おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その4。新幹線。宇都宮貨物ターミナル駅。日光道中(本街道)との追分。鞘堂。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-24 20:26:54 | 日光東往還

                 新幹線の高架線に近づいてきます。        

どういうわけか、自販機の側に立っています。

田植えの作業中。

トウモロコシ畑。

麦畑。

宇都宮貨物ターミナル駅。

貨物引込み線の踏切。

「シーボン化粧品」の工場の先で、新幹線・在来線の線路をくぐります。

くぐり抜けた先。道路の向こうに旧道があった? 

いったん「国道4号線(日光街道)」に出ます。

「鞘堂」バス停の手前を右折すると、旧道に出会います。

  

線路からの旧道。              「日光街道」合流点に向かう道。

大きなパチンコ・スロット店の裏手を進みます。

大木。昔から街道沿いにあったものでしょうか? 

その先が「日光東往還」のゴール。

         高架橋は「北関東自動車道」。

「日光道中(日光街道)」を歩いたときの記録(2016/6)を再掲。

・・・

右手に「鞘堂地蔵尊」。

    

「星宮神社」。

(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東自動車道」の橋脚。

                                   右手から合流する道が「日光東往還」。 

・・・

「国道4号線・東京まで96㎞」。

                                                                          2010年代のようす。赤い線が旧道。○が日光道中との合流点(追分)。

「今昔マップ」より。

                  戦前ではすでに追分の地点が定かでなくなって、地名として残っている。    

JR宇都宮線「石橋駅」。

こうしてJR常磐線「南柏駅」から7回に分けて歩いた「日光東往還」も終了です。

普通なら4、5回くらいで歩ける距離ですが、電車とバスを乗り継いでの、のんびりした歩きでした。

歩いた道は一部を除いて、けっこう車の行き来の多い県道として、今も主要な交通路であることも実感。路肩もなく、ちょっとヒヤッとする場面も。

新興住宅地、麦畑や田植えの始まった田園風景、歩いたばかりの利根川・江戸川との邂逅、街道筋の大きな長屋門、結城の古い街並み、下総薬師寺跡など見所が多くありました。

また、双耳峰の「筑波山」を遠くに見ながらの歩きもすばらしいものがありました。

※今回も、これまでの街道歩きの記録も、「歴史的農業環境閲覧システム」、「今昔マップ」さまに大変お世話になっています。ここで改めて感謝します。今後も使用させていただきます。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その3。長屋門・大谷石の蔵。多功宿。道標。オオバランドセル。←石橋駅東口。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-23 20:38:18 | 日光東往還

しばらく田園風景が広がる。

       

           左手に、「下野市シルバー人材センター」。

水田。

大谷石造りの蔵。

上三川町多功に入っていきます。右手の家の壁に。

             静かな街並み。

田んぼに映る大きな屋敷。

右手に大きな長屋門。

            

すぐ左手にも。

                

「下多功」交差点。

左手に東北新幹線の橋脚。

くの字に曲がると、上多功(旧多功宿)になります。それらしい史跡は見当たりません。

立派な門構えのおうち。

交差点を渡った右の角に台座からはずれたた道標。

           

南 薬師寺・仁良川」「西 石橋・壬生」「東 上三川・大沼」「北 茂原・雀宮」と刻まれている。

                    この付近の今昔。

                                                                        

1880年代のようす。街道沿いに集落。                2010年代のようす。○が道標のある十字路。

来た道を振り返る。

信号を右折したところに「宿多功」バス停。

この先、道が広くなる。

「←石橋駅東口」。

大峽製鞄宇都宮工場。

御用達職人が創る
6年間、丈夫で安心して使える美しいランドセル

ランドセルは、お子様が最初に出会う本格的な革鞄のひとつ。

毎日使いものだから、丈夫で使いやすく
小さなお子様に負担をかけないように軽く

私たちは職人の誇りをかけて、
その期待に添えるランドセルを作っています。

                  

                          オオバランドセル

1935年(昭和10年)の創業以来、鞄作りに携わる事80余年、最高級素材の革だけを使用する「素材」へのこだわり、徹底し管理による「品質」への追求、手縫いをはじめとする伝統ある「職人技」の継承を続けています。
大峽製鞄は、この徹底したクラフトマンシップを受け継ぎ、日本製を貫き、手作りならではの美しい革製品を作り続けている東京の老舗鞄メーカーです。
長年にわたり本物の鞄を探求し続け、変わらぬもの作り哲学のもと、各種コンクールにおいて、文部大臣賞連続7回、通産大臣賞、東京都知事賞11回、経済産業大臣賞等、数々の賞を受賞してまいりました。
ランドセルの手縫い技術は日本独特のもので、丁寧な仕事と不断の鍛錬を要求されます。
大峽製鞄のもの作りの原点は『ランドセル』にあり、 150以上のパーツ、300以上もの工程を手作りでまとめ上げる作業は並大抵ではありません、「良いものを大事に使えば永く持つ」との言葉を実践していただくべく、日々努力を重ねています。
二本針手縫いやハンドメイドの技術を継承、発展させて総手縫いアタッシェケース、ダレスバッグ、ビジネスバッグ、財布、革小物などを製造しています。

 

(この項「」HPより)

※「大峡製鞄(おおばせいほう)」は、東京都足立区千住に本社があります。

最近は、重い、大きいなどとかつての革製のランドセルははやっていないようですが・・・。しっかりした製品作りをしているようです。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その2。下野薬師寺跡。復元された回廊。鑑真大和上宝塔。瓊花(けいか)。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-22 18:39:36 | 日光東往還

                  「国指定史跡 日本三戒壇 下野薬師寺」

下野薬師寺は天武天皇白鳳8(680)年に皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して建立されました。天平宝字5(762)年に戒壇院が置かれると、奈良東大寺、筑紫観世音寺とともに日本三戒壇といわれ、坂東10か国の僧侶となる人は下野薬師寺で修業を積み受戒しなければならない定めになっていました。暦応2(1339)年、足利尊氏は国ごとに安国寺を建てましたが、下野国では新たに寺院を設けることなく下野薬師寺を安国寺に改称しました。

元亀元(1570)年、小田原の北条氏政・氏直父子が下野国に出陣し、下妻の多賀谷氏を攻めましたが、結城の援軍に破られ安国寺に退却しました。この時の兵火により七堂伽藍をはじめ、すべての堂宇が焼失しました。

平成29(2017)年より「本堂」・「庫裏」それに「本尊・諸仏菩薩」の修理(平成の大修理)を行いました。これを機に寺名を創建当時の下野薬師寺に戻しました(寺名復古)。この事業を記念して境内に鑑真大和上(だいわじょう)の宝塔を建て、奈良唐招提寺よりいただいた「大和上御廟の霊土」と金堂薬師如来基壇の霊土」を奉納しました。また、宝塔の横には大和上ゆかりの聖樹「瓊花(けいか)」を植樹しました。・・・

境内(薬師寺跡)のようす。

「鑑真大和上宝塔」。

      瓊花(けいか)。

鑑真和上の御廟のそばと、御影堂供華園では、和上の故郷、中国揚州から送られた瓊花(けいか)の花が、春の終わりと夏の到来を告げるように、小さな白い花を咲かせます。

(「唐招提寺」HPより)

回廊の倒壊跡。

      右奥にあるのは「六角堂」。江戸時代末期に建立されたもの。

六角堂は下野薬師寺戒壇院跡と伝えられる場所に建っています。江戸時代には釈迦堂と呼ばれ、その前身は江戸初期にまで遡ることができます。現存する建物は、近年に改変された部分もありますが、当初のものとみられる彫刻や絵様などは江戸時代後期の様式を示しており、安国寺境内に残るほぼ唯一の近世の遺構であるとともに、県内でも珍しい六角形の仏堂です。(「」HPより)

