陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

「うちから」するのや  ないほどに

2022-09-27 11:08:41 | 宗教
  よくのこゝろをうちわすれ   とくとこゝろをさだめかけ
  いつまでみあわせゐたるとも  うちからするのやないほどに

   これまでハからやとゆうてはびかりた これも月日がをしへきたるで  十 45
   このたびハ月日元ゑとたちかいり 木のねしいかりみなあらハすで     46
   しんぢつにこの元さいかしいかりと しりたるならばどこいいたとて    48
 「から」 ― 真実の自分ではない(四 40、69)。月日の心を我が心とする「にほん」に対して、無意識に人間心、エゴに操られて生きる(あたかも異人さんのような)もう一人の自分。
 「木の根しっかりあらわす」 ― おつとめの目的は、人間心を一掃して「神の子」に目覚めて「にほん」、真実の自分を生きることがその目的にある。
 つとめ人衆となるためには、「から」、「人間心」の母体となっている「欲の心」、すなわち「惜しい欲しいと可愛いと欲と高慢」を払いのける。そして、本気で「ふしん」に向き合わなくてはならない。
   せかいぢうしんぢつよりもむねのうち わかりたならば月日たのしみ    59
   それからハ一れつなるのもねのうち わかりたならば月日それより     60
   それよりも月日の心いさみでゞ どんな事でもみなをしゑるで       63
   しんぢつの心がほしい月日にわ どんな事でもしこみたいから       65
 「この道」が求める「ふしん」は、決して目に見える形の普請ではない。「大和は豊年や」と称え舞ってあらわす、心に「豊かさ」の稔りをもたらす陽気づくめ世界の建設。
 形の「普請」なら、どうしても、人間心が先に立ってあれこれ思惑が働くから、その時を定めるのに時間を要す。それに対して、この「心のふしん」は、目覚めたそのときが起点となる。さらに、
 内からするのやない程に ― 「ふしん」を創造するには、「内」から、すなわち、エゴに操られた人間の自力頼りでできるものではない。神の子として目覚めた「意識」に無限の月日の自由が働いて、その創造を後押しすることで、この「ふしん」の完成を見ることができる。

  むしやうやたらにせきこむな  むねのうちよりしあんせよ
   けふまでハなによの事もみへねども ひがちかづけばひとりみへるで     67
   とのよふな事もやまいとをもうなよ なにかよろづハ月日ていりや      68
   月日よりたいないよりも入こんで ぢうよぢざいのさしずしよこや      74
 エゴに取り込まれたままでいると、足が地にしっかり定まっていないから、エゴの直感による誘惑を抑えられず、はやる気持が先にたってしまう。
 目覚めると、エゴに飲み込まれて自分を失うことがなくなる。するとエゴは利己的で自律的な活動はできなくなる。そしてエゴ、「から」に代わって目覚めた意識、「にほん」、本当の自分が主導権を握る。エゴがなくなれば、そこへ月日が入り込むことができるから、体内が月日の自由に満たされる。

  なにかこゝろがすんだなら   はやくふしんにとりかゝれ
   なに事もみなこのとふりはちめかけ せかいぢううの心すまする       80
   にちにちになんでもせかい一れつを いさめるもよふばかりするぞや     81
   このひがらこくけんきたる事ならば なんどき月日どこいゝくやら      96
   にちにちにとりつぎの人しいかりと 心しづめてはやくかゝれよ       97
 「勇める模様ばかりする」、「なんどき月日何処へ行くやら」 ― 目覚めた行動を通して「心は澄まされ」、月日の心と一体となる。心が月日の自由に溢れ、全てが良い方向に展開する。
 つとめの実行は、自分の利益を優先する、「エゴ」の執行を待つのではなく、その「エゴ」に気づき、目覚めた瞬間がその執行のとき ― 「心鎮めて早くかかれよ」


