陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

屋敷の土を堀りとりて  所変えるばかり

2023-01-31 19:20:48 | 宗教
  なにかめづらしつちもちや  これがきしんとなるならバ
  やしきのつちをほりとりて  ところかへるばかりやで
  このたびまではいちれつに  むねがわからんざんねんな

   しんぢつにこの一ぢよふはや々と 月日の心せへていれども      九 40
   そばなるにいかほど月日たのんでも きゝわけがないなんとさんねん    41
   どのよふな事をゆうてもいまの事 なにをゆうとハさらにをもうな     42
   これからハだん々しかとゆてきかす かんろふだいのもよふばかりを      46
   いまゝでにいろ々はなしといたるハ このだいすへるもよふばかりで    48
   これさいかしいかりすへてをいたなら なにもこわみもあふなきもない   49
 「寄進」は『寄せまいらせる』の意で、御利益を求めて寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付すること。それに対して「ひ(日・陽)の寄進」は、どうか…
 「なにか珍し土持や、これが寄進となるならば」 ― ここには喜び勇んで「土持」、「ひのきしん」する姿がある ― 世界だすけのおつとめは、中心に目標として「かんろだい」を据える。その場所を定めることが大一に重要な地固め。「土持」、「ひのきしん」はそこに焦点を当てている。月日が世界だすけする一役を担うという意気込みがある。だから御利益を求めるというよりも、月日と一体であるという喜びに浸っている。

 「所変えるばかりやで」の手振りは、二歩前に進んでから一息に、360度転回して元の位置に戻る ― 「屋敷の土を堀りとりて」外面・見かけは単に掘り取った土を別の所へ移すだけのようでも、内面・秘めたる心は元の自分と入れ替わって、目覚めた別人になったことを手振りが示している。
 目覚めとは意識の変化であり、目覚めた行動を通じて、外へ向かう宇宙の目的と一つになる。目覚めた意識は エゴから自分を取り戻し 人生(生命) の主役になる。その時、行動に意識の力が加わって、いつの間にかもっと大きなものになって行くのを感じるだろう〔”ニューアース” エックハルト・トール〕。

 「どの様な事を言うても今のこと」 ― 今この瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、 どんな行動でも楽しむことができる。行動を楽しむというのは、 実は 生命感のダイナミックな側面を体験すること。だからなんであれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる〔ニューアース〕。


  ことしハこゑおかず  じふぶんものをつくりくり
             やれたのもしやありがたや

   このだいがでけたちしだいつとめする どんな事でもかなハんでなし      52
   このだいもいつどふせへとゆハんでな でけたちたならつとめするぞや     53
   このだいもたんたん々とつみあけて またそのゆへハ二尺四寸に        59 
   そのうゑゝひらばちのせてをいたなら それよりたしかぢきもつをやろ     60
   月日にハこれをハたしてをいたなら あとハをやより心したいに        64
    しんぢつの心月日がみさだめて 天よりわたすあたゑなるのわ(十 1)
    たん々とにち々心いさむでな なんとやまとハゑらいほふねん(十 18)
 「こゑ」は、「ぢきもつ」であり、それは「天の与え」であることは、歌からしっかり読み取れる ― 「あとはをや(みき様)より心次第に」 ― 「こゑ」のさづけ、当初はみき様から一人ひとりに声でもって授けられたことは、幾多の資料が物語っている。
 「やれたのもしや」の手振り、その足は「勇み足」 ― おつとめという「珍しいたすけ」によって、世界を余さずたすけるという「月日たすけ一条」の一役を担う。そのために、今自分ができることとして、「ひのきしん」に打ち込む。それによって何かを達成しようとか、偉大な自分になろうというのではない。「欲を忘れて」ただ情熱のままにやるから、それが「こゑ」になる ― 力強い月日自由のエネルギーが流れ込み、心が「豊かさ」で満たされる。この月日の心と一体になる「ひのきしん」は、 楽しさに力強さも加わり、自由自在の偉大な創造力が発揮される。

