おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ちょっとすねて見せただけ? 実は・・・。

2017-10-26 21:17:11 | 世間世界
公明、議席減で自民としこり=「自業自得」の声も
 心底思っているかどうか。「自業自得」なんてことは思ってもいないはず。

 まして、「コウモリのような、主張ではなく強い者に擦り寄るという本音が見透かされた気がする」なんていう殊勝さは、今までまったくお持ちでない御仁たち。でも、しかたがない。一応言っておくか! くらい。

 学会員向けのポーズにすぎない、と思う。

 今後、憲法改「正」で、右往左往する? それでも、結局、アベに盲従して行くしかない、日本会議にすりよるしかない(はず)。

 もちろん、切られてもいいという筋・節操・覚悟なぞ、さらさらない。

 鵺政党。希望に恩を売られ、維新に恩を売られ、自民に裏切られ(かどうか)・・・。

 実はただただ憎きは、立憲民主党。今回負けたのは、あいつらのせいだ!

 選挙戦の最後に見せた山口の替え歌の品のなさ。婦人部から「なっちゃん」とか叫ばれ、いい気になって歌う姿に、人寄せパンダの哀れさを。

 太田のやらせ形相写真。気の毒な限り。哀れを催す。公明党にとってはそれなりの功労者のはずなのに、一介の陣笠。

 こうして、常勝・公明党の敗北。

 でも、こうやって自民党を批判したから、許して・・・。

 必死に集票活動した学会員へ、殊勝なふり(自民党に責任をなすりつけつつ)を見せて、これで、おしまい!

 実は活動家の高齢化。

 選挙活動を「法戦」と位置づけ、宗教団体故の駆り立てに(公明党のためにがんばれば功徳がある。公明党に入れないと罰が当たる と煽っているかどうか定かではないが)にそろそろぼろがでてきたか?

 狂信的な婦人部はまだまだたくさんいるよう。壮年などは白けている?

 政治団体としての限界が近づきつつある、と思う。

 かのイケダ大先生はどうお考えなさるのだろうか? 

 それにしても、勝った自民党が異口同音にやたら「ケンキョ、ケンキョ」というのもおかしさ、いっぱい。ホーホケキョじゃあるまいし。

 さっそく麻生なんかも「勝ったのは北朝鮮のせいだ」と発言したとか。

 ま、余計なお世話だが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韮崎宿~台ヶ原宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-16 21:55:15 | 甲州街道
                                      「大武川」からの南アルプスの山々。

国道に出たら、歩道橋の下をすぐまた右に入ります。

まっすぐ行くと、「大武川」に突き当たるので、その手前で左に曲がります。

国道に戻って「大武川」を越えます。その手前、左手に石碑。その向こうに南アルプス。


橋を渡ったらすぐ左の道に入ります。
 

(13:54)「下三吹」。

火の見櫓を左に見て、長い白い蔵を通過します。

右手、取り壊し中の古民家の前に句碑? 
                                                 「夕立」「駒岳」は読めるが、あとは?

しばらく進んだ左手に藁葺き屋根の水車小屋。

 右手、丘の上が「萬休院」。ちょっと休憩。
 あぜ道を進み、振り返ると奥秩父の山々。甲武信岳、金峰山・・・。
                     

さらに右手奥には富士山(↓)。

「(14:05)舞鶴松・萬休院」への道が左に。

ちょっと道に迷いましたが、何とか・・・。「庚申塔」他。

「上三吹」。

                        

(14:27)「上三吹」バス停。

静かな家並み。この先、手入れのい行き届いた松が。  

見越しの松。

見事です。 

                      

そこから集落内を望む。

屋号入りの表札。

集落のはずれから振り返って望む。

(14:35)旧甲州街道一里塚跡。甲府から七里塚。

そのそばにベンチのある休憩所。見晴らしがよい。

 さて、そろそろバスの時間が気になります。「尾白川橋」の向こうの坂を越えないと「台ヶ原宿」には着けません。けっこうな坂道。


 
(14:40)橋を渡った左に「古道入口」碑。まだまだかかりそうなので、この先で今回はおしまい。「花水坂」14:55発の路線バスで韮崎駅まで戻りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韮崎宿~台ヶ原宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-13 22:50:43 | 甲州街道
 山里風景をのんびり。しかし、農作業をしている人を遠くから見る他は誰とも会いません。たまに車が通るだけ。どういうわけか、あぜ道にパトカーが一台停まっています。

正面奥遠くには「八ヶ岳」。

(12:41)やがて、桜並木となって国道に向かいます。


                     
 
 国道をトンネルで抜けると、「上円井」の集落となります。集落に入って交差点を左に曲がります。ここで「徳島堰」と分かれます。「徳島堰」はまっすぐ進み、「釜無川」の取水口になります。
(12:46)

                         

左手に「徳島翁のおはかみち」と刻まれた石碑。
  

静かな家並み。

 (12:54)右手になまこ壁の立派なおうち。明治天皇の小休所となった。中をのぞくとその記念碑が建っています。
  

豪壮なおうち。

(12:56)「上円井」交差点で国道に合流。

左手遠くに「甲斐駒」が見えてきます。

「青木鉱泉」の大きな看板。鳳凰小屋からドンドコ沢を下ったとき、通りました。

秀峰「甲斐駒ヶ岳」。北沢峠をはさんで、「仙丈ヶ岳」の2峰を登ったことがあります。

「甲斐駒」の左に見えるのが「仙丈岳」。

路傍に古い石碑? 

