品の殖産興業策は川越藩が他藩に先駆けた。

(以上、「Wikipedia」による)

随所にある「観光案内図」。

「いちのや」。

トイレ脇に置かれた御所車? 

「芋十」。

重厚な蔵造り。

                      
                        「旧道」は、観光客がたくさん集まる通りではありませんが、こうした商家などの建物が多くあります。

旧上松江町」標示。
 旧江戸町の南に接する。町名は、唐の国、松江に対比することに由来している。商人町として発展し、現在は、志義町通りから見ると、川越キリスト教会のモダンな洋風建築物がアイ・ストップとなっている。蔵造りや古い形式の木造町屋が数多く残っており、川越街道に沿って古い街並みを形成する地域である。


                     




川越市指定文化財「田口家・屋号 百足屋」。


二番目の枡形(鈎の手)。

旧江戸町」。
 川越城西大手門より、鈎の手までを指す。旧10ヶ町のうち上5ヶ町の一つ。城より江戸へ行くための起点となる町であるため江戸街道と呼ばれていたが、町の繁栄と共に江戸町といわれるようになった。「れんしゃく丁」「唐人小路」などの北条氏時代の古名も伝わり中世以来の繁栄が窺われる。ここは、道路が2回直角に曲がる城下町特有の鈎の手跡である。


川越城西大手門(「市役所」)方向を望む。

二つの枡形の今昔(○)
        
        
1880年代のようす。                    2010年代のようす。

朱塗りの屋根と蔵造りの家。

「大手町」バス停。

その先で左に折れます。この付近からは平日にもかかわらず、大勢の観光客が。
 鐘つき通り」。

 時の鐘」。

   
残したい日本の音風景百選 川越の時の鐘
 私たちは、日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音に囲まれて生活しています。
 環境庁(現環境省)は、全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」として認定しました。
 川越市では、江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」が認定されました。
 いつまでも人々の心に響く、鐘の音と蔵造りの街並みがつくり出す音風景を大切にしていきたいと思います。 川越市

 情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。
 今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝(さかいただかつ)によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。
 現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。 町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。
 時代が変わり鐘つきの方法が鐘つき守りから機械仕掛けへと変化しても、昔と変わらず今も蔵造りの町並みに時を告げている。また、その響きの良い音色は平成 8年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定された。
 木造で3層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の1日4回鳴る鐘の音は、その時間時間の空の色や街の風景、漂う香りなどによってそれぞれに趣が感じられ、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる。
(この項「」HPより)

                           
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その3。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-11 19:52:36 | 川越街道
                          (13:22)国道を進み、しばらくして再び左の道へ。
                               

国道の喧噪から離れ住宅街を進む。 

(14:01)40分ほど歩くと、「不老川(ふろうがわ)」を渡ります。

                        ほとんど水の流れがない。
不老川
 霞川、柳瀬川などと並び、かつての古多摩川の名残とされている。周囲は武蔵野台地に位置し、地下水も低く、水に恵まれないため畑作(狭山茶など)が行われていた。貴重な河川であったことから親しみを込めて「大川」(おおかわ)と呼ばれることもあった。大雨の際には水がすべて不老川に集まるため、しばしば氾濫を起こし、2000年代以降にも河道の拡張工事が行われている。 1983年から3年間連続で「日本一汚い川」になるという不名誉な記録を作った時期もあったが、現在ではその汚名を返上している。
 市民団体や行政により浄化の取り組みが続いており、小魚や水生昆虫、カルガモなどが生息する程度まで回復している。狭山市の流域においてはしばしば鯉が泳ぐ姿も確認されている。週末になると釣り人も多い。一方、近隣河川や池沼同様に特定外来生物であるウシガエルの生息・繁殖も確認されるようになり、回復しつつある生態系を保全するためこれを駆除するとともに、オタマジャクシや卵の除去作業も続けられている。
 元々の読みは「としとらずがわ」であり、江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「年不取川」の表記を用いている。近代以降「不老川」の表記となったことから音読みの「ふろうがわ」という読みが広まり、現在、一般化している。この川を示す看板には「ふろうがわ」「FURO RIVER」という読み仮名がふられているものもある。

「としとらず」の由来
 雨が少ない冬になると干上がってしまい、太陰暦における年のはじめ(旧正月・春節)には水が流れなくなる。このため旧暦正月に全員が1歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣における加齢の際にその姿を現さないため「年とらず川」あるいは「年とらずの川」と呼び習わされている。また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承があり、そのことから、「としとらず」川といわれるようになったともされる。
 生活雑排水が流れ込むようになると水量が増え干上がることはなくなっていたが、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水量が減り、現在一部流域では水が干上がることがある。

年不取(としとらず)川を詠んだ歌

武蔵野や年とらず川に若水を汲程もなく春は来にけり
昔し誰わたり初けん武蔵野の若むらさきの年とらず川


江戸期の随筆より。(詠み人は不詳である。)

(以上、「Wikipedia」より)

旧家のたたずまい。



しだいに上り坂になります。

                   

(14:09)「烏頭(うとうざか)」。左手高台は「熊野神社」。

                                
烏頭坂
 旧川越街道を岸町から新宿2丁目・富士見町へ上る坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。
 新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げした荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた。川越の地名として古くからあり、文明18年(1486)頃、この地方を遊歴した道興准后の『巡国雑記』に、「うとう坂こえて苦しき行く末をやすかたとなく鳥の音もかな」という歌がある。

注:「うとう」という地名は全国に存在していて、空洞状または凹状の地形、さらに切通しを指すところが多いようです。

その先に「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」山車の収納庫。 

コノハナサクヤヒメとはどんな神様?

