陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

延ばしなりとも  早めなりとも

2016-11-27 23:25:09 |  エッセイ
 おふでさき八号です。

 みかぐらうた六下り目で、ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてやと歌っているように、「この道」を聞き分けて、我身思案の「思考」のエゴがなくなるにしたがって、おつとめの理解が進み、いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけする、という状況が生まれる。そして、高まった「意識」が生みだす衝動から発生する波動が、自然と大きな渦となって勢いを増していくもの、と歌われているのに、

  そのところさしとめられてさんねんな まだそのゝちハとりはらいまで 八 5
   そのところ差し止められて殘念な 未だその後は取り払いまで
  それゆへにたすけづとめがでけんから 月日の心なんとさんねん 八 6
   それ故に助けづとめがでけんから 月日の心なんと殘念
 天皇制軍国主義を旗印にした「上」から、みき様を神と崇めることと、(平等を教える)おつとめを禁止せよという通達がでた。だからと言って、それをいいことに「上」に従ってしまえば、面倒なことを考えずとも、そのまま庇護されるから安泰だろう、と先の見えない未来にすがって、「今」のない暮らしに戻りつつある姿。それが「月日の方へみな写るなり」だから、「なんと残念! 」と、そのままの状況を歌にしたのです。

  またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32 
   また助けをびや自由いつなりと 延ばしなりとも早めなりとも
 この「また助け」と言っている助け(守り札)とは、直前の31「このたすけ」である「ほふそせんよの守り」に対して、「なんと殘念」と記した、また(もう一つ)のたすけのことなのです。
 31の「このたすけ」は、疱瘡にかからない、かかってもその生命は保証しようと、人間の親なる神の守護によって見出された治療法できちんと順序よく治療すれば、蔓延することも、多くの人が死ぬことも免がれたのに、迷信などの陋習に従って、手当てを遅らせた。また蔓延を防ぐ予防が始まっても、『牛になる』と言い立てて拒むということで、多くの幼子の生命が奪われたのです。そういう状況の中で、この世と人類創生の親が安産と生れ児の生命は保証している、と伝えたのが、31「このたすけ」と歌う「ほうそ許し」なのです。
 「またのたすけ」とは、「おびやの守り」だと売りつけている秀司さん夫婦と取り巻きの実体、拝み祈祷の信仰を指している。この守り(霊符)を買って供えれば、出産は「延ばしなりとも早めなりとも」という霊験あらたか、自由な御利益があるなど嘯いて、吉田神社に書かせた霊符を(高値で)売りつけていることを、「良いなる事とは更に思うな! (33)」、と言っているのです。
 「よいなる事」とは、文字を当てれば、「良いなる事」、と思うなですから、意味は良くはないこと、つまりとても見逃す事はできないこと。ここでは強欲で、呆れて物も言えないという意味。

 11で「どんな事でも知らぬ事なし」、51で「どこの事でも知らぬ事なし」と歌っていて、この二首の間で一つのストーリーが展開されている。更に、その中の27~30と35~51では、そのストーリーの内容は「知らぬ事やないことばかり」と強調して、32の「ほうそ許し」を歌っている。人間のエゴがつくった古いルールから脱して、神とともにあって、「今がこの世の創まり」という永遠の道に意識を向けることが「ほうそせん世の守り」という「守り」を自分で拵えることになると教えているのです。

 「また助け」が再現してしまうように、いくら過去から脱して目覚めたと言っても、その「今」が、おつとめがあらわす、この世と人類創生の真実とつながったままでないなら、そこに「たすけ」は屆かず(1~7)、その隙間に過去や未来が忍び込んでしまうのです。そしていつの間にか
  月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ 八 34
   月日にはたいてい心は尽くせども 世界中は未だ世界並み
 「世界並み」になってしまって、13の「我が身思案をばかり思うて」という、神の残念の波動が響くことになる。


    人は皆「 今」この瞬間にしか生きていない
    思考の視野が狭いと 過去や未来という枠が誕生し
    枠がなくなると 過去も未来も「今」となる
                     k-zerostyle

