陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

正月三十日と日をきりて 送るも神の心からとて

2023-08-28 14:12:24 | 宗教
  一寸はなし正月三十日とひをきりて をくるも神の心からとて   一 39
   一寸話正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて
 「正月三十日と日を切りて」 ― 慶応三年七月二十三日の天理王明神公認の日、京都の吉田神祇管領から帰ったとき、『秀司さんが、京都からの土産をもって来て、息子や娘にやって、よろこんでおられたわ』と語った。だから、慶応三年には、おちゑさんはまだ川原城の実家にいたのだと思う。そこで、おちゑさんが中山家に入り込んだのは、この史実以後のことであった。住む部屋もないのにおちゑさんと二人の子供と、三人もおしかけて来たのでは中山家はわやになっただろう ― 明治二年の『正月三十日」という日限をきって、実家へ帰ることをさとされた所以と理解するならば、話はわかる。〔先人の面影〕 

  そバなものなに事するとをもへども さきなる事をしらんゆへなり 一 40
  そのひきてみへたるならバそばなもの 神のゆう事なにもちがハん   41
  このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし     43
  だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる   44
 立腹も何故なると言うならば 悪事が退かん故の事なり ― 神の社としての自分軸から外れて振る舞った「あくじ」、月日はそれに対して「足のチンバ」という身上で心得え違いを諭す。しかし、ここに来て天輪王明神を祀っことが、見過ごせないという月日の立腹を招く ― みかぐうたを歌い、手踊りを陽気につとめる場として、人々が大切にしているつとめ場所に、それを蔑ろにして天輪王明神を祀り込む ― 天照大神とその先祖、十二柱を祀る十二神社 ― 「怖き危なき道を案じる (七 9) 

 この度は早く手踊り始めかけ ― 人生を豊かに生きるためには、物質的な要素にとらわれず、精神面に焦点を当てることで、本来の自分の軸に戻ることができる。月日のたすけ一条の心とつながることで、安心感や満足感を得ることができ、心の豊かさを実感する。

 上たる心、心しづめて和睦くなるよふ ― 秀司! 父善兵衛が失った中山家の財産を取り戻して、自らの地位を確立することは、人生の目標として意義のあるものかもしれない。しかし、その前提として、「上たる」高慢な心や負の感情を捨て去り、前向きな考え方で物事に取り組まねばならない。苦境や困難な状況があっても、それは「先の本道」に出るために月日に導かれていると信じ、自分自身が勇気を持って努力し、取り組む姿勢を周囲に見せることで、信頼を得て自身の地位を確立することができる。

 正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて ― おちゑは、秀司が早く物質的な豊かさを得て、中山家の戸主として君臨する。自らはその女房として立ち振る舞う、という願望が強い。秀司が天輪王明神の神主におさまれば、全てが願いどおりになると、期待を膨らませている。しかし、秀司の心に変化が起こる。
 ならば、おちゑが秀司に自分の波動を合わせるか、自分の波動に合う場所を求めてお屋敷を去るかを決める必要がある。しかし、秀司の行動もまた、結果を伴う責任がある。おちゑは去ることになるかもしれないが、それが相手の選択の結果であるならば、受け入れる。相手の選択を尊重し、結果を期待することなく、全てを月日にお任せする。お互いの幸せと心の変化を大切にし、尊重と支え合いを持ちながら、共に成長する道を歩むことが大切。


  このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ  一 60
   この子ども二年三年仕込もうと 言うていれども神の手離れ
  しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなわん  61
  このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで  62
 お秀の母・おやそは、早くからお屋敷を去ったが、お秀を連れて行きたいが、本人がどうしてもみき様から離れようとしない。秀司はおやそから唆されたまま3人でお屋敷を出る、と応えてはいても、お秀が“ウン”と言うまで、となかなか決行しない。そんな秀司に業を煮やして、おやそは一人だけでお屋敷を出て行った。
 その後、秀司はおちゑと関係を持ち、二人の子供の父親となる。最初はおちゑも子供たちと一緒に実家に帰るが、秀司が「天輪王明神」を祀るタイミングに合わせて再び三人で出戻ってくる。しかし、おちゑは秀司の心変わりに動揺して、今度こそという強固な決意で、二人の子供と一緒にお屋敷を去った。

 屋敷のそうじ ― 夫善兵衛と秀司とが関係するおやそも、もう一方の夫善兵衛と秀司とが関係するおちゑと二児も、共にお屋敷から去った。「屋敷のそうじ」、その対象として、残るはお秀一人となる。
 妾腹(秀司先生の愛人の子供)でござりまして、母親の名前は、おやそ様と申したお方でござります。お向かい取り(死亡)になりましたのは、三月十五日の事でござりまして、それより以前に、御教祖様がおしゅう様に仰せられますには、
 「これは、つとめのどうしんやで、何もする事いらんで」
また、お迎え取りになった後に、仰せられた事には、
 「身代わり同様やで/\、周婆の命とつけおく」〔正文遺韻〕