(13:03)「東京から158㎞」ポスト。

「小武川橋」からの「甲斐駒・仙丈」。

橋を渡ると「北杜市」へ。
 「北杜」は「ほくと」と読みます。

北杜市(ほくとし)
 平成の大合併により、山梨県北巨摩郡に所属する9町村のうち、小淵沢町を除き、長坂町・高根町・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村の7町村が合併して生まれた市である。残った小淵沢町も後に同市へ編入されたことにより、北巨摩郡は消滅した。
 北杜市の名称が採用された背景には、旧自治体間での駆け引きがあった。いずれも譲らなかった結果、地理的・歴史的・文化的な由来が全くない完全な造語(瑞祥地名)である、北杜市に決定した。

《市名の候補案》
◆八ヶ岳・・・長坂町・高根町・大泉村が賛同。当地域の重要なシンボルであり、全国的な知名度もある。
◆茅ヶ岳・金峰山・・・須玉町・明野村が賛同。
◆甲斐駒ヶ岳・・・白州町・武川村が賛同。
(以上、「Wikipedia」参照)
清里高原。

               (HPより)

橋を渡ったらすぐ右へ折れます。「宮脇」。行く先々で地名が明示されています。


                           

人通りもない静かな家並み。 

例の「飛び出し注意」標識。 

いろんなバージョンがあるようです。でも、あまり飛び出すような場所ではなさそう。 

そそり立つ「七里岩」。  

左から鳳凰三山、仙丈、甲斐駒と一望。

集落を振り返る。国道20号線に合流します。  

(13:17)合流する手前、右の道ばたに「旧甲州街道一里塚跡」碑。「甲府より六里」なので「六里塚」ともいうそうです。
    

付近のようす。  

                         

「国道20号線」をしばらく行き、旧道は右の道を進みます。正面に「武川村米の郷 武川町農産物直売センター」。
                                

「牧原」。  

桝形風のところに大きな「庚申塔」。 

 よく手入れされた見越しの松がある大きなおうちなどが。
 

                    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韮崎宿~台ヶ原宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-12 20:20:49 | 甲州街道
                                       里山風景。

けっこう激しい流れ。

(11:49)かなりの豪邸です。

昭和13年に建立した石碑があるのですが、詳細不明。この杉の樹形を愛でたもの?
 

用水路(「徳島堰」)はところどころに落ち口があってけっこう水量も豊富です。


 集落の外れまで来ると、豊富な水量・勢いを利用して2カ所に水力発電設備があります。振り子式下掛水車。15㎾の発電量。
 

この先にも「水力発電所」。

(12:00)この先、「戸沢橋」の手前で左の細道に入っていきます。「円井逆断層」の案内板が目印。そこで、軽く昼食休憩。
 

                          

 砂利道になり、途中「林道」を分け、右に進みます。その先で「戸沢川」を渡ります。石伝いに通過。「徳島堰」は暗渠となって(逆サイホンの原理で)この川の下を流れています。


注:「徳島堰」は途中、いくつかの沢を「伏せ越し」(サイフォンのの原理。川の下を暗渠でくぐる仕組み)で交差しています。何ヶ所かそれが見られます。

(12:15)Uターンして坂道を上っていくと、下円井の集落。

 「円野町下円井」=まるのまちしもつぶらい

彼岸花。

上ったところにはちみつを扱うおうち。

落ち着いた家並みが続く。

「火の見櫓」のところに「秋葉山常夜燈」。旧東海道ではよく見かけました。
  

正面に見えるT字路を右折します。

その先のY字路を左に進みます。

(12:23)右手には「下円井(しもつぶらい)公民館」。

道ばたのコスモス、そのはるか向こうに「八ヶ岳」。

右手眼下に田園風景が広がります。


 周囲の風景を愛でつつのんびり進みます。「八ヶ岳」。赤岳もはっきりと。左手に「か」「か」「し」「の」「里」の看板が遠くに見えます。

「かかしの里」のモニュメント。左に「徳島堰」。

(12:30)そこからの風景。

「かかしの里」広場には解説板。「かかしカーニバル」開催地。

「水土里(みどり)ネット円野町」案内図。

かかしの里」解説板。
 のどかな田園風景が広がる円野町の恒例「円野町かかし祭り」が行われます。毎年、会場には世相を反映しユニークなかかし、応募された皆様の思いが込められたかかしが立ち並びます。

より)

毎日新聞2017年8月20日 地方版
 韮崎市円野町下円井の市道で、「円野町かかし祭り」が開かれている。田園を背にした市道には、100メートル走で日本人初の9秒台に期待のかかる陸上選手や、世間を騒がせている政治家などの世相を反映した手作りかかし70体が並び、訪れた人の目を楽しませている。9月10日まで。
 祭りは1994年に始まり、今年で24回目。今年は、地元の高校生や市役所職員など、市内の22の団体や個人が製作。今年は、芸人の「ブルゾンちえみ」など流行を反映したかかしのほか、安倍晋三首相や米国のトランプ大統領など8カ国のトップが手をつないだ「世界平和友好」など政治の動向を踏まえた作品も多く並んだ。
 親子3世代で訪れたさいたま市の久保安美さん(35)は「今年は政治家のかかしや町の活性化を願う作品が多い。眺めながらもっと平和な世の中になることを願いました」と話していた。【松本光樹】