   そのはなしきいたるならば一れつわ なんと月日ハゑらいものやと      22
   これをみてまことしんぢつけへこふと これハ月日のをしゑなるかよ     51
   このだいがでけたちしだいつとめする どんな事でもかなハんでなし     52 
 情熱はエネルギーの振動数が 高いので、 宇宙の創造力と共鳴する。自分だけで行動しているのではないと感じる。それどころか 自分だけでできることには何の意味もない。 情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「 波に乗って」 行けばいい〔ニューアース〕。



                             中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

モッコ担うて  ひのきしん

2023-01-24 10:01:43 | 宗教
  みれバせかいがだんゞゝと   もつこになうてひのきしん
  よくをわすれてひのきしん   これがだいゝちこえとなる

   三下り目
    ふしぎなつとめばしよハ   たれにたのみはかけねども
    みなせかいがよりあうて   でけたちきたるがこれふしぎ
    やむほどつらいことハない  わしもこれからひのきしん

   けふからハどのよな事をゆうやらな 月日の心まことせきこみ      九  14
   にちにちになにせきこむとゆうならば 月日とびでるもよふばかりを     15
   月日よりとびでた事をきいたなら かんろふだいをばやくだすよふ      18
   かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを      19
   これさいかたしかさだめてをいたなら とんな事でもあふなきハない     20
   いまゝでにないたすけをばするからハ もとをしらさん事にをいてわ     29
   元なるのをやふたしかにしりたなら とんな事でもみなひきうける      31
 「モッコ担ってのひのきしん」 ― 人は「想い」、「意識」だけでは生きていけない。「この道」の教えを聞き己の価値に目覚めて、新しい道に踏み出す心を定める。その「意識」を更なるレベルに持っていくためには、自らの起こす「行動」が大切な要素となる。
 「今までにないたすけをするからは 元を知らさん事においては」 ― おつとめの目的は「神のざんねん」を余さず晴らして(十七57、58)、世界をろくじに踏み均すことにある。おつとめはその目標として、中心となる「ぢば」に「かんろだい据える」。この「ぢばを定め」るためには、第一に、そのための整備、地均しする「ひのきしん」が欠かせない。だから、「ひのきしん」は「世界だすけ」の源泉であると言っても、決して過言とはならない。
 「欲を忘れてひのきしん」 ― 人間心のない人びとの真心が、月日が「請け合う」元となり、その真実に応えて月日が「飛び出る」 ― 月日自由、「どんな事でもみな引き受ける」 ― 「これが大一こゑとなる」

  いつゝゝまでもつちもちや   まだあるなバわしもゆこ
  むりにとめるやないぼどに   こゝろあるならたれなりと

   よろづよのせかい一れつみハたせよ やまいとゆうもいろいろにある     33
   このたびハどんなむつかしやまいでも うけよてたすけかでんをしゑる    34
   これからハたしかにやくみゆてきかす なにをゆうてもしよちしてくれ    35 
   このはなしどふゆう事にをもうかな 月日ぢうよふしらしたいゆゑ      39
 「未だあるならば我も行こ」 ― おつとめでこの世と人類創生の元を知り、本当の自分に目覚めたなら、直ぐにでも自分の思いどおりに、勇んで行動を起こすことが大切。
 神の子として本当の自分を生きる ― 情熱が湧きでて「をや」に感謝したいと行動を起こす ― 「無理に止めるやないほどに」 ― 月日自由のネルギーが自身の中に流れ込む。人間心は一掃されるから、「病」の起こる要因も消えてなくなる ― 「どんな難し病でも 請け合てたすけ家伝教える」 ― 「薬味」、月日自由 
 
