(続) お山でウォーキング

里山歩きをメインにして運動不足の解消を図ろうと思っています。

神奈川県  曽我丘陵ウォーキングコースを歩く(2)

2017-01-03 11:11:38 | ウォーキング
2016年12月28日(水)

弁天山より


足柄平野と富士山   弁天山山頂を後にして、風外窟(横穴古墳群)に向かいます。(1)


(2)


風外窟への道(3)


風外窟分岐  右へ(4)


分岐指導標  右、風外洞200m・風外岩窟200m(5)


谷筋へ降りて行きます(6)


行き止まりのような所へ   左側、少し手前の所に(7)


「風外岩窟30m」の指導標(8)


指導標に従って作業小屋の傍を左に進むと(9)


横穴古墳群の入り口にたどり着きます。 かなり前に一度訪れているのですが、その時よりもよく整備され見学しやすくなっていました。(10)


「横穴古墳群と風外禅師穴居洞」(11)


横穴古墳群
現場に備えられていた風外慧薫(ふうがいえくん)禅師資料によると
この地、曽我丘陵には多くの横穴古墳群がある。 7世紀頃に造られたもので、この地方の豪族の墓と言われる。この山は大磯丘陵の西端に位置し、全国屈指の横穴古墳が存在している。 この地、田島地区には4ヶ所に古墳群があって、其の一つがこの風外窟古墳である。岩窟数は11基発掘されている。(私が見る事が出来たのは1号古墳~8号古墳)(12)


「風外慧薫禅師」説明版より
江戸時代初期、西相模、駿河地方に禅画の足跡を残した禅僧。 上野国(群馬県)碓氷郡土塩村に生まれ、曹洞宗の名刹で修行。元和四年(1618)頃に相模国成願寺に入る。その後当岩窟に穴居し、多くの達磨画、布袋画等を残した・・・(13)


一番左上が8号古墳(14)


古墳内部(15)


直進   風外窟を後にして、弁天山ルート(右)との分岐まで戻り(16)


曽我丘陵ウォーキングコースのメインルートへ  左折(17)


吾妻山(二宮)方面(18)


大山と南尾根(19)


(20)


二宮、大磯方面(21)


連続写真  相模湾と羽根尾、押切方面(22)


「上町隧道」の上を通って左へ(23)


(24)


四辻  右へ(25)


四辻指導標  右、六本松跡  手前、国府津駅   ここから高山山頂付近まで、長い距離ではありませんが急坂が続きます。(26)


(27)


(28)


急坂の終わり(高山山頂付近)が見えてきました。(29)


高山山頂付近に近づくと、右手に送電鉄塔が見えてきます。 実際の高山山頂はこの鉄塔のある辺りで、三等三角点246mが設置されています。 当ブログでは過去に紹介した事があるので、今回は三角点をパス(30)


高山山頂付近 その1 ウォーキングコースは三角点を経由しないで左に曲がって行きます。(三角点はここから右へ2~3分のところ)(31)


高山山頂付近 その2 小田原の中心街と二子山、駒ケ岳、神山方面   右折(32)


高山山頂付近 その3  相模湾と伊豆半島方面(33)


高山山頂付近 その4  富士山(34)


高山山頂付近を過ぎると   今度は丹沢方面の山並みが見えてきます。(35)


連続写真  丹沢方面(塔ノ岳、大山)  手前に曽我丘陵不動山(36)


四辻  時間的に余裕がなくなったので左の「曽我の里散策コース」へ
当初の予定では直進して浅間山まで進むつもりでいました。(37)


四辻指導標 一本松250m 六本松跡650m ←《国府津・曽我丘陵ウォーキングコース》→ 上町隧道1,100m 国府津駅4,900m
左、「曽我の里散策コース」 見晴台320m 別所梅林1,860m(38)


右手に見晴台・休憩所(39)


足柄平野と富士(40)


すでに、かなりの数の梅の木が花をつけていました。(41)


(42)


広い農道へ  左折   指導標 右、別所梅林 満江御前の墓  (43)


少しばかり進んだところで右手の坂道を下ります(44)


県道72号線へ   道路向こう側の樹木は津島神社の社叢林?  横断歩道を渡って左へ
左は国府津駅方面、右は国道255号線(大井町)方面(45)


50mほど先の「田島駐在所前」交差点で右折して津島神社正面に   「田島」バス停あり(46)


津島神社(47)


(48)


津島神社社殿(49)


狛犬 吽像(50)


狛犬 阿像(51)


拝殿  祭神は素鳶鳴命(52)


本殿(53)


「津島神社の由来」より
「源頼朝死んで北條政子尼将軍となって五年目の貞応二年(1223)に北條政子より社地を貰い、嘉禄元年(1225)に神社が竣工した。丁度政子が死んだ年であった。疾病平癒のため、尾張の津島神社を勧請して「牛頭大王」(ごずだいおう)と称した。明治二年(1869)になり、祭神「牛頭大王」とはインドの舎衛国(しゃえこく)祇園精舎の守護神だと云う事から日本の神様素鳶鳴命と改称した」とありました。(54)



No.515