この道は世界並とは思うなよ これ末代のこふき始まり
にほんにもこふきがでけた事ならば なんでもからをまゝにするなり 五 32
にほんにもこふきができた事ならば 何でもからを儘にするなり
神話は時代を問わず人間が生きる上で極めて重要な役割を担っている。なぜならそれは、我々の生活とそれを取り巻く世界の起源を解き明かすことによって、この世界に自分たちの存在する理由を説明・証明するものだからだ。だからその物語は、必然的に人間がこの世に生まれる前の、神々の時代から解き明かされることになる。〔日本の神々と祀り〕
もとなるハちいさいよふでねがえらい とのよな事も元をしるなり 五 43
元なるは小さいようで根が偉い どのよな事も元を知るなり
ある部族はそれが一つの部族としてのまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要となったのである。その部族はどのような世界の中で、どのようにして出来上がり、今後どのようになってゆくか、それらを「物語」るものとしての 「神話 」によって、部族の船員たちは、自分たちによって立つ基盤を得、一つのまとまりを持った集団として存続していけることになる。…フランスの神話学者のデュメジルは、『神話を亡くした民族は命を亡くす』とまで言っている。〔神話と日本人の心-河合隼雄〕
けふの日ハなにがみへるやないけれど 八月をみよみなみへるでな 五 56
今日の日は何が見えるやないけれど 八月を見よみな見えるでな
この道をつけようとてにし拵え 側なる者は何も知らずに
43の「どのよな事も元を知るなり」 ― 古事記は、『天地がはじめて発けた時、という言葉からはじまるように、この世がどうしてできたのかを論じることなく、そこに出現した三柱の神の名前を記することからはじまっている…』。日本書紀においても、冒頭に、天地や陰陽が分離しない状態や、混沌とした様子などが描写されてはいるが、よく読んでゆくと、この文の最後、『神聖、其の中に生れます』までは、天地のはじまりの一般論を述べている〔神話と日本人の心 23㌻〕 ― ここに「八月をみよ」と期限を切って、「万づ委細の元」を伝える根拠がある。
はやへとしやんしてみてせきこめよ ねへほるもよふなんでしてでん 五 64
早々と思案してみて急き込めよ 根掘る模樣なんでして出ん
古事記は、三柱に二柱を加えた五柱からなる別天つ神を並べてから、神世七代の神々を連鎖するが、その最後にイザナキ、イザナミという男女の神が現れ、ここから実の神話を展開させるという構図になっている。つまり、イザナキ、イザナミは、それまでのような名前だけの一対の神ではなく 結婚して日本という国土を埋め尽くす。そういう点では 彼らこそ創造神だと言えるかもしれない。そして彼に先立つ神々は、いわば創造神の『根っこ』について語っているとも考えられる〔神話と日本人の心〕。 ― おふでさきでは「この世の真実の神月日なり あとなるはみな道具なるぞ」 ― ここにも「八月をみよ」の根拠がある。
このよふのもとはじまりのねをほらそ ちからあるならほりきりてみよ 五 85
この世の元始まりの根を掘らそ 力あるなら掘りきりてみよ
イザナギイザナミが 国生みの親として重要な役割を持つことは 記紀いずれにおいても同様であるが……。国づくりの道中で、イザナギ、イザナミに命令を下す 「天つ神」は誰の事なのかは分からない。こんなところを曖昧にしておくのも面白いといえば面白い。最高神を明確にすることを嫌っている、とも考えられるのである〔神話と日本人の心〕。 ― ここに「怖き危なき道」が潜んでいる ― 日本神話はかつて軍閥によって都合の好いように解釈され、国民に押し入つけられたという不幸な歴史をもっている……
現代においては、各人が自分にふさわしい個人神話を見いだす努力をしなくてはならない。といっても「神話 」を見いだしてそれに従って生きる、などというのではなく、生きることそのものが神話の探求であり、神話を見いだそうとすることが生きることにつながるというべきであろう〔神話と日本人の心〕 ― 「末代のこふき」、泥海中の道すがら ― 「から」、世界中一人残らず陽気づくめ ― 「神の自由早く見せたい」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