 コノハナサクヤヒメという神様は、竹取物語のかぐや姫のモデルにもなったといわれる、日本神話に出てくる国津神という神様です。
 物語の中でとても重要な働きをする神様で、今の天皇家につながる神様です。
・・・
コノハナサクヤヒメと富士山・浅間神社との関係
 コノハナサクヤヒメの名前が有名な神社と言えば、富士山頂に奥宮を奉る、富士山本宮浅間神社です。
 浅間神社の主祭神が「コノハナサクヤヒメ」で、配神には、コノハナサクヤヒメの夫であるニニギノミコト、父のオオヤマヅミの神が祭られています。富士山を頂く、浅間神社は古くから富士信仰の拠点になります。
 そのため、諸説ある神社になり、元々はコノハナサクヤヒメが祭神ではなく、富士大権現、富士大菩薩、浅間神、浅間大菩薩と言う呼称で一般に信仰を集めていました。
 その後、江戸時代の文献の中で、富士山がその昔活火山であったことと、コノハナサクヤヒメが火の神であったことから、富士山の主祭神の浅間大神はコノハナサクヤヒメの別称という表記も見られます。
 また、富士山の美しい姿から、富士山に女神がいるということも昔から言われていたことから、後にコノハナサクヤヒメが祀られたとも考えられています。

 コノハナサクヤヒメはアマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトと結ばれ、天皇家につながる子供を生むことになる、日本神話の中でも有名な神様です。
 天孫降臨後、葦原の中つ国で国の経営をしていたニニギノミコト。
 ある日、笠沙の岬を散歩しているときにとても美しい姫に出会いました。その姫がコノハナサクヤヒメです。
 あまりの美しさにニニギノミコトはすぐにコノハナサクヤヒメにプロポーズをします。
コノハナサクヤヒメはそのプロポーズについては父の神であるオオヤマツミノカミに確認をしますと伝えます。
 コノハナサクヤヒメから、ニニギノミコトに婚姻を申し込まれたとオオヤマツミノカミは聞くと、大喜びをします。
すぐに結婚を了承をしますが、ただコノハナサクヤヒメとの結婚を了承するだけでなく、コノハナサクヤヒメの姉であるイワナガヒメも一緒に嫁ぐことを申し出ます。
 オオヤマツミノカミの配慮でコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹二人がニニギノミコトの元を訪れましたが、ニニギノミコトはイワナガヒメをオオヤマツミノカミの下に返してしまいました。
 理由はコノハナサクヤヒメとは違い、イワナガヒメは見た目が醜かったからです。
 オオヤマツミノカミはそのことを受けて、ニニギノミコトにこのように伝えます。
「私がイワナガヒメを一緒に嫁がせたのは、コノハナサクヤヒメは美しい美貌を持っているが、桜の花のようにすぐに散りゆく(短い命)であるため、
イワナガヒメという、岩のように永遠の命を持つものを一緒に授けました。
 しかし、それを断ってしまったため、ニニギノミコト様の子供は天津神のような永遠ともいえる寿命を持つことはできず、短い命になるだろう。」
こうして、神の子供ではあるが、天皇家は人間と同じような短い命になってしまったのです。
 そんな事件はありましたが、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは深い愛で結ばれました。
ある日ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメから懐妊をしたと報告を受けます。
 しかし、ニニギノミコトはそのことについてある疑いを持ちました。
それは、コノハナサクヤヒメとは一夜を共に過ごしましたが、その一夜で子供を授かったと言うのです。
 ニニギノミコトはその子は自分の子ではなく、自分以外の国津神の子ではないかと疑うのです。
 この疑いを受けたコノハナサクヤヒメは激怒します。
 そして、この疑いを晴らすために次のように言います。
「そこまで言うのであれば、その疑いを晴らすために、産屋に火を放ちそこで出産をして見せましょう。天津神の子供であるのならば、どんな状況でも無事生まれます。そうしてその疑いを晴らします。」
 コノハナサクヤヒメは宣言通り、産屋に入ったのち、その小屋に火を放ちます。
 そしてごうごうと燃え盛る小屋の中で3人の元気な男の子を産むのです。
 コノハナサクヤヒメがご出産された三柱の子供は上から

火照命/ホデリ(=海幸彦)
火須勢理命/ホスセリ
火遠理命/ホオリ(=山幸彦)

 と名付けられました。
 そして、3男であるホオリの孫に神武天皇がお生まれになるのです。

(この項、「」HPより)

 「富士浅間神社」は、この先、街道の東側にあります。



                「国道254号線」と合流します。

 (14:14)歩道橋で「国道16号線」、JR川越線、東武東上線を越えて行きます。


                            

旧道をゴールである「川越市役所」まで進みます。


                       