回廊の基壇。

     

一部復元された回廊。

講堂跡。

北側にも跡地が広がっている。

9世紀後半に再建された五重塔跡。法隆寺の五重塔と同規模だったようです。

        

さて、先に進もうと「日光東往還」道に戻ります。道をはさんだ広場に。

「幢竿(どうかん)跡」。

             

再建の塔と東回廊の中間には、仏教行事を荘厳に飾るための幡をかかげる幢竿が置かれました。当時は高さ9m程度の幢竿が建てられたと考えられます。

※解説板には想像図が掲示されています。

東側の社は、「薬師寺八幡宮」。 

歩いてみると「下野薬師寺」(跡)が大規模であったことが分かります。 

県道に戻り、北上していきます。 

                   この付近の今昔。

                                                                                          

1880年代のようす。「安国寺」と記されている。         2010年代のようす。

航空写真では○が現在の寺域跡。2010年代のようす。

かつては「日光東往還」道をはさんで、広大な寺域を持つ寺院だったと思われます。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その1。旧道。龍興寺・道鏡塚。下野薬師寺跡。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-20 20:11:30 | 日光東往還

                  旧道を振り返る。国道4号線バイパス建設で寸断された道。

JR「自治医大駅」から前回の到達点(「薬師寺南」交差点)までやってきます。今回は、ここからスタート。

     

いよいよ今回でゴール。昨今、夏日が続く東京地方。出かけた日から掲載がたまって、季節感が合わなくなってきました。

集落内の細道を進み、突き当たりを右折して県道に合流します。この先は、県道沿いに進むことに。

               

                  この付近の今昔。

                                                                                                                    

1880年代のようす。○が鈎型。                2010年代のようす。旧道が残されている。

旧国分寺町のマンホール。

・南河内町、国分寺町で運営されていた「自治医大周辺下水道組合」の 汚水管マンホール蓋。
デザインは、かつて下水道組合を構成していた南河内町と国分寺町の町花が共に「菊」であったことから、その菊を幾何学模様でデザインしたもの。

広い敷地の家や石造りの蔵など。

               

右手に馬頭観音・道標(「右 小金井道」と刻まれている)。屋根の下には石塔が2基。

落ち着いた街並み。

「龍興寺桝形境内」碑。方形の広場になっています。

※1880年代の地図ではこの桝形は記されていません。お寺の位置も少し異なるようです。

境内左手に「道鏡禅師の墓所(道鏡塚)」。

奈良時代の高僧、道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁から法相を学び、梵文と写経に通じ、・・・薬法や医術にも精通した興徳の僧です。天平勝宝年間、宮中内道場の看病禅師となりました。そして孝謙上皇の病を療治した功績により、天平宝字7年(763)、少僧都に任じられました。次の年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。・・・道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に準ずる待遇の法王に任命されました。禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を挙げましたが、称徳天皇が崩御されますと、下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、平城の都から遣東されました。禅師は下野薬師寺に着任後も各地で積極的に巡錫や親教をし、多くの人々を教化されましたが、宝亀3年(772)・・・静かに遷化されました。人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として手厚く葬りました。私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざしています。

案内板には触れられていないが、一般に道鏡と言えば、孝謙上皇(称徳天皇)の信頼をいいことに天皇の位までを狙い、大分の宇佐八幡宮から道鏡に天皇の位を譲れと託宣があったとしたが、真偽を確かめに派遣された和気清麻呂から、道鏡を天皇にしてはいけないとの託宣があったとの報告、さらに後ろ盾だった称徳天皇の崩御が重なり、失脚して下野薬師寺に左遷された、ということになっています。

左遷されたあと、薬師寺での禅師の人となりは、この説明板のようであっただろうと思われます。

樹齢500年のシラカシの巨木。

※境内には鑑真和尚の碑もあるはずですが、探しそこねました。

立派な門と塀のある野口家。

こちらの家も立派。

さて今回お目当ての下野薬師寺跡を訪ねます。

  広大な敷地跡。

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c8/66aa48a299b0d80c4039f7181431b263.jpg">

この説明板は、下野薬師寺跡と周辺を表示しています。方位は遺跡と一致させており、この説明板の上方向が北になります。縮尺は1/100で40㎝の正方形陶板を組み合わせて作っています。40㎝の実際の長さは40mで、表示板全体では東西600m、南北780mになります。

下野薬師寺の寺域は外郭施設の塀に囲まれた範囲で、東西250m、南北350mです。茶色に着色してあります。下野薬師寺の寺院地は広大でした。表示板の広さと実際の整備地区や周辺地区の広さを比べてみてください。

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その4。新興住宅地。筑波山を一望。カキツバタ。南河内町・米どころ。「自治医大駅」。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-19 21:39:09 | 日光東往還

道路も広く整備され、新しい住宅が建設されています。もともとは大きな敷地を持ったお宅が多かったのでしょうか?

高台にある住宅地の東側の眼下には、広大な田園風景。遠く筑波山が一望出来る絶好の場所。今まで歩いてきた中では、最高のロケーション。

           

眼下に広がる田畑。

造成が進む。

新しい街造りが展開されているようです。

    

カキツバタ。道に沿って植えられています。アヤメかも?

かきつばた(杜若)は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物です。

かきつばた(杜若)の開花時期は夏の気配がしてくる初夏、5月~6月頃に、浅い水辺から50cm~70cmの丈を伸ばし深みのある鮮やかな青色の花を咲かせます。

かきつばた(杜若)は日本最古の和歌集である万葉集や900年代の書物、伊勢物語にも和歌で詠われ、その魅力は人々に愛され続けています。

江戸時代になると、かきつばた(杜若)といえば尾形光琳が描いた屏風絵で金箔六曲屏風「燕子花」と「八つ橋」が名高く、深い青色が印象的に描かれている、かきつばた(杜若)は世界最高峰の作品となっています。

時代を問わず芸術家の目をひき、人々の心を奪うほど美しいかきつばた(杜若)ですが、「いずれがあやめか、かきつばた」の慣用句がある様に江戸時代中期に入るとあやめ(菖蒲)の品種改良が進みあやめ(菖蒲)の人気が出てきました、よく似た花の形をしている事から、この2つの植物は比べられるようになり、どちらも素敵で選ぶのに迷うほどよく似ています。素敵な花を眺めながら、どちらにしようかな?と悩める喜びも幸せな時間ですね。

かきつばた(杜若)の花言葉は「幸運は必ず訪れる」です。

(「かきつばた(杜若)とアヤメ(菖蒲)の見分け方 - LoveGreen https://lovegreen.net › flower」HPより)

新築された「仁良川下公民館」。
 
石塔などもここに集められています。左手にあるのが、その一つ、宝篋印塔。享保時代(1729)に造立された比較的大型な塔。
 
※基礎部に彫られた講中名には、「仁良川」は「韮川」となっています。
 
            
 
新旧の建物が。
 
          
 
下の田畑に行く坂道。
 
満福寺三門左手にある樹齢300年といわれる椿の大木。
 
 
愛宕神社のところを左折。
 
鈎型になっています。
 
振り返る。
 
                  この付近の今昔。
 
                                                                   
 
1880年代のようす。集落が形成されている。           2010年代のようす。道筋は昔のまま。
 
                                           (「今昔マップ」より)
   集落の東側(台地の下)には今も昔から変わらない水田地帯が広がっています。
 
鯉のぼり(5月3日撮影)。
 
学校も新設。
 
 

下野市南河内町

町の西部に自治医科大学、その南側一帯には都市再生機構が開発した県内最大の住宅団地「グリーンタウンしもつけ」があり、東京のベッドタウンとして過去15年間で人口が倍に伸びている。

