おふでさき十七号です。
いまゝでの月日ざねんとゆうものわ なかなか一寸の事でないぞや 十七 21
今までの月日殘念というものは なかなか一寸の事でないぞや
月日の「殘念」は、人間が月日の思いどおりに意識を高めることができないから、それが殘念である、などと無念さを歌っているのではない。そのことは、次の歌から、うかがい知ることができる。
「今まではどの様な事も聞いてきた この度こそは残念晴らすで」
このはらしとふゆう事にをもうかな なんどきどこでしりぞくやらな 十七 26
この晴らしどういう事に思うかな 何時何処で退くやらな
月日は、人間に伝えるべき理りは、言い尽くしてきた。そして、それを受け入れないことと、その言い訳も含めて全てを見許してきた。そんな道中ではあったが、来るべき刻限に合わせて人々の意識に変化の兆しが見えるようになってきた。あとは、何時その高まった意識をおつとめという形にして、外に向けて発信しようという心定めができるかだけ。
「何どき、何処で退くやらな」 ― みなが今こそと心定めをするに、最も相応しいそのときを待ち、おふでさきを書き納めたい。今はそのタイミングを計っているところ、といかにも月日が退く、その瞬間を楽しむ心の内が伝わってくる歌。
さらに、「これから先は悟りばかりや」 ― 言うべきことは言い尽くした。自力の道をいくか、(神に凭れる)人生の道をいくか、好きなようにしなさい、と投げかけるその言葉の中にも、月日の微笑む情景が覗ける。
21から70までに14回も「ざんねん」、「ざんねん」と言い、いい加減に目を覚ましてもいいではないか、とつぶやきながら、最後の歌につないでいく、
今まではこの世創めた人間の、元なる地場は誰も知らんで
この度はこの真実を世界中へ、どうぞしっかり教えたいから
この世と人類創生の真実を明かして、この世の治め方、人間の生き方の本来あるべき姿を認識して、陽気づくめ世界を体感する。おつとめが発信するエネルギーは、「にほんの故郷」、「この道」を求める者の心の拠り所。だから早く、おつとめをしなさいと急き込んでいる。
「それをばな何も知らざる子供にな、取り払われたこの残念はな」
どのよふな事がありてもうらみなよ みなめゑへにしてをいたのや 十七 60
どのような事がありても恨みなよ みな銘々にしておいたのや
おつとめは、つとめ人衆として自らが、世界たすけの一役を担う姿を演じる。それは神の子が 陽気遊山する姿でもある。その意に反して、わが身だけの御利益を願うように、おつとめを拝み祈祷の姿に変えた。
「みな銘々にしておいた」 ― それが警察の手入れを呼び込み、拝み祈祷の道具一切を没収される不始末となった。そしたら、今度はおつとめの道具を没収されたことを言い訳にして、おつとめができませんと言う。まあなんと子供染みたことか。
それしらすみな一れつハめへへに ほこりばかりをしやんしている 十七 69
それ知らずみな一列は銘々に ほこりばかりを思案している
いまゝでのよふなる事ハゆハんでな これからさきハさとりばかりや 十七 71
今までの様なる事は言はんでな これから先は悟りばかりや
「ほこりばかりを思案」 ― 人間心、わが身だけでやると自力を誇示しても、神の自由が備わらずで、底力のない者ができることは、たかが知れている。「里々、田音々々、平(等)様々々」の結末が、それをしかと物語るであろう。
神に凭れて、陽気遊山するなら、心が澄み切り「病まず死なず弱りなき」という「この道」の悟りの境地に至るであろう。
「この台がみな揃いさえしたならば、どんな事をが叶わんで無し」
これをばな一列心思案頼むで
……… ………
人生は 無限に用意されている
自分を信じる限り 選択肢は 閉ざされ宿命となり
人生を信じる限り 選択肢は 開かれ運命となる
k-zerostyl
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
いまゝでの月日ざねんとゆうものわ なかなか一寸の事でないぞや 十七 21
今までの月日殘念というものは なかなか一寸の事でないぞや
月日の「殘念」は、人間が月日の思いどおりに意識を高めることができないから、それが殘念である、などと無念さを歌っているのではない。そのことは、次の歌から、うかがい知ることができる。
「今まではどの様な事も聞いてきた この度こそは残念晴らすで」
このはらしとふゆう事にをもうかな なんどきどこでしりぞくやらな 十七 26
この晴らしどういう事に思うかな 何時何処で退くやらな
月日は、人間に伝えるべき理りは、言い尽くしてきた。そして、それを受け入れないことと、その言い訳も含めて全てを見許してきた。そんな道中ではあったが、来るべき刻限に合わせて人々の意識に変化の兆しが見えるようになってきた。あとは、何時その高まった意識をおつとめという形にして、外に向けて発信しようという心定めができるかだけ。
「何どき、何処で退くやらな」 ― みなが今こそと心定めをするに、最も相応しいそのときを待ち、おふでさきを書き納めたい。今はそのタイミングを計っているところ、といかにも月日が退く、その瞬間を楽しむ心の内が伝わってくる歌。
さらに、「これから先は悟りばかりや」 ― 言うべきことは言い尽くした。自力の道をいくか、(神に凭れる)人生の道をいくか、好きなようにしなさい、と投げかけるその言葉の中にも、月日の微笑む情景が覗ける。
21から70までに14回も「ざんねん」、「ざんねん」と言い、いい加減に目を覚ましてもいいではないか、とつぶやきながら、最後の歌につないでいく、
今まではこの世創めた人間の、元なる地場は誰も知らんで
この度はこの真実を世界中へ、どうぞしっかり教えたいから
この世と人類創生の真実を明かして、この世の治め方、人間の生き方の本来あるべき姿を認識して、陽気づくめ世界を体感する。おつとめが発信するエネルギーは、「にほんの故郷」、「この道」を求める者の心の拠り所。だから早く、おつとめをしなさいと急き込んでいる。
「それをばな何も知らざる子供にな、取り払われたこの残念はな」
どのよふな事がありてもうらみなよ みなめゑへにしてをいたのや 十七 60
どのような事がありても恨みなよ みな銘々にしておいたのや
おつとめは、つとめ人衆として自らが、世界たすけの一役を担う姿を演じる。それは神の子が 陽気遊山する姿でもある。その意に反して、わが身だけの御利益を願うように、おつとめを拝み祈祷の姿に変えた。
「みな銘々にしておいた」 ― それが警察の手入れを呼び込み、拝み祈祷の道具一切を没収される不始末となった。そしたら、今度はおつとめの道具を没収されたことを言い訳にして、おつとめができませんと言う。まあなんと子供染みたことか。
それしらすみな一れつハめへへに ほこりばかりをしやんしている 十七 69
それ知らずみな一列は銘々に ほこりばかりを思案している
いまゝでのよふなる事ハゆハんでな これからさきハさとりばかりや 十七 71
今までの様なる事は言はんでな これから先は悟りばかりや
「ほこりばかりを思案」 ― 人間心、わが身だけでやると自力を誇示しても、神の自由が備わらずで、底力のない者ができることは、たかが知れている。「里々、田音々々、平(等)様々々」の結末が、それをしかと物語るであろう。
神に凭れて、陽気遊山するなら、心が澄み切り「病まず死なず弱りなき」という「この道」の悟りの境地に至るであろう。
「この台がみな揃いさえしたならば、どんな事をが叶わんで無し」
これをばな一列心思案頼むで
……… ………
人生は 無限に用意されている
自分を信じる限り 選択肢は 閉ざされ宿命となり
人生を信じる限り 選択肢は 開かれ運命となる
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中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講