                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講



どんな事でも  知らぬ事なし

2016-11-23 23:44:17 |  エッセイ
 おふでさき八号です。

  このよふをはじめだしたる月日なら どんな事でもしらぬ事なし 八 11
   この世を始め出したる月日なら どんな事でも知らぬ事なし
 おふでさき七号は、みかぐらうた五下り目の解説をしていることが、はっきりした。
 続く八号はどうであろうか、と考えながら読み進めていくと、「知らぬ事ばかり」「知らぬ事やないことばかり」という語が繰り返し出てくることに氣づく。それで「知らぬ事」を数えてみると、8つある。この語、おふでさき全体では14あるうち、八号に8つ。後の6つは、三、六、七、九、十二、十五号に各1つずつあるだけで、この号に集中的に使われていることが分かる。

 「どんな事でも知らぬ事なし」は、みかぐらうたのどこかで歌っていないか、と今いちど思い巡らせてみると、六下り目の「不思議な助けをするからに、如何なる事も見定める」の歌に行きつく。さらに、11の次の12の歌では、
  せかいぢう一れつなるのむねのうち 月日のほふゑみなうつるなり 八 12
   世界中一列なるの胸の内 月日の方へみな映るなり
 『この世と人類創生の親なればこそ、その子人間の考えることなど、見抜き見通しですよ』と歌っていて、六下り目の「みな世界の胸の内、鏡の如くに映るなり」を改めて歌う内容になっている。ということから、おふでさき八号は、みかぐらうたの六下り目と深い関連があり、やはりその下りを解説しているという想像はつく。

 11の歌「どんな事でも知らぬ事なし」の後で歌う22~24は、月日が言うことは何でも「真実」と思って聞きなさい、と言っている。それで、この「真実」の真意をおふでさきのこれまでの話の中からもう一度確かめてみると、六号25の「ほんしんぢつ」を例にして、この「真実」に、「この世の真理」という言葉を当てるとぴったりと治まる。

 「真理」は、「永遠不変の真理」という使い方をして、いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道、真実の道理という意をあらわす。そこには『永遠に不変』という絶対条件があるようだから、その「真理」という語を問題としてちょっと煮つめると。
 北極星は、よく夜に方角を確認する時の目印にされ、昔から航海の目標として最も重要な存在であった。それというのも、いつも真北にあって、動くことも変わることもない、「真理」のものと信じられているからでしょう。ところがこれは、実は決まった一つの星の名前ではなくて、現在北極星と呼ばれている星は「こぐま座α星のポラリス」で、数千年後には別の星が北極星になるという。
 また、太陽から出た光は約8分後に地球に届くという。このことは、私たちの見ている太陽はその瞬間のそのものではなく、8分前の太陽を見ているということ。月でさえ1.3秒まえ、夜空の星となれば、計算すれば気の遠くなる程とおい過去のもの。私たちは月も太陽も星も、実はその瞬間の「真実」のものを見ているのではないのです。
 人体は60兆個の細胞の集合体であり、その細胞は、約1年たてばすべて入れ替わると言われている。私、自分こそ「真理だ」といっても、自身の細胞は絶えず新陳代謝を繰り返しており、1年もたてば細胞的には別人になってしまう。
 だから、「真理」というとき、もしこの瞬間の真実とか、永遠に不変のものとして伝えたいなら、気安くその言葉を使い切ることは、あまりにも浅はかと言わざるを得ない。

 老子「第五十二章」
  天下有始 天下に始め有り、    以為天下母 以って天下の母となす
  既得其母 既に其の母を得て、   以知其子  以って其の子を知る
 世界のすべての現象には、その始源がある。それは、この世界のすべてを生み出す母であると言えよう。その母(始源)を把握できたなら、それによってその子供のこと、すなわち万物のことが分かる。母親(始源)のことを少しでも理解できれば、真の自分自身のことも自動的に知ることになるという「真理」が存在する、と歌っている。

 みき様は「どんな事でも知らぬ事なし」と歌って、その「真理」をおふでさきで「今がこの世の始まり」と明言している。
 この世と人類創生こそが、「永遠に不変の真理」ということ。その真理に自分の意識をしっかり重ねる生き方が、目指す陽気づくめなのです。

 おふでさき八号が、みかぐらうた六下り目の解説書であるならば、六下り目の大きなテーマである「扇の伺」の真意が、おふでさき八号の中から見えてくるのではないか、という期待を込めて読み進めていきたい。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