町の中央寄り北側の旧中心街の薬師寺地区に、下野薬師寺跡がある。東部は鬼怒川・江川・田川等の河川が流れており、農村地帯が広がる米所でもある。北部に男体山、南東部に筑波山等が見渡せる。特に東部の田園地帯から見る筑波山は大変美しい。

旧石器時代から先人が住み始めたといわれ、絹板六大遺跡や北原古墳群等が残される。

飛鳥時代後期には、旧東山道が通っており下野薬師寺が建立された。下野薬師寺には、僧侶の修行の場である戒壇院が設けられ、奈良東大寺九州観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。現在では近世建立の六角堂のみが残されており、回廊の一部等が復元されている。

江戸時代以前は、大字薬師寺、大字本吉田等は河内郡に属し、大字三王山、大字上吉田、大字下吉田、大字花田、大字下坪山等いくつかの村々は都賀郡に属していたが、後に河内郡に属すことになる。大字本吉田村は鎌倉時代より鬼怒川右岸の船運により栄えていた地域といわれている。

中世以降、小山氏一族の薬師寺氏、結城氏の配下に置かれた。江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した。

明治期、廃藩置県により多くが日光県に属し、石橋分庁舎の管轄に置かれた。1873年(明治6年)には栃木県となり静かな農村地帯として歩む。

1972年自治医科大学が開学し、さらに1983年には国鉄(現JR)自治医大駅が開業すると、住宅・都市整備公団による自治医大周辺の都市開発が進み現在、躍進中。

(この項、「Wikipedia」より)

※駅までの道筋の周囲には住宅が建ち並び、人の行き来も多く、活発な街という印象を受けました。

前方に国道4号線バイパス。
 
        
 
「薬師寺南」交差点。
 
「薬師寺南遺跡」説明板。
 
古墳時代から平安時代の集落跡。新4号国道工事に伴い、昭和48~50年の発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴住居跡10軒と奈良~平安時代の住居跡120軒を確認した。そのほか、方形周溝墓、円形土杭、井戸跡などが発掘された。遺物の出土も数多く土師器、須恵器、墨書土器などであります。特にこの遺跡は8世紀から9世紀にかけて大規模な集落が形成され、北に所在する下野薬師寺とかかわる遺跡として考えられている。
 
「薬師寺見学」は次回にし、今回は、ここまで。JR「自治医大駅」まで歩きます。
 
日光の山々。男体山が見える。
                筑波山。
 
次回で、ゴールになります。 
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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その3。麦畑。野村牧場。仁良川(にらがわ)(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-18 20:19:27 | 日光東往還

                     北飯田の交差点。

田園風景が広がる。

      

田植えが始まっています。

葱坊主。

下野市に入ります。田畑が広がります。

来た道を振り返る。

ここは絹板」。右手に集落があります。

見渡す限り、麦畑。

              

これだけ広大な麦畑を見たのは初めてです。

植え付けを待つ畑。筑波山。

「別処山公園→」。

                 前方後円墳の「別処山古墳」があるようです。

右手には集落。

            

「記念碑 植樹50周年」。

「はなだむら桜の園 花田村の先人達に捧げる」

「野村牧場直営」。

私たちについて

野村牧場は1978年に創業、2014年に法人化したF1牛専門の畜産牧場です。2016年に六次産業認定を、2019年には農場HACCPを取得しました。衛生的な環境の中、約1,000頭の牛を育てています。また、当牧場は生後1ヶ月の子牛から育てています。
現社長が確立した『牛に優しい飼育方法』はそれまでの牛の味を劇的に変え、その美味しさは口コミで全国に広がりました。さらに循環型農業や食品ロス削減など地球環境の保全にも力を入れ、2022年からは農福連携も開始。「人と 牛と 環境」すべてを大切にした経営を目指し続けております。

・・・2022年1月から、野村牧場は農福連携事業を開始しました。働きたいと望む方たちが当たり前のようにその望みを叶えて働ける、そんな職場を目指しています。 

     (「野村牧場」HPより)

          「台坪山→」。  

    

筑波山。               

              右手に集落が続いてあります。 

「仁良川(にらがわ)」交差点。

来た道を振り返る。

ここにあるコンビニには大助かりです。

結城駅を出てからここまで、コンビニ等はありませんでしたから。まさに現代の「間の宿(あいのしゅく)」です。

交差点の右手先に大きな長屋門が。

            

この先は、新興住宅地になっているようで、道路も広く、周囲には瀟洒な住宅が建ち並んでいます。

    

かつて長屋門があったのか?           

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その2。追分道標。真盛堂。小山市に。工業団地。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-17 18:52:02 | 日光東往還

           曲尺手(鈎型)。ここを右に折れる道が「日光東往還」(旧道)。少し戻ります。

毘沙門堂前に建てられた追分道標石燈籠2基。

                  

左の燈籠には「向 水戸海道」、右には「右 小山 左 さかい」と彫られている。

※結城市は、北側・西側を栃木県との県境に囲まれ、茨城県の他市町村とは鬼怒川によって隔てられているため、文化(方言等)・経済・交通面で栃木県との関わりが深い。特に隣接する小山市とは小山都市圏に属する密接な関わりがある。南北の交通網が茨城県の他市町村と明らかに異なる古河市ほどではないが、県南(つくば市など)・県北(日立市など)・鹿行地域(鹿嶋市など)との繋がりは希薄となっている。

「木町」交差点。

          曲尺手(鈎型)になっている。木町の由来はここに木戸があったことから。

※なお、国の登録有形文化財だった酒蔵などが火災によって焼失した「結城酒造」はこの左手にあります。

見世蔵が建ち並んでいます。

       和カフェ 甘味茶蔵(かんみちゃくら)。

菓子処 真盛堂。

          

昭和7年、茨城県結城市にて創業。初代店主の名前「真一」と、お店の繁盛を願って真盛堂(しんせいどう)と名付けられました。
結城に古くから伝わる「ゆでまんじゅう」をはじめとした伝統の和菓子や、和と洋をコラボさせた看板商品「カフェオーレ大福」など新しい美味しさも生み出して参りました。
和カフェでも手作りの甘味をお楽しみいただけます。(「真盛堂」HPより)

そろそろ、先に進みます。

    

本場紬問屋 河野商店。

宿内を振り返る。

   

正面の細道が旧道。

この先は住宅地に入り、旧道が消滅。神社のところで左に折れ、県道147号に出て、すぐ「吉田用水」脇を進みます。

            

新しそうな道標。

         「向西 向野・出井ヲ経テ羽川ニ至ル 向右 松木合・仁良川・薬師寺・石橋町ヲ経テ宇都宮ニ至ル」。

吉田用水。

右手遠くに筑波山。

大きな屋敷。

麦畑。

県道146号線に合流して広い道を進みます。この先は、大規模な小山工業団地になります。

結城市から小山市に。

                 

大型トラックが走り抜ける広い道路を40分以上かかって通り抜けます。やっと、

家が見え始めます。

工業団地の東側には集落が広がっているようです。

高椅(たかはし)地区。

           ゆっくりと下る道。

                     2010年代のようす。田園地帯が広がる。

      流れは、「吉田用水」(西)と「田川」(東)。

工業団地付近の標高は約47㍍、東側は約37㍍(「今昔マップ」より)と高低差があります。「日光東往還」は、西の台地の縁を通っていたようで、この先もそうした地形が見られます。

 

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その1。蕪村句碑。数多くの見世蔵。「結城酒蔵」が火災。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-16 20:20:05 | 日光東往還

                        結城駅北口。

5月3日(祝)。晴れ。今回は、「薬師寺南」交差点まで。そこから自治医大駅まで向かうことに。

案内板。

結城市マンホール。

                     市の花ユリをデザインしたカラー版

駅前にある与謝蕪村句碑。

             秋のくれ 仏に化る 狸かな

             きつね火や 五助新田の 麦の雨

             猿どのの 夜寒訪ゆく 兎かな

 

