おふでさき八号です。
みかぐらうた六下り目で、ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてやと歌っているように、「この道」を聞き分けて、我身思案の「思考」のエゴがなくなるにしたがって、おつとめの理解が進み、いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけする、という状況が生まれる。そして、高まった「意識」が生みだす衝動から発生する波動が、自然と大きな渦となって勢いを増していくもの、と歌われているのに、
そのところさしとめられてさんねんな まだそのゝちハとりはらいまで 八 5
そのところ差し止められて殘念な 未だその後は取り払いまで
それゆへにたすけづとめがでけんから 月日の心なんとさんねん 八 6
それ故に助けづとめがでけんから 月日の心なんと殘念
天皇制軍国主義を旗印にした「上」から、みき様を神と崇めることと、(平等を教える)おつとめを禁止せよという通達がでた。だからと言って、それをいいことに「上」に従ってしまえば、面倒なことを考えずとも、そのまま庇護されるから安泰だろう、と先の見えない未来にすがって、「今」のない暮らしに戻りつつある姿。それが「月日の方へみな写るなり」だから、「なんと残念! 」と、そのままの状況を歌にしたのです。
またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32
また助けをびや自由いつなりと 延ばしなりとも早めなりとも
この「また助け」と言っている助け(守り札)とは、直前の31「このたすけ」である「ほふそせんよの守り」に対して、「なんと殘念」と記した、また(もう一つ)のたすけのことなのです。
31の「このたすけ」は、疱瘡にかからない、かかってもその生命は保証しようと、人間の親なる神の守護によって見出された治療法できちんと順序よく治療すれば、蔓延することも、多くの人が死ぬことも免がれたのに、迷信などの陋習に従って、手当てを遅らせた。また蔓延を防ぐ予防が始まっても、『牛になる』と言い立てて拒むということで、多くの幼子の生命が奪われたのです。そういう状況の中で、この世と人類創生の親が安産と生れ児の生命は保証している、と伝えたのが、31「このたすけ」と歌う「ほうそ許し」なのです。
「またのたすけ」とは、「おびやの守り」だと売りつけている秀司さん夫婦と取り巻きの実体、拝み祈祷の信仰を指している。この守り(霊符)を買って供えれば、出産は「延ばしなりとも早めなりとも」という霊験あらたか、自由な御利益があるなど嘯いて、吉田神社に書かせた霊符を(高値で)売りつけていることを、「良いなる事とは更に思うな! (33)」、と言っているのです。
「よいなる事」とは、文字を当てれば、「良いなる事」、と思うなですから、意味は良くはないこと、つまりとても見逃す事はできないこと。ここでは強欲で、呆れて物も言えないという意味。
11で「どんな事でも知らぬ事なし」、51で「どこの事でも知らぬ事なし」と歌っていて、この二首の間で一つのストーリーが展開されている。更に、その中の27~30と35~51では、そのストーリーの内容は「知らぬ事やないことばかり」と強調して、32の「ほうそ許し」を歌っている。人間のエゴがつくった古いルールから脱して、神とともにあって、「今がこの世の創まり」という永遠の道に意識を向けることが「ほうそせん世の守り」という「守り」を自分で拵えることになると教えているのです。
「また助け」が再現してしまうように、いくら過去から脱して目覚めたと言っても、その「今」が、おつとめがあらわす、この世と人類創生の真実とつながったままでないなら、そこに「たすけ」は屆かず(1~7)、その隙間に過去や未来が忍び込んでしまうのです。そしていつの間にか
月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ 八 34
月日にはたいてい心は尽くせども 世界中は未だ世界並み
「世界並み」になってしまって、13の「我が身思案をばかり思うて」という、神の残念の波動が響くことになる。
人は皆「 今」この瞬間にしか生きていない
思考の視野が狭いと 過去や未来という枠が誕生し
枠がなくなると 過去も未来も「今」となる
k-zerostyle
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