1880年代のようす。「川越街道」以外の道路や鉄道はない。



2010年代のようす。中央が「国道16号線」等との交差点。
 
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その2。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-10 19:39:03 | 川越街道
                                  大井宿・新井本陣跡「解説板」。
大井宿と本陣
 大井宿は、川越街道の6宿場のうちのひとつとして、江戸から約8里、川越城大手門(現川越市役所)から2里半の道程にありました。江戸時代以前の大井宿は大井郷と呼ばれ、川越街道より東方の現在の東原小学校を中心とした「本村」などの地名のところに集落があったことが発掘調査により確認されています。
 江戸時代に入り、川越街道の各宿場が整備されるに従い、この集落が街道沿いに移転させられ、寛永期ごろにはほぼ宿場の街並みができ上がったものと思われます。その後、元禄11年(1697)にはそれまでの旗本米津氏の知行地から川越藩領となり、大井村から大井町(宿)の呼称へと変わっていきました。
 江戸中期の宝永2年(1705)の「大井町明細帳」には、家数94軒、人口479人(男257人・女217人・僧3人・道心2人、このうちに米・酒・塩・小間物などを扱う商人が5人と桶屋1人がおり、また馬が60疋いると記され、宿場としての賑わいが感じられます。
 諸大名や幕府の役人の宿所である本陣は、代々名主役と兼帯で当所の新井家が勤めました。本陣には問屋場もあり、大井宿における公用の伝馬と人足を手配し、荷物や人の継ぎ立てをおこなっていました。継ぎ立ての賃金は、公用の人馬は6人と6疋(のちの天保12年には13人・13疋)までは安い「御定賃銭」で、一般の人々はこの倍の値段の「相対賃銭」でした。
 川越藩主の参勤交代などの通行では、江戸に近いため川越街道の宿場で宿泊することはなく、大井宿本陣においても小休と人馬の継ぎ立てだけがおこなわれていました。川越街道の交通量は次第に増えていき、旅籠屋・茶屋として河内屋・柏屋・うどん屋・中屋、木賃宿では中島屋がありました。明治維新後は公用の継ぎ立てはなくなり、一般の人々の通行で旅籠や茶屋が賑わいましたが、明治14・15・25年の3度の大火にあい、街並みはほとんど焼失してしまいました。

沿道のおうち。

 「大井宿」に入り、「大井橋」と表示が出ている下には「砂川堀」。

 現在は、この付近では暗渠(下水路)となっています。右下を覗くと、遊歩道になっていて、窪地が東西に続いています。東側に降りて行くと、「大井」という地名のもとになった「大井戸」が復元されています。
 復元された資料を見ると、形式は、「まいまいず井戸」のようです。これは、かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られます。
 すり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分に井戸を掘る形式で、すり鉢の内壁には螺旋状の小径が設けられ、利用者はここを通って井戸に向かいます。

注:「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれています。
  「まいまいず井戸」は古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指している。
いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)


(12:06)「理容店」脇に「従是川越迄二里十八丁」と書かれた標柱。
1867年作製の「大井町絵図面」には、本陣の脇に高札場が描かれています。江戸時代の宿駅の高札場には切支丹禁令をはじめとする高札などの他に、駄賃と人足賃及び次の宿までの
里程を記した高札が掲げられていました。大井宿の高札場と考えられる場所には、「従是二里十八丁(約10キロメートル)と記された柱が立ち、ここが宿場町であったことを思・・・。

この付近のようす。

その先に「新井本陣」跡。

                        
                    2017年5月に建物を利用して「カフェ」を開いたそうです。人気なのか、けっこうな車の数。

(12:17)「大井小学校」のところには、「旧大井村役場」。

                          
旧大井村役場
 この建物は、昭和12(1937)年に大井村役場庁舎として建てられました。寄棟(よせむね)形式の2階木造建築・のべ床面積は196.24平方メートルで、外壁はモルタル施工されています。飾りの少ないシンプルな外観は木造洋館風の建物で、当時の官公庁舎で数多く用いられました。川越街道に面した正面入口を入ると、1階正面がカウンターごしに事務室、左には村長(町長)室がありました。2階には議場・議員控室などがありました。1階南側には和風につくられた付属室があり、用務員室・宿直室になっていました。昭和46年12月まで大井町役場として使用されていましたが、その後は東入間警察署・大井小学校・大井町教育委員会が利用していました。昭和初期の官公庁の建造物が次々と姿を消していく状況にあって、川越街道沿いでは唯一残されているのがこの旧役場庁舎です。外観上、一部に手が加えられているものの、基本的な構造など建築当時のものがよく残されていること、数少ない官公庁の木造建造物であることなどにより、平成14年2月14日に国の登録有形文化財になりました。

(この項、「ふじみ野市」HPより)

 旧道は国道から分かれ、左手の道を進みます。
 

交差点に大きなエノキが何本か。どれかが一里塚上に植えられたエノキのようです。
 
 エノキは、江戸時代に主要街道の一里塚が整備された際に、多く植えられました。エノキは成長が早く枝を繁らせ、よく根を張るので塚の土盛りが崩れるのを防ぐということで採用されたようです。
参考「日光御成街道・下野田の一里塚」。

車の量も少ない道をのんびり。

                        

 (12:28)右手に常夜燈が建っています。柱の正面には「奉納 阿夫利神社常夜燈」、左面には「大山 武蔵野地蔵 ところさわ道」とあります。
 

                                 

解説板。「角の常夜燈」。
 神奈川県丹沢山地の霊峰大山の阿夫利(あぶり)神社への参詣旅行のときに、亀久保村から最初の曲がり角に建てられたのでこの名前があります。江戸時代後期の享和2(1802)年に建てられ、明治30(1898)年に笠石と台石が再建されました。左側面には「大山 武蔵野地蔵(むさしのじぞう) ところさわ 街道」と刻まれ、川越街道から所沢方面に分岐し、三富(さんとめ)開拓のために開かれた地蔵街道が大山に向かう道として使われたことがわかります。

和食のお店「美可美」。こんもりとした林の奥に。(こちらは店の裏側? )

旧家の趣のおうち。

再び国道に合流します。

(12:41)その手前、「亀久保神明神社」の西側に馬頭観音。
ここにも大和田宿の「鬼鹿毛伝説」にちなむ伝説があります。

国道沿いのお店に入り、ようやく昼食休憩に。(13:11)そして、再開。
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その1。(「川越街道」第2日目。)