東方向(韮崎市街地)を望む。

 しばらく進むと「徳島堰」のところに「徳島堰」の解説板があります。           
             

徳島堰由来
 この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中随一と言われています。330年前、江戸の住人徳島兵左ェ門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文5年(1665)工事を始め、同7年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造りましたが、何故か兵左ェ門は同年秋工事から手を引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士矢崎又右ェ門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同10年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左ェ門の功をたたえましたが、又右ェ門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。
 当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和41年より9年の歳月と 億5千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和49年に完成しました。現在毎秒7.96㎥の水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野がこの堰の恩恵を受けています。
 水辺に立って豊かな水の流れを見つめると先人の功績が偲ばれます。(文責歌田)

平成7年8月吉日         平成かかしカーニバル実行委員会建之

(12:38)その先に、「寺沢サイホン」。

伏せ越し
 河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイホンで河川を自然流下で通過させること。

逆サイフォンとは
逆サイフォン(伏せ越し)は、サイフォンを逆さにしたものです。水の流れが目に見える開水路(かいすいろ)がつながっていなくても、ある程度の水位差をもたせることで、入口からは水が吸い込まれるように入っていき、出口からは吹き上がるように水が出てきます。


(「http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/new/17/gijyutu/gijP01.html」より)

 ここは、別の水路と道路が交差し、その下を流しています。
「流水不易」の銘。
                             
               
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韮崎宿~台ヶ原宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-11 20:37:30 | 甲州街道
                                       上・下「祖母石」。
 なまこ壁、土蔵造りなど、また松などの庭木がよく手入れされたの立派な屋敷が続く家並み。


                      



(10:55)「藁葺きの門」。     
                       このおうちはこの地で三十代も続く宮方家。


「祖母石」の集落を振り返って望む。

                   
       車も人も見当たらない静かな佇まい。

「上祖母石」地区に入ってしばらく進むと、再び国道20号線と合流します。この先、旧道は釜無川を渡り対岸の折居へは向かっていましたが、現在はここから渡ることは出来ません。

 (11:04)合流点近くの左側に「九頭竜大神」など石碑が並んでいます。    
九頭龍(九つの頭と龍の尾を持つ鬼)伝承、伝説にちなんだ石碑。全国各地にあるようです。ここでは荒れ川であった「釜無川」の治水に関するものでしょう。

用水路を3つに分ける「分水井」。

「七里岩」はまだまだ続きます。

国道をそのまま進まずにUターンします。

注:今回、先達のコース紹介に基づいて歩きましたが、

 「今昔マップ」を見ると、明治に入ってから「旧甲州街道」は「現国道20号線」と重なる形で進み、「穴山橋」を渡り、「円野郵便局」を過ぎていきます。今回歩いた道はすっかり集落内の細道になっているようにも見えます。
 「分間延絵図」(江戸幕府が五街道などの状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。問屋場、本陣、脇本陣、寺社などや一里塚、道標、橋、高札場などが描かれている。)でも「今昔マップ」と同じく、現国道に沿った道筋になっています。
 したがって、そのまま「国道20号線」を進んでも、あながち間違いとは言えないようです。


(11:12)「桐沢橋」で「釜無川」を越えます。

正面には「鳳凰三山」。

左手遠くには「富士山」の頭が。

右手の向こうには「八ヶ岳」。 
                             縦走したことがある山並み。

 「柳沢橋」は絶好のビューポジションになっています。

橋を渡り終え、右に曲がります。 

今度は「八ヶ岳」が正面奥に。

「清哲町案内図」。

 「清哲町」には、「信濃の国」に次いで日本で二番目に古いと言われる「 郷土歌」があるとか。

「韮崎射撃場」跡。

 ・・・県立射撃場を巡っては1998年11月、韮崎市の当時の県立射撃場からの流れ弾が民家に当たる事故が発生。一度は同市穂坂町への移転が決まったが、費用増などから整備地の選定は難航。09年に県立射撃場は閉鎖され、整備計画は凍結されていた。(【毎日新聞】より)
   

 (映像はYOUTUBEより)

(11:26)「高川南沢川」を渡ります。

その先のY字路を左へ進み、「折居」集落へと入っていきます。



 高台を通るため、眼下には田畑、遠くには「七里岩」さらに奥秩父の山(金峯、甲武信? )を一望。


              正面奥に「八ヶ岳」。

(11:35)「常夜燈」。

 再び先ほど分かれた道に合流し、右手に田園風景が広がる中を進みます。稲刈りが終えたところ。


                     

(11:41)「入戸野」地区へ。

 ほぼ直線の国道あるいは県道を行かずに、点々と存在する集落をたどりながら進むので、思った以上に時間がかかります。これでは「台ヶ原」に着くのは遅くなりそうな予感。

 入戸野で初めて「徳島堰」と出会います。「釜無川」の取水地から激しい流れが続く用水路です。


左の道を進みます。

 しばらくのあいだ、左手に「徳島堰」を横目にしながら。


                          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韮崎宿~台ヶ原宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-10 21:28:59 | 甲州街道
 
甲州街道歩きも、第11日目。
 夏場の炎天下で、思ったように距離がかせげなかった。何とかして年内には、と。性懲りもなく9月30日(土)。
 韮崎駅から歩き始めて台ヶ原宿までたどりついて、韮崎行きの路線バスで韮崎駅まで戻ってくる、という算段。台ヶ原バス停が14:53。最終が17:43。14:53発に乗れれば、と甘い考えで出発。天気は、雲は多めですが、晴れ。

