yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

待賢門院堀河・・・破の2

2008-12-26 00:54:42 | 創作の小部屋
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     破の2

 西行殿、このような物語(はなし)は聞きとうない・・・。昔の義清殿ならばそう申して太刀を振り下ろされるやも・・・。
 今の西行殿は何事も総てを大きく包み込む・・・御仏の心をお持ちでございましょうから・・・。
 風が少し出ましたか、夕暮れが近こうなっておるのでございましょう。

 白河法皇がお勧めになられて鳥羽の帝は稚い崇徳の帝に譲位され鳥羽院になられておいででございました。
 白河法皇とのご関係は続いておられましたが、鳥羽院との仲も睦まじくなられ、お二人とのご情交が続くのでございます。そんな時、応接に女房達は慌てふためくのでございました。
  御身に沁み込まれた蠱惑(こわく)でお二人の心を虜(とりこ)にしたのでございます。
 璋子様にはこの頃が一番幸せの絶頂で御座いました。白河法皇とも睦みあいになられ、そして、鳥羽院の寵愛(ちょうあい)を一身にお受けになられ、毎夜のごとくお肌を重ねられ、次から次へと年子(としご)で四人の御出産一年後にもうお一人と・・・女子といたしましてみちたりた日々を過ごされておいでで御座いました。
 崇徳新院(すとくしんいん)と保元の乱を起こしました後白河の帝は鳥羽院と女院様の皇子で御座います。
 西行殿はお二人の中にあってお悩みになられたことでございましょう。女院様の皇子のお二人が権力を争いを・・・。
 崇徳院のみまかられての後讃岐は善通寺をお尋ねになられ・・・。世の無常をお感じになられ・・・。その旅もまた歌を深める事に・・・。

 七人目のお子を宿されておられたときに、白河法皇がご崩御(ほうぎょ)なされました事は、お子に差し障ることをあんじられ女院様へはお伏せになられました。
 白河法皇、七十七歳の大往生で御座いました。
 ご出産の後、退いていく潮のように、女院様の運気と申せばいいのでしょうか、白河法皇という後ろ盾を失い日陰の時へと移り変わっていくのでございました。
 女院様は崇徳の帝へご愛情をましてお深めになるのでございます。その事がお力を保つ唯一のものでございましたから。

 人の道は良きことは長続きはせず、苦しきことのみが ・・・。それ故に御仏のご慈悲が・・・。

 鳥羽院は周囲の者が目を見張るほどの溺れようと言われます得子様へのご寵愛は日毎につのり、女院様の淋しさは頂点に達しておいででございました。奈落の日々とでも・・・。
 それでもなお、母親思いの崇徳の帝がおられますことが何よりの慰めでございました。
 鳥羽院の女院様へのご愛情はまるで母上への愛とでも申せばいいので御座いましょうか・・・。
 女院様はご一生で十三回の熊野詣でをなさりました。それもなぜか厳しい季節を選ばれてのお行きでございました。その辺りに女院様のお心の苦衷(くるしみ)が見えるのでございます。
 御所での女院様はその頃から写経に読経の日々が訪れるのでございます。また、寺院の御建立へと・・・。ですが、女院様のお肢体は理性では抑えることが叶わず何人かの男を向かい入れなくては業火(ほてったからだ)を鎮めることが出来ず、女の哀れさを思い知るのでございました。そして、お立場の苦悩を・・・。その手引きをこの堀河が・・・。

 自然の営みは変わらず巡り、人の心の有様を知ってか知らずか、繰り返すのでございます。

 女院様は慎ましやかで温和しい御気性のお方でございました。そのようなお方であられたから取り巻くあの才気煥発な女房達は離れる事無くお仕えしていたのでございます。女院様はその生い立ちから男の、女の性を充分にご存じのこと、煩わしい悩みを打ち払うには御仏に御縋りするしか道はなかったのでございます。 白河法皇の護願寺(ごがんじ)としての法金剛院の御建立は、白河法皇の御崩御の一年の後、落慶法要(らっけいほうよう)がつつがなく行なわれたのでございます。
 それからの女院様は頻繁(ひんぱん)に神社へ御幸(ぎょうこう)、塔のご供養をなさいまして御座います。それほどお悩みになられておいでだったのでございます。そして、熊野への道程(みちのり)をも・・・。

