陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

にほんにも  こふきができた事ならば

2020-05-31 21:21:57 | 宗教
   この道は世界並とは思うなよ これ末代のこふき始まり
  にほんにもこふきがでけた事ならば なんでもからをまゝにするなり 五 32
   にほんにもこふきができた事ならば 何でもからを儘にするなり 
 神話は時代を問わず人間が生きる上で極めて重要な役割を担っている。なぜならそれは、我々の生活とそれを取り巻く世界の起源を解き明かすことによって、この世界に自分たちの存在する理由を説明・証明するものだからだ。だからその物語は、必然的に人間がこの世に生まれる前の、神々の時代から解き明かされることになる。〔日本の神々と祀り〕

  もとなるハちいさいよふでねがえらい とのよな事も元をしるなり 五 43
   元なるは小さいようで根が偉い どのよな事も元を知るなり
 ある部族はそれが一つの部族としてのまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要となったのである。その部族はどのような世界の中で、どのようにして出来上がり、今後どのようになってゆくか、それらを「物語」るものとしての 「神話 」によって、部族の船員たちは、自分たちによって立つ基盤を得、一つのまとまりを持った集団として存続していけることになる。…フランスの神話学者のデュメジルは、『神話を亡くした民族は命を亡くす』とまで言っている。〔神話と日本人の心-河合隼雄〕

  けふの日ハなにがみへるやないけれど 八月をみよみなみへるでな 五 56
   今日の日は何が見えるやないけれど 八月を見よみな見えるでな
   この道をつけようとてにし拵え 側なる者は何も知らずに
 43の「どのよな事も元を知るなり」 ― 古事記は、『天地がはじめて発けた時、という言葉からはじまるように、この世がどうしてできたのかを論じることなく、そこに出現した三柱の神の名前を記することからはじまっている…』。日本書紀においても、冒頭に、天地や陰陽が分離しない状態や、混沌とした様子などが描写されてはいるが、よく読んでゆくと、この文の最後、『神聖、其の中に生れます』までは、天地のはじまりの一般論を述べている〔神話と日本人の心 23㌻〕 ― ここに「八月をみよ」と期限を切って、「万づ委細の元」を伝える根拠がある。

  はやへとしやんしてみてせきこめよ ねへほるもよふなんでしてでん 五 64
   早々と思案してみて急き込めよ 根掘る模樣なんでして出ん
 古事記は、三柱に二柱を加えた五柱からなる別天つ神を並べてから、神世七代の神々を連鎖するが、その最後にイザナキ、イザナミという男女の神が現れ、ここから実の神話を展開させるという構図になっている。つまり、イザナキ、イザナミは、それまでのような名前だけの一対の神ではなく 結婚して日本という国土を埋め尽くす。そういう点では 彼らこそ創造神だと言えるかもしれない。そして彼に先立つ神々は、いわば創造神の『根っこ』について語っているとも考えられる〔神話と日本人の心〕。 ― おふでさきでは「この世の真実の神月日なり あとなるはみな道具なるぞ」 ― ここにも「八月をみよ」の根拠がある。

  このよふのもとはじまりのねをほらそ ちからあるならほりきりてみよ 五 85
   この世の元始まりの根を掘らそ 力あるなら掘りきりてみよ
 イザナギイザナミが 国生みの親として重要な役割を持つことは 記紀いずれにおいても同様であるが……。国づくりの道中で、イザナギ、イザナミに命令を下す 「天つ神」は誰の事なのかは分からない。こんなところを曖昧にしておくのも面白いといえば面白い。最高神を明確にすることを嫌っている、とも考えられるのである〔神話と日本人の心〕。 ― ここに「怖き危なき道」が潜んでいる ― 日本神話はかつて軍閥によって都合の好いように解釈され、国民に押し入つけられたという不幸な歴史をもっている……

