2013年11月27日(水)
佐奈田霊社(石橋山古戦場)・・・JR根府川駅・・・白糸橋・・・江之浦バス停
早川から江之浦に続く丘陵地の東側斜面にはよく整備されたウォーキングコースがあります。このコースは相模湾に面した標高100m前後の斜面に設定されていて、多くは農道が利用されているのですが眺望が良く、天気が良ければとても爽快な気分にさせてくれるところです。2011年に佐奈田霊社から一夜城方面に歩いたので、今回は南方向の江之浦に向けて歩くことにしました。一般道を歩くところもあるので、車には気をつける必要があるでしょう。
佐奈田霊社入口
佐奈田霊社 その1 本堂 右側に立っているのは「木遣塚」の石塔ですが、霊社には佐奈田与一にまつわる話から、のど・喘息・咳・たんなどに霊験があると伝えられ、関連する石塔などが多く設置されていました。
佐奈田霊社 その2 説明板によれば、この付近は源頼朝が治承4年(1180)に平家追討の兵を挙げた処であるが、この時相模三浦党の岡崎四郎義実やその子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。・・・しかし、僅か300の頼朝軍に対して平家方は大庭景親以下3000の兵力であったため頼朝軍はたちまち苦戦に陥った。激戦の末与一はここで討死、当時25歳であった。その後、討死の地に与一塚が建てられ、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。
佐奈田霊社 その3 観音堂
佐奈田霊社 その4 「石橋山古戦場のうち与一塚」 神奈川県指定史跡
佐奈田霊社 その5 狛犬 吽像 子を背中に乗せている
佐奈田霊社 その6 狛犬 阿像 子を優しくかばっているような仕草 少し変わった狛犬の一対ですね
佐奈田霊社 その7 境内より相模湾
「佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)」 佐奈田霊社南側の表参道(?)にあたる石段を下って右に折れるとすぐにこの標柱を目にすることができます。
治承四年(1180)八月二十三日、与一は敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、駆けつけた敵方長尾新六に首を切られこの地で討死したと伝えられている。
指導標 文三堂10m・牧谷川(まきやがわ)2130m →
ウォーキングコース上はこの指導標が細かく設置されているので安心して歩くことが出来ました。 時間のロスが無くなるので、その分ゆとりをもって歩けます。
「石橋山古戦場のうち文三堂」 神奈川県指定史跡
文三堂 その1 「文三」とは与一の郎党文三家安のことで、主与一の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人のあとを追って討死したという。
文三堂 その2
右折 指導標 牧谷川2040m・トイレ420m →
尾根筋の視界が広がるところに飛び出して、今歩い来た方向を見たところです。蜜柑の収穫はほぼ終わっているように見えましたが、その他の柑橘類の実はまだたくさん残されていて花とは異なる独特の暖かさと豊かさを感じさせる風景でした。
同じ場所から西湘・湘南方面 遠く三浦半島から房総半島と思われるところまで望むことができました。
海を見ながらゆったりと下ります。
米神の集落と東海道線の線路
川にぶつかりました。左折 指導標 ← 牧谷川1450m
東海道線の線路にぶつかりました。右折 指導標 牧谷川1400m →
線路沿いに進みます
線路際から別れて谷の方に下って行くと、今度は右上方に新幹線の高架が目に入ります。
清水橋に差しかかりました。下を流れる川が地形図にある清水川なのでしょう。
ここで東海道線の狭いガード下からやってくる道と合わせて右方向に上って行きます。
指導標 牧谷川1130m →
新幹線の高架下を進みます
正壽院の墓地前を過ぎて
小田原市の水道施設の所で左折します。 指導標 ← 牧谷川750m
名前の分からない小さなコンクリート橋を渡り、谷の反対側の斜面を左方向に上って行きます。
歩いて来たところがとても良く分かる景色です。新幹線(左)と東海道線(右)の間を歩いてきました。 後方に低くてなだらかな曽我丘陵と、さらにその後方には大山から塔ノ岳に連なる山なみを見ることが出来ます。
農道の四辻を右折 指導標 牧谷川310m →
だらだらと下って行きます。
左手前から上ってくる農道と合わせて右方向へ 指導標 牧谷川110m →
牧谷川(分岐)に到着しました。ここまでが長かったですね。今日は橋を渡ったら道なりに進みます(左方向)。
橋を渡ると右手に進む道があるのですが、これは案内図によると「ヒルトン小田原」方面を回るウォーキングコース(トレイル)になっているようです。
重要ポイントにはこのような詳しい案内図も設置されていました。
神奈川県 根府川・江之浦の丘陵地を歩く(2)へ
No.345
佐奈田霊社(石橋山古戦場)・・・JR根府川駅・・・白糸橋・・・江之浦バス停
