一寸はなし正月三十日とひをきりて をくるも神の心からとて 一 39
一寸話正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて
「正月三十日と日を切りて」 ― 慶応三年七月二十三日の天理王明神公認の日、京都の吉田神祇管領から帰ったとき、『秀司さんが、京都からの土産をもって来て、息子や娘にやって、よろこんでおられたわ』と語った。だから、慶応三年には、おちゑさんはまだ川原城の実家にいたのだと思う。そこで、おちゑさんが中山家に入り込んだのは、この史実以後のことであった。住む部屋もないのにおちゑさんと二人の子供と、三人もおしかけて来たのでは中山家はわやになっただろう ― 明治二年の『正月三十日」という日限をきって、実家へ帰ることをさとされた所以と理解するならば、話はわかる。〔先人の面影〕
そバなものなに事するとをもへども さきなる事をしらんゆへなり 一 40
そのひきてみへたるならバそばなもの 神のゆう事なにもちがハん 41
このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし 43
だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる 44
立腹も何故なると言うならば 悪事が退かん故の事なり ― 神の社としての自分軸から外れて振る舞った「あくじ」、月日はそれに対して「足のチンバ」という身上で心得え違いを諭す。しかし、ここに来て天輪王明神を祀っことが、見過ごせないという月日の立腹を招く ― みかぐうたを歌い、手踊りを陽気につとめる場として、人々が大切にしているつとめ場所に、それを蔑ろにして天輪王明神を祀り込む ― 天照大神とその先祖、十二柱を祀る十二神社 ― 「怖き危なき道を案じる (七 9)」
この度は早く手踊り始めかけ ― 人生を豊かに生きるためには、物質的な要素にとらわれず、精神面に焦点を当てることで、本来の自分の軸に戻ることができる。月日のたすけ一条の心とつながることで、安心感や満足感を得ることができ、心の豊かさを実感する。
上たる心、心しづめて和睦くなるよふ ― 秀司! 父善兵衛が失った中山家の財産を取り戻して、自らの地位を確立することは、人生の目標として意義のあるものかもしれない。しかし、その前提として、「上たる」高慢な心や負の感情を捨て去り、前向きな考え方で物事に取り組まねばならない。苦境や困難な状況があっても、それは「先の本道」に出るために月日に導かれていると信じ、自分自身が勇気を持って努力し、取り組む姿勢を周囲に見せることで、信頼を得て自身の地位を確立することができる。
正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて ― おちゑは、秀司が早く物質的な豊かさを得て、中山家の戸主として君臨する。自らはその女房として立ち振る舞う、という願望が強い。秀司が天輪王明神の神主におさまれば、全てが願いどおりになると、期待を膨らませている。しかし、秀司の心に変化が起こる。
ならば、おちゑが秀司に自分の波動を合わせるか、自分の波動に合う場所を求めてお屋敷を去るかを決める必要がある。しかし、秀司の行動もまた、結果を伴う責任がある。おちゑは去ることになるかもしれないが、それが相手の選択の結果であるならば、受け入れる。相手の選択を尊重し、結果を期待することなく、全てを月日にお任せする。お互いの幸せと心の変化を大切にし、尊重と支え合いを持ちながら、共に成長する道を歩むことが大切。
このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ 一 60
この子ども二年三年仕込もうと 言うていれども神の手離れ
しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなわん 61
このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで 62
お秀の母・おやそは、早くからお屋敷を去ったが、お秀を連れて行きたいが、本人がどうしてもみき様から離れようとしない。秀司はおやそから唆されたまま3人でお屋敷を出る、と応えてはいても、お秀が“ウン”と言うまで、となかなか決行しない。そんな秀司に業を煮やして、おやそは一人だけでお屋敷を出て行った。
その後、秀司はおちゑと関係を持ち、二人の子供の父親となる。最初はおちゑも子供たちと一緒に実家に帰るが、秀司が「天輪王明神」を祀るタイミングに合わせて再び三人で出戻ってくる。しかし、おちゑは秀司の心変わりに動揺して、今度こそという強固な決意で、二人の子供と一緒にお屋敷を去った。
屋敷のそうじ ― 夫善兵衛と秀司とが関係するおやそも、もう一方の夫善兵衛と秀司とが関係するおちゑと二児も、共にお屋敷から去った。「屋敷のそうじ」、その対象として、残るはお秀一人となる。
妾腹(秀司先生の愛人の子供)でござりまして、母親の名前は、おやそ様と申したお方でござります。お向かい取り(死亡)になりましたのは、三月十五日の事でござりまして、それより以前に、御教祖様がおしゅう様に仰せられますには、
「これは、つとめのどうしんやで、何もする事いらんで」
また、お迎え取りになった後に、仰せられた事には、
「身代わり同様やで/\、周婆の命とつけおく」〔正文遺韻〕
これからは心しっかり入れ替へよ 悪事払ろうて若き女房
秀司とまつゑが結婚する、そのお膳立てが整う。