                          中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


石も立木も  無いかいな

2022-09-18 09:42:16 | 宗教
 八下り目のテーマでもある「ふしん」は、みかぐらうたの他の下りでは、二下り目の二ツ、八下り目と十二下り目のそれぞれ二ツ、八ツにある。
 この「ふしん」の語をおふでさきにみると、一号で、秀司に対して早く足を直して、「ふしん」かかるようにと二回使っているが、ほかには四号の 6の歌に一語みるだけ。その四号の冒頭では
   このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる     四  3
   それからハたんだんふしんせきこんで なにかいそがし事になるなり      6
   をもしろやをふくの人があつまりて 天のあたゑとゆうてくるそや      12
 「五月五日、かんろだいづとめ」 ― 「ふしん」 ― 「天の与え」という構図から「ふしん」の大きな目的が「天の与え」という月日の自由自在にあることがわかる。この「天の与え」は六号、七号と歌い継ぎ、八号、九号では「ぢきもつ」と言い方を変える。この「天の与え」を、十号の冒頭
   しんぢつの心月日がみさだめて 天よりわたすあたゑなるのわ     
と歌って「天の与え」の話しをこの号で締める。
 またこの号では
   八下り目の「石も立木もないかいな」に対して、十号は「三十六にん人がほしい」と歌い、その人選、                 
         「この木切ろうかあの石と」に対しては、「月日見分けてみな引き寄せる」と言い聞かす。
 更に、この下りのおさめが「澄み切りましたが胸の内」です。その「澄ます」、「澄み切る」という語について調べる。すると十号に五語あって、おふでさきでは一番多いことに気づく。これらを総合すれば、みかぐらうた八下り目の解説をおふでさきに求めるなら、この十号が相応しいと思えるから、その十号を並記して、八下り目の神意を見極めたい。

  ひろいせかいやくになかに   いしもたちきもないかいな
  ふしぎなふしんをするなれど  たれにたのみハかけんでな

   しんぢつの心月日がみさだめて 天よりわたすあたゑなるのわ     十   1
   このはなしどふゆう事であろふなら からてんぢくも心すまして      3
   この心どふしてすます事ならば 月日とびでゝあゝちこゝちと        4
   たんたんと月日たいない入こんで ぢうよぢざいをしてかゝるでな     5
   したるならなんぼからやとゆうたとて にほんのものにこれハかなわん    6
   にほんにハはしらをたてた事ならば やまずしなすによハりなきよ     11
   いまゝでハからやとゆうてはびかりて まゝにしていたこんどかやしを   12
 「天の与え」 ― かんろだいづとめをつとめて、全てを「今」に焦点を定めることができるなら、「病まず死なず弱りなきよに」という永遠の生命を体感する ― 死をも超越する「恐れ」のない境地。この「天の与え」をいただくための「ふしん」の用材、すなわち「かんろだいづとめ」のつとめ人衆は、当然「にほんの者」でなくてはならない。
 「からやと言うてはびかりて」 ― 「から」は人間心、エゴの支配のままに生きる人。つとめ人衆となるためには、その人間心を洗い切って、しっかり心を澄ます。そして、月日の子としての誇りをもって、本当の自分を生きる「にほんの者」が、つとめ人衆として求められる絶対的な条件。

  みなだんゞゝとせかいから   よりきたことならでけてくる
   このたびハどのよな事もしんぢつを ゆうてきかしてたすけいそぐで    15
   このひがらいつころなるとゆうならば たあのしゆりをしまいしだいに   16
   それからハなにかめづらしみちになる つとめのにんぢうみなよりてくる  17
   人ぢうがしかとよりたる事ならば そのまゝだいもでける事やで      30
 「田の修理をしまい次第に」 ― 全ての恐れから解放されて、心に豊かさを求めるための「ふしん」、そのための人材を集めるためには、それ相応の受け入れ体制が求められる ― その地が差別を助長する権力、物質主義、「上の支配」の「地」であってはならない。人はみな同じ魂であることがその根底となっている「月日支配」の「地」でなければならない。
 「つとめの人衆みな寄りてくる」 ― その「地」が「月日支配」であるなら、その波動に共振して、陽気ゆさんしたいという人材が自ずと集まってくる。月日と一体であるその「意識」は、非常に大きな価値を持つ。「めずらしいふしん」を成しとげて、どうしても世界を一新させたいという「意識」に溢れている。まさしく月日の自由を思うままに発揮しようとする最先端の創造者。 ― 「そのまま台も出来ける事やで」 ― 「天の与えも違うことなし」


