陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

仲立ちするは  今が始めや

2019-04-16 18:48:57 | 宗教
   この先は上たる心段々と 心鎮めて和睦なるよう
  このハほくむつかしよふにあるけれと だんへ神がしゆこするなり 一 20
   この和睦難し様にあるけれど だんだん神が守護するなり
 「上たる心」とは、24~44で、「せかい世の中ところ繁盛」、そのための「ふしん」、すなわちおつとめの実行を「嘘やと言い」続けて、つとめ場所に天皇家の先祖十二柱を祀り続ける秀司の心構えを指し、それをここで「あくじ」と断言する。
 45~68で、その「あくじ」である「ほこり」を払い、「神の言うこと聞いて」おつとめをしようと「心をしっかり入れ替える」なら、あくじから解放されて、足の痛みは消えると諭す。

 19、20で「心鎮めて和睦なるよう」と歌った、この号のテーマとなる「上たる心」の和睦についての本筋は、24~68の挿入歌をはさみ、「万代の世界の事を見晴らして、心鎮めて思案してみよ」と歌って69~74で展開される。
  いまゝても神のせかいであるけれど なかだちするハ今がはじめや 一 70
   今までも神の世界であるけれど 仲立ちするは今が始めや
 この「仲立ち」を、秀司とまつゑの結婚話しのこととして、前世の因縁によって結ばれるべき間柄であると、神(みき様)が取り持って二人を結ばせた、という解釈がある。しかし、『山中忠七伝の初版』は、みき様は当初まつゑではなく、(まつゑと同じ年頃の)忠七の娘こいそを秀司の妻にくれないかと懇願せられたが、当方が返事をしぶったと記述しているが…

 「上たる心和睦なるよう」に「神が守護する」、そのために「仲立ちする」することが、「この度神が表へ現れる」大きな要因です。「上たる心」のままなら、「一列に神の心がいづむなら、物の立毛が皆いづむなり」 ― いづむところに神の出番はないが、「神の心」にそって「かぐらづとめや手踊り」をするなら、その勇む姿に「神が守護する」から、「せかい世の中ところ繁盛」となる。

 「神の心」 ― 世界並みである「上の支配」に従って生きることが本意であるという時代、その常識に敢然と立ち向かって、この世と人類創生の「神の心」に従うことが、全ての人が陽気づくめに暮らす生き方であるとの宣言。その反響が
   これからは世界の人は可笑しがる なんぼ笑ってもこれが大一

 「仲立ち」 ― 祝(神職の一で、神社に属して神に仕える者)は、神をまつり、神に仕え、また神と人との間の「仲立をする」存在であることが知られる『万葉神事語辞典』。
 みき様が万葉集に精通し、そこに新たな生命を注いで、世界だすけの道としておふでさきを完成させたとするなら、この「仲立ち」が、秀司とまつゑの結婚の仲立ちなどという小形な話しなどでないことは明白。
 「神が出たなら貰て来るぞや」 ― 秀司が本気で心を入れ替えて、神一条の道に踏み出すなら、「上たる心」から解放された真の自分を生きる、その勇む姿に神の自由がある。それを形にするなら、これから先60年の生命と、新たな若き女房、そのうえに5人の子宝に恵まれる ― 本人が心を入れ替えて、神の自由を引き寄せるその神の守護を、「神が出たなら」と表現。それを秀司とまつゑの「仲立ち」と解してしまうと、子供5人の内訳は、小東家となるが、ここは当然主役である(これから先60年の生命を保証された)秀司の新たな子のことになる。

 「前しょの因縁寄せて守護する、これは末代しかと治まる」 ― 人間は神の子であり、みな同じ魂であることに目覚める。そこに神が「仲立ちする」実がある。

    あれもこれも すべてはギフト
    そう受容する時 人生は微笑む
    君は ただひたすら愛されている     k-zerostyl


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