にほんにもこふきがでけた事ならば なんでもからをまゝにするなり 五 32
にほんにもこふきができた事ならば 何でもからを儘にするなり
神話は時代を問わず人間が生きる上で極めて重要な役割を担っている。なぜならそれは、我々の生活とそれを取り巻く世界の起源を解き明かすことによって、この世界に自分たちの存在する理由を説明・証明するものだからだ。だからその物語は、必然的に人間がこの世に生まれる前の、神々の時代から解き明かされることになる。〔日本の神々と祀り〕
もとなるハちいさいよふでねがえらい とのよな事も元をしるなり 五 43
元なるは小さいようで根が偉い どのよな事も元を知るなり
ある部族はそれが一つの部族としてのまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要となったのである。その部族はどのような世界の中で、どのようにして出来上がり、今後どのようになってゆくか、それらを「物語」るものとしての 「神話 」によって、部族の船員たちは、自分たちによって立つ基盤を得、一つのまとまりを持った集団として存続していけることになる。…フランスの神話学者のデュメジルは、『神話を亡くした民族は命を亡くす』とまで言っている。〔神話と日本人の心-河合隼雄〕
けふの日ハなにがみへるやないけれど 八月をみよみなみへるでな 五 56
今日の日は何が見えるやないけれど 八月を見よみな見えるでな
この道をつけようとてにし拵え 側なる者は何も知らずに
43の「どのよな事も元を知るなり」 ― 古事記は、『天地がはじめて発けた時、という言葉からはじまるように、この世がどうしてできたのかを論じることなく、そこに出現した三柱の神の名前を記することからはじまっている…』。日本書紀においても、冒頭に、天地や陰陽が分離しない状態や、混沌とした様子などが描写されてはいるが、よく読んでゆくと、この文の最後、『神聖、其の中に生れます』までは、天地のはじまりの一般論を述べている〔神話と日本人の心 23㌻〕 ― ここに「八月をみよ」と期限を切って、「万づ委細の元」を伝える根拠がある。
はやへとしやんしてみてせきこめよ ねへほるもよふなんでしてでん 五 64
早々と思案してみて急き込めよ 根掘る模樣なんでして出ん
古事記は、三柱に二柱を加えた五柱からなる別天つ神を並べてから、神世七代の神々を連鎖するが、その最後にイザナキ、イザナミという男女の神が現れ、ここから実の神話を展開させるという構図になっている。つまり、イザナキ、イザナミは、それまでのような名前だけの一対の神ではなく 結婚して日本という国土を埋め尽くす。そういう点では 彼らこそ創造神だと言えるかもしれない。そして彼に先立つ神々は、いわば創造神の『根っこ』について語っているとも考えられる〔神話と日本人の心〕。 ― おふでさきでは「この世の真実の神月日なり あとなるはみな道具なるぞ」 ― ここにも「八月をみよ」の根拠がある。
このよふのもとはじまりのねをほらそ ちからあるならほりきりてみよ 五 85
この世の元始まりの根を掘らそ 力あるなら掘りきりてみよ
イザナギイザナミが 国生みの親として重要な役割を持つことは 記紀いずれにおいても同様であるが……。国づくりの道中で、イザナギ、イザナミに命令を下す 「天つ神」は誰の事なのかは分からない。こんなところを曖昧にしておくのも面白いといえば面白い。最高神を明確にすることを嫌っている、とも考えられるのである〔神話と日本人の心〕。 ― ここに「怖き危なき道」が潜んでいる ― 日本神話はかつて軍閥によって都合の好いように解釈され、国民に押し入つけられたという不幸な歴史をもっている……
現代においては、各人が自分にふさわしい個人神話を見いだす努力をしなくてはならない。といっても「神話 」を見いだしてそれに従って生きる、などというのではなく、生きることそのものが神話の探求であり、神話を見いだそうとすることが生きることにつながるというべきであろう〔神話と日本人の心〕 ― 「末代のこふき」、泥海中の道すがら ― 「から」、世界中一人残らず陽気づくめ ― 「神の自由早く見せたい」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講