                           中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


与えは  なにほど要るとても

2022-09-08 17:27:04 | 宗教
  なんでもでんぢがほしいから  あたへハなにほどいるとても
   にちにちに神の心のせきこみハ ぢうよじざいをはやくみせたい     三  75
   このさきハにほんがからをまゝにする みな一れつハしよちしていよ     87
   をなじきのねへとゑだとのことならバ ゑたハをれくるねハさかいでる    88
   このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや       96
   ほこりさいすきやかはろた事ならば あとハめづらしたすけするぞや   98
   しんぢつの心しだいのこのたすけ やますしなずによハりなきよふ       99
 「にほんがからを儘にする」 ― 「枝は折れくる 根は栄えでる」、そのために「惜しい欲しいと可愛いと欲と高慢」を澄きやか払う ― 本当の自分、「にほん」に目覚める ― 神の貸しもの、(人間心のない)真実の自分のまま存在しているだけで「根は栄えでる」、すでに完璧な影響力がある。
 「与えは何程要るとても」 ― 得られる結果や何をしているか、それは問題でなくなり、自分がほしいと思う物事はもうすでに全部自分の中にある。神の子として、全てはすでに備わっていることに気づく ― 「真実に心次第のこのたすけ」 ― 神の子に目覚めれば、流れに身を委ねられるから、然るべきときに、然るべき場所で、しかるべき人々と交流できるようになって、「自由自在をみる」ことができる ― 「病まず死なず弱りなきよふ」 ― 「良き地」から生え出る 収穫、「与え」は無限

  やしきハかみのでんぢやで  まいたるたねハみなはへる
  こゝハこのよのでんぢなら  わしもしつかりたねをまこ

   あとなるにはやくはしらをいれたなら これでこのよのさだめつくなり   106
   いまゝでの事ハなんにもゆてくれな 廿六日にはじめかけるで        113
   高山にそだつる木もたにそこに そたつる木もみなをなじ事        125
   にんけんハみなみな神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか      126
   一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを      128
   いかなるのぢうよじざいのこのためし ほかなるとこでさらにせんぞや   133
 「柱をいれたなら」、「廿六日にはじめかける」 ― かんろだいづとめで調和の意味、その重要性を知る。全体と調和すればそこにつながり、人は誰でもみなその一部を形成しているという自負が生れる。かんろだいづとめによって、宇宙の知性、「神の心」との一体性に目覚める。そうするとどこからか「たすけ」があらわれ、まさかの出会いや偶然があり、不思議な一致が頻繁に起こる ― 「神の自由」を知る。
 「他なる所でさらにせんぞや」 ― 目覚めた意識で自分の今居るその場所を、「屋敷は神のでんぢ」と受け入れる。そして、そのままにしっかり心におさめることができれば、自分の足元が「ここはこの世のでんぢ」となる ― 月日の心と一体化して、意識的に調和に参画することで、自分の中の波動に変化が起こる。それがおつとめの大きな目的であり、神の貸しものとしての使命 ― 我もしつかりたねをまこ

  このたびいちれつに     ようこそたねをまきにきた
  たねをまいたるそのかたハ  こえをおかずにつくりとり

   いまゝでもためしとゆうてといたれど もふこのたびハためしをさめや    134
   たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ      135
   いちれつにはやくたすけるこのもよふ 上下ともに心いさめで        142
   にちへにせかいの心いさむなら ものゝりうけハみないさみでる       143
 「せかいの心」 ― 「ためしおさめ」としてのおつとめを実行して、「神、人、立毛の心」は一体性のもとにあることに、目覚めたなら、全ての物事に対して一体性の強い意識で生きることができる。この人間の心意気は立毛や自然界に対しても同じように及んで、神、人、立毛とも、すなわち「世界の心」はみな勇む。
 肥を置かずにつくりとり ― 物の豊かさという名の列車を乗り捨てて「から」、自我を乗り越えることができれば、経済的貧富の差、社会的地位の差によって心の豊かさが決定されるのではないと気づく ― 種を蒔いたなら、そこから生えでる収穫の実、その豊かさをじっくり味わいたい。
 ここには、一人一人は、限りなく豊かで必要なものを全て持っている、月日が全ての人を自由自在、無限に支えてくれていると気づかせたい。そのための種蒔きだ、という月日の深い心がある。
       
  ふかいこゝろがあるなれバ  たれもとめるでないほどに
   このたびハ神がをもていでゝるから よろづの事をみなをしへるで       136
   にちにちに神のはなしをたんたんと きいてたのしめこふきなるぞや      149
 「ひのきしん」は、この七下り目で、「匂いばかり」かけて、十一下り目で、「夫婦揃ってひのきしん」と歌ってその実を展開する。


                             中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講