よくのこゝろをうちわすれ とくとこゝろをさだめかけ
いつまでみあわせゐたるとも うちからするのやないほどに
これまでハからやとゆうてはびかりた これも月日がをしへきたるで 十 45
このたびハ月日元ゑとたちかいり 木のねしいかりみなあらハすで 46
しんぢつにこの元さいかしいかりと しりたるならばどこいいたとて 48
「から」 ― 真実の自分ではない(四 40、69)。月日の心を我が心とする「にほん」に対して、無意識に人間心、エゴに操られて生きる(あたかも異人さんのような)もう一人の自分。
「木の根しっかりあらわす」 ― おつとめの目的は、人間心を一掃して「神の子」に目覚めて「にほん」、真実の自分を生きることがその目的にある。
つとめ人衆となるためには、「から」、「人間心」の母体となっている「欲の心」、すなわち「惜しい欲しいと可愛いと欲と高慢」を払いのける。そして、本気で「ふしん」に向き合わなくてはならない。
せかいぢうしんぢつよりもむねのうち わかりたならば月日たのしみ 59
それからハ一れつなるのもねのうち わかりたならば月日それより 60
それよりも月日の心いさみでゞ どんな事でもみなをしゑるで 63
しんぢつの心がほしい月日にわ どんな事でもしこみたいから 65
「この道」が求める「ふしん」は、決して目に見える形の普請ではない。「大和は豊年や」と称え舞ってあらわす、心に「豊かさ」の稔りをもたらす陽気づくめ世界の建設。
形の「普請」なら、どうしても、人間心が先に立ってあれこれ思惑が働くから、その時を定めるのに時間を要す。それに対して、この「心のふしん」は、目覚めたそのときが起点となる。さらに、
内からするのやない程に ― 「ふしん」を創造するには、「内」から、すなわち、エゴに操られた人間の自力頼りでできるものではない。神の子として目覚めた「意識」に無限の月日の自由が働いて、その創造を後押しすることで、この「ふしん」の完成を見ることができる。
むしやうやたらにせきこむな むねのうちよりしあんせよ
けふまでハなによの事もみへねども ひがちかづけばひとりみへるで 67
とのよふな事もやまいとをもうなよ なにかよろづハ月日ていりや 68
月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいのさしずしよこや 74
エゴに取り込まれたままでいると、足が地にしっかり定まっていないから、エゴの直感による誘惑を抑えられず、はやる気持が先にたってしまう。
目覚めると、エゴに飲み込まれて自分を失うことがなくなる。するとエゴは利己的で自律的な活動はできなくなる。そしてエゴ、「から」に代わって目覚めた意識、「にほん」、本当の自分が主導権を握る。エゴがなくなれば、そこへ月日が入り込むことができるから、体内が月日の自由に満たされる。
なにかこゝろがすんだなら はやくふしんにとりかゝれ
なに事もみなこのとふりはちめかけ せかいぢううの心すまする 80
にちにちになんでもせかい一れつを いさめるもよふばかりするぞや 81
このひがらこくけんきたる事ならば なんどき月日どこいゝくやら 96
にちにちにとりつぎの人しいかりと 心しづめてはやくかゝれよ 97
「勇める模様ばかりする」、「なんどき月日何処へ行くやら」 ― 目覚めた行動を通して「心は澄まされ」、月日の心と一体となる。心が月日の自由に溢れ、全てが良い方向に展開する。
つとめの実行は、自分の利益を優先する、「エゴ」の執行を待つのではなく、その「エゴ」に気づき、目覚めた瞬間がその執行のとき ― 「心鎮めて早くかかれよ」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
いつまでみあわせゐたるとも うちからするのやないほどに
これまでハからやとゆうてはびかりた これも月日がをしへきたるで 十 45
このたびハ月日元ゑとたちかいり 木のねしいかりみなあらハすで 46
しんぢつにこの元さいかしいかりと しりたるならばどこいいたとて 48
「から」 ― 真実の自分ではない(四 40、69)。月日の心を我が心とする「にほん」に対して、無意識に人間心、エゴに操られて生きる(あたかも異人さんのような)もう一人の自分。
「木の根しっかりあらわす」 ― おつとめの目的は、人間心を一掃して「神の子」に目覚めて「にほん」、真実の自分を生きることがその目的にある。
つとめ人衆となるためには、「から」、「人間心」の母体となっている「欲の心」、すなわち「惜しい欲しいと可愛いと欲と高慢」を払いのける。そして、本気で「ふしん」に向き合わなくてはならない。
せかいぢうしんぢつよりもむねのうち わかりたならば月日たのしみ 59
それからハ一れつなるのもねのうち わかりたならば月日それより 60
それよりも月日の心いさみでゞ どんな事でもみなをしゑるで 63
しんぢつの心がほしい月日にわ どんな事でもしこみたいから 65
「この道」が求める「ふしん」は、決して目に見える形の普請ではない。「大和は豊年や」と称え舞ってあらわす、心に「豊かさ」の稔りをもたらす陽気づくめ世界の建設。
形の「普請」なら、どうしても、人間心が先に立ってあれこれ思惑が働くから、その時を定めるのに時間を要す。それに対して、この「心のふしん」は、目覚めたそのときが起点となる。さらに、
内からするのやない程に ― 「ふしん」を創造するには、「内」から、すなわち、エゴに操られた人間の自力頼りでできるものではない。神の子として目覚めた「意識」に無限の月日の自由が働いて、その創造を後押しすることで、この「ふしん」の完成を見ることができる。
むしやうやたらにせきこむな むねのうちよりしあんせよ
けふまでハなによの事もみへねども ひがちかづけばひとりみへるで 67
とのよふな事もやまいとをもうなよ なにかよろづハ月日ていりや 68
月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいのさしずしよこや 74
エゴに取り込まれたままでいると、足が地にしっかり定まっていないから、エゴの直感による誘惑を抑えられず、はやる気持が先にたってしまう。
目覚めると、エゴに飲み込まれて自分を失うことがなくなる。するとエゴは利己的で自律的な活動はできなくなる。そしてエゴ、「から」に代わって目覚めた意識、「にほん」、本当の自分が主導権を握る。エゴがなくなれば、そこへ月日が入り込むことができるから、体内が月日の自由に満たされる。
なにかこゝろがすんだなら はやくふしんにとりかゝれ
なに事もみなこのとふりはちめかけ せかいぢううの心すまする 80
にちにちになんでもせかい一れつを いさめるもよふばかりするぞや 81
このひがらこくけんきたる事ならば なんどき月日どこいゝくやら 96
にちにちにとりつぎの人しいかりと 心しづめてはやくかゝれよ 97
「勇める模様ばかりする」、「なんどき月日何処へ行くやら」 ― 目覚めた行動を通して「心は澄まされ」、月日の心と一体となる。心が月日の自由に溢れ、全てが良い方向に展開する。
つとめの実行は、自分の利益を優先する、「エゴ」の執行を待つのではなく、その「エゴ」に気づき、目覚めた瞬間がその執行のとき ― 「心鎮めて早くかかれよ」
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講