(10:10)左手に「小林一三生家跡」碑。


 小林一三は、1873(明治6)年、現在の山梨県韮崎市に生まれました。「一三」の名は、誕生日1月3日に因みます。19歳の時に慶應義塾を卒業し、三井銀行で本店勤務の後、大阪支店に赴任します。元来、文学青年で小説家志望であった一三ですが、銀行員時代の先輩達との出会いから事業の面白さに目覚めていきました。
 1907(明治40)年、三井銀行を退職し、箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線・箕面線)を創立します。1910(明治43)年運行を開始した電車事業は、沿線の住宅開発を共に行うという独創的なアイデアによって好調なスタートを切りました。
 1920(大正9)年には神戸線が開通し、社名も阪神急行電鉄と改め「阪急電車」として親しまれます。一方梅田には、1929(昭和4)年、阪急百貨店(現、阪急うめだ本店)を開業し、洋食をメインとした大食堂は大人気となりました。また、宝塚歌劇や阪急ブレーブス、そして東宝を設立するなど、たくさんの人たちが楽しむ事業を次々に成功させていきました。
 一三のユニークな発想から生まれたビジネスモデルは、私鉄経営を始めとする各地の事業者達に影響を与えました。そうした手腕が見込まれて、東京電燈(現、東京電力)の経営を立て直し、1940(昭和15)年には第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命されました。
 一三個人としても、幅広い著作を遺した文化人としての素顔を持っています。日常の暮らしの中では、趣味の俳句や茶の湯を通じて多くの人々との交流を楽しみました。
 多方面に足跡をのこした一三は、1957(昭和32)年、享年84歳で没しました。しかし、お客様への新たな生活と楽しみの提案を第一とする一三の精神は、現在も阪急阪神東宝グループの様々の会社によって受け継がれています。そして一三が創始した数々の社会事業・文化事業は、今もなお社会の中で発展を続けています。

(以上、 HPより)

 たしか東京・錦糸町駅前にある「東京楽天地」ー旧「江東楽天地」。現在、「LUMINE(ルミネ)」や映画館、温泉などがある複合ビルーの創立者もこの方です。
                          

高い崖を背後に「ホテル ルートイン」。

ここにも交通安全おばあさんバージョン。JA共済の提供。これから先にも見かけます。旧東海道の時、三重から京都までの道筋のように励まされます。


民家が崖下にへばりつくように。

これは元祖「飛び出し坊や」・「とび太くん」。懐かしい! 

   



HPより)

※ 東海道でもいろいろなバージョンのものに出会いました。

 右へ登って行く「青坂」が見えてきました。この道は中央本線に沿って小淵沢を抜け原村方面へと伸びている県道17号。
 旧甲州街道は、左へ進みます。
(10:22)「青坂」バス停。

 まもなく国道20号と国道141号の交差点「一ツ谷」。国道141号は、ここから清里・野辺山を越え上田市まで伸びています。
その交差点の角に、
「水神宮」碑など。

 しだいに左側が開け、甘利山方面が良く見えます。「甘利山」は山登りを始めたきっかけになった山です。職場の先輩に連れられて、「甘利山」から「千頭星山」。帰りは青木鉱泉へ降りたような記憶が。
 今回は、周囲の山々がよく見えるような空模様。甲州街道歩きでは久々の山々を眺めながらの旅になりますか。



(10:26)右手には「十六石」碑。


                       
 武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文十二・三年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ッ谷に治水工事を行った。
 その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったといわれている。

国道20号線を進む。

(10:40)「東京から151㎞」ポスト。

その先で、旧道は国道から分かれ、右の道に入っていきます。

庭先のコスモス。

下祖母石の集落。のどかな道筋。

 右手、田畑の向こうには断崖。七里岩。


                           

七里岩
 約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(または韮崎泥流、韮崎岩屑なだれ)と呼ばれる岩屑なだれが形成した平坦地を、西側の釜無川と東側の塩川によって侵食崖を形成したものが七里岩である。狭義には、釜無川の侵食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことを指す。この七里岩は韮崎から蔦木付近まで28kmも続いている。広義には、長野県諏訪郡富士見町から、山梨県の北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中心地まで達する台地のことを指す。この山体崩壊した土砂の体積は約10 km3と推定されており、七里岩を生み出した岩屑なだれは甲府盆地を横断し、反対側の曽根丘陵まで達している。
 台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとされる。
 台地の崖下を流れる釜無川と塩川には、それぞれ平行して甲州街道と佐久甲州往還が走っていた。現在では、それぞれ国道20号と国道141号に相当する。

左手には「鳳凰三山」が見えています。

豊かな水路のある集落。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「銃を持つ民主主義ー『アメリカという国』のなりたちー」(松尾文夫)小学館文庫 《再掲》

2017-10-07 19:33:15 | 平和



 2012-12-31 16:43:28に投稿したものの再掲です。今回の事件でも「銃規制」はできないアメリカという国。何度繰り返されることか! 小学校での銃乱射事件を受け手の投稿でした。