 現代においては、各人が自分にふさわしい個人神話を見いだす努力をしなくてはならない。といっても「神話 」を見いだしてそれに従って生きる、などというのではなく、生きることそのものが神話の探求であり、神話を見いだそうとすることが生きることにつながるというべきであろう〔神話と日本人の心〕 ― 「末代のこふき」、泥海中の道すがら ― 「から」、世界中一人残らず陽気づくめ ― 「神の自由早く見せたい」


                     中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

善とあくとを  わけてみせるで

2020-05-19 22:31:12 | 宗教
  このたびハさきなる事を此よから しらしてをくでみにさハりみよ 五 2
   この度は先なる事をこの世から 知らしておくで身にさわりみよ
 五号は 2の「先なる事」を伝えることをテーマとして歌い出す。3~55で、それをテーマとする月日の想いを明かして、 56で「八月をみよみな見えるでな」と歌って、新たなるステージに踏み出すことを高らかに宣言する。

   銘々に我身思案は要らんもの 神がそれぞれ見分けする
  これをみていかなものでもとくしんせ 善とあくとをわけてみせるで 五 6 
   これを見て如何な者でも得心せ 善と悪とを分けてみせるで 
 「善とあく」は、おふでさきに5例あって、それぞれが「善」、「あく」というふうに単独で使うことはなく、全て「善とあく」、「ぜんあく」と一つにした言い方になっている。そして、その話の中に、こふき話しがつれ添うように語られていることに気づく。
 四号では「これ末代のこふきなるぞや」。
 五号では、6の「善とあく」には、「末代のこふき始まり」。
      53の「善とあく」には、「これはにほんのこふきなるのや」。
 八号では、「この世の始まり出しの真実」
 十三号では、「元始まりを知りた者なし」、というように、例外なく「善とあく」は「こふき」と関連づけられている。33、34に「こふき」をつくるという月日の急き込みが見える。 
   この世を創めてからの真実を 未だ今までは言うた事なし
   この話難し事であるけれど 言はずにいれば誰も知らんで

 この「こふき」について、三号では「神学こふき」を「泥海中の道すがら」と並べるが、四号ではその「高山の説教(神学こふき)」を「元を知らねば分るめはなし」と言い捨てている。それは、泥海中の道すがらである「こふき」が、全ての人は同じ魂であると説くのに対して、高山の「神学こふき」は差別を容認しているからなのです。一方は全ての人が平等の世界、もう一方は不平等の世界、ここに歴然とした「善」と「あく」という二分法を用いて注意を促していることが分る。
 世界たすけ、みな平等であることを本願とする以上は、平等であることの根拠である「泥海中の道すがら」を伝えることが欠かせないから、三、四号でその重要性を語り、五号でもそれを受ける。そして、六号でまとめて「この世の元始まり」を展開する。

   一屋敷同じ暮らしているうちに 神も仏もあると思えよ ― ここで言ってる「神も仏も」は、一般的な「神」、「仏」というよりも、35~45の「-仏教」、「-神道」を指してこういう言い方をしていると思われる。
 この世の元始まりを伝える「泥海中の道すがら」が「こふき」として確立されるなら、「法」それは、「珍し-賞賛すべき」ものと言っていても、「この道」からすれば枝先の教えに過ぎないから、「これから先は法は効かんで」 ― 神、仏を祀って、祈願しているから、そこに「善」があると信じていても、この世と人類創生の真実を伝えてないなら、本当の意味での「善とあく」など分ったものではないということ。

 しかし、真実の「善」を学んだ者なら、その「返し」として
   この話しみな一列は思案せよ 同じ心はさらにあるまい
  をやこでもふうへのなかもきよたいも みなめへへに心ちがうで 五 8
   親子でも夫婦の中も兄弟も みな銘々に心違うで
 親子、夫婦、兄弟などどのような関係においても、そこには高低、上下の差別はない。「銘々心は違う」 ― 神の子として、みなかけがえのない尊い個性の持ち主である、と悟ることができる。

   この返し何の事やと思うなよ 善悪ともに皆返へやすでな 
   この事を見えきたならば一列は どんなものでもみな澄み渡る


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