陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

これから先は  悟りばかりや

2018-04-18 16:24:52 | 宗教
おふでさき十七号です。

  いまゝでの月日ざねんとゆうものわ なかなか一寸の事でないぞや 十七 21
   今までの月日殘念というものは なかなか一寸の事でないぞや
 月日の「殘念」は、人間が月日の思いどおりに意識を高めることができないから、それが殘念である、などと無念さを歌っているのではない。そのことは、次の歌から、うかがい知ることができる。
  「今まではどの様な事も聞いてきた この度こそは残念晴らすで」
  このはらしとふゆう事にをもうかな なんどきどこでしりぞくやらな 十七 26
   この晴らしどういう事に思うかな 何時何処で退くやらな
 月日は、人間に伝えるべき理りは、言い尽くしてきた。そして、それを受け入れないことと、その言い訳も含めて全てを見許してきた。そんな道中ではあったが、来るべき刻限に合わせて人々の意識に変化の兆しが見えるようになってきた。あとは、何時その高まった意識をおつとめという形にして、外に向けて発信しようという心定めができるかだけ。
 「何どき、何処で退くやらな」 ― みなが今こそと心定めをするに、最も相応しいそのときを待ち、おふでさきを書き納めたい。今はそのタイミングを計っているところ、といかにも月日が退く、その瞬間を楽しむ心の内が伝わってくる歌。
 さらに、「これから先は悟りばかりや」 ― 言うべきことは言い尽くした。自力の道をいくか、(神に凭れる)人生の道をいくか、好きなようにしなさい、と投げかけるその言葉の中にも、月日の微笑む情景が覗ける。

 21から70までに14回も「ざんねん」、「ざんねん」と言い、いい加減に目を覚ましてもいいではないか、とつぶやきながら、最後の歌につないでいく、
   今まではこの世創めた人間の、元なる地場は誰も知らんで
   この度はこの真実を世界中へ、どうぞしっかり教えたいから
 この世と人類創生の真実を明かして、この世の治め方、人間の生き方の本来あるべき姿を認識して、陽気づくめ世界を体感する。おつとめが発信するエネルギーは、「にほんの故郷」、「この道」を求める者の心の拠り所。だから早く、おつとめをしなさいと急き込んでいる。

  「それをばな何も知らざる子供にな、取り払われたこの残念はな」
  どのよふな事がありてもうらみなよ みなめゑへにしてをいたのや 十七 60
   どのような事がありても恨みなよ みな銘々にしておいたのや
 おつとめは、つとめ人衆として自らが、世界たすけの一役を担う姿を演じる。それは神の子が 陽気遊山する姿でもある。その意に反して、わが身だけの御利益を願うように、おつとめを拝み祈祷の姿に変えた。
 「みな銘々にしておいた」 ― それが警察の手入れを呼び込み、拝み祈祷の道具一切を没収される不始末となった。そしたら、今度はおつとめの道具を没収されたことを言い訳にして、おつとめができませんと言う。まあなんと子供染みたことか。

  それしらすみな一れつハめへへに ほこりばかりをしやんしている 十七 69
   それ知らずみな一列は銘々に ほこりばかりを思案している
  いまゝでのよふなる事ハゆハんでな これからさきハさとりばかりや 十七 71
   今までの様なる事は言はんでな これから先は悟りばかりや
 「ほこりばかりを思案」 ― 人間心、わが身だけでやると自力を誇示しても、神の自由が備わらずで、底力のない者ができることは、たかが知れている。「里々、田音々々、平(等)様々々」の結末が、それをしかと物語るであろう。
 神に凭れて、陽気遊山するなら、心が澄み切り「病まず死なず弱りなき」という「この道」の悟りの境地に至るであろう。

  「この台がみな揃いさえしたならば、どんな事をが叶わんで無し」
   これをばな一列心思案頼むで
     ……… ………
     人生は 無限に用意されている
     自分を信じる限り 選択肢は 閉ざされ宿命となり
     人生を信じる限り 選択肢は 開かれ運命となる
                           k-zerostyl


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

この度  神が始めたさやで

2018-04-09 22:25:23 | 宗教
おふでさき十七号です。

   「今までは何の道やら知れなんだ、今日から先は道が分るで」
   「この道を早く見とうて急き込んだ、さあこれからは陽気づくめや」
   「たすけでも悪しき直するまでやない 珍したすけ思ているから」

  このたすけどふゆう事にをもうかな やますしなすによハりなきよに 十七 53
   このたすけどういう事に思うかな 病まず死なずに弱りなき世に
 「病まず死なず弱りなき」については、十二号でその真意を伝えている。
   「このたすけどふゆう事にをもうかな、ほふそせんよにたしかうけやう」
   「またゝすけりうけ一れつどこまでも、いつもほふさくをしゑたいから」
と歌ってから、「病まず死なず弱わらんの」と言いかける。

  月日よりやますしなすによわらんの はやくしよこふだそとをもへど 十二 105
   月日より病まず死なず弱わらんの 早く証拠だそと思えど
 「証拠出そ」 ― (十三115)「病まず死なずに弱らんの、証拠守りを早くやりたい」と歌っていることで、「証拠守りを出そう」ということである、と分かる。
 「疱瘡せん世」 ― 明治のこの頃には、種痘は実施されていた。順序よくきちんと治療すれば、死ぬことも免がれたのに、人間心で育まれてきた迷信などが手当てを遅らせ、蔓延を防ぐ消毒も拒み、幾多の尊い生命奪われた。このような古いルールの因習から、抜け出た人びとが「ふしん」でつくる、新たな「世直り」の意識の世。
 「豊作教えたい」その対象は、もちろん一下り目で歌う「こゑのさづけ」を指す。「さづけ」をいただき、神の自由の守護のままに、豊年満作の心ばえで陽気ゆさんする姿。