おふでさき7号と  みかぐらうた五下り目

2016-11-16 17:24:38 |  エッセイ
 おふでさき七号は、全号でみかぐらうた五下り目を解説していると思われる。
  1.「をびや」は、みかぐらうたでは五下り目の1ヶ所にでてくるのみ。
    おふでさきでは、5ヶ所あって全てこの七号だけに出てくる。(八号にをひやとある
   が、またたすけ、もう一つのたすけだから、こちらは吉田神社で発行させ、高値で売
   りつける、秀司さん夫婦らの拝み祈祷の呪符のこと)
  2.「ほふそ」も、みかぐらうたでは「をびやほうそ」となっていて、五下り目の一ヶ所
   にでてくるのみ。
    おふでさきでは7回使われ、この7号だけ複数の3ヶ所にある。
  3.「陽気づくめ」も、みかぐらうたでは五下り目の1ヶ所にでてくるのみ。 
    おふでさきでは、この号に4ヶ所と一番多い。「陽気」だけに限れば、おふでさきに3
   9ある内、この7号で1/4の9回と飛び抜けて多くある。
 これらのことなどを勘案するなら、やはりおふでさき七号とみかぐらうた五下り目は、非常に関連があると考えていいと思う。
 みかぐらうたは、みき様自身が書き記してつくられた最初の原典であるばかりか、これ以上ない「この道」の原典であることは、おふでさき一号21~23で明確に歌って記されている― 歌の理で責めたみかぐらうたという真理の解釈に違いがあったら、これからおふでさきで歌にして知らせる、ということ。

 先に記した原典、みかぐらうた五下り目で「何時まで信心したとても、陽気づくめである程に」と「この道」のあるべき姿を示しているのに、をびやとほうその「むごい迷信」だけでなく、何についても過去という「難儀させる」物差しを使って物事を判断すること。正しく自分自身を攻撃する邪魔者と共存することで、自らで病気や不幸の原因をつくっている。そして、「陽気づくめ」は、「今」実現しようとするのではなく、実体のない未来のお題目として、唱えているだけではないか。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら 七 109
   世界中みな一列は澄み切りて 陽気づくめに暮らす事なら
 みかぐらうたをつくり、それを目標にして歌って踊ることで、どんな環境にあっても、どうすれば真の安らぎが得られるかを見出せるようにした。それなのに、いっこうに陽気づくめの姿が見られない、そこに「違いがあるから」、もう一度しっかり伝えねばと歌ったのが、この歌で、それがおふでさき七号をまとめる形になっている。

 そして、その前の94の歌で陽気(づくめ)とは、「何もかも陽気と言うはみなつとめ、珍し事をみな教えるで」と明示している。― おつとめが「陽気づくめ」の姿そのものですよ、と言っているのです。とは言っても、手踊りを6人でつとめるとき、あたりまえのように横一例に並んでつとめている形がまかり通って状態では、この歌の意味はしっくり治まりようがないでしょう。
 何故か、かんろうだいを囲んでつとめていないからです。本来は手踊りもかんろだいづとめのようにかんろうだいを中心に据えて、それを囲んで丸く位置した六人が、それぞれかんろうだい6角の一片を目指して、前後しながら踊る、これが教えどおりのかたち、
 かんろうだいは、全てがつながり合っていて、存在する全ては微生物から人間、銀河にいたるまで、からみ合い調和している姿の象徴です。つとめる人はその調和という目標に向って、永遠の旅路を続ける姿を演じるのです。
 「何時まで信心したとても、陽気づくめである程に」の、「陽気づくめである程に」は「勇み」の手振りをします。この手振りは、調和に共振していることを理振りにして現しているから、これによっても、「陽気づとめ」とは、調和に生きていることで味わえる境地であることが分かる。

 「陽気づくめ」の目標は、万物を創造する無限の母胎なのです。「をびやほうそ許し」という安産と生れた児の生命はしっかり守ることは、万物の支配、創造する親、月日の当然の自由の働きなのです。
 かぐら、てをどりを踊って調和に共振することで、一人一人が無限の生命のバトンを受け継ぐ尊い役割をはたす。「勇みの手」でもって「陽気づくめ」を舞う。それが親に応える私たちの真のつとめ。

