Photo ( 港の近くのかつての繁華街、鹿児島市 )
新しい政党が次つぎと出てきて、しかもそれらが合流して一方の名前が消えたりして覚えるほうも大変です。こんなことならいちいち覚えずに選挙が終わってから残った政党だけを覚えることにしたいところですが、学生相手に教えている立場ではそうもいかない。
「たちあがれ日本」が「太陽の党」になったかと思えば、「日本維新の会」と合体して名称が消えてしまった。かと思えば「国民の生活が第一」が解党して新しく登場する「日本未来の党」に加わると報道されている。
「国民の生活が第一」はもともと民主党のキャッチコピーだったものをこれに分かれて政党名としたものであり、暫定的なものだったのかもしれない。それゆえこの党名は解釈の巾が広かった。すなわち、他国籍ではなく「自国の国民の」生活が第一、とも解釈されるし、外交や教育や産業や環境よりも、国民の「生活」が第一、とも解釈される。もちろん、すべては生活に集約されるわけだから、どれも含んでいると言えばそうであるが、語感的にはネット右翼にもネット左翼(というのはあまり聞かないが)にも受けの良さそうな名称だった。今の展開では、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」という長い名称の政党も合流してその名が消えることになりそうである。
本来選挙民にとつて多党化傾向は決して悪いことではない。選択肢が増えることは喜ばしいことである。複雑化する社会の諸問題についてすべて一致する政党を見つけるのは至難の業であり、多少の違いはあっても多くの点で自分の意見と一致する政党や立候補者を多数の中から選べばいい。そして議会の場で、それぞれの案件について似た見解の党派が寄り集まって主張し議決していけばよい。
だが、小選挙区制度で中小政党が議席を確保することは難しい。一人区のみの小選挙区制は二大政党の固定化の為に考えられたものであり、第三党以下の政党が議席を得るのは並大抵のことでは出来ない。そのために比例区が用意されている、ということになっている。それは一つの論法であって、結果をみれば大きな歪みが残されている。
一つの区で議員が三乃至四人が選ばれる「中選挙区」に戻す、という意見が時々出てくるがなかなか、大きな声にならない。現在多くの議席を有している政党がこれに反対するからである。有権者も小選挙区制度の方が分かり易いとして是認しているのか、または単に慣れきっているのか、良く分からないところがある。
そこで「全国一区」という構想がときどき顔を出てくる。すなわち、立候補者がどこでどのような選挙活動をしようが、その得票数を上から順に並べて上位三百人を当選とする制度である。これなら一票の格差の問題も解消される。しかし地域性が希薄となり、ますますエンタメ系政治家が増えることになりかねない。
選挙制度は現在のままで、需要案件について、つまり、現時点で言えば「原発継続」、「TPP交渉参加」、「消費税増税」などに賛成か否か、について国民投票にかけて、直接国民の声を反映させようという声も聞かれる。
「全国一区」も「国民投票」も公正で、結論がはっきりとする方法である。だが、これまでの数回の選挙で見るように、特に国政選挙では一時のブームに動かされがちである。「世間の空気」と言うものが政治を左右するのである。しばらくしてのその熱気が冷めると揺り戻しが起きることになる。つまり、選挙というものは古今東西を問わず、「瞬間最大風速」の測定をしているようなものなのである。そこに、謀りごとに長けた人物が「突風」を起こして選挙で大勝する、ということを我々も過去に何度か体験してきた。
しかし、今回も小選挙区で争われることになる。多くの政党が登場することをきっかけに、個々の有権者が各種メディアで報じられていることと、自分の眼で見て考える社会の姿との落差を意識し、懸命な選択をすることを期待したい。このことがメディア・リテラシー教育の狙いである。
代議制・議会制民主主義は現在は最も優れた統治機構ということになっている。かつてチャーチルが「民主主義は劣悪な制度である。しかし、今のところこれにより秀でた制度はない」と語ったと伝えられる。
風速・風向は瞬時に変わるものであるから、これをより長い時間経過をもって再計測する方法が考えられる。すなわち、国民投票で決めた案件については、次回の国民投票の機会に再度判断してもらい、最低二度の投票結果で国民の総意とする、と決めることにすれば「突風」による行きすぎを制御することが可能となる。
国民のための政治を行うには、手間と時間を惜しんではならない。
(歴山)