このさきハをふくハんみちがみへてある もふあこにあるこゝいきたなり 四 2
このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる 3
それからハたん々ふしんせきこんで なにかいそがし事になるなり 6
四号は、冒頭の歌で往還道が見えてある もうあこにあるここへ来たなりと歌って、段々ふしん急き込んで 何か忙し事になるなりと受けている。
この「ふしん」という言葉は、みかぐらうたでは二、八、十二下り目の合計で5回登場。おふでさきでは一号で2回登場させて、「世界だすけ」の「ふしんの模様ばかり」と「ふしん」を打ち出す。そして、5年後に再開されたおふでさき三号で「ふしん」を展開する ― 五月五日に確か出てくる ― 人々は、目に見えない進行中の道を確認することが難しいと感じているだろう。しかし、その道の先には「往還道」が見え来て、五月五日にはっきりと姿を現す。この時、多くの人々が集っても良いように、「ふしん」の完成を目指すおつとめの準備が急がれる。
三号以降からの「ふしん」はここに一度登場するだけ ― 「何か珍しこのふしん仕掛けた事なら切りは無い(十二下り目)」 ― 「ふしん」はおふでさき十七号で集結するどころか、その完成は現代をも飛び越え、正しく永遠の「ふしん」であることを物語っている。
たんだんと六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ 5
段々と六月になるならば 証拠守りすると思えよ
これからハ神の心ハにち々に せきこみあるとをもいこそしれ 7
をもしろやをふくの人があつまりて 天のあたゑとゆうてくるそや 12
だん々とつとめのにんぢうてがそろい これをあいつになにもでかける 14
五月五日に「かぐらづとめ」をつとめて、一カ月後の六月には「証拠守り」、「さづけ」を授けたい。そのときには、おつとめの成果に感動して寄り集まる人びとが、これこそ天の与え、と言い合って人数は増していく ― つとめの人衆手が揃い ― 「つとめとさづけ」が正しく一体化する。先に伝えたみかぐらうたでは「たすけのもとだて」を称して「かぐら手踊り」と歌っているが、この段階で「かぐらづとめ」に「さづけ」が加わり、ここに「この道」のたすけの「もとだて」、その源が集約される ― これを合図に何も出かける ― 新たなる時代の幕開けに向けて期待と興奮が高まる。
「ふしん」の目的は「往還道をつける」ことにあって、そこへ至るためにと先ず「おつとめ」の実行を促す。そして次に、33の歌で「唐の地をにほんの地にする」ことを提示するが、その前にここで「唐」とは何をもって言うのかを確認させる。
にち々の神の心わだん々と 上の心にはやくみせたら 15
上たるわなにもしらずにとふぢんを したがう心これがをかしい 16
にち々に神の心のせきこみハ とふぢんころりこれをまつなり 17
唐人を従う心 ― 「高山の真の柱は唐人や」 ― 「おつとめ」の目標の柱はこの世と人類創生の親である「神」。それに対する高山が目標に据える柱は『天皇と天皇家の先祖』、唐人だから、それは『人』、『人間』以外の何者でもない ― 人間はみな同じ魂。それなのに尊いのだと「柱」、「神」に見立てて祀る ― 「これが大一神の立腹」 ― これが可笑しい
「唐」は「唐人」を「神」として祀り崇める世界。「にほん」はこの世と人類創生の親である「神」を信奉する世界。月日は支配神「唐人」を祀り崇める「上」、「側」な者に対して、「唐人」に何時までも追従するなら、後悔することが見えているから、その悪しき元凶となっている「唐人」を祀る信仰から脱皮するように迫っている。「唐人」を崇めていても憂しばかりで、真から喜べる日はない。今までの誤りを認め、そこで改善するなら、新たな勇気を得て、より良い未来への道を歩むことができる ― 唐人ころりこれを待つなり
「おつとめ」は「往還道をつける」ためのツール
けふの日ハいかなるみちとをもうかな めづらし事がみゑてくるぞや 21
にち々によふきづとめのてがつけば 神のたのしゆみいかほとの事 23
はや々とつとめのにんぢうまちかねる そばな心わなにをふもうや 24
だん々になにもをもハくときゝれば みのうちよりもすゝやかになる 28
またさきのよふきづとめをまちかねる なんの事ならかぐらつとめや 29
「神」は「側」を含む多くの人々が「おつとめ」に取りかかることを待ち望む。
めづらし事が見えて来るぞや ― 行動することで内なる平穏を得、清らかな心を取り戻し、勇気ある生活を送ることができる ― 身の内よりも涼やかになる ― 「おつとめ」を通じて世界中の人々が神の心を学び、尊重し、平和と調和を築く ― 何の事なら「かぐらづとめ」や ― 個々の変容だけでなく、世界全体の変容を求める神の意志を表す。
