破の2
西行殿、このような物語(はなし)は聞きとうない・・・。昔の義清殿ならばそう申して太刀を振り下ろされるやも・・・。
今の西行殿は何事も総てを大きく包み込む・・・御仏の心をお持ちでございましょうから・・・。
風が少し出ましたか、夕暮れが近こうなっておるのでございましょう。
白河法皇がお勧めになられて鳥羽の帝は稚い崇徳の帝に譲位され鳥羽院になられておいででございました。
白河法皇とのご関係は続いておられましたが、鳥羽院との仲も睦まじくなられ、お二人とのご情交が続くのでございます。そんな時、応接に女房達は慌てふためくのでございました。
御身に沁み込まれた蠱惑(こわく)でお二人の心を虜(とりこ)にしたのでございます。
璋子様にはこの頃が一番幸せの絶頂で御座いました。白河法皇とも睦みあいになられ、そして、鳥羽院の寵愛(ちょうあい)を一身にお受けになられ、毎夜のごとくお肌を重ねられ、次から次へと年子(としご)で四人の御出産一年後にもうお一人と・・・女子といたしましてみちたりた日々を過ごされておいでで御座いました。
崇徳新院(すとくしんいん)と保元の乱を起こしました後白河の帝は鳥羽院と女院様の皇子で御座います。
西行殿はお二人の中にあってお悩みになられたことでございましょう。女院様の皇子のお二人が権力を争いを・・・。
崇徳院のみまかられての後讃岐は善通寺をお尋ねになられ・・・。世の無常をお感じになられ・・・。その旅もまた歌を深める事に・・・。
七人目のお子を宿されておられたときに、白河法皇がご崩御(ほうぎょ)なされました事は、お子に差し障ることをあんじられ女院様へはお伏せになられました。
白河法皇、七十七歳の大往生で御座いました。
ご出産の後、退いていく潮のように、女院様の運気と申せばいいのでしょうか、白河法皇という後ろ盾を失い日陰の時へと移り変わっていくのでございました。
女院様は崇徳の帝へご愛情をましてお深めになるのでございます。その事がお力を保つ唯一のものでございましたから。
人の道は良きことは長続きはせず、苦しきことのみが ・・・。それ故に御仏のご慈悲が・・・。
鳥羽院は周囲の者が目を見張るほどの溺れようと言われます得子様へのご寵愛は日毎につのり、女院様の淋しさは頂点に達しておいででございました。奈落の日々とでも・・・。
それでもなお、母親思いの崇徳の帝がおられますことが何よりの慰めでございました。
鳥羽院の女院様へのご愛情はまるで母上への愛とでも申せばいいので御座いましょうか・・・。
女院様はご一生で十三回の熊野詣でをなさりました。それもなぜか厳しい季節を選ばれてのお行きでございました。その辺りに女院様のお心の苦衷(くるしみ)が見えるのでございます。
御所での女院様はその頃から写経に読経の日々が訪れるのでございます。また、寺院の御建立へと・・・。ですが、女院様のお肢体は理性では抑えることが叶わず何人かの男を向かい入れなくては業火(ほてったからだ)を鎮めることが出来ず、女の哀れさを思い知るのでございました。そして、お立場の苦悩を・・・。その手引きをこの堀河が・・・。
自然の営みは変わらず巡り、人の心の有様を知ってか知らずか、繰り返すのでございます。
女院様は慎ましやかで温和しい御気性のお方でございました。そのようなお方であられたから取り巻くあの才気煥発な女房達は離れる事無くお仕えしていたのでございます。女院様はその生い立ちから男の、女の性を充分にご存じのこと、煩わしい悩みを打ち払うには御仏に御縋りするしか道はなかったのでございます。 白河法皇の護願寺(ごがんじ)としての法金剛院の御建立は、白河法皇の御崩御の一年の後、落慶法要(らっけいほうよう)がつつがなく行なわれたのでございます。
それからの女院様は頻繁(ひんぱん)に神社へ御幸(ぎょうこう)、塔のご供養をなさいまして御座います。それほどお悩みになられておいでだったのでございます。そして、熊野への道程(みちのり)をも・・・。
西行殿、十七歳で北面として・・・。同輩に今はときめく平清盛殿・・・。白河法皇が平忠盛殿に御下げ渡した祇園女御様のお子、世間では白河法皇のお子と・ ・・。その事は神仏のみご存じのことで御座いましょう。
この庵で、堀河が何をと・・・。嵯峨野の里、小倉山、そしてこの西山・・・。西行殿が歩かれた小径になにか落ちてはいまいかと・・・。山里の静けさ、ため息が落ちても鳴り響く鈴のような音、風が枯れ枝を揺らし奏でる啜り泣き、季節の健気(けなげ)にも咲くか弱き草花、雨の軒を叩く慈しみの音色、小鳥の大らかな囀(さえず)りの営み、その一つ一つに両の手を合わせ、森羅万象にまた合わせる。そんな堀河の言葉を三十一文字(みそひともじ)に託しても人の心には通じませぬか。老いすればやがて朽ちる命を今は過去の幻に思いを馳(は)せ語る人とてないこの小屋にて、昔知りおうた人達のご成仏と健やかなる営みをみ仏にお祈りいたしておりますと、穏やかな精神と研ぎ澄まされる神経に快いときを過ごす事が出来るのでございます。かつては、男と睦(むつ)みあう女の幸福を、そして、好いたお人ともに歩み苦労をする、そんな道をと・・・考えたことがありましたが・・・。これもみな御仏のご慈悲と・・・。
零れるように煌(きら)めく満点の星、まるで手が届くようで幾度手を差し伸べたことか・・・。月に託して恋を語り・・・。
西行殿、この堀河まだまだ歌の心を捨ててはおりませぬ。
和歌は歌う人の御仏、歌詠みが歌を創るということは 仏を創ること、その想い、いつか西行殿からお聞き申したゆえ・・・。
名残の陽は洛中を照らしますが・・・。東山がまだあのように赤々と染まり・・・。この西山は黄昏れて静寂に・・・。
まるで、美福門院様と女院様の有様のようでございます。
女院様がご落飾を思い立たれたのは何時のことであられたのか。衰えをお見せにならない優雅ないでたちはお変わりなかったので御座いますが、時折お見せになられるお一人の佇まいには憂(うれ)いが漂っておりましたので御座います。
お部屋で読経、写経の日々をお過ごしになられる女院様をお庭へ散歩にお誘いいたし、また、欄干にしなだれかかる櫻をご覧にとお勧めいたしたものでございます。
水面に枝を差し出すしだれ櫻、薄紅色の花びらが、風の悪戯によって、また、時を終えて散る様を、その姿に涙をお見せになる、そんな女院様を優しく愛しく眺めたことか・・・。
女院様は草木の花は総てお好きであられましたが、特にしだれ櫻を愛でておいででございました。
しだれ櫻に御身をお重ねになられたのでしょうか。
お日様に向けて開かぬ花びらのしだれ桜に・・・。
法金剛院は五位山の麓の広大な敷地に御建立。西御堂、南御堂、阿弥陀堂である三昧堂を揃え、それに五重塔、当時の宗派を備えておりました。まるで女院様が浄土をお感じらなられる場所の様でございました。そう申す者がおりました。また、広い池をもち、その周りを馬場にし、船遊びや競べ馬(くらべうま)の出来る仕組みで御座いました。それに、精舎(じいん)は 花をつける草木は植えぬものと言われておりますが、 四季に花を見せる希有(まれ)な精舎で御座いました。女院様のお心は花を御覧になられ華やかであった白河法皇とお過ごしになられた昔を思い出す事より、お深い道へとお入りになられようと致していたのでございます。女院様のお心のまま女房達が植えたでございます。
西行殿、御仏は人の営みの総てをお許しくださるものでございましょう。それがお慈悲で御座いましょう。四季に咲く花の命に心惑わす、その薫りに心定まらずでは、なんと修行のなさでございましょうか。何事があろうと一心に務めることこそ大事であろうと想われまするが。
西行殿のお歌・・・。
仏には 桜の花をたてまつれ
わが後の世を ひととぶらはば
そのように歌っておいでですから・・・。