    このよふのせかいの心いさむなら
    月日にんけんをなじ事やで


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

世界中  陽気づくめに暮らすことなら

2016-11-09 15:38:13 |  エッセイ
 おふでさき七号です。

 この世と人類創生の始まりだしを伝えて、みなを勇ませるように導いて、人、神(宇宙の創造主)親子ともどもの「陽気づくめ」の世を実現させたい。それがこの号の大きなテーマ。

 3~10、ところが現状の「上の支配」は、「怖き危き道」に進んでいるから、とても見逃すことはできない。
 人間の意識を改めなければ(30)、「上の支配」からは抜け出せず、いつまでも同じ世界を、同じ悪を、同じ機能不全を繰り返し創造することになる。この世の全てのものはつながりがあるから、そこに調和して生きれば勇めるのに、無意識に古い時代、過去のルールに無理やり合わせて、それがもとで知らず知らずのうちにいづんでしまう。これが調和から外れた姿で、一人一人はつながりがないという意識が強くなり、エゴがどんどん発達して、非合理で冷淡な行動まで起こるようになる。
 その例が、出産の近づいた妊婦は人目を遠ざけられ、日当たりも悪い家の奥で暮らさねばならず『妊婦の触るモノはケガレる』と食器やかまどの火まで別にされる。馬小屋や牛小屋などに隔離されるなど。医学知識の乏しかった時代、本来、一番清潔かつ安心を与えねばならない妊婦に無知な因習をおしつける冷淡がまかりとおっていたのです。

 12で「この話しどういう事に思うかな、これから先の道を見ていよ」 ― この世は(上の支配のままだと)一人一人はバラバラでよしという信条だから、お産の悪習などがまかり通って、生命の継承さえ不可能となってしまう。全てはつながり合っているという調和に基づいた「神の支配」でなければ、生命の継承はないことを伝えるために、「をびや助けの真実」という理責めの歌にしたためたのです。

 71で「また先の道の容態だんだんと、万づの事をみな説いておく」 ― ここまで理責めで話してきたこと、後半のここからはその一切をおつとめに表して、だんだんと説いていく。「これが大一この世はじまり」 ― 出産はおつとめが表す調和に基づいて生命を次々と生みだす根源であると言い、まつゑさんの出産を台として、おつとめの解説を進めていくのです。

 104~111がそれをまとめるかたちになっている。
  せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら 七 109
   世界中みな一列は澄み切りて 陽気づくめに暮らす事なら
 「陽気づくめ」とは、と考えるとき、この歌を前に辿っていくと、93「日々に陽気づくめと言うのはな…」と言って、
  なにもかもよふきとゆうハみなつとめ めづらし事をみなをしゑるで 七 94
   何もかも陽気と言うはみなつとめ 珍し事をみな教えるで
 おつとめそのものが正しく「陽気づくめ」なのである、と歌っていることが分かる。
ということから、ここまでのおふでさきでは「おつとめ」をどのように表現しているか確かめてみたい。

 おつとめをつとめる と
   人、神、上、立毛の一切が勇むことが、先ず第一にあげられる。
  次に、 万づ助けの模樣ばかり
      これを合図に何もでかける
     その内容は、世界助ける。にほん助ける。
          唖でもモノを言わす。そして、「をびやほうその助け」と歌っている。
 「かんろだいづとめ」で、全てが絡み合い、かんろうだい世界の中で自分のあるべき場所と機能をもっていると知る。そこで自分の価値に目覚めれば、自分もその一部であることが分かって、調和の意識をもった参画者(つとめ人衆)になれる。
 生きる喜び、真の幸福は形や所有などを通じてもたらされはしない(14) ― その喜び、陽気づくめは外からもたらされることは決してない。エゴを払った自分の「意識」そのものから放出されるものであり、自分とは一体ということ。
 おつとめで、全体と調和すれば全体とつながった、その調和が生みだす力が自分に加わるのを感じる。どこからか助けがあらわれ、まさかの出会いや偶然がある、不思議な一致が頻繁に起る。それは全てとつながったということ、自由自在は、それとの一体のあらわれ。
 かんろだいづとめは、自ら理振り、手振りで私たちの「意識」と地球の生命は本質的につながっていることを表現する。「をびやほうそのつとめ」で、古い意識が解体すれば、それと呼応して(おふでさき一12)「ものの立毛がみな勇む」、人間だけでなく、地球の多くの場所で気候的にも自然にも大きな変化が起こる。

