陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

この「悪事」 神が責めきり退けてみせるで 

2023-07-29 15:01:42 | 宗教
  このあくじなんぼしぶといものやどて 神がせめきりのけてみせるで  一 36
   この悪事なんぼしぶといものやとて 神が責めきりのけて見せるで
 おふでさき一号は、立教の目的と趣旨を再確認する。そのためにどうしても明らかにしなければならないこと、それがこの一号で大きな比重を占める、「あくじ」・「悪事」です。おふでさきが「末代のこふき」なら、この「悪事」が単に中山家の内幕の一端を覗かせるためでない事は明らか。そこで「あくじ」の正体をしっかり検証してみたい。

  しらしたらあらハれでるハきのどくや いかなやまいも心からとて   一 24
  やまいとてせかいなみでハないほどに 神のりいふくいまぞあらわす      25
  これまでのざんねんなるハなにの事  あしのちんばが一のさんねん     31
  このあしハやまいとゆうているけれど やまいでハない神のりいふく    32
  りいふくも一寸の事でハないほどに  つもりかさなりゆへの事なり    33
  このあくじなんぼしぶといものやどて 神がせめきりのけてみせるで    36
  このあくじすきやかのけた事ならバ  あしのちんばもすきやかとなる   37
 当時の中山家の実態を詳細に調べて、そこにどんな「あくじ」があったのかを見定めたいと、「教祖伝」を読んでみても、「あくじ」はサッパリ浮かび上がってこない。その対象は秀司であって、おふでさきではそれを厳しく追求しているのに、「教祖伝」で語られる主人公は、「あくじ」とは縁遠い存在となっている。
 「教祖伝」の主となる資料は『復元』にある。『復元』の製作は年限の経過と世界大戦などを経て歪められてしまった教えを、真実の教えに復元させることにあると、その趣旨をうたっている。しかし、内実は一切合切の資料を残すことなく回収して封印する。そこで中山家、教団にとって好都合の「教祖伝」を公開する。ここに大きな目的があったから、「あくじ」もそこに飲み込まれてしまったのではないか、と疑えるフシが多々ある。
 芹沢光治良著の「教祖様」は、昭和34年の暮れに角川書店から出版された。その中で氏は、『天理時報社の強引な依頼によって、24年から32年にかけて「天理時報」に連載したものである。執筆することを約束してから、信じられないことだが、資料について、時報社も天理教本部も何等の協力をしなかった。そこで、天理教の真柱中山氏に頼む以外にないと判明したが、誰も引きあわせてくれるがないために、やむなく紹介者もなく敢然と訪ねて懇願したところ、資料はないからと冷たくまれた。』と記している。

 秀司に向けた「あくじ」を極めて、おふでさきの神意を掌握しようとするなら、その資料は教団の外に求めるしかない。そこで目に留まったのが、『御水屋敷人足社略伝』。みき様は教団が突き進む道を見据えて、早くから岩次郎を「人足社」と定め、飯田家だけはと、距離を置かせたことにその思惑を感じることができる。飯田岩次郎は天理教団が公認を得るためと、時の政府に迎合して行く中にあっても、一筋にみき様の教えを貫いたために、離脱の道に追い込まれる。この事情は今なら誰でも、ネット上から掬い上げる事は可能である。
 
 飯田岩次郎御伝記・御水屋敷人足社略伝 ― 岩次郎は、7歳の時、教祖よりたすけられ、13歳頃まで教祖の御許に通い、または滞在して教えを受け、その春より安堵村に帰って学問に励み、19歳(明治19年)、病気になって、おぢばに滞在、この時『人足社』と言われたものの如し。母親も一緒にみき様の許に入り込んだ ― 岩次郎には必ず母親を伴わせた事が、この伝記の信頼性を担保するという、みき様の思惑を感じ取ることができる。
 当時、岩治郎は、母親と一緒にみき様の許に前後、三年入り込まれていた。そこに長男秀司と妻のまつゑが同居していたが、二人ともみき様に苛酷な扱いをしていた。その上、吝嗇でお屋敷に出入りする人々にも手土産を持参しないと、不機嫌になった。しかも、岩治郎親子は、しもべの扱いを受け難儀な日々を送っていた。そこに若い岩治郎は、やり場のない思いが深められていった。楽しみの道を求めんと、思君の家より多分の金子を持ち寄らせた。
 折しもよけれ〔山本利三郎、仲田儀三郎等〕 ― 事実を記すならならここは〔秀司〕とすべきだ! 何故なら、『略伝』のこの項の主人公は明らかに秀司(とまつゑ)なのに、みき様の長男ゆへ憚るところがあったのでしょう。敢えて〔山本、仲田〕と入れ替えてしまい、秀司の影を薄くした…。幾多の書物などに目を通せば誰でも知り得ることだが、本席様以外で、この両名と岩次郎を超えて純粋にみき様の教えを貫いた人は見当たらない。みき様は岩次郎に、分らぬ事、困った事あれば、山本、仲田に頼れと言い聞かせていたのでしょう ― これに〔秀司〕とすべきを〔山本利三郎、仲田儀三郎〕等と記す心情を思っておさめることができる。
 ここからは、「このあくじ」を詳らかにするため、『略伝』の著者に変わって、臆すことなく実名でもってをあげて実態を語る ― 秀司は岩次郎が家より多分の金を中山家へはこび、常に入費を惜まず人々のきげんをとり、在所がらにも似ず多くの金子を懐中せらるを見て、君(岩次郎)の何を云うてもそむかぬを幸とを誘引出し、なにがな馳走にもならんと度々いざない出し、散在いたさせ賭事などだんだん悪しき路へ手引いたしむ。勧まるまま博奕に藝妓に娼妓にとだんだん遊ぶ事に心を入れ、終には憚る気色もなく次第に身を持ちくづし家に戻るは稀にして、料理屋を常の栖家の如くし又は、妾を別戸させなどして日々貸す金銭実におびたゞしかりけり… ― 当時の秀司、お屋敷における日常生活の生き写し ― 「このあくじ」

 この「あくじ」に応えて
  一れつにあしきとゆうてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなり 一 53
   一列に悪しきと言うて無いけれど 一寸の埃が付いた故なり

                            中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講