みかぐらうた六下り目で、ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてやと歌っているように、「この道」を聞き分けて、我身思案の「思考」のエゴがなくなるにしたがって、おつとめの理解が進み、いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけする、という状況が生まれる。そして、高まった「意識」が生みだす衝動から発生する波動が、自然と大きな渦となって勢いを増していくもの、と歌われているのに、
そのところさしとめられてさんねんな まだそのゝちハとりはらいまで 八 5
そのところ差し止められて殘念な 未だその後は取り払いまで
それゆへにたすけづとめがでけんから 月日の心なんとさんねん 八 6
それ故に助けづとめがでけんから 月日の心なんと殘念
天皇制軍国主義を旗印にした「上」から、みき様を神と崇めることと、(平等を教える)おつとめを禁止せよという通達がでた。だからと言って、それをいいことに「上」に従ってしまえば、面倒なことを考えずとも、そのまま庇護されるから安泰だろう、と先の見えない未来にすがって、「今」のない暮らしに戻りつつある姿。それが「月日の方へみな写るなり」だから、「なんと残念! 」と、そのままの状況を歌にしたのです。
またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32
また助けをびや自由いつなりと 延ばしなりとも早めなりとも
この「また助け」と言っている助け(守り札)とは、直前の31「このたすけ」である「ほふそせんよの守り」に対して、「なんと殘念」と記した、また(もう一つ)のたすけのことなのです。
31の「このたすけ」は、疱瘡にかからない、かかってもその生命は保証しようと、人間の親なる神の守護によって見出された治療法できちんと順序よく治療すれば、蔓延することも、多くの人が死ぬことも免がれたのに、迷信などの陋習に従って、手当てを遅らせた。また蔓延を防ぐ予防が始まっても、『牛になる』と言い立てて拒むということで、多くの幼子の生命が奪われたのです。そういう状況の中で、この世と人類創生の親が安産と生れ児の生命は保証している、と伝えたのが、31「このたすけ」と歌う「ほうそ許し」なのです。
「またのたすけ」とは、「おびやの守り」だと売りつけている秀司さん夫婦と取り巻きの実体、拝み祈祷の信仰を指している。この守り(霊符)を買って供えれば、出産は「延ばしなりとも早めなりとも」という霊験あらたか、自由な御利益があるなど嘯いて、吉田神社に書かせた霊符を(高値で)売りつけていることを、「良いなる事とは更に思うな! (33)」、と言っているのです。
「よいなる事」とは、文字を当てれば、「良いなる事」、と思うなですから、意味は良くはないこと、つまりとても見逃す事はできないこと。ここでは強欲で、呆れて物も言えないという意味。
11で「どんな事でも知らぬ事なし」、51で「どこの事でも知らぬ事なし」と歌っていて、この二首の間で一つのストーリーが展開されている。更に、その中の27~30と35~51では、そのストーリーの内容は「知らぬ事やないことばかり」と強調して、32の「ほうそ許し」を歌っている。人間のエゴがつくった古いルールから脱して、神とともにあって、「今がこの世の創まり」という永遠の道に意識を向けることが「ほうそせん世の守り」という「守り」を自分で拵えることになると教えているのです。
「また助け」が再現してしまうように、いくら過去から脱して目覚めたと言っても、その「今」が、おつとめがあらわす、この世と人類創生の真実とつながったままでないなら、そこに「たすけ」は屆かず(1~7)、その隙間に過去や未来が忍び込んでしまうのです。そしていつの間にか
月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ 八 34
月日にはたいてい心は尽くせども 世界中は未だ世界並み
「世界並み」になってしまって、13の「我が身思案をばかり思うて」という、神の残念の波動が響くことになる。
人は皆「 今」この瞬間にしか生きていない
思考の視野が狭いと 過去や未来という枠が誕生し
枠がなくなると 過去も未来も「今」となる
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中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講