  このよふのせかいの心いさむなら 月日にんけんをなじ事やで


                  中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


をびやほうその  この許し

2016-11-06 15:04:47 |  エッセイ
 おふでさき七号です。

 宇宙は膨張し続けていると近年になって解ってきている。合わせて新しい生命が次々に生れでて、その作用は絶えることなく働き続け生命を生みだし続けている。このように連綿と繰り返されてきた生命の創造は、人間世界では女性が子供を生んできたからこそ、その生命のリレーが続いてきている。永遠に続く生命を絶えることなく生みだすために、全ての生命の親である月日がそこに働いているのです。

 そして、生まれ出た、その新しいひ弱な生命につて、
  いまゝでもをびやほふそのこのゆるし なんとをもふてみながいたやら 七 78
   今までもをびやほうそのこの許し 何と思うて皆がいたやら
 疱瘡は天然痘と呼ばれ、江戸時代には最も恐れられた流行病でした。その死亡率は約三割といわれ、幼い子どもたちはそのほとんどが亡くなってしまった。疱瘡という病気は、病人は高熱と激しい痛みに苦しみ、体も顔も腫れ上がって容貌さえも変ってしまう。『こんな恐ろしい病は鬼神の仕業にちがいない』と考え、疱瘡神や疱瘡地蔵を祀り、現代では考えられない迷信が流布しました。人々はこの病の恐ろしさに、効くと言われれば何でも飛びついた。医学の発達していないこの時代の人々は、神に願い、迷信に頼ることしかすべがなかった。
 嘉永二年(1849)、大坂で緒方洪庵が「除痘館」を開き、種痘を広めますが、この種痘も、『種痘をすると牛になってしまう』という風評が立ち、なかなか普及しなかった。民衆の心は旧来の迷信に支配されていて、このような科学的な治療法を理解することができなかったのです。実際、この歌が書かれたときには種痘は実施されていたのに、雑学、迷信が作用して手当てを遅らせ、蔓延を防ぐ消毒も拒んでそれを許さず、多くの幼子の尊い生命を奪っていたのです。

 そういう時代のそのような風潮の中にいる人々に向けて放った言葉が、この「ほうそ許し」です。人間思案の「思考」のエゴがつくり上げた因習を一切すてて、神の子が完成させた方法で、順序よく治療すれば、蔓延することも死ぬこともありませんと、言い聞かせているのがこの歌なのです。疱瘡は、98の歌で「疱瘡麻疹もせんよのつとめ」と歌っているように、1980年に世界から根絶されます。

 おふでさき六号88「月日よりだんだん心尽くし切り、その故なるの人間である」と言い、
 131で、「体内へ宿仕込むのも月日なり、生れだすのも月日世話どり」と言って出した月日の利益が「おびや許し」です。
 110で、「生れ児を疱瘡麻疹もせんように、病まず死なずに暮らすことなら」と言って出した月日の利益が「ほうそ許し」です。
 安産と生れ児の生命はこの世と人類創生の親によって保証されているのに、人間が自身のエゴでつくり上げた因習で、安産の自由と稚児の生命の自由を奪ってしまっている現状を指摘し、人々の過去に依存する心を、「今」に向けさせるように歌い、それが、そのままこの号の大きなテーマとなっている。

 安産させること、疱瘡を一掃して幼児の生命を守ることは、誰にでも与えられている神の自由の利益ですよ、と言葉にして伝えたのが、「をびや許し」と「ほうそ許し」です。その声が屆くためには、過去にとらわれている人間の「思考」のエゴを一掃せねばならないが、その人そのものであるエゴの支配から抜け出すことは容易なことではない。
 だから、「今がこの世の創まり」をおつとめで確認して、この世と人類創生とつながっている「今」の自分を見直す。そしてこの世はいつでも「今」しかないと分かったら、そのまま強く「今」にあり続けることでしか、過去から脱出できる方法はないのです。
 過去から抜け出た「澄んだ胸の内」に「おびや許し」と「ほうそ許し」が屆いて、そこにその許しが甦るのです。
 78の歌のように、をびや、ほうそ許しは「をびやほうそ」などとセットになって歌われることが多いのは、それがこのように一つの流れだからと分かる。「をびやほうその許し」「許し」には、一人残らず安産で生れて、そして「病まず死なず」に育ってほしい、という月日の強い思いがこめられている。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