解説板。

駅前の散策に。右手に「蛸屋總本店」創業は元禄11年(1698年)。

この先も見世蔵など古い建物が多く存在します。

磯田邸。

                                     

  築島邸。

「つむぎみそ」という暖簾が。

茨城県西域の平坦な関東平野にある結城(ゆうき)市。古代より穀(梶、かじ)の木・楮(こうぞ)が生育し、“ふさ(麻)”・“ゆう(木綿)”の産地として“総(ふさ)の国のゆうき”と称され、かつて下総国最北端の結城郡でした。鎌倉期に結城氏の城下町となり、江戸初期からは水野氏の結城藩(一部は初期の天領・下総山川藩を経て天領・旗本領)となっています。米・とうもろこし・干瓢・白菜・レタス等の農作物や結城うどん・すだれ麩・ゆでまんじゅう・味噌・清酒等が特産品・名物で、多くの寺社や蔵造りの街並みなど古い歴史に彩られた市内には老舗の飲食店・食品店などが残っています。

1832年創業、伝統的な製法で味噌を作り続ける 秋葉糀味噌醸造

結城駅から徒歩15分ほどの場所にある 秋葉糀味噌醸造。1832年(天保3年)に創業された味噌醸造を行うお店です。現在も昔ながらの伝統的製法で味噌を作り続けていらっしゃいます。出張味噌作り教室等も行っており、味噌作り文化を守る活動もされています。

という、秋葉糀味噌醸造さんの外観。暖簾に「つむぎみそ」とあり、看板メニューつむぎみその名前でも知られているようです。

(この項、「」HPより)

               

「小西見世蔵」明治初期。土蔵造・二階建・瓦葺

小西株式会社は、もと小西金物店と称し、創業は明治8(1875)年、小西酒酒造から分家して小西銅鉄店を興したものです。現在の店舗(見世蔵)もその時に建設されたと伝えられており、棟札や墨書など創建時期を確定する獅資料は残されていませんが、形式や部材の古さがそのことを裏付けています。

見世蔵は切妻・平入りの二階建て・桟瓦葺きで、1階の店舗(現在は事務室)部分正面は、西側約2間を腰つきの張り出し窓とし、他は引き違いのガラス戸としています。2階東側の書斎と西側の座敷には、それぞれ幅の違う引き違いの窓があり、戸袋はつけておりません。1階の店舗部分はやや改造が目立つものの、主要な構造部材や2階内部は創建時の状態をよく留めています。

屋根は近年に葺き替えられておりますが、それ以前は一般の町家と変わらず、関東の見世蔵特有の箱棟や影盛も省略されていたことが知られています。軒を出桁造りにしていないことや2階の階高が低いことなどと併せて、結城に現存する多くの見世蔵の中でも最も古い形式を伝える貴重な遺構です。

 

           

 「武勇」。

               

株式会社武勇

株式会社武勇を営む保阪家は、江戸時代末期頃に越後国(新県県)から結城に移り住んで以来、代々酒造業を営んできました。

店舗である見世蔵は、二階建て・桟瓦葺きで、間口7間の前面に約半間の下屋庇が付き、東側は寄棟造り、西側は切妻造りです。1階は左寄りにガラス戸を建てて出入り口とし、その右を格子窓とします。出入り口以外は腰を石積みにしています。

2階は、中央左寄りに小さな格子窓があるだけで、軒も鉢巻を廻した単純な造りです。一部改装されてはいますが、建設時期は幕末と推定され、結城の見世蔵の中でも、最も古い遺構として貴重な存在です。

この他、敷地内には脇蔵や製品蔵、仕込み蔵、旧釜場蔵、煉瓦造りの煙突など、明治期から大正期に建設された建物が現存しています。一部は使用方法が変わり、改装・改造されたものもありますが、いずれも現役で使用されており、結城の酒造りを今に伝える、貴重な建物群です。

           

※5月11日、近所の(「木町」交差点付近)、別の酒造会社である「結城酒造」で火災が発生し酒蔵2棟が全焼しました。

11日、茨城県結城市の「結城酒造」で火事があり、国の登録有形文化財となっている酒蔵2棟が全焼しました。 警察や消防によりますと、11日午後2時45分ごろ、茨城県結城市の酒造会社「結城酒造」で「ボイラーから出火した」と119番通報がありました。消防車など10台で消火活動を行い、およそ4時間半後の午後7時12分にほぼ消し止められました。けが人はいませんでした。 この結城酒造は創業1594年の400年以上続く老舗で、酒蔵2棟と煙突が国の登録有形文化財となっていますが、このうち、1800年代に建てられた酒蔵の「安政蔵」と「新蔵」の2棟が全焼したということです。

             

(「日テレニュース・2022年5月11日放送」より)

結城を訪問してわずか1週間後のできごとでした。支援の動きが広がっているそうです。

11日、茨城県結城市の酒造会社で国の登録有形文化財となっている江戸時代の酒蔵などが全焼した火事から一夜明け、地元では酒造会社を応援したいと酒を買い求める人が相次ぐなど、支援の動きが広がっています。

11日午後、結城市の「結城酒造」から火が出て、江戸時代に建てられ、国の登録有形文化財となっていた2棟の酒蔵が全焼するなど、およそ1100平方メートルが焼けました。
大正時代から結城酒造と取り引きがあるという酒店には、11日夜から、酒を卸している全国の飲食店から酒造会社を心配する声が次々と届いているということです。
また、12日は朝早くから、地元の人が「応援したい」などとして次々と結城酒造の酒を買い求めに来ていました。
このうち70代の女性は、ふだんから結城酒造の酒を飲んでいるということで「お酒がおいしいだけでなく、酒蔵でコンサートを開くなどいろいろな取り組みをしている会社です。今は大変だと思いますが、早く再建してほしいですし、頑張ってほしいです」と話していました。
酒店の池田真社長は「地元だけでなく全国のお客様から、心配の声や何かできることがないかと問い合わせをいただいており、今は在庫がほとんどない状況です。地元のみんなで、復活を支えるために頑張っていきたいと思います」と話していました。

結城商工会議所の奥澤武治会頭は「地元だけでなく東京などにもファンが多く、結城市のまちおこしにも大変貢献していただいてきた。再興に向けてわれわれも協力していきたい」と話していました。
また、国の登録有形文化財となっている江戸時代の酒蔵などが全焼したことについては「この地域で最も古い酒蔵で、われわれも誇りに思っていたので残念でなりません」と話していました。

結城市では、地域の活性化につなげようと市内の歴史的な建物を会場に大型連休の期間などに、毎年、音楽祭「結いのおと」が開かれていて、結城酒造も会場の一つになっていました。
この音楽祭の実行委員長の野口純一さんによりますと、結城酒造には8年前から建物を会場として借りていて、ことしは今回の火事で全焼した国の登録有形文化財の新蔵の中でコンサートを行ったということです。
野口さんのもとには11日夜から、過去に出演したミュージシャンなどから「何かできることがあったら協力したい」といった声が届いているということです。
野口さんは「結城のまちの歴史や文化を市の外の人たちにも体験をしてもらうのが音楽祭の特徴だったので、なくてはならない施設の一つでした。さまざまなまちおこしの企画にいつも喜んでご協力いただき、大切な相談相手でしたので、なんとかまた元気になってほしいです」と話していました。

(この項、「NHKニュース5月12日」より)

                                   

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その4。堂々たる長屋門。吉田用水。そして、沖縄本土復帰50周年。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-15 19:47:01 | 日光東往還

                 先に進みます。大きなお屋敷が目立つ。

堂々たる長屋門。

       

 「五三の桐」の紋が。

広い敷地のおうち。

「作ノ谷」交差点。

ここにも大きな釜。

交差点先の右手に武者窓付きの大きな長屋門。

      