 小学校での銃乱射事件によって大勢の児童・教師が亡くなったことを受けても、今もなお、なかなか銃規制が進まないアメリカ社会。むしろ、全校に武装警官を配置することを主張し、銃規制の動きに真っ向から反対する全米ライフル協会(「NRA」)。日本人からみるとかなりの違和感を持つアメリカ社会における銃規制のあり方。
 この書は、2004年に発刊、その文庫版として2008年に出版された。今回の事態を受けて現在のアメリ民主主義社会の成り立ちを改めて理解する上で格好のテキストに。
 特に銃規制の是非を巡る論議の核心、「憲法修正第二条」。日本国憲法では基本的人権保障条項十箇条の第二条に当たる、という。
 「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」(本書P65)
 この解釈をめぐって、銃規制推進派と反対派は真っ正面から対立しているのがアメリカの現実。前者は当時の民兵、現在の州平の一員となるかぎりにおいて、市民の武器保有が認められると主張、後者は「市民皆武装」こそ、連邦中央政府権力の専制化を防ぎ、市民の自由を守るのに不可欠な個人の権利であり、アメリカ民主主義の生命線だと反論する。
 こうした相反する立場を紹介しながら、後者の規制反対派の優勢なことが、アメリカ民主主義の実態を体現している、と。「銃が増えれば犯罪が減る」との合い言葉が一般化しているアメリカ社会。そうした個人が銃を持つことを容認する「アメリカ民主主義」が、海外派兵などの実例につながっている、と。
 黒人の基本的人権や参政権などについて、合衆国憲法は修正がたびたびなされながらも、この項については210年以上に亘って一度も修正されてこなかったアメリカの歴史。そこに、筆者はアメリカ民主主義の内在する本質的な問題があると捉える。「人民武装の権利」がアメリカの対外的な戦争荷担(海外派兵。多くは、「(アメリカ流)民主主義・自由・平和」を守るという大義名分によるのだが)にも結びついていることへの危惧の念が示されている。最初の出版が「イラク戦争」開戦から一年後という時期であったことにも深く関連する。
 「クワとライフルを持って」とは、アメリカ大陸の東岸から太平洋に面する西側へ開拓していく時のスローガン。この言葉に、その後も引き続く「アメリカという国」が民主主義というオリジナリティを自負し、誇りを持つ根底に、「アメリカ中心主義」があり、個々のアメリカ国民が固有の権利として持つ、銃による武力行使権という「DNA」がある、と。
 そもそも「アメリカという国」の建国は、黒人、先住インディアンに対する徹底した差別と排除のなかで始まった。そこでは、個人・集団による銃という武器を手にした圧倒的する武力行使が主要な役割を果たしたことも、事実(長い間の黒人差別撤廃運動などのうねりの中で、憲法上での人権諸権利は確立されていくが)。
 その後、民兵は「南北戦争」を契機に、アメリカ合衆国軍という強力な常備軍となり、さらに二度の世界大戦を経て、今や世界一の軍隊にまで巨大化してしまった。そのDNAには、抜きがたい「市民皆武装」がある、と。広島、長崎への原爆投下、東京大空襲等の無差別攻撃についても、罪悪感はない(「民主主義」の旗の下で、反ファシズム戦争終結のため、当然)。
 「刀狩り」によって武器を支配階級の「武士」にのみ与えた政策以来、軍隊・警察など以外には銃刀所持を認められない日本人。その日本がアメリカと日米安保体制の下で同盟関係を強固にしていくことの意義を考えるとき、こうした銃を持つ民主主義国・「アメリカという国」の成り立ちと現実を捉え直す必要がありそうだ。
 アベさんが実現を期す「集団的自衛権」の確立とは、日米同盟の質的転換・深化であり、その表向きの第一義は、アメリカ軍が攻撃された場合、日本の「自衛隊(「国防軍」)」は、アメリカ軍とともに武力を行使するということになるのだから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さすが! でも、手法は実にわかりやすい、と思っちゃいますが。

2017-10-06 21:21:15 | 平和
 

 今回の選挙。すっかり小池に振り回されている感じ。自民も創価学会も、もちろん民進党も。

 いや、小泉親子も、細川も、小沢も、橋下も(本人は自分の方が一枚上手と思っているようだが)・・・。

 並み居る強者どもを斬った!張った! して我が物顔の御仁。ラブコールする前原なぞは歯牙にもかけない。

 小池にはまってさあ大変♪

 アホな前原。アンタってバカね、何年政治家やっているのよ、と高笑いしたいところをテレビ目線で、流し目。

 さすが政界渡り雌鳥。イヤ、右翼タヌキ。

 元民進の無所属には対立候補なし、公明・太田のところを含め、公明党にも出さず。

 維新には勿論出さず(その代わり維新は東京に出させない。「キムタケ」と連呼していた渡り鳥の御仁も、闘う前に討ち死に? )

 石破にも野田にも鴨下にも出さず。

 しかし、「立憲民主」には刺客を向ける。「民進」を壊しただけじゃ飽き足らず、どぶに落ちた犬は叩け! の戦法。筋金入りのサヨク嫌い。

 甘ちゃん・素人の若狭(実に貧相なお方)如きは、単なる駒、いや、希望の党の候補者は、皆、小池の駒扱い。

 みんなで徹底してガラパゴス化した「立憲民主」「共産」をつぶしにかかりましょう。当然賛成だわね、あんたたち。

 えっ、「都民ファースト」の連中。何を言い出すか分からないおバカさんたちなんだから。

 イヤならさっさと出ておいき、アンタたちには少しお世話になったけれどさ。いや、私がお世話したこともお忘れになる裏切り者め。

 「反自民」をうそぶきながら、憲法9条も、特区も、政策的には自民とほぼ同じ。「反」自民は目くらまし作戦でしかない。

 他の政策も今までどこかの政党が提示していたののまがい物? 横文字厚化粧で隠して・・・。

 腹黒さ、魂胆見え見え! 「自分ファースト」

 でもでも、政界もマスコミも、甘いさえずりやら威嚇の鳴き声に戦々恐々、右往左往。

 天下無敵だったはずのアベちゃんすら手玉に取る手腕は敵ながらあっぱれ! 

