┌◆ 阿片戦争と支那人の嘘吐き ◆ 2011/8/10
『日本の心を伝える会』より
最近、喫煙所という閉ざされた空間を見て、「似ているな」と思うことがあります。
「阿片窟(あへんくつ)」です。
阿片窟というのは、19世紀初頭、支那にあったとされる阿片の吸引所で、映画や漫画では、よくその阿片窟で、阿片を詰めたキセルで煙をくすらせ、ガリガリに痩せ細った人達が、眼をトロンとさせ、男女とも半裸の姿でときにえっちに励む姿などが描かれています。
けれど実はそんなものは「なかった」と言ったら、皆様は驚かれるでしょうか。
が、実は、そうなのです。
阿片(アヘン)は、ケシ(芥子)の実から生産されます。
芥子という植物は、芥子の花を咲かせます。
この花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残る。
これが芥子坊主(けしぼうず)と呼ばれるもので、この芥子坊主にナイフで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片なのだそうです。
そして阿片をさらに精製してそのアルカロイドを抽出したものが、みなさまご存知の「モルヒネ」です。
さらにモルヒネの純度を高めたものがヘロインです。
ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなる。
(ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出方法が確立されたのは、阿片が土台となっています。
日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年、ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネを分離抽出した。いまではカフェインをはじめ、様々な医薬品に、このアルカロイド抽出の技法が役立てられています。)
そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされていたそうです。
5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。
4000年前にはヨーロッパや、中東、中央アフリカで広く芥子は栽培されていたし、3500年前のエジプトでは、阿片が製造されていた事がパピルスの文書に記されています。
当時の人々にとって、阿片は鎮痛剤や、睡眠導入剤などの医薬品だったのです。
そして広く普及していた。
支那にはシルクロードを経由して、やはり医薬品として持ち込まれました。
三国志に登場する医師、華佗の用いた麻酔薬は、阿片だったといわれています。
日本では、阿片は室町時代に支那からもたらされました。
阿片は日本では阿芙蓉(あふよう)と呼ばれ、鎮痛薬として流通しています。
よく時代劇などでは、長崎奉行がよく悪徳商人と結託して、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせてものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘です。
実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬として、医師の専管物でしかなかったし、阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていませんでした。
ところが幕末になってすこし様相が変ってきます。
浪士たちが斬り合いをして、大怪我をするたからです。
その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになる。
江戸中期に、すでに国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていた日本では、万一怪我をしたときの用心であり、医薬品だったのです。
ところが、ここに問題が起きます。阿片戦争です。
阿片戦争は、天保11(1840)年から、約2年間続いた、支那の清国と英国の間で行われた戦争です。
「阿片戦争」と聞くと、大概の方は、英国が支那人を麻薬漬けにするために阿片を大量に支那に持ち込み、そのために支那のあちこちに阿片窟なる阿片の吸引所ができて、知識人たちが廃人にさせられ、こうした事態に怒った民衆が、英国と一戦交えた戦争という認識の方が多いかと思います。
ところが実際には、だいぶ様子が違います。
この時代、阿片を含めて、いま言われるところのいわゆる「麻薬」の販売、所持、吸引などは、まったく規制外だったのです。
そもそも有名なシャーロック・ホームズは有名なコカイン常習者です。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、麻薬で酩酊状態になったときの世界観を表現したものだったとされています。
なかでも阿片は、沈痛、咳止め、睡眠導入効果のある嗜好品として、ガムやあめ玉と一緒に、普通にそこらで売られていた、いまで言ったらコンビ二で売っている健康食品みたいなものだったのです。
加えて、精製がさほどよくもなかったから、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者もいなかったし、ましてや阿片窟なんてものも、存在しなかった。
このことは、タバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
けれどタバコを吸ったからといって、ショック死する人はいない。これと同じです。
そしてタバコは、いまでは閉鎖された喫煙所(煙草窟)で喫煙されている。
つまり、歴史上、阿片窟は存在しなかったけれど、なぜか煙草窟は、現代日本に存在している、というわけです。
さてこうして鎮痛効果もある、吸えば気持ちいいという阿片は、1830年代には、世界貿易のまさに主役となっていました。
とりわけインドを統治する大英帝国では、東インド会社が精製するインド・ベンガル産の阿片が、とびきりの高品質な高級嗜好品として世界中に流通していました。
これで東インド会社が大儲けし、世界中で商品がひっぱりだこになっているという状況になると、だいたいそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で輸出しはじめるのが、今も昔も変わらない支那人商法です。
実際、東インド会社産の阿片に対し、支那産の阿片は価格は半分でした。
それで粗悪品を世界に流通させて、大儲けしようとした。
問題は、その商業のやり方です。
英国は、今も昔も、民間会社が公正な法のもとに貿易をし、その法が守られるよう、英国軍が商人たちを保護します。
これに対し支那は、儲かる商売は官営です。
官憲が儲かる商売を独占し、賄賂をとって私服を肥やします。
当時、英国は陶磁器や茶などを支那から大量に買い付けいました。
そして良質な阿片を支那に販売していました。
ところが、良質な阿片を販売する英国に対し、支那産の阿片は粗悪品です。
人々の人気は、どうしても英国産に偏る。
結果、阿片を買うために、貿易通貨としての支那の銀が大量に支那から流出してしまいます。このことに青くなった清国は、阿片の輸入を規制し、銀の流出を阻止しようと目論見ます。対英貿易趣旨が大幅に赤字となった支那は、英国から輸入する阿片を頭ごなしに規制したのです。要するに輸入禁止商品にした。
もともとは、英国と清国の貿易収支は、英国側が大量の茶葉と陶器を買付けていたので、清国が大儲けしていたのです。
ところが、阿片の流通で、この貿易収支が反転した。で、英国の貿易収支が黒字になり、清側が赤字になって銀が流出しはじめたのです。
事態を重く見た清朝政府は、英国東インド会社からの阿片の輸入を規制します。
ところが、そこが支那です。
中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって大儲けした。
結局、官僚たちの賄賂の分だけ、阿片が高値になっただけで、阿片の清国内流通はまるで止まらず、当然、清国内の銀の流出も止まらない。
こうなるといきなり過激になるのも、支那の特徴です。
(明日の記事に続く)
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<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/
今NHKで「テンペスト」やっていますね。
「テンペスト」上下巻があるのですが、先日読み上げました。
この上巻にちょうど 阿片事件 が出てきます。
・・・我が国と清国との為替は銀1に対して銅1000となっており ・・・我が国と日本の銀の交換比率は、銀1に対して銅1500となっております。 つまり我が国は銀出過で銀の価値が落ちているということ・・我が国(琉球)を中継することによって清国の帳簿では見えにくくなっております・・・
そもそも阿片戦争とは阿片の悪習が起因だったのではなく、阿片貿易で生じた銀本位性の揺らぎから来る経済戦争だった・・ なんて書いてあった。
テンペスト
本もテレビも面白かったよ。