畑の向こうに筑波山。

遠く左には上州の山々。

結城の市街地に近づきます。

「吉田用水」が右手から近づいてきます。

吉田用水

享保元年(1716 年)徳川吉宗が将軍となり、政治立て直しのための改革が開始され享保 7 年には改革が本格化した。こうしたなかで、新田開発の奨励策と治水が打ち出され、3 千町歩に及ぶ飯沼新田(現茨城県坂東市)が開発された。その新田のために新たな用水を開削することになったのが、吉田用水である。
しかし、用水の取水口にあたる農村(絹板村、花田村、延島村、延島新田村)に大きな負担を残した。用水を維持管理するよう幕府から命ぜられ、増水のたびに堰が壊れるなど4ケ村の財政を圧迫したからだ。また、日光街道の助郷役は免除されるなど、重要な役を担っていた。
 吉田用水は、全長 56kmに及び、流域の村々へ恵をもたらした。取水口付近の農村の払った犠牲は少なくなかったが、それでも、大きな事故や紛争もなく用水が維持されたのは幕府の統制もさることながら周辺 88 ケ村と地元の村々が協力し
てことにあたったことからだろう。なお、現在は、真岡市堀込地内の用水路に堰を設けそこから取水しており、鬼怒川の地下を経て吉田用水に取り入れている。
※林氏の説明資料から抜粋して掲載しています。(「下野市」HPより)

※現在の下野市付近で取水し、結城市内を通り、下流は坂東市に至る全長約60㎞。受益地:茨城県結城市、八千代町、古河市、下妻市、常総市、坂東市

城南小北交差点で国道50号線を横切り、吉田用水沿いに進んだあと、結城駅に向かいます。

来た道を振り返る。

 

吉田用水。

歩道橋から来た道を振り返る。

結城宿方向。

宿内は次回にし、ここから駅に向かいます。

水戸線の踏切が前方に。

結城駅南口。

次回からは鉄道を利用することで済みそうです。

そして、今日5月15日は、沖縄本土復帰50周年。

勤め始めた頃の出来事。沖縄出身の同僚に、皆で、よかった! よかったなあ! と話したとき、一瞬、苦々しい表情になったことを覚えています。手放しで喜ぶことではない、と。

その後の経過はどうだったでしょうか? 復帰以後、今も国土の0.6%に過ぎない沖縄に、米軍関係施設が70%も集中している現実。そこから生じるさまざまな矛盾・問題。

本土にいる我々は、沖縄が今も置かれて厳しい現実にどれほど関心があるでしょうか? 

むしろ、ロシアのウクライナ侵攻を契機に、ますます防衛力増強、敵基地先制攻撃(うまく言い逃れていますが)・・・

米軍と一体となっての防衛体制強化の動きに、沖縄の未来はどうなっていくのか、いよいよ真剣に考えなければいけない、と。

来月中旬、かつての同僚たちが辺野古座り込み支援に行きます。せめて支援カンパだけでも、と。

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その3。武井宿。長屋門。戊辰戦争。官軍兵士の墓。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-14 21:26:26 | 日光東往還

               緩やかな曲がる道(曲尺手? )がかつての「武井宿」への入口?

                    この付近の今昔。

                                                                                                                             

1880年代のようす。道筋は変わらない。              2010年代のようす。今も昔も畑作地帯が広がる。

遠くに筑波山。

    

戊辰戦争での官軍戦死者のお墓。

1868年(明治元年)4月16日、江川地内で新政府軍(結城藩・館林・須坂隊)と旧幕府軍の戦いがあり、戦死した官軍(明治新政府軍・館林藩)兵士の墓。

1年5カ月にわたる内乱、戊辰戦争
慶応4年=明治元(1868)年の干支である「戊辰」に因んで名づけられた一連の戦いは、瓦解した旧江戸幕府(徳川政権)を
依然支持する旧幕府軍と、それを鎮撫する明治新政府軍が激戦を繰り広げた内乱です。
 戦争の発端となった鳥羽伏見の戦い、江戸上野寛永寺山内での彰義隊の戦い(上野戦争)、白虎隊の悲劇を生んだ会津藩の戦い(会津戦争)、会津藩救済を目指した奥羽越列藩同盟の戦い、蝦夷地に榎本武揚を中心に共和国を樹立した箱館政府の戦い(箱館戦争)などが有名ですが、戦線が東北・蝦夷地(北海道)へと拡大するなか、古河市域の近郊で両軍の激戦がおこなわれたことは、あまり知られていません。

 ここで、以降の戊辰戦争で旧幕府陸軍の中心的役割をはたす人物が登場します。名は歩兵奉行・大鳥圭介。旧幕府陸軍の最高幹部6人の内のひとりで、伝習隊を率いていました。

江戸城の無血開城が行われる慶応4年4月11日の夜明け前、大鳥圭介は伝習隊第一大隊・第二大隊を率いて、江戸を脱走、向島から市川方面へ向かいました。伝習隊とは、幕府が招聘したフランス軍事顧問団の直接指導を受けた旧幕府陸軍の精鋭部隊で、装備も当時最新鋭、号令に一部フランス語が用いられるなど、後発の諸隊のモデル隊でした。雨が降りしきる翌12日、恭順を拒否し、江戸を脱走した諸隊も、続々と下総国府台に集結。その中には、以後、大鳥と行動をともにする新撰組副局長土方歳三の姿もありました。評議の結果、大鳥を総督に選んだ旧幕府軍は、大鳥本隊と土方支隊に分かれて進軍、当面の目標地を日光としました。大鳥本隊は山崎・船形(以上、野田市)・莚打・逆井(以上、坂東市)を経て、15日に諸川町に宿泊。また、同日には、大鳥とは合流せず、別行動中の草風隊・貫義隊・凌霜隊も止宿していた磯部村勝願寺を発ち、仁連町へ行軍、宿泊します。この時の、諸川町の様子を「今八ツ半時頃公辺御人数江戸脱走之方ニ凡六百四五拾人
船形御出立之由追々夜ニ入る迄に着宿方一同御宿ニ相成」と、また、仁連町も「草風隊弐百人、貫義隊弐百人、伝習隊、短撒兵隊共宿付相成候由、右宿割込み不相成内本陣并外宿内者不残割込相成、東禅寺・妙厳寺其外大人数ニ付村役人手廻
兼」と、町役人が自身の日記に記しており、宿場中に溢れる歩兵たちの宿割を巡る混乱ぶりがうかがえます。

・・・

4月16日午前、南下中の(明治新政府軍の)平川支隊は小山宿を過ぎた付近で、結城救援のため急反転したところを、草風隊・貫義隊・凌霜隊に追撃され、平川支隊は敗走(第1次小山の戦い)。同日、昼過ぎ、結城城から南下の祖式支隊(結城・館林・須坂藩兵)は、大鳥本隊の先鋒と、武井宿(結城市武井)・北南茂呂村間の台仙坊(大戦防)付近で遭遇、砲撃・銃撃戦となり、挟撃をねらった祖式支隊は多くの戦死・負傷者を出し敗走(第2次小山の戦い)。
 平川支隊敗走の報を受け、香川本隊(岩村田・彦根・足利藩兵)は宇都宮から南下、先に小山宿を抑えることに成功、同17日、午前9時頃、迎撃戦にでますが、侵入する大鳥本隊に散開・包囲され敗走(第3次小山の戦い)。
同日の夕方には、結城城より進軍した祖式支隊が、小山宿で休息中の大鳥本隊の隙をついて攻撃しますが、反撃にあい敗走(第4次小山の戦い)。小山の戦いは、いずれも旧幕府軍の快勝に終わり、香川救援隊は事実上潰滅しましたが、以降の戦局は旧幕府軍側に不利な流れとなり、戦場も北へ移っていきます。
結城市武井には、小山の戦いで戦死した新政府軍館林藩兵の墓がひっそりと建っています。

(この項、「古河文化見聞録」HPより)

※「日光東往還」は、野田からお山まで宿場を戦場とした、戊辰戦争の激戦地となっていたわけです。前回、街道筋にあった石碑には、「四月一六日」と記されていますので、この関連がありそうです。

真向かいに本陣を勤めた武井家。

その先、左手に大きな長屋門の屋敷。問屋を勤めた斎藤家といわれる。

他にも立派なおうちが。

                   

※日光東往還を歩いた先達の中にはこの付近から一本西の道・旧鎌倉街道を歩く方もありますが、小生はそのまま県道を進みます。

この路地の突き当たりに「旧鎌倉街道」がある?