2019-01-09 19:51:33 | 川越街道
                                  (10:33)「大和田宿」への道。


 坂道を緩やかに下って行きます。右手の小高いところに「馬頭観音」。
鬼鹿毛(おにかげ)の伝説
 旧川越街道沿い、大和田と野火止の境に、石造の馬頭観音さまが建っています。元禄9(1696)年の銘文がある三面六臂の馬頭観音は、この地区の人たちによって、鬼鹿毛さまと呼ばれていて、名馬鬼鹿毛にまつわる伝説が伝えられています。
 「昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまずき倒れました。
 しかし、さすがは名馬、ただちに起きあがり主人を目的地まで届けたといいます。所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
 やがて、大和田の地にさしかかると、往路愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡きがらを見つけました。鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
 村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。

(この項、「新座市産業観光協会」HPより)

                「川越街道」解説板。
川越街道
 川越街道は、川越往と呼ばれ、江戸日本橋から川越まで約11里を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配されました。又、家康以下、三代将軍も、鷹狩りや参詣にこの街道を往来し、松平信綱が川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六カ宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。
 「身辺武蔵風土記」によると、大和田町は、

 都の西にあり。江戸より六里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許り係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。

と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や遺構が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。 

「馬頭観音」の右手には芭蕉の句碑。「花は賤の眼にもみえけり鬼薊(おにあざみ)
寛文6年、23歳の作。「賤<しず>」は身分の低い者、卑しい者、のこと。
 「賤」たる自分でも鬼アザミの紫の花はよく見える、との意。(「賤の目には鬼は見えない」という諺があるのを受けての句のようです。)
                  「鬼アザミ」(「Wikipedia」より)

「大和田宿」。

                 (10:42)「大和田中町」交差点。
大和田宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県新座市に位置する。
 江戸時代になると柳瀬川の渡河地にあたる大和田が宿場となった。上宿・中宿・下宿によって構成されている。宿場より南の現在の野火止交差点で引又街道(現在の志木街道)と交差しており、浦和・清瀬方面へも交通していた。
                   

宿場を出ると、「柳瀬川」。旧道は川のところで行き止まり。

左手にある「国道254号線」の「英(はなぶさ)橋」を渡り、国道のインターをくぐって進みます。
  

この付近の今昔。

1880年代のようす。直線に宿場を形成。



2010年代のようす。旧道は「国道254号線」と合流。


左手の崖には「冨士山講」の石碑がいくつか並んでいます。
    

その先に(10:58)「跡見学園女子大」。

 (11:03)国道をさらに進むと、ケヤキ並木になります。中央に「川越街道」という大きな石碑。


                               

上り線(新座方向)の右側に遊歩道があります。

ケヤキ並木。

遊歩道のところどころに「サザンカ」などが植えられています。

案内表示。

(11:21)ケヤキ並木の終わりにも「川越街道」碑。

土蔵造りのあるおうち。

すっきりと伸びたケヤキ。
                               この付近ではケヤキが目立ちます。

養蚕農家の面影がある家のつくり。

現代風の長屋門? 

(11:34)しばらく進むと、今度は松並木となります。


 街道の周囲は、宅地造成が盛んに行われているようです。
 

中央分離帯には松以外にもサクラ、カエデなどが植えられています。

(11:52)「川越街道」碑。


江戸と川越を結ぶ川越街道
 竹間沢と藤久保を通る川越街道は、江戸時代の寛永年間(1624~43)に江戸と川越を結ぶ約44kmの街道として整備され、中山道の脇往還としての役割を果たしました。川越街道と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからのことです。江戸時代には「川越道中」「川越往還」などと呼ばれていました。現在、わずかに残る松並木が、往時の様子を伝えています。さて、ほぼ江戸時代の経路を踏襲していると考えられる現在の経路ですが、三芳町内には中央分離帯によって上り車線・下り車線2本に分かれている箇所が2箇所あります。実は、下り車線は昭和初期に新たに整備されたものです。下り車線を新設する際、やむなく木宮稲荷神社の境内を通すこととなり、神社に面する中央分離帯の中に幟立てが今も残されています。
(この項「」HPより)

「大井宿」に入って行きます。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その6。(「川越街道」第1日目。)

2019-01-07 19:55:23 | 川越街道
                         (14:43)「膝折宿」脇本陣。


高麗家住宅(膝折宿 脇本陣)
 朝霞市膝折町は室町時代から古い宿場と伝えられ、江戸時代末には旧川越街道の宿場として民家が建ち並び、特産品を売る市も立ち、この地方の商業の中心地として栄えた場所です。
 高麗家は、この膝折宿の中心部に位置し、屋号を「村田屋」と称して旅籠を営んでいました。
 建物の建設年代は、建築様式の特徴から18世紀末期の安永~天明期(1772~1789)頃と推定され、現在でも当時の旅籠の建築様式が残されており、川越街道膝折宿の面影が残る貴重な建物です。
                      

本陣は郵便局付近だったようです。

                          

 宿場町の頃の面影はほとんどありませんが、門構えや建物にかつての雰囲気が残っています。


「膝折」バス停。

膝折宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県朝霞市膝折町にあたる。
 膝折の名は、賊に追われた小栗助重が鬼鹿毛という名の馬に乗って当地まで逃れてきたところで、鬼鹿毛が膝を折って死んだことに由来すると伝えられる。室町時代には既に宿駅としての機能を持ち、市が立って商人が集まった。
近世には川越街道4番目の宿場として、平林寺や仙波東照宮の参拝客、川越藩の参勤交代などで賑わいを見せた。白子宿、大和田宿のいずれからも33町の距離で、万治3年(1660年)の検地帳によると、本陣・脇本陣を中心に39の商家があった。脇本陣だった村田屋が現存する。本陣の跡地は膝折郵便局(膝折町2-4)となっている。1932年までは自治体として膝折村が存在していたが、町制施行の際に改称し朝霞町となった(1967年市制施行)。川越街道には対になる地名として脚折があり、現在も鶴ヶ島市に残る。