   これからは心しっかり入れ替へよ 悪事払ろうて若き女房
    秀司とまつゑが結婚する、そのお膳立てが整う。


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


山坂、茨畦、崖道、剣中、火中、淵中

2023-08-03 10:26:11 | 宗教
  このさきハみちにたとへてはなしする どこの事ともさらにゆハんで   一 46
  やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら   47
  まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり   48
  ほそみちをだんだんこせばをふみちや これがたしかなほんみちである    49
  このはなしほかの事でわないほとに  神一ぢょでこれわが事    50
 「山坂や茨畦も崖道も」から「神一条でこれ我が事」と歌う中に、みき様が「神の社」に定まる(スピリチュアル世界の覚醒する)道筋が圧縮されている。これを解凍して立教の場面に迫ってみる。先ず、この歌の前置きになっている「あくじ」は、圧縮した道筋を浮かび上がらせるように歌っているから、「あくじ」の源を今一度確認してみる。
 明治14年に秀司が死んだ後、中山家からまつゑが丹波市警察署へ提出した上申書 ― 善兵衛が生きている頃は相当な百姓であったが、死んで二年程たった後、秀司が米商いや綿商いをして、それで損失を生じて疲弊した〔中山みき研究ノート〕
 この『綿商い』について、『御水屋敷人足社略伝』は ― 飯田家は、代々豪農の名世に知られたり、然るに、祖父善六なる者、米穀綿類の商業を営み、商客を失し、大に累代の家産を破りたり ― 幕末の大和地方において、綿の生産と取引は衰退の一途を辿った。他の作物に比べて収穫が難しく、また綿の生産には多くの労働力が必要とされた。だから、農民の負担が増え、綿の栽培は減少した。このような要因があって、幕末の大和地方では綿の生産と取引が衰退した ― 当時豪農と知られた中山家、飯田家はともにこの憂き目を逃れることは出来なかった。
 『御水屋敷人足社略伝』は、天理教で言えば「教祖伝」。奇麗事を並べる構成にとらわれず、“商客を失し、大に累代の家産を破りたり”と明かしている。この状況が中山家と瓜二つだったから、あえて書き添えたのでしょう。ここには中山家と同じ道中があって、飯田家の今日が在るという誇らしささえ窺える。
 
 秀司は「あくじ」によって招かれる切なさを和らげるため、複数の女性と関係を持つ。それをおふでさき一号で確認できる。
 一人は、「この子供二年三年仕込もうと…」のお秀の母親。もう一人は「正月三十日と日を切りて」の音次郎の母親・おちゑ ― おふでさきの登場人物はあえて名を記さずとも、回りの人には言わずと知れたこと。その一人ひとりは、みき様とは非常に縁の深い関係の人物に限られる。秀司の関係した女性はこの二人だけでなかったのに、おふでさきはこの二人の母親だけを取り上げている ― お秀、音次郎の母親の親、二人にとっての『祖父』が誰であったと考えるなら、それは、みき様の夫善兵衛以外にはないのでは、という想像が許されるのでは…
 夫善兵衛と関係を持つ音次郎の祖母の住まいは、お屋敷とは近かったから、そこへ通い。お秀の祖母の方は(相場、博打の本場)大阪と遠かったから、お屋敷内に住まわせた。夫善兵衛は内と外に、関係を持つ女性があったことになる。
さらに、それぞれに宿した娘、お秀の母とおちゑとは、事もあろうに秀司が時をずらして関係を持つようになる。「あくじ」はこの全てにあてて発せられている ― やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら

 みき様に与えられた「山坂、茨畦、崖道」の日々を、みき様はどの様に送られたか。それを「教祖伝」で確認してみる ― 教祖は、両親にはよく孝養を盡し、夫にはよく仕えて些かも逆らうこと無く、舅の髭をも剃られて大そう喜ばれた。朝は早く起き、自ら先に立って朝の仕度にかゝり、日中は炊事洗仕事、機織りと一日中家事に勤まれたのみならず、農繁期の、田植え、草取り、稲刈りから、蒔き、炒りに到るまで、何なさらぬ事は無かった。

  一れつにあしきとゆうてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなり
 夫善兵衛と秀司の「あくじ」に対して、みき様はどう対応したのか、ここをしっかり確認して心におさめることが、信仰する上で重要なポイントになる。「教祖伝」にそれを求めることは不可能だから、やはり『御水屋敷人足社略伝』に目を向けてみる。
 『御水屋敷人足社略伝』 ― 岩次郎が大阪で放蕩の限りを尽くして一旦家に戻るや、次は東京だ、と言い放ってそのまま出かけた。いっこうに戻る気配がないどころか、手紙さえ来ないので、両親が心配して、みき様に相談する。
 さあさあ何もかも通らねば、味が分らぬ故、神がさしておくのや案じるでない、今通らねば、通る時がない、結構、結構。とお笑いになっておられたが、両親は、その後も心落ちつかず、ただ朝夕神様に手を合わせ、無事を祈っていた。七月中旬になって、突然、岩治郎は帰郷した。早速お屋敷へごあいさに伺うとおじさんおじさんよく早く帰られた、何もかも覚えておかにやならん、お前が放蕩すると、おっかさんが度々泣いてきて、困りました。さあさあご苦労でした。

  このはなしほかの事でわないほとに  神一ぢょでこれわが事
 “夫にはよく仕えて些かも逆らうこと無く、朝は早く起き、自ら先に立って朝の仕度にかゝり、日中は炊事洗仕事、機織りと一日中家事に勤まれた” ― ブッダは一点の曇り無い心で木を切り、水を汲んで仕事をしていた。無心の心は瞑想状態を指している。つまり、常にニュートラルの心でたくさんの高次エネルギーを受信していた。キリストやブッダなどは自分自身の存在を明確に理解できた人物である。自分自身を真に理解できると言うことは、宇宙と自分との相互関係を自然に理解できるようになることを意味する〔“ブッダ” バシャール〕

   銘々の思う心はいかんでな 神の心はみな違うでな


                      中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講