 「アベノミクス」ならぬ「ユリノミクス」。「クスッ」という含み笑いが聞こえそう。自己顕示欲まるだしのネーミング。

 今さら「百合」ちゃんじゃないでしょ。それに、

 英語で「urine」(ユリノ)は尿を意味し、尿の成分を識別する「urinomics」の単語まで既に存在している、とか。

 希望の党が打ち出した「ユリノミクス」は、ちょっと微妙な気がする。英語では”urine”(ユリーン)が「尿」なので、「ユリ」がアタマに付く単語には尿器やら放尿やら尿関連の言葉が多い。英語国民には「おしっこ経済」→「垂れ流し経済」ぐらいに聞こえるんではなかろうか。(小田嶋 隆)

 「アベ憎し」だけは本物? 私に冷たくしたでしょ! 許せないわ!

 アンチ・アベの石破でさえも獲物の虫けらにしてしまう勢い。・・・ことによると首班指名の候補者に仕立てる?

 涼しい顔で「選挙はテレビがやってくれるのよ」とのたまいあそばされた、とか。
 
 

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉

 諸君! どうする? 
 


注1:いまのところ、希望は「消費税率UP」は凍結という立場。また、「原発NO!」だが、再稼働には賛成。
 2:「自由党」は候補者0。
 3:この一覧に「日本会議」云々の欄を設けたら、もっと一目瞭然かもしれない。



 連休中のマスコミの動き(取り上げ方次第で)、「希望」が「失望」に変わりそうな局面で、立候補宣言する、と見た。予想が外れて欲しい、と切に願う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府柳町宿~韮崎宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-05 20:26:29 | 甲州街道
                                      「韮崎宿」に入って行きます(「下宿」)。

(14:53)「鰍沢横丁」。
 
 ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬の背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)、まで通行の道筋である。
 為に沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治36年(1903)国鉄中央線が開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。

宿場の中心地ですが、静かな佇まい。

街道を偲ばせる建物がほとんどない中で、味噌、醤油、こうじのお店「井筒屋」。


                    

本当の味噌と醤油の味を知っていますか?
味噌汁を飲んで、こんなに感動するなんて‥‥醤油ひとつで、こんなに料理が変わるなんて‥‥
良質な原料に熟練した技術と最新設備をもって丹誠込めて甲州伝統の味と香りを造りあげます。
郷愁と味覚と栄養を兼ね備えた醤油と味噌、山紫水明の里より感動の逸品をお届けします。


HPより)

蔵造りのある家。

韮崎宿本陣の跡」碑。
・・・諸大名は日程の関係で宿泊することが少なく、本陣(江戸時代幕府役人に備えた宿舎)は幕府役人が諸荷物を次の宿に送る仕事が主で、問屋場と兼務であった。

韮崎宿
 本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠17軒。
 韮崎とは韮の葉のように細長い七里岩の台地の先端に位置すること、台地上に野生の韮が多かったことや、七里岩の出崎と船山が睨み合うところからとも言われている。

旅館清水屋。弘化2年(1845)創業。

(15:02)「馬つなぎ石」。
 江戸時代に甲州街道と駿信往還・佐久往還の分岐点であった韮崎は宿場町として栄えた。旅人や主任が馬の手綱を繋いでおくための石で宿場町の趣を伝えている。

(15:04)「本町」交差点。今回はここまで。

右に折れて韮崎駅に向かいます。
ホームから駅前広場方向。

             甲府駅方向。

 韮崎駅にはかつてスイッチバック(現駅舎の奥で本線と離れている)があったが、複線化に際して本線上にホームを設置し、スイッチバックは廃止されました。

奥秩父の山々。

 瑞牆山、金峰山、甲武信ヶ岳などかつて登った山々が一望できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府柳町宿~韮崎宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-04 19:51:53 | 甲州街道
 再開。今のペースだと韮崎駅までか? もう少し先まで行きたいのですが。・・・


(13:49)右手に「三界萬霊塔」。

 その先、左手には豪壮な蔵屋敷が続きます。


                         

なまこ壁の蔵造りの屋敷。

双葉西小学校バス停前。

                  振り返って望む。

船形神社。大木の向こうに小さな造り。

(13:58)「六反川」を渡る手前、右手の奥に芭蕉の句碑があります。「ひる見れば 首すじ赤き 蛍かな」。
  

 この句は、芭蕉の句とされていますが、本当に芭蕉の作かどうか、真贋の判定しがたいものの一つです。 そういえば、旧東海道中・藤川宿の句碑でもありました。「爰も三河むらさき麦のかきつばた」(芭蕉作か真偽不明の句)。

ありました! おじいさんバージョンの交通安全。「飛び出し坊や」甲州街道版。

(14:05)「田畑」の交差点で県道から右の道に入ります。「金剛地」。旧街道らしい落ち着いた家並み。


                           

振り返って望む。

左手が開けてきます。「鳳凰三山」方向。

リンゴ。

(14:10)やがてY字路になり、その真ん中に二基の二十三夜塔。左に曲がっていきます。


 稲刈りを終えたばかり田んぼ。
 

 急な坂を下ると、先ほどの県道に合流。
     

 塩川に架かる「塩川橋」を渡ります。青空が大きく広がります。


                             

(14:21)上流には「中央線」の橋脚。

振り返ると、川の向こうに「富士山」の姿。 

 しばらく橋の欄干にもたれて、電車の来るのを待ちながら、小休止。今回、時間的に韮崎駅まで行くことに。「塩川橋」を渡って右折し、線路沿いを進みます(14:35)。


                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府柳町宿~韮崎宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-03 19:20:34 | 甲州街道
                                        (12:06)まもなく甲斐市に入ります。