注:「膝折」は、上の由来説話とは異なり、「急な斜面を下るところ」という意味をもつ地名のようで、町内には今でも急な坂道があります。「膝折」は「黒目川」へ下る地形上にあり、このような地名になったと思われます。

                        

 「膝折1丁目」交差点を左折。(14:51)「黒目川」を越え、その先の三差路を左に進みます。
 



しばらく進むと、「横町の六地蔵」のところに。
 川越街道沿いには、様々な石仏・石碑が、堂や、道筋に残り、人々の信仰や、生活の様子を今に伝えています。
 横町の六地蔵は、享保17年(1732)に造立された6体の地蔵菩薩の丸彫立像です。・・・

(15:05)その先の交差点が「野火止下」。

(新座市)「野火止(留)」という地名から命名された「野火止用水」はここから南西にある「平林寺」付近に。

野火止用水の歴史
 (「小平市」HPより)作成部署:環境部 水と緑と公園課

新緑の頃の野火止用水
 野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
 開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
 徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
 その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
 しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
 小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
 そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。

「野火止大門」交差点。左1.5㎞ほど進むと、「平林寺」。

右手に藁葺き屋根のおうち。

その先、庭先に牛が。

ここにも。

今回の最終地点、「武蔵野線」のガードが見えてきます。

(15:24)「野火止上」交差点。

「野火止(留)」という地名の由来
 かつて焼畑農業が盛んに行われ、関東ローム層の乾燥した土壌が草木の燃え広がりを早めたことから、延焼を食い止めるために用水が多数造られたことが由来とされている。また、古くは野火止塚に由来し、文明年間に記された「廻国雑記」にもこの地名が読みと取れるという。

立派なケヤキが目に付きます。

(15:32)新座駅前。ここから武蔵野線経由で帰ります。


1880年代のようす。
                        斜めの道が「川越街道」。交差するのは、「志木街道」。


2010年代のようす。中央は「武蔵野線」。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その5。(「川越街道」第1日目。)

2019-01-04 19:05:49 | 川越街道
                              アップダウンの坂道が続きます。


(13:54)坂道の途中、右手の「伯楽製鋲所」の敷地に「馬頭観音」。

    入って右手の大きな祠の中にあります。

会社名の「伯楽」と「馬頭観音」の関連は? 

 国語の漢文でよく教材として出てきます。
『雑説』(韓愈)
 世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇(ただ)奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)して、千里を以て、称せられざるなり。
 馬の千里なる者は、一食に或いは粟(ぞく)一石を尽くす。馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり。 是の馬や、千里の能有りと雖も、食飽かざれば、力足らず、才の美、外に見えず。且つ常馬と等しからんと欲するも得べからず。 安くんぞ(いづくんぞ)其の能の千里なるを求めんや。 之に鳴けども、其の意に通ずる能はず。策(むち)を執りて之に臨みて曰はく、「天下に馬無し。」と。嗚呼(ああ)、其れ真に馬無きか、其れ真に馬を知らざるか。

現代語訳
 世の中に馬を見分ける名人がいて、そこで初めて、一日に千里を走る名馬がいるのだ。千里を走れる名馬はいつの時代でもいるのだけれど、名人は、いつの時代にもいるとは限らない。だから、たとえ名馬がいたとしても、ただ使用人の手によって粗末に扱われ、馬小屋の中で(平凡な馬と)首を並べて死んでしまい、千里の馬として賞賛されることはないのである。 
 一日に千里を走る馬は、ときには、一食につき、穀物を一石も食べ尽くしてしまうこともある。(ところが)飼い主は、その馬が一日千里を走る馬だとは分かって飼っていない。(そのため)この馬は、千里の能力を持っているのに、餌に満足できず、力が発揮できず、名馬としての才能の素晴らしさが発揮されない。 
 さらに(その名馬が)、(他の)平凡な馬と同じように生きようと思っていてもできない。(こんな状況では)どうしてその(名馬としての)千里も走るという素晴らしい能力を求めることができようか(いや、求めるのは無理である)。(この馬が)飼い主に鳴いて(訴えて)も、(飼い主は)馬の気持ちを理解することができない(名馬にふさわしくない粗末な扱い方しかできない)。それなのに、飼い主が鞭(むち)をとってこの馬に向かって言うには、「この世には名馬がいないものだ。」と。
 ああ、(はたして)本当に名馬が(この世には)いないのだろうか、(それとも、)名馬であることを見抜けないのか。

作者の意図(寓意)
 もし優秀な人材がいたとしても、暗愚な君主だと、その優れた才能を見抜くことはできず、その人物は登用もされない。

 「名伯楽」というように、スポーツなどで育成に優れた指導者のたとえに使われます。伝説的な話は仰木監督とイチローでしょうか。前監督に打法が疎んぜられ、二軍暮らしをしていた鈴木の天賦の才を見抜き、改名させ、超一流の打者に育てたことは有名です。

 「都道109号線」と合流し、左に進みます。

(13:59)「外環自動車道」を歩道橋で越えます。

                                                        
 その歩道橋には、
 
 理化学研究所仁科加速器研究センター超重元素研究グループの森田浩介グループディレクター(九州大学大学院理学研究院教授)を中心とする研究グループ(森田グループ)が発見した「113番元素」を国際機関が2015年12月に新元素であると認定しました。
 そして、森田グループに発見者として新元素の命名権が与えられ、2016年11月、元素名が「nihonium(ニホニウム)」、元素記号が「Nh」に決まりました。欧米諸国以外の研究グループに命名権が与えられたのは初めてです。
 元素周期表にアジアの国としては初めて、日本発の元素が加わりました。「元素周期表に日本発の名前を書き込む」という日本の科学者の夢が、ついに実現しました!
 (「」HPより)

