この所、元なるぢばの事ならば 始まり出しを知らん事なし
上たるへ、この真実を早々と 知らしてやろと、月日思えど
それしらすみな一れハめへめへに みなうゝかりとくらしいるなり 七 10
それ知らずみな一列は銘々に みなうっかりと暮らしいるなり
「うっかりと暮らしいる」 ― 人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん…〔礼讃文 三帰依文〕 ― 生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くことができた。何がなんでも今生で救われねば、いずれの生で救われようか。永遠のチャンスは今しかないのだ。「今」を活き活きと生きなければ、一体いつそれができるのか…
『今この瞬間』から外れたところに人生はないというのが真実。『今この瞬間』から外れたところでは私たちは存在せず、また存在することもできないというのが真実。人間が思考する心の世界は幻想の世界ですが、それでも人は、その世界が現実だと信じている。それはまるで私たちは熟睡していて、私たちの生きている人生が夢のようなものということ。私たちはその夢から目覚めなくてはならない。[いまこの瞬間22]
エゴ(人間思案)から解放されるため必要なのは、エゴに氣づくことだけ。気づきとは、いまこの瞬間に秘められた力。だから、「今に在る」ことと表現できる。人間という存在の究極の目的は、この「今に在る」力を世界に広めること。[アース90]
今起こっていることを考えていても、過去に起こったことを考えていても、あるいは将来起こればいいな思うことを考えていても、考えているのは今、現在。あなたの想像の力は「今」にあるということ。〔引き寄せ170]
古来よりたくさんの宗教の指導者たちは、さとりを開くカギは「今」であると、指摘してきたにもかかわらず、この事実は未だに謎であるようだ。たしかにこれは一般には教えられていないこと。〔シンプル76〕
いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら 七 35
今までも今がこの世のはじまりと 言うてあれども何の事やら
「今がこの世のはじまり」という語句の奥にはさとりを開く、「自由自在」という自らを開放するカギ、「今」を見つけることができるが、この35で、「今までも言うてあれども、何の事やら」とため息混じりに歌っていることから、ここに至るまでに繰り返し、その話があったことが知れてくる。
そこでそのことを心して読み直してみると、先ず一号の冒頭の 3「この度は神が表へ現れて…」、 7「神が出て何か委細を説くならば…」と、この「今」の世を神と共に生きる道をテーマにして歌いつづるという宣言から、おふでさきの幕が開いていることに気づく。
三号 36では、「今の事何も言うではないほどに」。37「今の道いかんな道でも嘆くな」と諭して、「今」の全てを受け入れることから、「先の往還道がある」。「先の本道楽しんでいよ」と、「今」をどう生きるかで先が見える、と「今」を強く意識させている。
さらに六号では、真実の「元始まり」を伝えるために、拝み祈祷の幻想の世の「神」と今がこの世のはじまり、今に在る世の神との相違を際立たせる必要から、「今に在る」世の「神」をそれに相応しく「月日」と呼び始める。
このように七号35に至るまでに、おふでさきは正しく「今」の世を生きる「こふき」であることを語って、ここで改めて強調した。
めへめへにむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみへるで 七 32
銘々に胸の内よりしっかりと 真実を出せ直ぐに見えるで
こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを はなしするのハいまはじめやで 七 38
これほどの自由自在の真実を 話するのはいま始めやで
目覚めへの第一ステップは、「今、この瞬間」を「人生の真実」として選択すること。この瞬間に存在すればするほど、実在の側面があなたの内側(銘々の内)でより一層ひらかれてくる。
あなたがこの瞬間に存在することを選択した唯一の理由は、「今、この瞬間」が人生の「真実」であることをあなたが理解していて、(うっかりと暮らしいる)幻想の世界で道に迷うよりも「人生の真実」の中にいることをあなたが選択したからだ。心の世界にいるときのあなたは過去か未来のどこかにいる。あなたがすべきことは、実際にあなたと一緒に「今、ここ」に在る何かと共に、自分自身を完全にこの瞬間連れてくるということだけ。すると、あなたは心の世界の過去と未来から抜け出て「今」、「今がこの世のはじまり」という世界だすけに加わることができる! [今この瞬間56]
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
