陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

胸の内  晴らす

2015-06-19 20:53:14 |  エッセイ
 おふでさき十二号です。

  このたびハ此むねのうちすきやかに はらすもよふやこれがだい一 十二 121
   この度はこの胸の内すきやかに 晴らす模様やこれが第一
 この度はこの胸の内すきやかに 晴らす模様やこれが第一
「晴らす」は、何を、どの様にして晴らすか、そこに、どのような神の思いがあるのかを考えてみたい。

  みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで 十二 118
   身の内にどこに不足の無い者に 月日いがめて苦労かけたで
118-120は、神・みき様が長男に対して、『本来五体満足で何不自由のなく、将来の希望に満ち溢れた生活を送っていたところへ、母親に神が天下ったことで、生活環境が一変して、長男にとっての先行きが不安定となり、本当に苦労をかけてしまったから、神の言葉を疑うのも無理からぬこと。』
 とは、実は長男は、戸主という権限を傘に、みき様を神とは認めず、話すら聞こうとしないから、何とか話の糸口をさがすためにと、相手の口実を一度受け入れてから、改めて諭そうという意図がある。121-123でそれがはっきりする。

 その諭し、晴らしとは、118-120の歌の裏返し。すなわち、39年前、みき様が、全てを「受け入れ」て「神一条」を宣言したが、長男はみき様と同じ環境にいても、それを受け入れることができず、拝み祈祷で未来に夢を追い求めながら、届かず、叶わず、ちんばは直らず、いづむばかりで、病気がちの姿に対して、
  いまゝでハ山へさねんとふりぬけ このたびこれをはらしたるなら 十二 127
   今までは山々残念通り抜け この度これを晴らしたるなら
今までのことは、何も問わない。今ここで、この瞬間に全てを受け入れるなら、病などは吹っ飛んでしまう、何としてもそのように陽気づくめにさせたい、という神の思いがかなう、「晴れる」というもの。

 何のために、「晴らす」のか、
  このたびのはやくしよこふだしたいと ゆうているのをなんとをもうぞ 十二 115
   この度の早く証拠出したいと 言うているのを何と思うぞ
39年前から患っていた足のちんば、勇めず、前がいっこうに開けないゆううつ感を何としても、元どうりの元気な姿にすることで、その証拠をみせて、回りの人々がなるほどと感じて、その生き方を「こふき」にしたいという神の思いがある。


     「晴らし」さえできれば
     あとなるはどんな病も如何なるの
     事であろふが みな助けるで



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