 

スロープに藤棚を設けた工場。

畑の向こうに筑波山。

どういうわけか信号機が。

この先で宿は終わり? 

振り返る。明治維新の戦乱に翻弄された宿場でした。

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その2。七五三場(しめば)。再び鎌倉街道。しもうさ。大戦防。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-13 19:41:09 | 日光東往還

七五三場(しめば)地区に入る。

難読地名紀行
結城市七五三場 由来はしめ縄か当て字か

 結城市の中心街から南へ車で約20分。古河市との市境付近は、「七五三場」と書いて「しめば」と読む。結城市の大字だ。漢字表記が読み仮名の字数を上回るこの珍しい地名には、どのような由来があるのだろうか。

 結城市生涯学習課に問い合わせたところ、「何か言い伝えがあると聞いたことがある。住民なら知っているかもしれない」とのこと。早速、県道沿いに住宅が並ぶ七五三場の集落を訪ねた。

 公民館に足を運ぶと、近くに住む川面七郎さん(81)に出会った。川面さんは「昔、お年寄りから、茂呂神社のしめ縄を張っていたから七五三場になったと聞いたことがある」と教えてくれた。

 神社などで用いるしめ縄にはさまざまな種類があり、その一つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。しめ縄を「七五三縄(しめなわ)」とも書くのは、こうしたことに由来しているとされる。神社のしめ縄から、七五三場になったのではないか、というわけだ。

 もっとも、七五三場や近隣に「茂呂神社」を見付けることはできなかった。北に隣接する北南茂呂地区にある「諏訪神社」のことを指しているのだろうか…。

 その一方で「日本歴史地名大系」(平凡社)によると、現在の七五三場周辺を指すとみられる地名として、鎌倉時代に「志目波」、安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているという。

 これが正しいとすれば、「志目波」が「志めは」に転じて「七五三場」へと変貌したと推測することができる。七五三場の字が当てられた当時は、読み方が先にあって、縁起の良い漢字を後から当てたのかもしれない。

(この項、「産経新聞」より)

では、「志目波(しめは)」と言う地名のいわれはどこから来ているのか、新たな疑問がわいてきます。

※香取市に住む「七五三(しめ)」さんが遠い親戚筋に当たります。おそらくこの苗字の読みは注連縄(七五三縄)から来ているものと考えられます。たしかに香取神宮の影響か神社が多い地域に住んでいます。

大きな屋敷の脇に「鎌倉街道」(↓)という案内板がありました。

矢印に沿っていくと、竹藪に。

この先で地元の方に出会うと、街道の西側100㍍ほどのところに道があって結城の方まで続いている、とのこと。

立派な門の屋敷や広い敷地の家が目立ちます。

 

             

「七五三場」バス停。   

 馬頭観音。判読不能です。

 振り返る。   

集落を抜けると、視界が広がる。

右手遠くに筑波山。

左手にも畑が広がる。

「茨急バス」北茂呂車庫。

使用されなくなった古いバス停が置いてある。

                         古河駅からのバスの終点。

筑波山の双耳峰が重なって見える。

     

面白い形状の火の見櫓。

    

路傍の石碑。戊辰戦争に関わるもののようです。

戊辰戦争においての結城藩の動向は別の機会に。

    

左に「しもふさの郷」。

右手に広大な土地に太陽光パネルが設置されています。

シャープ結城太陽光発電所。

かつての「しもうさ東武CC」の跡地のようです。

結城市はかつては千葉県でした。現在は茨城県です。そのいきさつは?

「大戦防」交差点。

ここ一帯は、戊辰戦争の激戦地でした。この付近は、少し高台になっているので、「台仙坊」「大仙坊」などと言われていたそうです。どういういきさつで「大戦防」となったのか、諸説有るようです。

一説では、慶応4年(1868)に官軍と結城藩の激しい戦いがあり、その後に「大戦坊」と字が変わったということです。

この先の「武井宿」も官軍・幕府軍の戦闘で破壊されてしまったようです。

 

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その1。諸川宿。本陣・脇本陣。薬医門。鎌倉街道。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-12 20:04:04 | 日光東往還

    JR宇都宮線「古河駅」から茨城急行バスで「諸川」まで。今回はJR水戸線「結城駅」まで。

「諸川」交差点。

         「諸川宿」には、古い家並みが残っています。

染谷商店。重厚な見世倉。

             「下総国諸川 米穀 肥料 創業大正七年 染谷喜重商店」とあります。さらに、正面のところに「絵手紙 絵画 英会話教室 留学相談無料」とも。                  

奥に、本陣中村家の長屋門。

重厚な蔵造り。

諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)

江戸時代日光東街道(関宿通多功道)における下総国宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。

日光東街道の起点となる日光街道との追分から数えて7番目の宿場である。

江戸時代以前の諸川は「茂呂河」とも呼ばれ、結城氏庶流の豪族・山川氏の所領であったと考えられている。

慶長5年(1600年)、徳川家康会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一豊公記』)、このころには町屋が整備されていたことが分かる。このとき、山内一豊はから大坂石田三成方の情勢を知らせる「笠の緒の密書」を受け取り、下野小山に在陣中の徳川家康に届けることで、家康の信頼を得た。その後の立身のきっかけとなった場所でもある。

宿駅の成立は、元和5年(1619年)頃と考えられている。宿駅の管理は主に幕府が担った。ただし、寛永16年(1639年)から18年までは下野国壬生藩領、寛永18年から宝暦元年(1651年)までは旗本 であった。

文政 4年(1821年)の『諸川町村鑑明細帳』によれば、家数は95軒、人口は376人(男198人、女178人)である。町の中央には本陣脇本陣が一軒ずつあり、本陣の正面に高札場があった。

宿場の位置は、現在の国道125号と日光東街道に相当する県道17号の交差点「諸川十字路」付近を南端とし、県道17号沿いの諸川郵便局付近を北端とした。南から順に上町・仲町・下町、および途中で東側に分岐する下妻道沿いの新町から構成された。

(この項、「Wikipedia」より)

※山崎宿、中里宿、関宿、境宿、谷貝宿、仁連宿、諸川宿と7つの宿場を通過。残りは、武井宿、結城宿、多功宿。

向かいには「大橋醤油店」。

店先には大きな釜。

奥に工場が広がっています。

蔵造りの三和諸川郵便局。

薬医門に長い塀を巡らせたお屋敷。脇本陣小林家。

        

郵便局の隣にも立派なお屋敷が。

        

※「薬医門」・「薬師門」

薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。

(この項「薬医門https://www.kcn-net.org › mon › yakuimon › yakuimon」HPより)

この付近までが「諸川宿」だったようです。

宿内を振り返る。

「西仁連川」に架かる「宝来橋」の手前に旧道が残っていて、右手に石碑があります。

           右手に大きな記念碑。

その足もとに「鎌倉街道」というかすれた標識が。

        

※この案内板は、結城市に入ってからもありました。

「西仁連川」。

結城市に入ります。

            

     この付近の今昔。

                     1880年代のようす。宿らしい街並み。

                     2010年代のようす。里山風景は変わらない。

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朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その2。長屋門・ひいらぎ幼稚園。仁連(にれ)宿。鈴木本陣跡。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

2022-05-11 21:13:22 | 日光東往還

                 よく整った庭のおうち。

遠くに筑波山(↓)。

                 東京から見る筑波山の双耳峰のかたちが少し違うようです。

散水中? 