上たるへ、この真実を早々と 知らしてやろと、月日思えど
それしらすみな一れハめへめへに みなうゝかりとくらしいるなり 七 10
それ知らずみな一列は銘々に みなうっかりと暮らしいるなり
「うっかりと暮らしいる」 ― 人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん…〔礼讃文 三帰依文〕 ― 生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くことができた。何がなんでも今生で救われねば、いずれの生で救われようか。永遠のチャンスは今しかないのだ。「今」を活き活きと生きなければ、一体いつそれができるのか…
『今この瞬間』から外れたところに人生はないというのが真実。『今この瞬間』から外れたところでは私たちは存在せず、また存在することもできないというのが真実。人間が思考する心の世界は幻想の世界ですが、それでも人は、その世界が現実だと信じている。それはまるで私たちは熟睡していて、私たちの生きている人生が夢のようなものということ。私たちはその夢から目覚めなくてはならない。[いまこの瞬間22]
エゴ(人間思案)から解放されるため必要なのは、エゴに氣づくことだけ。気づきとは、いまこの瞬間に秘められた力。だから、「今に在る」ことと表現できる。人間という存在の究極の目的は、この「今に在る」力を世界に広めること。[アース90]
今起こっていることを考えていても、過去に起こったことを考えていても、あるいは将来起こればいいな思うことを考えていても、考えているのは今、現在。あなたの想像の力は「今」にあるということ。〔引き寄せ170]
古来よりたくさんの宗教の指導者たちは、さとりを開くカギは「今」であると、指摘してきたにもかかわらず、この事実は未だに謎であるようだ。たしかにこれは一般には教えられていないこと。〔シンプル76〕
いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら 七 35
今までも今がこの世のはじまりと 言うてあれども何の事やら
「今がこの世のはじまり」という語句の奥にはさとりを開く、「自由自在」という自らを開放するカギ、「今」を見つけることができるが、この35で、「今までも言うてあれども、何の事やら」とため息混じりに歌っていることから、ここに至るまでに繰り返し、その話があったことが知れてくる。
そこでそのことを心して読み直してみると、先ず一号の冒頭の 3「この度は神が表へ現れて…」、 7「神が出て何か委細を説くならば…」と、この「今」の世を神と共に生きる道をテーマにして歌いつづるという宣言から、おふでさきの幕が開いていることに気づく。
三号 36では、「今の事何も言うではないほどに」。37「今の道いかんな道でも嘆くな」と諭して、「今」の全てを受け入れることから、「先の往還道がある」。「先の本道楽しんでいよ」と、「今」をどう生きるかで先が見える、と「今」を強く意識させている。
さらに六号では、真実の「元始まり」を伝えるために、拝み祈祷の幻想の世の「神」と今がこの世のはじまり、今に在る世の神との相違を際立たせる必要から、「今に在る」世の「神」をそれに相応しく「月日」と呼び始める。
このように七号35に至るまでに、おふでさきは正しく「今」の世を生きる「こふき」であることを語って、ここで改めて強調した。
めへめへにむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみへるで 七 32
銘々に胸の内よりしっかりと 真実を出せ直ぐに見えるで
こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを はなしするのハいまはじめやで 七 38
これほどの自由自在の真実を 話するのはいま始めやで
目覚めへの第一ステップは、「今、この瞬間」を「人生の真実」として選択すること。この瞬間に存在すればするほど、実在の側面があなたの内側(銘々の内)でより一層ひらかれてくる。
あなたがこの瞬間に存在することを選択した唯一の理由は、「今、この瞬間」が人生の「真実」であることをあなたが理解していて、(うっかりと暮らしいる)幻想の世界で道に迷うよりも「人生の真実」の中にいることをあなたが選択したからだ。心の世界にいるときのあなたは過去か未来のどこかにいる。あなたがすべきことは、実際にあなたと一緒に「今、ここ」に在る何かと共に、自分自身を完全にこの瞬間連れてくるということだけ。すると、あなたは心の世界の過去と未来から抜け出て「今」、「今がこの世のはじまり」という世界だすけに加わることができる! [今この瞬間56]
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講