 西行殿、十七歳で北面として・・・。同輩に今はときめく平清盛殿・・・。白河法皇が平忠盛殿に御下げ渡した祇園女御様のお子、世間では白河法皇のお子と・ ・・。その事は神仏のみご存じのことで御座いましょう。

この庵で、堀河が何をと・・・。嵯峨野の里、小倉山、そしてこの西山・・・。西行殿が歩かれた小径になにか落ちてはいまいかと・・・。山里の静けさ、ため息が落ちても鳴り響く鈴のような音、風が枯れ枝を揺らし奏でる啜り泣き、季節の健気(けなげ)にも咲くか弱き草花、雨の軒を叩く慈しみの音色、小鳥の大らかな囀(さえず)りの営み、その一つ一つに両の手を合わせ、森羅万象にまた合わせる。そんな堀河の言葉を三十一文字(みそひともじ)に託しても人の心には通じませぬか。老いすればやがて朽ちる命を今は過去の幻に思いを馳(は)せ語る人とてないこの小屋にて、昔知りおうた人達のご成仏と健やかなる営みをみ仏にお祈りいたしておりますと、穏やかな精神と研ぎ澄まされる神経に快いときを過ごす事が出来るのでございます。かつては、男と睦(むつ)みあう女の幸福を、そして、好いたお人ともに歩み苦労をする、そんな道をと・・・考えたことがありましたが・・・。これもみな御仏のご慈悲と・・・。
 零れるように煌(きら)めく満点の星、まるで手が届くようで幾度手を差し伸べたことか・・・。月に託して恋を語り・・・。
 西行殿、この堀河まだまだ歌の心を捨ててはおりませぬ。
 和歌は歌う人の御仏、歌詠みが歌を創るということは 仏を創ること、その想い、いつか西行殿からお聞き申したゆえ・・・。

 名残の陽は洛中を照らしますが・・・。東山がまだあのように赤々と染まり・・・。この西山は黄昏れて静寂に・・・。
 まるで、美福門院様と女院様の有様のようでございます。

 女院様がご落飾を思い立たれたのは何時のことであられたのか。衰えをお見せにならない優雅ないでたちはお変わりなかったので御座いますが、時折お見せになられるお一人の佇まいには憂(うれ)いが漂っておりましたので御座います。
 お部屋で読経、写経の日々をお過ごしになられる女院様をお庭へ散歩にお誘いいたし、また、欄干にしなだれかかる櫻をご覧にとお勧めいたしたものでございます。
 水面に枝を差し出すしだれ櫻、薄紅色の花びらが、風の悪戯によって、また、時を終えて散る様を、その姿に涙をお見せになる、そんな女院様を優しく愛しく眺めたことか・・・。
 女院様は草木の花は総てお好きであられましたが、特にしだれ櫻を愛でておいででございました。
 しだれ櫻に御身をお重ねになられたのでしょうか。
お日様に向けて開かぬ花びらのしだれ桜に・・・。
 法金剛院は五位山の麓の広大な敷地に御建立。西御堂、南御堂、阿弥陀堂である三昧堂を揃え、それに五重塔、当時の宗派を備えておりました。まるで女院様が浄土をお感じらなられる場所の様でございました。そう申す者がおりました。また、広い池をもち、その周りを馬場にし、船遊びや競べ馬(くらべうま)の出来る仕組みで御座いました。それに、精舎(じいん)は 花をつける草木は植えぬものと言われておりますが、 四季に花を見せる希有(まれ)な精舎で御座いました。女院様のお心は花を御覧になられ華やかであった白河法皇とお過ごしになられた昔を思い出す事より、お深い道へとお入りになられようと致していたのでございます。女院様のお心のまま女房達が植えたでございます。

 西行殿、御仏は人の営みの総てをお許しくださるものでございましょう。それがお慈悲で御座いましょう。四季に咲く花の命に心惑わす、その薫りに心定まらずでは、なんと修行のなさでございましょうか。何事があろうと一心に務めることこそ大事であろうと想われまするが。