   今までにいろいろ話し説いたるは このだい据えるもよふばかりで
   月日より確か心見定めて それより渡すぢきもつの事


                              中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

神のやかたの  ぢば定め

2023-01-12 22:52:56 | 宗教
 みかぐらうた十一下り目のテーマは「神のやかたのぢば定め」。このテーマ、おふでさきでは九号の19で「かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを」、と歌っている。「ぢば定め」の目的はそこに「かんろだい」を据えるためであることは言うまでもない。この「かんろだい」、同義語「だい」を含めるとおふでさきに26語あって、九号でその内の11語と、一番多く使っている。
 また、「ぢば定め」する「ひのきしん」の成果を、十一下り目は、「こゑ置かず十分ものを作り取り」と形ではなく、心に豊かさをもたらす収穫がある、と歌っている。おふでさ九号でも、その成果を「ぢきもつ」と表現し、そのまま十号に歌い次いで、「大和は偉い豊年」と、やはり心の豊かさという収穫に準えている。ここには、人々に物の世界から心の世界への飛躍を求める、月日の思惑が感じられる。
 そのことは、この号から使かわれる「飛び出る」という言葉に色濃く反映されているようにみえる。十一下り目の「ぢば定め」を目的とする「ひのきしん」が、単に形の行為だけでなく、その目指すところが心の豊かさを求めることにあるるなら、九号の「飛び出る」と十一下り目の「ひのきしん」との関わりを探っていけば、みかぐらうた十一下り目の神意がしっかり心におさまるのではないだろうか。

  ひのもとしよやしきの  かみのやかたのぢばさだめ
   いまゝでハなにをゆうてもにんけんの 心のよふにをもていたれど   九   1
   このたびハなにをゆうてもにんけんの 心あるとハさらにをもうな     2
   どのよふな事でもしかときいてくれ にんけん心さらにまぜんで      3
   月日よりどのよな事もしいかりと ゆいかけるでなこれきいてくれ     4
 「ぢば定め」が行われ、それが特定されたのは、(おふでさき九号執筆の)明治8年のことだった。それ自体 想像の産物でしかない「元のぢば」の話が、実はここで起こったのだと特定されることによって、ある種のリアリティを獲得し、当時の人々に対する説得力を増したであろうことは、疑いない。しかし、 現実と非現実の世界をつなげてみようとする想像力を失った現代社会にあって、信仰を共有しない人々はもちろん、 信仰を持っている人にとってさえ、当時の人たちと同じ素朴さでそれを受け入れることができるかどうかと言えば、それはかなり難しいのではなかろうか ― ぢば定め〔中山みき-小澤浩著54〕
 おふでさき九号の1~4で表される「人間心あると思うな」、「人間心更に混ぜん」と言いかけて、「これ聞いてくれ」という月日の思惑は、〔小澤浩著〕に当てて歌っているように思える。
 「ぢば定め」という目覚めた行動を通じて、人は世界だすけを目指す月日の目的と一つになる。そこには「人間の心」はない。どんな状況で何をするとしても、重要なことは心構えが肝心で、どんな状況で何をするのかは問題ではなくなる。その成果は、行動によって起こる意識によって左右されるから、心構えは意識と不可分である。真の成果は無意識の人間心、エゴからではなく、神に凭れる真実の心、意識から生まれる。物事の行動は 意識から始まるが、それをレベルアップさせるためには、それを起こす行動が大切な要素 ― 「神のやかたのぢば定め」

  ふうふそろうてひのきしん  これがたいゝちものだねや
   月日よりやしろとなるを二人とも べつまへだてゝをいてもろたら      5
   なにゆうもそれよりしかとうけよふて たすけするぞやしかとみていよ    6
   このさきハどのよなたすけするのもな みなうけやうのもとであるから    7
   このさきハどんなむつかしやまいでも みなうけよふてたすけするぞや    9
 「別間隔てて置いてもろたら」 ― おふでさきの流れからして、「二人とも」とは秀司とまつゑ夫妻を指している、と言ってしまえば話しは早い。「もの種」の「種」は当然、二人の子として生れる生命を「たね」と例えたことになる。二人でたすけ合って「ぢば定め」の「ひのきしん」に励むなら、それが「たね」となって「こゑ」、自由の成果を得ることができる。
 仏教が説く『教』に従って起こす『行』に例えるなら。みかぐらうた前下り(一~六下り)で、歌う「たすけの元だて」である「かぐら手踊り」が『教』。そして、「かぐら手踊り」の象徴としての扇を身につけて踊る、後下り(七~十二下り)が『行』で。それが「ひのきしん」と言える。
 「請け合う元」 ― 仏教の『行』によって得られる「悟り」という成果、『証』 ― 「夫婦揃ってひのきしん」による『証』、「どんな難し病でもみな請け合うてたすけするぞや」 ― 「ものだね」


                             中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講