 そして
  こんな事いまゝでどこにないことや このしよこふをしらしたさやで 十七 54
   こんな事今まで何処に無い事や この証拠を知らしたさやで
  これまてハどこたつねてもない事や このたび神がはじめたさやで 十七 55
   これまでは何処訪ねても無い事や この度神が始めたさやで
 おふでさきを書き終えようという、ぎりぎりの旬に「この証拠を知らしたさ」 ― この「証拠守り」の守護、それに勝るものなどない神力の効能の底力を知らせたい。それは、何処を訪ねてもない事である。
 みき様は常に意識の変容を経験し、仏教などが指し示すものを自らの内に発見する。この概念化できない真実を表現するために、当時民衆が安らぎを求めてすがる、主に浄土宗などの概念的枠組みを利用する。そして、谷底と言われる層に照準を合わせて、因習を打破し、拝む目標も金力、権力で飾った偶像でなく、庶民が寄り合ってつくり上げるかんろうだいに組み換えようとする。
 かんろうだいを目標としてつとめる「かんろだいづとめ」は、称名として称える「南無阿弥陀仏」を「いちれつすましてかんろうだい]と置き換えて称える。人々が拝む対象とする神仏は、自らがその神仏の代理として演じる。おつとめで神の代理をつとめ、神と一体となったとき、月日が神の子として目覚めたその尊い「意識」に、「この度神が始めたさ」である「証拠守り」を授けたいと言うのです。
 「病まず死なず弱りなき、証拠守りを知らしたさ」 ― これこそ、月日が真から教え始めたかった「この道」の教えということ。

   それまでに世界中を何処までも 胸のそうじをせねばならんで ― 「おびやほうそ許し」の要因、古いエゴの思考パターンを崩壊させて、イザナギ、イザナミの身の内のほん真ん中から生み出される、絶えることない新しい生命、新たな次元の意識を受け入れるためには、「胸のそうじ」が欠かせない。
 天より渡す与え「病まず死なず弱りなき証拠守り」、「さづけ」をもろたら、その人は ― 神の意識と一体の不滅の存在。受容と思いやり、個性ゆたかな素質にめぐまれた強靱さ、明晰さが占める誠そのものであり、自分で想像する以上に力強い。神の意思を伝える、かけがえのない存在。
 「この度神が始めたさ」である「この道」を目指す人の任は ― 月日の借り物である自身を、世のために「さんざいする」ことを生きがいとする道具衆。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

どのような事も  つんできた

2018-04-02 21:29:03 | 宗教
おふでさき十七号です。

  けふの日ハどのよな事もつんできた 神のさんねんはらすみていよ 十七 33
   今日の日はどのような事もつんできた 神の殘念晴らす見ていよ
 「どのような事もつんできた」 ― 人間のあるべき「道」を記して、そのままに辿って見せて、全ての人が陽気ゆさんできるようにと、あの手この手と手法を変えて、つみ上げてきた。それでも、なかなか分かろうとしない、とため息混じりに歌う。そして、この33を含めて、21~70までに「ざんねん」、「ざんねん」と14回も繰り返し言い続けて、65で「何でもかやしせずにいられん」と、言わざるを得ない月日の胸の内を吐き出す。

 おふでさきの「かやし」は、何としても分からせる、という意が主となっている。
  いまゝでハどんなものでもむねのうち しりたるものわさらにあるまい 十七 17
   今まではどんな者でも胸の内 知りたる者は更にあるまい
  このたびハとんなところにいるものも むねのうちをばみなゆてきかす 十七 18
   この度はどんな所に居る者も 胸の内をばみな言て聞かす
 不老長寿の願望をつねに抱いて生きる、それが平々凡々とこの世界を生きる人間の赤裸々な心情です。法然は、人々の願望に応じる回答として、阿弥陀仏の慈悲[月日の自由の守護]を信じて、一筋に念仏[おつとめ]を称えなさい、と述べている。
 法然が語る言葉 ― 月日の「胸の内」は、人生とは自らの生命の成熟[世直り(自身の180度転換)へと取り組んで、[偉い本道]を目指すことである。そのため、阿弥陀仏の慈悲の働きに任せて、心をこめ[神に凭れ]念仏を称えることによって、充実感と喜び[陽気づくめ]を味わうことができる(22、23)。
 法然の教えは、凡夫のためのやさしい教えです。すなわち、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土[この世の極楽]に、「南無阿弥陀仏」[いちれつすましてかんろうだい]と称えることによって往き生まれることを説いている。

  それゆへにかんろふたいをはじめたわ ほんもとなるのところなるのや 十七 36
   それ故にかんろうだいを始めたは 本元なるの所なるぞや
 念仏[いちれつすましてかんろうだい]を称えること、それは、称えるその人の心と身体に具体的に作用する。人はいかに生きるべきかという問いに対して応答するものであると言ってもよい。それは、人間にとって最も大事な『死生ともにわずらいなし』[病まず死なずに弱りなき]と言い切れる生き方へと高めていくことにある。人間が持ちうる究極の生き方の実現が、法然[みき様]によって語られていることの意味は大きい。

 「さあ今日はもう十分につんできた、何でもかやしせずにいられん」 ― 何が人類の拠り所[かんろうだい]となるのか。人間が拠り所を得るということは、願望を満たすことによって実現するのではなく、今生きている自分を、『思い煩うことのない』[どんな事をが叶わんでなし]という心境にするために必要なのです。

   こんな事始めかけると言うのもな、世界中をたすけたいから


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講