名はたまへ  早く見たいと思うなら

2016-11-03 21:56:50 |  エッセイ
 おふでさき七号です。

 11、12の歌で、月日の支配とは「これからの先の道を見ていよ」と話はじめて、この世と人類創生から全ての生き物が24「末代続き切れ目なきよう」に展開するように、全ての生命は「おびや許し」という神の自由の働きで安産を保証するということ。

 その話が、次の65から具体的に展開されていく。
この歌「この度の孕みているを内なるは、何と思うて待ちているやら」は、66~69のお秀さんのことが挿入されているが、次の70の歌に飛んで読み続けていけば、しっくりと収まってくる。
  このはなしどふゆう事にをもうかな これが大一このよはじまり 七 70
   この話どういう事に思うかな これが大一この世創り
 ここでは『弟一』ではなくて、「大一」です。「大」と「一」を合わせた言い方がされている。
 「大」については、『老子』25章で、「道」は天地を超へた宇宙大の大きさである。(図解
  雑学 老子)「大」というのは、道の限定のなさと無限の包容力を表した言葉であり、
  存在に着目すれば「道」、性質に着目すれば「大」という言い方になると。
 「一」については、『老子』第39章
  天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、…、萬物得一以生
   天は一を得て以って清く、地は一を得て以って寧く、神は一を得て以って霊に、谷は一
   を得て以って盈(み)ち、…、万物は一を得て以って生じ其のこれを致すは一なればなり。
 
 ここから、「一」とは全宇宙の知恵、万物の根源と解釈できるから、「一」は一番大事なものと言うことができる。

 「大」と「一」をひとくくりにした「大一」は、無限の包容力をもった、万物の根源であるという形容詞となる。これから語る話し、「この世創り」を再現するおつとめの真理は、人間の想像の息をはるかに超へる重みのある内容をもち、ちょっとやそっとでは体得できない重要な話しである。その重みは、77で、月日の働きとして「後の仕事はどんなことでも」と歌っていることからも感じることができる。

 大一である「この世創り」とは
  なわたまへはやくみたいとをもうなら 月日をしへるてへをしいかり 七 72
   名はたまへ早く見たいと思うなら 月日教へる手をしっかり
 「月日教へる手をしっかり」ですが、秀司さんが関係した女性は10人は下らないだろうと言われている。そして、当然のこととして幾人かの子供をもうけた。この歌は、子供が授かったときに、かんろだいづとめで再現するこの世と人類創生。そして、すべての生命が永遠に生き続けていくために、自らも子供の親としてその一役を担う。そのために神(宇宙の創造主)が安産を許しているという「意識」を、ほんのわずかでも持ち合わせたことはありますか、という神の突っ込みの歌なのです。
 それでも、51~57で歌っているように「人間の心」を払って、63「心すみやか分かり」て、神に凭れる心になるなら…、
 今お腹にいる子は、安産を約束しますよ。その証拠にもう今から(男の子、女の子どちらでもいいように)「たまへ」と名付けましょう! 

 「たまへ」とここで歌って生れた子ですが、生れてみたら男の子だった。明治12年亡くなって、「智生童子」と戒名がつけられたようです。4才まで生きることになるが、色素が足りない障害を持っていたとも伝えられている(中山みき・研究ノート)。

 生れる子は男でも女でも、たとえ障害があって短命であったとしても、そんなことは問題ではない。どんな状態であっても、この世に生を受けたこと以上のことはないということでしょう。だから、挿入文として66~69で「月日しっかりと抱きしめて」と、お秀さんの生きた「道」を「大一この世創り」を再現した「道」の証として記したのです。
 71では「また先の道のようだい」と言ってから、次の72の歌でもう一人の「たまへ」の生きる「道」を「大一この世創り」の話として展開する。
 まつゑさんはこの歌の「たまへ」を生んで2年後に、女の子を出産し、「まち」と名付けます。その方が後年にたまへと改名して、62才で亡くなります。

 この世に生を受けて、その借りものを返せば、その借りものに宿った生命は、誰でも皆「月日がしっかりと抱きしめている」のです。

                  中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講