畑が広がります。

筑波山を遠く眺めながらの歩き。

左手に大きな長屋門。

「ひいらぎ幼稚園・保育園」とあります。

   門内のようす。

山田十字路。

        県道68号と交差。ここを通る古河駅行きのバス(「JRバス」)があります。

左手に長屋門。

右手には大きな屋敷。

             

左手に大きな古民家。

「宿」という信号名。

筑波山(↓)。

街道の途中にあった「肴屋旅館」。

大きく右に折れて「仁連宿」に入っていきます。

       

                「油屋不動産」。「(有)油屋」。肥料・農薬・農産物集荷。

街道「仁連宿内」。

振り返る。「糀屋」という看板が。

鈴木本陣跡。

             

仁連宿はもともと、日光東街道における本陣。代々引き継がれてきた古民家に、7年前に東京から移住したのが鈴木達郎さん・解さん夫妻です。現在は、干し芋づくりに取り組みながら、仁連宿を撮影スタジオとして貸し出しています。

仁連宿 は約 360 年前に建立され、 旧日光東海道の宿場として機能してきました。私たちはこの家に暮らしながら干し芋を作っています。今なお江戸の面影を残すこの家は、多くの人々が郷愁を感じる古民家であると同時に常に新鮮な空気を纏っています。

(この項、「スペースマーケット」HPより)

※「鈴木本陣跡」がこの建物であるかどうか、定かではありません。念のため。

左手に曲がる。 

「仁連」交差点。

時計職人「富多屋」。おかげさまで開業85周年。

「諸川小学校」のところで、わずかに右にカーブしていて、次の「諸川宿」に入ってきたようですが。

諸川交差点。

今回はここまで。「諸川」バス停」から古河駅まで「茨城急行バス」で向かいます。

次回は、ここから結城宿までです。

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朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その1。谷貝宿。初見姓。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

2022-05-10 18:16:32 | 日光東往還

往復、バスでのアプローチ。東武線「東武動物公園駅」から「朝日バス」で前回の「境車庫」まで。

そこから歩き始めました。

JR「結城駅」まではけっこうありそうなので、半分くらいでやめ、「諸川」から「茨城急行バス」でJR「古河駅」まで。

ここまで利用した交通機関。

JR・東武・京成の電車。路線は、京成本線・東武伊勢崎線(スカイツリーライン)・東武野田線(アーバンパークライン)・JR宇都宮線。

朝日自動車・茨城急行のバス。

下車・乗り換えの駅は、「関屋」、「牛田」、「久喜」、「栗橋」、「春日部」、「曳舟」、「南柏」、「梅郷」、「川間」、「東武動物公園」、「古河」(順不同)。

バス停は「法珠花上町」、「境車庫」、「諸川」(順不同)。

この先もどうなることやら。結城まで20㎞以上あるようなので、途中で止める予定。

              「圏央道」。

門から母屋まで遠い。

「県道17号線」に合流。

                 

大型車の行き来が激しい。しかし、沿道には里山風景が広がります。

         

県道72号線から離れ、直進。

                           「古河市」に入ります。

「谷貝」。宿場があったところです。

畑が広がる。

麦畑。

沿道には、

お茶畑。

              ※黒い布で覆っているのは、抹茶の原料にするからだそうです。

家並みが増えてきます。

かつて宿場だった史跡は見当たりません。  

大きな家が目立つ。  

美容室ハツミ。 

「初見関吉翁事蹟」」碑。  

「初見」姓が多い。  

黒板塀のおうち。 

「初見肥料店」。 

「谷貝」交差点。

結局、「谷貝宿」に因むものは見つかりませんでした。 

                  この付近の今昔。

                                                                  

1880年代のようす。西側は沼地。街道には並木。        2010年代のようす。沼地は田んぼに。集落が広がる。

明治時代からお茶の栽培が盛んだったようです。  

         

こちらは水田。

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その4。常夜燈。境町。自動運転バス。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-09 20:40:40 | 日光東往還

          

リバーサイド修景事業で整備された茨城百景記念公園と常夜灯。境河岸は、かつて江戸中期より明治にかけて、主に江戸と東北を結んだ利根川水運において大きな役割を果してきました。
その境河岸の主役的存在であったのが高瀬舟です。高瀬舟は、かつて利根川、江戸川と共に「河岸の街”さかい”」の繁栄を担ってきました。
当時を偲び高瀬舟(さかい丸)を、観光船として現代風に復元しました。

※現在、運航していません。(「境町HPより)

「茨城県稲敷郡境町」。今回のように街道歩きをして初めて知ったところです。

境町はどこに? 

橋を渡って信号を左折します。

電柱に利根川が氾濫したときの水没の高さが赤い線で示されています。見上げるほど高さで、7.1㍍と標示されています。

      2階屋根の高さ。対岸の埼玉県でも見かけたことがあります。 

正面、突き当たりを左に曲がれば利根川の土手。渡し場になっています。右折すると、境町の中心となります。

利根川土手方向。

                   利根川付近の今昔。

                                                                                                                     

1880年代のようす。渡し場がある。繁栄する境町。       2010年代のようす。利根川の改修で様変わり。           

右角にある古びた建物。

              

旧街道沿いの街並み。

                   人通りもなく、静か。 

昔を偲ばせるものはあまりなさそうです。 

興味深いバス停が。自動運転バスのりば。

境町で運行している自動運転バスは、仏ナビヤ社製の「ナビヤ アルマ(NAVYA ARMA)」で乗車定員は最大15人。境町での実際の走行時には、定員は11人と定めて運行している(新型コロナウイルスの感染拡大防止に伴い現在はオペレーター除き8人まで)。また、運行をサポートするオペレーターが常に1人同乗する(定員に含む)。運行当初は、オペレーターに加えて、安全を確認する役割の監視員も同乗させていたが、途中から監視員を置かず運用できるようになった。

 実際に乗り込んでみると、社内はさほど広くはないが、窓が大きく閉塞感は少ない。最高速度が低く抑えられていることもあり、スタートや停止などはスムーズで、乗り心地は悪くない。もちろん加速感や減速感はそれなりにあり、「横に動くエレベーターという感じだと思っていただきたい」(橋本町長)という言葉も納得できる。

車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)   車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)
 
車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)

 バスは、あらかじめ登録された地図情報とGPSによりルートの位置情報を把握し、そのルートに沿って走る。バスの外に設置されたセンサーにより、障害物がないか360度周囲の状況をリアルタイムで感知しながら走っている。

 運行は信号待ちからの再発進などのときを除き基本的に自動だが、オペレーターは乗客の乗り降りの安全確認や、赤信号の停止状態から交差点を通過する際の発進を確認したりする。また、全体の運行状況をリアルタイムで監視する遠隔監視センターも設置されており、同時に走る2台の自動運転バスの現在の状況をチェックしている。

バス内のモニターにあらかじめ組み込まれた路線データが映し出される。モニターには障害物センサーがリアルタイムに検出している周囲の建物や障害物の映像を表示することもできる(写真:高山透)
バス内のモニターにあらかじめ組み込まれた路線データが映し出される。モニターには障害物センサーがリアルタイムに検出している周囲の建物や障害物の映像を表示することもできる(写真:高山透)
 