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる 3
それからハたん々ふしんせきこんで なにかいそがし事になるなり 6
四号は、冒頭の歌で往還道が見えてある もうあこにあるここへ来たなりと歌って、段々ふしん急き込んで 何か忙し事になるなりと受けている。
この「ふしん」という言葉は、みかぐらうたでは二、八、十二下り目の合計で5回登場。おふでさきでは一号で2回登場させて、「世界だすけ」の「ふしんの模様ばかり」と「ふしん」を打ち出す。そして、5年後に再開されたおふでさき三号で「ふしん」を展開する ― 五月五日に確か出てくる ― 人々は、目に見えない進行中の道を確認することが難しいと感じているだろう。しかし、その道の先には「往還道」が見え来て、五月五日にはっきりと姿を現す。この時、多くの人々が集っても良いように、「ふしん」の完成を目指すおつとめの準備が急がれる。
三号以降からの「ふしん」はここに一度登場するだけ ― 「何か珍しこのふしん仕掛けた事なら切りは無い(十二下り目)」 ― 「ふしん」はおふでさき十七号で集結するどころか、その完成は現代をも飛び越え、正しく永遠の「ふしん」であることを物語っている。
たんだんと六月になる事ならば しよこまむりをするとをもへよ 5
段々と六月になるならば 証拠守りすると思えよ
これからハ神の心ハにち々に せきこみあるとをもいこそしれ 7
をもしろやをふくの人があつまりて 天のあたゑとゆうてくるそや 12
だん々とつとめのにんぢうてがそろい これをあいつになにもでかける 14
五月五日に「かぐらづとめ」をつとめて、一カ月後の六月には「証拠守り」、「さづけ」を授けたい。そのときには、おつとめの成果に感動して寄り集まる人びとが、これこそ天の与え、と言い合って人数は増していく ― つとめの人衆手が揃い ― 「つとめとさづけ」が正しく一体化する。先に伝えたみかぐらうたでは「たすけのもとだて」を称して「かぐら手踊り」と歌っているが、この段階で「かぐらづとめ」に「さづけ」が加わり、ここに「この道」のたすけの「もとだて」、その源が集約される ― これを合図に何も出かける ― 新たなる時代の幕開けに向けて期待と興奮が高まる。
「ふしん」の目的は「往還道をつける」ことにあって、そこへ至るためにと先ず「おつとめ」の実行を促す。そして次に、33の歌で「唐の地をにほんの地にする」ことを提示するが、その前にここで「唐」とは何をもって言うのかを確認させる。
にち々の神の心わだん々と 上の心にはやくみせたら 15
上たるわなにもしらずにとふぢんを したがう心これがをかしい 16
にち々に神の心のせきこみハ とふぢんころりこれをまつなり 17
唐人を従う心 ― 「高山の真の柱は唐人や」 ― 「おつとめ」の目標の柱はこの世と人類創生の親である「神」。それに対する高山が目標に据える柱は『天皇と天皇家の先祖』、唐人だから、それは『人』、『人間』以外の何者でもない ― 人間はみな同じ魂。それなのに尊いのだと「柱」、「神」に見立てて祀る ― 「これが大一神の立腹」 ― これが可笑しい
「唐」は「唐人」を「神」として祀り崇める世界。「にほん」はこの世と人類創生の親である「神」を信奉する世界。月日は支配神「唐人」を祀り崇める「上」、「側」な者に対して、「唐人」に何時までも追従するなら、後悔することが見えているから、その悪しき元凶となっている「唐人」を祀る信仰から脱皮するように迫っている。「唐人」を崇めていても憂しばかりで、真から喜べる日はない。今までの誤りを認め、そこで改善するなら、新たな勇気を得て、より良い未来への道を歩むことができる ― 唐人ころりこれを待つなり
「おつとめ」は「往還道をつける」ためのツール
けふの日ハいかなるみちとをもうかな めづらし事がみゑてくるぞや 21
にち々によふきづとめのてがつけば 神のたのしゆみいかほとの事 23
はや々とつとめのにんぢうまちかねる そばな心わなにをふもうや 24
だん々になにもをもハくときゝれば みのうちよりもすゝやかになる 28
またさきのよふきづとめをまちかねる なんの事ならかぐらつとめや 29
「神」は「側」を含む多くの人々が「おつとめ」に取りかかることを待ち望む。
めづらし事が見えて来るぞや ― 行動することで内なる平穏を得、清らかな心を取り戻し、勇気ある生活を送ることができる ― 身の内よりも涼やかになる ― 「おつとめ」を通じて世界中の人々が神の心を学び、尊重し、平和と調和を築く ― 何の事なら「かぐらづとめ」や ― 個々の変容だけでなく、世界全体の変容を求める神の意志を表す。
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講