 この近く、「外環道」の西南にその研究所があるようです。

こちらは、「干支」。

                               


(14:13)賑やかな通りになりますが、右手に旧道が残っています。

右手奥に地下鉄の車両基地が広がっています(↓)。

すぐに都道に復帰、しばらく進みます。


「幸町3丁目」交差点の先にも短く旧道が残っています。

 
                               「朝霞警察署」方向を望む。

(14:42)「膝折坂下」バス停。ここで、「膝折宿」に入ります。

膝折宿(ひざおりじゅく)
川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県朝霞市膝折町にあたる。
 膝折の名は、賊に追われた小栗助重が鬼鹿毛という名の馬に乗って当地まで逃れてきたところで、鬼鹿毛が膝を折って死んだことに由来すると伝えられる。室町時代には既に宿駅としての機能を持ち、市が立って商人が集まった。
 近世には川越街道4番目の宿場として、平林寺や仙波東照宮の参拝客、川越藩の参勤交代などで賑わいを見せた。白子宿、大和田宿のいずれからも33町の距離で、万治3年(1660年)の検地帳によると、本陣・脇本陣を中心に39の商家があった。脇本陣だった村田屋が現存する。本陣の跡地は膝折郵便局(膝折町2-4)となっている。1932年までは自治体として膝折村が存在していたが、町制施行の際に改称し朝霞町となった(1967年市制施行)。
 川越街道には対になる地名として脚折があり、現在も鶴ヶ島市に残る。

(この項、「Wikipedia」参照)

      
      
1880年代のようす。丘陵地の街並み。         2010年代のようす。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その4。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-28 19:20:11 | 川越街道
                              「白子川」を渡り、「白子宿」(和光市内)へ。

1880年代のようす。○が「白子宿」エリア。


2010年代のようす。まだまだ緑が多い。東北側に東武東上線。

白子宿
 川越街道(川越・児玉往還)にあった宿場。現在の埼玉県和光市白子にあたる。
 現在の川越街道旧道と白子川が出会う場所から熊野神社までが中心部と推測される(白子2丁目)。豊富な湧き水を利用した造酒が盛んであった。
 元々白子(シラコ)は「新羅」の転訛で、渡来人らが開いた土地とされ、古代からこの辺り一帯の中心地であったと推測されている。川越街道がこの地に宿場に置いたのも、自然発生的な結果であろう。
 しかし並走するように北側に東武鉄道が開通すると成増駅と和光市駅周辺に賑わいは移り、現在は和光市の町名に残るのみとなっている。当時の面影を残すものは熊野神社や富沢家などを除いてほとんどない。
(この項、「Wikipedia」より)

(13:33)「白子川」。

「くつがなる」の歌詞。 
1お手(てて)つないで 野道を行(ゆ)けば
 みんな可愛(かわ)い 小鳥になつて
 歌をうたへば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る

2花をつんでは お頭(つむ)にさせば
 みんな可愛(かわ)い うさぎになつて
 はねて踊れば 靴が鳴る
 晴れたみ空に 靴が鳴る

この童謡の作詩家・清水かつら氏と「白子宿」の関係は?

郷土の偉人 童謡詩人 「清水 かつら」
<<< 童謡詩人 清水 かつら >>>(1898年~1951年)
 日本を代表する童謡詩人である清水かつら(本名・桂)は、明治31年(1898年)7月1日に東京本所小名木川(現在の東京都江東区深川)で生まれました。
 子どもの頃から文学に深い興味と優れた理解力があり、商業学校を経て、出版社に入社し、雑誌の編集に携わるかたわら詩作に励みました。
 大正12年(1923年)の関東大震災で家屋・家財を失ったかつらは、母の実家のある新倉村(現和光市下新倉)に身を寄せ、その後、白子村(現和光市白子)に移り住むことになりました。
 昭和26年(1951年)7月4日、病気でこの世を去るまで、この地で武蔵野の自然と子どもの純真さを愛して作詩した数々の童謡は、多くの人々に親しまれています。

代表作
叱られて・靴が鳴る・雀の学校・みどりのそよ風 など

(この項、「」HPより)

東武東上線和光市駅南口にある歌碑。 

                              (HPより) 

橋のたもとにある「道路元標」。   

現在の街並み。  

  「白子宿通り」の標識(「中宿」付近)。 

「魚くめ」。

上り坂の右手のおうち。旅籠「川越屋」跡(富澤家)。

「大坂」への上りから宿内を望む。

けっこう急な坂道にさしかかります。

左手には「大坂ふれあいの森」が。

 
湧き水の町「白子宿」
 お江戸日本橋から川越まで、川越街道の宿場として栄えた。江戸時代の紀行文に、「此のしらこ宿の町の左右には清潔の水漲(みなぎ)り流れて潤沢なるは尤(もっと)も浦山(うらやま)し」とあります。石垣湧水道など湧水利用の文化があり、白子は「自然と歴史の交差点」と言われるゆえんです。湧き水と共にのこしていきたい和光の宝です。


陽光と せせらぎの音 森の里 まり子

 武蔵野台地末端から湧き出す水とそれを取り囲む樹林地にはイヌタデ、ムクなどの茂り、カタクリ、イチリンソウ、キツネノカミソリなどの野生植物が咲く、春はウグイスなどの鳴き声が聞かれ、夏になると水辺にはオニヤンマやシオカラトンボが飛び交う光景が愉しめる(昔はホタルもたくさんいた)。とても貴重で豊かな生態系が残された市民緑地です。           

