よのなか研究所

多価値共存世界を考える

密教化する国内政治

2013-04-17 07:28:18 | 政治

                                                  Photo ( 早朝の志布志港、鹿児島県 )

 

内外の政治状況の内向き志向、それに伴う秘密主義、隠蔽傾向がはなはだしい。それは、政治の密教化、といってもよいように感じられる。

仏教にもキリスト教にもイスラーム教にも隠されたものがある。一般大衆にも信者にも知らされていない戒律や教えや、また教団内の組織があったりする。教団は教えを広めるために大衆に分かり易い話を作り上げ、また絵画や塑像を以てストーリーを展開するようになる。仏教もキリスト教も多くの絵画芸術、彫刻を作りだしてきた。(その点、一人イスラームだけは宗教原初の姿を守っている。モスクは偶像も華美な装飾もない。)

たとえば、仏教の開祖ゴータマ・ブッダは「完全に開かれた教え」としての自分の悟りの境地(覚醒)を語った。ところが伝教が広まり大衆化するにつれ、教えを厳格に実践する修行者たちが自らを「上座部」と称し、大衆部(だいしゅぶ)、すなわち「大乗部」と区別するようになる。

修行者の中に、肉体的に精神的に厳しい修行を積んで初めて理解に達するものがある、と考える僧たちがでてくるようになる。その境地に達した者でなければ理解できない教えを、一般大衆に説くことはない、ということになる。これが密教であり、他方、一般に開かれた教えが顕教である。

キリスト教世界にも、東方正教会のみならず、ローマ教会にも、これに抗して登場したプロテスタントにも秘儀と称する修行があるらしい。あるものは暗がりで火を点し、香料を焚き、水を掛け、また鉦や鈴を鳴らし呪文を唱える。居合わせるものに神秘的な雰囲気をかもしだす。

宗教はその始まりからどこか神秘的な要素を持たないと続かないのかも知れない。すべてを陽の下に曝したら、人びとの信仰心が薄れるということかもしれない。

しかし、政治はそうではない。すべてを公開しなければならない。たとえよく分からない人たちの意見でも反映させるのが民主政治である。よく分かっている人たちだけで政治を行えば、それは寡頭政治(Oligarchy)となる。

すべてが人びとの前に曝されることが大前提である。最近の政治家が良く使う言葉に「自由と民主主義、市場経済という共通の価値観を持つ国同士で…」というのがある(こんな文言を真に受けている国はほとんどないが)。その昔は「自由と平等」が強調されたものだが、いつしか「平等」のほうは後退してしまった。それは、「平等」が今日の過度に発達した市場経済とは相いれないからである。また、民主主義とは多数決原理を基本とするが、たとえば、日本国民の七割が原子力発電の再開に反対を唱えているにも関わらず、現実の政治では逆にその再開、新規建設の検討、さらに技術輸出などが進められている。民の多数と政治の多数が見事にずれているのである。政党の幹部による強引な党運営、加えて「党議拘束」という民主主義にそぐわない仕組みがある。政党政治は民主主義の一形態であるが、それがすべてではない。政党が密教教団化している。そこに「民主主義」という制度の欠陥があることを大方のひとは理解している。政治の世界と言うものは古今東西そう言うものだ、との意見もある。

特定の外国との二国間の条約や協定には「密約」という、半ば公然の約束ごとがあることは知れ渡っている。何十年後に公開するという条文が存在する条約や協定を、今の国民がどうやってその全体の正否を判断すればよいのだろうか。

なにも外国を相手にするのでなくとも、国内での決めごとにも「非公開」のものは多い。「公聴会」とか「パブリック・ヒアリング」とか称する場で発言する人をすべて主催団体が用意していたり、会場を埋めた聴衆の八割が特定の団体の動員であったりする事例がたくさん出てきた。つまり、実質「公開」ではないのみならず、「密室会議」とほとんど同じである。それどころか、報道機関も入った場での討論で決められた、などとして、これがお墨付きを得て議会に回されるのである。その議会でこれに反対意見を主張するのは大変な勇気が要る。政党助成金の分配を受けられなくなる可能性が高い。

また、政府諮問委員会などという各種の委員会や研究会に登場する専門家、学識経験者も政府が人選しているのだから、結果は始めから分かっているも同然である。かくして、権力の思うところに政策が動いていく。

企業や団体で秘密会議が開かれようが意に介することはないが、政治の場ではたとえ外国との交渉であってもすべて「顕かに」されなければならない。それなくして「民主主義」という制度は生きながらえることはできないのではないか。現在の政治の衰退はわれわれの責任でもある。

(歴山)