早川から江之浦に続く丘陵地の東側斜面にはよく整備されたウォーキングコースがあります。このコースは相模湾に面した標高100m前後の斜面に設定されていて、多くは農道が利用されているのですが眺望が良く、天気が良ければとても爽快な気分にさせてくれるところです。2011年に佐奈田霊社から一夜城方面に歩いたので、今回は南方向の江之浦に向けて歩くことにしました。一般道を歩くところもあるので、車には気をつける必要があるでしょう。
佐奈田霊社入口
佐奈田霊社 その1 本堂 右側に立っているのは「木遣塚」の石塔ですが、霊社には佐奈田与一にまつわる話から、のど・喘息・咳・たんなどに霊験があると伝えられ、関連する石塔などが多く設置されていました。
佐奈田霊社 その2 説明板によれば、この付近は源頼朝が治承4年(1180)に平家追討の兵を挙げた処であるが、この時相模三浦党の岡崎四郎義実やその子真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。・・・しかし、僅か300の頼朝軍に対して平家方は大庭景親以下3000の兵力であったため頼朝軍はたちまち苦戦に陥った。激戦の末与一はここで討死、当時25歳であった。その後、討死の地に与一塚が建てられ、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。
佐奈田霊社 その3 観音堂
佐奈田霊社 その4 「石橋山古戦場のうち与一塚」 神奈川県指定史跡
佐奈田霊社 その5 狛犬 吽像 子を背中に乗せている
佐奈田霊社 その6 狛犬 阿像 子を優しくかばっているような仕草 少し変わった狛犬の一対ですね
佐奈田霊社 その7 境内より相模湾
「佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)」 佐奈田霊社南側の表参道(?)にあたる石段を下って右に折れるとすぐにこの標柱を目にすることができます。
治承四年(1180)八月二十三日、与一は敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、駆けつけた敵方長尾新六に首を切られこの地で討死したと伝えられている。
指導標 文三堂10m・牧谷川(まきやがわ)2130m →
ウォーキングコース上はこの指導標が細かく設置されているので安心して歩くことが出来ました。 時間のロスが無くなるので、その分ゆとりをもって歩けます。
「石橋山古戦場のうち文三堂」 神奈川県指定史跡
文三堂 その1 「文三」とは与一の郎党文三家安のことで、主与一の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人のあとを追って討死したという。
文三堂 その2
右折 指導標 牧谷川2040m・トイレ420m →
尾根筋の視界が広がるところに飛び出して、今歩い来た方向を見たところです。蜜柑の収穫はほぼ終わっているように見えましたが、その他の柑橘類の実はまだたくさん残されていて花とは異なる独特の暖かさと豊かさを感じさせる風景でした。
同じ場所から西湘・湘南方面 遠く三浦半島から房総半島と思われるところまで望むことができました。
海を見ながらゆったりと下ります。
米神の集落と東海道線の線路
川にぶつかりました。左折 指導標 ← 牧谷川1450m
東海道線の線路にぶつかりました。右折 指導標 牧谷川1400m →
線路沿いに進みます
線路際から別れて谷の方に下って行くと、今度は右上方に新幹線の高架が目に入ります。
清水橋に差しかかりました。下を流れる川が地形図にある清水川なのでしょう。
ここで東海道線の狭いガード下からやってくる道と合わせて右方向に上って行きます。
指導標 牧谷川1130m →
新幹線の高架下を進みます
正壽院の墓地前を過ぎて
小田原市の水道施設の所で左折します。 指導標 ← 牧谷川750m
名前の分からない小さなコンクリート橋を渡り、谷の反対側の斜面を左方向に上って行きます。
歩いて来たところがとても良く分かる景色です。新幹線(左)と東海道線(右)の間を歩いてきました。 後方に低くてなだらかな曽我丘陵と、さらにその後方には大山から塔ノ岳に連なる山なみを見ることが出来ます。
農道の四辻を右折 指導標 牧谷川310m →
だらだらと下って行きます。
左手前から上ってくる農道と合わせて右方向へ 指導標 牧谷川110m →
牧谷川(分岐)に到着しました。ここまでが長かったですね。今日は橋を渡ったら道なりに進みます(左方向)。
橋を渡ると右手に進む道があるのですが、これは案内図によると「ヒルトン小田原」方面を回るウォーキングコース(トレイル)になっているようです。
重要ポイントにはこのような詳しい案内図も設置されていました。
神奈川県 根府川・江之浦の丘陵地を歩く(2)へ
No.345
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