                    振り返る。

(13:46)「笹目通り」を越えて行きます。 
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その3。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-27 21:46:55 | 川越街道
(11:51)旧街道(北一商店街通り)は「環八通り」の上に出ます。

大山道標」。
下練馬の大山道道標
 旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
 江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。

東高野山道標
 「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。

 この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8㍍ほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。
 移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれたいました。現在は見学しやすいように向きを変えています。

 不動明王像の台座には「従是大山道 天下泰平 国土安全」「ふじ山道 田なし三里 府中え五里」と刻まれています。

「環八通り」を越えた右手には脇本陣、さらにその先には本陣跡がありますが、脇本陣の内田家は工事中。


相変わらず商店街が続きます。歳末大売り出しの最中。
                          しきりにアナウンスで景品の種類が「足軽」とか「旗本」とか言っているようですが聞き取れず。

浅間神社には「旧川越街道」の解説板。
旧川越街道
 この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
 江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南に折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継ぎの問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。


この神社には「富士塚」が残っています。

ここにも解説板。
旧川越街道
 ・・・「栗より(九里四里)うまい十三里」は、川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51キロメートル)でした。・・・

北町上宿公園」。
・・・宿場町は上宿・中宿・下宿に分かれ、現在の北町2丁目付近は「上宿」と呼ばれていたことから、現地名の「北町」と合わせこの公園名を「北町上宿公園」としました。
                              

(12:19)「下練馬宿」を出ると、「国道254号線」に合流します。

              

地下鉄「赤塚」駅付近で昼食休憩。駅手前に「庚申塚」。

(13:03)再開。武者姿のモニュメント。 
 「鎌倉古道 至 はやせ 至 かまくら」。 (注:「はやせ」は、荒川の渡し名。対岸の戸田へ渡る。)

(13:16)その先には「小治兵衛窪庚申尊」。
庚申塔
 庚申庚申 (かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待庚申待という。この供養に立てたのが庚申塔庚申塔である。
 この塔の正面には六手を持った青面金剛青面金剛 が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指て三猿三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明3癸卯(みずのとう)年2月吉日と刻んである。庚申様は道祖神道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。
 このあたりは「小治兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また、「橋を作ってくれた盗人小治兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は一度は松月院松月院に永代供養永代供養を依頼した時期もあったが、成増成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。

昭和63年1月吉日 成増南町会氷川神社管理運営委員会

 以下は「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
ストリートビューと「ウィキペディア(Wikipedia)」で東京(江戸名称)の街並を見てみよう。のHPから引用します。

・・・
 小治兵衛窪の地名の起こりについては、次のような伝説がある。
 昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
 ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなったというものである。 (「小治兵衛窪庚申尊   成増2-6」より)
・・・
 昔、ここを流れていた百々向川に1本の丸太橋が架けられていましたが、毎晩のように強盗が出没し、1本橋ゆえ逃げ場がないため、村人からはたいそう恐れられていたそうな。ある朝、立派な橋に架け替えられていて、橋の手すりに「たくさんの悪いことをしたので、罪滅ぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていたそうな・・
 小治兵衛窪付近にはかつて、共同の洗い場があって付近の農家が野菜を洗っていたといいます。(「スリバチブログ – 小治兵衛窪という名の二級スリバチ」より)

「国道254号線(現川越街道)」。

「成増」駅を過ぎ、下り坂になると、旧道は右の道を進みます。 

「新田坂」。

だんだん国道との高低差が出てきます。

旧道は一気に下って行きます。坂の途中に道祖神や地蔵などが集められています。 

(13:29)坂道を振り返る。

 旧道をしばらく進むと、埼玉県和光市に入ります。次の「白子宿」へ向かいます。

道沿いのおうち。       
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その2。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-26 22:28:19 | 川越街道

「下頭橋」を渡ってすぐ左の道を進むのが、「旧川越街道」。

                              

 「環七」と「国道254号線(現川越街道)」との交差点「板橋中央陸橋」にぶつかり、そのまま進みます。

  
            その手前に、「旧川越街道」という標識あり。                        

(11:17)「本郷まで9㎞」ポスト。

 
しばらく国道を進み、右の道に入ります。↓の道。「下練馬宿」となります。
国道の中央分離帯にある「五本けやき」が見えてきます。

  

改正道路と五本けやき」。
 昭和の初め、東京の郊外に都市化の波が広がっていったが、これにともない、都市計画道路工事も相次いで行われた。
 新川越街道(現・国道254号)も一環として新設された道路の一つで、昭和2年に計画されており、このうち板橋区内の工事は9か所に分けられ、昭和8年から同19年にかけてそれぞれ完成をみている。
 当初、旧川越街道と区別することもあって改正道路と称していた時期があった。
 さて、五本けやきは元板橋村々長・飯島弥十郎家の屋敷林の一部であった。道路用地となったため、切り倒される予定であったが、同家の強い要望もあって工事は木を避け、昭和13年~翌14年にかけ完成した。
 武蔵野の面影を残す五本けやきは、ドライバーの疲れを癒やすオアシス的存在であり、昭和45年には地元有志によって五本けやき保存会も発足し、その保護に努めている。