 西行殿のお歌・・・。

    仏には 桜の花をたてまつれ
         わが後の世を ひととぶらはば

 そのように歌っておいでですから・・・。

待賢門院堀河・・・破

2008-12-26 00:44:03 | 創作の小部屋
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珠子様は七歳でお父上を亡くされて・・・。
白河法皇に一身に寵愛(ちょうあい)をうけておられた祇園女御(ぎおんにょうご)様のもとへ御養女としてお入りなられ、そこで法皇に孫のように可愛がられた藤原璋子様・・・。そこから運命(さだめ)の糸は複雑に縺(もつ)れあい絡み合いを見せるのでございますが・・・。
 藤原璋子様、中宮璋子様、それから待賢門院様へ、女子と致しましてどうであられたのかと・・・。
西行殿、あの頃の堀河の女と致しましての感情の起伏より、今はあの頃のことを静かに眺め、振り返ることが出来るのでございます。
  総てを捨てこの西山に庵を構えなにの柵(しがらみ)もなく過ごし御仏の使いとして、経を読み、書き写す心静な日々、今まで見えませなんだ物が見え、物事の理(ことわり)が分かるにつれて・・・。振り顧みますと、私の人生は女院様の生き方の中にありまして、私を語るときには女院様の総てを語らなくてはなりませぬゆえ。
 それゆえに・・・。
 女院様と親しかった西行殿にお会いしてみとうなりましたのです。

 源顕仲の娘として生まれ、父の影響から歌を学び、堀河として中古六歌仙の中の一人、また「千載(せんざい)和歌集」にも取り上げられ歌詠みと認められるようになるその道程(みちのり)で、令子(よしこ)内親王の女房、六条としましてお仕え致し、それから堀河の局としまして藤原璋子様に・・・。
 祇園女御様を源忠盛殿へ下げ渡したその夜、お二人はなにの差し障りもなく結ばれました。璋子様は幼き頃より白河法皇にまるで成熟した女のよう甘えになられ、胸に抱かれておいででございました。
 それは艶っぽく、男の心を蕩(とろか)すいたずらの瞳とあどけない仕草を持っておいででございました。それにもましてお声は男の心を擽(くすぐ)り魅了する響きをお持でございました。お生まれついての御気性だったので御座います。
  女子の私は振り返ってみますれば羨ましゅうさえ思えるのでございます。あれほど愛される女子の幸せを知らぬゆえなのでしょうか。
 月の物を知ったすぐ後、男を向かい入れる、歳の端のいかぬ少女の痛々しい性。女として生きる意味を知らされるということ、夜毎の営みがより深い悦びに誘うということ。そのお相手がまして、この國一番の権力者に愛されていることになればこれ以上の女の冥利(みょうり)で御座いませんでしょう。女子は強い男の愛を欲しがるものでございます。

 常に雌は強い雄を欲するもの、それはあらゆる動物(いきもの)の世界の成り立ちでございましょう。森羅万象悉(ことごと)くその営みが・・・。人の世も変わりませなんだ。
  堅い蕾が男の愛撫で柔らかく揉みしだかれ白く粉を吹いた柔肌に変わり、ふっくらと丸みをおび括れた曲線をたたえたお肢体(からだ)にお変わりになる、森羅万象自然の理とはいえ、見事な女の脱皮を見たようでございました。
 西行殿、今は櫻も蕾をつけ寒さに耐えてはおりますが、やがて綻びてまいりましょう。寒い冷たい季節を耐えたものだけが初めて花咲かす事を許される、人の世もまた変わりませぬ。苦しみ辛さを耐えた者が許される誉れ・・・乗り越えられ血肉にされてなお励まれる修養。・・・まるで風の様で・・・それを受け流す柳の様で・・・。定めに流されるのでなく流れるそれが西行殿の生きた・・・。
西行殿、お見事でございますな。

白河法皇は璋子様の行く末を按じられて幾つかのご婚儀の話を進められましたが、祖父のように可愛がられた白河法皇との交わりを知っていてなんのかんのと逃げて話がまとまりませぬので御座いました。処女(おぼこ)でなくてはと言うような風習はありませなんだが、祖父と孫が愛し合うような間柄、そのことには男と女の出入りに寛容な時の世でも神経を逆立てたのでは御座いますまいか。
 祇園女御様のように、白河法皇に愛され後に源忠盛殿へ下げ渡す、何人もの男を引き込みながらも輿入(こしいれ)する、そんな世間では御座いましたのに・・ ・。