 甲府昭和インターと双葉SAとの中間になる「中央道」の高架下をくぐっていきます。
「日蓮聖人三百遠忌」と「五百五十年遠忌」碑。

(12:25)「竜王新町」交差点で右折します。

古跡保存標識」。
1、名称「竜王新町下宿道祖神場」
 ※(1) 道祖神、丸石神体径45cm(銘)衢神、文正文七申極月、氏子中
  (2) 白檀古樹(種別大木)目通130cm 樹齢約200年、主幹奇形
  (3) 古井戸、明治初年掘削、コンクリート巻、枠径96cm近辺共同井戸、現不使用
2、所在地 竜王町竜王新町元免許325-2番地(地積6坪)
3、由来
 ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。村の道路に河川、農産、慶弔交際または、盆、正月、祭り、相撲大会 などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。
 ここは往時50坪の地積であったが大部分が道路用地となったのでこの由緒ある地積を保存すべく、昭和8年小菅貞三氏等の主唱により大蔵省から払い下げ、十人の共有地となっている。
 以上の理由により、町内にも他に例の無い地域発展の基点であった貴重な古跡であることからこれを将来に保存すべく「保存標識」を設置するものである。
  
        平成2年11月  竜王町竜王新町五区


 (12:30)その先で中央線の踏切を越えます。
「第一信州往還踏切」。
 「甲州街道」がここでは「信州往還」となっています。

右手奥に見えるのが「竜王駅」。

この先、「赤坂」の急坂にかかります。

左手に真新しい句碑。
父といて 心の距離や 夕蛙 大雅」。言い得て妙な句です。

意外と急な坂になっています。

(12:38)坂の中程にある「赤坂供養塔」。

振り返って坂下を望む。

その先には「諏訪神社」。御柱が立っています。

けっこう上ってきました。振り返ると雲の彼方に富士山が見えています。↓ 


                            

(12:46)坂も緩やかになってくると右手に「HAL研究所山梨開発センター」。

 株式会社ハル研究所は、主に任天堂のゲーム機向けのソフトを提供している会社。(代表作は『星のカービィ』シリーズ、『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズなど)。ファミコン世代ではないので詳しくは知りませんが。
 なお、四代目任天堂社長の故・岩田聡は元社長(1993~99年まで)はハル研の出身、というは聞いたことがあります。

頂上付近からの富士山。

右手の遠くには奥秩父の山々。

(12:57)上りきったところから振り返る。

その先は下り坂。三叉路を左に進みます。

                        「鳳凰三山」方向を望む。

緩やかな下り坂。

柿。いよいよ秋らしい季節。 

水路が流れる家並み。 

上り坂になって「下今井(寺町)」。

両側には蔵のある、落ち着いた家並みが出てきます。なまこ壁のある家々。


           
        
                 (13:11)「自性院」の石畳。
「お願い 明和2年(1765)の石畳保存の為、車輌の乗り入れをご遠慮下さい。」

正面奥には中央道の双葉JCTから分かれる「中部横断道」。



                    
(13:18)「下今井上町」の交差点先で、高架下をくぐります。

その手前にあったお店の看板! 
   光豊胸 針やメスを使わない!→¥90%OFF 大人気 ¥31,500→¥3,200!  

(13:21)中央線のトンネルをくぐります。 

トンネルを抜けるとちょっと複雑な交差点。旧道は右側の道を進みます。
 

甲斐市MAP。

  
(13:27)「泣石」。
 下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。
 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。

                甲斐市教育委員会 

 しばらく進んだ先には「塩崎駅」。そこで、小休止。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府柳町宿~韮崎宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-02 20:08:15 | 甲州街道
 久々の甲州街道。やっと暑さも峠を越えて、やっと街道歩きも楽になった? そこで。

 比較的甲州街道の宿駅間は短いケースが多いのですが、今回の甲府宿から韮崎宿まではけっこう距離があります。

9月24日(日)晴れ。10時前に「甲府」駅。前回のところまで。甲府城の脇を通りながら向かいます。
(10:10)

NTT甲府支店西の交差点で甲州街道は直角に左折し、甲府柳町に入ってゆきます。問屋街入口で右折し、その先を左折します。特に宿場町らしい史跡などは見当たりませんでした。

「問屋街入口」交差点を振り返って望む。

ここを左折。

(10:26)さらに広い通りに出たら右折します。つごう、4回曲がります。向こうに見える大きなビルは「甲府商工会議所」。


(10:35)「相生橋歩道橋」から甲府駅方向を望む。

路傍には彼岸花(曼珠沙華)。そんな時節になりました。

土蔵造りの立派なおうち。

「国道52号線」。「清水まで94㎞」ポスト。

 しばらく進むと「荒川」に架かる「荒川橋」。視界が広がってきましたが、あいにく雲がかかって鳳凰三山、白根三山などの南アルプスの高峰、富士山などの山々は見えません。以前登ったことのある山なので、楽しみにしているのですが・・・。

 「甲州街道歩き」。周囲の山々の景色を楽しみながらの旅となるはずですが、総じて晴れている割にはどうも周囲の山々の姿を堪能することには恵まれません。


                        

(10:52)続いて「貢川(くがわ)橋」を渡ると、右折していきます。「美術館通り」。


 カーブする右手に「天然記念物 上石田のサイカチ」。

 過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地になった。サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは昔の自然の一部を残したものである。また、大小二本そろって生えているところから、地元の方々は夫婦サイカチと呼んで親しんでいるが両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約300年と推定される。
  

ほうとうなど郷土料理の店「信州」。店名が甲州にあって信州というのがいい。「信州」味噌を用いた「ほうとう」がウリなのかな?