街道に戻ります。

周囲を高い建物で囲まれた趣のあるおうち。

よく手入れされた大きい庭のおうち。

 ここも、街道沿いに発展した商店街。「下練馬宿」。
「宿場まつり」開催中。

東武練馬駅周辺で11月18日、「下練馬宿(しもねりまじゅく)まつり 将軍綱吉と練馬大根」が開かれる。
 練馬区北町の3商店街(北一商店街振興組合、きたまち商店街振興組合、ニュー北町商店街振興組合)が組織する「下練馬宿活性化委員会」が、区内唯一の宿場町「下練馬宿」があった北町地域の魅力を発信することを目的に開く同イベントは、今回が初開催。
 江戸時代、江戸城から川越城を結ぶ川越街道が通り、江戸から大山・富士山へと続く大山道が分岐する同地域は、宿場町「下練馬宿」として栄え、徳川綱吉が下練馬村の大木金兵衛に練馬大根の培養を命じ、年々献上させていたという言い伝えがある。
 当日は、言い伝えを再現する劇や徳川綱吉、金兵衛などに扮(ふん)した約50人が商店街を練り歩く時代行列を行う。再現劇は、電車の見える公園、浅間神社、北町上宿公園の3会場で行う。当日、和装で来場し、3会場でスタンプを集めた人に先着で練馬大根や肉引換券を進呈する。

(この項、「練馬経済新聞」HPより。既に終わった行事ですが。)

 すぐ右から来る道は中山道の志村坂上からの「大山道」らしい。


「旧中山道」清水坂との分岐点にあった道標を再掲。
    

富士・大山道の道標と庚申塔」。  
 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
 向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳澤(西東京市)・府中への距離が示されています。
 この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
 平成17年3月    板橋区教育委員会 

この商店街もけっこう賑わっています。

                                 

川越街道 下練馬宿
 中山道の脇街道である川越街道は板橋宿からわかれ、江戸城から川越城を結ぶ道として整備されました。
 ここ北町は、練馬区唯一の宿場町として栄え、商店街が続いています。この辺りは下宿と呼ばれ、鍛冶屋、紺屋(染め物)などがあり、江戸時代鷹狩りの餌となる「けら」を扱う「けらや」もありました。
 板橋区との境には、王子、戸田への道標となる馬頭観音の祠が道路の中央にあります。錫杖八等線の上には「従是大山道」と刻まれた道標があり、富士・大山道が分岐しています。
 富士・大山詣でをする人たちで賑わいを見せていたことがうかがい知る事ができます。
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JR埼京線「板橋」駅~JR武蔵野線「新座」駅。その1。(「川越街道」第1日目。)

2018-12-24 18:49:20 | 川越街道
                                  旧中山道との分岐点「平尾追分」(↓)。

 2日間の「川越街道」歩き。
川越街道
 戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道であり、また江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えた。
 日本橋から川越城下まで栗(九里)より(四里)うまい十三里とうたわれ、「川越いも」の宣伝にも一役かった。
 江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置された。また、家康以下、三大将軍も、鷹狩りや参詣にこの街道を往来し、松平信綱が川越城主となってからは、さらに整備されるようになった。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六か宿が設置され、人馬の往来が盛んであったが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったという。
(「人力・旧街道ウォーキング」www.jinriki.info/kaidolist/kawagoekaiHPより拝借)

1880年代のようす。○が「平尾追分」。

2010年代のようす。頭上は首都高に覆われている。

(10:14)JR埼京線「板橋」駅脇を通る「旧中山道」。

 その先、板橋3丁目交差点が「平尾の追分」で、右手奥の商店街に進むのが「旧中山道・板橋宿」で、左側の「国道17号線」「首都高」の下を行くのが旧川越街道になります。
黄色いビルの脇を通るのが「旧中山道」。3年前に通りました。

左に折れていきます。



                    「板橋四つ又商店街」。

案内板。高速道路下でちょっと気の毒な印象。
 ここは、旧中山道から分岐した旧川越街道と高田道(高田・雑司ヶ谷へ至る道)が交差していたところ。旧川越街道は中山道の迂回路として使われ、大名行列は、この道を通り川越を経て熊谷方面に向かったそうで、当時からこの界隈は賑わっていたようです。

 「山手通り」を越えると、人通りの多い「遊座大山商店街」に。
  「遊座大山」。

(10:37)東武線の踏切を越えます。左手に「大山」駅。

 その先はアーケードが続く「ハッピーロード大山商店街」。年末のせいか、買い物客でごった返しています。こんな元気な商店街を通るのは久々です。
 

 旧中山道では「巣鴨地蔵通り(じじばばの原宿通り)」や「板橋宿」も街道沿いに商店街が発展し、今も賑やかな通りになっているようです。この川越街道もそんな感じ。
けっこうなことです。

 600㍍以上、長く続いたアーケード街を抜けると、「国道254号線」に合流します。右手には大きなおうち。


 この先、ほぼ「国道254号線(現「川越街道」)」をなぞっていきます。最寄りの鉄道としては「東武東上線」となります。

 (10:47)「日大病院入口」交差点の先で、右手の旧道に入ります。この先から「上板橋宿」となります。
 

「下頭(げとう)橋通り 旧川越街道」という標識。

住宅街のゆるやかな坂道を進みます。

右手の神社の境内にある「解説板」。
旧上板橋宿概念図
 川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後にも通じていました。この弥生町沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の3宿に分かれ、文政6年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道幅は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初め頃まで遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。
 上板橋村は、町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立てを担っていました。



現在と道筋はほとんど変わりません。



街道筋らしい建物が一軒。

(10:59)「石神井川」に架かる「下頭橋」にさしかかります。

                            「石神井川」。

「下頭橋」手前、「下頭橋六蔵尊」にある解説板。下頭橋
 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたもの。
 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆さ榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨をいた受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。・・・

 
1880年代のようす。中央に「下頭橋」。



2010年代のようす。蛇行していた「石神井川」が直線に。↑が旧道。
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