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
一寸話正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて
「正月三十日と日を切りて」 ― 慶応三年七月二十三日の天理王明神公認の日、京都の吉田神祇管領から帰ったとき、『秀司さんが、京都からの土産をもって来て、息子や娘にやって、よろこんでおられたわ』と語った。だから、慶応三年には、おちゑさんはまだ川原城の実家にいたのだと思う。そこで、おちゑさんが中山家に入り込んだのは、この史実以後のことであった。住む部屋もないのにおちゑさんと二人の子供と、三人もおしかけて来たのでは中山家はわやになっただろう ― 明治二年の『正月三十日」という日限をきって、実家へ帰ることをさとされた所以と理解するならば、話はわかる。〔先人の面影〕
そバなものなに事するとをもへども さきなる事をしらんゆへなり 一 40
そのひきてみへたるならバそばなもの 神のゆう事なにもちがハん 41
このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし 43
だんだんとみへてきたならとくしんせ いかな心もみなあらハれる 44
立腹も何故なると言うならば 悪事が退かん故の事なり ― 神の社としての自分軸から外れて振る舞った「あくじ」、月日はそれに対して「足のチンバ」という身上で心得え違いを諭す。しかし、ここに来て天輪王明神を祀っことが、見過ごせないという月日の立腹を招く ― みかぐうたを歌い、手踊りを陽気につとめる場として、人々が大切にしているつとめ場所に、それを蔑ろにして天輪王明神を祀り込む ― 天照大神とその先祖、十二柱を祀る十二神社 ― 「怖き危なき道を案じる (七 9)」
この度は早く手踊り始めかけ ― 人生を豊かに生きるためには、物質的な要素にとらわれず、精神面に焦点を当てることで、本来の自分の軸に戻ることができる。月日のたすけ一条の心とつながることで、安心感や満足感を得ることができ、心の豊かさを実感する。
上たる心、心しづめて和睦くなるよふ ― 秀司! 父善兵衛が失った中山家の財産を取り戻して、自らの地位を確立することは、人生の目標として意義のあるものかもしれない。しかし、その前提として、「上たる」高慢な心や負の感情を捨て去り、前向きな考え方で物事に取り組まねばならない。苦境や困難な状況があっても、それは「先の本道」に出るために月日に導かれていると信じ、自分自身が勇気を持って努力し、取り組む姿勢を周囲に見せることで、信頼を得て自身の地位を確立することができる。
正月三十日と日を切りて 送るも神の心からとて ― おちゑは、秀司が早く物質的な豊かさを得て、中山家の戸主として君臨する。自らはその女房として立ち振る舞う、という願望が強い。秀司が天輪王明神の神主におさまれば、全てが願いどおりになると、期待を膨らませている。しかし、秀司の心に変化が起こる。
ならば、おちゑが秀司に自分の波動を合わせるか、自分の波動に合う場所を求めてお屋敷を去るかを決める必要がある。しかし、秀司の行動もまた、結果を伴う責任がある。おちゑは去ることになるかもしれないが、それが相手の選択の結果であるならば、受け入れる。相手の選択を尊重し、結果を期待することなく、全てを月日にお任せする。お互いの幸せと心の変化を大切にし、尊重と支え合いを持ちながら、共に成長する道を歩むことが大切。
このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ 一 60
この子ども二年三年仕込もうと 言うていれども神の手離れ
しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなわん 61
このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで 62
お秀の母・おやそは、早くからお屋敷を去ったが、お秀を連れて行きたいが、本人がどうしてもみき様から離れようとしない。秀司はおやそから唆されたまま3人でお屋敷を出る、と応えてはいても、お秀が“ウン”と言うまで、となかなか決行しない。そんな秀司に業を煮やして、おやそは一人だけでお屋敷を出て行った。
その後、秀司はおちゑと関係を持ち、二人の子供の父親となる。最初はおちゑも子供たちと一緒に実家に帰るが、秀司が「天輪王明神」を祀るタイミングに合わせて再び三人で出戻ってくる。しかし、おちゑは秀司の心変わりに動揺して、今度こそという強固な決意で、二人の子供と一緒にお屋敷を去った。
屋敷のそうじ ― 夫善兵衛と秀司とが関係するおやそも、もう一方の夫善兵衛と秀司とが関係するおちゑと二児も、共にお屋敷から去った。「屋敷のそうじ」、その対象として、残るはお秀一人となる。
妾腹(秀司先生の愛人の子供)でござりまして、母親の名前は、おやそ様と申したお方でござります。お向かい取り(死亡)になりましたのは、三月十五日の事でござりまして、それより以前に、御教祖様がおしゅう様に仰せられますには、
「これは、つとめのどうしんやで、何もする事いらんで」
また、お迎え取りになった後に、仰せられた事には、
「身代わり同様やで/\、周婆の命とつけおく」〔正文遺韻〕
これからは心しっかり入れ替へよ 悪事払ろうて若き女房
秀司とまつゑが結婚する、そのお膳立てが整う。
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講