このお店のネーミングも抜群。
「えがお食堂 鈴之介」。

(11:10)その先、右手には
「クリスタルミュージアム」。


 「クリスタル・ミュージアム」は、長年、ガラスや水晶アクセサリーの製造にたずさわってきた丹沢良治館長が、水晶・貴石加工などの地場産業の振興になれば、と1996年に設立。受付から館内へ通じる通路には雪江なほみ氏や井上公雄氏ら県内を拠点に活躍する造形作家の作品が並ぶ。
 館内1階は「自然のぬくもりのフロア」と名づけられ、1トンもの紫水晶原石や、透明度の高い茶水晶、井上氏や香港の有名作家の水晶彫刻作品のほか、さまざまな天然石と彫刻品が展示されている。吹き抜けの2階は回廊ギャラリーで、「技術のぬくもりのフロア」。100年の歴史をもつボヘミアン・グラスの世界的メーカー「スワロフスキー」や“王様のガラス”と称賛される「モーゼル」のクリスタルガラスの美術品や、アールヌーボーのガラス工芸品を展示。さらにパネルによって「クリスタルガラスとソーダガラスの違い」などが解説されている。
 おもに2階ギャラリーで山梨県ゆかりの造形作家の特別企画展示も開催していく予定。
 また、アクセサリーやガラス製品を販売するミュージアムショップ(入場無料)を併設。館内はアンティーク家具が並ぶ落ち着いた雰囲気で、喫茶室ベル・エポックも人気がある。
 (HPより)

 (11:16)いよいよ左手には「山梨県芸術の森公園」「県立美術館・文学館」。
 「文学館」では「津島佑子展ーいのちの声をさかのぼるー」が9月23日(昨日)から開催中とのこと。最近。読んだばかりで、今も津島さんのエッセイを読んでいるところ。たまたま今日(9月24日)甲州街道歩きをしていなければ立ち寄ることもなかった、と。さっそく館内に入ってみました。


 広大な敷地の中に、彫刻の置かれた緑の広場、美術館が右手に、左手には「文学館」があります。


 

 美術館は「種をまく人」「落ち穂拾い」といった農民絵画を描きつづけた、ジャン=フランソワ・ミレーの作品を数多く所蔵するので全国でも有名。
 一方、文学館は山梨県ゆかりの文学者に関する資料の収集と保管・公開を行っています。

 今回の特別展は津島佑子さん(1947~2016 東京生まれ 本名・里子)の業績をたどる初の展覧会。
 津島佑子さんは、津島修治(筆名・太宰治)と美知子の次女として生まれ、白百合女子大学在学中より作品を発表、女性の内面世界を見つめた初期作品を経て、戦争孤児や少数民族、差別、原発の問題へと視野を広げていきました。
 長編小説「火の山―山猿記」は、甲州を舞台に、母の生家・石原家をモデルとして、三代にわたる一族の人々と時代を壮大なスケールで描いた代表作です。この作品を端緒に、時代と場所を自在に往き来しつつ、社会から疎外された人々の声を丁寧にすくい上げた重厚な作品群を発表、最期まで執筆への情熱が消えることはありませんでした。「火の山―山猿記」を中心に、津島佑子の豊饒な作品世界を紹介しています。



 最近は、生前(未完)最後の作品「狩りの時代」を読んだばかり(8月3日にブログにて紹介しています)。死の直前まで手を入れていた資料など直筆の原稿などや学生時代の文学遍歴など、作品、写真が展示されています。

文学館から美術館を望む。

 出てから芝生の脇のベンチでのんびり早めの昼食・休憩。気がついたら12時を回っていました。

《補足》『火の山ー山猿記』は、NHKの連続テレビ小説『純情きらり』の原案になっています。
 『純情きらり』の舞台は岡崎。八丁味噌の家並みがロケ地になっています。旧東海道歩きで紹介したことがあります。その部分を再掲。

連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地。  「純情きらり手形の道」(宮崎あおいの手形)。

『純情きらり』(じゅんじょうきらり)は、2006年(平成18年)度上半期NHK連続テレビ小説の作品。シリーズ通算第74作目。
 原案は津島佑子の『火の山―山猿記』。脚本は浅野妙子。主要な舞台は愛知県岡崎市。
 昭和初期、7歳になる有森桜子は、4歳のときに母親・マサを病気で亡くしてからというもの、父親・源一郎に男手ひとつで育てられていた。
 10年後、16歳になった桜子は、周囲の反対を押し切り東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を希望する。そんな矢先、父・源一郎が事故により命を落としてしまう。姉・笛子は進学に反対するが、父が遺してくれたピアノを極めようと没頭する。
 翌年、桜子は幼なじみの松井達彦とともに、東京音楽学校を受験するが不合格に終わってしまう。その後、桜子は岡崎に帰ろうとするが、東京音楽学校の教授・西園寺公麿に励まされ、来年もう一度受験することを決意する。
 さまざまな紆余曲折を経て、戦地から帰還した達彦と結婚する。その後結核を煩いながらも輝一を出産する。輝一に感染しないようにと決して会おうとはしない桜子に、山長や有森家の人々は輝一の姿を動画に収め、桜子の意識が朦朧とする中、病室の白壁に映して見せたのだった。
 ジャズピアニストを夢見ながら、戦争に揺れる昭和の激動時代を駆け抜けるヒロイン・桜子の波乱万丈の人生を描いていく。
(以上「Wikipedia」より)

(「Amazon.co.jp」より)

 また訪れる機会があったら、美術館も含め、もっとじっくりと、ゆっくりと見学、散策したい、すばらしい公園です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする