陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

口は月日が借りて  心は月日貸している

2021-04-27 22:23:22 | 宗教
  これからわどのよなしことするやらな 心したいにとんな事でも 十二 62
   これからはどの様なしごとするやらな 心次第にどんな事でも
 この号の冒頭で歌った主テーマ「銘々の心みなあらわす」ことを月日の「しごと」と言い表して、ここからその話を展開しようというのです。
 3~13、22~38で、「我が身はびかり」て、自分の中に「月日の心」がおさまらないなら、「月日しりぞく」と伝え、
 38~61では、「月日の支配」の世に目覚めて、「月日の心」に凭れて生きる陽気づくめの姿をあらわす。そして、決して「月日しりぞく」ことのないよう、銘々に「月日の心」をおさめさせること、それが月日の「しごと」というのです。

  いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や 十二 67
   今なるの月日の思う事なるは 口は人間、心月日や
  しかときけくちハ月日がみなかりて 心ハ月日みなかしている 十二 68
   しかと聞け口は月日がみな借りて 心は月日みな貸している
 この歌を文字どうりに解すと、「口は人間、心月日」、ここに人間の本性がある。この人間にとってかけがえのない真理を知らせるために、口は月日がみな借りて「心は月日みな貸している」と言っている。
 この神意をしっかり心におさめるために、「今までも今がこの世のはじまりと 言うてあれども何の事やら(七35)の歌の神意をつきとめてみると、そこには、人間が「神の存在」、「神の支配の世」であることを「意識」したときに始めて、神の存在があるということが分る。そうなると、それまでの我が身思案、「人間心の世界」は、言うならば幻想の世界で、そこには神は存在しないということになる。だから、何より先ず、神の存在を感じさせる必要がある。その必要があって、「口は月日がみな借りて」、と人間の心と体をとおして、実際に神の自由を身に感じさせ、そこから「神」を意識させようというのです。
 30の「月日でかける」には、これから「月日の自由」を見せるから、そこから「みな承知せよ」、と神の存在を気づかせようという月日の思惑がある。そのために39で、「筆につけたる理り」がしっかり心におさまるなら心は勇み、陽気づくめになると月日の自由を見せて、神の存在を知らしめるているのです。
 「心は月日みな貸している」 ― こんど人間が神の心を理解するには、神と一体化していることを自覚しなければならない。そして、それが「銘々の心みなあらわす」ことの最大の目的でもあるのです。

  こればかりうらみあるならとのよふな 事も月日かみなかやすてな 十二 69
   こればかり恨みあるならどの様な 事も月日がみなかやすでな
 「口は人間、心月日」である。「人間の心」は「神と一体」であると諭されても、『ハイそうですか』と簡単に納得できる話しではない、などと恨めしく思うところもあるだろう。しかし、『いかほどはびかりてままにしたとて、月日の自由があってのこと!』で、「口は人間、心月日」、この心の内に、一人残らずの我が子が、陽気づくめであるための基だてがあるから、どうあっても「かえし」して、それを分らせてみよう! 

 50で歌った「いき手踊りでみなたすけるで」が、その「かえし」の手段で、その実が「いき手踊り」、すなわち「さづけ」と「おつとめ」です。
 「さづけ」での「かえし」は73~128 ― ここには「こゑのさづけ」の神意がある。
 「おつとめ」での「かえし」は129~156 ― ここには、つとめ人衆の役割の神意がある。

   このそうじ澄きやかしたる事ならば そのまま直ぐに守り拵え
   この世の人間元を世界中 知らしておいた事であるなら


                        中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

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