遠隔監視センターでは運行中の2台の自動運転バスの状況を車載カメラの映像を通じてリアルタイムで監視している(写真:高山透)
遠隔監視センターでは運行中の2台の自動運転バスの状況を車載カメラの映像を通じてリアルタイムで監視している(写真:高山透)
 
郵便局や病院、役場など主要施設を結ぶ“旧道”を運行

 自動運転バスが走る路線は2系統あり、ともに「道の駅さかい」をターミナルとしている。1つは、東京との直行バスの発着する高速バスターミナルを結ぶ約8㎞のルートで、ショッピングセンター(エコス)、境高校などを経由する。もう1つはシンパシーホール(勤労青少年ホーム)を結ぶ約6㎞のルートで、医療施設や育児施設を通っている。ともに、銀行や町役場、小学校を経由する。

運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)  運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)
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運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)

 境町の主要施設を結ぶ自動運転バスのルートは、町内を南北に走る県道17号線や、東西に走る県道137号線は通らない。交通量の多い幹線道路を避け、いわゆる市街地の“旧道”を選んでいる。利用者として想定している高齢者などがよく使う場所を考えたのはもちろんだが、自動運転バスは、最高速度が20㎞で運用されているため、片側2車線ある幹線道路を走ると他の車両との速度差が大きくなり、他の車両に与える影響や危険が増すと考えたためだ。

 運行しているルートは、片側1車線の対面通行の道路がほとんどだ。信号のある交差点は少ないものの、町の主要生活道路であり、普段から自動車の通行量はそれなりにある。さらに従来からあるバス路線もそこを通っている。その中を、最高速度が20㎞の自動運転バスが走ると、後続の自動車による渋滞も発生する。

 運用開始当初は、渋滞が多く発生したり、後続の自動車が無理に追い越すというケースも多かったが、バス停の間隔を狭めて停車時に後続が追い越す場所を増やしたり、バス停付近の停止位置を変えて追い越しやすくするなど、最高速度は変えずに渋滞を減らす工夫を重ねていった。

商店街の中を走る自動運転バス。運行ルートは片側1車線・対面通行の道路がほとんどだ(写真:高山透)
商店街の中を走る自動運転バス。運行ルートは片側1車線・対面通行の道路がほとんどだ(写真:高山透)
 
自動運転バスのバス停。法規上は既に営業している路線バスと同じ場所にバス停を置けないため独自に設置している。なるべく停車スペースを取って後続のクルマが追い越しやすいように配慮している
 渋滞がさほど問題にならなくなってきたのは、「自動運転バスが町民の中に定着してきたことが大きい」と、自動運転バスの運行業務を受託しているボードリーの佐治友基社長は言う。

 佐治社長は、自身もオペレーターとして実際に運行中のバスに乗り込んだ経験があり、自動運転バスに対する町民の受容の変化について、実感を込めてこう語る。

自動運転バスの運行システムや運用を担うボードリーの佐治友基社長(写真:高山透)
自動運転バスの運行システムや運用を担うボードリーの佐治友基社長(写真:高山透)
 
 「どのルートを通っているか認知されてきたことで、急ぐ必要があるクルマは別の道路を使うといったことで自発的に渋滞を回避してくれていると感じます。よく利用する高齢者は、道ですれ違っても挨拶してくれるようになったり、病院の前を通るときには、入院している患者さんが手を振ってくれたりすることもあります」

1年間の利用者は約5300人、2年間で約7億円の効果

 前述のように、運用開始から1年を経て安全性については問題が起きていない。自動運転バスを町の新しい交通インフラとして導入した成果を橋本町長に聞いた。

 「まだ路線は限られているとはいえ、町内の交通弱者に自力で移動できる手段を1つ提供できた意味は大きいと考えています。また、副産物として、この小さな町がメディアに取り上げられたり、自動運転バスに関心を持つほかの自治体や研究機関からの視察が増えたりしたことで、境町のブランド力は大きく向上したと思います。これが、ふるさと納税の伸びや移住促進にも貢献していると考えています」

 境町の自動運転バスのこの1年間の経緯と実績については、運用を受け持つボードリーが「2021年度 安定稼働レポート」として公表している。それによると、自動運転バスの運用にかかる費用は、2020年4月から2025年3月までの運行準備期間を含む5年間で約5.2億円。2021年度からは事業費の2分の1は地方創生推進交付金が交付されるため、残りは境町の予算でまかなっている。

 この出費に対して、生じた経済効果は、メディアに取り上げられたことによる知名度向上による広告効果や視察や寄付の増加による効果などを金銭換算すると2年間で約7億円になるとボードリーは試算している(同社が2月8日に発表したリポートでは6億円と試算していたが現在は約7億円に修正)。

 これを受けて、境町では自動運転バスの運行路線をさらに拡大していくことを計画している。現在の2路線に加えてさらに第3期、4期、5期と町内のカバー範囲を広げるよう新たに路線を増やす計画だ。人口が少ない地域へ路線を広げると、利用者数や利用頻度が低下することが予想されるが、そこは、スマートフォンアプリによるオンデマンドで車両を予約できるようにするなどで、効率化を図る考えだ。路線の拡大とアプリの導入については、令和3年度中に着手する。利用料金はこの先も現在と変わらず無料を維持したいと考えている。

今後の自動運転バスの路線延長計画。現在の第2期にまでのルートに加えて保育園までのルートなど境町全域に広げていく計画だ(資料:境町)
今後の自動運転バスの路線延長計画。現在の第2期にまでのルートに加えて保育園までのルートなど境町全域に広げていく計画だ(資料:境町)
 
自動運転バスは住民が育てるもの

 定常運航から1年を経て、自動運転バスはどんな変化を境町にもたらしたのだろうか。 まず、多くのメディアに取り上げられることによって町の知名度向上に貢献したことは間違いないだろう。前述のように町への視察件数が1年間で100件を超えたことからも、知名度アップは明らかだといえるだろう。自動運転バスが新しく町の名物になったことは、自動運転バスにちなんだお土産品が売られるようになったことからもうかがえる。

境町の観光スポットの1つである河岸の駅さかいでは、自動運転バスをモチーフにしたお土産品が売られるようになった。

 町民の受容も進んだ。自動運転バスの「スピードの遅さ」は交通渋滞を引き起こす要因となるが、ボードリーのリポートによると、交通渋滞は1年間で9割減少したという。これは、自動運転バスの運行に協力的な町民が増えたということだ。運行に関する工夫やPR活動が奏功したのはもちろんだが、町民の間に自動運転バスの運行事情に対する認知が進んだ結果、街の暮らしの中に自動運転バスの存在が馴染んできたということだろう。また、様々なメディアで報じられ高い評価を受けたことも、住民のシビックプライド醸成につながり、そのことが運行に協力的な姿勢へとつながったと考えられる。

 橋本町長は「まだすべての町民に完全に受け入れられたわけではないが、これからさらに広く町民が恩恵を受けられるよう実績を重ねていきたい」と語る。自動運転バスをスムーズに走らせて交通弱者である高齢者などがその利便性を十分に享受するためには、単に、ハードとソフトを地域に導入するだけでなく、そこに暮らす町民全体がその役割を認識し、運行に協力する姿勢を持つことが重要といえそうだ。

 自動運転バスは、やはり「住民が育てる大きなペット」のようなものかもしれない。

この記事のURL https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/434167/022100208/

(この項、「」HPより)

向こうからやってきます。けっこう人が乗っています。

                  通りを歩いていて二度ほど出会いました。

ユニークな取り組みで期待できます。

 

昔ながらの商家。 

ここにも「想定最大水深」。6.6㍍。人の背丈の3倍以上。

この辺が商店街の中心。

「境中央名店街」バス停。

境車庫までけっこう歩きます。

        

   

今回はここで終了。「境車庫」から朝日バスで東武線「東武動物公園駅」まで出ました。

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