 最後に白河法皇はお孫にあたる鳥羽の帝(みかど)への話を創りまして御座います。
 鳥羽の帝は何とも言えずそれをお受けになり、鳥羽の帝十五才、璋子様十七才、入内(じゅだい)が決またのでございます。
 璋子様のお心がどうであられたのか、最初にお肌を会わせたお男(ひと)、初めて蕾を開き甘い蜜をおすいになられたお人、そのお人が進めるご婚儀に従わなくてはならぬ我が身の運命。その運命を抵抗(あらがう )ことも許されない事にどれほどの哀しみをお味わいになられたか。お話が決まりましての璋子様は終日泣き明かしておいででございました。そこえ白河法皇がお越しになられ白いお肌に馴染まれる、その慰めの行為により喜びと哀しみが交錯致しておいででございました。断ることの出来ない肢体(からだ)との戦い、求めるいじらしい一途さ、お側で見ている私達は切なさに身を捩(よじ)りました。

 入内の儀の日はとどこうりなく過ぎましたが、その夜から高熱に身を妬(や)かれまして御座います。夜には庭に出て衣をむしり取り、髪を掻き揚げ狂ったように泣き伏したのでございます。
 夜空に上がった蒼い月が池の水面に写り微かに揺れておりました。がたちまち雲の中へと隠れたのでした。
  鳥羽の帝とご婚儀がなされてもご一緒に過ごされることはなく、ご病気を口実に御所に篭もられる日々で御座いました。
 数日が過ぎまして璋子様は御所をお出になられ白河法皇のもとへ・・・。
 中宮璋子様のお便りを運んだのはこの堀河で御座いました。色々と言い訳を設けての逢瀬、女房達ははらはらと気を揉みましたが・・・。
 鳥羽の帝に入内なされ女御から中宮(ちゅうぐう)となられましても白河法皇との中は続くので御座います。璋子様を一度はお離しになられた白河法皇は異常とも言える愛欲をみせられ以前にもましてお肌を欲しがられたのでございます。

 それは、匂いを放ち蜜を滴らせて待つ花びらに吸い寄せられる蝶の様を見るようでございました。

 それからは世間を気にすることを忘れられたかのように白河法皇が御所にお出向きになられ、昼夜を問わずお過ごしになられました。そんな時、女房達はお二人の気配を押しやるように習いごとを始めるのが常でございました。
 その時、白河法皇は六十七歳を過ごしになられ眼窩(がんか)は垂れて喉元に弛(たる)みをたたえ老いの染(し)みや皺を表されておられましたが、まだまだお若こう御座いました。それはまるで璋子様の若さを吸い取り若さを保っているようにお見受けいたしましたが・・・。
 璋子様は、十七歳の幼さをお感じさせないほどの女の色香を見せておいででございました。それは白河法皇によって掘り起こされ目覚まされ磨かれたものでございました。
 濡れたような黒髪、ふくよかな頬、潤んだ瞳、瑞々しく透き通った肌、それは正に落ちる前の果実のようでございました。それを鳥達が啄(つい)ばむ、まさに 白川法皇は一羽の鳥・・・。
 そのころの女院様のお美しさは堀河も身震いがするほどで御座いました。

 白河法皇はご信仰の篤(あつ)いお方でございました・・・理の何たるかの造詣(おもい)は深こう御座いました。そんなお方でさえ理性で抑(おさ)えられぬものがあったのでございます。それは枯れていく命を次の世へという欲・・・。

 一年の後、皇子を身篭もるので御座います。鳥羽院から伯父子と言われた崇徳の帝でございます。お二人目の禧子(よしこ)内親王も白河法皇のお子か鳥羽の帝のお子か定かでは御座いませんが・・・。不義と言うより鳥羽の帝が黙認した仲でのことでございました 。
なんとも総てが思いの外、祖父と孫が一人の女を同時に愛するという倫理(ひとのみち)とか常識では図り知れぬ世界であったのございました。